篇首の立伝者一覧
衛拉特――部族の由来と三王の冊封
- 衛拉特は蒙古の部落で、韃靼の西にある。元が滅びると、その強臣の孟克特穆爾がこの地を占拠した。彼が死ぬと部衆は三つに分かれ、その頭領は瑪哈穆特・太平・巴圖博囉といった。
- 成祖が即位すると使者を送って知らせ、永樂の初めにも鎮撫の逹哈特穆爾らを繰り返し遣わして諭し、あわせて瑪哈穆特らに文綺を等級をつけて賜った。
- 永樂六年(1408年)冬、瑪哈穆特らは諾衮達實らを額埓蘇に随行させて入朝させ、馬を貢いだうえで、あらためて冊封を願い出た。
- 翌七年(1409年)夏、瑪哈穆特を特進金紫光祿大夫・順寧王、太平を特進金紫光祿大夫・賢義王、巴圖博囉を特進金紫光祿大夫・安樂王に封じ、印と誥を賜った。諾衮逹實らへの宴と賜与は先例どおりとした。
- 八年(1410年)春、衛拉特はふたたび馬を貢いで恩に謝し、以後は年に一度の入貢が定例となった。このころ元主の布尼雅錫哩はその属下の阿嚕台とともに漠北にいたが、瑪哈穆特は兵を出して襲い、これを破った。
衛拉特――瑪哈穆特の増長と成祖の親征
- 八年、帝がみずから軍を率いて布泥雅錫哩と阿嚕台の兵を破ると、瑪哈穆特は上言して、早く寇を滅ぼす計を立てたいと願い出た。
- 十年(1412年)、瑪哈穆特はついに布尼雅錫哩を攻め殺した。そのうえで、旧元の傳國璽を献上したいが阿嚕台に途中で奪われる恐れがあるので、中國の側で阿嚕台を除いてほしいと上言し、さらに托克托布哈の子が中國にいるのでこれを送り返してほしいこと、部下の多くが従軍して功があるので賞賜を加えてほしいこと、衛拉特の兵馬は強いので武器を与えてほしいことを求めた。帝は「衛拉特は驕った。しかし相手にするまでもない」と言い、その使者に賜与を与えて帰らせた。
- 翌年、瑪哈穆特は詔勅を持った使者を留めて帰さず、さらに甘肅・寧夏から韃靼に帰附した者は多くが自分の親族だから返してほしいと求めた。帝は怒り、中官の海童に命じて厳しく責めさせた。冬、瑪哈穆特らは兵を擁して河で馬に水を飼い、いままさに侵入しようとしながら、口では阿嚕台を襲うのだと触れ回った。開平の守将がこれを報じ、帝は親征の詔を下した。
- 翌年夏、和拉和實衮に駐蹕したところ、三部は領内の兵を根こそぎ動員して戦いを挑んできた。帝は安逺侯柳升・武安候鄭享らに先陣で敵の様子を探らせ、みずから鐵騎を率いて突撃し、大いにこれを破った。王子十餘人を斬り、部衆數千級を挙げ、二つの高い山を越えて圖拉河まで追撃した。瑪哈穆特らは身一つで逃れ、そこで凱旋した。
- 翌年春、瑪哈穆特らは馬を貢いで罪を謝し、さきに留め置いた使者も返した。言葉つきは低かった。帝は「衛拉特はもとより相手にするまでもない」と言い、その献上を受け、使者を館に留めた。
- 翌年、衛拉特は阿瀂台と戦って敗走した。まもなく瑪哈穆特が死んだ。海童は帰還して、衛拉特が命に背いたのは順寧(瑪哈穆特)のせいであり、順寧が死んだ以上、賢義・安樂の二王はいずれも撫することができる、と述べた。
衛拉特――托懽の台頭
- 帝はそこであらためて海童を遣わして太平・巴圖博囉をねぎらわせた。十六年(1418年)春、海童は衛拉特の貢使とともに来朝し、瑪哈穆特の子の托懽が爵位の継承を願い出た。帝はこれを順寧王に封じ、海童および都督蘇和囉海らに綵幣を持たせて太平・巴圖博囉および弟の恩克に賜わり、別に使者を遣わして故順寧王を祭らせた。以後、衛拉特はふたたび貢を奉った。
- 二十年(1422年)、衛拉特が哈密を侵掠したので朝廷が責めると、使者を送って謝罪した。
- 二十二年(1424年)冬、衛拉特の部属である賽音逹賚が来降した。所鎮撫に任じ、綵幣・襲衣・鞍馬を賜い、担当の役所に食糧・器具を支給させた。以後、帰順してきた者はすべてこの例によった。
- 宣徳元年(1426年)、太平が死に、子の鼐喇呼が嗣いだ。このころ托□(底本欠字)は阿嚕台と戦ってこれを破り、阿嚕台は穆納山と察罕諾爾のあたりへ逃れた。
- 宣徳九年(1434年)、托□(底本欠字)は阿嚕台を襲って殺し、使者を遣わしてこれを報告し、あわせて玉璽を献上したいと願い出た。帝は敕を賜って言った――王が阿嚕台を殺し、代々の仇を克服したのはまことに結構である。ただ王の言う玉璽が世々伝わってきたという件は、天下の帰趨はそこにあるわけではない。王が手に入れたのなら王が用いればよい、と。あわせて紵絲五十表裏を賜った。
- 正統元年(1436年)冬、成國公朱勇が、近ごろ衛拉特の托□(底本欠字)が兵で韃靼の多爾濟巴勒を追い立てており、併呑した暁にはますます強大になる恐れがあるとして、各辺境に命じて備蓄を広げ不虞に備えさせるよう求めた。帝はこれを嘉して容れた。
- まもなく托□(底本欠字)は内部で賢義・安樂の両王を殺し、その部衆をすべて手に入れて、みずから汗を称そうとした。部衆が承知しないので、皆で托克托布哈を立て、さきに併呑した阿嚕台の部衆をこれに帰属させ、自分は承相となって漠北に居した。喀喇泌などの諸部もみなこれに属した。ついで多爾濟巴勒を襲い破り、さらに朶顏の諸衛を脅し誘って、塞下をうかがった。
衛拉特――額森の専権と入貢の膨張
- 四年(1439年)、托懽が死に、子の額森が嗣いで太師淮王と称した。ここに北方の諸部はみな額森に服属し、托克托布哈は空名を持つだけで、もはや額森を制することができなくなった。入貢のたびに主(托克托布哈)と臣(額森)が並んで使者を出し、朝廷も二通の敕で答え、賜与はきわめて厚く、その妻子や部長にまで及んだ。
- 旧例では衛拉特の使者は五十人を超えなかったが、朝廷の爵位と賞賜を利として、年ごとに増えて二千餘人になった。たびたび敕を下しても約を守らず、使者は往来のあいだに殺掠を働き、また他部を引き連れて、中國の貴重で手に入りにくい品を要求し、少しでも満たされないとすぐに事を構えた。賜与する財物も年ごとに増えていった。
- 額森は哈密を攻め破り、王と王母を捕らえ、のちに返した。さらに沙州・赤斤蒙古の諸衛と婚を結び、烏梁海を破り、朝鮮を脅した。辺将たちは必ず大きな寇となると見てたびたび上奏したが、防禦を戒める敕が下るだけであった。
- 十一年(1446年)冬、額森は烏梁海を攻め、使者を大同に寄こして糧を乞い、あわせて守備太監の郭敬に会いたいと申し入れた。帝は敬に、会うな、糧を与えるなと敕した。
- 翌年、また宣府の守将楊洪に書を送ってきた。洪が報告すると、その使者を礼遇して返答せよと洪に敕した。
- ほどなく、その部衆で帰順してきた者が、額森は侵入を謀っており、托克托布哈がこれを止めたが額森は聴かず、まもなく諸番と約して中國に背こうとしている、と告げた。帝は詔して問いただしたが返答はなかった。
- このころ朝廷の使者が衛拉特に至ると、額森らの求めはすべて容れられた。衛拉特の使者はさらに三千人に増え、そのうえ人数を水増しして廩餼をだまし取った。禮部が実数を調べてそのぶんだけ与えたため、求めたものの五分の一しか得られず、額森は大いに恥じて怒った。
衛拉特――土木の変
- 十四年(1449年)七月、額森はついに諸番を誘い脅して道を分けて大挙侵入した。托克托布哈は烏梁海の兵で遼東を寇し、阿拉知院は宣府を寇して赤城を囲み、別に騎兵を遣わして甘州を寇し、額森みずからは大同を寇した。參將吳浩が猫児莊で戦死し、急報が相次いだ。
- 太監王振が帝を擁して親征させようとし、群臣は闕に伏して争ったが容れられなかった。大同の守将である西寧候宋瑛・武進伯朱冕・都督石亨らは陽和で額森と戦ったが、太監郭敬が監軍として諸将をことごとく掣肘したため軍律を失い、軍は全滅した。瑛と冕は死に、敬は草むらに伏して免れ、亨は逃げ帰った。
- 車駕が大同に至ると連日風雨が甚だしく、軍中ではしばしば夜驚が起きて人々は恐れた。郭敬が振に密かに進言し、ようやく軍を返した。
- 車駕が帰路で宣府に至ると、敵衆が軍の後方を襲った。恭順候吳克忠が防いだが敗れて戦死した。成國公朱勇と永順伯薛綬が四萬人を率いて続いたが、鷂兒嶺に至って伏兵が起こり、全軍が陥った。
- 翌日、土木に至った。諸臣は懐来に入って守りを固めるよう議したが、振は輜重を惜しんで急に行軍を止めた。額森はそこへ追いついた。土木は土地が高く、井戸を二丈掘っても水が出ず、水汲みの道はすでに敵に押さえられ、兵は渇き、敵騎はいよいよ増えた。
- 翌日、敵は大軍が動かないのを見て偽って退いた。振はにわかに営を南へ移せと命じ、軍が動き出したところで額森が騎兵を集めて四面から突いた。士卒は先を争って走り、隊列は大いに乱れ、敵は陣に躍り込んだ。六軍は総崩れとなり、死傷は数十萬に及んだ。英國公張輔・駙馬都尉井源・尚書鄺埜・王佐・侍郎曹鼐・丁鉉ら五十餘人が死に、振も死んだ。帝は蒙塵(敵中に落ちること)となった。
衛拉特――上皇の北狩と京師侵攻
- 中官の喜寧が随行していた。額森は車駕が至ったと聞いて驚き、はじめは信じなかったが、対面すると礼はきわめて恭しく、帝を弟の巴延特穆爾の営に居らせ、さきに捕らえた校尉の袁彬を侍らせた。
- 額森が逆謀を企てようとしたところ、大雷雨に遭って額森の乗馬が雷に打たれて死に、さらに帝の寝所に不思議な瑞兆が見えたので、思いとどまった。
- 額森は帝を擁して大同城に至り、金幣を要求した。都督郭登が白金三萬を与えた。登はさらに車駕を奪って城に入れようと謀ったが、帝が止めたので実現しなかった。額森はそのまま帝を擁して北へ向かった。
- 九月、郕王が監國の地位からそのまま皇帝に即位し、帝を太上皇帝と尊んだ。
- 額森は上皇をお返しすると偽り、大同・陽和を経て紫荊關に至り、これを攻め入って、まっすぐ京師に迫った。兵部尚書于謙が武清伯石亨・都督孫鏜らを督して防いだ。額森は大臣に出迎えさせて上皇を渡すと持ちかけたが果たせず、亨らは戦ってしばしばこれを破った。額森は夜のうちに逃げ、良鄉から紫荊に至るまで大いに掠奪して出ていった。都督楊洪はさらにその残衆を居庸で大破した。
- 額森はなお上皇を伴って北へ行った。額森は夜、御幄の上に赤い光が奕々として龍が蟠るように見えるのを遠望し、大いに驚き怪しんだ。額森はまた妹を上皇に差し出そうとしたが上皇は退けたので、ますます敬服し、しばしば羊馬を殺し酒を置いて寿を祝い、稽首して君臣の礼を行った。
- 景泰元年(1450年)、額森はふたたび上皇を奉じて大同に至ったが、郭登は入れず、なおも上皇を奪おうと謀った。額森はこれに気づいて引き揚げた。
- 当初、額森には中國を軽んじる心があったが、京師を犯して中國の兵の強さと城池の堅固さを見て、はじめて大いに気をくじかれた。おりしも中國はすでに賊奄の喜寧を誘い出して誅し、額森はその間諜を失った。さらに托克托布哈と阿拉知院があらためて使者を遣わして朝廷と和し、いずれも部下を撤収させたので、額森も兵を息めることを決意した。
衛拉特――上皇の還御
- 秋、帝は侍郎李實・少卿羅綺・指揮馬政らに璽書を持たせて托克托布哈と額森に諭させた。だが托克托布哈と額森が遣わした必喇滿哈嗎爾らはすでに到着していた。帝はそこであらためて都御使楊善・侍郎趙榮に指揮・千戸らを率いて赴かせた。
- 額森は李實に、両国は速やかに和するのが利であり、迎えの使者が夕方に着けば大駕は朝に発つ、ただ一二人の大臣を寄こせばよい、と語った。實が帰り、善らが至って上皇を奉迎する意を伝えると、額森は「上皇が帰られたら、なお天子となるのか」と問うた。善は「天位はすでに定まっており、二度と改まらない」と答えた。
- 額森は善を引いて上皇に会わせ、そのうえで上皇の出立を送る宴を設けた。額森は地に座して琵琶を弾き、妻妾が酒を奉った。額森が善を顧みて「都尉史、坐せよ」と言ったが、善は坐そうとしなかった。上皇が「太師が坐れと言うのだから坐るがよい」と言い、善は旨を承けて坐り、すぐに立って、その間を周旋した。額森は善を顧みて「礼を心得ている」と言った。巴延らもそれぞれ餞の宴を設けた。
- 終わって額森は土の臺を築き、上皇をその上に坐らせ、妻妾と部長を率いて臺の下に居並んで拝し、それぞれ器物や飲食を献じた。上皇が発つと、額森と部衆はみな半日ほどの行程まで送り、そこで額森と巴延は馬を下りて地に伏し、慟哭して「皇帝が行かれる。いつまた相まみえられようか」と言い、長いことしてから去った。なお頭目七十人を遣わして京まで送らせた。
- 上皇が帰還したのち、衛拉特は毎年入貢し、上皇のもとへも別に献上があった。そこで帝は衛拉特を絶って使者を送るのをやめようとしたが、額森はこれを送ってほしいと願い出た。尚書の王直・金濂・胡濙らが相次いで、絶てばかえって釁を起こすと述べた。帝は「使者を遣わしたことには前例のいきさつがあり、ただ釁を増すだけだ。かつて衛拉特が入寇したとき、使者がいなかったわけではあるまい」と言った。そこで額森に敕して、以前に使者が行ったときは小人の言葉のやりとりで好を失うに至った、いま朕はもう遣わさない、太師がこれを請うのはまったく益がない、と伝えた。
衛拉特――托克托布哈の滅亡と額森の僭号
- 額森と托克托布哈は互いに疑い合っていた。托克托布哈の妻は額森の姉である。額森はその姉の子を太子に立てようとしたが、聞き入れられなかった。額森はまた托克托布哈が中國と通じて自分を謀るのではないかと疑い、ついに兵を治めて攻めた。托克托布哈は敗走し、額森は追って殺し、その妻子を捕らえ、その人畜を諸部属に分け与えた。そのうえで勝ちに乗じて諸蕃を脅し、東は建州・烏梁海に、西は赤斤蒙古・哈密に及んだ。
- 三年(1452年)冬、使者を遣わして翌年の正旦を賀した。尚書王直らがあらためて答使を送るよう請い、兵部に下して議させた。兵部尚書于謙は、臣の職は司馬であって戦を知るのみ、行人の事は聞くべきところではない、と述べた。詔してなお使者を遣わさないこととした。
- 翌年冬、額森はみずから立って汗となり、次子を太師として来朝させた。その書には「大元田盛大汗」と称し、末尾に「添元元年」とあった。田盛とは天聖の意である。返書では「衛拉特汗」と称した。
- まもなく額森はさらに朶顏の部を黄河の穆納の地へ移るよう迫った。額森は強さを恃んで日ごとに驕り、酒色に荒んだ。
- 六年(1455年)、阿拉知院が額森を攻めてこれを殺した。韃靼部の保喇はさらに阿拉を殺し、額森の母と妻、およびその玉璽を奪った。
衛拉特――額森死後の衰退
- 額森の子の和爾固逹らは噶爾干河のあたりへ移り住み、弟の巴圖王、甥の烏固納らは哈密に身を寄せた。巴圖王は哈密王の母の弟である。英宗が復辟して三年(天順三年・1459年)、哈密が封を請うたので、詔して巴圖王に都督僉事、烏固納に指揮僉事を授けた。
- 額森が死んでから衛拉特は衰え、部属は分散して、その襲爵の代次はたどることができない。
- 天順年間、衛拉特の阿實克特穆爾がたびたび使者を遣わして入貢した。朝廷は彼が額森の孫であるとして、例に従って厚く賜与した。また徹哩克という者はつねに保喇と讐殺をくり返し、また拜薩哈勒という者はつねに哈密とともに来朝した。その長は克實克といい、かなり強く、しばしば韃靼の小王子を糾合して入寇した。克實克が死ぬと揚汗王が雄を称して精兵數萬を擁し、克實克の弟の阿實克が太師となった。
- 成化二十三年(1487年)、楊汗王が辺を犯そうと謀り、哈密の哈商が来て告げた。楊汗は不利とみて去ったが、哈密を恨み、兵が帰るときにその逹都拉を掠めた。
- 𢎞治の初め、衛拉特で太師と称する者は、一人は和爾和里、一人は呼嚕古逹衮といい、いずれも使者を遣わして朝貢した。土魯番が哈密を占拠すると、都御史許進は金帛でこの二部を厚く誘い、兵をもって土魯番を撃退させた。その部長の博囉王は博斯呼に屯駐していた。
- 正徳十三年(1518年)、土魯番が肅州を犯すと、守臣の陳九疇は博囉王に綵幣を贈り、虚に乗じて土魯番の三城を襲い破らせ、殺害と捕虜は萬をもって数えた。土魯番は逼られるのを恐れてこれと和した。
- 嘉靖九年(1530年)、ふたたび婚議をめぐって仇隙を生じた。土魯番はいよいよ強く、衛拉特はしばしば困り敗れ、また部下はすぐ内輪で殺し合って多くが中國に帰し、哈密もその隙に乗じて侵掠した。博囉王は支えきれず、やはり内附を求めたが、朝廷は許さず関外へ出したので、その最期は分からない。
朶顏――三衛の設置
- 朶顏・福飲・㤗寕は高皇帝が置いた三衛である。その地は烏梁海といい、黒龍江の南、漁陽塞の北にあたる。漢の鮮卑、唐の吐谷渾、宋の契丹がいずれもこの地である。元では大寧路の北境であった。
- 高皇帝が天下を得ると、東蕃の遼王・惠寧王・朶顏元帥府があいついで内附を乞うたので、古の會州の地に大寧都司と營州の諸衛を置き、子の權を寧王に封じて鎮守させた。だがしばしば韃靼に掠奪された。
- 洪武二十二年(1389年)、㤗寧・朶顏・福餘の三衛指揮使司を置き、その頭目にそれぞれ自分の部衆を率いさせて声援とした。大寧から前は喜峰口に至り宣府に近いのを朶顏といい、錦・義から廣寧を経て遼河に至るのを㤗寧といい、黄泥窪から瀋陽・鐵嶺を越えて開原に至るのを福餘という。ひとり朶顏だけは地が険しくて強かった。久しくして三衛はみな叛き去った。
- 成祖が燕から兵を起こしたとき、寧王が背後を衝くのを憂え、永平から大寧を攻めて入り、寧王を脅そうと謀って、三衛に厚く賂して来させた。成祖が去るとき寧王は郊外まで見送ったが、三衛はこれに従い、一声で皆が起って、寧王を擁して西へ関内に入った。成祖はさらにその三千人を選んで奇兵とし、諸戦に従わせた。天下が定まると寧王を南昌に移し、行都司を保定に移し、大寧の地をすべて割いて三衛に与え、さきの功に報いた。
朶顏――永樂・宣德年間の帰順と離叛
- 帝が践阼した初め、百戸の裴雅錫哩らを遣わして知らせた。永樂元年(1403年)、あらためて指揮の蕭尚都に敕を持たせて諭させた。
- 翌年夏、頭目の托爾呼爾察ら二百九十四人が尚都に随って来朝し、馬を貢いだ。托爾呼爾察を左軍都督府都督僉事とし、哈喇威岱を都指揮同知として朶顏衛の事を掌らせ、安春と圖卜愼をともに都指揮僉事として福餘衛の事を掌らせ、呼喇博勒呼を都指揮僉事として泰寧衛の事を掌らせた。残りの三百五十七人にはそれぞれ指揮・千戸・百戸などの官を授け、誥・印・冠帯および白金・鈔幣・襲衣を賜った。以後、三衛の朝貢は絶えなかった。
- 三年(1405年)冬、来朝した頭目の額森を泰寧衛掌衛事都指揮僉事に命じ、その多爾多卧らにもそれぞれ差をつけて昇進と賞賜を与えた。
- 四年(1406年)冬、三衛が飢えて馬を米に換えたいと請うた。帝は担当の役所に命じ、馬の優劣を格付けしてそれぞれ倍の価で与えさせた。
- 久しくして三衛は密かに韃靼に付いて辺境の守備を掠め、さらに馬市にかこつけて来ては情勢をうかがった。帝は詔を下して厳しく責め、馬をもって罪を贖わせた。十二年(1414年)春、遼東に馬三千頭を納めたので、帝は守将の王眞に敕して馬一頭につき布四匹を与えさせた。
- のちにまた叛いて阿嚕台に付いた。二十年(1422年)、帝が阿嚕台を親征した帰りにこれを撃ち、楚埒河でその部衆を大いに破り、斬獲は数知れなかった。降って来た者は釈して殺さなかった。
- 仁宗が即位すると、三衛に自新を許す詔を下した。洪熙元年(1425年)、安春がその印を寇に奪われたので改給を請い、許された。冬、三衛の頭目烏哲圖が帰順してきたので千戸を授け、鈔幣・襲衣・鞍馬を賜い、担当の役所に食糧・器具を支給させた。以後、帰順してきた者はすべてこの例によった。
- 宣宗の初め、三衛が永平・山海のあたりを掠めたので、帝がみずから討とうとすると、三衛の頭目はみな謝罪して入貢した。もとのように撫して受け入れた。七年(1432年)、泰寧衛の印を改給した。秋、朶顏の頭目哈喇哈斯、福餘の頭目安春、泰寧の頭目吒和齊らが長く朝廷に恭しく仕えたことにより、織金の綵幣を表裏ともに差をつけて加賜した。
朶顏――正統年間、衛拉特への従属
- 正統年間、しばしば遼東・大同・延安の境を寇したが、獨石守備の楊洪がこれを撃破し、頭目の多囉特穆爾を捕らえた。
- まもなくまた衛拉特の額森に付き、泰寧の卓泌は額森の娘を妻とした。いずれも密かにその耳目となり、入貢のたびに名を変え、しかも印を互いに融通し合った。さらに東は建州の兵と合して廣寧前屯に入った。帝はその反覆を憎んだ。
- 九年(1444年)春、成國公朱勇に恭順候吳克忠を伴わせて喜峰から、興安伯徐亨を界領から、都督馬亮を劉家口から、都督陳懷を古北から、それぞれ精兵一萬人ずつを率いて分かれて討たせた。勇らは辺を侵した者を捕らえて闕下に送り、あわせて掠奪された人畜を奪い返した。
- 卓泌らは肥河衛の使者を拘えて人を遣って殺した。肥河衛の頭目伯勒格が克埓琨徳楞で戦い、卓泌は大敗した。衛拉特もまた道を分けて截ち殺し、建州も兵を出して攻めたので、三衛は大いに困窮した。
- 十二年(1447年)春、總兵曹義・參将胡源・都督焦禮らが分かれて東辺を巡ったところ、三衛の入寇に出会ってこれを撃ち、三十二級を斬り、七十餘人を捕らえた。その年、衛拉特の賽堪王がまた朶顏の鼐爾布哈を撃ち殺し、大いに掠めて去った。額森が続いて至ると、朶顏・泰寧はいずれも支えきれず降を乞い、福餘だけが諾衮江へ逃れた。三衛はいよいよ衰え、衛拉特の強さを畏れて背くことができず、なお毎年貢を致したが、それは中國の賜与を利とするためだけであった。また辺将に討ち殺されたことを心に含み、つねに密かに報復を図っていた。
- 十四年(1449年)夏、大同參将の石亨らがまた辺を盗む者を箭谿山で撃ち、五十人を捕斬した。三衛はいよいよ怨んだ。秋、衛拉特の大挙侵入に従い、英宗はこの一戦によって北狩することになった。
- 景泰の初め、朝廷はなお使者を遣わして三衛を撫し諭したが、三衛は額森の指示を受けて、しばしば時季外れに入貢し、多くの使者を往来させて中國を探らせた。
朶顏――景泰・天順年間の動揺
- やがて額森が彼らを虐使し、さらに朶顏の部を黄河の穆納の地へ移るよう迫ったので、三衛はいずれも堪えられず、密かに衛拉特の内情を中國に通報し、辺境の近くに屯駐させてほしいと請うた。
- 旧制では三衛は毎年三度の入貢で、その貢使はみな喜峰口で照合して入ることになっており、急報があるときだけ永平から進むのを許した。このころ三衛の使者に獨石や萬全右衛から来る者があり、辺臣がこれを問題としたので、敕して止めさせた。
- 天順年間、隙に乗じて諸辺を掠め、また密かに韃靼の保喇と通じて、しばしばその手引きをした。遣わした使者が保喇の使臣と一緒に、中國が韃靼を厚遇しているのを見て、賞を加えるよう請うたが得られず、大いに憤って、いよいよ保喇と結んだ。
- 成化元年(1465年)、頭目の多羅干らが兵を率いて保喇に従い、大挙して遼河に入った。ついで西は瑪哈噶に付き、東は海西の兵と合してたびたび塞に入り、また時おり単独で廣寧・義州のあたりに出没した。
- 九年(1473年)、遼東總兵の歐信が偏将の韓斌らを用いて興中でこれを破り、麥州まで追って六十二級を斬り、馬・家畜・器械を数千に近く獲た。その年、喜峰の守将吳廣が貪賄によって三衛の心を失い、三衛が侵入した。廣は下獄して死んだ。翌年また開原・慶雲を掠めたが、參将周俊が撃退した。
朶顏――馬市の復活と韃靼の圧迫
- 十四年(1478年)、詔して三衛の馬市を復活させた。もともと国家は遼東に馬市を三つ設け、一つは城東、一つは廣寧に置いて、いずれも三衛のために用意した。正統年間、その部衆がたびたび叛いたので廃止していた。おりしも韃靼の們都埒が暴強で三衛を侵掠し、三衛の頭目はみな塞下に逃げ避けてしばしば飢え困り、馬市の復活を請うたが再三許されなかった。ここに至って廵撫の陳鉞が帝に説き、はじめて許された。們都埒が死ぬと伊斯瑪音が兵権を握り、三衛はまたしばしばこれに苦しめられた。
- 二十二年(1486年)、韃靼の別部の諾海が三萬の衆を擁して大寧・金山に入り、老河を渉って三衛の頭目巴延らを攻め殺し、人畜を掠め去ること萬をもって数えた。三衛はそこで老弱を連れて辺境の外れに逃げ隠れた。辺臣の劉潺がこれを報告し、詔して秣と糧を与え手厚く恤んだ。
- 𢎞治の初め、しばしば古北・開原の境を盗み掠めたので、守臣の張玉・總兵の李杲らが計を用いて市に来た者三百人を誘い出して斬った。そこで三衛は北のかた陀羅該と結んで復讐を求め、しばしば廣寧・寧遠などを寇した。
- このころ海西の尚呼は通貢を許されないことから中國に叛き、しばしば兵で諸蕃の入貢を阻んだので、諸蕃はみなこれを恨んだ。朝廷がやがて尚呼の帰順を許すと、撫寧の孟克特穆爾らはみな尚呼を口実に遼陽に入寇し、殺掠がはなはだ多かった。韃靼の小王子もたびたび三衛を掠めたので、三衛はそれぞれ関に叩いて罪を申し出、朝廷はこれを許したが、うわべだけの恭順にすぎなかった。
朶顏――正德・嘉靖年間の侵犯
- 朶顏都督の和爾丹の子は険を恃んで驕り、たびたび貢の増加と賞の加増を請うたが許されなかった。
- 正徳十年(1515年)、和爾丹の子の巴爾斯が千騎で鮎魚關を壊して馬蘭峪に入り大いに掠め、參将の陳乾が戦死した。さらに五百騎で板場谷に入り、千騎で神山領に入り、また千餘騎で水開洞に入った。報告が届き、副總兵の桂勇に防がせると、和爾丹は退いて紅羅山に屯駐し、巴爾斯を匿して、その子の逹哈らを入朝させて謝罪させた。詔して不問に付した。
- 十三年(1518年)、帝が巡幸して大喜峰口に至り、三衛の頭目を召して関下に集め宴労しようとしたが、実現しなかった。巴爾斯が辺を犯したとき朝廷は詔してその職を削っていた。巴爾斯が死ぬと、その子の伯格が入貢した。嘉靖九年(1530年)、詔して伯格に父の爵を与えた。
- ところが逹哈はみずから和爾丹の子でありながら職を得られないことを怒り、前後して冷口・擦崖・喜峰のあたりを掠めた。參將の袁繼勲らは防禦を怠ったとしていずれも逮治された。
- 十七年(1538年)春、指揮の徐顥が泰寧部の九人を誘い殺したので、その頭目の巴爾逹噶が衆を率いて大清堡を寇した。總兵の馬永が撃って斬った。その属下の博遜が朶顏の部衆を率いてまた侵入し、鎮守少監の王永は戦って敗績した。
- 二十二年(1543年)冬、墓田谷を攻め囲んで守備の陳舜を殺した。副總兵の王繼祖らが救援に赴き、三十餘級を撃ち斬った。その年、詔して旧設の三衛馬市を罷め、あわせて新設の木市も罷めた。秋、三衛はまた韃靼を導いて遼州を寇し沙河堡に入り、守将の張景福が戦死した。
朶顏――哈州兒と諳逹
- 三衛がくり返し辺を犯したのは、実は朶顏部の哈州兒と陳通事の仕業であった。二人はともに中國人で、捕虜となってそのまま三衛に用いられた者である。
- 二十九年(1550年)、韃靼の諳逹が畿東を犯そうと謀り、哈舟兒が潮河川の路を案内した。諳逹が兵を白廟の古北に近いあたりへ移すと、哈舟兒は敵はすでに退いたと偽って告げたので辺の備えが緩み、諳逹はそのまま鴿子洞・曹榆溝から入って畿甸に直接侵入した。のちに諳逹が馬市を開くよう請うと、哈舟兒はまた往来してこれを誘い阻んだ。三十年(1551年)、薊遼總督の何棟が捕らえて京に送り、誅に伏させた。
- 朶顏の托干は諳逹の子の錫林阿の妻の父である。四十二年(1563年)、古北の哨卒が関を出て朶顏に撲殺された。まもなく托干が関に叩いて賞を求めたので、副總兵の胡鎮が伏兵を置いてこれを捕らえた。總督の楊選は錫林阿を牽制する計として、托干を拘留し、その子らに代わる代わる人質を務めさせた。三衛はこれを深く恨み、諳逹を導いて順義と三河を掠めさせた。選は罪を得た。
朶顏――萬曆年間の長安
- 萬歴の初め、朶顏の長安がいよいよ強くなり、賞を要求して思うようにならないと、たびたび衆を糾合して掠奪し、諸蕃の貢道を遮った。
- 十二年(1584年)秋、また土黙特を導いて四千騎で三山・三道溝・錦川などを分かれて掠めた。守臣の李松は急ぎ長安らを討つよう請うたが、朝議は従わず、わずかにその月々の賞を革めただけであった。まもなくまた千騎で劉家口を犯し、官軍が防いだが殺傷は相当であった。ここに至って長安はいよいよ跋扈して恣にし、東は土黙特と通じ、西は博和木逹と婚を結んで諸辺を騒がせた。
- 十七年(1589年)、韃靼の東西二部と合して遼東を寇した。總兵の李成梁がこれを追ったが官軍は大敗し、八百人が殲滅された。さらに二年後(1591年)、獨石路を大いに掠めた。
- 二十二年(1594年)、また衆を擁して中後所を犯し、小屯臺に攻め入った。副總兵の趙夢麟・秦得倚らが力戦してこれを退けた。翌年(1595年)、密かに喜峰口に入ったが、官軍がその頭目の小郎兒を捕らえた。
- 二十九年(1601年)、長安は董呼哩らとともに帰順し、寧前の木市の復活を請うたので許された。
- 三十四年(1606年)冬、また韃靼の班布爾實・巴延台吉らを糾合して一萬騎で山海關に迫ったが、總兵の姜顕謨が撃退した。長安はさらに三千騎で義院界をうかがったが、辺将に備えがあったので引き揚げた。ほどなく喜峰に出向き、班勒布の入寇はあらかじめ知らなかったと自ら申し立てた。守臣がそのまま報告し、詔して長安に貢と市を復させ、撫賞を例に加えて頒給した。
- 長安が死ぬと諸子はしだいに衰え、三衛はみな静まった。崇禎の初め(1628年)、察罕と哈喇烏蘇で戦ってこれに勝ち、殺獲は萬をもって数え、捷を報告した。まもなく三衛はみな大清に服属したという。