明史卷三百二十二 列傳第二百二十 外國三 日本
日本の概況
- 日本はいにしえの倭奴國で、唐の咸亨の初めに日本と改めた。東海に近く日の出るところにあることによる名である。
- 地は海に囲まれ、ただ東北だけが大山で限られている。五畿七道三島があり、あわせて百十五州、五百八十七郡を統べる。その小国数十はみな服属している。国の小さいものは百里、大きいものでも五百里を超えず、戸数の少ないものは千、多くても一、二万を超えない。
- 国主は代々「王」を姓とし、群臣もまた世襲の官である。宋より前はみな中国と通じ、朝貢は絶えなかった。事は前史に具わっている。
- ただ元の世祖はたびたび趙良弼を遣わして招いたが来なかったので、忻都・范文虎らに命じて舟師十万を率いて征伐させたところ、五龍山に至って暴風に遭い、軍はことごとく沈んだ。のちたびたび招いても来ず、元の世が終わるまでついに通じることはなかった。
洪武年間の通交と倭寇
- 明が興って高皇帝が即位すると、方國珍・張士誠が相次いで誅せられ服したので、諸豪の亡命者がしばしば島人を糾合して山東の海辺の州県に入寇した。
- 洪武二年(1369年)三月、帝は行人の楊載を遣わしてその国に詔諭し、あわせて入寇の理由を問いただし、朝すべきなら来庭せよ、さもなくば兵を修めて自ら固めよ、もし必ず寇盗を働くというなら将に命じて征くのみである、王よこれを図れ、と告げた。日本王の良懐は命を奉ぜず、ふたたび山東を寇し、転じて温州・台州・明州の海辺の民を掠め、さらに福建沿海の郡を寇した。
- 洪武三年(1370年)三月、また萊州府同知の趙秩を遣わして責め咎めさせた。海を渡って析木崖に至りその境に入ったが、関を守る者は拒んで入れなかった。趙秩が書を良懐に送ると、良懐は趙秩を招き入れた。趙秩は中国の威徳を諭したが、詔書には臣たらざるを責める言葉があった。
- 良懐は言った。わが国は扶桑の東にあるとはいえ、中国を慕わなかったことはない。ただ蒙古は我と対等であるのに、我を臣妾にしようとした。わが先王は服さなかったが、そこで趙という姓の臣を遣わして甘言で我を誘い、その言葉が終わらぬうちに水軍十万が海岸に並んでいた。天の霊によって雷霆と波濤が起こり、一時にその軍はすべて覆った。今、新しい天子が中夏に帝たり、天使もまた趙姓である。良弼の子孫ではないか。またも甘言で我を誘って襲うつもりであろう、と。そして左右に目配せして兵を差し向けさせようとした。
- 趙秩は動じることなく、ゆっくりと言った。わが大明の天子は神聖にして文武を兼ね、蒙古の比ではない。私もまた蒙古の使者の子孫ではない。兵をもってしたければ我に兵を向けるがよい、と。良懐は気を沮まれ、堂を下りて趙秩を迎え、きわめて手厚く礼遇した。
- 良懐は僧の祖來を遣わして表を奉り臣を称し、馬および方物を貢ぎ、あわせて明州・台州二郡で掠われた人口七十余人を送り返した。洪武四年(1371年)十月に京に至り、太祖はこれを嘉して使者に宴を賜い賜与した。その俗が仏を尊ぶことを思い、西方の教えで導けると考え、僧の祖闡・克勤ら八人に命じて使者を送って帰国させ、良懐に大統暦および文綺・紗羅を賜った。
- この年、温州を掠めた。洪武五年、海鹽・澉浦を寇し、また福建の海上の諸郡を寇した。洪武六年、於顯を總兵官として海に出て倭を巡らせたが、倭は萊州・登州を寇した。
- 祖闡らは着くとその国で教えを説き、その国人はかなり敬信したが、王は傲慢無礼で二年間これを拘留し、洪武七年(1374年)五月に京に還った。倭は膠州を寇した。
- 当時、良懐は年少で、持明という者がこれと立位を争い、国内は乱れていた。この年七月、その大臣が僧の宣聞溪らを遣わして書を中書省に上り、馬および方物を貢いだが表がなかったので、帝は退けるよう命じ、なおその使者に賜って帰らせた。
- ほどなくその別島の守臣である氏久が僧を遣わして表を奉り来貢したが、帝は国王の命がなく、しかも正朔を奉じていないとして、これも退けてその使者には賜与し、礼臣に命じて牒を移して分を越えた私貢の非を責めさせた。また頻りに入寇し掠奪することについて、中書に命じて牒を移して責めさせた。
- そこで洪武九年(1376年)四月、僧の圭廷用らを遣わして来貢しあわせて謝罪した。帝はその表の文言に誠がないのを憎み、詔を降して戒め諭し、宴と賜与は制のとおりにした。
- 洪武十二年(1379年)に来貢した。洪武十三年、ふたたび貢いだが表がなく、ただその征夷將軍の源義滿が丞相に奉る書を持つだけで、書の言葉もまた倨傲であったので、その貢を退け、使者に詔を持たせて咎めさせた。
- 洪武十四年(1381年)、ふたたび来貢したが、帝は再度これを退け、礼官に命じて書を移してその王を責め、あわせてその征夷将軍を責め、征伐しようとする意を示した。
- 良懐は上言した。臣は聞く、三皇が極を立て五帝が宗を禅ったが、ただ中華にのみ主があって、夷狄には君がないというのか。乾坤は浩蕩として一主の独占する権ではなく、宇宙は寛洪であって諸邦を作って分け守らせている。そもそも天下とは天下の天下であって、一人の天下ではない。
- 臣は遠く弱い倭に居り、狭小の国で、城池は六十に満たず、封疆は三千に足りないが、なお足るを知る心を存している。陛下は中華の主となり万乗の君でありながら、城池は数千余、封疆は百万里あって、なお足らざるの心を抱き、常に滅ぼし絶やす意を起こされる。そもそも天が殺機を発すれば星宿は入れ替わり、地が殺機を発すれば龍蛇は陸を走り、人が殺機を発すれば天地は反覆する。昔、堯舜に徳があって四海が来賓し、湯武が仁を施して八方が貢を奉った。
- 臣は天朝に戦を興す策があると聞くが、小邦にもまた敵を防ぐ図がある。文を論ずれば孔孟の道徳の文章があり、武を論ずれば孫呉の韜略の兵法がある。また陛下が股肱の将を選び精鋭の師を起こして臣の境を侵しに来ると聞くが、水沢の地・山海の洲にはおのずからその備えがある。どうしてひざまずいて路に奉ろうか。順っても必ずしも生きるとは限らず、逆らっても必ずしも死ぬとは限らない。賀蘭山の前で相まみえ、いささか勝負を試みるまでのこと。臣に何の懼れがあろう。もし君が勝ち臣が負ければ上国の意に満ちようが、もし臣が勝ち君が負ければかえって小邦の羞となる。古より講和を上とし、戦を罷めるを強とする。生霊の塗炭を免れ、庶民の艱難を救うため、特に使臣を遣わして丹陛に叩頭させる。ただ上国よ、これを図られよ、と。
- 帝は表を得て甚だ怒ったが、ついに蒙古の轍を鑑みて兵を加えなかった。
- 洪武十六年(1383年)、倭が金鄉・平陽を寇した。洪武十九年(1386年)、使者を遣わして来貢したが退けた。
- 翌年(洪武二十年)、江夏侯の周徳興に命じて福建の海辺の四郡に行かせ形勢を視察させ、衛所の城で要害に当たらないものは移し置き、民戸は三丁から一を取って戍卒に充てた。こうして城十六を築き、巡檢司四十五を増やし、卒一万五千余人を得た。また信國公の湯和に命じて浙東・浙西の諸郡を巡視させ海防を整えさせ、城五十九を築き、民戸で四丁以上の者は一人を戍卒とし、五万八千七百余人を得て諸衛に分けて戍らせ、海防は大いに整った。
- 閏六月、福建に海船百艘、広東にその倍を備えさせ、九月に浙江で会して倭を捕らえさせることとしたが、やがて実行されなかった。
- これより先、胡惟庸が逆を謀り、日本を助けに藉りようとして、寧波衛指揮の林賢と厚く結び、偽って林賢の罪を奏して日本に謫居させ、その君臣と交通させた。ほどなく林賢の職を復すことを奏して使者を遣わして召し、ひそかにその王に書を致して兵を借りて自分を助けさせようとした。
- 林賢が還ると、その王は僧の如瑶を遣わし兵卒四百余人を率いて入貢と偽り称させ、あわせて巨大な蝋燭を献じたが、その中に火薬と刀剣を隠していた。着いたときには胡惟庸はすでに敗れていて計は行われず、帝もまだその狡猾な謀を知らなかった。数年を経てその事がはじめて露見し、そこで林賢を族滅し、日本に対する怒りはとりわけ甚だしく、断交を決意して、もっぱら海防を務めとした。
- しかしそのころ王子の滕祐夀という者が来て国学に入っており、帝はなお手厚く待遇した。洪武二十四年(1391年)五月、特に観察使を授けて京師に留めた。
- のち祖訓を著し、征伐しない国十五を列挙したが、日本もその中にあった。これ以来、朝貢は来ず、海上の警報もまたしだいに息んだ。
永樂年間の朝貢
- 成祖が即位すると、使者を遣わして登極の詔をその国に諭した。永樂元年(1403年)、さらに左通政の趙居任・行人の張洪を僧の道成とともに遣わした。出発しようとしたところ、その貢使がすでに寧波に達していた。
- 礼官の李至剛が、旧例では蕃使が中国に入るとき私に兵器を携えて民に売ってはならないので、担当官に敕してその舶を調べさせ、禁を犯した者はことごとく籍にして京師に送るべきだと奏した。帝は言った。外夷が貢を修めるのに、険しい道を踏み危うきを渡り、遠くから来る費用は実に多い。旅費の助けに持ってくる物があるのも人情である。どうして一概に禁令で拘束できようか。その兵器についても時価に准じて買い上げ、教化に向かう心を阻むな、と。
- 十月、使者が至り、王の源道義の表と貢物を奉った。帝は手厚く礼遇し、官を遣わしてその使者とともに帰らせ、道義に冠服・亀鈕の金章および錦綺・紗羅を賜った。
- 翌年(永樂二年)十一月、来て皇太子冊立を賀した。当時、對馬・臺岐の諸島の賊が海辺の居民を掠めていたので、その王に諭して捕らえさせたところ、王は兵を発してその衆をことごとく殲滅し、その首魁二十人を縛って、永樂三年(1405年)十一月に朝に献じ、あわせて貢を修めた。
- 帝はますますその誠を嘉し、そこで行人の潘賜を中官の王進とともに遣わして、その王に九章の冕服および銭鈔・錦綺を等を加えて賜って帰らせた。献じられた者たちはその国に自ら処置させることとした。使者は寧波に至って、その者たちをことごとく甑に入れて蒸し殺した。
- 翌年(永樂四年)春、僉都御史の俞士吉を遣わして璽書を持たせて褒め嘉し、賜与は手厚く、その国の山を封じて壽安鎮國之山とし、御製の碑文をその上に立てた。六月、使者が来て冕服を賜ったことを謝した。
- 永樂五年・六年、頻りに入貢し、あわせて捕らえた海寇を献じた。使者が帰るとき、仁孝皇后の撰した勸善・内訓の二書を賜りたいと請うたので、ただちにそれぞれ百部を給するよう命じた。十一月、再び貢いだ。十二月、その国の世子の源義持が使者を遣わして父の喪を告げたので、中官の周全に命じて祭らせ、恭獻と諡を賜り、あわせて賻を致した。また官を遣わして敕を持たせ義持を日本國王に封じた。
- そのころ海上でまた倭の警報を告げてきたので、ふたたび官を遣わして義持に掃討捕縛を諭した。永樂八年(1410年)四月、義持は使者を遣わして謝恩し、ほどなく捕らえた海寇を献じたので、帝はこれを嘉した。
- 翌年(永樂九年)二月、あらためて王進を遣わして敕を持たせ褒賞し、物貨を買い上げさせた。その君臣は王進を阻んで帰らせまいと謀ったが、王進はひそかに舶に乗って別の道から逃げ帰った。これ以来、久しく貢がなかった。
- この年、倭が盤石を寇した。永樂十五年(1417年)、倭が松門・金鄉・平陽を寇した。捕らえた倭寇数十人を京に連れて来た者があり、廷臣は正法に処すよう請うたが、帝は「刑をもって威すのは徳をもって懐けるに如かない。返すがよい」と言った。そこで刑部員外郎の吕淵らに敕を持たせて責め咎めさせ、罪を悔いて自ら新たにさせ、掠われた中華の人もまた送り返させた。
- 翌年(永樂十六年)四月、その王は使者を吕淵らに随わせて来貢し、海寇が入り乱れていたので貢使が上達できなかった、その無頼の盗み働く者どもは実は臣の知るところではない、罪を許して朝貢を認めてほしいと述べた。帝はその言葉が順であるとして許し、使者への礼遇はもとのとおりにした。しかし海寇はなお絶えなかった。
- 永樂十七年(1419年)、倭船が王家山島に入ったので、都督の劉榮が精兵を率いて疾駆して望海堝に入った。賊数千人は二十艘に分乗して直ちに馬雄島に至り、進んで望海堝を囲んだ。劉榮は伏兵を発して出撃し、奇兵でその帰路を断った。賊は櫻桃園に奔ったので、劉榮は兵を合わせて攻め、斬首七百四十二、生け捕り八百五十七であった。劉榮を京に召して廣寧伯に封じた。これ以来、倭は遼東をうかがえなくなった。
- 永樂二十年(1422年)、倭が象山を寇した。
宣徳・正統・景泰年間
- 宣徳七年(1432年)正月、帝は四方の蕃国がみな来朝するのに日本だけが久しく貢がないことを思い、中官の柴山に命じて琉球に往かせ、その王から日本に転じて諭させ、敕を賜った。翌年夏、王の源義教が使者を遣わして来たので、帝は報いて白金・綵幣を賜った。秋にもまた至った。宣徳十年(1435年)十月、英宗の嗣位により使者を遣わして来貢した。
- 正統元年(1436年)二月、使者が帰るとき、王と妃に銀・幣を賜った。四月、工部が、宣徳年間には日本の諸国にみな信符・勘合を給していたが、今、改元したばかりであるから例として改めて給すべきだと言い、許された。
- 正統四年(1439年)五月、倭船四十艘が台州の桃渚、寧波の大嵩の二千戸所を続けざまに破り、さらに昌國衛を陥れ、大いに殺掠をほしいままにした。
- 正統八年(1443年)五月、海寧を寇した。これより先、洪熙のとき、黄巖の民の周來保・龍巖の民の鍾普福が徭役に困窮して叛いて倭に入り、倭が寇するたびに嚮導となった。このとき倭を導いて樂清を犯し、先に上陸して偵察したが、まもなく倭が去り、二人は村に残って食を乞い、捕らえられて極刑に処され、その首を海上に梟された。
- 倭は性が狡猾で、常に方物と武器を載せて海辺に出没し、隙があれば武器を張って侵掠をほしいままにし、隙がなければ方物を陳べて朝貢と称した。東南の海辺はこれに苦しんだ。
- 景泰四年(1453年)に入貢したが、臨清に至って居民の貨を掠め、ある指揮が問いただしに行くと殴られてほとんど死にかけた。担当官が捕らえて処罰するよう請うたが、帝は遠人の心を失うことを恐れて許さなかった。
- これより先、永樂の初めに、日本は十年に一貢、人は二百まで、船は二艘までとし、武器を携えてはならず、違えれば寇として論ずると詔し、そこで二艘を入貢用として賜った。のちにはことごとく制のとおりでなくなった。宣徳の初めに要約を申し定め、人は三百を超えず、舟は三艘を超えないこととした。
- ところが倭人は利を貪り、貢物のほか携えてくる私物が十倍に増え、例として代価を給すべきものであった。礼官は言った。宣徳年間に貢いだ硫黄・蘇木・刀・扇・漆器の類は、時価を見積もって銭鈔を給し、あるいは布帛に折り支給したが、その数は多くなく、それでもすでに大きな利を得ていた。今もし旧制のままなら銭二十一万七千を給すべきで、銀の価も同じである。その代価を大きく減らし、銀三万四千七百余を給すべきだ、と。許された。使臣は不服で旧制のとおりにしてほしいと請い、詔して銭一万を増したが、なお少ないとして賜物を増やすよう求め、詔して布帛千五百を増したが、結局は不満のまま去った。
成化・弘治・正徳年間
- 天順の初め、その王の源義政は、前の使臣が天朝に罪を得たものの恩宥を蒙ったので、使者を遣わして謝罪しようとしたが、自ら申し出る勇気がなく、朝鮮王に書を移して取り次ぎを請わせ、朝鮮が奏聞した。廷議は朝鮮に敕して事実を確かめさせ、老成で大体をわきまえた者を使者に選ばせ、以前のように騒ぎを起こさせないこととした。しかしやがて貢使も来なかった。
- 成化四年(1468年)夏、そこで使者を遣わして馬を貢ぎ謝恩し、制のとおり礼遇した。その通事三人はみずから、もとは寧波の村民で、幼いとき賊に掠われて日本に売られたのだと言い、ついでに帰省して墓参りしたいと請うたので許し、使臣と一緒に家に至って中国人を海に連れ出さないようにと戒めた。
- 冬、使臣の清啟がまた来貢したが、その配下が市中で人を傷つけたので、有司はその罪を治めるよう請うた。詔して清啟に付したところ、清啟は、法を犯した者は本国の刑を用いるべきで、帰国させて法どおり論じ治めることを許してほしいと奏し、あわせて自ら取り締まれなかった罪を認めた。帝はいずれも赦した。これ以来、使者はますます憚らなくなった。
- 成化十三年(1477年)九月に来貢し、佛祖通紀などの書を求めたので、詔して法苑珠林を賜った。使者はその王の意を述べて、常例のほかに賜与を増してほしいと請い、銭五万貫を賜るよう命じられた。成化二十年(1484年)十一月、ふたたび貢いだ。
- 弘治九年(1496年)三月、王の源義髙が使者を遣わして来たが、帰る途中、濟寧に至ってその配下がまた刀を持って人を殺したので、担当官がその罪を問うよう請うた。詔して今後は五十人だけ入京を許し、残りは船着き場に留め、防禁を厳しくすることとした。
- 弘治十八年(1505年)冬に来貢したが、そのとき武宗がすでに即位していたので、旧例どおり金牌・勘合を鋳て給するよう命じた。
- 正徳四年(1509年)冬に来貢した。礼官は、翌年正月の大祀慶成宴では、朝鮮の陪臣は殿の東の第七班にあるが、日本には従来の例がないので殿の西の第七班にしたいと言い、許された。礼官はまた、日本の貢物は従来三艘を用いたのに今は一艘だけなので、賜る銀・幣は船の数に応じるべきであり、しかも表文がないので敕を賜うか否かは上の裁断を仰ぎたいと言い、担当官に文を移して答えさせた。
- 正徳五年(1510年)春、その王の源義澄が使臣の宋素卿を遣わして来貢した。当時、劉瑾が権柄を盗んでおり、その黄金千両を受け取って飛魚服を賜った。これまでにないことであった。
- 宋素卿は鄞縣の朱氏の子で、名を縞といい、幼いとき歌唱を習っていた。倭の使者が見て気に入ったが、縞の叔父の澄がその代金を負っていたので、縞を代償に渡したのである。ここに至って正使となって蘇州に至り、澄と対面した。のち事が発覚し、法では死罪に当たったが、劉瑾がこれをかばい、澄はすでに自首したとして、いずれも罪を免れた。
- 正徳七年(1512年)、義澄の使者がまた来貢した。浙江の首臣は、今、畿輔・山東に盗賊が満ちており、使臣が遭遇して掠奪されるのを恐れるとして、貢物を浙江の官庫に納め、その表文だけを京師に送ることを請うた。礼官は兵部と会議し、南京の守備官に命じてその地で宴を賜って帰らせ、附進の方物にはみな全額の代価を与えて遠人が教化に向かう心を阻まないようにするよう請い、許された。
寧波の争貢
- 嘉靖二年(1523年)五月、その貢使の宗設が寧波に至り、ほどなく宋素卿が瑞佐とともにまた至って、互いに真偽を争った。宋素卿は市舶太監の賴恩に賄賂を贈り、宴のとき宋素卿の席を宗設の上に置き、船は後から来たのに先に検査を通させた。
- 宗設は怒って宋素卿と闘い、瑞佐を殺し、その船を焼き、宋素卿を追って紹興城下に至った。宋素卿は他所に逃げ隠れて免れた。凶徒の一党は寧波に還り、通る所を焼き掠め、指揮の袁璡を捕らえ、船を奪って海に出た。都指揮の劉錦が海上まで追ったが戦死した。
- 巡按御史の歐珠がこれを奏聞し、あわせて宋素卿の申し立てとして次のように述べた。西海路の多羅氏義興という者はもと日本の統轄に属し入貢の例がないが、貢道は必ず西海を経なければならず、正徳朝の勘合はこの者に奪われたので、やむを得ず弘治朝の勘合をもって南海路から出発した。寧波に至ってその偽を詰られたことから釁が開いたのだ、と。
- 章は礼部に下された。部の議は、宋素卿の言は信じがたく入朝を聴すべきではないが、釁は宗設から起こったもので、宋素卿の一党は殺された者が多く、以前に蕃に投じた罪はあるとはいえすでに先朝の宥赦を経ているので問うべきではない、ただ宋素卿に帰国を宣諭し、その王に咨を移して勘合の有無を調べて処置させるべきだ、というものであった。帝はすでに允可した。
- 御史の熊蘭・給事中の張翀が交々章を上って、宋素卿の罪は重く許すべきでないと言い、あわせて賴恩および海道副使の張芹・分守參政の朱鳴陽・分巡副使の許完・都指揮の張浩を処罰し、関を閉ざして貢を絶ち、中国の威を振るい、狡猾な寇の計をやめさせるよう請うた。
- 議がまさに行われようとしていたとき、ちょうど宗設の一党の中林・望古多羅が逃げ出した舟が暴風で朝鮮に漂着し、朝鮮人が撃って三十級を斬り、二人の賊を生け捕って献じた。給事中の夏言はそこで浙江に逮送し担当官と会して宋素卿とともに取り調べるよう請い、給事中の劉穆・御史の王道を遣わした。嘉靖四年(1525年)に至って獄が成り、宋素卿および中林・望古多羅はいずれも死罪と論じられて繋獄され、久しくして皆、獄中で病死した。
- そのころ琉球の使臣の鄭繩が帰国するので、日本に伝え諭させ、宗設を捕らえて献じ、袁璡および海辺で掠われた人を返させ、さもなくば関を閉ざして貢を絶ち、おもむろに征討を議すると告げさせた。
- 嘉靖九年(1530年)、琉球の使臣の蔡瀚という者が道すがら日本を経たので、その王の源義晴が表を託して、さきに本国に事が多く干戈が道をふさいで正徳の勘合が東都に届かず、そのため宋素卿は弘治の勘合を捧げて行ったのだと言い、望みを許して遣わし、あわせて新しい勘合と金印を賜り、常のとおり貢を修めさせてほしいと乞うた。礼官はその文書を検めて印篆がないことを確かめ、倭は詐りが多く信じがたいとして、琉球王に敕して伝え諭し、なお前の命に従わせるべきだと言った。
- 嘉靖十八年(1539年)七月、義晴の貢使が寧波に至り、守臣が奏聞した。当時、貢が通じないことすでに十七年であった。巡按御史に敕して三司の官を督して調べさせ、まことに誠心をもって帰順しているなら制のとおり送り遣わし、そうでなければ追い返し、あわせて居民が交通することを厳しく禁じさせた。
- 翌年二月、貢使の碩鼎らが京に至り、前の請いを重ねて申し、嘉靖の新しい勘合を賜り、宋素卿および元の留め置いた貢物を返してほしいと乞うた。部の議は、勘合はにわかに給すべきでなく、必ず旧を納めて新に換えさせ、貢期は十年を限り、人は百を超えず、舟は三を超えないこととし、それ以外は許すべきでないとし、詔して議のとおりとした。
- 嘉靖二十三年(1544年)七月、また来貢したが、期日に及ばず、しかも表文がなかったので、部臣は受け入れるべきでないとして退けた。その者たちは互市の利を求めて海辺に留まって去らなかった。巡按御史の髙節は沿海の文武の将吏の罪を治め、奸悪な有力者の交通を厳禁するよう請い、旨を得て実行されたが、内地の奸人どもがその交易を利として多くかくまったので、ついに絶やしきれなかった。
嘉靖の大倭寇
- 嘉靖二十六年(1547年)六月、巡按御史の楊九澤が言った。浙江の寧波・紹興・台州・温州はみな海に臨み、境は福建の福州・興化・漳州・泉州の諸郡に連なり、倭患がある。衛所の城池および巡海副使・備倭都指揮を設けてはいるが、海寇の出没は無常で、両地の官は互いに統属せず、制禦が難しい。往例のとおり特に巡視の重臣を遣わして海辺の諸郡をすべて統べさせ、事権が一つに帰して威令が行われやすくなるようにしてほしい、と。廷議はこれを善しとし、副都御史の朱紈を浙江巡撫として福州・興化・漳州・泉州・建寧の五府の軍事を兼制させた。
- ほどなくその王の義晴が使者の周良らを遣わして期日に先んじて来貢させた。舟四艘、人六百を用い、海外に泊まって翌年の貢期を待った。守臣が阻むと、風のせいだと言い訳した。十一月に事が聞こえ、帝は期日に先んじるのは制ではなく、しかも人と船が定額を越えているとして、守臣に敕して強いて帰らせた。
- 十二月、倭賊が寧波・台州の二郡を犯し、大いに殺掠をほしいままにし、二郡の将吏はともに罪を得た。
- 翌年六月、周良がまた貢を求め、朱紈が奏聞した。礼部は言った。日本の貢期および舟と人数は制に違うとはいえ、表の言葉は恭順であり、貢期からもさほど遠くない。一概に拒絶すれば航海の労は憐れむべきであり、少しでも寛容にすれば宗設・宋素卿の事が鑑となる。朱紈に敕して嘉靖十八年の例にならい、五十人を送り上らせ、残りは嘉賓館に留めて相応に犒賞を加え、諭して帰国させるべきである。互市や防守の事は朱紈がよく処置せよ、と。允可された。
- 朱紈は五十人では少なすぎると力説し、そこで百人を都に赴かせた。部の議は百人だけに賞を与え、残りには賞を止めた。周良は、貢舟は高大で勢い五百人を要する、中国の商舶が海に入るとしばしば島に隠れて寇となるので一艘を増やして寇に備えたのであって、あえて制に違えたのではないと訴えた。部の議は相応にその賞を増やし、あわせて百人という制はかの国の事情では遵行しがたいので、その貢舟の大小に応じて禁令を施すべきだとし、許された。
- 日本にはもともと孝宗・武宗の両朝の勘合が二百道近くあり、使臣はこれまで入貢のとき新しいものに換えるよう請い、その旧を納めさせていた。ここに至って周良は弘治の勘合十五道を持参し、その残りは宋素卿の子に盗まれ捕らえられずにいる、正徳の勘合は十五道を信として留め、四十道を返しに来たと言った。部の議は、いずれ旧をことごとく納めさせてはじめて新に換えることを許すべきだとし、これも允可された。
- そのころ日本の王は入貢していたが、その各島の諸倭は毎年のように海辺を侵掠し、奸悪な民がまたしばしばこれを引き入れていた。朱紈は厳しく禁令を申し渡し、交通した者を捕らえると命を待たず便宜で斬った。このため、もとより倭の内応の主であった浙・閩の有力な家は利を失って怨んだ。朱紈はまたたびたび疏を朝に上げ、有力な家が倭に通じていると明言したので、閩・浙の人はみなこれを憎み、閩ではとりわけ甚だしかった。
- 巡按御史の周亮は閩の産である。上疏して朱紈をそしり、巡撫を巡視に改めてその権を殺ぐよう請い、朝廷にいるその同党が助けたので、ついにその請いのとおりになった。さらに朱紈の官を奪い、擅殺の罪を織り上げたので、朱紈は自殺した。
- これ以来、巡撫を置かないこと四年、海禁はふたたび弛み、乱はいよいよ甚だしくなった。
- 祖制では浙江に市舶提舉司を設け、中官にこれを主らせ、寧波に駐して海舶が至ればその値を平定させ、制御の権は上にあった。ところが世宗が天下の鎮守中官をことごとく撤したとき、あわせて市舶も撤したので、海辺の奸人がその利を握った。
- はじめ市はなお商人が主宰していたが、蕃と通ずる禁が厳しくなると、貴官の家に移った。その代価を負う者はいよいよ甚だしく、厳しく催促すると危うい言葉で脅し、あるいは甘言で欺いて、決して代価を踏み倒しはしないと言った。倭はその資本を失って帰れず、すでに大いに恨んでいた。
- そのうえ汪直・徐海・陳東・麻葉といった大奸がもとよりその中に巣くい、内地で思いどおりにならないので、みな海島に逃れて主謀となり、倭は指揮に従い、誘われて入寇した。海中の巨盗はそこで倭の服飾・旗号を襲用し、船を分けて内地を掠め、大きな利を得ないことはなかった。そのため倭患は日ごとに激しくなった。
- そこで廷議はふたたび巡撫を設けることとし、嘉靖三十一年(1552年)七月、僉都御史の王忬をこれに任じたが、勢いはもはや撲滅できなくなっていた。
- 明の初め、沿海の要地に衛所を建て、戦船を設け、都司・巡視副使らの官に監督させ、制圧は周到緻密であった。ところが太平が久しく続くうちに船は破れ隊伍は空となり、警報に遭うと漁船を募って哨戒守備の用に充てた。兵は日ごろ練れておらず、船は専業でなく、寇の船が来るのを見るとそのつど風を望んで逃げ隠れ、上にはまたこれを統率して御する者がなかった。そのため賊の帆が指す所は残破されないことがなかった。
- 嘉靖三十二年(1553年)三月、汪直が諸倭を語らって大挙入寇し、艦を連ねること数百、海を蔽って至り、浙東・浙西、江南・江北の海辺数千里が同時に警報を告げた。昌國衛を破り、四月に太倉を犯し、上海縣を破り、江陰を掠め、乍浦を攻め、八月に金山衛を劫し、崇明および常熟・嘉定を犯した。
- 嘉靖三十三年(1554年)正月、太倉から蘇州を掠め、松江を攻め、さらに江北に趨って通州・泰州に迫った。四月、嘉善を陥れ、崇明を破り、ふたたび蘇州に迫り、崇徳縣に入った。六月、吴江から嘉興を掠め、柘林に還り屯し、縦横に往来して無人の境に入るようであった。王忬もどうすることもできなかった。ほどなく王忬は大同の巡撫に転じ、李天寵が代わり、また兵部尚書の張經に命じて軍務を総督させ、四方から大いに兵を徴して協力して進み掃討させた。
- このとき倭は川沙窪・柘林を巣として四方に出て掠奪した。翌年(嘉靖三十四年)正月、賊は舟を奪って乍浦・海寧を犯し、崇徳を陥れ、転じて塘棲・新市・横塘・雙林などを掠め、徳清縣を攻めた。五月、あらためて新たな倭と合して嘉興に突入し、王江涇に至ったところで張經に撃たれて千九百余級を斬られ、残りは柘林へ奔った。その他の倭はまた蘇州の境を掠め、江陰・無錫にまで及び、太湖に出入りした。
- おおむね真の倭は十の三、倭に従う者が十の七であった。倭は戦うとき掠ってきた人を駆り立てて軍の先鋒とし、法が厳しいのでみな死力を尽くした。一方、官軍はもとより弱く怯えて、行く先々で潰え奔った。
- 帝はそこで工部侍郎の趙文華を遣わして軍情を督察させた。趙文華は功罪を顛倒させ、諸軍はますます解体した。張經・李天寵はともに逮えられ、周珫・胡宗憲が代わったが、一月を越えて周珫は罷められ、楊宜が代わった。
- 当時、賊の勢いは蔓延し、江浙で蹂躙されない所はなかった。新たな倭は来ることますます多く、毒をほしいままにし、そのつど自ら舟を焼いて上陸し劫掠した。杭州の北新關から西へ淳安を剽掠し、徽州の歙縣に突き入り、績溪・旌徳に至り、涇縣を過ぎ、南陵に趨り、そのまま蕪湖に達して南岸を焼き、太平府へ奔り、江寧鎮を犯し、まっすぐ南京を侵した。倭は紅い衣に黄色い蓋をかざして衆を率い、大安徳門および夾岡を犯し、そのうえで秣陵關へ趨って去った。溧水から溧陽・宜興を流れ劫掠し、官兵が太湖から出たと聞いて武進を越えて無錫に至り、惠山に駐し、一昼夜に百八十余里を奔って滸墅に至り、官軍に囲まれ、楊林橋で追いつかれて殲滅された。
- この一戦、賊は六、七十人に過ぎなかったのに、数千里を経行し、殺され戦傷した者はほぼ四千人、八十余日を経てようやく滅んだ。これは嘉靖三十四年九月のことである。
- 應天巡撫の曹邦輔が捷報を上げた。趙文華はその功を妬み、倭が陶宅に巣くっているのを理由に、浙江・南直隷の兵を大いに集めて胡宗憲とともに自ら将い、さらに曹邦輔と合同掃討を約して道を分けて並び進み、松江の甎橋に営した。倭は精鋭を挙げて衝いてきて、ついに大敗した。趙文華は気を奪われ、賊はますます熾んになった。
- 十月、倭は樂清から上陸し、黄巖・仙居・奉化・餘姚・上虞を流れ劫掠し、殺され擄われた者は数え切れず、嵊縣に至ってようやく殲滅されたが、これもまた二百人に満たなかった。それが三府に深く入り込み、五十月を経てはじめて平らいだのである。
- それより先、一隊が山東の日照から東安衛を流れ劫掠し、淮安・贛榆・沭陽・桃源に至り、清河で雨に阻まれ、徐州・邳州の官兵に殲滅されたが、これも数十人に過ぎず、害を流すこと千里、殺戮は千余に及んだ。その強悍さはこのようであった。
- 趙文華は甎橋の敗以来、倭寇の勢いの甚だしいのを見た。柘林から周浦に移った者、および川沙の旧巣や嘉定の髙橋に泊まっている者は思いのままで、他に侵犯する者も絶える日がなかった。それなのに趙文華は寇が息んだと称して朝に還ることを請うた。
- 翌年(嘉靖三十五年)二月、楊宜を罷めて胡宗憲を代え、阮鶚を浙江巡撫とした。
胡宗憲と汪直
- そこで胡宗憲は、使者を遣わして日本国王に諭し、島の寇を禁じ取り締まらせ、蕃に通じた奸商を招き還らせ、功を立てれば罪を免ずることを許すよう請うた。旨を得ると、寧波の諸生である蒋洲・陳可願を遣わした。
- こうして陳可願が還り、その国の五島に至って汪直・毛海峯に遇い、日本は内乱で、王とその相はともに死に、諸島は互いに統属していないので、あまねく諭してはじめてその入寇を防げると聞いたと述べた。また薩摩洲という者があり、すでに帆を揚げて入寇したとはいえ本心ではなく、通貢・互市を乞い、賊を殺して自ら功を立てたいと願っている、と述べた。そこで蒋洲を留めて各島に伝え諭させ、陳可願を送り還したのであった。
- 胡宗憲が奏聞すると、兵部は言った。汪直らはもと編戸の民であり、帰順を称する以上ただちに兵を釈くべきなのに、それには全く触れず、ただ市を開き貢を通ずることを求め、隠然として属国のようにふるまっている。その奸計は測りがたい。督臣に命じて国威を振るい揚げ、厳重に備禦を加え、汪直らに檄を移して舟山の諸々の賊の巣を掃討させて身の証を立てさせ、まことに海疆が一掃されればおのずから恩賞があるとせよ、と。許された。
- 当時、両浙はみな倭の害を受け、なかでも慈谿の焼き殺しはとりわけ惨く、餘姚がこれに次いだ。浙西では柘林・乍浦・烏鎮・皂林のあたりがみな賊の巣となり、前後に来た者は二万余人であった。胡宗憲に速やかに方略を図るよう命じた。
- 七月、胡宗憲は、賊首の毛海峯が陳可願の帰還以来、一度は舟山で倭寇を破り、再び瀝表でこれを破り、さらにその一味を遣わして各島に招諭し、相次いで帰順しているとして、重い賞を加えるよう乞い、部は胡宗憲に便宜に行わせた。
- そのころ徐海・陳東・麻葉はちょうど兵を連ねて桐鄉を攻め囲んでいた。胡宗憲は計を設けて彼らを離間し、徐海はそこで陳東・麻葉を捕らえて降り、その残りの衆を乍浦でことごとく殲滅した。ほどなく梁荘で徐海を踏みつぶし、徐海も首を差し出し、残党はことごとく滅んだ。江南・浙西の諸寇はほぼ平らいだ。
- 一方、浙北の倭は丹陽を犯し、瓜洲を掠め、漕船を焼き、翌春にはまた如皋・海門を犯し、通州を攻め、揚州・髙郵を掠め、寳應に入り、そのまま淮安府を侵し、廟灣に集まり、年を越えてようやく克った。浙東の倭は舟山に盤踞したが、これも前後して官軍に襲われた。
- これより先、蒋洲は諸島に宣諭し、豐後に至って留められ、僧を山口などの島に往かせて禁じ取り締まるよう伝え諭させた。そこで山口都督の源義長は咨を具えて掠われた人口を送り返したが、その咨には国王の印を用いていた。豐後太守の源義鎮は僧の徳陽らを遣わして方物を具え表を奉って謝罪し、勘合を頒って貢を修めさせてほしいと請い、蒋洲を送り還した。
- さきに楊宜が遣わして海に出て哨探させていた鄭舜功が豐後島に至ったときにも、島主はやはり僧の清授を遣わし舟に付して来させて謝罪し、前後の侵犯はみな中国の奸商がひそかに諸島の夷の衆を引き入れたもので、義鎮らは実は知らないと述べた。
- そこで胡宗憲は疏を上げてその事を陳べ、蒋洲は使いすること二年、豐後・山口の二島を経たにすぎず、貢物はあっても印信・勘合がない、あるいは印信はあっても国王の名称がなく、いずれも朝典に違う。しかし彼らは貢を持って来たうえに掠われた人口を送り返しており、実に罪を畏れ恩を乞う意がある。その使者を礼をもって遣わし、義鎮・義長に伝え諭させ、転じて日本王に諭して、乱を唱えた諸々の首魁および中国の奸悪の徒を捕らえて献じさせ、そのうえではじめて通貢を許すべきだと言った。詔して許された。
- 汪直が海島に拠っていたころ、その一味の王滶・葉宗滿・謝和・王清溪らはそれぞれ倭寇を抱えて雄を張り、朝廷は伯爵と万金の賞を懸けて購ったが、ついに得られなかった。ここに至って内地の官軍はかなり備えができ、倭は横行はしても多く掃討され殺され、島ごと一人も帰れなかった例もあり、しばしば汪直を怨むようになったので、汪直はしだいに自ら安んじなくなった。
- 胡宗憲は汪直と同郡であり、汪直の母とその妻子を杭州に館し、蒋洲にその家書を持たせて招いた。汪直は家族が無事だと知ってかなり心を動かした。源義鎮らも中国が互市を許すというので喜び、そこで巨舟を装備し、その属の善妙ら四十余人を汪直らに随わせて来貢し交易させ、嘉靖三十六年(1557年)十月に舟山の岑港に着いた。
- 将吏は入寇と思って兵を並べて備えた。汪直はそこで王滶を遣わして胡宗憲に会わせ、我は好意で来たのになぜ兵を並べて我を待つのかと言わせた。王滶は毛海峯であり、汪直の養子である。胡宗憲はきわめて手厚く慰労し、心を指して他意なきことを誓った。
- ほどなく善妙らが舟山で副将の盧鏜に会ったとき、盧鏜が汪直を捕らえて献じよと命じ、その言葉が漏れて、汪直はますます疑った。胡宗憲は百方に説き諭したが、汪直はついに信じず、「まことにそうならば王滶を出してほしい。そうすれば私は会いに行く」と言った。胡宗憲はただちに遣わした。汪直はさらに一人の貴官を人質に求めたので、指揮の夏正を遣わした。汪直はこれを信として、葉宗滿・王清溪とともに来た。
- 胡宗憲は大いに喜び、きわめて手厚く礼をもって迎え、杭州で巡按御史の王本固に謁させたが、王本固は吏に付した。
- 王滶らはこれを聞いて大いに恨み、夏正を支解し、舟を焼いて山に登り、岑港に拠って固く守った。年を越えて新たな倭が大挙して至り、たびたび浙東の三郡を寇した。岑港にいた者はおもむろに柯梅に移り、新しい舟を造って海に出たが、胡宗憲は追わなかった。
- 十一月、賊は帆を揚げて南へ去り、泉州の浯嶼に泊まり、同安・惠安・南安の諸県を掠め、福寧州を攻め、福安・寧徳を破った。翌年四月、ついに福州を囲み、一月を経ても解かず、福清・永福の諸城はみな攻め壊され、興化に蔓延し、漳州に奔突し、その患いはことごとく福建に移り、潮州・広東の間もまた紛々として倭の警報が聞こえた。
- 嘉靖四十年(1561年)に至って浙東・江北の諸寇は順次平らいだ。胡宗憲はほどなく罪に坐して逮えられた。
- 翌年十一月、興化府が陥ち、大いに殺掠され、賊は平海衛に移り拠って去らなかった。はじめ倭が浙江を犯したとき、州県・衛所の城を破ること百を数えたが、府城を破ったことはなかった。ここに至って遠近が震動した。急ぎ俞大猷・戚繼光・劉顯の諸将を徴し、合撃してこれを破った。他の州県を侵犯した者もまた諸将に破られ、福建もまた平らいだ。
隆慶・万暦の倭寇
- その後、広東の巨寇である曾一本・黄朝太らは、いずれも倭を引き入れて助けとした。隆慶のときには碣石・甲子の諸衛所を破り、そのうえ化州・石城縣を犯し、錦囊所・神電衛を陥れ、吴川・陽江・茂名・海豐・新寧・惠來の諸県はことごとく焼き掠められ、転じて雷州・廉州・瓊州の三郡の境に入り、そこもまたその害を受けた。
- 萬歴二年(1574年)、浙東の寧波・紹興・台州・温州の四郡を犯し、また広東の銅鼓衛・雙魚所を陥れた。三年、電白を犯した。四年、定海を犯した。八年、浙江の韭山および福建の澎湖・東湧を犯した。十年、温州を犯し、また広東を犯した。十六年、浙江を犯した。
- しかしそのころ辺境の吏は嘉靖の禍に懲りて海防をかなり整えていたので、賊が来てもそのつど利を失った。広東を犯した者は蜑賊の梁本豪が引き入れたもので、勢いはとりわけ猖獗であったが、総督の陳瑞が諸軍を集めて撃ち、斬首千六百余級、その船百余艘を沈め、本豪も首を差し出した。帝はこれによって郊廟に告謝し、捷を宣べて賀を受けたという。
平秀吉と朝鮮の役
- 日本にはもともと王があり、その下で關白と称する者が最も尊い。当時は山城州の渠帥の信長がこれになっていた。あるとき狩りに出て、樹の下に臥している一人の男に出会った。男は驚いて起きて突きかかってきたので、捕らえて問いただすと、みずから平秀吉といい、薩摩洲の人の奴であると言った。雄健で敏捷、弁舌が立った。信長はこれを気に入り、馬を牧させ、木下人と名づけた。
- のちにしだいに事を用い、信長のために策を画き、二十余州を奪い併せ、そのまま攝津鎮守大将となった。参謀の阿奇支という者が罪を得たので、信長は秀吉に兵を統べて討たせた。ほどなく信長はその配下の明智に殺された。秀吉はちょうど阿奇支を攻め滅ぼしたところで変を聞き、部将の行長らとともに勝ちに乗じて兵を還してこれを誅し、威名はますます振るった。ほどなく信長の三子を廃し、僭って關白と称し、その衆をことごとく手中にした。萬歴十四年(1586年)のことである。
- そこでますます兵を治め、六十六州を征服し、さらに威をもって琉球・呂宋・暹羅・佛郎機の諸国を脅してみな貢を奉らせた。そして国王の居る山城を改めて大閣とし、広く城郭を築き、宮殿を建てた。その楼閣には九重に達するものもあり、婦女と珍宝をその中に満たした。その法の用い方は厳しく、軍が行くときは進むのみで退くことはなく、違えれば子や婿でも必ず誅したので、向かうところ敵がなかった。
- そこで文祿と改元し、あわせて中国を侵し、朝鮮を滅ぼしてこれを我が物にしようとした。かつての汪直の遺党を召して問い、唐人が倭を虎のように畏れると知って、気はますます驕り、いよいよ大いに兵甲を治め、舟艦を修繕した。配下と謀って、中国の北京に入る者は朝鮮人を導きとし、浙江・福建の沿海の郡県に入る者は唐人を導きとすることとした。琉球がその情を漏らすのを懸念して、入貢させなかった。
- 同安の人の陳甲は琉球で商いをしていたが、中国の害になることを恐れ、琉球の長史の鄭迥と謀って、進貢して封を請う使者に、その情を具さに告げに来させた。陳甲はまた故郷に戻り、その事を巡撫の趙參魯に陳べた。趙參魯が奏聞し、兵部に下され、部は咨を朝鮮王に移したが、王はただ嚮導だというのは誣告だと深く弁じただけで、自分が謀られているとは知らなかった。
- はじめ秀吉は広く諸鎮の兵を徴し、三年分の糧を貯え、みずから将いて中国を犯そうとした。ところがその子が死に、傍らに兄弟がなく、さきに豐後の島主の妻を奪って妾としていたのでそれが後患になることを懸念し、しかも諸鎮は秀吉の暴虐を怨んで、みな「この挙は大唐を襲うのではなく我らを襲うのだ」と言って、それぞれ異心を抱いた。このため秀吉は自ら行くことができなかった。
- 萬歴二十年(1592年)四月、その将の清正・行長・義智、僧の元蘇・宗逸らを遣わし、舟師数百艘を将いて對馬島から海を渡り、朝鮮の釜山を陥れ、勝ちに乗じて長駆し、五月に臨津を渡り、開城を掠め、兵を分けて豐徳の諸郡を陥れた。朝鮮は風を望んで潰えた。清正らはついに王京に迫り、朝鮮王の李昖は城を棄てて平壤へ奔り、さらに義州へ奔って、使者を絶え間なく遣わして急を告げた。倭はついに王京に入り、その王妃・王子を捕らえ、追撃して平壤に至り、兵を放って淫らに掠奪した。
- 七月、副總兵の祖承訓に命じて救援に赴かせ、平壤城外で倭と戦ったが大敗し、祖承訓はかろうじて身一つで免れた。八月、中朝はそこで兵部侍郎の宋應昌を經略、都督の李如松を提督として、兵を統べて討たせた。
- 当時、寧夏がまだ平らがないうちに朝鮮の事が起こり、兵部尚書の石星は策がなく、倭の言葉を話せる者を募って偵察させた。そこで嘉興の人の沈惟敬が募に応じ、石星はただちに游擊將軍の銜を仮して李如松の麾下に送った。
- 翌年(萬歴二十一年)、李如松の師は平壤で大勝し、朝鮮が失った四道はともに回復した。李如松は勝ちに乗じて碧蹄館に趨ったが、敗れて師を退いた。そこで封貢の議が起こり、中朝は沈惟敬を取り繕って和議の局を成した。事は朝鮮傳に詳しい。
- 久しくして秀吉が死に、諸倭は帆を揚げてことごとく帰り、朝鮮の患いもまた平らいだ。しかし關白が東国を侵してから前後七年、失った師は数十万、費やした餉は数百万に及び、中朝と朝鮮はついに勝算がなく、關白が死んではじめて兵禍がやみ、諸倭もみな退いて島の巣を守り、東南はようやく枕を安んずる日を得たのであった。秀吉は二代を伝えて亡んだ。
- 明の世が終わるまで倭に通ずる禁は甚だ厳しく、巷の小民は倭を指して互いに罵り合い、ひどいときにはそれで幼い子どもを黙らせたという。