明史卷三百二十 列傳第二百八 外國一
朝鮮の沿革
- 朝鮮は箕子が封ぜられた国である。漢より前は朝鮮と呼び、はじめ燕の人である衛滿に占拠された。漢の武帝がこれを平定し、真番・臨屯・樂浪・元莬の四郡を置いた。
- 漢末、扶餘の人である髙氏がその地を占め、国号を髙麗、また髙句麗と改め、平壤に居した。平壤とは樂浪のことである。のちに唐に破られて東へ移った。
- 後唐のころ、王建が髙氏に代わり、新羅・百濟の地を併呑し、松岳に移り住んでこれを東京と呼び、平壤を西京とした。その国は北は契丹に、西は女直に隣し、南は日本に向かう。
- 元の至元年間に西京が内属し、東寧路總管府が置かれ、慈嶺までを境とした。
洪武年間――髙麗王顓との通交
- 明が興ったとき髙麗の王であったのは王顓である。太祖即位の元年(洪武元年、1368年)、使を遣わして璽書を賜った。
- 洪武二年(1369年)、その国に流されていた者を送り返した。顓は表を奉って賀し、方物を貢し、あわせて封爵を請うた。帝は符璽郎の偰斯に詔と金印・誥文を持たせて遣わし、顓を髙麗國王に封じ、厯(暦)と錦綺を賜った。
- その秋、顓は總部尚書の成惟得と千牛衛大將軍の金甲兩を遣わし、両人ともに上表して謝し、天夀節を賀し、あわせて祭服の制度を請うた。帝は工部に命じてこれを作らせ賜った。
- 惟得らが暇乞いをしたとき、帝は打ちとけて「王の国は城郭を修めているか、兵甲は鋭いか、宮室は壮麗か」と問うた。彼らは頓首して「東海の波臣、ただ釋氏を崇信することを知るのみで、他はまだ手が回りません」と答えた。
- そこで帝は書を送って諭した。要旨は次のとおり。古の王公は険を設け、兵を捨てたことはない。民は食を天とし、国には政令を出す場所が要る。いま人民があって城郭がなければ民は何に依るのか。武備を修めなければ威は弛み、地を耕さなければ民は食に苦しむ。居室があっても㕔事(政庁)がなければ尊厳を示せない。国の大事は祀と戎にあり、この二つを欠いてただ佛に事えて福を求めるのは、梁の武帝の事が明鑑である。王の国は北は契丹・女直に接し南は倭に接するのだから、防備の道を心にかけよ、と。あわせて六經・四書・通鑑を賜った。
- これ以後、貢献はしばしば至り、元旦と聖節にはいずれも使を遣わして朝賀するのを毎年の常とした。
- 洪武三年(1370年)正月、使を遣わしてその国の山川を祀らせた。この年、科舉の詔を髙麗に頒った。顓は表して謝し方物を貢し、あわせて元から授かっていた金印を納めた。中書省が「髙麗の貢使は私物を多く持ち込んで商うので税を取るべきだ。また中国の物を多く持ち出すので禁ずるのがよい」と申したが、いずれも許されなかった。
- 洪武五年(1372年)、表して子弟を太學に入れることを請うた。帝は「入学はもとより美事だが、海を渡って遠い。望まない者を強いるな」と言った。貢使の洪師範・鄭夢周ら一百五十餘人が来京する途中、風を失って溺死した者が三十九人あり、師範もその中にいた。帝はこれを憫れみ、元の樞密使であった延安特哩を遣わして、入貢をたびたび行うなと諭させた。
- ところが顓はまた門下贊成事の姜仁裕を遣わして馬を貢した。その賀正旦使の金湑らがすでに先に着いていたので、帝はことごとく送り返し、中書省の臣に言った。髙麗の貢献は度重なってその民を疲弊させ、海を渡ればまた覆没の恐れがある。古の諸侯の礼にしたがい三年に一度の聘とし、貢物はその土地の産物だけにして贅沢に過ぎるな。はっきり朕の意を諭せ、と。
- 洪武六年(1373年)、顓は甲兩らを遣わして馬五十匹を貢したが、道中で二匹を失った。甲兩はそのことを申告したうえで、自分の馬を足して数をそろえた。帝はその不誠実を憎んで受けなかった。
- 洪武七年(1374年)、監門䕶軍の周誼・鄭庇らを遣わして貢し、表して毎年一貢とすること、貢の道は陸路をとって定遼を経由し海を渡らないことを請うた。その貢物を「太府監に送る」と称したので、中書省が「元のときには太府監があったが本朝には無い」と言い、不誠実にあたるとした。帝はその貢を却けさせた。
- この年、顓は權相の李仁人に弑された。顓には子が無く、寵臣辛肫の子である禑を養子としていた。そこで仁人は禑を立てた。
- 洪武八年(1375年)、禑は判宗簿事の崔原を遣わして喪を告げ、あわせて「先に貢使の金義が朝廷の使者蔡斌を殺したが、いま嗣王の禑はすでに義を誅し、その家財を没収した」と言った。帝はその詐りを疑い、原を拘留したうえで使を遣わして祭弔させた。
- 洪武十年(1377年)、使が来て故王顓の諡号を請うた。帝は「顓が弑されてすでに久しいのに、いまはじめて諡を請うのは、わが朝廷の命を借りてその民を鎮撫し、弑逆の跡を掩おうとするものだ。許すわけにいかぬ。先に留め置いた使者は帰してやれ」と言った。そこで原を釈して帰らせた。
- その夏、また周誼を遣わして馬と方物を貢したが受けなかった。冬にはまた使を遣わして翌年の正旦を賀した。帝は言った。髙麗王顓は弑され、奸臣が国命を竊んでいる。春秋の義では亂臣は必ず誅す、いまさら何を言うことがあろう。ただ前後の使者はみな嗣王の遣わすところと称している。中書省は人を遣わして、嗣王がどうしているか、政令がどこにあるかを問え。もし政令が以前どおりで嗣王が幽閉されていないのなら、前王の言に従って毎年馬千匹を貢し、翌年は金百斤・銀萬兩・良馬百匹・細布萬匹を貢し、あわせて拘えている遼東の民をことごとく送り返せ。そうして初めて王位が本物で政令が行われていると見て、朕に疑いは無くなる。さもなければ君を弑した賊は必ず討って赦さぬ、と。
- 洪武十一年(1378年)四月、禑はまた誼に命じて来貢させた。
- 洪武十二年(1379年)、遼東守將の潘敬・葉旺らに敕して辺境の備えを厳しくさせた。その冬、禑は李茂芳らを遣わして来貢したが、約のとおりでなかったので却けた。
- 洪武十三年(1380年)、遼東が髙麗の使者誼を京師へ送ってきた。帝は敬らに敕して言った。髙麗は君を弑し、また朝廷の使者を殺した。以前は入貢を強く請いながら期日を守らず、いま誼を遣わして虚しい文辞で詐りを飾っている。他日必ず辺境の患いとなる。今後は来る者があっても関係を絶って通じさせるな、と。そのまま誼を京師に留めた。
- 洪武十六年(1383年)、来貢したが却け、禮部に命じてその朝貢が期を過ぎたことと陪臣の侮慢の罪とを責めさせ、「まことに約に従う気があるなら、この五年間、約に違えて貢さなかった物をあわせて持って来い」と言わせた。
- 洪武十七年(1384年)六月、禑は司僕正の崔涓、禮儀判書の金進宜を遣わして馬二千匹を貢し、「金はこの土地の産物ではないので馬で代えて納めたい、他はみな約のとおりにする」と申し出た。遼東守將の唐勝宗がこれを取り成したので帝は許した。ただし顓の諡号と王爵の襲封は、まだ允されなかった。
- 洪武十八年(1385年)正月、貢使が至った。帝は禮部の臣に諭した。髙麗はしばしば約束を請うたが朕はたびたび允さなかった。それでも請うてやまないので、歳貢を求めてその誠意の真偽を試したのだ。これで富もうとしたのではない。いますでに命に従った。その貢の数を減らし、三年に一度の朝貢、貢馬五十匹とし、洪武二十一年の正旦に貢させよ、と。
- 七月、禑は上表して襲爵を請い、あわせて故王の諡を請うた。禑を髙麗國王に封じ、故王顓に諡して恭愍と賜った。
- 洪武十九年(1386年)二月、使を遣わして布萬匹・馬千匹を貢した。九月、表して賀し方物を貢した。その後、貢献はしばしば常額を超え、また三年に一度になることもなかった。冬、詔して指揮僉事の髙家努を遣わし、綺布をもって髙麗で馬を買わせた。
- 洪武二十年(1387年)三月、髙家努が帰り、髙麗が馬の代価を辞退したと報告した。帝は敕して数のとおり償わせた。これより先、元末に遼陽・瀋陽で兵乱が起こり、民が乱を避けて髙麗へ移り住んでいた。この馬の交易にことよせて帝が彼らを求めさせたところ、遼瀋の流民三百餘口が帰属してきた。
- 十二月、戸部に命じて髙麗王に咨文を送らせた。鐵嶺より北の東西の地でもと開元に属していた所は遼東がこれを統べ、鐵嶺より南でもと髙麗に属していた所は本国が統べる。それぞれ境界を正して侵し越えるな、と。
- 洪武二十一年(1388年)四月、禑は表して「鐵嶺の地は実は代々わが国が守ってきた所である」と言い、旧のままとすることを乞うた。帝は「髙麗は古来、鴨録江を境としてきた。いま言葉を飾って鐵嶺を云々するのは詐りが明白である。朕の言葉を諭して、分を守り釁端を生じさせるな」と言った。
- 八月、髙麗の千戸である陳景が降ってきて言った。この年四月、禑が遼東を寇そうとして都軍相の崔瑩・李成桂に西京で兵を整えさせた。成桂は陳景を艾州に屯させたが、糧が続かず退いた。王は怒って成桂の子を殺した。成桂は兵を返して王城を攻め破り、王と瑩を囚えた。景は身が危うくなって降った、と。帝は遼東に敕して厳重に守備させ、なお人を遣わして偵察させた。
- 十月、禑がその子昌に位を譲ることを請うてきた。帝は「先に王が囚われたと聞いた。これは必ず成桂の謀である。しばらく待って変化を見よう」と言った。
- 洪武二十二年(1389年)、權國事の昌が入朝を乞うたが帝は許さなかった。この年、成桂は昌を廃し、定昌國院君の瑤を立てた。
- 洪武二十三年(1390年)正月、使を遣わして報告してきた。
- 洪武二十四年(1391年)三月、詔して髙麗で馬を買わせた。八月、權國事の瑶が買い集めた馬千五百匹を進めた。帝は「三韓の君臣が道に背いて乱れること二紀(二十四年)に及ぶ。いま王瑶が嗣ぎ立った。これは王氏の苖裔である。使を遣わして労うがよい」と言った。
- 十二月、瑶はその子奭を遣わして翌年の正旦を朝賀させた。奭がまだ帰らぬうちに成桂が自立し、ついにその国を取った。瑤は都を出て原州に居した。王氏は五代から国を伝えること数百年、ここで絶えた。
- 洪武二十五年(1392年)九月、髙麗の知密直司事である趙胖らが、国の都評議司の奏を持参して申し立てた。要旨は次のとおり。本国は恭愍王が薨じて嗣が無く、權臣の李仁人が辛肫の子である禑に国事を主らせたが、禑は昏暴で殺を好み、ついには師を興して辺境を犯そうとまでした。大將の李成桂はこれを不可として軍を返した。禑は罪を負って恐れ、子の昌に位を譲ったが、国人は従わず、恭愍王妃の安氏に願い出て宗親の瑶を択んだ。瑶は国事を執ること四年に及んだが、昏くねじけて讒言を信じ、勲舊を害した。その子の奭は愚かで聡くなく、国人は瑶では社稷を主るに足らぬとした。いま安氏の命により瑤を私邸に退けた。王氏の子孫に人望に応えられる者はなく、内外の人心はみな成桂に繋がっている。臣らと国人の長老とが共に推して国事を主らせたい。聖主の御允許を仰ぐ、と。
- 帝は髙麗が僻遠の東隅にあって中國の治める所ではないとして、禮部に命じて「まことに天道に順い人心に合し、辺境に釁を開かず、使者の往来が保たれるなら、それはまことにお前の国の福である。わたしがまた何を咎めよう」と移諭させた。
- 冬、成桂は皇太子が薨じたと聞き、使を遣わし表して弔慰し、あわせて国号を改めることを請うた。帝は古の号のまま「朝鮮」とせよと命じた。
- 洪武二十六年(1393年)二月、使を遣わして馬九千八百餘匹を進めた。紵絲・綿布あわせて一萬九千七百餘匹を運んで報いるよう命じた。
- 六月、表して謝し、馬と方物を貢し、あわせて先の恭愍王の金印を献上し、自分の名を旦と改めることを請うたので、これに従った。この月、遼東都指揮使司が「朝鮮國が女直五百餘人を招き寄せ、ひそかに鴨緑江を渡って辺内へ入ろうとしている」と奏した。使を遣わして敕諭し、禍福を示した。旦は敕を受けて恐れ入り、陳謝して貢を上り、あわせて逃亡していた軍民三百八十餘人を械につないで遼東へ送った。
- 洪武二十七年(1394年)、旦は子を遣わして入貢させた。
- 洪武二十八年(1395年)、使の栁珣を遣わして翌年の正旦を賀した。帝は表文の言葉が無礼だとして詰責した。珣は「表文は門下評理の鄭道傳が撰したものです」と言った。そこで道傳を逮えるよう命じ、珣は釈して帰した。
- 洪武二十九年(1396年)、表を撰した者として鄭總ら三人を送ってきて、「表は実は總らが撰したもので、道傳は病で来られない」と言った。帝は總らが国を乱し釁を構えるものとして留め置き、帰さなかった。
- 洪武三十年(1397年)冬、また表の文が譏りにわたるとして、その使者を拘留した。
建文・永樂――芳逺と祹
- 建文の初め、旦は表して年老いたことを陳べ、子の芳逺に位を襲がせることを請い、許された。
- 成祖が立つと、官を遣わして即位の詔を頒った。
- 永樂元年(1403年)正月、芳逺は使を遣わして朝貢した。四月、また陪臣の李貴齡を遣わして入貢させ、芳逺の父に病があって龍腦・沈香・蘇合香油などの品が要ると奏し、布を持参して購入を求めた。帝は太醫院に命じてこれらを賜い、その布は返させた。芳逺は表して謝し、あわせて冕服と書籍を請うた。帝はその中国の礼を慕う心を嘉し、金印・誥命・九章の冕服・圭玉・佩玉を賜い、妃には珠翠七翟冠・霞帔・金墜を、さらに經籍と綵幣の表裏を賜った。この後、貢献は毎年四度五度に及んだ。
- 永樂二年(1404年)十二月、詔して芳逺の子の禔を世子に立てた。その請いに従ったのである。
- 永樂五年(1407年)十二月、馬三千匹を貢して遼東に至った。戸部に命じて絹布萬五千匹を運んで償わせた。
- 永樂六年(1408年)、世子の禔が来朝した。織金の文綺を賜い、帰るときには帝自ら詩を作って賜った。このころ朝鮮は女を後宮に納れ、妃嬪に立てられた者が四人あった。
- その秋、陪臣の鄭擢を遣わしてその父旦の喪を告げた。官に命じて弔祭させ、諡を康獻と賜った。
- 永樂十六年(1418年)、「世子の禔は不肖であり、第三子の祹は孝弟で学に励み、国人の心が寄せられている」として、これを嗣に立てることを請うた。詔して王の択ぶところに任せると答えた。そこで上表して謝し、あわせて自分が年老いたので祹に国事を執らせたいと陳べた。光禄少卿の韓確、鴻臚丞の劉泉に命じて祹を朝鮮國王に封じた。このとき帝はすでに北都に遷っており、朝鮮はいよいよ近くなって事大の礼はいよいよ恭しく、朝廷もまた礼を厚くして待遇した。他の国の望みうるところではなかった。
- 永樂二十年(1422年)、芳逺が卒した。諡を恭定と賜った。
- 永樂二十一年(1423年)七月、祹が嫡子の珦を世子に立てることを請い、これに従った。これより先、祹に馬萬匹を貢するよう敕していたが、ここに数のとおり届いたので白金・綺絹を賜った。
宣德・正統――祹の代
- 宣徳二年(1427年)三月、中官を遣わして白金・紵紗を賜い、別に敕して馬五千匹を進めて辺境の用に充てさせた。九月、数のとおり届いた。
- 宣徳四年(1429年)、祹に書を賜って「珍しい禽獣は朕の貴ぶところではない。献ずるな」と言った。後にまた祹に敕して「金玉の器はお前の国の産物ではない。やめよ。土地の産物で誠意を示すだけでよい」と言った。
- 宣徳八年(1433年)、祹は子弟を太學または遼東の学に入れることを奏したが、帝は許さず、五經・四書・性理・通鑑綱目などの書を賜った。
- 正統元年(1436年)三月、朝鮮の婦女である金黑ら五十三人を放って国へ帰した。金黑らは宣徳の初めから京師に来ていたが、ここに至って中官を遣わして送り返したのである。
- 正統三年(1438年)八月、祹に遠遊冠・絳紗袍・玉佩・赤舄を賜った。これより先、建州の長である童倉が朝鮮の界内に避けて住んでいたが、すでに建州へ帰っていた。朝鮮は「昔、窮して帰服してきたので臣は厚く遇した。いま恩に背いて建州の李滿住のもとへ帰った。ともに謀って辺境を騒がすことを恐れる」と言い、建州の長は「部下が朝鮮に追い殺され、また留め置かれた者が一百七十餘家ある」と言った。
- 正統五年(1440年)、詔して祹にこれを返させた。
- 正統七年(1442年)五月、祹に諭した。鴨録江一帯の東寧などの衛は王の境に隣接している。その中には身分の低い者が多く王の国へ逃げ込み、あるいは国人に誘われ脅されて連れ去られる者もある。漢人・女直を問わず、着き次第、京へ護送せよ、と。
- はじめ衛拉特がひそかに女直の諸部に命じて朝鮮を誘い、中国に背かせようとした。祹はこれを拒み、その事を朝廷に申し出た。帝はその忠を嘉して敕を下して奬め、あわせて綵幣を賜った。
- 正統九年(1444年)春、倭寇が辺境を犯した。祹は将に命じて五十餘人を捕らえ、京師へ械送した。
- 正統十年(1445年)、また残党を捕らえて献じた。帝は続けて敕を下して奬諭し、賜与を一段と厚くした。
- 正統十三年(1448年)冬、使に命じて朝鮮および女直諸部の兵を徴発し、遼東に会して北の寇を征させた。
- このころ英宗が北狩し、郕王が即位した。官を遣わして詔をその国に頒った。
景泰・天順――珦・𢎞暐・瑈
- 景泰元年(1450年)、馬五百匹を貢し、「敕を奉じて馬二三萬匹を用意すべきところ、隣接する寇が釁を構えたため馬畜が斃れ、一時には調えられない」と奏した。詔して「寇は今しばらく静まった。馬はすでに届いた分の代価を償い、まだ届かない分は取りやめて貢さなくてよい」と答えた。
- この年の夏、祹が卒した。弔祭を賜い、諡を莊憲とし、子の珦を国王に封じた。ちょうど遼東から「開原・瀋陽に兵が入り込んで人畜を掠めた。建州・海西の諸部の女直の頭目である李滿住らが手引きした」と奏報があったので、珦に諭して掎角の勢をなして討ち取らせた。
- その秋、続けて馬千五百餘匹を貢した。冕服を賜い、あわせてその代価を償った。冬、また珦とその妃の權氏に誥命を賜い、その子の𢎞暐を世子に封じた。
- 景泰二年(1451年)冬、建州の頭目がひそかに朝鮮と通じているとして、珦にその使との交わりを絶つよう戒めた。
- 景泰三年(1452年)秋、珦が卒した。喪を告げに来たので、中官を遣わして弔祭させ、諡を恭順と賜い、子の𢎞暐に嗣立を命じた。
- 𢎞暐は立って三年、年少であり、かねての病を抱えているとして、叔父の瑈に国事を執らせることを請うた。
- 景泰七年(1456年)、上表して位を譲った。そこで瑈を国王に封じた。瑈は子の暲を世子に立てることを請い、これに従った。
- 天順三年(1459年)、辺将が「建州三衛の都督がひそかに朝鮮と結んでおり、中国の患いとなる恐れがある」と奏した。そこで瑈に敕して、不穏なことをして後悔を残すなと戒めた。瑈は疏を上って弁明した。帝はさらに諭した。宣徳・正統年間には王の国と彼らとが互いに侵し掠め合ったので、敕して怨みを解き兵を息めさせた。もとより交通させ賞を与え官を授けよと言ったのではない。彼らはすでに朝廷の官職を受けている。王がさらにそれに官を加えるのは朝廷に抗するものだ。王は平素、礼義を守る者である。どうしてそのように過ちを飾り非を繕うのか。今後は私的な交わりを絶ち、よい評判を全うせよ、と。
- 天順四年(1460年)、また瑈に諭した。王は毛憐衛都督の朗布爾汗が通謀して騒乱を煽ったのですでに法に処したと奏した。そもそも法は国内にのみ行うべきもので、どうして隣境に及ぼせようか。朗布爾汗に罪があるなら朝廷に奏して処置を仰ぐべきである。いきなり殺害したのだから、その子の阿必齊が復讐を思うのも怪しむに足らぬ。聞けば阿必齊の母がまだ生きているという。急ぎ遼東都司に送り、阿必齊に引き取らせて讐怨を解くべきだ、と。
- 天順五年(1461年)、建州衛の諸部が義州に来て殺し掠めた。瑈は朝命によって掠奪された者を返させるよう乞うた。兵部は「朝鮮は先に朗布爾汗を誘い殺し、続いて都指揮の烏格を誘い寄せ、兵を放ってその家族を掠めた。いま諸部の行いは実は復讐にあたる。朝鮮に諭すべきである。寇盜が来るのはみな自ら招いたことで、ただ分を守り法に安んじてこそ辺境の釁を止められる」と議し、これに従った。
成化――瑈・晄・娎
- 成化元年(1465年)冬、陪臣の李門炯が来朝の途中で卒した。棺を給し祭を賜い、あわせて綵幣を賜ってその家を慰めた。このころ朝鮮はしきりに珍しい物を貢していた。
- 成化三年(1467年)春、瑈に敕諭して、常例の貢を修め珍奇な物を事とするなと戒めた。このとき朝廷は兵を用いて建州を征しており、瑈に敕して兵を助け進んで討たせた。瑈は中樞府知事の康純を遣わし、衆萬餘を率いて鴨緑・潑豬の二江を渡らせ、九獮府の諸寨を攻め破って斬獲が多かった。
- 成化四年(1468年)正月、官を遣わして俘虜を献じた。詔して手厚く賜い、敕して奬諭した。この年、瑈が卒した。諡を惠莊と賜い、太監の鄭同・崔安を遣わして世子の晄を王に封じ、妃の韓氏に誥命を給した。
- 使が出発したのち、巡按遼東御史の侯英が奏した。遼東は連年兵禍を被って傷が癒えず、いままた作物が実らず軍民は食に乏しい。太監鄭同らの随行員は通る先々の駅を騒がせる。臣が考えるに、先年は翰林院の中から学行と文望のある者を選んで使者に立てた。いま同と安はともに朝鮮人で、墳墓も宗族も皆かの地にある。その国王に会えば節を屈せざるを得ず、まことに中国の体面を汚す。この命を取りやめ、翰林・給事中および行人の内から一員を推選して遣わすのがよい、と。帝は「英の言うところはもっともだ」と言った。この後、賞賜には内臣を遣わしたが、冊封の正副使は廷臣のうち学行ある者を選ぶこととなった。
- 成化六年(1470年)、晄は病が重くなり、自分の生んだ子が幼いので、兄である故世子暲の子の娎に国事を執らせ、陪臣を遣わしてこれを報告した。卒するに及んで諡を襄悼と賜い、娎に嗣位を命じた。娎の妻の韓氏を王妃に封じた。
- 成化十年(1474年)、娎の父である世子暲を国王に追贈して諡を懐簡とし、母の韓氏を王妃とした。請うところに従ったのである。
- 成化十一年(1475年)四月、娎が「建州の諸部が毛憐などの衛を糾合し、辺境を縦横に荒らしてやまない」と奏し、朝命による戒飭を乞うた。
- 成化十二年(1476年)十月、娎は継妻の尹氏のために封を請い、誥命と冠服を賜った。当時、外国との兵器の交易は禁じられていた。娎は奏した。小邦は北は諸部に連なり南は倭の島に隣する。五兵の用は一つも欠かせない。しかし弓の材料に要る牛角は上国に仰いでいる。髙皇帝の時にはかつて火藥・火礮を賜ったこともある。いま特に弓角の買い入れを許し、外番と同列に禁じないでほしい、と。兵部は毎年、弓角五十を買うことを議したが、後に用に足りないとして限度額を設けないことを請うた。詔して倍の買い入れを許した。
- 成化十五年(1479年)十月、娎に命じて兵を出し建州の女直を挟撃させた。娎は右贊成の魚有沼を遣わし兵を率いて滿浦江に至らせたが、氷が解けたため期に後れた。さらに左議政の尹弼商、節度使の金嶠らを遣わして江を渡り進んで討たせた。
- 成化十六年(1480年)春、陪臣を遣わして戦勝を献じた。帝は内官に敕を持たせ、先代の功業を継ぐ働きを奬め、金幣を賜った。兵を率いた官には例のとおり賞賜した。後に使者が帰るとき、その臣の許熙を遣わして伴送させた。熙が帰路、開州まで来たところ建州の騎兵二千に迎え撃たれ、従卒三十餘人・馬二百三十餘匹を掠められ、他に失った物もこれに見合うほどであった。奏聞されると、英國公の張懋、吏部尚書の尹旻らは「遼東は連年用兵しており軽々しく動かすべきでない。この意を娎に諭し、遼東の守臣に敕して辺備を整えさせ、さらに通訳の者に掠められた物を徹底して追及させ、必ず取り戻すことを期すべきだ」と言った。なお熙には白金・綵幣を賜って慰めた。
- 成化十七年(1481年)、娎は継妃の尹氏が徳を失ったので廃し、副室の尹氏に改めて封ずることを乞い、これに従った。
- 成化十九年(1483年)四月、娎の長子である㦕を世子に封じた。
𢎞治・正徳――㦕と懌
- 𢎞治七年(1494年)十二月、娎が卒した。諡を康靖と賜った。翌年(𢎞治八年、1495年)四月、㦕を国王に封じ、妻の慎氏を王妃とした。
- 𢎞治十二年(1499年)、㦕が「本国の人がしばしば禁を犯して海島に隠れ、軍民を誘い込んで次第に蔓延している。本国が自ら捜索することを許し、上国の地方に関わる分は官に敕して追捕させてほしい」と奏した。当時、遼東の守臣もまた㦕の言うとおりに奏したので、可と答えられた。
- 𢎞治十五年(1502年)冬、㦕の長子である□(底本欠字)を世子に封じた。
- 正徳二年(1507年)、㦕は世子の□(底本欠字)が早世したのを哀しむあまり病となり、国事をその弟の懌に付すことを奏請した。その国人もまた懌を封ずるよう奏請した。禮部は「懌に国事を仮に執らせ、㦕が卒したのちに封ずる」と議した。まもなく陪臣の盧公弼らが朝貢のため京に来て、あらためて懌の封を請うたが、廷議は允さなかった。十二月、㦕の母妃が「懌は年長でしかも賢く、重い託に堪える」と奏した。そこで禮部は「㦕は痼疾のゆえに位を辞し、懌は実の弟としてこれを承け、託し授けるところは明白であり、友愛は損なわれておらず、国中の臣民は挙って異論が無い。その請いに順うべきである」と奏した。上はそこで懌の嗣位を允し、中官を遣わして敕封し、あわせてその妃の尹氏に誥命を賜った。
- はじめ成桂が自立したとき、宰相の李仁人とはもともと異なる族であった。ところが永樂年間に下された海嶽を祭る祝文は成桂を仁人の子と称し、『祖訓』もまた仁人の子である成桂が名を旦と改めたと載せていた。のちに成桂の子の芳逺が奏して弁じ、太宗が改正を許した。ここに至って『大明會典』を修めるにあたり、なお『祖訓』の記述が朝鮮の条に載せられた。貢使がこれを買って帰ったので、懌は上疏して世系を詳しく陳べ、先代に弑逆の事が無かったことを弁じ、改正を乞うた。禮部は「會典は本朝の制度を詳らかに載せるもので、事が外国に関わり疑わしい場合は略すべきところである。まして成桂が国を得たのは皇祖の命に出ており、仁人の後裔でないことは太宗の詔によって徴すことができる。その請いに従うべきである」と議した。詔して「可」とした。
- 正徳十五年(1520年)冬、内官に命じて懌の子の峼を世子に封じた。懌に金帛・珠玉を賜い、珍しい物および童男女を取り集めて進めさせた。
- 正徳十六年(1521年)、世宗が即位した。禮官が「天子が初めて位に即くにあたっては中國の体面を正し、外裔が馴れて侮る端を絶つべきである。懌に朝廷の意ではないと諭し、内臣を召し還して何も求めさせないようにされたい」と言った。帝はこれに従った。
嘉靖・隆慶――懌・峼・峘
- 嘉靖二年(1523年)八月、捕らえた倭夷を献じ、あわせて中国の被掠者八人を送り返した。白金・錦紵を賜った。
- 嘉靖八年(1529年)八月、陪臣の栁溥が上言した。要旨は次のとおり。国祖の李旦は本国全州の人である。二十八世祖の瀚は新羅に仕えて司空となった。新羅が亡び、六世孫の兢休が髙麗に入った。その十三世孫の安社は元に仕えて南京千戸所の逹嚕噶齊となった。元末に兵乱が起こり、安社の曽孫である子春とその子の成桂が地を避けて東へ遷った。至正辛丑(1361年)、恭愍王の十年にあたり、紅巾賊が入境した。成桂は賊を撃って功があり武班の職事を授かったが、当時はまだ名を知られていなかった。恭愍王には嗣が無く、ひそかに寵臣辛肫の子である禑を養って子とした。晩年、嬖臣の洪倫と内竪の崔萬生に弑された。權臣の李仁人は倫・萬生を誅して禑を立て、成桂を抜擢して門下侍中とした。禑は成桂を遣わして遼東を侵させようとしたが、成桂は従わず兵を返した。禑は懼れて子の昌に位を譲った。昌は偽りの姓であるとして退けられ、代わって王氏の裔である定昌君の瑶を立て、仁人を国外へ逐った。瑶がまた不道であったので国人は成桂を戴き、髙皇帝に請うて王に立て、名を旦と改めた。瑶には別邸を与えて生涯を全うさせており、実際に弑したことはない。以前、永樂・正徳年間にたびたび奏請してともに御允許を蒙りながら、今に至るまで改正されていない。いま會典の重修に際会したので、雪冤を賜わりたい、と。詔して史館に送って編纂させた。
- 嘉靖十八年(1539年)二月、睿宗を太廟に祔し明堂に配享する礼が成った。懌が表して賀した。帝は特に奉天門に出御して引見し、禮部で宴を賜った。
- 嘉靖二十三年(1544年)冬、懌が卒した。
- 嘉靖二十四年(1545年)正月、訃が届いた。諡を恭僖と賜い、詔してその子の峼を立てた。峼は年を越さずに卒した。諡を榮靖と賜った。九月、峼の弟で權國事の峘が使を遣わして祭と諡を謝し、あわせて襲封を請うた。詔して許した。
- 嘉靖二十五年(1546年)、峘は使を遣わして、海に出ていた外国人六百餘人を辺境まで送り届けた。金幣を賜った。
- 嘉靖二十六年(1547年)正月、峘が咨文で言った。福建の人で海を渡って本国に来る者はこれまで無かったが、日本へ交易に行って風に流され、前後で合わせて千人以上を捕らえた。みな武器・貨物を携えており、中国の火礮までが倭の手に渡っている。兵端が開くことを恐れる、と。詔して「近年、沿海の奸民が禁を犯し、福建がとりわけ甚だしい。しばしば外国に捕らえられて国の体面を傷つけている。海道の官員は巡按御史に糾察・弾劾させよ」と言った。なお王に銀幣を賜ってその忠を表彰した。
- 嘉靖三十一年(1552年)冬、洪武・永樂年間に賜った樂器が破損したとして律管を求め、さらに樂官を京に赴かせて習わせることを乞うた。これを許した。
- 嘉靖三十五年(1556年)五月、倭船四艘が浙江・南直隷方面から敗れて帰る途中、漂って朝鮮の境に入った。峘は兵を遣わして撃ち滅ぼし、中国の捕虜および逆賊を助けた者三十餘人を得て献じた。冬至の賀にことよせたものである。帝は璽書を賜って褒め諭した。
- 嘉靖三十八年(1559年)十一月、次のように奏した。今年五月、倭寇が船二十五隻を連ねて海岸に来着した。臣は将の李鐸らに命じてほぼ討ち尽くさせ、中国の民である陳春ら三百餘人を取り戻した。そのうち倭に通じて手引きした陳得ら十六人はいずれも闕下に献ずる、と。また敕を下して奬励し、銀幣を厚く賜い、あわせて鐸らにも差をつけて賜った。
- 嘉靖四十二年(1563年)九月、峘はまた上書して先代が李仁人の後裔でないことを弁じ、「いま會典を修めて訂正を蒙ったが、始祖旦の父である子春の名を記していただきたい」と乞うた。帝は會典に附録させた。
- 隆慶元年(1567年)六月、官を遣わして即位の詔を頒った。このとき帝が太學に行幸しようとしていたので、来使は留まって礼を観ることを乞い、許された。この年の冬、峘が卒した。諡を恭憲と賜い、その姪の昖に襲封を命じた。
萬厯前期――昖と『會典』の改正
- 萬厯元年(1573年)正月、穆宗に尊諡を、両宮に徽號を奉る礼が成った。昖は表して賀し、方物と馬匹を献じた。このころ昖はしばしば『皇明會典』を賜わり、その先代である康獻王旦の冤を雪ぐことを請うていた。
- 萬厯十六年(1588年)正月、會典が完成した。ちょうど貢使の愈泓が京に滞在していたので、先の書を給して先の命を果たすことを請い、許された。
- 萬厯十七年(1589年)十一月、陪臣の奇芩らが冬至の賀に来て、「本年六月、大琉球國の船が風に遭って海岸に着いた。その男女はすべて京に護送すべきか」と奏した。文書を給して放ち帰らせることに従った。
- 萬厯十九年(1591年)十一月、「倭の酋長である關白平秀吉が、明年三月に来襲すると声言している」と奏した。詔して兵部に海防を厳しく申し渡させた。
- 平秀吉は薩摩州の人である。はじめ倭の關白信長に随っていたが、信長がその部下に弑されると、秀吉は信長の兵を統べ、自ら關白と号し、六十餘州を降伏させた。朝鮮は日本の對馬島と相望む位置にあり、しばしば倭夷が往来して交易していた。
萬厯二十年――倭の来寇と朝鮮の潰走
- 萬厯二十年(1592年)夏五月、秀吉は渠帥の行長・清正らを分かち、舟師を率いて釡山に迫らせ、ひそかに臨津を渡らせた。当時、朝鮮は久しく泰平で兵は戦に慣れず、昖もまた酒に溺れて備えを弛めていた。突然、島夷が難をなすと、みな風を望んで潰えた。昖は王城を棄て、次子の琿に国事を摂らせ、平壤に奔り、さらに義州へ走って内属を願い出た。
- 七月、兵部は、要害の地に駐屯して天兵を待ち、国中に号令して勤王させ回復を図るよう令することを議した。しかしこのとき倭はすでに王京に入り、墳墓を毀ち、王子・陪臣を捕らえ、府庫を掠め、八道はほとんど失われていた。朝暮にも鴨緑江を渡ろうとする勢いで、援を請う使が道に絶えなかった。
- 廷議は朝鮮を国の藩籬として必ず争うべき地とし、行人の薛潘を遣わして昖に回復の大義を諭させ、大兵十萬がまさに至ると言い触れさせた。しかし倭はすでに平壤に達し、朝鮮の君臣はいよいよ急となって愛州へ逃れた。遊擊の史儒らが兵を率いて平壤に至り戦死した。副總兵の祖承訓が兵を率い鴨緑江を渡って救援したが、わずかに身一つで免れた。中朝は震動し、宋應昌を経略とした。
- 八月、倭が豐徳などの郡に入った。兵部尚書の石星は策の立てようがなく、人を遣わして偵察させることを議した。そこで嘉興の人である沈惟敬が募に応じた。惟敬は市中の無頼であった。このとき秀吉は對馬島に陣し、その将の行長らを分けて要害を守らせ後援としていた。惟敬は平壤に至り、きわめて低い礼をとった。行長は偽って「天朝が幸いに兵を動かさずにいてくれるなら、我らは遠からず引き揚げる。大同江を境とし、平壤以西はすべて朝鮮に属させよう」と言った。惟敬がこれを報告すると、廷議は倭の詐りは信用できないとし、應昌らに進軍を促した。しかし星はかなり惟敬に惑わされ、上奏して惟敬を遊擊に任じて軍前に赴かせ、さらに金を請うて離間を行わせた。
- 十二月、李如松を東征提督とした。
萬厯二十一年――平壤の勝利と封貢の議
- 翌萬厯二十一年(1593年)正月、如松は諸将を督して進み戦い、平壤で大勝した。行長は大同江を渡って龍山へ逃げ帰った。失っていた黄海・平安・京畿・江源の四道はすべて回復した。清正もまた王京へ逃げ帰った。如松は勝ちに乗じて軽騎で碧蹄館に進んだが、敗れて退き開城に駐まった。事は如松の伝に詳しい。
- はじめ如松は誓師のとき惟敬を斬ろうとしたが、參軍の李應試の言によって思いとどまった。ここに至って敗れて気勢が縮み、應昌は功を成すことを急いだ。倭もまた食糧に乏しく帰る気があった。そこで封貢の議が起こった。應昌は倭が惟敬に送った書を手に入れ、遊擊の周𢎞謨を惟敬とともに遣わして、倭に王京を明け渡し王子を返すよう諭させ、約のとおり見逃して帰らせた。倭は果たして四月に王城を棄てて退いた。このとき漢江以南千餘里の朝鮮の旧領は再び定まった。
- 兵部は「王を国に帰して守らせ、わが各鎮の兵は海外で久しく疲れているので順次撤収させるのがよい」と言い、詔して可とした。應昌は疏して次のように述べた。釡山は海に臨むとはいえ、その南はなお朝鮮の境である。もし倭がわが撤兵を窺って突入し再び朝鮮を犯せば支えきれず、これまでの功が水泡に帰する。いま兵を割いて協同して守らせるのが第一の策である。撤収を議するにしても少し待って倭がすべて帰るのを見届け、量って守備兵を残すべきである、と。兵部の議は江浙の兵五千を留めて要害に分屯させ、なお昖には軍備を整え訓練し外からの援けを頼むなと諭した。
- まもなく沈惟敬が釡山から帰り、倭使とともに来て和議を請うたが、倭はそれと並行して咸安・晉州を犯し全羅に迫り、漢江以南の回復を称して王京と漢江を境とすると言った。如松は全羅が肥沃で、南原府がとりわけその咽喉にあたると考え、諸将に命じて要害を分けて守らせた。まもなく倭は果たして分かれて攻め寄せ、わが軍にも斬獲があった。兵科給事中の張輔之、遼東都御史の趙燿はいずれも「和議と入貢は軽々しく受けてはならぬ」と言った。
- 七月、倭は釡山から西生浦へ移り、王子と陪臣を送り返した。このとき軍は久しく野に曝され、撤収の話を聞いて長く留め置くのは難しかった。應昌は劉綎の川兵、吳惟忠・駱尚志らの南兵を残し、薊遼の兵と合わせて計一萬六千を綎の配置に委ね、慶尚の大邱に置き、月々の軍糧五萬兩を戸部・兵部から支給することを請うた。これより先、内帑を出して軍費に充てたものはすでに累計百萬に及んでいた。廷臣は「内を空しくして外を実たすのは長い計ではない。残した川兵は綎に訓練を命じ、兵糧は本国に自弁させるべきだ」と言った。そこで詔して惟忠らの兵を撤し、綎の兵だけを残して守らせ、朝鮮の世子である臨海君珒に全羅・慶尚に居るよう諭し、顧養謙を経略とした。
- 九月、昖は三都が回復され国土が再興されたとして上表して謝恩した。しかしこのとき倭はなお釡山に拠っていた。星はいよいよ一途に和議を主張した。九月、兵部主事の曽偉芳が言った。關白の大軍はすでに帰り、行長が留まって様子を待っている。わが兵がまだ撤していないと知って一矢も加えてこない。帰って關白に報じ捲土重来しようにも風が不利で、冬の寒さに苦しむ。だから和議をしても去り、しなくても去る。沈惟敬は先に倭営で和議を講じたが咸安・晉州はそのまま陥ちた。和議を頼んで来年攻めて来ないことを願うのは、和議を急ぐことがまさに来襲を急がせることになる。だから和議をしても来り、しなくても来る。朝鮮に自ら守らせ、死者を弔い遺孤を問い、兵を練り粟を積んで自強を図らせるべきだ、と。帝はもっともとして、昖に敕諭することきわめて懇切であった。
萬厯二十二年〜二十四年――封貢をめぐる紛糾
- 萬厯二十二年(1594年)正月、昖は金晬らを遣わして方物を進め謝恩した。禮部郎中の何喬逺が奏した。晬は涙を流して「倭寇は猖獗で、朝鮮は手を束ねて刃を受けた者が六萬餘人。倭の言葉は道理に背き無礼である。沈惟敬は倭と通じ、和親と言わずいきなり降を乞うと言う」と語った。臣は謹んで、萬厯十九年に中国の被掠者である許儀が内地に寄せた書、倭夷が劉綎に答えた書、および歴年の入寇に対する処置の当否を差し上げ、特に敕を下して急ぎ封貢を止められるよう乞う、と。詔して兵部に議させた。このとき廷臣は次々に上章して、みな封貢を罷めて戦守を議することを言った。
- 八月、養謙が講貢の説を奏した。貢の道は寧波からとすべきである、關白は日本王に封ずべきである、行長配下の倭に諭してことごとく帰らせ、封貢を約のとおりにすべきである、と。
- 九月、昖が国を保つことを許してほしいと請うた。帝はそこで群臣が妨げるのを厳しく責め、御史の郭實らの官を追奪した。詔して小西飛を入朝させ、多くの官を集めて面と向かって議し、三事を要求した。一つは倭をすべて本国に帰らせること、一つは封は与えても貢は与えないこと、一つは朝鮮を犯さぬと誓うこと。倭はいずれも承知した。これを奏聞すると、帝はまた左闕で諭し、その言葉は繰り返し丁寧であった。
- 十二月、封の議が定まり、臨淮侯の李宗城を正使、都指揮の楊方亨を副使として、沈惟敬とともに日本へ遣わし、王に金印を給し、行長に都督僉事を授けることを命じた。
- 萬厯二十三年(1595年)九月、昖は次子の琿を嗣に立てることを奏した。これより先、昖の庶長子である臨海君珒は賊中に陥って驚き憂え病となった。次子の光海君琿は流散した者を収集してかなりの功績をあげたので、これを立てることを奏請したのである。禮部尚書の范謙は「統を継ぐ大義、長幼の定まった分において、順を越えることは宜しくない」と言い、許されなかった。ここに至ってまた奏して永樂年間の恭定王の例を引いて請うたが、礼臣は執奏して従わなかった。
- 萬厯二十四年(1596年)五月、昖はまた疏して琿を立てることを請うた。禮部はなお不可と主張し、詔して議のとおりとした。このとき皇太子がまだ立てられておらず内外が疑い恐れていたので、尚書の范謙は朝鮮の封を易える件について三度疏を上げて力めて主張を持したという。
- 九月、封使が日本に至った。これより先、沈惟敬は釡山に着いてひそかに秀吉に蠎玉・翼善冠・地圖・武經・良馬を贈っていた。また李宗城は貪淫のため倭の守臣に逐われ、璽書を棄てて夜逃げした。事が奏聞されて逮問され、そこで方亨を正使に充て、惟敬に神機營の肩書を加えて副使とした。
- ここに至って冊を奉じて至ると、關白は朝鮮の王子が謝しに来ず、ただ二人の使者を遣わして白土綢を奉じて賀としたことに怒り、その使者を拒んで会わず、惟敬に言った。もし二人の王子・三大臣・三都・八道を天朝の約に従ってすべて返すことを思わず、いま卑しい官と粗末な物で賀に来るのは、小邦を辱めるつもりか、天朝を辱めるつもりか。しかも石曼子の兵をかの地に留めて天朝の処分を待ち、そののちに引き揚げる、と。
- 翌日、貢を奉じ、使を遣わして表文二通を持たせ、冊使に随って海を渡り朝鮮に至った。廷議は使を朝鮮へ遣わして表文を取り、進めて検証させた。その一つは謝恩、もう一つは天子の処分を乞うものであった。
- はじめ方亨は「昨年、釡山から海を渡り、倭は大版で封を受けてすぐ和泉州に帰った」と偽って報告していた。しかし倭はまさに朝鮮を責め立て、なお兵を釡山に留めることは元のままで、謝表は時機に後れて発せられず、方亨は手ぶらで帰った。ここに至って惟敬がはじめて表文を差し出したが、検証すると文面は粗雑で、前の折り目には豐臣の印を用い、正朔を奉ぜず人臣の礼が無かった。そのうえ寛甸副總兵の馬棟が「清正が二百艘を擁して機張營に屯している」と報じたので、方亨はようやく事の本末を正直に吐き、罪を惟敬に負わせ、あわせて石星の前後の手書を差し出した。帝は大いに怒り、石星・沈惟敬を逮えて取り調べるよう命じた。
- 兵部尚書の邢玠を薊遼総督とし、麻貴を備倭大將軍・経理朝鮮に改め、僉都御史の楊鎬を天津に駐めて警備を申し渡させ、楊汝南・丁應泰を軍前の贊畫とした。
萬厯二十五年――丁酉の再乱
- 五月、玠が遼に至った。行長は樓を建て、清正は種島に布陣し、倭は水を貯え朝鮮の地図を求めていた。玠はそこで用兵を決意した。麻貴は鴨綠江を望んで東進したが、率いる兵はわずか一萬七千人で、増援を請うた。玠は朝鮮の兵は水戦にしか慣れていないとして、疏して川・浙で兵を募り、あわせて薊遼・宣大・山陜の兵および福建・吳淞の水師を調え、劉綎に川漢の兵を督させて討伐に加えることを請うた。
- 貴は密かに「宣大の兵の到着を待ち、倭の備えのない隙に乗じて釡山を襲えば、行長は捕らえられ清正は逃げる」と報じた。玠は奇計とし、楊元を南原に、呉惟忠を忠州に屯させるよう檄した。
- 六月、倭の数千艘が釡山に停泊し、朝鮮の郡守である安𢎞國を殺し、次第に梁山・熊川に迫った。惟敬は営兵二百を率いて釡山を出入りしていた。玠は表向き慰撫を装い、楊元に檄してこれを襲って捕らえさせ、縛って貴の陣営へ送った。惟敬が捕らえられて倭の手引きはようやく絶えた。
- 七月、倭は梁山・三浪を奪い、ついに慶州に入り閑山を侵した。統制の元均の兵が潰え、ついに閑山を失った。閑山島は朝鮮の西の海口にあり、右は南原を遮って全羅の外藩となる。ひとたび守りを失えば沿海は無防備となり、天津・登萊まで帆を揚げて至ることができる。しかもわが水兵三千はやっと旅順に着いたところで閑山が破れた。経略は檄して王京の西の漢江・大同江を守らせ、倭の西下を扼し、あわせて輸送路を防がせた。
- 八月、清正が南原を囲み、夜に乗じてにわかに攻めた。守将の楊元は逃げた。当時、全州に陳愚衷がおり、南原まではわずか百里であった。南原が急を告げたが愚衷は救おうとせず、すでに破れたと聞くと城を棄てて走った。麻貴は遊擊の牛伯英を援けに遣わし、愚衷と兵を合わせて公州に屯した。倭はついに全羅・慶尚を犯し王京に迫った。王京は朝鮮八道の中央にあり、東は烏嶺・忠州に阻まれ、西は南原・全州と道が通じている。この二城を失ってからは東も西も倭となり、わが兵は手薄で、退いて王京を守り漢江の険に依った。
- 麻貴は玠に請うて王京を棄て鴨緑江まで退いて守ろうとしたが、海防使の蕭應宫が不可として平壤から日を倍して王京へ駆けつけこれを止めた。麻貴は兵を出して稷山を守らせた。朝鮮もまた都體察使の李元翼を出し、烏嶺から忠清道へ出て賊の鋒を遮らせた。玠が自ら王京に赴くと人心はようやく落ち着いた。
- 玠は參軍の李應試を召して策を問うた。應試は「朝廷の主たる方針が何であるかを伺いたい」と請うた。玠は「表では戦い裏では和し、表では討ち裏では撫する、という政府の八字の密画である。漏らすな」と言った。應試は「それなら容易である。倭が叛くのは処分に絶望したからだ。あえて楊元を殺さないのは、なお処分を望んでいるからである。ただちに人を遣わして『沈惟敬が死ななければ退く』と諭せばよい」と言い、李大諫を行長へ、馮仲纓を清正へ遣わすことを請うた。玠はこれに従った。
- 九月、倭が漢江に至った。楊鎬は張貞明を遣わし惟敬の手書を持たせて、兵を動かすのは静かに処分を待つという実に背くと責めさせた。行長・正成もまた清正の軽挙を咎め、退いて并邑に屯した。麻貴はそこで青山・稷山の大勝を報じた。蕭應宫は掲文して「倭は惟敬の手書によって退いたのであり、青山・稷山ではまったく接戦していない。どうして功と言えようか」と言った。玠と鎬は怒り、應宫が臆病で自ら惟敬を解きに行かなかったと弾劾し、あわせて逮えた。
- 十一月、玠は徴集した兵を大きく集めた。帝は内帑の金を出して軍を犒い、玠に尚方劍を賜い、御史の陳效にその軍を監させた。玠は諸将を大いに会して三協に分けた。鎬は貴とともに左右の協を率い、忠州・烏嶺から東安へ向かい慶州に進んでもっぱら清正を攻める。李大諫を通じて行長に援けに行かぬよう約させる。また中協を遣わして宜城に屯させ、東は慶州を援け西は全羅を扼させる。残る兵は朝鮮と合陣し、順天などを攻めると見せかけて行長の東への援軍を牽制する。
- 十二月、慶州に集結した。麻貴は黄應賜を遣わして清正に贈り物をして和を約させながら、大兵を率いて不意にその陣営に至った。当時、倭は尉山城に屯して山の険に依り、中を流れる一江が釡山の砦に通じ、その陸路は彦陽を経て釡山に通じていた。貴はもっぱら尉山を攻めたかったが、釡山の倭が彦陽から援けに来るのを恐れ、多くの疑兵を張り、さらに将を遣わしてその水路を塞いだ。こうして進んで倭の壘に迫った。遊擊の擺寨が軽騎で倭を誘って伏兵に引き入れ、斬首四百餘、その勇将を捕らえた。勝ちに乗じて二つの柵を抜き、倭で焼け死んだ者は数知れず、ついに島山へ奔って三つの砦を続けて築いた。翌日、遊擊の茅國器が浙兵を率いて先登し、続けてこれを破り、斬獲はきわめて多かった。倭は壁を堅くして出て来ない。島山は尉山に比べて高く、石城は堅固で、わが軍は仰いで攻めたため損傷が多かった。諸将は「倭は水路に難渋して兵糧が続かない。ただ座して待てば清正は戦わずして縛れる」と議した。鎬らはもっともとして兵を分けて囲むこと十日。夜、倭は飢えがひどく偽って降を約し攻撃を緩めさせた。にわかに行長の援兵が大挙して至り、軍の背後へ回り込もうとした。鎬は策を下す暇もなく馬に鞭打って西へ奔り、諸軍はみな潰えた。そのまま兵を撤して王京へ還った。士卒で死んだ者は二萬。上はこれを聞いて震怒し、鎬を罷めて取り調べに付し、天津巡撫の萬世徳を代わりとした。事は鎬の伝に詳しい。
萬厯二十六年――四路の進撃と倭の撤退
- 萬厯二十六年(1598年)正月、邢玠は前の役が水兵に乏しく功が無かったとして、江南の水兵をさらに募り、海運を持久の計とすることを議した。
- 二月、都督の陳璘が廣兵を、劉綎が川兵を、鄧子龍が浙江・南直隷の兵を率いて相前後して至った。玠は兵を三協に分け、水陸四路とし、路ごとに大将を置いた。中路は如梅、東路は貴、西路は綎、水路は璘。それぞれ持ち場を守り、機を見て討たせた。このとき倭もまた三つの拠点に分かれ、東路は清正が尉山に拠り、西路は行長が粟林・曳橋に拠って砦を幾重にも築き、中路は石曼子が泗州に拠っていた。しかも行長の水師は交替で休みながら兵糧を運び、往来は走るように速かった。わが軍は日を約して一斉に進もうとしたが、まもなく遼陽の急報があり、李如松が敗死したので、詔して如梅を還らせてそちらへ向かわせ、中路は董一元を代わりとした。
- 應泰が鎬を弾劾したとき、昖は英断を回らし鎮撫の任にある者を励まして征討を完うするよう請うたが、上は許さなかった。また應(丁應泰か)は築城の議を鎬の罪状とし、「堅固な城が意を得れば、朝鮮に将来の患いを開く」と言った。そこで昖が奏して弁じた。帝は「連年兵を用い兵糧を出しているのは、お前の国が平素より忠順を尽くしているからだ。他人の言葉で自ら疑うな」と言った。
- 九月、将士が道を分けて進軍した。劉綎は行長の陣営に迫り、行長と会見を約したうえで翌日城を攻め、斬首九十二。陳璘の舟師が協同して迎え撃ち倭船百餘を毀った。行長がひそかに千餘騎を出してこれを防いだので、綎は不利となって退き、璘もまた舟を棄てて走った。麻貴は尉山に至ってかなりの斬獲があったが、倭が偽って退いて誘い、貴が空の壘に入ると伏兵が起こり、ついに敗れた。董一元は進んで晉州を取り、勝ちに乗じて江を渡り続けて二つの砦を焼いた。倭は退いて泗州の本営を保ったが、激戦のすえこれを落とした。さらに進んで新しい砦に迫った。この砦は三面が江に臨み一面が陸に通じ、海を引いて濠とし、海船が砦の下に泊まること千を数え、金海・固城を築いて左右の翼としていた。
- 十月、董一元は将を遣わして四面から城を攻め、火器で砦の門を撃ち砕き、兵は競って進み柵を抜いた。ところが突然、陣中の火薬が破裂し、煙と炎が天に漲った。倭はその勢いに乗じて衝いて出、固城の倭も駆けつけたので、兵はついに大潰して晉州へ逃げ帰った。帝は聞いて二人の遊擊を斬って晒し、一元らにはそれぞれ罪を負ったまま功を立てさせるよう命じた。
- この月、福建都御史の金學曽が「七月九日に平秀吉が死に、倭はみな帰る気になっている」と報じた。
- 十一月、清正が舟を出して先に走り、麻貴はそのまま島山・酉浦に入った。劉綎は曵橋を攻め取った。石曼子が舟師を率いて行長を救おうとしたが、陳璘が迎え撃って敗った。倭はみな帆を揚げてことごとく帰った。
- 倭の乱以来、朝鮮は七年、失った兵は数十萬、費やした兵糧は数百萬に及んだ。中朝と属国はついに勝算を得られず、關白が死んでようやく禍が息んだ。
萬厯二十七年〜二十九年――戦後の処置
- 萬厯二十七年(1599年)四月、倭を平らげた詔を天下に告げ、また昖に敕諭した。要旨は次のとおり。倭奴の平秀吉はほしいままに不道を働き、お前の国を蹂躙した。朕は王が代々忠貞に篤いことを思い、深く憐れんだ。七年のあいだ日々この賊を事とし、はじめは軽い討伐を行い、次いで包容を示し、最後には厳しい討伐を加えた。殺さないのが天の心であり、兵を用いるのは已むを得ぬことである。境を安んじ乱を靖めるには一掃するほかない。神は凶悪の極まりを憎み、ひそかに首魁を斃した。大軍がこれに乗じて追撃し、鯨鯢をことごとく戮し、海の隅まで清らかになった。勝報が届いて憂労がようやく解けた。ただ王は旧領に還ったとはいえ実は新たに国を造るに等しい。衰えを振るい起こすには倍の力が要る。倭は逃げ帰ったとはいえその族はなお在る。ここに邢玠に命じて軍を収めて京に帰らせ、量って萬世徳らを留めて分けて守らせる。王は薪に臥し胆を嘗め、先の恥を忘れず、ただ忠、ただ孝をもって先代の美業を継げ、と。
- 五月、玠は東征の善後策十事を条陳した。
- 一、守備兵を留めること。馬歩・水陸あわせて三萬四千有余、馬三千匹。
- 一、月々の兵糧を定めること。毎年で銀九十一萬八千有余。
- 一、現物を定めること。用いる米豆を遼東・天津・山東などに割り当て、毎年十三萬石。
- 一、中都海防道を留めること。
- 一、餉司を廃すること。
- 一、将領を重んずること。
- 一、巡捕を増やすこと。
- 一、持ち場を分けること。
- 一、操練を議すること。
- 一、本国に責任を負わせること。
- 廷臣は次のように議した。数年の疲弊のすえ今ようやく肩の荷を下ろした。内は根本を固めるべきで、これ以上の出費を重ねるべきではない。まして彼の国は兵乱と飢饉の後で、倭の擾乱に苦しむだけでなくわが兵にも苦しんでいる。だから今日の善後策はなお彼の国と相談すべきで、まず彼の兵糧の余裕不足を量ってはじめてわが兵の去留を決めるべきである。馬匹の買い増し、標兵の補充、巡捕の新設から兵糧を管する府佐に至るまで、すべて取りやめるべきである、と。帝は督撫に国王と会同して相談のうえ奏せよと命じた。
- 八月、昖は方物を献じて大工事を助けた。褒賞は例のとおり。
- 十月、水兵八千を留めて守備に充てることを請い、撤収した官兵は遼陽に駐屯させて警戒に備えた。
- 萬厯二十八年(1600年)四月、義州などの倉に残った米豆を遼陽へ運び返すことを請うた。戸部は「輸送は困難である。いっそそのまま彼の国に与えて疲弊を救い、皇恩を明らかにするに越したことはない」と議した。詔して可とした。
- 萬厯二十九年(1601年)二月、兵部が経略・総督の条陳七事を覆奏した。
- 一、兵士を練ること。麗人は猛くたけだけしく寒苦に耐えるが、長い衫と大きな袖で訓練に方法が無い。束伍の法をもって教えるべきである。
- 一、要衝を守ること。朝鮮は三面が海に臨み、釡山は對馬と相望み、巨濟がこれに次ぐ。それぞれ重兵で守り、あわせて尉山・開山などの地も皆守備すべきである。
- 一、険隘を修めること。王京は北に叢山を負い南に滄海を巡らす。忠州の左右の烏嶺・竹嶺の二嶺は羊の腸のように曲がりくねり、一夫関に当たるの険がある。いま営壘の遺址がなお残っている。急ぎ修繕すべきである。
- 一、城池を築くこと。朝鮮八道の十九には城が無い。平壤の西北の鴨江・浿江の二江はともに南は海に通じている。もし倭が別に一軍を遣わして平壤を占拠すれば王京への声援が断たれる。いずれも修築して人を集めるべきである。
- 一、器械を造ること。倭は陸戦に長じ海に長じない。船が重く大きくて攻撃に不利だからである。いま福船・唬船百十艘を造って奇兵とし、あわせて神機・百子・大箭を増造すべきである。
- 一、異材を訪ねること。朝鮮は世襲の官を貴び世襲の役を賤しみ、一切を禁錮するので、往々にして倭に走り敵に走って本国の患いとなる。破格に捜し出して採用すべきである。
- 一、内治を修めること。国家は東南が海に臨み、登州・旅順を門戸とし鎮江を咽喉とする。応援の兵はすべて撤すべきでない。わが身を固めることは、そのまま朝鮮を固めることでもある。
- 詔して朝鮮に励んで実行させた。
- 九月、頒たれた誥命・冕服が乱に遭って失われたとして補給を願い出、これに従った。
- このころ倭の国は内乱し、對馬島主の平義智は降人をことごとく朝鮮に返し、書を送って和を乞い、かつ「秀吉の将、家康の将が糧数十萬石を運んで軍を興す資とする」と言い触らして朝鮮を脅した。朝鮮と對馬島は一水を隔てて相望み、島の地は五穀を産せず米を朝鮮に頼っていた。兵乱の後は交易が絶えていたので、あらゆる手段で和議を迫ったのである。秀吉が死にわが兵がすべて撤収すると、朝鮮は倭を畏れることいよいよ甚だしく、倭と和議を結ぼうとしたが、また中国の咎めを受けることを懼れた。
- 十二月、昖は島の倭が和議を求めていることについて指示を請うてきた。兵部は事は遠くから測りがたいとして総督の世徳に相談のうえ議させ、詔して可とした。
- 萬厯三十年(1602年)十一月、昖は「倭使が頻りに来て和議を強要し、兵端が次第に露れている。将を選び兵を率いて本国とともに訓練し防備を修めさせてほしい」と言った。帝は「かつて将士を留めて教習させ、その成法はすべて残っている。あらためて遣わすには及ばぬ」と言い、その使臣に敕を持たせて誡め励ました。
- 萬厯三十三年(1605年)九月、昖はまた琿を世子に封ずることを請うたが、禮部はなお長子を立てる議を主張した。
- 萬厯三十五年(1607年)四月、昖は家康が和を求めていると告げてきた。兵部は王が自ら判断するに任せるほかないと議した。これ以来、和議は絶えず、三年ののちようやく交易開始の事が定められた。
萬厯後期――光海君琿
- 萬厯三十六年(1608年)、昖が卒した。光海君の琿は自ら署國事と称し、陪臣を遣わして訃を告げ、あわせて諡を請うた。帝はその専断を悪んで允さず、その国の臣民に公議して申し出よと命じた。
- このころわが大清の兵が諸部を征服して次第に朝鮮に近づいていた。兵部は、かの王に大いに武備を修め辺防を整えさせ、あわせて遼左の督撫・鎮臣に敕して官を遣わし、互いに侵犯しない旨を伝えさせることを議し、これに従った。
- 十月、琿を国王に封じた。その臣民の請いに従ったのである。
- 萬厯三十七年(1609年)三月、昖に諡して昭敬とし、官を遣わして琿とその妃の栁氏に誥命を賜った。
- はじめ朝鮮は守りを失い、中国の力に頼って回復を得た。倭は釡山を棄てて退いたが、なお陰謀して境を開き患いをなすことをやめなかった。そこで海上に「倭が釡山を狙い、朝鮮がこれと通じている」との流言が立った。
- 萬厯四十一年(1613年)九月、総兵官の楊宗業がこれを報告した。琿は疏して弁じ、詔して慰め解いた。
- 萬厯四十二年(1614年)四月、生母の金氏を追封することを奏請した。禮部が會典を調べたところ、嫡母が封を受け生母が先に亡くなった者は追贈を得られるとあった。そこで国王の次妃に封ずるよう命じた。
- 萬厯四十三年(1615年)十一月、冬至を表して賀し、あわせて「『吾學編』『弇山堂別集』などの書を買って帰ったところ、本国のことを載せて會典と食い違っている。改正を乞う」と奏した。禮部は「野史は拠りどころにならない。いま請うところは逆党と譏りを同じくすることを恥じるものであり、その誠意を憫れむべきである。史館に付すべきだ」と言い、可と答えられた。
- はじめ琿は生母のためにすでに封を得ていたが、ここに至ってさらに冠服を給わることを願った。礼臣は「金氏は側室であり、礼には厚薄の別がある」として不可と主張した。
- 萬厯四十五年(1617年)正月、琿が重ねて請うたので、帝は琿がたびたび懇ろに陳べたことをもって、努めてこれに従った。
- 萬厯四十七年(1619年)、楊鎬が馬林・杜松・劉綎らを督して出師したが、わが大清の兵に敗られた。朝鮮の助戦の兵将は或いは降り或いは戦死した。琿は急を告げ、詔して手厚く恤むよう命じた。
- 十一月、兵部は朝鮮への入貢の道に兵を増やして守るべきことを覆奏した。詔して鎮江などに兵と将を置き、経略の熊廷弼に配置を委ねさせた。
- 萬厯四十八年(1620年)正月、琿が奏した。要旨は次のとおり。敵兵が八月中に北關を攻め破り、錦台什は自ら焼け死に、巴楊古は出て降った。鐵嶺の役では蒙古の宰桑もまた滅ぼされた。聞くところ、かの国の謀議では「朝鮮・北關・宰桑はみな南朝に兵を助けた。北關・宰桑がすでに滅んだ以上、朝鮮だけを存らえさせてはならぬ」という。また牛毛寨・萬遮嶺に兵を置き、寛甸・鎮江などを略そうとしていると聞く。寛甸・鎮江は昌城・義州の諸堡と水を隔てて相望み、孤立して危ういことこの上ない。敵がもし靉陽の境上・鴉鶻關から道を取り鳳凰城の内側へ回り出れば、一日で寛甸・鎮江・昌城へ長駆し、いずれも自らを保てなくなる。内は遼左の八站、外は東江の一城、彼此が断ち切られ声援が絶える。寒心すべきである。速やかに大兵を調え、ともに掎角の勢をなして辺防を固めることを望む、と。
- このとき遼鎮の塘報が「朝鮮が大清と講和している」と称した。朝議はそこで「琿は表向き逆らって内心は順っている。官を遣わして宣諭するか、あるいは将に命じて監護すべきだ」と言い、その説はまちまちであった。琿は疏して弁じ、二百年の忠誠、事大は生死を通じて一節であると述べ、その言葉はきわめて切実であった。禮部・兵部は敕を下して諭しその心を安んずることを請うた。帝はその議を是としたが、敕は陪臣に持たせて帰らせ、官は遣わさなかった。
天啓――琿の廃立と毛文龍
- 天啓元年(1621年)八月、朝鮮の貢の道を改め、海から登州に至ってまっすぐ京師に達することとした。
- このころ毛文龍が総兵として皮島に鎮し、逃げてきた民を集めて兵とし、朝鮮に食糧を仰いでいた。
- 十一月、琿は「兵糧を送るのは力の及ばぬところ、萬厯の東征の例にならって山東の粟を運んでほしい」と奏し、これに従った。
- 天啓三年(1623年)四月、国人が琿を廃し、その姪である綾陽君の倧を立て、昭敬王妃の命によって国事を執らせた。議政府に文を送って督撫に転奏させ、文龍がこれを掲文で報じた。登州巡撫の袁可立が「琿がまことに不道であるなら、太妃に具さに奏させ、中国が改めて立てるのを待つべきである」と上言したが、疏は宮中に留められた。
- 八月、王妃の金氏が疏して倧の封を請うた。禮部尚書の林堯俞が言った。朝鮮の廃立の事について内外の諸臣は忠を尽くし憤を発している。罪を鳴らして討つべしと言う者があり、急いで討たずまず方物の貢を受けて顛末を調べるべしと言う者があり、あるいは大義をもって責め世論の向背を察すべしと言う者があり、あるいは倧に敵を討たせて自ら潔白を示させるべしと言う者がある。諸説みな採るべきところがある。琿が実に徳に背き、倧が叛臣を討って赤心で朝廷を奉じていると言うのは、ただ文龍一人だけである。皇上が天に代わって逆を討ち綱常を扶植するのは正しい法であるが、彼の国が平素恭順と称され他の外裔と大きく異なることを思うなら、さらに堅実で信のある臣を遣わし、文龍と会同して臣民を公に集め、繰り返し尋ね聞いて調べを明らかにしたうえで、あらためて聖断を請うべきである、と。可と答えられた。
- 十二月、禮部がまた上言した。臣は先に兵部とともに登州巡撫に移咨し、あわせて毛帥に劄を下して官を遣わし現地で調べさせた。いま送られてきた彼の国の公結十二道によれば、宗室から八道の臣民に至るまで共に倧を恭順と称している。しかも彼の陪臣が相率いて哀訴し、「この危急のときには必ず国君の主を要する」と言っている。まず敕諭を頒って倧に国事を統理させ、なお兵を出して賦を取り立てさせ、文龍とともに伏兵を置き奇策を出させ、次第に態勢が整うのを待ってはじめて重臣を遣わし封典を正すべきである。そうすれば小国を慈しむなかで辺境を固める道を失わずに済むであろう、と。これに従った。
- 天啓四年(1624年)四月、倧を国王に封じた。
- 天啓五年(1625年)十二月、文龍が報じた。朝鮮の逆党である李适・韓明璉らが昌城で兵を挙げまっすぐ王京に向かったが、臣が捕らえた。残党の韓潤・鄭梅らは建州に逃げ込み、左議府の尹義立が内応を約し、この冬に大挙して朝鮮を攻めようとしている。臣はすでに国王に咨して防備させ、しばらく鐵山の民衆を移して雲從島に就かせ薪を取らせている、と。
- 登萊巡撫の武之望が奏した。毛帥は五月以来、須彌に居所を営んだ。いわゆる雲從島がこれである。いま十月にはさらに兵民・商賈を移してここを充たし、鐵山の地は空になった。そのため朝鮮の各道はこれを近くに迫られる嫌いがあると疑い、はなはだしくは兵を置いて防禦するに至った。いま鎮臣の言う李适らの叛、尹義立の内応は、臣らもかすかに聞いてはいるが直ちには信じがたい。これを信ずれば鮮人の疑いをいよいよ重くし、信じなければ後日の患いを残すことを恐れる、と。
- 兵部は「敵国を牽制するのは朝鮮であり、朝鮮を繋ぎとめるのは毛鎮であり、毛鎮を統御するのは登州巡撫である。いま撫臣と鎮臣が不和で、そのため鎮臣と属国も不和になっている。大いに不利である」と言った。帝はそこで鎮臣と撫臣に心を同じくするよう戒め励まし、韓潤・尹義立らの件は朝鮮に自ら処置させた。
- 倧はまた遼の民を引き揚げさせ中国本土に安置することを請うた。兵部は「遼人の去留は文龍次第である。文龍が一日去らなければ遼人も一日離れない。鮮人がこれを島へ追い入れるのはよいが、島から離れるよう追うのはよくない。鎮臣に遼民をことごとく島へ移させ、登州巡撫に期日を切って糧を運ばせ、朝鮮には量って救済を行わせ屯田・牧畜に充てさせるべきである」と言い、帝はこれを是とした。
- 天啓六年(1626年)十月、倧が上疏した。要旨は次のとおり。
- 皇朝が小邦を覆い庇う恩は、国内の地と同じ扱いである。さきに昏乱に遭ってひそかに敵国と通じ、皇天が震怒してその命を降し黜けた。臣は仮に国事を署した当初から安んずるいとまもなく、ただちに陪臣の張晚を帥とし李适を副とし、国中の精鋭を付して寧邊に進み屯させ、ひとえに毛鎮の指図に従って共同討伐の時機を待たせた。ところが适は重兵を握ってひそかに野心を蓄え、ついに龜城府使の明璉とともに兵を挙げて内から叛き、まっすぐ京城を犯した。晚は残兵を収めてその後を追い、京畿の官兵と表裏から挟み撃ちにし、賊はみな首を差し出した。しかし西辺の軍備と諸鎮の備蓄はこの役で尽きた。
- 毛鎮は遼が全て失われた後、孤軍で東に渡り海上に寄留し、遼民を集めること前後で数十萬。これもまた小邦の頼みとするところである。しかし国境には事が多く土地は痩せ民は貧しい。内には本国の軍需を賄い、外には鎮兵の口を満たす。産する穀物には限りがあり、支給は実に難しい。遼民は飢えに迫られて村落に散らばり、強い者は奪い、弱い者は乞う。小邦の兵民は乱されて堪えられず、郷里を棄てて内地へ移り、遼民も食を追って随って入る。昌城・義州以南、安肅以北では、寄留者が六、七に対し土着が三、四である。さきにこの状況を具さに奏し、兵部の議覆と処分がすでに定まっている。どうしてあらためて干渉できようか。
- 韓潤とその弟の潭は逆賊明璉の子姪であり、亡命して逃げ隠れ、そのまま敵を引き入れて寇した。賊はすでに国に叛して去っており、これを制する命はもはや臣の手には無い。尹義立はかつて判書に任じたが、もとより議政ではない。近年、毛鎮の接伴官に任じられたが任に堪えず、職を奪われて家に帰った。怨んで叛いた事実は一切ない。毛鎮は王仲保らの訴えによっているが、いずれも実事が無い。思うに必ず讒言の臣が督撫を欺き、離間の計を売り込んだ者がいるのである。
- 毛帥が久しく海外に鎮し、臣が交わりを重ねてすでに十年近い。糧の贈りはまさに尽きて双方とも困窮しているとはいえ、情誼の厚さは実に少しも損なわれていない。しかもその須彌への移転は、ひとえに多くの家族を保護し便に就くためであり、薪や飼葉の出入りは兵家の常事である。取り沙汰される流言は本より気にかけていない。
- ひそかに兵部・巡撫の移咨を見るに、「近くに迫られることを虞る」と言い、「その民を追え」「その帥を追え」と言い、はなはだしくは「兵を置いて属国の二心に備える」という語まである。海外の事情を十分に諒解していないかのようである。臣が遼民の引き揚げを請うたのは力が及ばぬためで、はじめから近くに迫られることを慮ってのことではない。臣はまさに毛鎮と心を一つにし力を合わせて功を建て主君に報いようとしている。どうして毫ほどでも猜疑して防ぐ心があろうか。
- 帝は答えて言った。王が東鎮と和し協い中朝を愛戴する忠貞の誠は言葉に溢れている。鎮の軍は久しく朝鮮に懸かって遼人と雑り住み、久しく客たれば主を煩わせ、産するものは少なく食う者は多い。王の言が無くとも、朕が万里の外を坐して照らさぬことがあろうか。しかし毛帥は中朝にとっては牽制の軍であり、王の国にとっては唇と歯の関係である。海上の輸送はすでに担当の部に区分けさせ、期を切って運び届けさせる。難を逃れた辺民についてもまた毛帥に心を尽くして処置させ、重ねて王の負担とならぬようにする。伝わる流言は気にかけるに足らぬ。力を合わせ心を一つにせよ。王よ、努めよ、と。
- 天啓七年(1627年)三月、兵部が文龍の掲文を上った。「麗の官・麗の人が敵を招いて鐵山を攻め、わが兵千人を傷つけ、麗兵六萬を殺し、糧百餘萬を焼いた。敵はそのまま兵を移して麗を攻めている」。帝は文龍に速やかに機を見て応援するよう敕した。
- 登萊巡撫の李嵩が奏した。「朝鮮の叛臣である韓潤らが敵を安州に引き入れ、節度使の南以興は自ら焼け死んだ。中国の援兵である都司の王三桂らはいずれも戦死した」。さらに続けて奏した。「義州および郭山・凌漢山城がいずれも破れ、平壤・黄州は戦わずして自ら潰えた。敵兵はまっすぐ中和に達し、遊撃の騎兵が黄州・鳳凰城の間を出入りし、また雲從へ向かって毛帥を攻め掠めた。国王および士民は江華に遷って難を避けた」。
- このとき大清の兵は至るところ即座に降し、朝鮮の諸城は風を望んで潰走した。そこで使を遣わして倧に諭すと、倧は和を輸し、ついに軍を返した。
- 九月、倧が兵禍の状況を奏した。このとき熹宗が崩じ、莊烈帝が位を嗣ぎ、優詔をもって励ました。
崇禎――朝鮮の降伏と明の滅亡
- 崇禎二年(1629年)、毎年二度の貢を一度に改めた。これより先、遼の路が断たれ、貢使は登萊に道を取ることすでに十餘年であった。袁崇煥が督師となってから覚華に改めるよう上奏したので、遠回りのうえ危険を冒すこととなり、その国はしばしば元に復することを請うていた。ここに至って戸曹判書の鄭斗源を遣わし登州の海路から来させ、登州巡撫の孫元化に書を送ってその陳情を託した。元化は官を委ねて伴送させ、なお疏して奏した。帝は「水路にはすでに定まった命がある。道を改めるのは自らの便を図る嫌いがある」として許さなかった。
- この年六月、督師の袁崇煥が平遼將軍・左都督の毛文龍を雙島で殺した。
- 崇禎六年(1633年)六月、倧は総兵の黄龍に書を送って言った。文龍の旧将である孔有徳・耿仲明が士卒二萬を率いて大清に降り、朝鮮に向かって糧を徴している。本国は有徳らがかつて皮島にあって本国の患いであったので、まだこれに応じていない、と。龍がこれを報告した。
- 崇禎十年(1637年)正月、太宗文皇帝が自ら朝鮮を征し、盟に背いて明を助けた罪を責めた。諸城はことごとく潰え、朝鮮は急を告げた。総兵の陳洪範に各鎮の舟師を調えて救援に赴かせるよう命じた。
- 三月、洪範が官兵の出海を奏した。数日を経て山東巡撫の顔繼祖が奏した。「属国は守りを失い、江華はすでに破れ、世子は捕らえられ、国王は出て降った。いま大いに舟艦を整えて皮島・鐵山を攻めに来ようとしており、その鋒はきわめて鋭い。急ぎ沈世魁・陳洪範の二鎮臣に敕して皮島を堅守させることを第一義とすべきである」。帝は繼祖が力を合わせて救う策を図れないとして厳しく責めた。
- まもなく皮島もあわせて大清の兵に破られ、朝鮮はついに(明との関係を)絶った。幾年も経ずして明もまた亡んだ。
- 朝鮮は明にあって属国と称したとはいえ、国内と異なるところがなかった。ゆえに朝貢は絶え間なく、賜与も繁く、ほとんど書き尽くせない。ただ治乱に関わりのあるものだけをこの篇に記した。国の風土・物産については前の史書に詳しく載っているので、ここには重ねて録さない。