明史卷三百三十 列𫝊第二百十八 西域二
篇首の立伝者一覧
- 西番衛(西寜・河州・洮州・岷州等の番族の諸衛)
- 安定衛
- 阿敦衛
- 庫森衛
- 赤斤䝉古衛
- 沙州衛
- 罕東衛
- 罕東左衛
- 哈瑪爾
西番――地勢と元代までの沿革
- 西番はすなわち西羌で、族の種類がもっとも多く、陜西から四川・雲南の西の境外まではみなこれである。なかでも河湟・洮岷のあいだに散り住む者が、中國の患いとしてとりわけ甚だしかった。漢の趙充國・張奐・段熲、唐の哥舒翰、宋の王韶が経営したのは、いずれもこの地である。
- 元は駙馬の章庫を寜濮郡王に封じて西寜を鎮めさせ、河州に吐番宣慰司を設け、洮・岷・黎・雅の諸州をこれに隷属させて番衆を統治させた。
西番――洪武年間の招撫と河州・洮州の経営
- 洪武二年(1369年)、太祖が陕西を平定するとすぐ官を遣わして詔を持たせ招諭させたが、その酋長はみな観望した。あらためて員外郎の許允徳を遣わして招かせると、多くが命を聴いた。
- 翌三年(1370年)五月、吐番宣慰使司の索諾木布らが元から授かった金銀の牌印と宣敕を持って来て奉った。おりしも鄧愈が河州を陥れたので、そのまま軍前に詣でて降った。その鎮西武靖王の布諾爾も吐番の諸部を率いて納款した。冬、索諾木布らが入朝して馬と方物を貢いだので、帝は喜んで襲衣を賜った。
- 四年(1371年)正月、河州衛を設け、索諾木布を指揮同知に命じて世襲を許し、知院の多爾濟・旺嘉努をともに指揮僉事とした。千戸所八・百戸所七を設け、いずれもその酋長を任じた。布納羅らも京師に至って靖南衛指揮同知となり、その仲間の桑結多爾濟は髙昌衛指揮同知となり、みな帯刀侍衛となった。以後、番の酋長が日ごとに至った。
- まもなく降人の馬梅・汪幹拉をともに河州衛指揮僉事とし、また西寜州同知の李能格らを遣わしてその酋長を招撫させ、来た者にもことごとく官を授け、西寜州を改めて衛とし、能格を指揮とした。
- 帝は西番が馬を産するので互市を行った。馬は次第に多く来るようになったが、彼らの用いる貨幣は中國と異なり、鈔法を改めてからは来る馬が少なくなったので、これを憂えた。八年(1375年)五月、中官の趙成に羅・綺・綾・絹および巴茶を持たせて河州に遣わし、これで馬を買わせるとやや集まった。おおむねその値を厚くして償い、成はまた徳意を宣諭したので、番人は感悦して相率いて闕に詣でて謝恩し、山後の歸徳などの州の西番諸部落もみな馬を持って市に来た。
- 十二年(1379年)、洮州十八族の番酋である三副使らが叛いて納琳七站の地を占拠した。征西將軍の沐英らに命じて討たせ、また李文忠を遣わして軍事を計らせた。英らが洮州の旧城に至ると寇は逃げ去ったので、追ってその首魁数人を斬り、畜産をことごとく獲た。そこで東籠山南川で土地を測って城を築き戍を置き、使を遣わして奏上した。帝は「洮州は西番の門戸である。城を築いて戍守すればその咽喉を扼することができる」と答え、洮州衛を置き、指揮の聶緯・陳暉ら六人にこれを守らせた。
- のち文忠らが、官軍が洮州を守るのは餉の運びが難しく民が労すると述べた。帝は敕を降して諭した――洮州は西のかた番戎を控え、東は湟隴を蔽う、漢唐以来、辺を備える要地である。いま番寇を斥けたのにこれを棄てて守らなければ、数年後に番人はふたたび患いとなる。小さな費えを慮って大きな虞れを忘れるのが良策であろうか。獲た牛羊を将士に分け与えれば二年分の軍食に足りる。敕のとおり行え、と。文忠らはそれ以上違えられなかった。
- 秋、索諾木布と鎮撫の劉温が家族を連れて来朝した。帝は中書省の臣に諭した――索諾木布は帰附以来、信義がきわめて堅い。さきに烏斯藏へ使いさせたときは万里を遠く渡り、帰ってからの言はみな朕の意に適った。いま家族を連れて来朝したのだから礼をもって遇すべきである、と。そこで米・麥それぞれ三十石を賜い、劉温にはその三分の一を賜った。
- 英らは番寇を進撃して大いに破り、その首魁をことごとく擒え、俘斬は数萬人、獲た馬・牛・羊は数十萬に及んだ。以後、諸番は震え慴れて寇をなさなくなった。
- 十六年(1383年)、青海の酋長の實喇卜ら七人が帰順したので、文綺・寶鈔を賜った。このころ岷州にも衛を設け、番人は毎年馬を茶に換え、馬は日ごとに増えた。
- 二十五年(1392年)、また中官の而聶に命じて河州に至らせ、必里克の諸番族を召して敕で諭させたところ、争って馬を出して献じ、一萬三百餘匹を得、茶三十餘萬觔を与えた。その馬は河南・山東・陜西の騎士に配るよう命じた。
- 帝は、諸衛の将士に番人の馬をほしいままに徴発する者があるので、官を遣わして金銅の信符と敕諭を持たせ、涼州・甘州・肅州・永昌・山丹・臨洮・鞏昌・西寧・洮州・河州・岷州の諸番族に賜って諭した――従来、朝廷が入用とするものは必ず茶や貨で償い、私に徴発することは許していない。近ごろ辺将が無状で、多く朝命に仮託して擾害し、お前たちを安んじさせないと聞く。いま特に金銅の信符を製して頒給する。徴発があれば必ず照合して符が合ってから行え。そうでなければ偽物であるから械をつけて京に送れ。罪に処す、と。以後、無理な需求は絶えた。
西番――番僧への授号と寺の建立
- 初め、西寜の番僧の薩喇が書を作って罕東の諸部を招降し、また碾白南川に佛刹を建ててその衆を住まわせた。ここに至って来朝して馬を貢ぎ、敕を賜って護持とし寺額を賜わるよう請うた。帝は請いに従って額を「瞿曇寺」と賜い、西寜僧綱司を立てて薩喇を都綱司とし、また河州に番・漢の二僧綱司を立て、いずれも番僧をこれに充て、符契をもって管理した。以後、その徒は争って寺を建て、帝はそのつど嘉名を賜い、かつ敕を賜って護持したので、来る番僧は日ごとに多くなった。
- 永樂のとき、諸衛の僧で戒行の精勤な者には多く喇嘛・禪師・灌頂國師の号を授け、大國師・西天佛子にまで加える者もあり、ことごとく印と誥を与えて世襲を許し、かつ年一度の朝貢を命じた。これによって諸僧と諸衛の土官が京師に輻輳した。
- その他の族種、たとえば西寜十三族・岷州十八族・洮州十八族の類は、大きい族で数千人、少ない族でも数百人であったが、これにも年一度の奉貢を許し、宴と賜与を優遇した。西番の勢いはますます分かれ、その力はますます弱まり、西陲の患いもますます少なくなった。
- 宣徳元年(1426年)、安定・庫森を協力して討った功により、國師の多斯巴・凌戬ら五人を大國師に加えて誥命と銀印を給し、秩は正四品とした。喇嘛の珠卜星ら六人を禪師に加えて敕命と銀印を給し、秩は正六品とした。
西番――正統・成化年間の撫諭と冒貢の弊
- 正統五年(1440年)、陕西鎮守都督の鄭銘と都御史の陳鎰に敕した――奏によれば、河州の番民である凌戬らはさきに罪を避けて結河里に逃げ住み、徒党を集めて土田を占耕しながら籍に登録せず賦を納めず、また逃亡者を匿し行旅を剽劫しているので、兵を発して討ちたいという。朕は番の性が頑梗であること、また犯した罪が赦の前であることを念う。にわかに師旅を加えれば無辜に累が及ぶ恐れがある。人を遣わして撫諭し、徒党を散じさせ掠めた牛羊を返させるなら兵は進めるな。従わなければ兵を加えても遅くはない。よく審らかにせよ、と。番人は果たして輸服した。
- 七年(1442年)、ふたたび鄭銘および都御史の王翺らに敕した――鎮守河州都指揮の劉永の奏によれば、先年、阿哩衮ら六族三千餘人が歸徳城下に営を連ね、交易と称しておきながら後に屯軍を鈔掠し、大いに焚戮をほしいままにした。また哲依咱族の番人はしばしば煖泉亭などで密かに寇盗を働き、指揮の張瑀は二人を捕らえながら、盗んだ馬を償わせただけで放って去らせた。法に照らせば瑀も永もみな究治すべきところ、いまはひとまず戴罪とする。お前たちはただちに官を遣わし三司の堂上とともに親しくその寨に赴き、利害を諭し、掠めたものを返させ、自新を許せ。改めなければ進討せよ。そもそも戎を馭す道は撫綏を先とし、撫して従わないときに初めて兵を用いる。この意を体せよ、と。番人もまた輸服した。
- 成化三年(1467年)、陕西副使の鄭安が言った――進貢の番僧で烏斯藏から来る者は三分の一にすぎず、残りはみな洮・岷の寺僧が名を詐って冒貢している。痩せ馬一頭を進めるだけで厚い値を得、賜わった幣帛で戦袍を作って官軍に抗している。もとは羈縻のためであるのに、かえって寇掠を招いている。これは国帑を虚しくして盗に糧を齎すものである、と。奏章は吏部に下され、廷臣の会議は、陕西の文武諸臣に貢期・人数および存留・起送の額を定めて報告させるよう請い、可とされた。ほどなく、烏斯藏から来る者はみな四川から入らせ、直接洮・岷へ赴かせないことを奏上し、これが例として定められた。
- 翌四年(1468年)冬、洮州の番寇が衆を擁して鐵城・後川の二寨を掠めたが、指揮の張翰らが兵を率いて防ぎ、敗って去らせ、掠われた人口を取り戻して帰った。
- 五年(1469年)、巡按の江孟綸が言った――岷州の番寇が縦横し、村堡は空になった。このほど指揮の后泰とその弟の通泰に繰り返し説き示させたところ、生番の忍藏・占藏ら三十餘族の酋長百六十餘人、熟番の栗林ら二十四族の酋長九十一人が、互いに告げ語らって過ちを悔い、掠めた人畜を返し、徭賦を供したいと願い、牛を殺して天に告げ、再び犯さないと誓った。すでに副使の李玘に適宜賞労させ朝廷の恩威を宣示させたところ、みな歓躍して去った。ただ熟番の緑園一族だけが悪を恃んで服さない、と。兵部は、番の性は無常で朝に撫すれば夕に叛くから備えを緩めてはならないとして、辺臣に諭し、向化する者は意を加えて撫綏し、順に背く者は期を切って剿滅させるよう請うた。帝はその言を容れた。
- 八年(1472年)、禮官が言った――洮・岷の諸衛が各族の番人を京に送るのが多くて四千二百餘人に達している。賞すべき綵幣は一人につき二表裏、帛も同じで、鈔は二十九萬八千あまり、馬の代価はなおその外である。正統・天順年間を考えるに、各番の貢使は三五百人を過ぎなかった。成化の初めに洮・岷の諸処が濫りに熟番を生番として冒送したため、すでに、生番は三年に一貢、大族は四五人、小族は一二人が京に赴き、残りはことごとく帰らせるという例を定めた。成化六年(1470年)、副使の鄧本瑞が妄りに招き寄せ、また冒送した。臣の部はすでに約束を重ねて申し渡している。いま副使の呉玘らは武備を厳しく飭えることができず、もっぱら番と通じて目先の患いを緩めている。敕を降して切責し、前令を遵守させていただきたい、と。帝もその言のとおりにした。
西番――青海の海寇と正德・嘉靖年間の攻防
- 西寜はすなわち古の湟中で、その西四百里に青海があり、西海ともいう。水草が豊美で番人が周囲に住み、もっぱら畜牧に務めて日ごとに繁殖し、もとより楽土と称された。
- 正徳四年(1509年)、䝉古部の酋長の額布勒阿爾圖斯がその主に罪を得、衆を擁して西へ奔り、青海が饒富だと知って襲って占拠し、大いに焚掠をほしいままにした。番人は地を失って多くが遠くへ移り、留まった者も自存できずかえって使役された。以後、甘肅・西寜にはじめて海寇の患いが生じた。
- 九年(1514年)、總制の彭澤が諸道の軍将を集めてその巣を撃とうとしたが、寇はこれを察知して河州から黄河を渡り、四川の松潘・茂州の境へ奔って、まっすぐ烏斯藏へ走った。大軍が引き揚げるとまた海上へ返り、ただ阿爾圖斯だけが遁れ去った。
- 嘉靖二年(1523年)、尚書の金獻民が西征し、官を遣わして招撫し、先朝が安定・庫森の諸衛を設けた故事にならって藩臣とすることを許すよう議した。兵部は總制の楊一清に検討させたが、一清の意は征討にあり、「寇の精騎は二三千に過ぎず、残りはみな脅されて従った番人である。だが彼らは寇を骨髄まで怨んでおり、報讐したがっているから間諜に用いることができる。大挙して剿絶すべきだ」と述べた。議が定まらぬうちに王憲・王瓊が相次いで代わり、いずれも兵が少なく餉が乏しいとして、議はついに行われなかった。
- 八年(1529年)、洮・岷の諸番がしばしば臨洮・鞏昌を犯し、内地が騒動した。樞臣の李承勲が言った――番は海寇に侵されて日ごとに内へ移っている。もし二つの寇が交通したら後始末をどうするのか。昔、趙充國は戦わずして羌を服し、段熲は羌百萬を殺したが内地は虚耗した。両者の隔たりは遠い。先帝の明を広め、充國のような任を専らにし、制置の方略はすべて瓊の便宜に任せて事を行わせていただきたい、と。瓊はそこで衆議を集め、剿と撫を併せ行うこととし、まず總兵官の劉文と遊擊の彭椷を遣わして土馬を分布した。
- 翌九年(1530年)二月、固原から洮・岷に進み、人を遣わして禍福を説き示した。洮州東路の木舎ら三十一族、西路の答禄失ら十三族、岷州の西寧溝ら十五族はみな撫に従ったので、白旗を給し、犒賜して帰らせた。ただ岷州東路の若籠族、西路の板爾ら十五族および岷州の剌即ら五族は険を恃んで服さなかったので、兵を分けてまず若籠・板爾の二族を攻めてその巣を覆した。剌即の諸族は震え慴れて降を乞うた。斬首は三百六十餘級、撫定した族は七十餘族。そこで班師した。以後、洮・岷は寧を得たが、西寜はなお寇の患いに苦しんだ。
- 十一年(1532年)、甘肅巡撫の趙載らが言った――額布勒が海上を占拠してすでに二十餘年になる。その党のうち布爾該だけは心を傾けて向化し、特黙格らの属番を求めて納款してきた。これに乗じて撫すべきである。あるいは馬を納めさせ、あるいは人質を遣わさせ、あるいは官を授け印を給して衛所を建て、我が藩籬とするのが計として便宜である、と。疏が上ったところ、おりしも河套の酋の濟農が衆を率いて西へ掠め、額布勒の営を大破してその部落の大半を収めて去った。ただ布爾該の一枝だけが衆を集めて自保した。これによって西寜も休息を得、納款の議はついに沙汰止みとなった。
- 唐龍が總制となると、寇が南して松潘を掠めた。龍はその巣に戻って諸番や他部と結んで患いをなすことを慮り、甘肅の守臣に兵を繕い粟を積んで殄滅の計を立てるよう奏請したが、龍が去ると事もまた行われなかった。
- 二十年(1541年)正月、布爾該が金牌と良馬を献じて款を求めた。兵部は言った――寇が本当に誠を尽くして通貢するなら、まことに西陲の大利である。しかし献じたのは馬と金牌にとどまり、往年のように子を遣わして入侍させ酋長が入朝するという請いがない。にわかに許すべきではない。督撫の臣に実情を偵察させ、あわせて制馭の策を条陳して報告させるべきである、と。可とされた。おりしも寇の勢いが次第に衰え、番人も次第に業に復したので、その議はまた沙汰止みとなった。
- 二十四年(1545年)、岷州を設けて鞏昌府に隷属させた。岷州の西は極辺に臨み、番と漢が雑処している。洪武のとき土番十六族を改めて十六里とし、衛を設けて治め、やや徭役を供させていた。州を設けてからは徴発が繁重となって人は日ごとに困敝し、しかも番人は世官を慕い、流官もまた居ることを楽しまず、治所を他所へ遥かに寄せた。十餘年を越えて督撫が合疏して不便を述べたので、もとどおり衛を設けた。
西番――諳達父子の青海占拠と仰華寺
- このころ北部の諳達が猖獗し、毎年宣府・大同の諸鎮を掠め、また青海の富饒を羨んだ。三十八年(1559年)、子の賓圖・必圖ら数萬の衆を連れてその地を襲い占拠した。布爾該は逃げ去り、諳達はそのまま諸番を掠め、のち引き揚げたが、賓圖を留めて松山を占拠させ、必圖に青海を占拠させたので、西寜もその患いを被った。
- 隆慶年間、諳達は順義王に封じられ、つつしんで貢を修め、二子もまた収まった。当時、烏斯藏の僧に活佛と称する者があり、諸部の多くがその教えを奉じていた。必圖はそこで焚修(修行)を名目に、青海と嘉峪關外に寺を建てて久しく居る計を請うた。廷臣の多くは許すべきでないと述べたが、禮官は言った――彼はすでに木を採って工事を興しており、他所へ改建せよと言っても勢い不可能である。むしろこれに乗じて許し、その善心を鼓して關外の請いを杜ぐのがよい。まして中國が戎を禦ぐのは辺關に備えがあるかどうかにあり、戎の順逆もまた一寺の遠近によるものではない、と。帝は許した。
- 必圖は請いが容れられると、さらに番人を近くで脅して松潘に道を通じさせ、活佛を迎えようとした。四川の守臣は逼られるのを懼れ、諳達に子を約束させて隣境を騒がせないようにと請うた。諳達は「必圖はただ甘肅で市を開くのを許されず、寧夏はまた道が遠く難儀だからである。禁令があっても尽くは制しきれない」と述べた。宣大總督の方逢時もまた市を開くのが便宜だと述べた。帝はこれを陕西の督撫に責め、督撫は違えられず、萬歴二年(1574年)冬、必圖には甘肅で、賓圖には莊浪で、年一度の互市を許した。やがて寺が成り、「仰華」の額を賜った。
- これより先、額布勒が青海を占拠したときは、辺臣はなお外寇として見ていたが、ここに至って諳達との縁から属番のように見なすようになった。諸酋もまた父が王封を受けた縁で大きな辺患をなそうとはしなかった。しかるに洮州の変が起こった。
西番――洮州の変
- 初め、洮州の番人は、河州の奸民が自分たちの物貨を踏み倒したことから内地に入って掠め、他族も機に乗じて乱をなした。奸民が河州參將の陳堂に告げると、堂は「これは洮州の番だ。我に何の関わりがあるか」と言い、洮州參將の劉世英は「彼らが犯したのは河州であって我の失事ではない」と言った。これによって二将に隙が生じた。
- 總督の石茂華はこれを聞き、二人および蘭州參將の徐勲、岷州守備の朱憲、旧洮州守備の史經にそれぞれ兵を率いてその境に迫らせ、利害を諭させた。番人は懼れてすぐ掠めた人畜を返した。世英は首悪をまだ捕らえていないからにわかには止められないとして、そのまま討ち破り、殺傷および焼死した者は数知れなかった。軍律では銅角を吹いてから兵を退く。堂は前の恨みを挟んで角の音を待たずに退き、諸部も多くが引き揚げた。憲と經はちょうど深く入って捜捕していたが、隣の番は彼らの勢いが孤立したのを見て囲んで殺した。
- 事が聞こえると帝は震怒し、堂と世英の職を褫い、茂華らを切責した。茂華はそこで諸軍を集め、道を分けて進討し、斬首百四十餘級、焼死した者九百餘人、家畜数十群を獲た。諸番は震え恐れて遠くへ移り、降ってきた者は七十一族、首悪四人を斬って送り、生け捕りにして献じた者は二人、馬・牛・羊二百六十を輸し、稽首して謝罪して再び犯さないと誓ったので、軍は帰った。
西番――萬曆年間の青海諸酋と鄭洛の経略
- 必圖が青海を占拠してからのこと、徹辰台吉という者があった。河套の酋の吉納の甥であり、諳達の従孫にあたる。これに従って西へ行き、しばしば番人を掠めたが思うようにならず、諳逹を迎えて助けさせようとした。諳逹はもともと衛喇特を侵そうとしていたので、活佛を迎えるという名を借りて衆を擁して西へ行き、疏して必圖に都督を授け金印を賜い、かつ茶市を開くよう請うた。部の議は許さず、ただ少し茶を給しただけであった。諳達は衛喇特に至ったが戦に敗れて帰った。そこで甘肅の守臣に書を送って烏斯藏へ赴く道を借りたいと乞うた。守臣は拒めず、そのまま甘肅を越えて南し、海上で諸酋と会した。番人はますます蹂躙され、多くが逃げ移った。
- 八年(1580年)春、はじめて活佛の言によって東へ帰った。だが徹辰の弟の浩爾齊および諳達の庶兄の子の永什卜は、そのまま青海に留まって去らなかった。
- 同年八月、必圖が衆を率いて番および内地の人畜を掠めたので、詔してその市と賞を絶った。諳達がこれを聞いて書を馳せて切責したので、掠めたものをすべて返し、悪をなした六人を捕らえて献じ、みずから牛羊七百を罰した。帝はその父の恭順を嘉して銀幣を賜い、牛羊はそのままその部人に賜い、悪をなした者は本人に付して自ら処置させ、なお貢市を許した。諳達はますます徳に感じた。
- しかし浩爾齊が番族を侵掠して止まないので、守臣が徹辰台吉に檄して約束させると、これも罪を引いて輸服した。諳達が卒し、孫の徹哩克に伝わると、勢いが軽く諸酋を制することができなくなった。
- 十六年(1588年)九月、永什卜の部衆で西寜に闌入する者があった。副總兵の李奎はちょうど酒に酔っており、馬を躍らせて前へ出た。部衆が鞍を控えて訴えようとしたところ、奎は刀を抜いて斬りつけた。衆はそこで奎を射殺し、駆けつけて救おうとした部下の卒も多く死んだ。守臣は討つことができず、使を遣わして詰責しただけで、首悪を献じさせ人畜を返させて済ませた。そのため彼らは憚るところがなく、いよいよ侵盗をほしいままにした。
- このころ必圖と徹辰台吉もみな死んだ。必圖の子の宰桑は莽拉川に移駐し、浩爾齊は尼恭川に移駐して、西寜に逼り近づき、日ごとに番族を蚕食した。番は支えきれなくなると転じて寇となった。徹哩克もまた西へ行って助けたので、勢いはいよいよ熾んになった。
- 十八年(1590年)六月、旧洮州に入った。副總兵の李聫芳が三千人を率いて防いだが全滅した。七月、また深く入って河州・臨洮・渭源を大いに掠めた。總兵官の劉承嗣と遊擊の孟孝臣がそれぞれ一軍を率いて防いだがいずれも敗績し、遊擊の李芳らが戦死した。西陲は大いに震えた。
- 事が聞こえると、尚書の鄭洛に経略として出るよう命じた。洛は以前に宣大の軍を督して順義王および忠順夫人を撫し恩があったので、使を遣わして徹哩克に東へ帰るよう促し、大いに番を招く令を布いて、来る者はおおむね善遇した。以後、帰附する者が絶えなかった。浩爾齊・宰桑の二酋は自ら罪の重いことを知り、また河套の酋の布色圖が助けに来て水泉口で大敗したと聞き、徹哩克もまた巣に還ろうとしていたので、はじめて懼れて帳を徙して去り、その党の克卜圖らを莽拉川に留めた。
- 翌十九年(1591年)、總兵官の尤繼先がこれを破って走らせた。洛はさらに青海へ進兵し、仰華寺を焼き、その残衆を逐って帰った。番人で業に復した者は八萬餘人に至り、西陲はしばらく休息を得たが、まもなくまた青海に来た。
- 二十三年(1595年)、臨洮總兵官を増設して劉綎を任じた。まもなく永什卜の諸部が南川を犯したが、參將の達雲が大破した。ついで浩爾齊・宰桑の二酋が連なって西川を犯したが、雲がまたこれを撃破した。
- 翌年(1596年)、諸酋がまた番族を掠め内地をうかがおうとしたが、綎の部将の周國柱が莽拉川で防ぎ、またこれを大破した。
- 二十七年(1599年)、叛いた苗を糾合して洮・岷を犯したが、總兵官の蕭如薰らがこれを破り、番人二百五十餘級、寇八十二級を斬り、降った番族五千餘人を撫した。
- 三十四年(1606年)、また鎮番の黒古城に入ったが、總兵官の柴國柱に敗られた。以後、しばしば入って鈔掠したが大きく思うようにはならなかった。
- 当時、陕西の患いとなったものに三大寇があった。一は河套、一は松山、一は青海である。青海は土がもっとも沃え、しかも番人が屏蔽となっていたので、患いはなお甚だしくはなかった。
西番――明末の変乱
- 崇禎十一年(1638年)、李自成がしばしば官軍に撃ち破られ、洮州から番地へ抜け出た。諸将が窮追するとまた塞内へ奔ったが、番族もまた蹂躙を被った。
- 十五年(1642年)、西寜の番族が乱を起こした。總兵官の馬爌が諸将を督して五道から進んで剿し、斬首七百あまり、三十八族を撫降して帰った。
- 翌年(1643年)冬、李自成が将を遣わして甘州を陥れたが、ひとり西寜だけは落ちなかった。賊将の幸恩忠がこれを攻め破り、そのまま進んで青海を掠めたので、諸酋の多くが降附した。そして明室もまた亡んだ。
西番――生番と熟番、および太祖の制馭
- 番には生・熟の二種がある。生番は獷悍で制しがたく、熟番は馬を納めて茶を受け取り、かなり柔順に服していたが、後に次第に生番と通じて内地の患いとなった。青海が寇に占拠されてからは、番は剽奪に堪えず、私かに皮幣を贈ってこれを「手信」といい、歳時に加えて贈るのを「添巴」といい、あるいはかえって嚮導となって交通を憚らなくなり、中國の市馬もまた稀にしか来なくなった。もはや外を捍ぎ内を衛るという当初の意を失ってしまったのである。
- そもそも太祖は關中を定めるとすぐ、漢の武帝が河西四郡を創って羌と胡を隔絶した意にならい、甘肅に重鎮を建てて、北は䝉古を拒ぎ南は諸番を捍ぎ、互いに結びつかせないようにした。また西寜など四衛の土官を遣わして漢官とともに治めさせ、世々守らせ、かつ茶課司を多く置いて番人が馬で茶を換えられるようにし、部族の長には歳時の朝貢を許して自ら天子に名号を通じさせた。彼らは勢力がすでに分かれ、また利に動いて悪をなす勇気がなく、たとえ小さな蠢動があっても辺将が偏師で制すれば、そのつど時を移さず平定できた。辺臣が防ぎを失って北寇が境を越えて闌入し、番族と交通するようになってから、西陲はついに多事となった。しかしその時代の患いを究めれば、結局は寇にあって番にはなかった。ゆえに議者は太祖の制馭を善しとするのである。
安定衛――地勢と洪武年間の設置
- 安定衛は甘州の西南一千五百里にある。漢では婼𦍑、唐では吐蕃の地で、元は宗室の布延特穆爾を寜王に封じてここを鎮めさせた。その地はもと薩里輝和爾といい、広さは□(底本欠字)千里、東は罕東に近く、北は沙州に接し、南は西番に接する。住まいに城郭はなく、氈帳を廬舎とし、駝・馬・牛・羊を多く産する。
- 洪武三年(1370年)、使を遣わし詔を持たせて招諭した。七年(1374年)六月、布延特穆爾はその府尉の滿達勒らを来朝させ、鎧甲・刀剣などを貢いだ。太祖は喜んでその使者に宴と賜与を与え、官を遣わしてその王に厚く賜い、その地を阿敦・阿珍・儒新・塔爾の四部に分け、それぞれに印を賜った。
- 翌八年(1375年)正月、その王が傅の布延布哈を遣わして来貢させ、元から授かった金銀字の牌を奉り、安定・阿敦の二衛を置くよう請うた。従って布延特穆爾を安定王に封じ、その部人の實喇らを指揮とした。
- 九年(1376年)、前の廣東叅政の鄭九成らに命じてその地に使いさせ、王とその部人に衣と幣を賜った。
- 翌十年(1377年)、王は實喇に弑された。王子の巴咱爾實哩が實喇を讐討したが、實喇の部将がまた王子を殺し、部内は大いに乱れた。番将の多爾濟巴勒が叛いて沙漠へ走り、安定を経て大いに殺掠をほしいままにし、その印を奪って去った。その衆はますます衰えた。
- 二十五年(1392年)、藍玉が西征して阿珍川を徇えた。土酋の司徒喀藏らは懼れて山谷に逃げ隠れ、敢えて出なかった。肅王が甘州に就国すると、僧を遣わして王に謁し、官を授けて部衆を安んじさせてほしいと乞うた。王が奏請し、帝は許した。
- 二十九年(1396年)、行人の陳誠に命じてその地に至らせ、あらためて安定衛を立て、その酋長の噶海・和塔拉ら五十八人にことごとく指揮・千戸・百戸などの官を授けた。誠が帰るとき酋長が随って入朝し馬を貢いで謝恩したので、帝は厚く賜い、また中官に銀幣を持たせて賜わせた。
安定衛――永樂・宣德年間の朝貢と朝使殺害事件
- 永樂元年(1403年)、官を遣わし敕を持たせて薩里の諸部を撫諭した。翌年、安定の頭目が多く来朝したので、千戸の桑濟ら三人を指揮僉事に擢し、残りにも差をつけて官を授け、あわせて本衛の指揮同知の哈桑らに銀幣を賜った。
- まもなく指揮の多爾濟舒が来朝し、差発の馬五百匹を納めたいと願った。河州衛指揮の康夀に命じてこれを受け取らせたところ、夀は「罕東・必里克の諸衛が馬を納めるとき、その値はみな河州の軍民が茶を運んで与えている。いま安定は遼遠で茶を運ぶのは甚だ難しい。布帛を給していただきたい」と述べた。帝は「諸番の市馬に茶を用いるのはすでに例として定まっている。いまはひとまず請いに従うが、後はやはり茶を給せ」と言った。そこで、上馬には布帛各二匹、以下は逓減という制を定めた。
- 三年(1405年)、哈桑らが使を遣わして来貢し、頭目の薩勒嘉藏布らを指揮などの官に挙げるよう奏し、みな年ごとに家畜の十分の一を納めることを請うたので、ともに従った。
- 四年(1406年)、科爾丹の地へ移り駐した。
- 初め、安定王が殺されたとき、その子の薩勒嘉沙克嘉はその兄に殺され、部衆は潰散し、子の伊特盤丹は凌藏に流寓した。十一年(1413年)五月、衆を率いて入朝し、みずから家の難を陳べて職を授かるよう乞うた。帝はその祖が率先して帰附したことを念い、安定王を襲封させ、印と誥を賜った。以後、朝貢は絶えなかった。
- 二十二年(1424年)、中官の喬来喜・鄧誠が烏斯藏に使いし、巴勒珠江の黄羊川に宿営したところ、安定指揮の哈桑の孫の僧格および庫森指揮の桑結斯らが衆を率いてこれを邀撃し、朝使を殺し、駝馬・幣物をことごとく奪って去った。仁宗は大いに怒り、都指揮の李英に康夀らを伴わせて討たせた。英らは西寜の諸衛の軍および隆本國師の賈實勒嘉勒殩ら十二の番族の衆を率いて深く入って賊を追ったが、賊は遠く逃げた。英らは崑崙山を越えて西へ数百里行き、雅爾喀の地に至って安定の賊に遇い、これを撃ち破った。斬首四百八十餘級、生け捕り七十餘人、駝・馬・牛十四萬あまりを獲た。庫森は風を聞いて遠く逃げ、追いつけずに帰った。英はこの功で㑹昌伯に封ぜられ、夀らはみな秩を進めた。
- 大軍が帰ると、指揮の哈桑らは罪を懼れて故地に帰ろうとしなかった。宣徳元年(1426年)、帝が官を遣わして招諭したところ、業に復した者が七百餘人あり、帝はみな綵幣の表裏を賜ってその不安を安んじた。
- 三年(1428年)春、安定および庫森衛の指揮などの官五十三人に誥命を賜った。
- 初め、大軍が賊を討ったとき、安定指揮の僧格は罕東衛の軍とともに調発を受けて従征したが、罕東は令に違えて至らず、その管轄する巴勒納族は僧格の軍が遠出したのをうかがって、その部内の廬帳・畜産をことごとく掠めた。事が聞こえると敕を降して切責し、速やかに掠めたものを返させ、命に違えば兵を発して進討すると命じた。ついで僧格を都指揮僉事に進めた。
安定衛――正統以後の継承と哈密の後嗣問題
- 正統元年(1436年)、官を遣わし敕を持たせて安定王および僧格に諭した――我が祖宗のとき、お前たちは天命に順い朝廷を尊び、誠を尽くして力を効し、始終改まらなかった。朝廷の恩賚もまた久しく変わらなかった。朕が位を嗣いでから、お前たちはあらためて朝命を遵んで部下を約束している。まことに嘉すべきことである。いま特に官を遣わして朕の意を諭し、幣帛を賜う。ますます天心に順い、忠誠を篤くし、境を保ち隣と睦み、永く太平の福を享けよ、と。
- 三年(1438年)、僧格はその子の納南布を率いて職を嗣がせた。九年(1444年)、納南布が衆を率いて庫森の人畜を掠めた。朝廷が官を遣わして返すよう諭したが命を奉ぜず、かえってその行李を劫した。帝は怒り、敕して安定王を責め追理させた。王は命を奉じたうえで、なお言葉を陳べて憐れみを乞うたので、帝は宥し、国を保ち隣と睦む義を諭した。
- 十一年(1446年)冬、伊特盤丹が卒し、子の凌戬干結勒が襲いだ。当時、王は年少だったので、叔父の指揮同知の綽斯塔克巴が国事を補佐したが、その同輩の多くは下風に立とうとしなかった。王は彼を入朝させて一秩を加えるよう奏請し、都指揮僉事に擢した。
- 景泰・天順・成化の三朝を経て頻りに入貢した。𢎞治三年(1490年)、凌戬干結勒が卒し、子の沁本が襲いで、齋糧・麻布を賜い、その父を諭祭した。
- これより先、哈密の忠順王が卒して子がなく、廷議は、安定王は同じ祖であるとして官を遣わして一人を選びその後嗣とさせようとしたが、安定王は許さなかった。ここに至って安定で善巴を訪ね求め、册して忠順王とし、沁本にその家属を送らせるよう命じた。沁本は怒って「善巴は王爵を嗣ぐべきではない。爵は綽爾吉に帰すべきだ」と言った。綽爾吉は沁本の弟である。かつ厚い賞を求めた。兵部は「陝巴は実に忠順王の孫で、もとより国人に服されている。さきに哈密に主がなく、使を遣わして立てるべき者を取ろうとしたとき、綽爾吉は自ら力の弱いことを知って行こうとしなかった。いま事が定まった後にこのように反覆するのだから、その言は従うべきでない」と述べた。善巴はついに立てられたが、沁本は自分の意で立てたのではないとして、後に哈密がしばしば寇を被ってもついに応援しなかった。
- 十七年(1504年)、衆を率いて沙州を侵し、大いに掠めて去った。
- 正徳のとき、䝉古の大酋の額布勒阿爾圖斯が青海を侵し占拠して隣境を縦掠したので、安定はついに残破し、部衆は散亡した。
阿敦衛
- 阿敦衛は薩里輝和爾の地にある。洪武八年(1375年)に置かれたが、後に多爾濟巴勒に残破されてその衛は廃された。
- 永樂四年(1406年)冬、酋長の錫錫呼爾察らが来朝して方物を貢ぎ、衛を復置するよう請うたので、従って錫錫らを指揮僉事に授けた。
- 洪熙のとき、庫森の酋の桑結斯が朝使を邀劫し、阿敦指揮の索囉丹を脅して同行させた。ついで大軍が出征すると、索囉丹は懼れて部衆を率いて遠く逃げ、その印を失った。
- 宣徳の初め、使を遣わして招撫したが、索囉丹はなお敢えて帰らず、庫森に依って雑処した。
- 六年(1431年)春、西寜都督の史昭が言った――庫森衛の章扎罕らはもと別の一部だが、その父が桑結斯を助けて逆をなしたため巴勒珠江に逃げ住んでいる。その地は烏斯藏への要路にあたり、また乱をなす恐れがあるので討つべきである、と。帝は昭に敕して「残寇は窮迫して身を容れる地がない。人を遣わしてその罪を宥し、故業に復させよ」と言った。そこで章扎罕は部下を率いて托爾谷の旧地へ還り住んだ。
- 翌七年(1432年)正月、入朝した。天子は喜んで指揮同知を授けて衛の事を掌らせ、指揮僉事の布達烏克を副とした。章扎罕はそこで「阿敦の故城は回回の境にあり、托爾谷からなお一月の行程があって朝貢が難しい。本土へ移すのが便宜である」と述べた。天子はその請いに従い、なお印を給し璽書を賜って撫慰した。
- 正統朝に至るまでしばしば入貢したが、その後の行方は分からない。当時、西域にも阿敦という名の地があり、その貢道は哈密から入る。こことは別の二つの地である。
庫森衛――設置と安定衛からの分離
- 庫森衛は東は安定に接し、肅州の西南にある。古の西戎、漢の西羌、唐の吐蕃の地で、元は庫森達林元帥府を設けた。
- 洪府のとき、酋長が入貢したので庫森衛を設け、その人を指揮に任じるよう命じた。後に多爾濟巴勒の乱に遭い、部衆は逃亡して安定衛に併合され、阿真の地に住んだ。
- 永樂四年(1406年)、安定指揮の哈桑・桑結斯・桑濟らが「安定と庫森はもと二衛で、後に合して一つとなった。近ごろ土番の巴圖の侵擾に遭って寧居できない。もとどおり二つに分け、先朝の旧制に復していただきたい」と奏した。従って桑濟を指揮使として衛の事を掌らせ、桑結斯を副とした。またその請いに従って智約特旺珪の地へ移った。以後しばしば入貢した。
庫森衛――朝使劫殺と史昭の征討
- 洪熙のとき、桑結斯は安定の部酋とともに朝使を劫殺した。ついで大軍が討ちに行くと、桑結斯は衆を率いて遠く遁れ、故土に帰ろうとしなかった。
- 宣徳の初め、天子はその罪を赦し、都指揮の陳通らを遣わして招撫させたところ、業に復した者は四萬二千餘帳であった。そこで指揮の實喇罕らを遣わして入朝謝罪させ、駝馬を貢いだので、もとのように待遇した。まもなく桑結斯を都指揮同知に擢し、その僚属もことごとく官を進めて誥命を給した。
- 五年(1430年)六月、朝使が西域から帰り、桑結斯がしばしば部衆を率いて往来の貢使を邀劫し道を塞いでいると述べた。天子は怒り、都督の史昭を大将とし、左右の叅將の趙安・王彧および中官の王安・王瑾に、西寜の諸衛の軍および安定・罕東の衆を督して征討させた。昭らの兵がその地に至ると桑結斯は先に遁れ、その党の托克托布哈らが迎え撃った。諸将は兵を放って撃ち、殺傷ははなはだ多く、托克托布哈および男女三百四十餘人を生け捕り、駝・馬・牛・羊三十四萬あまりを獲た。以後、西番は震え慴れた。
- 桑結斯はもとより狡悍で、天子がその罪を宥してもなお悪を恃んで改めなかったが、ここに至って人畜を多く失い、悔い懼れた。翌六年(1431年)四月、その弟の副千戸の嘉勒圖ら四人を遣わして馬を貢いで請罪した。もとのように待遇し、故地に還り住まわせ、あわせてその俘を返した。
- 七年(1432年)、その指揮の納嚢干が「先年、安定の兵が庫森を討つのに従ったとき、臣の二女・四弟および指揮の僧格らの家属で掠われた者が五百人ある。いま桑結斯はすでに赦宥を蒙ったのに、臣らの親属はなお返されていない。聖明の憐れみを垂れていただきたい」と述べた。天子は奏を得て惻然とし、大臣に語って「朕はつねに用兵を戒めとしてきたが、まさに濫りに無辜に及ぶことを恐れてのことだ。彼が自ら言わなければどうして知れよう」と言い、ただちに安定王の伊特盤丹らに敕して掠めたものをことごとく返させた。
- その年、桑結斯が卒したので、その子の都哩に職を嗣がせ、敕を賜って励ました。十年(1435年)、納嚢干を都指揮僉事に擢し、その僚属で職を進めた者は八十九人であった。
- 正統七年(1442年)、使を遣わして玉石を貢いだ。成化のとき、土魯番が強くなってその侵掠を被った。𢎞治中、安定王の子の善巴が庫森に住んでおり、廷議は哈密に子がないとしてこれを迎えて忠順王とした。
- 正徳七年(1512年)、䝉古の酋の阿爾圖斯額布勒が青海へ逃げ住み、庫森はその蹂躙を受けて部族は逃げ移り、その衛はついに亡んだ。
- 明の初め、安定・阿敦・庫森・罕東・赤斤・沙州の諸衛を設け、これに金牌を給して毎年馬を茶に換えさせ、これを差発といった。沙州・赤斤は肅州に隷し、残りはことごとく西寜に隷した。当時、甘州の西南はことごとく番族で、辺臣の羈絡を受けており、ただ北面だけを寇に備えればよかった。後に諸衛がことごとく亡び、額布勒が青海を占拠し、土魯番がまた哈密を占拠して關外に逼り住み、諸衛の遷徙した衆がまた甘肅の肘腋に環り列なって、獷悍で馴らしがたくなった。ここに河西は外に大寇を防ぎ内に諸番を防ぐこととなり、兵事は日ごとに急となった。
赤斤䝉古衛――地勢と塔爾尼の帰順
- 赤斤䝉古衛。嘉峪關を出て西へ二十里を大草灘といい、さらに三十里を黒山兒といい、さらに四十里を囘囘墓という。墓の西四十里を騸馬城といい、いずれも墩臺を設けて瞭卒を置く。城の西八十里がすなわち赤斤䝉古で、漢の燉煌郡の地、晉は晉昌郡に属し、唐は𤓰州に属し、元も同じく沙州路に属した。
- 洪武十三年(1380年)、都督の濮英が西討して白城に宿営し、䝉古の平章の呼圖克特穆爾を獲た。進んで赤斤站に至り、豳王の額琳沁およびその部曲千四百人、金印一つを獲た。軍が帰るとまた䝉古の部人に占拠された。
- 永樂二年(1404年)九月、塔爾尼という者があり、丞相の庫凖の子と自称して、その部下の男女五百餘人を率いて哈喇圖の地から帰順した。詔して赤斤䝉古所を設け、塔爾尼を千戸とし、誥・印・綵幣・襲衣を賜った。
- 八年(1410年)、囘囘の噶爾瑪雅が肅州で叛き、塔爾尼に援を約したが、塔爾尼は拒んで応ぜず、部下を率いて賊六人を擒えて献じた。天子は聞いて喜び、詔して千戸所を衛に改め、塔爾尼を指揮僉事に擢した。その部下で官を授かった者は三人であった。
- 翌九年(1411年)、使を遣わして馬を貢いだ。またその翌十年(1412年)、叛賊の婁達衮を匿したことで討とうとしたが、侍講の楊榮の言を用いて兵を止めて進めず、敕を賜って詰責した。塔爾尼はただちに婁達衮を擒えて献じたので、天子は嘉して指揮同知に秩を進め、賜与ははなはだ厚かった。
- 久しくして卒し、子の且旺沙克嘉が襲いで、制のとおり貢を修め、指揮使に進んだ。宣徳二年(1427年)、さらに都指揮同知に進み、その僚属も多く秩を進めた。
赤斤䝉古衛――衛拉特の圧迫と婚姻の要求
- 正統元年(1436年)、その部下の指揮の科爾結が西域の阿敦の貢物を掠め、使臣二十一人を殺した。敕を賜って切責し、掠めたものを返させた。まもなく䝉古の托歡特穆爾・孟克布哈と戦って勝ち、使を遣わして捷を献じたので、都指揮使に進めた。
- 五年(1440年)、哈密へ往来する朝使に、且旺沙克嘉が餱糧と騾馬を備えて護送したので、都督僉事に擢した。
- 翌六年(1441年)、天子はその部下が時おり沙州へ行って寇掠し、あるいは沙州の名を騙って西域の貢使を邀劫していると聞き、敕を遣わして切責した。当時、衛拉特の兵が強く、しばしば隣境を侵掠したので、且旺沙克嘉は懼れて肅州へ移り住もうとした。天子は聞いて諭し止め、警あれば辺将に馳報するよう命じた。
- 八年(1443年)、衛拉特の酋の額森が使を遣わして馬と酒を送り、且旺沙克嘉の娘を子の嫁に、沙州の琨濟楞の娘を弟の嫁に迎えたいと申し入れた。二人は望まず、ともに「朝命を遵奉しており、擅に婚することはできない」と奏した。天子は衛拉特がまさに強く、その礼意は却けられないとして、それぞれの願いに任せるよう諭し、あわせてこの意を額森にも諭したが、二人はついに望まなかった。
- 翌九年(1444年)、且旺沙克嘉は老を称して事を治めなくなったので、詔してその子の阿蘓に都督僉事を授けて代えた。額森はまた使を遣わして婚を求め、かつ親人を遣わしてその幣物を受け取りに来させるよう請うた。阿蘇はその詐りを虞れて拒んで従わず、人を遣わして善い地へ移りたいと乞うた。天子は土地は棄てるべきでないと諭し、頭目を奨励し率いて自強を図るよう命じ、また飢え困っているというので辺臣に粟を給させた。撫恤するところはきわめて至れりであった。
- これより先、庫凖は西番の女を娶って塔爾尼を生み、また䝉古の女を娶って都指揮の索和爾珍・格古嘉の二人を生んだ。二人はそれぞれ部を三つに分け、およそ西番人は左帳に住んで塔爾尼に属し、䝉古人は右帳に住んで索和爾珍に属し、自らは中帳を領した。後に庫凖が卒すると、諸子は帰順してともに官を授かった。ここに至って阿蘓の勢いが盛んになり、右帳を兼併しようとしてしばしば讐殺し合った。索爾和珍は支えきれず辺将に訴え、その部を内属させたいと願った。辺将の任禮は京へ赴かせ、兵を発してその部落を収めるよう請うた。帝はその部人が内徙を願わないことを慮り、索爾和珍をそのまま甘肅へ還らせ、禮にその妻子を取りに行かせた。
- 十三年(1448年)、辺将が哈密の使臣を護って苦峪に至ったとき、赤斤都指揮の總爾嘉勒らが衆を率いてその城を囲み、報怨と称した。官軍が出撃して總爾嘉勒を獲たが、ほどなく逃げ去った。事が聞こえると阿蘓に敕責し、犯した者を縛って献じさせた。
- 景泰二年(1451年)、額森がまた使を遣わして書を持たせ婚を求めた。おりしも阿蘓は他へ行っており、その僚属がその書を持って来て奉った。兵部尚書の于謙は「赤斤の諸衛は久しく我が藩籬である。額森が故なく招降して親を結ぼうとするのは、我が屏蔽を撤しようという意である。辺臣に兵を整えて慎重に防がせ、あわせて阿蘇に敕して力を尽くして捍禦させ、警あれば馳報させて兵を発して応援すべきである」と述べた。従った。
- 五年(1454年)、額森はますます兼併を図り、使を遣わして印を持たせ阿蘓に授け、臣服するよう脅した。阿蘓は従わず辺臣に報じた。おりしも額森が殺されたのでやんだ。
- 天順元年(1457年)、都指揮の馬雲が西域に使いしたとき、阿蘓に綵幣を賜って往還を護送させるよう命じた。まもなく左都督に秩を進めた。
赤斤䝉古衛――成化以後の衰退
- 成化二年(1466年)に卒し、子の幹薩塔爾が襲を請い、そのまま父の官を授けられた。その部下の指揮の幹布がしばしば辺境を侵盗したので、辺将が誘い致して京師に送った。天子はその罪を数えたうえで賜与を与えて還らせた。
- 六年(1470年)、その部人が「幹薩塔爾は幼弱で、その叔父の且巴ら二人が部族に信服されている。都督に命じて衛の事を治めさせていただきたい」と乞い、幹薩塔爾もまた上書して一職を与えて辺方を協守させてほしいと乞うた。帝はその請いに従い、ともに指揮僉事を授けた。
- 翌七年(1471年)、幹薩塔爾が卒し、子の藏布塔爾が嗣いで左都督となった。
- 九年(1473年)、土魯番が哈密を陥れ、使者三人を遣わして書を持たせ、都督僉事の衮藏を同じく叛くよう誘った。衮藏は従わず、その使を殺してその書を献じた。天子は嘉して使を遣わして賜与し、かつ兵を発して攻討するよう命じた。衮藏は力が足りないとして官軍数千を助けに発するよう請うた。朝議は都督の李文らに委ねて検討させた。ついで文らが進征すると、衮藏は果たして兵を率いて会しに来たが、文らが軍を頓めて進まなかったので、その兵も還った。
- 十年(1474年)、藏布塔爾が千騎で肅州の境に入り、阿年族の番人と讐殺しようとした。辺臣が諭して退けたが、兵部は人を遣わして大義をもって責め、讐があれば辺吏に訴え出るべきで、擅に相侵掠してはならないと言うよう請うた。従った。
- 十四年(1478年)、その部人が「藏布塔爾は幼くて事に慣れていない。指揮僉事の加定が衆心を得ているので、一秩を遷して衛の事を総べさせていただきたい」と述べ、藏布塔爾もまた署名して推譲した。罕東の酋長もまた言葉を合わせて奏挙し、かつ「両衛の番人はこれによって靖まる」と述べた。帝はその言を容れ、加定を都指揮僉事に擢し、暫く印務を掌らせた。
- 当時、土魯番はなお哈密を占拠しており、哈密都督の哈商が赤斤と結んで援とし、その城を回復した。詔があって褒賞された。
- 十九年(1483年)、隣の番の雅密克勒が来侵して大いに殺掠をほしいままにし、赤斤はついに残破した。その酋長が辺臣に訴えたので粟を給し、またその城を繕治して流移した者を業に復させた。赤斤は以後振るわなかった。
- しかし𢎞治中、阿穆呼朗が哈密を破ったときはなおその兵を用い、後に許進が西征したときもまた兵を出して助けた。
- 正徳八年(1513年)、土魯番が将を遣わして哈密を占拠し、そのまま赤斤を大掠してその印を奪って去った。彭澤が経略するに及んで、はじめて印が返された。
- ついで番賊が肅州を犯して中國と難をなすと、赤斤はその衝に当たっていよいよ蹂躙を被り、部衆は自存できず、ことごとく肅州の南山へ内徙して、その城はついに空になった。
- 嘉靖七年(1528年)、總督の王瓊が諸郡を撫安し、赤斤の衆を調べたところわずか千餘人であった。そこで藏布塔爾の子の索諾木舒に都督を授けてその部帳を統べさせた。
沙州衛――地勢と永樂年間の設置
- 沙州衛。赤斤䝉古から西へ二百里を苦峪といい、苦峪から南に折れて西へ百九十里を𤓰州といい、𤓰州から西へ四百四十里ではじめて沙州に達する。漢の燉煌郡で西域との境にあたり、玉門・陽關もともに遠からぬ距離にある。後魏がはじめて沙州を置き、唐もこれに因った。後に吐蕃に没したが、宣宗のとき張義湖が州を挙げて内附したので、歸義軍を置いて節度使を授けた。宋では西夏に入り、元は沙州路とした。
- 洪武二十四年(1391年)、䝉古の阿爾噶實哩が國公の穆爾台阿巴齊・司徒の科爾羅らを遣わして来朝し、馬と璞玉を貢いだ。
- 永樂二年(1404年)、酋長の琨濟楞・敏珠爾が衆を率いて帰順したので、沙州衛を置いて二人に指揮使を授け、印・誥・冠帯・襲衣を賜った。ついでその部下の察納が来附したので都指揮僉事を授けた。
- 五年(1407年)夏、甘肅總兵官の宋晟に敕した――察納はもと敏珠爾の部曲だと聞くが、いま官はその上にあり、高下が倫を失っている。すでに敏珠爾を都指揮同知に擢した。今後は詳らかに審定して序を失わせるな、と。
- 八年(1410年)、琨濟楞を都指揮僉事に擢し、その僚属で秩を進めた者は二十人であった。敏珠爾が卒すると琨濟楞が衛の事を掌り、朝貢は絶えなかった。
- 二十二年(1424年)、衛拉特の賢義王太平の部下が来貢したが、途中で賊に妨げられた。琨濟楞が人を遣わして京まで護送したので、帝は嘉して綵幣を賜い、まもなく都督僉事に秩を進めた。
沙州衛――宣德・正統年間の窮乏と苦峪への移転
- 洪熙元年(1425年)、伊埒巴爾および賽瑪爾堪が前後して入貢したが、道が哈密の地を経るところでともに沙州の賊に邀劫された。宣宗は怒り、肅州守将の費瓛に命じて剿させた。
- 宣徳元年(1426年)、琨濟楞は歳が荒れて人が困っているとして、使を遣わして穀種百石を貸してほしい、秋の収穫で官に返す、と願い出た。帝は「番人はすなわち吾が人である。貸すとは何事か」と言い、命じてそのまま与えさせた。まもなく中官の張福を遣わしてその地に使いさせ綵幣を賜った。
- 七年(1432年)、また旱災を奏したので、肅州で糧五百石を授けるよう敕した。
- ついで哈里の貢使が、道が沙州を経るとき赤斤指揮の格古嘉らに剽掠されたと述べた。部の議は「赤斤の人が遠く沙州まで至って盗をなすのは、罪は貸すべきでない」とした。帝は琨濟楞に調べさせ、敕して「彼がすでに盗をなした以上、二度と容れてはならない。本土へ駆り還すべきである。再び犯せば宥さない」と言った。
- 九年(1434年)、使を遣わして、罕東および西番がしばしば侵侮をほしいままにして人畜を掠め取り、安居できないので、察罕の旧城へ移って耕牧したいと奏した。帝は敕を遣わして止めて言った――お前は沙州に住むこと三十餘年、戸口は増え畜牧は富饒である。みな朝廷の力だ。往年、哈密がお前の侵擾を奏したことがある。いまの外侮もまた自ら招いたものだ。ただ分に循い職を守り、境を保ち隣と睦めば、おのずと外患はない。何ぞ必ずしも東へ遷り西へ徙って徒らに労瘁を取ることがあろうか、と。また罕東・西番に敕して、本当に人畜を侵奪したのなら速やかに返せと命じた。
- 翌十年(1435年)、また哈密に侵され、かつ衛拉特に逼られることを懼れて自立できず、部衆二百餘人を率いて塞下に走り附き、飢窘の状を陳べた。詔して辺臣に粟を発して済わせ、かつ処置を議させた。辺臣は苦峪へ移すよう請い、従った。以後、沙州へは帰らず、遠くその衆を領するだけとなった。
- 正統元年(1436年)、西域の阿敦が使を遣わして来貢したが、罕東の頭目の科爾結および西番の野人に剽奪された。琨濟楞は命を奉じて追い、その貢物を返した。帝は嘉して都督同知に擢した。
- 四年(1439年)、その部下の都指揮の阿齊布哈ら百三十餘家が哈密へ亡入した。琨濟楞は詔を奉じてこれを索めたが与えられず、朝命で忠順王に返させようとしたが、これも与えなかった。おりしも使を遣わしてその新王を册封するにあたり、使人に逃げた戸を索め還させたところ、哈密はわずかに都指揮の僧格實哩ら八十四家を返しただけで、残りはなお遣わさなかった。
- 当時、罕東都指揮の巴特瑪斯結が久しく沙州に駐牧して去らず、赤斤都指揮の格古嘉もまたその叛亡者を納れた。琨濟楞はしばしば朝に訴え、朝廷もしばしば敕を遣わして詰責したが、諸部の多くは命を奉じなかった。
- 四年八月、人を遣って衛拉特・哈密の事を偵察させ、つぶさにその実情を得て報告した。帝は喜んで敕を降して奨励し、厚く賜った。翌年、使を遣わして入貢し、また迤北の辺事を報じたので、その使臣二人の官を進めた。
- 初め、琨濟楞が沙州を去るとき、朝廷は辺将に苦峪城を繕治するよう命じ、戍卒を率いて助けさせていた。六年(1441年)冬、城が成り、入朝して謝恩し駝馬を貢いだ。宴と賜与を与えて還らせた。
- 七年(1442年)、衆を率いて哈密を侵し、その人畜を獲て帰った。
沙州衛――全部の内徙と沙州の空虚
- 九年(1444年)、琨濟楞が卒した。長子の能格がその弟の凱囉・凌戬を率いて来朝したので、能格に都督僉事、その弟に都指揮使を授け、敕を賜って戒諭した。
- 帰ってからその兄弟は争い合い、部衆は離反した。甘肅の鎮将の任禮らはその窘乏に乗じて塞内へ移そうとし、能格もまた肅州の小鉢和寺に住みたいと言ってきた。禮らはそこで十一年(1446年)秋、都指揮の茂哈喇らに能格を伴わせて先に沙州へ赴かせその衆を撫諭させ、自らは兵を率いてその後に随った。至ってみると能格の意は変わり、密かに両端を持し、その部下の多くは衛拉特へ奔ろうとしていた。禮らは兵を進めて迫り、ついにその全部を収めて塞内に入れ、甘州に住まわせた。およそ二百餘戸、千二百三十餘人であった。沙州はついに空になった。
- 帝は、迫られて来たのだから情は測りがたいとして、禮によく便宜を計らせた。しかし以後は内地に安居して、ついに後患はなかった。沙州は罕東の酋の巴特瑪斯結の有となった。
- ひとり能格の弟の索諾木だけは移されるのに従わず、衛拉特へ逃げ入り、額森は彼を祁王に封じた。禮は彼が罕東にいることを偵知して掩襲し捕らえた。廷臣は正法に処すよう請うたが、帝はその父兄の恭順を念って死を免じ、東昌へ徙した。
- これより先、太宗は哈密・沙州・赤斤・罕東の四衛を嘉峪關外に置いて西陲を屏蔽した。ここに至って沙州がまず廃され、諸衛もまた次第に自立できなくなり、肅州はついに多事となった。
罕東衛――設置と永樂・宣德年間
- 罕東衛は赤斤䝉古の南、嘉峪關の西南にあり、漢の燉煌郡の地である。
- 洪武二十五年(1392年)、涼國公の藍玉が逃寇の祁濟遜を追って罕東の地に至ると、その部衆の多くは西寜へ逃げ移った。薩喇が書を作って招いたので、相次いで帰順した。
- 三十年(1397年)、酋の索諾格喇斯が使を遣わして入貢したので、詔して罕東衛を置き、指揮僉事を授けた。
- 永樂元年(1403年)、その兄の塔爾實とともに入朝したので指揮使に進め、塔爾實に指揮同知を授け、ともに冠帯・鈔幣を賜った。以後しばしば入貢した。
- 十年(1412年)、安定衛が「罕東はしばしば盗をなして民戸三百を掠め去り、また西番を糾合して關隘を阻截している」と奏した。帝は敕を降して切責し、掠めたものを返させた。
- 十六年(1418年)、中官の鄧誠に命じてその地に使いさせた。
- 洪熙元年(1425年)、使を遣わして即位をその指揮同知の綽爾結に諭し、白金・文綺を賜った。当時、官軍が庫森の賊を征したとき、罕東指揮使の恰爾嘉が従征して功があったので、都指揮僉事に擢し、誥を賜って世襲させた。その指揮の納南が「所属の番民千五百は例により差発の馬二百五十匹を納めるが、その人の多くは赤斤へ逃げ住んでいる。招撫して業に復させていただきたい」と奏した。帝はただちに招くよう命じ、あわせて負っている馬を免じた。
- 宣徳元年(1426年)、庫森従征の功を論じて綽爾結を都指揮同知に擢した。
- 初め、大軍が庫森を討ったとき、安定の部内および罕東の密羅族の人はことごとく驚いて逃げた。事が定まると詔して指揮の陳通らを遣わして招かせ、罕東で業に復した者は二千四百餘帳、男女一萬七千三百餘人、安定の部人もまた衛へ還った。
罕東衛――正統・成化年間の侵掠と統制
- 正統四年(1439年)、罕東と安定が衆を合わせて西番の申藏族を侵し、その馬・牛・雑畜を掠めること萬をもって数えた。その僧が辺将に訴え、「畜産が一空となり、毎年の差発の馬を出しようがない」と述べた。帝は二衛を切責してその残忍暴横、國法に違い隣境を毒する罪を数え、掠めたものをことごとく返させ、また僧には旧制に限らず有るに随って入貢するよう諭した。
- 翌五年(1440年)冬、綽爾結は巴特瑪斯結とともに哈密を侵し、老幼百人・馬百匹・牛羊数知れずを獲た。忠順王が使を遣わして索めたが与えなかった。帝は聞いてまた敕を賜って戒諭したが、番人は剽掠を性としており、天子が言っても尽くは従えなかった。
- 六年(1441年)夏、綽爾結が来貢して馬を献じ、宴と賜与を受けて還った。
- 九年(1444年)に卒し、子の藏博爾嘉が職を嗣ぎ、齋糧・茶・布を乞うたので、ことごとく与えるよう命じた。十一年(1446年)、都指揮使に進んだ。
- 成化九年(1473年)、土魯番が哈密を陥れ、都督の李文が西征したとき、罕東は兵を出して助けた。後に都督の哈商が哈密を回復したときもまたその兵を藉り、敕を賜って奨賚された。
- 十八年(1482年)、その部下が番族を掠め、河清堡に侵入する者があった。都指揮の梅琛が兵を勒して追い、男女五十餘人、馬・牛・雑畜四千五百あまりを奪い返した。辺臣はその罪を討つよう請い、部臣は難色を示した。帝は「罕東はまさに調発に応じ、協力して哈密を取ろうとしており、離反の形はない。どうして小さな故によってにわかに兵を加えられよう。悔過を諭し、服さなければ兵を耀かせて威すべきである」と言った。
- 二十二年(1486年)、辺臣が「このほど官を遣わして哈密へ赴かせ、土魯番の使臣の家属四百人と同行させたところ、道が罕東を経るとき都督の巴特瑪本らに掠め去られ、朝使はかろうじて免れた。これを討たせていただきたい」と述べた。帝は人を遣わして諭させ、番人の例のように和を議して掠めた物を返させ、従わなければ進兵するよう命じた。
- 𢎞治中、土魯番がまた哈密を占拠した。兵部の馬文升はその城を直撃することを議し、指揮の楊翥を召って計った。翥は「罕東に間道があり、十日足らずで哈密に達する。賊の不意を衝いてここから進兵すべきだ」と述べた。文升は「お前の言うとおりなら、罕東の兵三千を発して先行させ、我が師三千を後に継がせ、それぞれ数日分の乾糧を持たせて兼程で襲うのはどうか」と言い、翥は善しと称した。文升はこれを巡撫の許進に属し、進は人を遣わして罕東に前の策のとおり諭したが、おりしも罕東が期を失って至らなかったので、官軍はやはり大路から進み、賊は遁れ去った。
- 十二年(1499年)、その部人が西寜の隆本族を侵し、印誥および人畜を掠め去った。兵部は都督に敕して部下に宣諭させ、掠めた物を匿さずことごとく主に返させ、命に違えば都督自ら討たせるよう請うた。従った。
- 当時、土魯番が日ごとに強くなり、しばしば隣境を侵掠して、諸部はみな支えきれなかった。正徳中、䝉古の大酋が青海に入ると罕東もまた蹂躙を被り、その衆はいよいよ衰えた。後に土魯番がまた哈密を陥れ、まっすぐ肅州を犯すと、罕東はまた残破して相率いて内徙を求め、その城はついに棄てて守られなくなった。嘉靖のとき、總督の王瓊が諸部を安輯し、罕東都指揮の智丹の部落を甘州へ移した。
罕東左衛――安扎・巴特瑪斯結と沙州占拠
- 罕東左衛は沙州衛の故城にあり、憲宗のときにはじめて建てられた。
- 初め、罕東の部人の安扎が種族と相容れずしばしば讐殺したので、その衆を率いて沙州の境へ逃げ住んだ。朝廷はその耕牧を許し、毎年馬を肅州に納めさせた。後に部落が日ごとに蕃くなり、いよいよ罕東の統属を受けなくなった。
- その子の巴特瑪斯結の代となり、洪熙のとき庫森討伐に従って功があったが賞が及ばなかった。宣徳七年(1432年)、みずから朝に陳べたので、罕東衛指揮使に命じ、敕を賜って奨賚した。しかしなお沙州に住んで本衛に還らなかった。十年(1435年)、都指揮使僉事に進んだ。
- 正統四年(1439年)、沙州衛都督の琨濟楞が、巴特瑪斯結がその地を侵し住んでいるとして還らせるよう乞うた。天子はその言のとおり敕を賜って宣諭したが、巴特瑪斯結は命を奉じなかった。
- 当時、赤斤衛指揮の索和爾珍が人を殺して沙州の地へ逃げ入り、巴特瑪斯結はこれを納れた。蘇古嘉はまたその子を烏斯藏へ行かせて毒薬を取らせ、還って赤斤を攻めようとした。赤斤都督の且旺沙克嘉がこれを言上したので、天子はただちに巴特瑪斯結に敕諭し、隣と睦み境を保って釁端を啓くなと命じた。
- 久しくして沙州の全部がことごとく内徙したので、思結がついにその地をすべて有した。
- 十四年(1449年)、甘肅鎮臣の任禮らが「巴特瑪斯結は密かに衛拉特の額森と通好し、近ごろまた哈密と兵を構えている。本衛へ還り住まわせるべきである」と奏した。天子は再び敕を賜って宣諭したが、これも命を奉じなかった。まもなく都指揮使に秩を進めた。景泰・天順朝を経て朝貢は廃れなかった。
罕東左衛――智克の建衛と土魯番の圧迫
- 成化中、巴特瑪斯結が卒し、孫の智克が職を嗣いで、部衆はいよいよ盛んになった。当時、土魯番が強く哈密を侵し占拠しており、智克はこれと境を接して自分に逼るのを患え、自ら一衛となろうとした。
- 十五年(1479年)九月、罕東・赤斤の例のように衛を立て印を賜って西陲を捍禦させてほしいと奏請した。兵部は述べた――近ごろ土魯番が哈密を呑噬し、罕東の諸衛はそれぞれ自ら保てず、西鄙はこのため寧からず、しかも赤斤・罕東・苦峪はまたそれぞれ嫌隙を懐いて相救援しない。もし沙州にさらに統理する人がなければ、勢い必ず強敵に併呑され、辺方はいよいよ多事となろう。請いのとおりにし、沙州の故城に罕東左衛を置き、智克になお都指揮使として統治させるべきである、と。従った。
- 二十一年(1485年)、甘肅の守臣が「北寇がしばしば沙州を犯して人畜を殺掠し、また歳の飢えに当たって人は流竄を思っている。すでに粟五百石を発して布種させたが、なお人ごとに月糧を給して振わせていただきたい。その酋の智克には斬級の功があるので、あわせて叙していただきたい」と述べた。そこで智克を都督僉事に擢し、残りも可とされた。
- 𢎞治七年(1494年)、指揮の王永が述べた――先朝が哈密衛を建てたのは西域の要衝に当たるからで、諸番が入貢してここに至れば必ず少し憩わせて館穀し、あるいは他の寇に剽掠されても人馬を接護できた。柔遠の道はきわめて至れりといえる。いま土魯番がその地を竊拠して久しく退かない。聞くところ罕東左衛は哈密の南、わずか三日の行程にあり、雅密克勒は哈密の東北、わずか二日の行程にある。いずれも唇歯の地で利害を共にする。去年の秋、土魯番が人を智克のもとへ遣わして帰附するよう脅したが智克は従わず、また雅密克勒の頭目を殺したので、その部人はみな報怨を思っている。二部を旌労して力を併せて合攻させ、永くその患いを除くべきである。これもまた寇をもって寇を攻める一策である、と。奏章は兵部に下されたが用いられなかった。
- 十七年(1504年)、衛拉特および安定の部人が沙州の人畜を大掠し、智克は自存できず、嘉峪關に叩いて済いを求めた。天子は振り給したうえで、あらためて二部に讐を解き争いを息め、兵を構えて釁を招いてはならないと諭した。
- 正徳四年(1509年)、智克の部内の番族に隣境を劫掠する者があり、守臣が討とうとした。兵部は述べた――西戎は強悍で漢唐以来制しきれなかった。我が朝が哈密・赤斤・罕東の諸衛を建て、官を授け敕を賜って犬牙のように相制させたのは、匈奴の右臂を断つだけでなく、西土の藩籬を壮んにするためでもある。いま番人が相攻めるのが我に何の関わりがあろう。にわかに兵を加えようとするのはよくない。都督の智克に敕して諸族に悔過して兵を息めるよう暁諭させるべきである、と。可とされた。
- 智克が卒し、子の竒塔特が嗣いだ。十一年(1516年)、土魯番がまた哈密を占拠し、兵で竒塔特を脅して降附させ、そのまま肅州を犯した。左衛は自立できず、相率いて肅州の塞内へ徙った。守臣は拒めず、撫して納れた。
- 竒塔特が卒し、子の日誥が嗣いだ。十六年(1521年)秋、入朝して賞賚を乞うた。禮官はその例を越えたこと、かつ疏を投じるのに通政司を経なかったことを劾し、館伴の者を治罪するよう請うた。従った。
- 竒塔特が内徙したとき、その部下の特黙格・圖巴の二人はなお沙州に住んで土魯番に服属し、毎年婦女・牛馬を輸していた。おりしも番の酋の徴求が苛急だったので二人は怨み、七年夏、部族五千四百人を率いて帰順した。沙州はついに土魯番の有となった。
哈瑪爾
- 哈瑪爾は地が甘肅に近く、元の諸王の温納實哩がここに住んでいた。
- 洪武十三年(1380年)、都督の濮英が兵を練って西へ掠めるにあたり、出師して地を略し哈瑪爾への路を開いて商旅を通じさせたいと請うた。太祖は璽書を賜って「地を略す請いはお前の便宜に任せる。しかし将は謀を本とする。慎んで忽せにするな」と言った。英はそこで進兵し、温納實哩は懼れて使を遣わして納款した。
- 翌十四年(1381年)五月、囘囘の阿喇卜丹を遣わして来朝させ馬を貢いだ。詔して文綺を賜い、輝和爾の地へ遣わして諸番を招諭させた。
- 二十三年(1390年)、帝は温納實哩が別部と讐殺していると聞き、甘肅都督の宋晟らに諭して厳しく兵を備えさせた。
- 翌二十四年(1391年)、使を遣わして延安・綏徳・平凉・寜夏で馬を互市したいと請うた。帝は「番人は黠くて詐りが多い。互市の求めが我が中國を覘うものでないとどうして分かろう。その馬を利として害を虞れなければ、失うものは必ず多い。聴すべきでない。今後、来る者はことごとく京師へ送れ」と言った。
- 当時、西域の囘紇で来貢する者の多くが哈瑪爾に遮られ、他の道から来る者があると、また兵を遣わして邀え殺した。帝は聞いて怒り、八月、都督僉事の劉真に宋晟を伴わせ兵を督して討たせた。真らは涼州から西へ出て、夜に乗じてまっすぐ城下に至り、四面から囲んだ。その知院の岳善が夜に城を縋って降った。黎明、温納實哩は馬三百餘匹を駆って囲みを突いて出た。官軍がその馬を争って取るあいだに、温納實哩は家属を率いて馬の後に随って遁れ去った。真らはその城を攻め破り、豳王の伯勒齊特穆爾・國公の阿桑爾結ら一千四百人を斬り、王子の伯勒齊の部属千七百三十人、金銀の印各一つ、馬六百三十匹を獲た。
- 二十五年(1392年)、使を遣わして馬と騾を貢いで請罪した。帝はこれを納れ、白金・文綺を賜った。