明史卷三百二十三 列傳第二百一十一 外國四

篇首の立伝者一覧

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琉球――三王の並立と洪武年間の通交

  • 琉球は東南の大海の中にあり、古来中国と通じなかった。元の世祖が官を遣わして招諭させたが、到達できなかった。
  • 洪武の初め、この国には三人の王がおり、中山・山南・山北と称した。いずれも尚を姓とし、中山が最も強かった。
  • 洪武五年(1372年)正月、行人の楊載に即位建元の詔を持たせて告げさせた。中山王の察度は弟の㤗期らを楊載に随行させて入朝・方物の貢献をさせた。帝は喜び、大統歴と文綺・紗羅を差をつけて賜った。
  • 洪武七年(1374年)冬、㤗期が再び来貢し、あわせて皇太子への箋を奉った。刑部侍郎の李浩に文綺・陶器・鉄器を持たせて賜り、さらに陶器七万・鉄器千でその国から馬を買わせた。
  • 洪武九年(1376年)夏、㤗期が李浩に随って入貢し、馬四十匹を得た。李浩は「この国は紈綺を貴ばず、ただ磁器と鉄釜を貴ぶ」と報告し、以後の賞賜には多くこれらの品が用いられた。
  • 翌年、使を遣わして正旦を賀し、馬十六匹・硫黄千斤を貢いだ。さらにその翌年また貢いだ。山南王の承察度も使を遣わして朝貢し、礼と賜与は中山と同じにされた。
  • 洪武十五年(1382年)春、中山が来貢し、内官を遣わしてその使者を送り帰らせた。翌年、山南王とともに来貢したので、二王に鍍金の銀印を賜う詔が下った。
  • このころ二王は山北王と覇を争って互いに攻伐していたので、内史監丞の梁民に敕を賜わせ、兵を罷めて民を休ませるよう命じた。三王はいずれも命を奉じ、山北王の怕尼芝はただちに使を遣わし、二王の使とともに朝貢した。
  • 洪武十八年(1385年)にも貢献があり、山北王にも二王と同じく鍍金の銀印を賜い、あわせて二王には海舟を各一隻ずつ賜った。以後、三王はしばしば使を遣わして貢を奉り、中山王がとりわけ頻繁であった。
  • 洪武二十三年(1390年)、中山の来貢の際、その通事が私に乳香十斤・胡椒三百斤を携えて都に入り、門番に押収された。本来は官に没入すべきところ、詔でこれを返させ、なお鈔を賜った。
  • 洪武二十五年(1392年)夏、中山の貢使が王の甥および寨官の子を伴って来て、国学での修学を願い出た。許され、衣・巾・靴・襪と夏衣一襲を賜った。その冬、山南王もまた甥および寨官の子を国学に入れ、賜与は同様であった。以後、毎年冬衣・夏衣を賜るのが恒例となった。
  • 翌年、中山は二度入貢し、また寨官の子を国学で学ばせた。当時は国法が厳しく、中山の学生と山南の学生に詔書を非難した者があり、帝はこれを聞いて死罪に処したが、その国への待遇は従来どおりであった。
  • 山北王の怕尼芝はすでに没し、その嗣王は攀安知であった。洪武二十九年(1396年)春、使を遣わして来貢し、国学で学ぶ山南の学生を帰省させた。その冬にも再び来た。中山もまた寨官の子二人と女官生の姑魯妹ら二人を前後して修学に送り出した。中華の風を慕うことがこれほどであった。
  • 中山はさらに使を遣わして冠帯を賜るよう請うた。礼部に図を描かせ自製させようとしたが、その王が強く請うたので賜与し、あわせてその臣下の冠服も賜った。また職務に励むことを嘉して、閩中の舟工三十六戸を賜い、貢使の往来の便とした。

琉球――建文・永樂年間の冊封と三王の統合

  • 恵帝が位を嗣ぐと、官を遣わして登極の詔をその国に諭し、三王もまた貢を絶やさなかった。成祖が大統を承けると、詔諭は前と同様であった。
  • 永樂元年(1403年)春、三王がそろって来貢した。山北王が冠帯を請うたので、中山と同じく給賜する詔が下った。行人の邊信・劉亢に敕を持たせて三国に使いさせ、絨錦・文綺・紗羅を賜った。
  • 永樂二年(1404年)二月、中山王の世子武寧が使を遣わして父の喪を告げた。礼部に官を遣わして諭祭させ、布帛を賻として贈り、武寧に位を襲がせた。
  • 同年四月、山南王の従弟である王應祖もまた使を遣わして承察度の喪を告げ、前王に子が無く應祖に位を伝えたとして、朝命を加え冠帯を賜るよう乞うた。帝はいずれも聴き入れ、官を遣わして冊封した。
  • このとき山南の使臣が私に白金を携えて處州に赴き磁器を買った事が発覚し、罪に問われるべきであったが、帝は「遠方の人はただ利を求めることを知るだけで、禁令など知るまい」と言い、ことごとく赦した。
  • 永樂三年(1405年)、山南が寨官の子を国学に入れた。翌年、中山もまた寨官の子六人を国学に入れ、あわせて宦者数人を献じた。帝は「彼らも人の子である、罪も無いのに刑してよいものか」と言い、礼部に返させた。礼部の臣が「返せば帰化の心を阻むおそれがある。敕を賜って再びの進献を止めさせるにとどめては」と言うと、帝は「空言で諭すのは実事で示すに及ばない。返さずにおけば、彼らは媚を献じようとして必ず続けて進献するだろう。天地は物を生ずるを心とする。帝王ともあろう者が人の血統を絶ってよいか」と言い、結局返した。
  • 永樂五年(1407年)四月、中山王の世子思紹が使を遣わして父の喪を告げた。諭祭・賻の賜与・冊封は前の儀にならった。
  • 永樂八年(1410年)、山南が官生三人を国学に入れ、巾・服・靴・絛・衾・褥・帷帳を賜い、その後も頻繁に賜与があった。ある日、帝が群臣とこの話に及ぶと、礼部尚書の吕震が「昔、唐の太宗が学校を興したとき、新羅と百済がともに子弟を遣わして学ばせましたが、当時は廩餼を給するだけで、今日の賜与の手厚さには及びません」と言った。帝は「蛮夷の子弟が義を慕って来たのだ。衣食が常に足りてこそ学に向かう。これは我が太祖の美意であり、朕がどうして背けようか」と言った。
  • 翌年、中山が国相の子および寨官の子を国学に入れ、あわせて「右長史の王茂は輔翼して年久しく、国相に抜擢していただきたい。左長史の朱復はもと江西饒州の人で、祖の察度を輔けて四十余年怠らず、今年八十を越えたので、致仕して郷里に帰らせていただきたい」と言上した。許され、朱復と王茂をともに国相とし、朱復は左長史を兼ねたまま致仕、王茂は石長史を兼ねて国事に当たった。
  • 永樂十一年(1413年)、中山が寨官の子十三人を国学に入れた。このころ山南王の應祖は兄の逹勃期に弑され、諸寨官がこれを討ち誅して、應祖の子の他魯毎を主に推した。永樂十三年(1415年)三月に冊封を請い、行人の陳季若らを遣わして山南王に封じ、誥命・冠服および宝鈔一万五千錠を賜った。
  • 琉球が三王に分かれたとき、山北が最も弱かったので、その朝貢も最も稀であった。永樂三年に入貢した後、この年の四月にようやく再び入貢した。その後ついに二王に併合された。
  • 中山はいよいよ強大となり、国が富んだので一年に再貢・三貢することが常となった。天朝はその煩雑さを厭いながらも却けることができなかった。
  • その冬、貢使が帰路の福建で海舶を勝手に奪い、官軍を殺し、さらに中官を殴打して衣物を掠めた。事が聞こえると首謀者を戮し、残る六十七人はその主に付して自ら処断させた。翌年、使を遣わして謝罪した。帝の待遇は当初と変わらず、その修貢はいよいよ謹厚になった。
  • 永樂二十二年(1424年)春、中山王の世子尚巴志が来て父の喪を告げた。諭祭と賻の賜与は常の儀のとおりであった。

琉球――洪熙から成化年間の冊封

  • 仁宗が位を嗣ぐと、得人・方彝に詔を持たせてその国に告げさせた。洪熙元年(1425年)、中官に敕を持たせて巴志を中山王に封じた。
  • 宣德元年(1426年)、その王が冠服をまだ給されていないとして使を遣わして請うたので、皮弁服を製して賜った。宣德三年(1428年)八月、帝は中山王の朝貢がますます謹直であるとして、官に敕を持たせて労い、羅錦などの品を賜った。
  • 山南は宣德四年に二度貢いだのを最後に、帝の御世の間ついに再び来ず、これも中山に併合された。以後は中山一国のみが朝貢を絶やさなかった。
  • 正統元年(1436年)、その使者が「初めて閩に入ったとき貢物だけを報告し、下人の携えた海□(底本欠字)・螺殻を届け出なかったため、すべて官司に没収され、往来の資が欠乏した。憐憫を賜りたい」と述べた。例のとおり代価を給するよう命じた。
  • 翌年、貢使が浙江に至ると、市舶を掌る者がまたその携行品を没収登録するよう請うた。帝は「番人は貿易を利としている。この二品を取り上げて何の用があるか。ことごとく返せ」と言い、これを令とした。
  • 使者は「本国の陪臣の冠服はみな国初に賜ったもので、年久しく破れたので再び給していただきたい」と奏し、また「小邦は正朔を遵奉しているが、海道は険しく遠く、暦を受け取る使者は半年から一年かかって戻るので、常に遅れることを恐れている」と述べた。帝は「冠服は本邦で自製させよ。大統歴は福建布政司から給せよ」と言った。
  • 正統七年(1442年)正月、中山の世子尚忠が来て父の喪を告げた。給事中の余忭・行人の劉遜に尚忠を中山王に封じさせた。敕使に給事中を用いるのはここに始まる。余忭らは帰路にその黄金・沈香・倭扇の贈与を受け、偵事の者に察知されて、ともに獄に下され杖の後に釈された。
  • 正統十二年(1447年)二月、世子尚思逹が来て父の喪を告げた。給事中の陳傅・行人の萬祥を遣わして封じさせた。
  • 景㤗二年(1451年)、思逹が子無くして卒し、その叔父の金福が国事を摂した。使を遣わして喪を告げたので、給事中の喬毅・行人の童守宏に金福を王に封じさせた。
  • 景㤗五年(1454年)二月、金福の弟の㤗乆が「長兄の金福が没し、次兄の布里と兄の子の志魯が位を争って互いに傷つき、ともに死んだ。賜った印も毀れた。国中の臣民が臣を推して国事を摂させている。再び印を賜って遠藩を鎮撫していただきたい」と奏し、許された。翌年四月、給事中の嚴誠・行人の劉儉に泰乆を王に封じさせた。
  • 天順六年(1462年)三月、世子尚德が来て父の喪を告げた。給事中の潘榮・行人の蔡哲に王に封じさせた。
  • 成化五年(1469年)、その貢使の蔡璟が「祖父はもと福建南安の人で琉球の通事となり、璟に伝わって長史に抜擢された。制のとおり誥を賜い父母を贈封していただきたい」と述べた。章は礼官に下されたが、先例が無いとして取りやめとなった。
  • 翌年、福建按察司が「貢使の程鵬が福州に至り、指揮の劉玉と私に賄賂を通じた。ともに究治すべきである」と言上した。劉玉を処罰し、程鵬は宥した。
  • 成化七年(1471年)三月、世子尚圓が来て父の喪を告げた。給事中の邱𢎞・行人の韓文に王に封じさせたが、邱𢎞は山東で病没したので、給事中の官營に代わらせた。
  • 成化十年(1474年)、貢使が福建に至り、懐安の民の夫婦二人を殺し、家を焼き財を劫奪して、捕らえられなかった。翌年また貢献があり、礼官はそこで「二年に一貢、百人を超えず、私物を携行して道中を騒がせない」ことを令として定めるよう請い、帝は従って、敕を賜って王を戒めた。その使者が祖制のとおり毎年一貢とするよう請うたが、許されなかった。
  • さらに翌年、貢使が到着して東宮冊立に会い、朝鮮・安南の例にならって詔を賜って持ち帰らせてほしいと請うた。礼官は「琉球は日本・占城とともに海外に居り、例として詔は頒たない」と議し、敕を降して交錦・綵幣をその王と妃に賜った。
  • 成化十三年(1477年)、使臣が来てまた毎年一貢を請うたが、許されなかった。翌年四月、王が卒し、世子尚眞が来て喪を告げ爵を嗣ぐことを乞い、あわせて毎年一貢を請うた。礼官は「その国が連年上奏するのは市易を図ろうとするに過ぎない。近年遣わされる使者の多くは閩中の逃亡した罪人で、人を殺し火を放ち、奸狡百端、もっぱら中国の貨を貿易して外蕃の利を独占している。請いは許すべきでない」と言った。給事中の董旻・行人の張祥を遣わして封じさせたが、その請いには従わなかった。
  • 成化十六年(1480年)、使が来てまた祖訓の条章を引いて毎年一貢を請うたので、帝は敕を賜って戒め約した。成化十八年(1482年)、使者が至って再び同じ事を言上したので、初めと同様に敕を賜った。使者は陪臣の子五人を伴って来て修学を求め、南京国子監に属させた。
  • 成化二十二年(1486年)、貢使が来た際、その王が礼部に咨を移して五人を帰省させるよう請い、許された。

琉球――弘治から嘉靖年間

  • □(底本欠字)治元年(1488年)七月、その貢使が浙江から来た。礼官は「貢道は従来福建によっていたが、今は正道でもなく貢期でもない。却けるべきである」と言い、詔で認められた。その使臣がさらに国王の礼部宛文書を持って来て「昨年、東宮の妃冊立を知ったので使を遣わして賀するのであって、あえて制に背いたのではない」と述べた。礼官はそこで受納を請い、傔従を減らし賜与も減らして裁抑の意を示した。
  • 弘治三年(1490年)、使者が至って「近年の貢使は都に入るのを二十五人までしか許されない。物が多く人が少なくては手落ちが心配である」と述べた。詔で五人の増員を許し、閩に留まる傔従にも二十人を増して廩食を給し、計百七十人とした。
  • 当時、貢使が携えた土産物を閩人と互市する際、奸商が値を抑えつけ、有司もそれに乗じて掠め取っていた。使者が朝廷に訴えたので、詔でこれを禁じた。
  • 弘治十七年(1504年)、使を遣わして貢を補い、「小邦の貢物はいつも満刺加で買っているが、風に遭って期を失した」と述べた。宴と賜与は制のとおりにするよう命じた。
  • 正德二年(1507年)、使者が来て毎年一貢を請うた。礼官は許すべきでないと言ったが、当時は劉瑾が政を乱しており、特別に許された。
  • 正德五年(1510年)、官生の蔡進ら五人を南京国学に入れた。
  • 嘉靖二年(1523年)、礼官の議に従い、琉球は旧制どおり二年に一貢とし、百五十人を超えないよう敕した。
  • 嘉靖五年(1526年)、尚真が卒した。その世子尚清が嘉靖六年に来貢して訃を報せたが、使者は帰路の海で溺死した。嘉靖九年(1530年)に別の使を遣わして来貢し、あわせて冊封を請うたので、福建の守臣に勘査報告を命じた。嘉靖十一年(1532年)、世子が国中の臣民の状を奉ったので、給事中の陳侃・行人の高澄に節を持たせて封じに赴かせた。帰るとき、その贈物を却けた。
  • 嘉靖十四年(1535年)、貢使が至り、なお贈ろうとした黄金四十両を朝廷に進めたので、陳侃らに受け取らせる敕が出た。
  • 嘉靖二十九年(1550年)に来貢し、陪臣の子五人を伴って国学に入れた。
  • 嘉靖三十六年(1557年)、貢使が来て王尚清の喪を告げた。これより先、倭寇が浙江で敗れて還る途中で琉球の境に至り、世子の尚元が兵を遣わして迎え撃ち、大いに殲滅して、中国から掠われていた者六人を得ていた。ここに至ってこれを送還したので、帝はその忠順を嘉して賜与を加増し、給事中の郭汝霖・行人の李際春に尚元を王に封じさせた。使は福建に至って風に阻まれ渡海できなかった。

琉球――冊封の使者をめぐる議論(嘉靖三十九年以降)

  • 嘉靖三十九年(1560年)、その貢使もまた福建に至り、「世子の命を受けて来た。海中の風濤は測りがたく、倭寇も出没して定まらない。天使に万一のことがあってはと恐れる。正德年間に占城を封じた先例のように、人を遣わして表文・方物を代進させ、自分は本国の長史とともに封冊を受け取って持ち帰りたい。天使を遠く煩わせずに済む」と称した。巡按御史の樊獻科がこれを言上した。
  • 礼官は五つの不可を挙げた。第一、使を遣わして冊封するのは祖制であり、今使者が遥かに冊命を受けようとするのは君主への賜を草莽に委ねるもので不可。第二、使者はもと表を奉じて朝貢するために来たのに、官を遣わして代進させよと求めるのは、世子が専ら遣わした命を棄てるもので不可。第三、昔、正德年間に占城王が安南に侵され他所に逃れていたので、使者が敕命を持ち帰ったのは一時の便宜であり、国を失った例を引いて自国の君主になぞらえるのは不可。第四、梯航して道を通じるのは柔服の常であり、彼らが口実にするのは倭寇の警と風濤の険だけだが、それならば貢物の輸納や使臣の往来はどうして無事でいられるのか、不可。第五、かつて占城は封を受け取るに際してもなお王自らが使を遣わすよう懇請したのに、今の使者は世子の面命によるものでなく印信の文書も無い。軽々しくその言を信じて、もし世子が使を遣わされるのを至上の栄とし遥拝を非礼として封を受けず、改めて上書して使を請うたなら、誰が責を負うのか、不可。
  • 礼官は、福建の守臣に従来の詔のとおり事に当たらせ、封を受けぬうちに先に謝恩するのも先例に無いことなので、入貢だけを聴し、謝恩の表文は世子が封を受けた後に使を遣わして進めさせれば中国の大体が全うされる、と請うた。帝はその言のとおりにした。
  • 嘉靖四十一年(1562年)夏、使を遣わして入貢し謝恩した。翌年および嘉靖四十四年(1565年)にも入貢した。隆慶年間には合わせて四度貢献し、いずれも漂流した中国人を送還したので、天子はその忠誠を嘉して敕を賜って奨励し、銀・幣の賜与を加えた。

琉球――萬歴年間の襲封と領封の議

  • 萬歴元年(1573年)冬、その国の世子尚永が使を遣わして父の喪を告げ、爵の襲封を請うた。章は礼部に下され、福建の守臣に調査上奏させた。
  • 翌年、使を遣わして登極を賀した。萬歴三年(1575年)に入貢し、萬歴四年(1576年)春に再び貢いだ。同年七月、戸科給事中の蕭崇業・行人の謝杰に敕および皮弁の冠服・玉珪を持たせ、尚永を中山王に封じた。翌年冬、崇業らがまだ到着しないうちに、世子は再び使を遣わして入貢した。その後の修貢は常の儀のとおりであった。
  • 萬歴八年(1580年)冬、陪臣の子三人を南京国学に入れた。
  • 萬歴十九年(1591年)、使を遣わして来貢したが、まもなく尚永が卒した。礼官は「日本がまさに隣境を侵食している。琉球に王が無くてはならない。世子に速やかに襲封を請わせ、鎮圧の資とすべきである」と言い、許された。
  • 萬歴二十三年(1595年)、世子尚寧が人を遣わして襲封を請うた。福建巡撫の許孚逺は、倭の気配がまだ収まらないので、先臣の鄭曉が唱えた領封の議によって、官一員に敕を持たせて福建まで遣わし、その陪臣に直接受け取って帰国させるか、あるいは海に習熟した武臣一人を陪臣と同行させるよう請うた。礼官の范謙もその言のとおりに議したが、世子の表が到着するのを待って許すよう請うた。
  • 萬歴二十八年(1600年)、世子の表が至り、その陪臣は祖制どおり官を遣わすよう請うた。礼官の余繼登は「累朝の琉球冊封は、木を伐り舟を造るのに数年を経ることもあり、使者は風濤の険を踏み、小国は供応の煩に苦しむ。前議のとおりにすべきである」と言い、帝は認めた。今後の冊封は廉直勇武な武臣一人だけを遣わし、封を請う陪臣とともに赴かせ、前王を祭り新王を封じる礼儀は旧章どおりとし、なお彼の国の大臣の結状が届いてから行うよう命じた。
  • 翌年秋、貢使が結状を持って至り、なお文臣を遣わすよう請うた。そこで給事中の洪瞻祖・行人の王士禎に赴かせ、海寇の警報が収まってから渡海して事に当たるよう命じた。まもなく瞻祖が憂(喪)で去ったので、給事中の夏子陽に改めた。
  • 夏子陽は萬歴三十一年(1603年)二月に福建に至ったが、按臣の方元彥がまた海上に事多く警報が頻々であるとし、巡撫の徐學聚もあわせて武臣を遣わすよう上疏した。子陽と士禎は「属国への言は違えるべきでない。使臣の義として有終であるべきだ」として、成命を堅持し遠人を慰めるよう乞うたが、いずれの章にも返答が無かった。礼部侍郎の李廷機は、領封の当初の旨のとおり行い、武臣も遣わす必要は無いと言った。
  • そこで御史の錢桓と給事中の蕭近高が交々上章して不可を争い、「この件は欽命が定まる前に議すべきで、冊使をすでに遣わした後に言うべきでない。担当の役所に速やかに海船を造らせ、今年の渡海の期を誤らせないようにし、任務を終えて復命した後に画一の規を定め、まず文書で告げて海上で領封させ、永く遵守させるべきである」と述べた。帝はこれを納れ、萬歴三十三年(1605年)七月、子陽らに速やかに渡海して任務を果たすよう命じた。

琉球――日本の侵攻と明末の朝貢

  • このとき日本はまさに強盛で、琉球を呑滅する意があった。琉球は外に強隣を防ぎ、内は貢を修めて絶やさなかった。
  • 萬歴四十年(1612年)、日本は果たして精兵三千を国に入れ、その王を捕らえ、宗器を移し、大いに掠奪して去った。浙江総兵官の楊宗業がこれを言上し、海上の兵備を厳しく整えるよう乞うて、許された。
  • やがてその王は釈放されて帰り、再び使を遣わして貢を修めたが、国の疲弊がはなはだしかったので、礼官は十年に一貢の例を定めた。翌年は従来どおり貢を修め、さらに翌年も再び貢いだが、福建の守臣は朝命を遵守して却け返した。その使者は不満のうちに去った。
  • 萬歴四十四年(1616年)、日本に鷄籠山を取る謀があった。その地は台湾といい、福建にごく近い。尚寧が使を遣わして通報したので、詔を下して海上に警備させた。
  • 天啟三年(1623年)、尚寧はすでに没し、その世子尚豐が使を遣わして入貢と冊封を請うた。礼官は「旧制では琉球は二年に一貢であったが、後に倭寇に破られたので十年に改めた。今その国は休養してまだ久しくないので、暫定的に五年に一貢とし、新王の冊封を待って改めて議したい」と言い、許された。
  • 天啟五年(1625年)、使を遣わして入貢し冊封を請うた。天啟六年(1626年)にも再び貢いだ。当時は中国に事が多く、担当の科臣も使いに出るのを憚ったので、封典は久しく滞った。
  • 崇禎二年(1629年)、貢使がまた至って冊封を請うた。先例どおり官を遣わすよう命じたが、礼官の何如寵がまた険路と費用を理由に陪臣に領封させるよう請うた。帝は従わず、戸科給事中の杜三䇿・行人の楊掄を遣わし、礼を果たして帰らせた。
  • 崇禎四年(1631年)秋、使を遣わして東宮の冊立を賀した。以後、崇禎末に至るまで儀のとおり貢を修めた。後に両京が相次いで陥落し、唐王が福建で立ったときも、なお使を遣わして貢を奉った。天朝に虔んで仕えることは外藩の中で第一であったという。

吕宋――国の位置と初期の入貢

  • 吕宋は南海の中にあり、漳州からきわめて近い。
  • 洪武五年(1372年)正月、使を遣わして𤨏里など諸国とともに来貢した。
  • 永樂三年(1405年)十月、官に詔を持たせてその国を撫諭した。永樂八年(1410年)、馮嘉施蘭とともに入貢した。以後、長く来なかった。
  • 萬歴四年(1576年)、官軍が海寇の林道乾を追ってその国に至り、国人が討伐を助けて功があったので、再び朝貢した。

吕宋――佛郎機による簒奪

  • 当時、佛郎機は強盛で、吕宋と互市していたが、久しくしてその国が弱く奪えると見て、厚い賄賂を王に贈り、牛皮一枚ほどの土地を乞うて家を建てて住みたいと願った。王はその詐りを疑わずに許した。その者たちは牛皮を裂いて数千丈につなぎ、吕宋の地を囲んで約束どおりにせよと求めた。王は大いに驚いたが、すでに許諾していてどうにもならず、聴すほかなく、国法どおりわずかな税を徴した。
  • その者たちは土地を得るとただちに建物を造り城を築き、火器を並べて守備の設備を整え、うかがう計を進めた。やがてその無備に乗じてその王を襲殺し、その人民を追い出して国を占拠した。名は依然として吕宋だが、実は佛郎機である。
  • これより先、閩人はその地が近く富裕であるため、商販に赴く者が数万人に及び、しばしば長く留まって帰らず、子孫をもうけるまでになっていた。佛郎機が国を奪うと、その王は一人の酋を遣わして鎮めさせた。華人が変を起こすことを恐れて多くを追い帰し、留まった者はことごとく侵害と辱めを受けた。

吕宋――潘和五の蜂起

  • 萬歴二十一年(1593年)八月、酋の郎雷敝裹系朥が羙洛居を侵し、華人二百五十人を戦に使役した。潘和五という者がその哨官となっていた。蛮人は日中も酔い臥して華人に舟を操らせ、少しでも怠ると鞭打ち、死に至る者もあった。
  • 和五は「叛いて死ぬも、笞たれて死ぬも同じ死である。そうでなくてもいずれ戦死する。それならこの酋を刺殺して死を免れるにこしたことはない。勝てば帆を揚げて帰り、勝たずに縛られて死ぬとしても遅くはない」と言った。皆が同意し、夜にその酋を刺殺した。酋の首を持って大呼すると、蛮人たちは驚き起きたが何をしてよいか分からず、ことごとく刃にかかり、あるいは水に落ちて死んだ。
  • 和五らはその金宝・甲仗をすべて収め、舟を出して帰ったが、道を失って安南に至り、その国の人に掠奪された。ただ郭惟太ら三十二人だけが他の舟に便乗して帰還できた。
  • そのころ、酋の子の郎雷猫吝は朔霧に駐屯していたが、これを聞いて衆を率いて馳せつけ、僧を遣わして父の冤を陳べ、戦艦と金宝を返し仇人を戮して父の命に償うよう乞うた。巡撫の許孚遠が朝廷に言上し、両広の督撫に檄して礼をもって僧を送り返させ、惟太は法に照らして処断した。和五はついに安南に留まり、あえて帰らなかった。
  • 初め酋が戮されたとき、その部下で吕宋に居た者は華人をことごとく城外に追い出し、その住居を焼いた。猫吝が帰ると、城外に家を築いて住まわせた。折しも日本が寇するとの噂があり、猫吝は内通を患いとして再び駆逐を議したが、許孚遠がちょうど人を遣わして呼び戻したので、蛮人は道中の食糧を給して送り出した。しかし華商は利を好んで死をも顧みず、久しくしてまた集落を成した。

吕宋――機易山の妄言と華人虐殺

  • そのころ鉱税の使者が各地に出て、奸悪の徒が蜂起した。利を説く者に閻應龍・張嶷という者がおり、「吕宋の機易山はもとより金銀を産し、採れば年に金十万両・銀三十万両が得られる」と言い、萬歴三十年(1602年)七月に闕に詣って奏聞した。帝はただちに納れ、命が下ると朝廷中が驚き怪しんだ。
  • 都御史の溫純は上疏して言った。近ごろ中外の諸臣が鉱税の害を争って言上し、天聴に達している。今、広東では李鳯が婦女六十六人を辱め、私に財賄を運び出すこと巨舟三十艘・大扛三百に及び、勢いとして怒りを積んだ人々に殺されるに違いない。今のうちに撤収させたほうが、威福操縦の権を失わずに済む。緬の酋長は宝井のゆえに兵十万を提げて内地を侵そうとしており、西南の蛮も危うい。そこへ閩中の奸徒が機易山の事を告げてきた。その妄言はまるで芝居のようなのに、聡明な皇上が誤って聴かれるとは思いも寄らず、臣らは驚き、寝食も安からぬ。いずれ変が起こり禍が生じれば、国家の財を費やすこと幾百万か知れず、もし早く鎮められなければ、その患いは費財だけにとどまらない。
  • 溫純はさらに言った。海澄の市舶では髙寀がすでに年に三万金を徴しており、けっして力を惜しんで利を譲る者ではない。機易山は海外にあり、地の一面に金銀があって人が任意に採取できる道理も無い。どこから金十万・銀三十万を得てその言を実にするのか。朝命を借りて禁制の品を持ち出し、諸番を引き入れて不軌を謀るに過ぎず、公私を煩わせ海澄一邑を害するだけでは済まない。昔の倭患も、奸民が海に出て大姓と私通し、計を設けて値を抑えたために倭賊が憤って兵を挙げたのが原因である。今それを朝命で行えば害はさらに大きい。兵が連なり禍が結ばれれば、諸々の奸徒は汪直・曽一本らの故智に倣い、海を頼みに王を称し、兵を擁して寨を連ね、近くは重利を得、遠くは尉佗となる亡命の計を得るだろう。国家の大患をどうするのか。急ぎ法に照らして処断し、禍の本を消していただきたい。
  • 言官の金忠士・曹于汴・朱吾弼らもまた連ねて上章して力争したが、いずれも聴かれなかった。
  • 事は福建の守臣に下された。守臣は実行に反対だったが朝命に迫られ、海澄丞の王時和・百戸の千一成を張嶷とともに遣わして調査させた。
  • 吕宋の人はこれを聞いて大いに驚いた。流寓の華人は彼らに「天朝に他意は無い。ただ奸徒が事端を生じただけで、今使者を遣わして検証し、奸徒が自ら行き詰まるようにして復命しやすくするだけだ」と説いた。その酋の疑いはやや解け、諸僧に道端で花を撒かせて朝使を敬うようにしつつ、兵衛を盛んに並べて迎えた。
  • 王時和らが入ると、酋は宴を設けて「天朝は人を遣わして山を開こうというが、山にはそれぞれ主がある。どうして開けようか。たとえば中華に山があって我が国に開かせるだろうか」と問い、さらに「樹に金の豆が生るというが、それは何の樹に生るのか」と言った。時和は答えられず、しきりに張嶷を見た。嶷は「この地はすべて金だ。豆がどこから出るかなど問う必要は無い」と言った。上下の者は皆大笑いした。嶷を留めて殺そうとしたが、華人たちがそろって取りなしたので釈放されて帰った。
  • 時和は任地に還ると、動悸の病を得て死んだ。守臣がこれを言上し、張嶷の妄言の罪を治めるよう請い、事はいったん収まった。
  • ところが吕宋の人はなお疑い、天朝がその国を襲い取ろうとしており、流寓の者たちが内応するのだと考えて、ひそかに彼らを殺す謀を立てた。翌年、旁国を侵すため兵を出すと称し、高値で鉄器を買い集めた。華人は利を貪ってことごとく売り払い、家に寸鉄も無くなった。
  • そこで酋は令を下して華人の姓名を記録し、三百人ずつ一院に分け、入ればただちに殲滅することとした。事がやや露見すると、華人は群れをなして菜園に逃れた。酋が兵を発して攻めると、衆に武器が無く、死者は数知れなかった。大崙山に奔ると、蛮人がまた攻めて来たが、衆が死を決して闘ったので蛮兵はやや退いた。酋はにわかに悔いて使を遣わし和を議したが、衆はその偽りを疑って使者を撲殺した。酋は大いに怒り、衆を集めて城に入り、城の傍に伏兵を置いた。衆は飢えがひどく、みな山を下って城を攻めたが、伏兵が発して大敗し、前後の死者は二万五千人に上った。
  • 酋はやがて令を出し、掠奪した華人の資財をすべて封印して庫に納め、閩中の守臣に書を送って「華人が乱を謀ろうとしたのでやむを得ず先手を打った。死者の家族に妻子と財を受け取りに来させてほしい」と言った。
  • 巡撫の徐學聚らは急ぎ朝廷に変を告げた。帝は驚き悼み、法司に奸徒の罪を議させた。萬歴三十二年(1604年)十二月に議が上奏されると、帝は「張嶷らは朝廷を欺誑し、海外に釁を生じて、二万の商民をことごとく刃にかけた。威を損ない国を辱めた罪は死んでも余りある」と言い、ただちに梟首して海上に晒させた。吕宋の酋が擅に商民を殺したことについては、撫按の官に罪を議して報告させた。學聚らは吕宋に檄を移し、擅殺の罪を数えて死者の妻子を送り帰らせたが、ついに討つことはできなかった。
  • その後、華人はまた少しずつ渡り、蛮人も中国との互市を利としたので拒まず、久しくしてまた集落を成した。
  • 当時、佛郎機はすでに満剌加を併せ、さらに吕宋を加えて勢いはいよいよ強く、海外を横行して、ついに広東の香山澳を占拠し、城を築いて住み、民と互市するに至り、患いはまた粤に及んだ。

合貓里

  • 合貓里は海中の小国である。土地は瘠せて山が多く、山の外の大海は魚や虫に富む。人々は耕作を知る。
  • 永樂三年(1405年)九月、使を遣わして𤓰哇の使臣に付いて朝貢した。
  • その国はまた貓里務ともいう。吕宋に近く、商船の往来によって次第に富んだ地となった。華人がその国に入っても欺き侮られることがなく、取引の掟が最も公平だったので、華人はこう言い合った、「富もうと思えば貓里務に行くがよい」と。
  • 網巾礁老という者があり、最も凶悍で、海上で行き会う船を劫掠し、風に流されて出会えば助かる者はいなかった。ただし商船だけを憎んでその地には来ず、たまたま来た者があれば手厚く遇した。
  • 貓里務は後に寇掠に遭って人が多く死傷し、地も貧しくなった。商人は礁老に劫掠されることを恐れて、赴く者はまれになった。

羙洛居

  • 羙洛居は俗に訛って米六合という。東海の中にあり、かなり富裕といわれる。酋が出るときの威儀は整い、部下は掌を合わせて道の傍らに伏す。男子は髪を削り、女は椎髻に結う。
  • 地に香山があり、雨の後に香が落ちて流れに沿って地に満ち、住民が拾っても尽きない。その酋は棟に届くほど積み上げて、商船に売るのに備える。東洋では丁香を産さず、ただこの地だけにあり、邪を辟けるというので、華人が多く買い付ける。
  • 萬歴年間、佛郎機が攻めて来た。その酋は戦い敗れて降伏を請うたので、赦して復位させ、毎年丁香を貢がせることとし、戍兵を置かずに去った。
  • やがて紅毛番が海上を横行し、佛郎機の兵がすでに退いたと知って、虚に乗じて城下に至り、その酋を捕らえて「よく我に仕えよ。我が汝の主になるのは佛郎機よりずっとましだ」と言った。酋はやむなく命を聴き、もとどおり復位した。
  • 佛郎機の酋がこれを聞いて大いに怒り、兵を率いて攻めに来たが、途中で華人に殺された。詳しくは吕宋伝にある。
  • 当時、紅毛番は羙洛居を占拠していたものの、一、二年ごとに衆を率いて本国に帰り、帰ってはまた来ていた。佛郎機の酋の子は位を襲ぐと父の志を遂げようとして大挙して襲来し、紅毛番が去った隙に当たったので、羙洛居を破ってその酋を殺し、自分の親信の者を立てて主とした。まもなく紅毛番が至り、またその城を破って、佛郎機が立てた酋を逐い、羙洛居の故王の子を立てた。
  • 以来、毎年兵を構えて人々は堪えられなくなった。流寓の華人が両国に遊説して、それぞれ兵を罷め、国中の萬老髙山を境として、山の北を紅毛番、南を佛郎機に属させた。こうしてようやく休息したが、羙洛居はついに両国に分割された。

沙瑤・呐嗶嘽

  • 沙瑤は呐嗶嘽と地を接する。呐嗶嘽は海辺にあり、沙瑤はやや奥まって山の隅にある。いずれも吕宋に近い。
  • 男女ともに髪を蓄えて椎髻に結う。男子は履を用い、婦女は跣足である。板をもって城とし、木を立て茅で覆って家とする。釈教を尊び、礼拝寺を多く建てる。
  • 男女の禁は非常に厳しい。夫が前を行くとき、その妻が他人と戯れ笑えば、夫はただちにその戯れ笑った相手を斬る。相手は逃げようとせず、刺し割かれるにまかせる。盗みは大小を問わずただちに死罪とする。
  • 妊婦が産もうとするときは水を灌ぎ、生まれた子も水で洗って水中に置くので、生まれながらに水に慣れる。
  • 物産はきわめて乏しく、華人がその地で商うのに携えるのは磁器・鍋釜の類にとどまり、重いものでも布までである。
  • 後に佛郎機が吕宋を占拠して隣境を多く侵奪したが、ただこの二国にだけは号令が及ばなかった。

雞籠山(東番・臺灣)――風俗

  • 雞籠山は澎湖嶼の東北にあるのでこの名がある。また北港ともいい、東番ともいう。泉州からきわめて近い。
  • 地には深山・大沢が多く、集落は星のように散らばる。君長は無く、十五の社があり、多い社は千人、少ない社は五、六百人である。徭役も賦税も無く、子女の多い者を雄として、その号令に従う。
  • 海中に居ながら海をひどく畏れ、舟を操るのが上手でなく、老いて死ぬまで隣国と往来しない。
  • 永樂年間、鄭和が東洋・西洋をあまねく巡り、宝を献じない国は無かったが、ひとり東番だけは遠く避けて来なかった。鄭和はこれを憎み、家ごとに銅鈴一つを贈って首に掛けさせた。狗の国になぞらえたのである。ところが後の人はかえってこれを宝とし、富む者は数枚を集めて「これは祖先の遺したものだ」と言う。
  • 俗として勇を尚び、暇があれば走ることを習い、一日に数百里を行き、奔馬に劣らない。足の皮は厚さ数分あり、荊棘を踏んでも平地のようである。
  • 男女は椎髻に結い、裸で駆け回って恥じることが無い。女は草の裙を結んで体を蔽うこともある。長老に会えば背を向けて立ち、通り過ぎてから行く。
  • 男子は耳を穿ち、女子は十五歳で唇の脇の歯を折って飾りとする。手足にはみな文身を刺す。諸社がこぞって賀し、費用は少なくない。貧しい者は賀を受けられないので、刺すこともできない。
  • 四季は草の青むのを年の始めとする。土地は五穀に適するが水田は上手でない。穀の種を地に下ろすと殺生をやめ、これを「善事を行って天公に飯食を乞う」という。収穫が終わると道に竹竿を立て、これを「揷青」といい、このとき外の人に出会えば殺す。
  • 村落は互いに仇し、期日を決めて戦う。勇者数人が前に跳び出し、殺されればただちに散る。勝った側の衆は「壮士はよく人を殺した」と賀し、負けた側の家人もまた「壮士は死を畏れなかった」と賀す。翌日にはもとどおり和好する。
  • 地には竹が多く、太さは数抱え、長さは十丈に達する。竹で家を組み、茅で覆う。広くて長く、一族が集まって住む。暦も文字も無く、大事があれば衆を集めて議する。
  • 鏢鎗を用いるのが巧みで、竹の柄に鉄の鏃をつけ、非常に鋭い。鹿に試せば鹿が斃れ、虎に試せば虎も斃れる。性として海を畏れるので、魚は渓や澗で捕る。冬になると衆を集めて鹿を捕り、鏢を放てばかならず中たり、積んで丘山のようになる。ただ鶏と雉だけは食わず、その羽を取って飾りとする。
  • 地中に大きな渓が多く海に流れ込み、水が淡いので、その外側を淡水洋と名づける。

雞籠山――倭寇・紅毛番と何楷の靖海の策

  • 嘉靖末、倭寇が閩を騒がせ、大将の戚繼光がこれを破ると、倭は逃れてここに居ついた。その一党の林道乾がこれに従ったが、道乾は倭に併呑されることを恐れ、また官軍の追撃を恐れて、帆を揚げて浡泥に至り、その辺地を奪って住み、道乾港と号した。鷄籠は倭の焼き討ちと掠奪に遭って国はついに荒廃した。
  • 初めはみな海浜に住んでいたが、倭難に遭ってからは次第に山の後ろに避けて住んだ。ふとしたことで中国の漁船が魍港から漂着し、以後は往来して通商するのが常となった。
  • 萬歴の末に至って紅毛番が船をここに泊め、耕作や井戸掘りを行い、市場を設けて臺灣と称した。
  • 崇禎八年(1635年)、給事中の何楷が靖海の策を陳べて言った。袁進・李忠・楊禄・楊䇿・鄭芝龍・李魁奇・鍾斌・劉香が相次いで海上で乱を為し、年に安寧が無い。今、寇の気配を鎮めようとするなら、その巣窟を廃墟にするほかない。その巣窟とはどこか、臺灣である。
  • 何楷はさらに言った。臺灣は澎湖島の外にあり、漳州・泉州から二日二夜の行程に過ぎず、地は広く肥えている。初めは貧民が時折その地に行き魚塩の利を求めていたが、後に兵威の及ばぬのを見てしばしば集まって盗と化した。近ごろは紅毛番がその中に城を築き、奸民と互市して、屹然たる一大部落となっている。これを廃墟とする計は戈を交えて成すものではなく、必ず海に通じることを厳禁し、紅毛番が利を得られず奸民が食を得られないようにすることである。彼らが兵を出して四方に侵してきたら、我が師はその虚に乗じて撃てば大いに志を得られる。紅毛番がここを捨てて去れば、その後に海の気配は鎮まる。
  • このときこの策は用いられなかった。

雞籠山――地の広さと海路

  • その地は北は鷄籠から南は浪嶠まで一十余里、東は多羅滿から西は王城まで九百余里ある。
  • 水路は順風であれば、鷄籠・淡水から福州の港口まで五更で到達でき、臺灣港から澎湖嶼まで四更、澎湖から金門まで七更、東北の日本まで七十更、南の吕宋まで六十更で到達できる。
  • そもそも海路は里数では計れないので、舟人は一昼夜を十更に分け、更をもって道のりを計るのである。

婆羅(文萊)

  • 婆羅はまた文萊ともいい、東洋の尽きるところ、西洋の起こるところである。唐のとき婆羅国があり、高宗のときにしばしば入貢した。
  • 永樂三年(1405年)十月、使者に璽書・綵幣を持たせてその王を撫諭した。永樂四年(1406年)十二月、その国の東西二年がともに使を遣わして表を奉り朝貢した。翌年もまた貢いだ。
  • その地は山を背に海に面する。釈教を尊び、殺生を憎み施しを喜ぶ。豚肉を食うのを禁じ、犯した者は死罪である。
  • 王は髪を剃り、金の刺繍のある巾を裹き、双剣を佩び、出入りは徒歩で、従者は二百余人である。礼拝寺があり、祭りのたびに犠牲を用いる。
  • その貢物は玳瑁・瑪瑙・硨磲・珠・白焦布・花蕉布・䧏眞香・黄蠟・黒色の小厮である。
  • 萬歴のころ王であった者は閩人であった。あるいは、鄭和が婆羅に使いしたとき閩人が従い、そのままその地に留まり、その子孫がついにその国を占めて王となったのだともいう。邸の傍らには中国の碑がある。
  • 王は金印を一つ持ち、篆文で、上には獣の形が作ってある。永樂朝に賜ったものだという。民間では嫁娶のたびにこの印を請い、背に押してもらうのを栄誉とする。
  • 後に佛郎機が横暴に兵を挙げて攻めて来た。王は国人を率いて山谷の中に逃げ込み、毒の水を流し出して数知れぬ敵を毒殺した。王は国に帰ることができ、佛郎機はそこで吕宋を侵した。

麻葉甕

  • 麻葉甕は西南の海中にある。永樂三年(1405年)十月、使に璽書を持たせ物を賜ってその国を招諭したが、ついに朝貢しなかった。
  • 占城の靈山から舟を出し、順風で十昼夜行くと交欄山に至る。その西南がすなわち麻葉甕である。
  • 山は険しいが土地は平らで、田は肥え、収穫は他国の倍である。海水を煮て塩とし、蔗を醸して酒とする。
  • 男女は椎髻に結い、長衫を着て布を巻く。俗として節義を尊び、婦人は夫を喪うと顔を切り髪を剃り、七日絶食して屍とともに寝る。多くは死ぬが、七日たっても死ななければ親戚が飲食を勧め、終身再嫁しない。あるいは屍を焼く日に火に赴いて焼身する者もある。
  • 玳瑁・木棉・黄蠟・檳榔・花布の類を産する。
  • 交欄山はきわめて高く広く、竹木に富む。元の史弼・髙興が𤓰哇を伐ったとき、風に遭ってこの山の下に至り、舟の多くが壊れたので、山に登って木を伐り造り直し、ついに𤓰哇を破った。その病兵百余人は療養のため留まって帰らず、後にいよいよ繁衍したので、その地には華人が多い。
  • また葛卜および速兒米囊の二国があり、これも永樂三年に使を遣わし璽書を持たせ物を賜って招諭したが、ついに来なかった。

古麻剌朗

  • 古麻剌朗は東南の海中の小国である。
  • 永樂十五年(1417年)九月、中官の張謙に敕を持たせてその王の幹剌義亦奔敦を撫諭させ、絨錦・紵絲・紗羅を賜った。
  • 永樂十八年(1420年)八月、王が妻子・陪臣を率いて張謙に随って来朝し、方物を貢いだ。蘇禄国王と同様に礼遇した。
  • 王は「臣は愚かで無知であり、国人に推されたとはいえ、まだ朝命を受けていない。封誥を賜り、国号をそのままにしていただきたい」と言った。許され、印・誥・冠帯・儀仗・鞍馬および文綺・金織の襲衣を賜い、妃以下にもみな賜与があった。
  • 翌年正月、辞して帰るとき、さらに金銀銭・文綺・紗羅・綵帛・金織の襲衣・麒麟衣を賜い、妃以下にも差をつけて賜った。
  • 王は帰路の福建で病を得て卒した。礼部主事の楊善を遣わして諭祭し、諡して康靖といった。有司が墳墓を営み、王の礼で葬った。その子の刺苾に王位を嗣がせ、衆を率いて帰らせ、鈔と幣を賜った。

馮嘉施蘭

  • 馮嘉施蘭もまた東洋の中の小国である。
  • 永樂四年(1406年)八月、その酋の嘉馬銀らが来朝して方物を貢いだ。鈔・幣を差をつけて賜った。
  • 永樂六年(1408年)四月、その酋の玳瑁・里欲の二人がそれぞれ属下を率いて朝貢した。二人に鈔各百錠、文綺六表裏を賜い、その従者にも賜与があった。
  • 永樂八年(1410年)、再び来貢した。

文郎馬神

  • 文郎馬神は木をもって城とし、その半ばは山に寄る。酋は刺繍の衣の女数百人を養い、外出して象に乗るときは、繍女が衣・履・刀剣および檳榔の盤を執って従う。舟を浮かべるときは、酋が牀の上に趺坐し、繍女はその下に列坐して向かい合い、あるいは棹を差すのに用いる。威儀は非常に立派である。
  • 民の多くは水上に木を縛って家を築いて住み、三佛齊のようである。男女は五色の布で頭を纏き、腹や背は多く袒であるが、小袖の衣を着る者もあり、頭からかぶって着て、下体は幔で囲む。
  • 初めは蕉の葉を食器としたが、後に華人と交易して次第に磁器を用いるようになった。とりわけ外側に龍を描いた磁の甕を好み、死ねば甕に納めて葬る。
  • その俗は淫を憎み、姦通した者は死罪である。華人が女と通じれば、その髪を削って女をめあわせ、永久に帰らせない。女は華人の髪が短いのを見て、どうして長くしたのかと問う。華人は欺いて「私は中華の水で洗ったので長いのだ」と言う。女はこれを信じ、競って船中の水を買って洗った。華人はわざと出し惜しみして笑いの種とした。女が華人を悦べば、香蕉・甘蔗・茉莉を贈り、しきりに戯れ笑うが、その法の厳しさを憚って、あえて私通する者はいない。
  • その深山の中に烏籠里という村があり、そこの人はみな尾が生えていると憚られ、人を見れば顔を掩って走り避ける。しかしその地は砂金に富むので、貨物を持って商いに行く者は、小さな銅鼓を打って合図とし、貨物を地に置いて一丈ばかり退く。すると彼らが前に出て見て、気に入ればその傍らに金を置く。売り主は遠くから声をかけ、売る気があれば貨物を置いて去り、そうでなければ金を懐に帰る。互いに言葉は交わさない。
  • 産物には犀牛・孔雀・鸚鵡・沙金・鶴頂・䧏香・蠟・藤席・萪藤・蓽撥・血竭・肉荳蔲・獐皮などがある。
  • 隣境に買哇柔という者があり、ひたすら凶悪で、毎夜半に人の首を盗み斬って去り、これを金で飾る。そのため商人はこれを畏れ、夜は必ず夜番を厳しくして備える。
  • 初め、文郎馬神の酋には賢徳があり、商人を恩信をもって遇し、子は三十一人あったが、商船を騒がせるのを恐れて外出させなかった。その妻は買哇柔の酋長の妹で、生んだ子が父の位を襲ぐと、母方の一族の言を聴いてもっぱら欺詐を事とし、商人への代価を多く踏み倒した。以来、赴く者もまれになった。