明史卷三百二十一 列傳第二百九 外國二 安南

安南の沿革

  • 安南はいにしえの交阯の地で、唐より前はすべて中国に属していた。五代のとき、はじめて土着の曲承美が奪い取って割拠した。
  • 宋の初めに丁部領が交阯郡王に封ぜられたが、三代を伝えて大臣の黎桓に簒われた。黎氏もまた三代で大臣の李公藴に簒われ、李氏は八代を伝えて子がなく、婿の陳日炬に伝えた。元の時代には、その国はしばしば元軍に破られた。

洪武年間――陳日煃の入貢と冊封

  • 洪武元年(1368年)、国王の日煃は廖永忠が両広を平定したと聞き、使者を遣わして帰服しようとしたが、梁王が雲南にいたため果たせなかった。同年十二月、太祖は漢陽知府の易濟に命じて招き諭させた。
  • 日煃は少中大夫の同時敏、正大夫の叚悌、黎安世らを遣わして表を奉り、来朝して方物を貢いだ。翌年(洪武二年、1369年)六月に京師に到着し、帝は喜んで宴を賜い、侍讀學士の張以寧・典簿の牛諒を遣わして安南國王に封じ、駝紐の塗金銀印を賜った。
  • その詔の趣旨は、日煃の祖父たちが南の辺境を守って中国に藩を称し臣の職を尽くしてきたことを褒め、みずからが天地の助けを得て中華を平らげ、書を送ったところ日煃がすぐに表を奉って臣を称し、使者を専らにして賀してきたことを嘉するというもので、使者に印を持たせてあらためて安南國王に封じ、爵は五等を超えさせ、末永く藩屏となれと命ずるものであった。
  • 日煃には大統歴と織金の文綺・紗羅四十匹を賜い、同時敏以下にもみな賜り物があった。

陳日熞の嗣立

  • 張以寧らが着いたとき、日煃はすでに亡くなっており、甥の日熞が位を嗣いでいた。日熞は臣の阮汝亮を遣わして誥と印を迎え請うたが、以寧らは渡さなかった。日熞はあらためて杜舜欽らを遣わして朝廷に命を請い、以寧は安南にとどまって命令を待った。
  • そのころ安南と占城が兵を交えていたので、帝は翰林編修の羅復仁・兵部主事の張福に命じて兵を罷めるよう諭させ、両国ともに詔を奉じた。
  • 翌年、舜欽らが至って喪を告げると、帝は素服で西華門に出て引見し、編修の王廉を遣わして祭らせ、白金五十両・帛五十匹を賻として贈った。別に吏部主事の林唐臣を遣わして日熞を王に封じ、金印および織金の文綺・紗羅四十匹を賜った。
  • 王廉が出発したのち、帝は漢の馬援が銅柱を立てて南蛮を鎮めた功績が甚だ偉大であるとして、王廉にそのついでに祀らせた。ほどなく科挙の詔をその国に頒ち、さらに嶽瀆の神号を改め定めたこと、および沙漠を掃討したことについて、二度にわたり官を遣わして詔告した。
  • 日熞は上大夫の阮兼、中大夫の莫季龍、下大夫の黎元普らを遣わして謝恩し方物を貢いだ。阮兼は途中で亡くなり、詔してその王と使臣に賜与し、阮兼の柩を国に送り帰した。しばらくして羅復仁らが帰り、餞別の贈り物を退けて受けなかったと報告したので、帝はこれを嘉し、季龍らに加賜した。

陳叔明の簒立

  • 洪武四年(1371年)春、使者を遣わして象を貢ぎ沙漠平定を賀し、さらに使者を遣わして張以寧らに随行させて来朝させた。その冬、日熞は伯父の叔明に逼られて死んだ。
  • 叔明は罪を恐れ、象と方物を貢ぎ、年を越して京に至った。礼官が表の署名が日熞の名でないのを見て問いただし、実情を得たので、詔してこれを退けた。
  • 叔明はふたたび朝貢して謝罪し、あわせて封を請うた。その使者は、日熞は実は病死し、叔明は外に遜れていたのを国人に推されたのだと言い張った。帝は国人に日熞のために服喪させ、叔明はさしあたり前王の印で政務を執らせた。
  • 洪武七年(1374年)、叔明は使者を遣わして謝恩し、みずから年老いたと称して弟の煓に摂政させることを乞い、許された。煓は使者を遣わして謝恩し貢期を請うたので、三年に一貢、新王は代替わりごとに見えることと詔した。ほどなくまた使者を遣わして貢いだが、帝は担当官に諭して退けさせ、あわせて使者は三、四人を超えず、貢物も厚くしないようにと定めた。
  • 洪武十年(1377年)、煓は占城を侵して敗死し、弟の煒が代わって立ち、使者を遣わして喪を告げたので、中官の陳能に命じて祭らせた。当時、安南は強きを恃んで占城を滅ぼそうとし、かえって敗北を招いたのであった。帝は官を遣わして前王の叔明に、争いの端を作って禍を残すなと諭した。叔明が実際に国事を主宰していたからである。叔明は方物を貢いで謝罪した。
  • 広西の思明の土官が安南の国境侵犯を訴え、安南もまた思明が辺境を騒がすと訴えた。帝は檄を移してその欺き偽る罪を数え上げ、守臣にその使者を受け入れるなと敕した。煒は恐れて使者を遣わし謝罪し、年ごとに宦者・金銀・紫金の盤・黄金の酒尊・象・馬の類を貢いだ。帝は助教の楊盤を使者として遣わし、雲南の軍餉を送らせたところ、煒はただちに五千石を臨安に輸送した。
  • 洪武二十一年(1388年)、帝はふたたび礼部郎中の邢文偉に敕と幣を持たせて賜与した。煒は使者を遣わして謝し、あらためて象を進めた。帝はその貢が頻繁で貢物が奢侈にすぎるとして、やはり三年に一貢とし、犀・象を進めるなと命じた。

黎季犛の専権と洪武末の交渉

  • そのころ国相の黎季犛が権柄を盗み、主君の煒を廃し、ほどなくこれを弑して、叔明の子の日焜を立てて国事を主宰させ、なお煒の名を借りて入貢した。朝廷は知らずに受け入れたが、数年を経てはじめて気づき、広西の守臣に命じてその使者を絶たせた。
  • 季犛は恐れ、洪武二十七年(1394年)に使者を遣わして広東から入貢した。帝は怒り、官を遣わして詰責し、その貢を退けた。季犛はますます恐れ、翌年また偽りの言葉で入貢した。帝はその弑逆を憎んだが、師を労して遠征することを望まず、そこでこれを受け入れた。
  • 大軍がちょうど龍州の趙宗壽を討っていたので、礼部尚書の任亨泰・御史の嚴震直に命じて、日焜に疑心を抱くなと諭させ、季犛はこれを聞いていくらか安んじた。
  • 帝はさらに刑部尚書の楊靖を遣わし、米八万石を龍州の軍に送らせるよう諭させた。季犛は一万石を輸し、金千両・銀二万両を贈り、龍州は陸路が険しいので慿祥洞まで運ばせてほしいと言った。楊靖は認めず、二万石を沲海江に輸させた。この江は龍州からわずか半日の距離であった。楊靖はそこで、日焜は年少で国事はすべて季犛父子が決しており、それゆえこのように様子見をするのだと報告した。当時、帝は趙宗壽が帰服したので兵を移して向武の諸蛮を征していたため、楊靖に諭して二万石を輸して軍に給させ、贈られた金銀は免じさせた。
  • 翌年、季犛が前王の叔明の訃を告げたが、帝は叔明がもともと簒奪弑逆の者であり、弔祭すれば乱を奨励することになるとして取りやめ、檄を移してそのことを知らせた。
  • 思明の土官の黄廣成が次のように述べた。元が思明總管府を設けて以来、その管轄する左江の州県は、東は上思州、南は銅柱を境としていた。元が交阯を征したとき、銅柱から百里のところに永平寨萬户府を置いて兵を遣わし守らせ、交人にその軍への給養をさせた。元の末に乱が起こると、交人は永平を攻め破り、銅柱を越えて二百余里、思明に属する邱溫・如嶅・慶逺・淵脱など五県の地を侵し奪った。近ごろまた任尚書が思明の洞登の地に駅を置いたことを訴え出て、自分はかつて上奏し、楊尚書を遣わして実地を調べていただいた。どうか安南に敕して五県の地を返させ、なお銅柱をもって境と画してほしい、と。
  • 帝は行人の陳誠・吕讓に命じて諭させたが、季犛は固執して従わなかった。陳誠はみずから書を作って日焜を諭したが、季犛は書を送って争い、さらに日焜のために書を作って戸部に移した。陳誠らが復命すると、帝はついに返還しないと知り、「蛮夷が互いに争うのは古よりあることだ。彼らが頑なさを恃めば必ず禍を招く。しばらく待とう」と言った。

胡氏の簒奪

  • 建文元年(1399年)、季犛は日焜を弑し、その子の顒を立て、また顒を弑して、その弟の□(底本欠字)を立てた。まだ襁褓の中にあったが、これもまた弑し、陳氏の宗族を大いに殺して自立した。姓名を改めて胡一元とし、その子の蒼を胡□(底本欠字)と名づけ、帝舜の裔である胡公の後裔だと称し、僭って国号を大虞、年号を元聖とした。ほどなくみずから太上皇と称して位を胡□に伝えたが、朝廷はこれを知らなかった。
  • 成祖が大統を承けると、官を遣わして即位の詔をその国に告げた。
  • 永樂元年(1403年)、胡□はみずから「權理安南國事」と署して使者を遣わし表を奉って朝貢し、「高皇帝の時、安南王の日煃は率先して誠を尽くしたが、不幸にも早くに亡くなり、後嗣が絶えた。臣は陳氏の甥であり、衆に推されて国事を権理してすでに四年になる。天恩によって封爵を賜りたい。臣に二心はない」と言った。
  • 事は礼部に下され、部臣はこれを疑い、官を遣わして調べさせるよう請うた。そこで行人の楊渤らに敕を持たせ、その陪臣・父老に、陳氏の継嗣の有無と胡□の推戴の誠偽をありのままに報告せよと諭させた。胡□の使者には賜物をして帰らせ、あわせて行人の吕讓・邱智に絨錦・文綺・紗羅を賜らせた。
  • やがて胡□の使者が楊渤らに随って帰り、陪臣・父老の上表を進めたが、その内容は胡□が帝を欺いた言い分そのままで、ただちに胡□に封爵を賜れと乞うものであった。帝はそこで礼部郎中の夏止善に命じて安南國王に封じ、胡□は使者を遣わして謝恩した。しかしその国内では相変わらずであった。
  • 思明の管轄する禄州・西平州・永平寨は胡氏に侵奪されており、帝は返還を諭したが従わなかった。占城が安南の侵掠を訴えたので、修好するよう詔したが、胡□は表向き命を奉じながら侵掠は元のままで、しかも印章を授けて無理に属国とし、さらに天朝の賜物を奪い取った。帝はこれを憎み、まさに官を遣わして厳しく責めようとしていた。

裴伯耆と陳天平

  • そこへ、もとの陪臣の裴伯耆が闕に詣でて難を訴えた。その言うところはこうである。臣の祖父はみな執政の大夫として国事に死に、臣の母は陳氏の近い一族である。臣は幼くして国王に仕えて官は五品、のちに武節侯の陳渴真に属して裨将となり、洪武の末には渴真に代わって東海で寇を防いだ。ところが賊臣の黎季犛父子が主君を弑して位を簒い、忠良を屠戮して族滅された者は百・十を数え、臣の兄弟妻子もまた害にあった。人を遣わして臣を捕らえ、なますにしようとしたので、臣は軍を棄てて逃れ、山谷に潜み、闕庭に詣でて肝胆を披瀝しようと思いながら流転すること数年、ようやく天日を見た。
  • ひそかに思うに、季犛はもとの経略使である黎國髦の子で、代々陳氏に仕えて寵栄をむさぼり、その子の蒼もまた貴任を蒙った。それが一朝にして簒奪し、姓を改め名を易え、号を僭し元を改め、朝命に恭しくない。忠臣良士は頭を痛め心を痛めており、弔伐の師を興し、絶えたものを継がせる義を隆んにし、奸凶を蕩除して陳氏の後を復立してくださるなら、臣は死んでも朽ちない。あえて申包胥の忠にならい、闕下で哀しみ鳴く。ただ皇帝の垂察を願う、と。
  • 帝はこの奏を得て心を動かされ、担当官に命じて衣食を手厚く与えさせた。
  • ちょうど老撾が陳天平を送ってきた。その言うところはこうである。臣・天平は前王の日烜の孫、奣の子、日煃の弟である。黎賊が陳の一族を滅ぼし尽くしたとき、臣は外州にあって免れた。臣僚や補佐の者が忠義に激して臣を主に推し、賊を討とうとした。まさに兵を募る議をしていたところ、賊兵に迫られ、あわてて逃げ出し、巌谷に潜み、万死に一生を得て老撾に達した。つつしんで皇帝陛下が大統を正しく承けたと聞き、臣にも頼るところができた。万里を匍匐して明庭に哀訴する。陳氏の後裔はただ臣一人であり、臣はこの賊と天を共にしない。伏して聖慈の憐れみを祈り、速やかに六師を発して天討を明らかにしてほしい、と。
  • 帝はいよいよ心を動かされ、担当官に命じてこれを館に置かせた。
  • 胡□がちょうど使者を遣わして正旦を賀してきたので、帝は天平を出して見せた。使者らはみな驚き慌てて拝し、泣く者もあった。裴伯耆が大義をもって使者を責めると、恐懼して答えられなかった。帝は侍臣に「胡□父子の悖逆は鬼神も容れぬところであるのに、国中の臣民がこぞって欺き隠している。一国みな罪人である。朕がどうして容れられよう」と諭した。
  • 永樂三年(1405年)、御史の李琦・行人の王樞に敕を持たせて胡□を責め、簒奪弑逆の実情を具さに報告させた。雲南の寧逺州がまた胡□が七寨を侵奪しその婿と娘を掠めたと訴えた。
  • 胡□は臣の阮景真を李琦らに従わせて入朝謝罪させ、号を僭し元を改めたことなどないと言い張り、天平を迎えて帰らせ主として奉じたい、あわせて禄州・寧逺の地を返還すると請うた。帝はその詐りを予想せず許し、行人の聶聰に敕を持たせて諭させ、本当に天平を迎え帰して君主の礼をもって仕えるなら、汝を上公に立てて大郡に封じようと言わせた。胡□はまた景真を聶聰らに従わせて、天平を迎えると報じ、聶聰も胡□の誠は信ずべきだと力説した。帝はそこで天平を帰国させることとし、広西の左右副将軍の黄中・吕毅に敕して兵五千でこれを送らせた。

陳天平の殺害と南征

  • 永樂四年(1406年)、天平は陛辞し、帝は手厚く賜与し、胡□を順化郡公に封じ、その属する州県をすべて食邑とする敕を出した。三月、黄中らが天平を護って雞陵關に入り、芹站に至ろうとしたとき、胡□が伏兵を置いて天平を迎え撃ち殺した。黄中らは敗れて還った。
  • 帝は大いに怒り、成國公の朱能らを召して謀り、討伐を決意した。七月、朱能に征夷將軍印を佩びさせて總兵官とし、西平侯の沐晟に征夷副將軍印を佩びさせて左副將軍とし、新城侯の張輔を右副將軍、豐城侯の李彬・雲陽伯の陳旭を左右參將として、軍を督して南征させた。
  • 朱能は龍州に至って病死し、張輔が代わってその軍を将い、安南の坡壘關に入り、檄を伝えて胡一元父子の二十の大罪を数え上げ、国人に陳氏の子孫を立てるつもりだと諭した。軍が芹站に次すると、昌江に浮橋を造って渡り、前鋒は富良江北の嘉林縣に至った。張輔は芹站から西へ別の道を取って北江府の新福縣に至った。沐晟・李彬の軍もまた雲南から白鶴に至ったと諜報が入ったので、驃騎將軍の朱榮を遣わして会合させた。
  • このとき張輔らは道を分けて進み、行く先々で勝った。賊は江沿いに柵を立て、多邦の隘に土城を増築し、城柵は連なること九百余里、江北の民二百余万を大挙徴発して守らせ、諸々の江や海口にはみな木杭を打ち込み、居城の東都は厳しく守備を固め、水陸の兵は七百万と号し、持久して官軍を疲れさせようとした。張輔らは営を三帶州の箇招市の江口に移して戦艦を造った。帝は賊が師を引き延ばして瘴癘の季節を待つのを懸念し、張輔らに必ず翌年の春までに賊を滅ぼせと敕した。
  • 十二月、沐晟が洮江の北岸に次して多邦城と対塁し、張輔は陳旭を遣わして洮州を攻め浮橋を造って渡らせ、ともに城下に至ってこれを攻め抜いた。賊が恃んでいたのはこの城だけであり、破られると胆をつぶした。
  • 大軍は富良江に沿って南下し、そのまま東都を衝いた。賊は城を棄てて走り、大軍は入って占拠した。西都に迫ると、賊は宮室を大いに焼き、舟に乗って海に入った。郡県は相次いで帰服し、抵抗する者はそのつど撃ち破った。士民が黎氏の罪悪を陳べる上書は、日に百通を数えた。
  • 永樂五年(1407年)正月、木丸江で季犛を大いに破った。詔を宣べて陳氏の子孫を訪ね求めると、耆老千百二十余人が軍門に詣でて、「陳氏は黎賊に殺し尽くされ継ぐべき者がない。安南はもと中国の地であるから、なお職方に入れて内地の郡と同じにしてほしい」と言った。張輔らはこれを奏聞した。
  • ほどなく富良江で賊を大いに破り、季犛父子は数艘の舟で逃げた。諸軍は水陸ともに追い、茶籠縣に次したとき、季犛が乂安へ走ったと知り、そこで舉厥江に沿って日南州の竒羅海口まで追い、栁升に命じて海に出て追わせた。賊はたびたび敗れて軍をなせなくなり、五月、高望山で季犛と偽太子を捕らえ、安南はことごとく平定された。

交阯の郡県化

  • 群臣は耆老の言のとおり郡県を設けるよう請うた。六月朔、天下に詔告して安南を改めて交阯とし、三司を設けた。都督僉事の吕毅に都司の事を掌らせ、黄中をその副とし、前の工部侍郎の張顯宗・福建布政司左參政の王平を左右布政使、前の河南按察使の阮友彰を按察使とし、裴伯耆に右參議を授けた。また尚書の黄福に命じて布・按二司の事を兼掌させた。
  • 交州・北江・諒江・三江・建平・新安・建昌・奉化・清化・鎮蠻・諒山・新平・演州・乂安・順化の十五府を設け、三十六州・百八十一県を分轄させた。また太原・宣化・嘉興・歸化・廣威の五州を設けて布政司の直隷とし、二十九県を分轄させた。その他の要害にはみな衛所を設けて制圧させた。
  • そこで有司に敕した。陳氏の諸王で弑された者にはみな贈諡し、祠を建て塚を治め、それぞれ掃除の役の二十戸を置く。宗族で害にあった者には官を贈る。軍民で死んで野ざらしになった者は埋葬する。在官の者はそのまま留任させ、新任の者と併せて治めさせる。黎氏の苛政はすべて取り除き、刑を受けた者はことごとく放免する。年高く徳のある者を礼遇し、鰥寡孤独で訴えるところのない者には養済院を設ける。才徳を抱く俊才は篤く遇して京に遣わす、と。
  • さらに詔して、山林の隠逸、明経博学、賢良方正、孝弟力田、聡明正直、廉能幹済、練達吏事、精通書算、明習兵法の者、および容貌魁偉で言語に長けた者、膂力勇敢の者、陰陽術数の者、医薬方脈の者らを訪ね求め、礼をもって京に送り登用させた。こうして張輔らが前後に推挙した者は九千余人にのぼった。
  • 九月、季犛・蒼父子が俘となって闕下に至り、偽の将相であった胡杜らとともにみな吏に付された。蒼の弟の衛國大王の澄と子の苪は赦され、担当官が衣食を給した。
  • 永樂六年(1408年)六月、張輔らは軍を整えて京に還り、交阯の地図を奉った。東西一千七百六十里、南北二千八百里、安撫した人民は三百十二万余、獲た蛮人は二百八万七千五百余、象・馬・牛は二十三万五千九百余、米粟は一千三百六十万石、船は八千六百七十余艘、軍器は二百五十三万九千八百であった。そこで大いに封賞が行われ、張輔は英國公、沐晟は黔國公に進み、その他も功に応じて賜与された。

簡定・陳季擴の乱

  • そのころ中朝が置いた官吏は寛厚を旨として新たに造った土地を安んじようとしたが、蛮人はみずから同類でないとして、しばしば互いに驚き恐れた。陳氏の旧官である簡定は、さきに降った将として京師へ遣わされる途中、その一味の陳希葛とともに逃げ去り、化州の偽官である鄧悉・阮帥らと乱を謀った。
  • 簡定は僭って大号を称し、興慶と紀元し、国を大越と称し、乂安・化州の山中に出没し、大軍が還るのをうかがってただちに出て盤灘・鹹子關を攻め、三江府の往来の要路をふさぎ、交州近辺を寇した。慈廉・威蠻・上洪・天堂・應平・石室の諸州県はみな呼応し、守将がたびたび出て討ったがみな功がなかった。
  • 事が聞こえると、沐晟を征夷將軍として雲南・貴州・四川の軍四万人を統べて雲南から往って討たせ、あわせて使者に敕を持たせて降る者には世襲の官を与えると招いたが、賊は応じなかった。沐晟は生厥江で戦って大敗し、吕毅および参贊尚書の劉儁が戦死した。
  • 永樂七年(1409年)、敗報が聞こえ、さらに南畿・浙江・江西・福建・湖廣・廣東・廣西の軍四万七千人を発し、英國公の張輔に従って征討させた。張輔は賊が江海を恃んでいて陸の師では不利と見て、北江の仙游に駐して大いに戦艦を造り、寇に遭って逃散していた者たちを安撫し、そのうえで慈廉・廣威の諸営柵を続けざまに破った。
  • その一味の鄧景異が南策州の盧渡江・太平橋を扼していることを偵知し、軍を鹹子關に進めた。偽金吾將軍の阮世每は二万の衆で対岸に寨柵を立て、船六百余艘を並べ、東南に杭を立てて防いでいた。時に八月、西北の風が急だったので、張輔は陳旭・朱廣・俞讓・方政らの舟を督して一斉に進ませ、砲矢を暴風のように放ち、斬首三千級、偽監門將軍の潘低ら二百余人を生け捕り、船四百余艘を獲た。
  • そのまま景異を進撃すると、景異は先に逃げた。こうして交州・北江・諒江・新安・建昌・鎮蠻の諸府を平定し、太平海口で景異を追い破り、その一味の范必栗を獲た。
  • このとき阮帥らは簡定を推して越上皇とし、別に陳季擴を立てて帝とし、重光と紀元した。そして使者を遣わし、前の安南王の孫と自称して封爵を求めたので、張輔は叱って斬った。
  • 黄江・阿江・大安海口を経て福成江に至り、転じて神投海口に入り、賊の立てた杭や柵をことごとく取り除き、十余日で清化に至り、水陸の軍がすべて会した。簡定はすでに演州へ奔り、季擴は乂安へ走り、阮帥・鄧景異らもまた散り失せていた。そこで駐軍して残党を捕らえた。簡定は美良縣の吉利冊へ走ったが、張輔らは窮追してこれに追いつき、簡定は山に入った。大捜索しても見つからないので包囲し、その偽の将相である陳希葛・阮汝勵・阮晏らとともにみな捕らえた。
  • これより先、賊の一味の阮師檜が王を僭称し、偽金吾上將軍の杜元措らとともに東潮州安老縣の宜陽社に拠り、衆は二万余人であった。永樂八年(1410年)正月、張輔は進撃してこれを斬首四千五百余級、その一味の范支・陳原卿・阮人柱ら二千余人を捕らえてことごとく斬り、京観を築いた。
  • 張輔は師を還そうとしたとき、季擴とその一味の阮帥・胡具・鄧景異らがなお演州・乂安にいて清化に迫り、鄧鎔が神投・福成の江口をふさいで清化の要路に拠り、乂安の諸所に出没していると述べ、諸軍がすべて還れば沐晟の兵が少なくて敵し得ないおそれがあるとして、都督の江浩、都指揮の俞讓・花英・師祐らの軍を留めて沐晟の守備を助けさせるよう請い、許された。
  • 五月、沐晟は季擴を虞江まで追い、賊は柵を棄てて逃げた。古靈縣および會潮・靈長海口まで追い、斬首三千余級、偽将軍の黎弄を獲た。季擴は大いに窮し、表を奉って降を乞うた。帝はその詐りを心では知りながら、しばらく許し、詔して交阯布政使を授け、阮帥・胡具・鄧景異・鄧鎔をいずれも都指揮、陳原樽を右參政、潘季祐を按察副使とした。

張輔の再征と季擴の平定

  • 詔が下ってから、賊に改悛の心がないことを思い、永樂九年(1411年)、あらためて張輔に軍二万四千を督させ沐晟の軍と合わせて討たせた。賊は月常江に拠り、杭を立てること四十余丈、両岸に柵を置くこと二、三里、船三百余艘を並べ、山の右に伏兵を置いた。
  • 秋、張輔・沐晟らが水陸ともに進むと、阮帥・胡具・鄧景異・鄧鎔らが来て拒んだ。張輔は朱廣らに艦を連ねて杭を抜いて進ませ、みずから方政らを率いて歩隊で伏兵を掃討し、水陸から挟撃して賊を大敗させ、阮帥らはみな散り走った。偽将軍の鄧宗稷・黎徳彛・阮忠・阮軒らを生け捕り、船百二十艘を獲た。
  • 張輔はそこで水軍を督して季擴を掃討しようとしたが、石室・福安の諸州県で偽龍虎將軍の黎蕊らが鋭江の浮橋を断ち、生厥江と交州後衛の道路をふさいだと聞き、そこへ征きに向かった。黎蕊と范慷が来て拒んだが、黎蕊は矢に当たって死に、偽将軍の阮陁を斬り、偽将軍の楊汝梅・防禦使の馮翕を獲て、斬首千五百級、残る賊を追い殺してほぼ尽くした。范慷および杜箇旦・鄧明・阮思瑊らもまた捕らえられた。
  • 永樂十年(1412年)、張輔は方政らを督して神投海で賊の舟を撃ち大敗させ、偽将軍の陳磊・鄧汝戲らを捕らえた。阮帥らは遠くへ逃げ、追いつけなかった。
  • 張輔の軍が乂安の土黄に至ると、偽少保の潘季祐らが降を請い、偽官十七人を率いて拝謁した。張輔は制を承けて季祐に按察副使を授け、乂安府の事を署させた。こうして偽将軍・観察・安撫・招討の諸使である陳敏・阮士勤・陳全朂・陳全敏らが相次いで降った。
  • 翌年(永樂十一年、1413年)、張輔と沐晟は軍を合わせて順州に至った。阮帥らは愛子江に伏兵を置き、昆傳山の険に拠って象の陣を並べて迎え撃ったが、諸軍はこれを大破し、偽将軍の潘徑・阮徐ら五十六人を生け捕り、愛母江まで追って賊を潰散させた。鄧鎔の弟の偽侯の鐵、および将軍の潘魯・潘勤らはことごとく降った。
  • 翌年(永樂十二年、1414年)春、軍を政平に進めると、賊帥の胡同が降り、偽大将軍の景異が一味の黎蟾ら七百人を率いて暹蠻の昆蒲柵へ逃げたと告げた。そこで羅江に進み、騎を捨てて徒歩で行ったが、着いたときには賊はすでに逃げており、叱蒲捺柵まで追うとまた逃げた。夜半に二十余里行って更鼓の音を聞き、張輔は方政らを率いて枚をふくんで疾駆し、夜明けに叱蒲幹柵に至った。江北の賊はなお南岸に寨していたので、官軍は江を渡って包囲し、矢が景異の脇に当たってこれを捕らえた。鄧鎔と弟の鈗は逃げたが、追って捕らえ、その衆をことごとく獲た。
  • 別将の朱廣は偽大将軍の阮帥を暹蠻に追い、暹人關の諸山を大捜索して、阮帥および季擴らの家族を獲た。阮帥は南靈州へ逃げて土官の阮茶彚を頼ったが、指揮の薛聚が追って阮帥を獲て、茶彚を斬った。
  • はじめ鄧鎔が捕らえられたとき、季擴は乂安の竹排山へ逃げた。張輔は都指揮の師祐を遣わして襲わせると、老撾へ走った。師祐がその後を追うと、老撾は官軍が自国の地を蹂躙するのを恐れ、みずから縛って献じたいと請うた。張輔は檄を出して引き渡しを求め、師祐に深く入らせ、三關を抜いて金陵箇に至ると、賊の一味はことごとく逃げ、ついに季擴およびその弟の偽相國驩國王の季揝を獲た。ほかの賊もすべて平らげられた。
  • 翌年(永樂十三年、1415年)二月、張輔・沐晟らは師を還して京に入った。四月、あらためて張輔に征夷將軍印を佩びさせて出鎮させ、永樂十四年(1416年)召還した。翌年(永樂十五年、1417年)、豐城侯の李彬に代わって鎮させた。

黎利らの蜂起

  • 交人はもともと乱を好み、中官の馬騏が採辦のために至って境内の珍宝を大いに捜索したので、人情が騒ぎ立ち、狡猾な者がこれを煽った。大軍が還るや、いっせいに起こって乱をなした。陸那の阮貞、順州の黎核・潘強と土官同知の陳可論・判官の阮昭・千戸の陳忷、南靈州判官の阮擬、左平知縣の范伯高・縣丞の武萬・百戸の陳已律らが同時にそろって反した。李彬はみな将を遣わして討ち滅ぼしたが、反する者はなお絶えなかった。
  • 俄樂巡檢の黎利、四忙の故知縣である車綿の子の三、乂安知府の潘僚、南靈州千戸の陳順慶、乂安衛百戸の陳直誠もまた機に乗じて乱をなした。
  • そのほか奸悪の徒として、范軟は浮樂に起こり、武貢・黄汝典は偈江に起こり、儂文歴は邱温に起こり、陳木果は武定に起こり、阮特は快州に起こり、吳巨來は善誓に起こり、鄭公證・黎姪は同利に起こり、陶強は善才に起こり、丁宗老は大灣に起こり、范玉は安老に起こって、みなみずから官爵を署し、将吏を殺し、廬舎を焼いた。楊恭・阮多という者はいずれも王を自称し、その一味の韋五・譚興邦・阮嘉を太師・平章に署し、諸々の賊と相寄りかかった。
  • なかでも潘僚と范玉がとくに猖獗をきわめた。潘僚は故乂安知府の季祐の子で、父の職を嗣いだが、馬騏の虐政に耐えかねて反し、土官指揮の路文律・千戸の陳苔らがこれに従った。范玉は塗山寺の僧で、天から印と剣が降ったとみずから言い、僭って羅平王と称し、永寧と紀元し、范善・吳中・黎行・陶承らとともに乱をなして、彼らを相國・司空・大将軍に署し、城邑を攻め掠めた。
  • 李彬は東西に征討して日々暇がなかった。中朝は賊が久しく平らがないので、永樂十八年(1420年)、榮昌伯の陳智を左參將としてこれを助けさせた。さらに敕を降して李彬を責め、「叛寇の潘僚・黎利・車三・儂文厯らが今に至るまで捕らえられていない。兵はいつ息み、民はいつ安んずるのか。広く方略を立てて速やかに平定を奏せ」と言った。李彬は恐懼して諸将を督して追討し、翌年秋には賊はことごとく破滅したが、ただ黎利だけは捕らえられなかった。
  • 黎利ははじめ陳季擴に仕えて金吾將軍となり、のちに帰順して清化府俄樂縣の巡檢に用いられたが、鬱々として志を得なかった。大軍が還ると反し、僭って平定王と称し、弟の石を相國とし、その一味の段莽・范栁・范晏らとともに兵を放って掠奪をほしいままにした。官軍が討って范晏らを生け捕ると、黎利は逃げ去った。
  • しばらくして出て可藍柵に拠り、掠奪を行った。諸将の方政・師祐が掃討してその偽将軍の阮箇立らを捕らえると、黎利は老撾に逃げ隠れた。方政らが還ると、黎利はひそかに出て玉局巡檢を殺し、さらに出て磊江を掠め、追撃するたびに逃げ去った。群盗がことごとく滅ぶと、黎利はいよいよ深く隠れた。
  • 李彬は、黎利が老撾に逃げ込み、老撾は官軍に入らないでほしい、自分の部下の兵をすべて発して黎利を捕らえると言いながら、今なお遣わさないので、その意図は測りがたいと奏した。帝は老撾が賊を匿っていると疑い、李彬にその使臣を京に送らせて詰問したところ、老撾はそこで黎利を追い出した。
  • 永樂二十年(1422年)春、李彬が卒し、詔して陳智を代わらせた。永樂二十一年(1423年)、陳智は寧化州の車來縣で黎利を追い、これを破ったが、黎利はまた遠く逃げた。
  • 翌年(永樂二十二年、1424年)秋、陳智は、黎利ははじめ老撾へ逃げ、のちに追い出されて瑰縣に帰り、官軍が進撃するとその頭目の范仰らはすでに男女千六百人を率いて降った、黎利は撫を求めて配下を率いて帰順したいとは言うものの、俄樂に止まって出ず、軍器を造ることをやめないので、必ず進兵すべきだと奏した。奏が至ったとき、ちょうど仁宗が即位して天下に大赦したので、陳智に敕して手厚く撫せしめた。

陳智・王通の敗績

  • ところが黎利はすでに茶籠州を寇し、方政の軍を破って指揮の伍雲を殺していた。黎利は叛く前に鎮守中官の山夀と親しかったので、山壽が朝に還ると、黎利は自分を信じているから今行って諭せば必ず帰順すると力説した。帝は「この賊は狡猾だ。もし欺かれればその勢いはますます熾んになり、制しにくくなる」と言った。山壽は叩頭して「臣が行って諭しても黎利が来なければ、臣は万死に値する」と言った。帝はうなずき、山壽に敕を持たせて黎利に清化知府を授け、きわめて手厚く慰諭させた。
  • 敕が降ったばかりのところ、黎利はすでに清化を寇して都指揮の陳忠を殺していた。黎利は敕を得ても降る意思はなく、そのまま撫を口実に守臣を欺き、秋の涼しくなるのを待って任地に赴くと偽り言いながら、寇掠はやまなかった。
  • そのころ洪熙と改元され、将軍印を鋳て辺将に分け頒ち、陳智は征夷副將軍印を得、さらに安平伯の李安に命じて補佐させた。陳智はもとより将略がなく、賊を憚り、撫を口実にして中朝を欺き、しかも方政と仲が悪く、そこで兵を止めて進まなかった。賊はますます憚るところがなくなり、ふたたび茶籠を囲んだが、陳智らは坐視して救わなかった。七か月を経て城中の糧が尽きた。巡按御史が奏聞したが、奏が至ったところで仁宗が崩じた。
  • 宣宗が即位したばかりのころ、陳智および三司の官を責める敕を出したが、陳智らは意に介さなかった。茶籠はついに陥ち、知府の琴彭が戦死した。
  • 尚書で布・按二司を掌る陳洽が言った。黎利は降を乞うといっても内心は二心を抱いており、すでに茶籠を陥として、さらに玉麻の土官や老撾の酋長と結んで悪を共にしている。はじめは秋の涼しくなるのを待つと言い、今その秋も過ぎると、こんどは參政の梁汝笏と怨みがあるから茶籠州に改授してほしいと言い、そのうえ逆党の潘僚・路文律らを嘉興・廣威の諸州へ遣わして徒衆を招き集めており、勢いは日に日に蔓延している。総兵の任にある者に命じて速やかに掃討させてほしい、と。
  • 奏が上がると、敕を降して厳しく責め、翌春までに賊を平らげよと期限を切った。陳智はようやく恐れ、方政とともに可留關に迫ったが、敗れて還り、茶籠に至ってまた敗れた。方政は勇であるが謀に乏しく、陳智は懦弱で猜疑が多く、もとより折り合わず、しかも山壽は招撫ばかりを専らにして兵を擁したまま乂安にいて救わなかった。そのためたびたび敗れたのである。
  • 宣徳元年(1426年)春、事が聞こえ、ふたたび敕を降して厳しく責めた。時に賊の首魁がまだ平らがないうちに小賊が蜂起し、美留の潘可利が逆を助け、宣化の周莊・太原の黄菴らが雲南寧逺州の紅衣賊と結んで大いに掠奪した。帝は沐晟に敕して寧逺を掃討させ、また西南の諸衛の軍一万五千・弩手三千を交阯に赴かせ、あわせて老撾に叛人をかくまうなと敕した。
  • 四月、成山侯の王通を征夷將軍、都督の馬瑛を參將として黎利を討たせ、陳智・方政の職を削って為事官とした。王通がまだ着かないうちに賊が清化を犯し、方政は出て戦わなかったが、都指揮の王演がこれを撃ち破った。詔して交阯の罪人を大赦し、黎利・潘僚も降れば職を授けるとし、金銀・香貨の採辦を停めて賊を鎮めようとしたが、賊に改悛の心はなかった。
  • 方政が諸軍を督して進討したとき、李安および都指揮の于瓚・謝鳳・薛聚・朱廣らが先に逃げたため、方政はこれによって敗れ、いずれも為事官に謫されて功を立てて罪を贖うこととなった。
  • ほどなく陳智は都指揮の袁亮を遣わして廣威州で賊の黎善を撃たせた。河を渡ろうとしたとき、土官の何加伉が伏兵があると言ったが、袁亮は従わず、指揮の陶森・錢輔らを遣わして河を渡らせたところ、伏兵に遭ってともに死に、袁亮もまた捕らえられた。黎善はそこで兵を三道に分けて交州を犯したが、下關を攻めた者は都督の陳濬に破られ、邊江の小門を攻めた者は李安に破られ、黎善は夜に逃げた。
  • 王通はこれを聞いて同じく兵を三道に分けて出撃した。馬瑛は清威で賊を破り、石室に至って王通と会し、ともに應平の寧橋に至ったが、士卒が泥濘の中を行くところで伏兵に遭って大敗し、尚書の陳洽が戦死し、王通もまた脇に傷を受けて還った。
  • 黎利は乂安でこれを聞き、鼓を鳴らして進んで清潭に至り、北江を攻め、進んで東關を囲んだ。王通はもとより戦功がなく、父の王真が国事に死んだことで封ぜられた者であり、朝廷はその凡庸さを知らず誤って用いたのであった。一戦して敗れると心胆ともに失い、挙動は常軌を逸し、朝命を奉ぜず、擅に清化以南の地を割いて賊に与え、官吏・軍民をことごとく撤して東關に還した。ただ清化知府の羅通だけが従わず、黎利が兵を移して攻めたが陥ちなかった。賊が兵一万を分けて隘留關を囲んだときは、百戸の萬琮が奮戦したので退いた。
  • 帝は王通の敗を聞いて大いに驚き、安逺侯の栁升を總兵官、保定伯の梁銘をその副として、軍を督して討伐に赴かせた。また沐晟を征南將軍、興安伯の徐亨・新寧伯の譚忠を左右副將軍として雲南から進兵させ、両軍あわせて七万余人であった。あらためて王通に固く守って栁升を待てと敕した。
  • 宣徳二年(1427年)春、黎利が交州を犯し、王通は戦って偽太監の黎祕および太尉・司徒・司空らの官を斬り、獲た首級は万を数え、黎利は胆をつぶして逃げた。諸将は勢いに乗じて追うことを請うたが、王通は三日ぐずぐずした。賊はその怯えを知り、ふたたび寨を立て濠を深くし、四方に出て掠奪した。
  • 三月、さらに三万三千人を発して栁升・沐晟に従わせて征討させた。賊は兵を分けて邱溫を囲み、都指揮の孫聚が力戦して拒んだ。これより先、賊は昌江が大軍往来の要路であるとして、衆八万余人を発して攻め、都指揮の李任らが力戦して賊を多く殺したが、九か月を経ても諸将は様子見をして救わなかった。賊は栁升の大軍が来るのを恐れていよいよ激しく攻め、夏四月に城は陥ち、李任は戦死した。
  • そのころ賊が交州を囲むこと久しく、王通は城を閉ざして出ようとしなかったので、賊はますます侮り、書を送って和を請うた。王通はこれを許そうとして衆を集めて議した。按察使の楊時習が「命を奉じて賊を討つのに、賊と和して擅に師を退けては、どうして罪を逃れられよう」と言うと、王通は怒って厲しい声で叱りつけ、衆は何も言えなくなった。そこで黎利の書を奏聞した。
  • 栁升は命を受けてから久しく、諸軍が集まるのを待って、九月にようやく隘留關に至った。黎利はすでに王通と話をつけていたので、詐って陳氏に後嗣があると称し、大小の頭目を率いて書を具えて栁升の軍に詣で、兵を罷めて陳氏の裔を立ててほしいと乞うた。栁升は封も開かず、使者を遣わして奏聞した。
  • 間もなく栁升は進んで倒馬坡に迫ったところで陥って戦死し、後軍も相次いでことごとく戦死した。王通はこれを聞いて甚だしく恐れ、軍民・官吏を大いに集めて下哨河に出、壇を立てて黎利と盟誓し、退師を約し、そのうえで官を遣わして賊の使者とともに表と方物を進献させた。沐晟の軍は水尾に至って船を造り進もうとしていたが、王通がすでに和を議したと聞いてこれも退き、賊がこれに乗じて大敗させた。

交阯の放棄

  • 鴻臚寺が賊から栁升にあてた書を進めた。その大要はこうである。高皇帝が龍飛されたとき、安南は真っ先に朝貢して、格別に褒賞を蒙り玉章を賜った。のち黎賊が簒奪弑逆し、太宗皇帝が師を興して討ち滅ぼし、陳氏の子孫を求められたが、陳の一族は禍を避けて遠くに逃げていたので尋ね出せなかった。今、遺嗣の暠が老撾に身を潜めて二十年になり、本国の人民は先王の遺澤を忘れず、すでにこれを尋ね当てた。もし天子に取り次いでいただき、太宗皇帝の絶えたるを継がせる明詔にならってその爵土を返していただけるなら、ひとり陳氏一門のみならず、まことに蛮邦億万の生民の幸いである、と。帝は書を得てうなずいた。
  • 翌日、暠の表もまた至り、暠は先王の暊の三世の嫡孫であると称し、その文言は黎利の書とほぼ同じであった。帝は心ではその詐りを知りながら、これに藉りて兵を息めようとして、その言を受け入れた。
  • はじめ帝は即位したとき、楊士竒・楊榮と交阯の事を語り、すでに棄てようとしていた。ここに至って表を廷臣に示し、兵を罷め民を息ませる意を諭した。楊士竒・楊榮は力を尽くしてこれに賛成し、ただ蹇義・夏原吉だけが不可としたが、帝の意はすでに決しており、廷臣は争えなかった。
  • 十一月朔、礼部左侍郎の李琦・工部右侍郎の羅汝敬を正使、右通政の黄驥・鴻臚卿の徐永達を副使として、詔を持たせて安南の人民を撫諭し、その罪をことごとく赦して新たにやり直させ、陳氏の後人の実情を具さに報告させることとした。あわせて黎利に、滅びたものを興し絶えたものを継がせる意を敕し、さらに王通および三司の官に、軍民をことごとく撤して北に還るよう諭した。
  • 詔が至らないうちに、王通はすでに交阯を棄て、陸路から広西に還り、中官の山壽・馬騏および三司の守令は水路から欽州に還った。還り得た者はわずか八万六千人で、賊に殺され、あるいは抑留された者は数え切れなかった。天下はこぞって王通が地を棄て民に殃いしたことを憎んだが、帝は怒らなかった。
  • 宣徳三年(1428年)夏、王通らが京に至り、文武の諸臣がそろってその罪を奏し、廷鞫で罪状を認めたので、陳智・馬瑛・方政・山壽・馬騏および布政使の弋謙とともに死罪と論じ、獄に下してその家を籍没した。帝はついに誅さず、長く繋いで裁決を待たせただけであった。馬騏は暴虐をほしいままにして変を激発させた罪がとりわけ重く、弋謙は実は罪がないのに同じく論じられたので、当時の議論はこれを非とした。廷臣はさらに沐晟・徐亨・譚忠のぐずついた罪と師を失い国を辱めた罪を弾劾したが、帝は問わなかった。

黎利の受封

  • 李琦らが朝に還ると、黎利は使者を遣わし表を奉って謝恩し、暠は正月に死去し陳氏の子孫は絶えたので、国人が黎利を推してその国を守らせている、つつしんで朝命を待つ、と偽り言った。帝もその詐りは知っていて、にわかに封じようとはせず、あらためて羅汝敬・徐永達を遣わして黎利とその配下を諭し、陳氏を尋ね、あわせて官吏・人民およびその家族をことごとく返させるよう命じた。
  • 翌年(宣徳四年、1429年)春、羅汝敬らが還った。黎利はまた陳氏に遺種はないので別に命じてほしいと言い、方物および代身の金人を貢いだ。さらに、臣の九歳の娘が乱に遭って離散し、のちに馬騏が連れ帰って宮婢としたと知った、臣は児女の私情に堪えず、あえて願い出る、と言った。帝は、陳氏に後嗣があるなら黎利は必ず言うまいと心では知っていたが、黎利を封ずる名分がないので、あらためて李琦・羅汝敬に命じて敕諭させ、再度尋ねさせ、あわせて黎利の娘は病死したと告げさせた。
  • 宣徳五年(1430年)春、李琦らが還った。黎利は使者を遣わして金銀器・方物を貢ぎ、またも言葉を飾って上奏し、あわせて頭目・耆老の奏を具えて黎利に国政を摂らせるよう請うた。使臣が帰るとき、帝はあらためて陳氏の裔を尋ねること、中国の遺民を返すことの二事を諭したが、言葉はさほど強くなかった。
  • 翌年(宣徳六年、1431年)夏、黎利は使者を遣わして謝罪し、二事については言葉を飾って答え、あらためて頭目・耆老の奏を進めて、なお黎利のために封を乞うた。帝はそこでこれを許し、礼部右侍郎の章敞・右通政の徐琦に敕と印を持たせ、黎利に安南國事を権署させた。黎利は使者に表と金銀器・方物を持たせて章敞らに随って入貢させ、宣徳七年(1432年)二月に京師に達し、帰るときには黎利と使臣にみな賜物があった。
  • 翌年(宣徳八年、1433年)八月に来貢し、兵部侍郎の徐琦らにその使者と同行を命じ、天に順い民を保つ道を諭させた。この年、黎利が卒した。
  • 黎利は敕命を受けたとはいえ、国にあっては帝を称し、順天と紀元し、東西の二都を建て、十三道に分けた。山南・京北・山西・海陽・安邦・諒山・太原・明光・諒化・清華・乂安・順化・廣南といい、それぞれに承政司・憲察司・總兵使司を設けて中国の三司になぞらえた。東都は交州府にあり、西都は清華府にあった。百官を置き、学校を設け、経義・詩賦の二科で士を取り、文化はりっぱで中華の風があった。位を僭すること六年、私に太祖と諡された。

黎麟・黎濬の時代

  • 子の麟が嗣いだ。麟にはもう一つ龍という名があった。これ以後、その君長はみな二つの名を持ち、一方の名で天朝に奏し、貢献は常制のとおり絶えなかった。
  • 麟が使者を遣わして訃を告げると、侍郎の章敞・行人の侯璡に命じて麟に国事を権署させる敕を出した。翌年、使者を遣わして入貢し謝恩した。
  • 正統元年(1436年)四月、宣宗の崩御により使者を遣わして進香し、また英宗の登極および太皇太后・皇太后の位号を尊上したことについて、いずれも使者を遣わして表賀し方物を貢いだ。閏六月にもまた貢いだ。帝は陳氏の宗支がすでに絶えたので麟に正式に位に即かせようとし、廷議に下すとみな適当だとしたので、兵部右侍郎の李郁・左通政の柰亨に敕と印を持たせて麟を安南國王に封じた。翌年、使者を遣わして入貢し謝恩した。
  • そのころ安南の思郎州の土官が広西の安平・思陵の二州を攻め掠め、二峒二十一村を占拠した。帝は給事中の湯鼐・行人の高寅に命じて麟に侵した地を返すよう敕した。麟は命を奉じて使者を遣わし謝罪したが、あわせて安平・思陵の土官が思郎を侵掠していると訴えた。帝は守臣に厳しく取り締まらせた。
  • 正統七年(1442年)、安南の貢使が帰るとき、皮弁の冠服と金織の襲衣を持たせてその王に賜った。この年、麟が卒し、私に太宗と諡された。その改元は二度で、紹平六年・大寶三年であった。
  • 子の濬が嗣いだ。もう一つの名を基隆という。使者を遣わして訃を告げたので、光禄少卿の宋傑・兵科都給事中の薛謙に命じて節を持たせ国王に冊封させた。
  • 濬は将を遣わして占城を侵し、新州港を奪い、その王の摩訶賁該を擄えて帰った。帝は占城のために新王の摩訶貴來を立て、安南の使者に敕して濬にその旧王を返すよう諭したが、濬は詔を奉ぜず、掠めた人口は三万三千余に及び、占城が訴え出た。
  • 景泰元年(1450年)、敕を賜って濬を戒めたが、ついに詔を奉じなかった。景泰四年(1453年)、使者を遣わして皇太子冊立を賀した。
  • 天順元年(1457年)、使者を遣わして入貢し、朝鮮の例のように衮冕を賜りたいと乞うたが、許されなかった。その使者が土産の品で書籍・薬材と交易したいと乞うたのは許された。天順二年、使者を遣わして英宗の復辟を賀した。天順三年十月、その庶兄である諒山王の琮が濬を弑して自立した。濬の改元は二度で、大利十一年・延寧六年、私に仁宗と諡された。
  • 琮はもう一つの名を宜民という。位を簒って九か月、天與と改元したが、国人に誅され、厲徳侯に貶された。

黎灝の時代

  • 濬の弟の灝が嗣いだ。灝はもう一つの名を思誠という。
  • はじめ琮が濬を弑したとき、湖に遊んで溺死したと天朝に奏した。官を遣わして弔祭されることを知らず、琮は天使が至って実情に気づくのを恐れ、礼に溺死は弔わないとあるので天使を煩わせたくないと言った。帝はそこで取りやめた。使者が濬に子がないので琮を封じてほしいと言ったので、通政參議の尹旻・礼科給事中の王豫に命じて封じに行かせたが、まだ国境に入らないうちに琮がすでに誅され灝が位を嗣いだと聞き、そのまま引き返した。
  • 灝は続けて使者を遣わして朝貢し封を請うたが、礼官はその詐りを疑い、広西の守臣に事実を調べて奏請させるよう請い、許された。使臣が、礼には生きては封があり死しては祭があるとあり、今、濬の死が明らかになったのだから祭を賜りたいと言ったので、行人に命じて祭らせた。
  • 天順六年(1462年)二月、侍讀學士の錢溥・給事中の王豫に命じて灝を国王に封じた。憲宗が即位すると、尚書卿の淩信・行人の邵震に命じて王と妃に綵幣を賜った。灝は使者を遣わして来貢し、ついでに冕服を請うたが許されず、ただ皮弁の冠服と紗帽・犀帯を賜った。
  • 成化元年(1465年)八月、英宗の崩御により使者を遣わして進香し、裕陵に赴いて礼を行わせた。
  • 灝は雄豪をもって自負し、国は富み兵は強く、そのまま増長した。成化四年(1468年)、広西の慿祥を侵し占拠したので、帝は聞いて守臣に厳重に備えさせた。成化七年(1471年)、占城を破ってその王の盤羅茶全を捕らえた。三年余りたってまた破り、その王の盤羅茶悦を捕らえ、ついにその国を改めて交南州とし、兵を置いて守らせた。
  • 安南の貢道はもともと広西を経ていた。当時、雲南の鎮守中官の錢能が貪欲・放恣で、指揮の郭景に敕を持たせてその貨を取りに行かせた。灝はもとより雲南をうかがおうとしていたので、広西の龍州の罪人を送り届けることを口実に、郭景に随って雲南を借りて京に入ろうとし、人夫六百余を要求し、しかも兵を発してその後に続かせたので、雲南は大いに騒いだ。兵部は、雲南は貢道ではなく、龍州の罪人は広西に送るべきで京に赴く必要はないと言い、そこで守臣に檄して諭させ、あわせて辺備を厳しくさせた。
  • 灝は慿祥を得、占城を滅ぼすと、そのうえ広東の瓊州・雷州を侵して珠池を盗み、広西の龍州・右平、雲南の臨安・廣南・鎮安もまたしばしば警報を告げた。詔して守臣に問いただすと、そのつど偽りの言葉で答えた。廟堂は事なかれ主義で、たびたび敕諭を降しても厳しい言葉はなく、灝はますます侮って憚るところがなくなった。
  • 灝は、占城王の盤羅茶全が化州の道を侵し、その弟の盤羅茶悦に弑され、それによって自立し、封を受けようとするときに子の茶質苔に弑されたのであって、その国が自ら乱れたのであり、臣・灝の罪ではないと言った。中朝はその詐りを知りながら問いつめることができず、ただその土地を返すよう勧めるだけであった。
  • 灝は上奏して言った。占城は肥沃な土地ではなく、家に蓄えは乏しく、野に桑麻は絶え、山に金宝の産はなく、海に魚塩の利はない。産するのは象牙・犀角・烏木・沈香だけである。その地を得ても住めず、その民を得ても使えず、その貨を得ても富むに足りない。これが臣が占城を侵奪していない理由である。明詔で臣にその土地を回復させよと仰せられるので、どうか朝廷の使者を遣わして境界を画定し、両国の辺境を休息させてほしい。臣の至願にたえない、と。当時、占城は長く灝に占拠されていたのに、その言葉はこのように偽りであった。
  • これより先、安南の入貢は私物を多く携え、慿祥・龍州を通るとき運搬の人手が足りず、そのつど恨みの種を作っていた。ちょうど使者を遣わして皇太子冊立を賀してきたので、詔してこれを禁止し戒めた。
  • 成化十五年(1479年)冬、灝は兵八百余人を遣わして雲南の蒙自の境を越えさせ、盗賊を捕らえると称して擅に営を結び家を築いて居らせた。守臣が力を尽くして止めてようやく退いた。
  • 灝は占城を破ってから志はいよいよ大きくなり、みずから兵九万を督し、山を開いて三道とし、哀牢を攻め破り、老撾を侵してこれも大いに破り、宣慰の刀板雅蘭掌ら父子三人を殺した。その末子の怕雅賽は八百に走って免れた。灝はさらに糧を積み兵を練り、偽の敕を車里に頒って兵を徴発し、合わせて八百を攻めた。ところが将士で急死する者が数千人に及び、みな雷霆に撃たれたのだと言った。八百はそこで帰路をふさぎ、襲って一万余人を殺したので、灝はようやく軍を引いて還った。帝は廷議に下し、広西布政司に灝へ檄して兵を収めさせ、雲南・両広の守臣に辺備を戒めさせるにとどめた。やがて灝は老撾を侵していない、そのうえ八百の疆域がどこにあるかも知らないと言った。その言葉は甚だ偽り欺くものであったが、帝はあらためて慰諭し、灝はついに命を奉じなかった。
  • 成化十七年(1481年)秋、滿刺加もまた侵されたと訴えたので、帝は使者に敕して隣国と睦み国を保つよう諭させた。ほどなくその使臣が入貢し、暹羅・爪哇の例にならって冠帯を賜りたいと請うたので、許したが先例とはしなかった。
  • 孝宗が即位すると、侍讀の劉戩に命じてその国に詔諭させた。その使臣が来貢したが、大喪のため引見の奏は免ぜられた。
  • 弘治三年(1490年)、占城王の古來が天朝の力で帰国できたのち、あらためて安南に侵されていると訴えた。兵部尚書の馬文升は安南の使臣を召して、「帰って汝の主に告げよ。それぞれ疆土を保って太平を享受せよ。さもなくば、朝廷がひとたび赫然と震怒し、天兵が境に迫ること永樂朝のごとくになれば、汝の主は悔いずにいられようか」と言った。安南はこれ以来、恐れるところがあった。
  • 弘治十年(1497年)、灝が卒し、私に聖宗と諡された。その改元は二度で、光順十年・洪徳二十八年であった。

黎氏後期の内乱

  • 子の暉が嗣いだ。もう一つの名を鏳という。使者を遣わして訃を告げたので、行人の徐鈺に命じて祭らせた。ほどなく暉に皮弁服・金犀帯を賜った。その使臣が、国主は王に封ぜられたのに賜わる服が臣下と区別がないので改めて賜りたいと言った。礼官は、安南は名は王でも実は中国の臣である、嗣王が新たに立てば必ず皮弁の冠服を賜り、一国を主宰する尊厳を失わせないようにし、また一品の常服を賜って中国に臣事する義を忘れさせないようにするのだ、今の願いは祖制を紊乱するもので許してはならない、ただしこれは使臣の罪ではなく通事の者が導いて妄りに奏させたものだから懲らすべきだ、と言った。帝は特別にこれを宥した。
  • 弘治十七年(1504年)、暉が卒し、私に憲宗と諡された。その改元は景統という。
  • 子の□(底本欠字)が嗣いだ。もう一つの名を敬甫という。七か月で卒し、私に肅宗と諡された。
  • 弟の誼が嗣いだ。もう一つの名を璿という。武宗が即位すると、修撰の倫文敘・給事中の張𢎞至に命じてその国に詔諭させた。誼もまた使者を遣わして訃を告げたので、官に命じて常の儀式どおり致祭させた。正徳元年(1506年)、王に冊立した。
  • 誼は母方の一族である阮种・阮伯勝の兄弟を寵任し、威虐をほしいままに行い、宗親を屠戮し、祖母を毒殺した。阮种らは寵を恃んで権を盗み、正徳四年(1509年)、誼を逼って自殺させ、その弟を擁立した。誼を厲愍王に貶したが、国人の黎廣らがこれを討って誅し、灝の孫の晭を立て、誼の諡を改めて威穆帝とした。誼は在位四年、端慶と改元していた。
  • 晭はもう一つの名を瀅という。正徳七年(1512年)に封を受けたが、不義の行いが多かった。正徳十一年(1516年)、社堂の焼香官である陳暠がその二子の昺・昇とともに乱を起こし、晭を殺して自立し、前王の陳氏の後だと偽り言い、なお大虞皇帝と称し、應天と改元し、晭を靈隱王に貶した。
  • 晭の臣で都齋の力士であった莫登庸は、はじめ陳暠についたが、のちに黎氏の大臣の阮𢎞裕らとともに兵を起こしてこれを討った。陳暠は敗走し、昺およびその一味の陳璲らを獲た。陳暠は昇とともに諒山道へ奔り、長寧・太原・清節の三府に拠って自ら保った。
  • 莫登庸らはそこで晭の兄である灦の子の譓を共に立て、晭の諡を襄翼帝と改めた。晭は在位七年、洪順と改元していた。
  • 譓は封を請おうとしたが、国が乱れていたので果たさなかった。莫登庸には功があったので武川伯に封じ、水陸の諸軍を統べさせた。兵権を握ると、ひそかに異心を蓄えた。黎氏の臣の鄭綏は、譓がいたずらに虚位を擁しているだけだとして、別にその族子の酉榜を立て、兵を発して都城を攻めたので、譓は出て走った。莫登庸は鄭綏の兵を撃ち破り、酉榜を捕らえて殺し、ますます功を恃んで専恣となり、ついに譓の母を無理に妻とし、譓を迎え帰らせて、自分を太傅仁國公と称した。
  • 正徳十六年(1521年)、兵を率いて陳暠を攻め、陳暠は敗走して死んだ。

莫登庸の簒奪

  • 嘉靖元年(1522年)、莫登庸はみずから安興王と称し、譓を弑そうと謀った。譓の母が告げたので、譓は臣の杜溫潤とひそかに落ちのびて免れ、清華に居した。莫登庸はその庶弟の懬を立て、海東の長慶府に移り住まわせた。
  • 世宗が即位すると、編修の孫承恩・給事中の俞敦に命じてその国に詔諭させたが、龍州に至ってその国が大いに乱れ道が通じないと聞き、そのまま引き返した。
  • 嘉靖四年(1525年)夏、譓は使者を遣わして間道から通貢しあわせて封を請おうとしたが、莫登庸に阻まれた。翌年春、莫登庸は欽州判官の唐清に賄賂を贈って懬のために封を求めさせたが、総督の張嵿が唐清を逮え、獄中で死なせた。
  • 嘉靖六年(1527年)、莫登庸はその一味の范嘉謨に懬の禅譲の詔を偽作させてその位を簒い、明徳と改元し、子の方瀛を皇太子に立て、まもなく懬を毒殺して恭皇帝と諡した。年を越えて使者を遣わして来貢させたが、諒山城に至って攻められ引き返した。
  • 嘉靖九年(1530年)、莫登庸は方瀛に位を譲り、みずから太上皇と称し、都齋の海陽に移り住んで方瀛の外援となり、大誥五十九条を作って国中に頒った。方瀛は大正と改元した。その年九月、黎譓が清華で卒し、国は亡んだ。

嘉靖の征討議

  • 嘉靖十五年(1536年)冬、皇子が生まれ、安南に詔を頒つべきときとなった。礼官の夏言が言った。安南は貢がないことすでに二十年、両広の守臣は、黎譓・黎懬はいずれも黎晭の立てるべき嫡子ではなく、莫登庸・陳暠はともにかの国の簒逆の臣だと言っている。官を遣わして按問し罪人と主君の名を求めるべきである。しかも前の使者はすでに道がふさがれて通じなかったのだから、今は使命を暫く停めるべきだ、と。
  • 帝は安南の叛逆は明白であり、急ぎ官を遣わして調べさせるべきだとし、夏言に兵部と会して征討を議させた。夏言および本兵の張瓚らは、逆臣が主を簒って国を奪い朝貢を修めないのだから、断じて討伐すべきだと力説し、まず錦衣の官二人を遣わしてその実情を調べさせ、両広・雲南の守臣に敕して兵を整え餉を積んで出師の時期を待たせるよう乞い、制可された。
  • そこで千戸の陶鳳儀・鄭璽らに命じて広西・雲南に分かれて赴かせ、罪人と主君の名を問いただし、四川・貴州・湖廣・福建・江西の守臣に敕して兵糧を準備して征調を待たせた。
  • 戸部侍郎の唐胄が上疏して用兵の七不可を力説した。その言葉はその伝に詳しい。末に、安南は乱れているとはいえ、なお頻りに表箋を奉り方物を具えて関に款き入国を求めているのに、守臣がその姓名が合わないとして拒んでいる、これは彼らが貢ごうとしてできないのであって、頑なさを恃んで貢がないのではない、と言った。章は兵部に下され、兵部もそのとおりだとし、勘官の帰還を待って改めて議するよう命じられた。
  • 嘉靖十六年(1537年)、安南の黎寧が国人の鄭惟僚らを京に遣わし、莫登庸の簒奪弑逆の状を具さに陳べ、寧は譓の子であり、譓が卒すると国人が寧を世孫に立てて国事を権主させている、たびたび辺臣に書を馳せて難を告げたがみな莫登庸に途中で殺された、師を興して罪を問い速やかに国賊を除いてほしいと言った。当時、嚴嵩が礼部を掌っており、その言は全ては信じられないとして、勘官の帰りの奏を待つ間これを引き止めるよう請い、許された。
  • ほどなく陶鳳儀らを召し還し、礼・兵の二部に廷臣と会議させ、莫登庸の十大罪を列挙し、大いに宸断を振るって期日を定めて征くよう請うた。そこで右都御史の毛伯溫を家から起こして参贊軍務とし、戸部侍郎の胡璉・高公韶に命じてまず雲貴・両広に馳せて軍食を調度させ、都督僉事の江桓・牛桓を左右副總兵として軍を督して征討させ、その大将は後命を待つこととした。兵部はさらに詔を奉じて用兵の機宜十二事を条陳した。
  • ただ侍郎の潘珍だけが不可として、抗疏して切に諫めたので、帝は怒ってその職を剥奪した。両広総督の潘旦もまた疏を馳せて前命を停めるよう請い、朝廷がまさに問罪の師を興そうとしているところへ莫登庸が貢を求める使者を出してきたのだから、これに乗じて許し、戒厳して変を観望し、かの国が自ら定まるのを待つべきだと言った。嚴嵩・張瓚は帝の意向をうかがい、宥してはならないと力説し、しかも黎寧は清都にあって恢復を図っているのに、潘旦はかの国はすでに定まったといい上表して貢を求めているというのは、決して許してはならないと言った。潘旦の疏はそのまま握りつぶされた。
  • 五月、毛伯溫が京に至り、方略六事を上奏し、潘旦とは共に事ができないので代えてほしいと請い、優詔で褒め答えられた。兵部の議が上がると、帝の意はにわかに変わり、黎寧の誠偽がまだ明らかでないとして、三方の守臣に適宜に撫と討を行わせ、参贊・督餉の大臣はみな暫く停め、潘旦は他に調用して張經を代わらせた。
  • そのころ御史の徐九臯・給事中の謝廷□(底本欠字)が修省について陳言し、あわせて征南の師を罷めるよう請うた。
  • 八月、雲南巡撫の汪文盛が莫登庸の間諜およびその撰した偽の大誥を獲て奏聞したので、帝は震怒し、守臣になお前の詔に従って征討せよと命じた。当時、汪文盛は黎氏の旧臣である武文淵を招き入れ、その進兵の地図を得て、莫登庸は必ず破れると考え、これを朝に上した。
  • 広東の按臣の余光が言った。莫氏が黎を簒ったのは黎氏が陳を簒ったのと同じで深く争うに足りない。ただその朝廷に来ないことを罪とし、臣を称し貢を修めよと責めるべきで、遠征して中国を疲弊させる必要はない。臣はすでに使者を遣わして宣諭した。彼らが帰順してくるならそれに乗じて撫納すべきだ、と。帝は余光を軽率だとして俸禄一年を奪った。
  • 汪文盛はただちに安南に檄を伝え、莫登庸が身を束ねて命に帰し、輿図を籍にして差し出すなら、死なせずに扱おうと告げた。そこで莫登庸父子は使者を遣わして表を奉り降を乞い、あわせて汪文盛および黔國公の沐朝輔に牒を投じ、黎氏の衰乱と陳暠の叛逆を具さに述べ、自分と方瀛には功があって国人が帰服したのだ、所有する土地はすでに一統志に載っている、その罪を許して制のとおり貢を修めさせてほしいと述べた。沐朝輔らは嘉靖十七年(1538年)三月にこれを奏聞した。
  • 一方、黎寧は前の詔を承け、天朝がついにその降を受け入れることを恐れ、本国の簒奪弑逆の始末および軍馬の数、水陸の進兵の道程を具えて上申した。いずれも兵部に下して廷臣を集めて議させると、みな莫氏の罪は赦せない、速やかに進軍すべきだと言い、もともと推されていた咸寧侯の仇鸞を總督軍務とし、毛伯溫はなお参贊とするよう請い、許された。
  • 張經が上言した。安南への進兵の道は六つあり、兵は三十万を用いるべきで、一年の餉は百六十万を要し、舟を造り馬を買い器を作り軍を犒う諸費用はさらに七十余万を要する。まして我が方は大軍を動かして炎熱の海を渡るのであり、彼我の労逸の勢いは異なる。慎重に処さないわけにはいかない、と。疏が上がったばかりのところ、欽州知州の林希元がまた莫登庸を取ることができる状を力説した。兵部は決しかね、あらためて廷議を請うた。議が上がると、帝は不快として、「朕は卿ら士大夫の私議がみな師を興すべきでないと言っていると聞く。汝らは邦政を職掌しながらまるで主体性がなく、すべてを会議に委ねている。心を協せて国を謀らないのなら、やめてしまえ」と言い、仇鸞・毛伯溫は別に用いた。
  • 嘉靖十八年(1539年)、皇太子を冊立し、安南に詔を頒つべきときとなり、特に黄綰を起こして礼部尚書とし、学士の張治をその副として、その国に使いさせることとした。命が下ったばかりのところ、方瀛が使者を遣わして表を上って降り、あわせてその土地・戸口を籍にして天朝の処分に任せた。その数、府は五十三、州は四十九、県は百七十六であった。帝はこれを納れ、礼・兵の二部に下して協議させた。七月になっても黄綰はまだ出発せず、旨に忤らって職を落とされ、そのまま使命は停められた。
  • はじめ征討の議は夏言から発したもので、帝は黄綰を責めたことでさらに怒って言った。安南の事はもともと一人が唱えて衆がみな随ったものだ。それが上を謗り、言を聴いて計ったといい、こぞって慢りの言葉を作っている。この国は棄てるべきか討つべきか、定まった議があってしかるべきだ。兵部はただちに会議して報告せよ、と。そこで張瓚および廷臣は恐懼し、前の詔のとおり仇鸞・毛伯溫を遣わして南征させ、もし莫登庸父子が手を束ねて命に帰し異心がなければ死なせずに扱うことにしてほしいと請い、許された。莫登庸はこれを聞いて大いに喜んだ。

莫登庸の降伏と都統使司

  • 嘉靖十九年(1540年)、毛伯溫らが広西に至り、檄を伝えて帰服すれば罪を宥す意を諭した。時に方瀛はすでに卒しており、莫登庸はただちに使者を遣わして降を請うた。十一月、甥の文明および部下の頭目四十二人を率いて鎮南關に入り、髪を乱し裸足で匍匐して壇上で叩頭し、降表を進めた。毛伯溫は詔と称してこれを赦した。莫登庸はふたたび軍門に詣でて匍匐して再拝し、土地・軍民の籍を差し出し、正朔を奉じて永く藩臣となることを請うた。毛伯溫らは威徳を宣示し、帰国して命を待たせた。
  • 疏が聞こえると、帝は大いに喜び、安南国を削って安南都統使司とし、莫登庸に都統使を授け、秩は従二品、銀印を与えた。旧に僭って擬えていた制度はことごとく除き去り、その十三道を改めて十三宣撫司とし、それぞれ宣撫・同知・副使・僉事を設けて都統の黜陟に従わせた。広西から毎年、大統暦を給し、なお三年に一貢を常とした。さらに黎寧の真偽を調べさせ、まことに黎氏の後であれば、拠っている四府を割いてその祀を奉じさせ、そうでなければやめさせることとした。制が下ると、莫登庸は恐れ慎んで命を受けた。
  • 嘉靖二十二年(1543年)、莫登庸が卒し、方瀛の子の福海が嗣ぎ、宣撫同知の阮敬典らを遣わして来朝させた。
  • 嘉靖二十五年(1546年)、福海が卒し、子の宏瀷が嗣いだ。はじめ莫登庸は石室の人である阮敬を義子とし、西寧侯に封じた。阮敬には娘があって方瀛の次子の敬典に嫁がせ、それによって方瀛の妻の武氏と通じ、兵権を専らにすることができた。宏瀷が立ったときはまだ五歳だったので、阮敬はいよいよ専恣に事を用いた。莫登庸の次子の正中および文明は都齋に避け、その同輩の阮如桂・范子儀らもまた田里に避け居した。阮敬が兵を挙げて都齋に迫り、正中・如桂・子儀らが防いだが勝てず、正中・文明は家族を率いて欽州へ奔り、子儀は残兵を収めて海東に逃れた。阮敬は宏瀷が死んだと偽り称し、正中を迎え立てるという口実で欽州を犯したが、參將の俞大猷に敗られ、誅殺された。
  • 宏瀷が立った当初、使者の黎光賁を遣わして来貢させたが、南寧に至ったところで守臣が奏聞した。礼官はその国が内乱で名分が定まっていないとして、来た使者を止めて進ませず、守臣に立てるべき者を調べさせた。嘉靖三十年(1551年)に至って事が明らかになり、宏瀷に都統使を授け、関に赴いて牒を受け取るよう命じた。ところがちょうど部下の頭目の黎伯驪が黎寧の臣の鄭檢と兵を合わせて攻めてきたので、宏瀷は海陽へ奔り、赴くことができなかった。黎光賁らは南寧に留まること十五年に及び、同行してきた使いの者は大半が死んだ。宏瀷が守臣に代わって請うてほしいと願うと、詔して入京を許し、その都統の告身はなお宏瀷が関に赴いたときに給することとした。
  • 嘉靖四十三年(1564年)、宏瀷が卒し、子の茂洽が嗣いだ。萬厯元年(1573年)、都統使を授けられた。萬厯三年、使者を遣わして謝恩し即位を賀し方物を進め、さらに長年欠いていた貢を補った。

黎氏の復興

  • そのころ莫氏はしだいに衰え、黎氏が復興して互いに兵を交え、その国はますます事故が多くなった。
  • はじめ黎寧が清華に拠ったとき、なお帝号を僭し、嘉靖九年をもって元和と改元した。四年いたところで莫登庸に攻められ、占城の境に逃れた。国人はその弟の憲を立て、光照と改元した。嘉靖十五年、黎寧の居所を知り、迎えて清華に帰らせ、のちに漆馬江に移した。黎寧が卒すると、その臣の鄭檢が黎寧の子の寵を立てた。寵が卒して子がなかったので、国人はこぞって黎暉の四世の孫である維邦を立てた。維邦が卒すると、鄭檢の子の松がその子の維潭を立て、代々清華に居して自ら一国をなした。
  • 萬厯十九年(1591年)、維潭はしだいに強くなり、兵を挙げて茂洽を攻め、茂洽は敗れて嘉林縣へ奔った。翌年冬、鄭松は土人を誘って内応させ、茂洽を襲って殺し、その都統使の印を奪い、親党の多くが害にあった。莫敦讓という者が防城へ奔って難を告げ、総督の陳蕖が奏聞した。鄭松はまた敦讓を捕らえ、勢いはますます張った。
  • 茂洽の子の敬恭は一族の履遜らとともに広西の思陵州へ奔り、莫履機は欽州へ奔った。ただ莫敬邦だけが十余万の衆を有して京北道に起こり、黎氏の一味である范抜萃・范百禄の諸軍を撃ち走らせた。敦讓は帰ることができ、衆はそこで敬邦を推して都統を署させ、思陵・欽州に流寓していた者はことごとく帰った。
  • 黎の兵が南策州を攻め、敬邦が殺されると、莫氏の勢いはいよいよ衰えた。敬恭・敬用は諒山・高平に屯し、敬璋は東海・新安に屯したが、黎の兵に追及されるのを恐れ、龍州・慿祥の境まで逃れ、土官に状を並べて当局に訴えさせた。維潭もまた関を叩いて通貢を求め、国王の金印を捺した文書を用いた。
  • 萬厯二十一年(1593年)、広西巡撫の陳大科らが上言した。蛮邦の姓が易わるのは碁のようなもので、彼らの叛服をもって順逆とすべきではなく、ただ彼らが我に叛くか我に服するかをもって順逆とすべきである。今、維潭は恢復を図ったとはいえ、茂洽はもとより天朝の外臣である。どうして命を請わずに勝手にこれを戮してよいものか。ひそかに思うに、黎氏の擅に兵を興した罪は問わないわけにいかず、莫氏の生き残りの血筋もまた存さないわけにいかない。もし先朝の故事のように、黎氏の帰服を聴しつつなお莫氏を存し、漆馬江の例のようにその祀を絶やさなければ、方策として便宜であろう、と。廷議はその言のとおりとした。
  • 翌年、陳大科がちょうど官を遣わして視察させようとしたところ、敬用が使者を遣わして軍門を叩いて難を告げ、あわせて兵を乞うた。その翌年秋、維潭もまた使者を遣わして謝罪し帰服を求めた。そのころ陳大科はすでに両広総督となっており、広西巡撫の戴燿とともにこれを左江副使の楊寅秋に委ねた。楊寅秋はひそかに「黎を拒まず、また莫を棄てない。わが策は定まった」と考えた。二度、官を遣わして問わせると、敬恭らは高平に居ることを願うと告げてきて、維潭の帰服を求める使者もまたたびたび至った。楊寅秋はそこで期日を約し、督撫に具さに報告した。
  • ちょうど敬璋が衆を率いて永安へ赴いたが、黎氏の兵に撃ち破られ、海東・新安の地はことごとく失われた。そこで帰服の議はいよいよ決まった。
  • 時に維潭は恢復の名を図り、莫登庸と同じ扱いを受けたくないとして、身を束ねて入関する意思がなかった。楊寅秋があらためて官を遣わして諭すと、その使者は約束どおりにすると報じてきた。ところが期日になると、にわかに関吏に「士卒は飢えて病み、帰服の儀礼の備えができていない。そのうえ莫氏は我が仇であり、これを高平に置くという命は承れない」と言い、そのまま夜中に逃げ去った。陳大科らが奏聞して、その臣の鄭松が権を専らにしたためだと述べた。維潭はふたたび使者を遣わして関を叩き、逃げたのではないと弁明した。陳大科らがあらためて官を遣わして諭すと、維潭は命を聴いた。
  • 萬厯二十五年(1597年)、使者を遣わして期日を請うたので、楊寅秋は四月を示した。期日に維潭が関外に至ると、通訳が六事を問いただした。第一に、擅に茂洽を殺したことを問うと、「仇を復するのが急で、命を請う暇がなかった」と答えた。次に維潭の宗派を問うと、「世孫である。祖父の暉は天朝からかつて命を賜っている」と答えた。次に鄭松のことを問うと、「これは黎氏の世臣であって黎氏を乱す者ではない」と答えた。それではなぜ夜逃げしたのかと問うと、「儀物が整わなかったためで、逃げたのではない」と答えた。なぜ王の印章を用いたのかと問うと、「一時の便法として真似たもので、すぐに消した」と答えた。ただ高平を割いて莫氏を住まわせることだけはなお互いに譲らなかったが、あらためて「ともに貢を奉る臣である。黎はかつて漆馬江に棲むことができたのに、莫だけが高平に棲めないということがあろうか」と諭すと、命を聴いた。そこで款関の儀節を授けてこれを習わせた。
  • 維潭は配下を率いて入関し、御幄を拝謁すること一に莫登庸の旧儀のとおりにした。退いて楊寅秋に謁するとき賓主の礼を用いたいと請うたが許されず、四拝の礼をなして退いた。安南はふたたび定まった。詔して維潭に都統使を授け、暦を頒ち貢を奉ることは一に莫氏の故事のとおりとした。
  • これより先、黎利および莫登庸が進めた代身の金人は、いずれも髪を乱して面縛の姿であった。維潭は恢復の名分が正しいとして、独り直立して容を正した姿にした。当局はその倨傲さを嫌って作り直させ、そこで俯伏の姿とし、その背に「安南黎氏世孫臣黎維潭、天門に匍匐するを得ず、つつしんで代身の金人を進め、罪を悔いて恩を乞う」と鐫った。これ以来、安南はふたたび黎氏のものとなり、莫氏はただ高平一郡を保つのみとなった。
  • 萬厯二十七年(1599年)、維潭が卒し、子の維新が嗣ぎ、鄭松がその権柄を専らにした。ちょうど叛いた酋長の潘彦が乱を起こしたので、維新は鄭松とともに清化に移って保った。萬厯三十四年(1606年)、使者を遣わして入貢し、都統使を授けるよう命じられた。当時、莫氏の宗族の多くが海辺に逃れ住み、しばしば公・侯・伯の名号を僭称して辺境を侵犯したが、維新もこれを制することができなかった。守臣が檄で問いつめ、たびたび兵を発して挟み撃ちに掃討し、そのつど破滅させはしたが、辺方はかなりその害を受けた。
  • 維新が卒し、子の維祺が嗣いだ。天啓四年(1624年)、兵を発して莫敬寛を撃ってこれに勝ち、その長子を殺し、その妻妾および末子を掠めて帰った。敬寛は次子とともに山中に逃げ、のち高平に戻ったが、勢いはいよいよ弱くなった。しかし明の世が終わるまで、二つの姓が分かれ拠って、ついに一つに帰することはなかったという。

安南の地理と風土

  • 安南の都会は交州にあり、唐の都護の治所である。その疆域は東は海に至り、西は老撾に接し、南は海を渡ればすなわち占城、北は広西の思明・南寧、雲南の臨安・元江に連なる。
  • 土は肥え、気候は暑く、穀は年に二度実る。人の性は荒々しく強い。驩・演の二州は文学の士が多く、交・愛の二州は倜儻の士が多く、他の地方に比べて異なっている。