明史卷三百十九 列傳第二百七 廣西土司三
篇首の立伝者一覧
- 泗城
- 利州
- 龍州
- 歸順
- 向武
- 奉議
- 江州
- 思陵(廣東の瓊州府を附す)
泗城――沿革と洪武・宣徳年間
- 泗城州は宋に置かれて横山寨に隷し、元では田州路に属した。その界は東は東蘭に、西は上林長官司に、南は田州に、北は永寧州に抵る。
- 洪武五年(1372年)、征南副将軍の周徳興が泗城州を克し、土官の岑善忠が帰附して世襲の知州を授けられた。
- 十三年(1380年)、善忠の子 振が乱を起こし利州を寇したので、広西都司がこれを討平した。
- 十四年(1381年)、善忠が来て方物を貢いだ。
- 二十六年(1393年)、振が人を遣わして馬と方物を貢いだ。詔して鈔錠を賜った。
- 宣徳元年(1426年)、女土官の盧氏が族人の岑臺を遣わして馬および銀器などの物を貢いだ。賜賚には差があった。
- 八年(1433年)、致仕した女土官の盧氏が襲職を奏し、土官の岑豹が土兵千五百余人を率いて自分を害そうと謀り、さらに故土官 岑瑄の塑像を棄て毀った、そのふるまいは不孝で襲職させ難いと訴えた。豹の叔である利州知州の顔もまた、豹が兵を興して盧氏を殺そうと謀り州民が害を被ったと奏した。都督の山雲は、豹は実は故土官 瑄の姪で人の信服するところであるから襲職させるべきであり、盧氏は瑄の妻で豹の伯母、初めは借りて襲いだが今は致仕したのだから田土を量って撥き終身を贍うべきである、そのうえ豹には侵擾を肆にせぬよう敕すべきだと奏した。兵部が雲の奏に従うよう請い、帝は行人の章聰・侯璡に敕を齎させて雲に諭し、三司・巡按と会して豹と盧氏の是非を究め、公に従って判決させた。
泗城――岑豹の跋扈
- 正統元年(1436年)、豹が人を遣わして入貢した。
- 二年(1437年)、豹が利州を攻め、その叔 顔の妻子と財物を掠めた。朝廷の官が至って撫諭したが、固きに負いて服さず、兵を増して拒み守った。雲がこれを報じ、発兵して剿すことを乞うた。帝は雲に敕して、蛮夷が化に梗らうのは罪として容れ難いが、師を興し衆を動かすこともまた容易ではないから、あらためて人を遣わして諭せと述べた。
- 五年(1440年)、顔が豹の侵し占め掠め擄った罪を奏し、頭目の黄祖もまた豹がその弟を殺してその家を籍したと奏し、瑄の娘もまた豹が田地と人民を占め奪い、その母の盧氏を囚えたと奏した。帝はまた行人の朱昇・黄恕に敕を齎させてこれを諭し、あわせて広西・貴州の総兵官に敕して親しくその地に赴かせ、速やかに侵し掠めたものを還させ、もし服さなければ機に応じて擒え捕らえさせた。
- 翌六年(1441年)、総兵官の柳溥が奏した。行人の恕と昇が広西三司の委官とともに豹に諭して占めた利州の地を退き還させたが、豹はそのときは面従して、帰るともとどおり占めた。今 顔は利州の利甲などの荘を泗城の古那などの甲と易え、利州の衙門を開設したいと望んでいるから、その請に従い、附近の官軍を発して顔をそこへ送り蛮民を撫治させ、もし豹がなお拒み逆らうなら兵を率いて剿捕すべきである。許された。
- 八年(1443年)、豹が人を遣わして貢を奉り、綵幣を賜った。
- 十年(1445年)、豹はまた顔がその地を占拠していると奏した。帝は速やかに議処を与え、因循して辺方に害を貽してはならぬと令じた。
- 成化元年(1465年)、豹は衆四万を聚めて上林長官司を攻め劫し、土官の岑志威を殺してその境土に拠った。兵部は、豹の強獷がこのようである以上、兵を調して擒え捕らえ典刑を明らかにすべきだと言い、許された。ほどなく豹は死んだ。
泗城――岑應・岑接の代
- 𢎞治三年(1490年)、土官知州の岑應がまた上林長官司および貴州の鎮寧など十八城に拠った。当時 恩城の土官 岑欽が田州府を攻め奪って知府の岑溥を逐い、應は欽に党していたが、のちまた互いに讐い、両家の父子が相い讐い殺した。事が聞こえ、兵部が奏した。欽は連年 禍を構え、應はこれに党してさらに上林長官司に拠り、流毒は少なくない。今 天が禍に厭いて手を仮り相い残ったのは実に地方の幸いである。應が占めた隣の壤および土官の印信も数が多いから、これも勘断して禍の本を除くべきである。あわせて應の弟 接に侵した地と印信を退き還させ、そのうえで承襲を許すべきである。泗城は地が広く兵が多いから、頭目を選んで職銜を量り授け、分けて轄させてその勢を殺ぐべきである。詔して総鎮の官に下して区処させた。接が人を遣わして朝正し、綵緞・鈔錠を賜った。
- 十年(1497年)、総督の鄧廷瓚が、接は往年 都匀・府江などの征に随って功があるので、その祖父の罪を畧して世職を承襲させ報効を図らせたいと奏した。廷臣は、印を劫し地を侵したのは接の祖父の罪ではあるが、再四 撫諭しても接は官に帰そうとしない、遽かに襲職させれば志はいよいよ驕り、土官を馭する法ではないと議した。
- 十二年(1499年)、田州の土目 黄驥が乱を起こし、接を要して声援とし、男女を殺し掠め、倉庫を劫し焼き、さらに府学および横山駅の印記を劫して興仁に拠った。
- 十四年(1501年)、貴州の賊婦 米魯が乱を起こし、提督の王軾が接に土兵二万を領させて砦布河に営させるよう請うたので、接に敕して自ら二月の餉を備え、期を剋して調に赴かせた。
- 十八年(1505年)、泗城土官の族人 岑九仙が奏した。始祖の岑彭以来 世襲の土官であったが、豹の子 應に至って欽の禍に罹り、子孫はほとんど滅び尽きた。その弟の接は衆に推されて印を護り、しばしば労勩を著したので、襲職させて蛮衆を掌轄させたい。兵部尚書の劉大夏らが議した。豹は叛臣の余孽であり、子の應もまた自ら滅亡を取った。今の接という者は、人がみな梁接だと伝え称しており應の親枝ではない。また岑九仙が何者の逋逃で、冒って奏し擾しているのかも分からない。臣 大夏はさきに両広にあって岑氏の譜を見たが、岑の始祖 木納罕は元の至正年間に田州知府の祖 伯顔と同時に官を受けている。今 九仙が妄りに漢の岑彭を援いて世次を言うのは聖聴を塵瀆するものであり、その罪を治めるよう請う。岑接が襲ぐべきか否かは先に鎮巡の官に勘奏させてある。岑九仙は蛮人であって深く究め難いとはいえ、やはり摘発してその奸を破るべきである。許された。
- 正徳十二年(1517年)、泗城および程県がそれぞれ官族を遣わして来貢したが期に後れたので賞を半減した。泗城は貢が厚かったので、なお全て給した。
- 嘉靖二年(1523年)、田州の岑猛が兵を率いて泗城を攻め六寨を抜き、進んで州城に薄ってこれを克した。接が軍門に急を告げ、猛が故なく寨を攻めたと言い、猛は、接は岑氏の後でないのにその祖業に拠っているのだから侵された地を取り戻したいのだと言った。詔して下し勘処させた。
泗城――嘉靖以後
- 十六年(1537年)、田州の盧蘇が乱を起こし、泗城の土舎 岑施が兵をもって岑邦佐を納れようとしたが、兵は敗れて納れることができなかった。
- 二十七年(1548年)、詔して土舎の施に襲替を許し赴京を免じた。かつて調を聴いて労があったためである。
- 隆慶二年(1568年)、泗城の蛮 黄豹・黄豸らが貴州の程番府の麻嚮・大華などの司に拠り、時々出て擄掠した。官軍が剿すと豹らは遁れ去った。
- 萬歴二年(1574年)、泗城の土官 岑承勲らが馬および香鑪などの物を貢いだ。
- 四十一年(1613年)、土官の岑雲漢が方物を貢いだ。もと雲漢は紹勲の嫡嗣であったが、紹勲は庶孽の雷漢を寵し、頭目の黄瑪らが中から禍を煽ったので、焚劫して兵を称するに至った。雲漢は母を紿いて印を出させ、弟を扶けて奔った。撫按がこれを報じ、廷議は、紹勲の罪を釈して大倫を存し、雷漢・黄瑪らを杖って囂孽を息め、雲漢は寛に従って銜を削り罪を戴いて事を管させるよう請うた。詔して可とした。
- 天啟二年(1622年)、巡撫の何士晉が、雲漢の知州の職を復し、都司の職銜を量って加え、土兵を率いて黔を援けさせるよう請い、許された。
- 泗城は延袤がかなり広く兵力も勁く、慶遠の諸州と互いに雄長を競った。その流悪は豹から應、接へと三世に及んだ。県一を領した。程県という。長官司二。安隆・上林という。
泗城――程縣・安隆長官司・上林長官司
- 程県は泗城州の東北にある。旧号は程丑荘。明初に帰附して泗城州に隷した。洪武二十一年(1388年)に県と改め、編戸は一里。のち慶遠府に改属し、ほどなくまた泗城州に隷して流官の知県を置いた。正統間、岑豹に逼られて知県は官を棄てて遁れ去り、典史が印を摂したがまもなく害に遭った。豹はその印を奪って県治に拠った。事が聞こえ、しばしば官を遣わして諭したが、岑應・岑接を経て七十余年 服さなかった。嘉靖二年(1523年)、接が諸土官に攻め殺され、督府が官を遣わして按問し、県の印を得て官に貯えた。その後は荒れた土がわずかに残るのみで、泗城・南丹・那地がいずれもこれを得ようと望み、当時 兵を治めて相い攻めているという。
- 安隆長官司は東は泗城、西は雲南、南は上林長官司、北は貴州宣慰司に抵る。元は泗城州の地であった。洪武元年、泗城州の土官 岑善忠が次子の子得に安隆峒を領させた。三十年(1397年)、子得が来朝して馬を貢ぎ、治所を設けた。永樂元年(1403年)、安隆長官司を設け、子得を長官としてその衆を撫させた。十二年(1414年)、馬を貢いだので鈔幣を賜い、世襲を与えた。
- 上林長官司は東と北がいずれも泗城の界に抵り、西は安隆長官司、南は雲南に抵る。宋・元では上林峒と号し泗城州に属した。明が興ってもこれに因った。永樂中に長官司を置き、泗城州土官 岑善忠の三子 子成を長官としてその民を撫させた。永樂四年(1406年)、子成が子の保を遣わして方物を貢ぎ、鈔幣を賜った。これより貢と賜は絶えなかった。成化元年(1465年)、泗城の岑豹が上林を攻め劫し、長官の志威を殺してその族を滅ぼし、印を劫してその境土を占めた。兵部は文を移して豹の罪を議し、なお地と印を上林に給した。𢎞治三年(1490年)、上林長官司が頭目を遣わして入貢したが、礼部は期を過ぎて至ったので半分の賞を給した。ほどなく泗城の岑應がまた上林長官司を奪って拠ったが、正徳・嘉靖・隆慶・萬歴の間も朝貢はなお時々至った。
利州
- 利州は漢では交阯に属し、阪麗荘と号した。宋が利州を建てて横山寨に隷させ、元もこれに因った。土官もまた岑姓である。洪武初に帰附して知州を授けられ、流官の吏目を佐とし、布政司に直隷した。
- 宣徳二年(1427年)、利州知州の岑顔が頭目の羅嚮を遣わして馬を貢いだ。
- 正統元年(1436年)、泗城の岑豹が利州の地を侵し拠り、あわせて顔の妻子と財物を掠めた。総兵官の山雲がこれを報じ、帝は鎮巡の官に敕して撫諭させた。
- 四年(1439年)、顔が族人の岑忻を遣わして銀器と方物を貢いだ。
- 五年(1440年)、顔が、本州の地二十五甲は豹が兵を興して攻め占め、母の覃は囚われ、妻と財は掠われた、しばしば敕を奉じて撫諭されたが猖獗として服さないと奏した。帝は行人の黄恕・朱昇を遣わして豹に敕諭した。事は前の伝(泗城)に具さである。
- 七年(1442年)、豹はまた顔と相い仇殺した。帝は総兵官の吳亮に敕して恩威を宣布し各々兵を罷めさせたが、豹はついに顔とその子を殺し、州の印を奪い去った。そこで流官をもって州の事を判らせた。数十年の間、しばしば諸司の勘奏を経て檄を移し督し追ったが、岑應・岑接の二世を経てももとのままであった。嘉靖二年(1523年)、泗城に帰し併された。
龍州――趙帖堅と常茂の一件
- 龍州は古の百粤の地である。漢では交阯に属し、唐がはじめて龍州を置き、宋もこれに仍った。元の大徳中に州を陞せて萬戸府とした。
- 洪武二年(1369年)、龍州の土官 趙帖堅が使者を遣わして表を奉じ方物を貢いだ。詔して帖堅を龍州知州とし世襲させた。
- 八年(1375年)、広西布政司に改隷した。当時 帖堅は、地は交阯に臨み守るべき関隘は二十七処あるが、警急があれば太平に申報して総司に達するので、報が下りるまでに旬月を過ぎ事機を誤る恐れがある、奉議・泗城の二州に依って広西に隷したいと言い、許された。
- 十六年(1383年)、帖堅は孝慈皇后の喪により慰表を上り、馬と方物を貢いだ。綺帛・鈔錠を差をつけて賜った。
- 二十一年(1388年)、帖堅は病んで子がなかったので、従子の宗夀に代わって州事を署させた。帖堅が卒し、宗夀が襲いだ。
- 鄭国公の常茂が罪により龍州に謫居していた。帖堅の妻 黄氏には二人の娘があり、一人は太平州土官 李圓泰の妻、茂はもう一人を納れて妾とした。当時 宗夀は襲職していたが、帖堅の妻はなお土官の印を持ち、茂・圓泰とともに州の事を専擅し、しばしば宗夀を陵ぎ逼った。折しも茂が病で卒し、その閽者の趙観海らもまた宗夀を侮ることを肆にした。宗夀は把事らと計って土官の印を取り、上奏して茂が既に死んだことを言い、あわせて観海らを械して京に至らせた。そこで帖堅の妻は惶れ懼れ、人をやって宗夀が擄掠したと告げ、また圓泰と謀って茂の妾およびその奴婢を劫して太平州へ行き、さらに趙氏の祖父の官誥など諸々の物をことごとく掠め、そのうえ龍州の地まで併せ取ろうとして、みずから京に至り、宗夀は実は従子であって襲ぐべきでないと告げた。宗夀もまた章を上ってその状を言った。帝は詔して宗夀を問わず、吏に下して帖堅の妻と圓泰の罪を議させたが、ほどなく遠方の蛮であるとしてともに釈した。
- 久しくして、また茂は龍州に匿れて死んでおらず、さきに宗夀が言ったことはみな妄りであると告げる者があった。そこで詔して右軍都督府に宗夀および龍州の官民へ榜諭させた。その趣旨は次のとおり。昔 鄭国公 常茂に罪があったが、上は開平王の功を思い、にわかに法に置くに忍びず龍州に安置した。ところが土官 趙帖堅の故妻が茂と婚姻を結び、諸蛮を誘い合わせて不道を肆にした。帖堅の姪 宗夀が襲職して黄氏と互いに告げ訐り、茂は既に死んだと言った。上は功臣の子であるからなお憐憫を加え、二人の告訐の罪を釈した。今 茂は実は死んでいないと言う者があり、宗夀らはその状を知っている。既に散騎舎人を遣わして宗夀に茂を捕らえるよう諭したのに、使者を延ばし玩んで久しく復命せず、その意は測り難い。特に命じて爾ら宗夀らに榜諭してこれを知らせる。もし茂が本当に生きているなら京師へ送って罪を贖え。もし茂が本当に死んでいるなら、宗夀もまた親しく大小の頭目を率いて京に至り、その由を具さに陳べよ。
- 広西布政司が、宗夀はしばしば詔されて京に赴くべきなのに命を拒んで出ず、また南丹・奉議などの蛮も化に梗らっていると言った。帝はさらに致仕した兵部尚書の唐鐸に命じて宗夀に諭させたが、ついに命に従わなかった。
- 詔して湖広・江西の所属の衞所の馬歩官軍六万余に各々三月の糧を齎させ、秋の初めを期していずれも広西に赴かせ、都督の楊文に征南将軍の印を佩びさせて総兵官とし、都指揮の韓観を左将軍、都督僉事の宋晟を右将軍、劉真を参将として京衞の馬歩軍三万人を率いさせ、広西に至って龍州および奉議・南丹・向武などの州の叛いた蛮を会討させた。師が行くとき帝は文を撰し、使者を遣わして嶽・鎮・海・瀆を祭らせた。また礼部尚書の任亨泰・監察御史の厳震直を安南に使いさせ、龍州の趙宗夀を討つ理由を諭し、陳日焜に慎んで辺境を守り、逆を助けず叛を納れぬよう命じた。人を遣わして楊文に諭し、南寧衞の兵千人は江陰侯 吳髙に領させ、柳州衞の兵千人は安陸侯 吳傑に領させ、いずれも功を建てて自ら贖わせた。また文らに詔して、兵が龍州に至ったとき宗夀が親しく来て見え、茂が既に死んだ由を具さに陳べるならその罪を宥し、もし詐って人を遣わして来るだけなら兵を進めて討てとした。
- やがて鐸が京に還り、宗夀は罪に伏して来朝するので兵を罷めて征さないでほしいと言った。詔して文に兵を奉議へ移させ、なお鐸には軍に至って軍事に参ぜよと命じた。宗夀は耆民の農里ら六十九人とともに来朝して謝罪し、方物を貢いだ。
龍州――趙氏の後嗣争い
- 宗夀が死んで子の景升が襲いだ。景升が死んで嗣がなく、叔の仁政が襲いだ。仁政が再伝して趙源となった。源が死んで子がなく、思恩の土官 岑濬が兵を率いて田州を攻めた帰りに龍州を劫してその印を奪い、故知府 源の妻 岑氏を納れた。詔して鎮巡の官に下して賊を剿させ、あわせて源の後を立てることを議させた。源の庶兄 浦に二子があり、相が年長で立てるべきであったが、相の弟の楷は望みを抱かずにいられなかった。そこで岑氏と謀り、僕の韋隊の子 璋をもって遺腹の子だと詐称した。岑氏は兄の子 猛がちょうど兵に雄しいのを恃み、楷はついに、璋こそ実は源の子で立てるべきなのに相に簒われたのだと奏した。事は督府に下されて勘べられたがまだ決しなかった。璋は鎮守大監の傳倫および錦衣舎人に賄い、詔があると詐称して猛に檄し、二万の兵を調して璋を龍州に納れさせた。左江は大いに震え、相は印を挈げて況村へ奔った。都御史の楊旦が韋璋を討ってこれを殺し、相はようやく帰った。
- 相には二子があり、長は燧、次は寶であった。相は枝拇(指が一本多い)であり、寶もまた枝拇であったので、相はこれを絶えて愛し、我に肖ているのだから立てるべきだと言った。猛はそこで寶を連れ去り、髠にして奴とした。
- 嘉靖元年(1522年)、相が死に、州人は燧を立てたが楷がこれを弑した。州人はその族弟の煖を立てた。当時 王守仁が両広を提督しており、幕客の岑伯髙が用事していた。楷は伯髙に賄い、煖は趙氏の裔ではなく立てるべきは楷だと言わせた。上思州知州の黄熊兆を遣わして覈べさせたが、熊兆は伯髙に党して楷を立てるべきだと言い、州の印を楷に与えた。楷はついに煖を殺し、龍州は大いに乱れた。
- 州目の黄安らはひそかに田州へ行って寶を購った。寶はそのとき奴として楊布の家にあること十三年であった。安らは百金を出して購い得、これを督府に言った。都御史の林富は、楷の勢いは既に張っているから急に持してはならぬとし、楷に職を摂させ、寶が成長するのを待って譲らせることとした。楷はまた時々 寶を殺そうと謀った。富は楷に諭して印を寶に還させ、寶は五千金を謝礼とし、さらに肥えた田三十一村を加えた。楷は、寶は弱く与し易いから厚利を邀えて徐々に図るに如かずと計り、そこで命を聴いた。
- 楷はまた韋璋の子 應を求めて育て、寶のもとへ往来させた。寶の妻 黄氏は思明府土官 黄朝の娘であったが、寶に貳心を抱いて應と通じた。應はそこで州目と厚く結び、またしばしば人を遣わして向武州と好を締び、兵を乞うて衞りとした。寶は日ごとに荒悍で刑は狡かった。男子の王良が閽をしていたが、楷は良が寶を恨んでいるのを知り、激して内応させ、良はこれを許した。楷は千人を率いて夜に寶の寝門に至り良を呼んだ。良が門を開いて楷の兵を納れ、寶を寝所で捕らえて斬り、他の盗の仕業として報じた。應は兵千人をもって州に拠り、あわせて朝と結んで自ら援けとした。
- 都御史の張經が副使の翁萬達に諮った。萬達は、楷は狙詐で速やかには図れないが、韋應は巽愞で慮りが少なく旦夕に擒えられる、その中堅を断ってから次第に獲るべきだと言った。督撫はこれを善しとした。萬達は部を行して太平に至り、人をやって他の事にかこつけて朝を召し、これに諭して應は死に当たると論じ、楷は才勇があるからまさに藉りて龍州の一面を当たらせるべきだと言った。当時 楷の事を言う者があっても故意に理めなかったので、州人は大いに譁いだ。萬達はいよいよ楷を厚遇し、楷はこれを信じ、ついに精兵千人を統べて萬達のもとへ赴いて状を言い、あわせて三十一村の地を献じた。萬達は楷および州目の鄧瑀らを召し入れて見え、壮士を伏せてこれを劫し、「汝の罪は大きい、自ら計るがよい。まことに死ねば、なお汝の子のために一官を留めてやれる」と言った。楷は自ら生きる道はないと分かり、そこで手ずから書いてその党に諭し、「事は既にこうなった。乱れても益はない。よく我が子を輔けて趙氏を存せよ」と言った。萬達はただちに楷を杖って斃し、楷の書をもってその州人に諭した。当時 楷の子 匡時は生まれて四年であったが、これを立てると一州はことごとく定まった。そこで十三村を龍州に還し、十八村を崇善県に隷させた。こうして龍州の趙氏はなお襲ぐことができた。
歸順州
- 歸順州はもと峒で鎮安府に隷した。永樂間、鎮安知府の岑志綱がその第二子 岑永綱を分けて峒の事を領させた。子の瑛に伝わり、しばしば兵を率いて報効した。
- 𢎞治九年(1496年)、総督の鄧廷瓚が言った。鎮安府の歸順峒はもと州治であったが洪武初に裁革された。今その峒主の岑瑛は毎々 官に労を効しているので、州治を設けて土官の知州を授け、出兵のたびに土兵五千を備えさせ、なお毎年 土兵二千を領して梧州へ赴き調を聴かせたい。詔して従い、流官の吏目一員を増設した。
- 瑛が死んで子の璋が襲ぎ、璋の奏によって本州を布政司に改隷した。璋は智略が多かった。
- 田州の岑猛が不法により譴を受け、都御史の姚鏌が兵を挙げて討とうとしたが、璋は猛の婦翁であったので、鏌は璋が猛に党することを慮り、都指揮の沈希儀を召して謀った。希儀はかねて璋の娘が寵を失って猛を恨んでいることを知り、また部下の千戸 趙臣がかねて璋と善いことを知っていたので、趙臣に璋へ猛を図るよう語らせ、璋は命を受けた。
- 当時 猛の子 邦彦が工堯の隘を守っていた。璋は詐って兵千人を遣わして邦彦を助け、「天兵が至ったが、姻党である以上 爾と禍を同じくする。今 精兵を発して来たので、努めて堅く守られよ」と言った。邦彦は欣んでこれを納れた。璋は人を遣わして希儀に、謹んで千人をもって内応すると報じた。当時 田州の兵は死を殊にして拒み戦い、諸将は隘に当たるのを利としなかったが、希儀だけが兵を引いてこれに当たった。約束どおり戦って三たび合すると、歸順の兵が大呼して「敗れたぞ」と叫んだ。田州の兵は驚き潰え、希儀は兵を麾いて乗じ、数千級を斬り、邦彦はそこで死んだ。
- 猛は敗を聞いて自ら経れようとしたが、璋は先に別館を築いて人をやって猛を請うていた。当時 猛は倉皇として出るところを知らず、ついに印を挈げて璋の使いに従い歸順へ走った。璋は詐って猛のために奏を草し、猛を促して印を出させて実封した。璋は猛の印の所在を知ると、そこで猛を鴆殺し、その首を斬り、府の印とあわせて函に入れ、間道を馳せて軍門に至った。しかし讒言に阻まれ、ついに功を論じられなかった。
- 璋が死んで次子の瓛が襲いだ。嘉靖四年(1525年)、提督の盛應期は、瓛が先に猛の逆を助けて泗城を攻めたことについて、自ら新たにして兵を出し賊を討ち自ら贖うことを許すよう言い、従われた。
- 十四年(1535年)、田州の盧蘇が叛き、瓛を糾して鎮安府を攻めさせた。瓛は鎮安を破り、あわせて岑真寶の父母の墳墓を発いた。事が聞こえ、冠帯を革して立功による贖いを許した。瓛はのち交阯征討に従って軍中に卒し、子が代わって襲いだ。萬歴間、馬を貢ぐのに限を違えたので半分の賞を給した。
向武州
- 向武州は宋に置かれて横山寨に隷し、元では田州路に隷した。その界は東北は田州に、西は鎮安に、南は鎮遠に抵る。
- 洪武二年(1369年)七月、土官の黄世鐵が使者を遣わして馬と方物を貢いだ。詔して世鐵を向武州知州とし、世襲を許した。
- 二十一年(1388年)、広西布政司が向武州の叛いた蛮が化に梗らっていると言った。当時 都督の楊文が征南将軍の印を佩びて龍州・奉議などの処を討っていたが、あらためて命を奉じて師を向武へ移した。文は左副将軍の韓観を調して兵を分け、都康・向武・富勞の諸州県に進み討たせ、世鐵を斬った。兵部尚書 唐鐸の言により向武州守禦千戸所を置いた。
- 永樂二年(1404年)、土官知州の黄彧が頭目の羅以得を遣わして馬を貢ぎ、鈔幣を賜った。
- 宣徳四年(1429年)、故土官知州 黄謙昌の子 宗蔭が馬を貢ぎ、鈔を賜った。
- 嘉靖四年(1525年)、田州の岑猛が叛くと、向武の土官は兵をもって猛を助けた。提督の盛應期が大征を議し、向武に檄して兵を出し賊を討たせ、功をもって罪を贖わせた。
- 十六年(1537年)、田州の盧蘇が叛き、鎮安の土官 岑真寶が兵をもって岑邦佐を納れた。蘇が向武に助けを求めると、当時の土官 黄仲金は真寶を怨んでいたので、ついに兵を合わせて鎮安を破った。事が聞こえ、仲金の冠帯を革した。
- 二十七年(1548年)、仲金が調を聴いて労があったので、詔して原職の承襲を許し赴京を免じた。
- 四十二年(1563年)、また猺寇を剿平した功により仲金に四品の服を加えた。
- 向武は県一を領した。富勞という。元に置かれ、洪武間 蛮獠に拠られたが、建文の時に復置され、なお向武州に隷した。永樂初に武林を省いてここに入れた。土官もまた黄氏で世襲であった。
奉議州
- 奉議州は宋に置かれ、初め靜江軍に属し、のち広西経畧安撫司に属した。元では広西両江道宣慰司に属した。
- 洪武初、土官の黄志威はもと田州府の総管であったが来て帰附した。二年(1369年)、詔してその子 世鐵に向武州知州を授け世襲させた。
- 三年(1370年)、志威が入朝して貢いだ。
- 六年(1373年)、奉議などの州の百十七処の人民を招撫し、みな款服した。帝は志威の功を嘉し、安州・侯州・陽県をこれに属させた。
- 七年(1374年)、志威を奉議州知州として守禦を兼ねさせ、広西行省に直隷させた。
- 二十六年(1393年)、奉議州知州の黄嗣隆が人を遣わして馬と方物を貢ぎ、鈔錠を賜った。
- 二十八年(1395年)、広西布政司が奉議・南丹などの処の蛮人が化に梗らっていると言った。当時 都督の楊文が龍州を討って伏罪させたところであったので、帝は兵を奉議へ移して賊を剿すよう命じ、使者を遣わして文らに諭した。その趣旨は、近ごろ奉議・両江の溪峒などの処は林木が陰翳し蛇虺が毒を遺し、草莽の中を雨が過ぎるとその毒が溪澗に流れ、これを飲めば人を死なせると聞く。師がその地に入って行営に駐劄するときは山の溪水・泉を飲ませてはならぬ。余毒が人を傷つける恐れがあるから、井を鑿って飲ませよ。爾ら慎んでこれを察せよ、というものであった。
- 文は広西都司および護衞の官軍二万人を発し、田州・泗城などの土兵三万八千九百人を調して従征させた。師が奉議州に至ると、蛮寇は官軍の至るのを聞いてことごとく山林に竄れ入り、険に拠って自ら固めた。文は諸将を督して兵を分けこれを捕らえさせ、さらに参将の劉真らを調して兵を領し、道を分けて南丹の叛いた寇を攻めさせた。
- 初め、文らは奉議州の東南に師を駐め、兵を分けて賊党を追い捕らえ、そのうえ人を遣わして脅されて従った者を招き降らせた。賊はみな廬舎を焚いて山谷に走り、険阻に憑って柵を立て自ら固めたが、文は将士を督してしばしばこれを攻め破り、賊衆は潰え散った。左副将軍の韓観らはそこで兵を分けて都康・向武・富勞・上林の諸州県を追い討ち、その更吾・蓮花・大藤峽などの寨を破り、向武の土官 黄世鐵およびその党一万八千三百余人を斬り、蛮民で招き降されて業に復した者六百四十八戸を象州の武山県に徙し置いた。蛮寇はこうして平いだ。
- 当時 兵部尚書を致仕した唐鐸が軍事に参議しており、朝廷がかつて征剿の畢わる日に衞を置いて守らせよと命じていたので、諸将と会して形勢を相度り、奉議などの衞ならびに向武・河池・懷集・武仙・賀県などの処の守禦千戸所を置き、官軍を設けて鎮守させた。詔してその言に従った。
- 宣徳二年(1427年)、州事を署していた土官の黄宗允が頭目を遣わして馬を貢いだ。
- 正統五年(1440年)、宗允は科斂と劫殺が甚だしく、そのうえ母を戕そうとし、母が避けると母の侍者を殺して怒りを洩らし、母に告げられた。僉事の鄧義がその事を奏し、帝は総兵官の柳溥および三司に敕して按験し報告させた。
- 嘉靖四年(1525年)、田州の岑猛が叛くと、奉議の土官はかつて猛を助けて泗城州を攻めていた。ここに至って提督の盛應期が、その自新を許し、兵を出して賊を討たせ功をもって罪を贖わせるよう言った。
- のち土官知州が死ぬと、いずれも土判官に州の事を掌らせた。
- 論者は、奉議は弾丸の地で三面が田州に交り迫り、ただ南だけが鎮安に界していて、その勢いは甚だ蹙まっている、明初に衞を置き官を銓したのは宋元の故事のとおりで、思うに田州と鎮安を中断してその謀を伐とうとしたのだと言う。
江州
- 江州の界は東は忠州に、西は龍州に、南は思明に、北は太平府に抵る。その州は宋に置かれて古萬寨に隷し、元では思明路に属した。明初、土官の黄威慶が帰附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を置いてこれを佐とし、布政司に直隷した。
- 嘉靖四十二年(1563年)、猺獞を平げた功により、江州土官の子 黄恩に暫く本職を署させることを准した。
- 県一を領した。羅白という。洪武初、土官の梁敬賓が帰附して世襲の知県を授けられた。敬賓が死んで子の復昌が襲ぎ、永樂間に交阯征討に従って陥れられ、子の福里が襲いだ。
思陵州
- 思陵州は唐にはじめて置かれ、宋もこれに仍った。元では思明路に属した。洪武初に省いて思明府に入れ、二十一年(1388年)に思陵州を復置した。
- 二十七年(1394年)、土官の韋延夀が馬と方物を貢いだ。
- 宣徳四年(1429年)、印を護っていた土官の韋昌が来朝して馬を貢ぎ、鈔幣を賜った。
- 正統間、貢と賜は制のとおりであった。その界は東は忠州に至り、西北は思明に至り、南は交阯に至る。
瓊州(附)――沿革と洪武年間の黎の乱
- 瓊州は環海の中に居る。漢の武帝が南粤を平げてはじめて珠崖・儋耳の二郡を置いた。晋・隋・唐・宋を経て叛服は一定せず、事は前史に具さである。元が改めて瓊州路を置き、海北海南道宣慰司に属させた。天歴の初めに乾寧軍民安撫司と改めた。洪武元年、征南将軍の廖永忠が広東を平げ、乾寧安撫司を改めて瓊州府を立て、崖州(吉陽軍)・儋州(南寧軍)・萬州をいずれも州とし、南建州を安定県としてこれに隷させた。
- 六年(1373年)、儋州宜倫県の民 陳昆六らが乱を起こし州城を攻め陥れた。広東指揮使司が、近ごろ儋州の山賊の乱には既に兵を調して剿したが、儋・萬の二州は山が深く地が曠いので兵衞を設けて鎮めるべきだと奏し、詔して儋・萬二州の守禦千戸所を置いた。
- 七年(1374年)、儋州の黎人 符均勝らが乱を起こし、海南衞指揮の張仁が兵を率いて討平した。また海南の羅屯などの洞の黎人が乱を起こし、千戸の周旺らが討平した。澄邁県の賊 王官舎が乱を起こし、典史の彭禎が民兵を領して捕らえ斬った。
- 十五年(1382年)、萬州・崖州の民 陳鼎叔らが乱を起こし陵水県を陥れたが、海南衞の官軍に撃ち破られ、藤橋まで追われて鼎叔ら三百余人が斬られ、余党もことごとく平いだ。
- 十七年(1384年)、儋州宜倫県の黎民 唐那虎らが乱を起こし、海南衞指揮の張信が兵を発して討った。那虎およびその党の鄭銀らは敗れて遁れたが、信は追って擒え京師へ送った。ところが知州の魏世吉が賄を受けて銀を縦して去らせた。帝は兵部に、知州は賊を捕らえられなかったばかりか、官軍が捕らえて来たのにかえって縦したのか、と述べ、力士を遣わしてその州で世吉を杖ち、縦した者を捕らえる責を負わせた。
瓊州(附)――永樂年間の招撫
- 永樂三年(1405年)、広東都司が、瓊州所属の七県八洞の生黎八千五百人、崖州の抱有など十八村の千余戸はいずれも既に化に向かったが、ただ羅活の諸峒の生黎だけがまだ帰附していないと言った。帝は通判の劉銘に敕を齎させて撫諭させた。
- 御史の汪俊民が言った。瓊州は周囲みな海で、中に大五指山・小五指山・黎母山などがあり、いずれも生黎・熟黎の人の居るところである。近年 軍民で黎峒に逃げ入る者があり、そのうえ生黎を引き誘って居民を侵し擾している。朝廷はしばしば使いを遣わして招諭したが、黎の性は頑很で信じ従う様子が見えない。また山水は峻悪で風気も異なり、その瘴毒に罹れば全く生きられる者は少ない。近ごろ訪ねたところ、宜倫県の熟黎の峒首 王賢祐はかつて命を奉じて黎民を招諭し、帰化させた者が多い。あらためて詔して賢祐に官を量り授け、まだ服さぬ者を招諭させ、諸峒に逋逃を納れぬよう戒め約させたい。熟黎には産に随って税を納めさせ差徭はことごとく免じ、生黎で帰化した者には税を三年免ずる。峒首には招いた民の数の多寡を量って職を授ける。このようにすれば黎人も順い服するであろう。従われ、知県の潘隆本を遣わして敕を齎し撫諭させた。
- 四年(1406年)、瓊州の属県の生黎の峒首 羅顯・許志廣・陳忠ら三十三人が来朝した。初め生黎に化へ向かわぬ者が多いというので銘を遣わして招撫させたが、ここに至って化に向かった者は一万余戸となり、顯らは銘に従って来朝し、そのうえ銘にその衆を撫させたいと乞うた。帝はそこで銘に瓊州知府を授けて専ら黎を撫する職とし、なお顯らに知県・県丞・巡檢などの官を授け、冠帯・鈔幣を賜って遣り還した。これより諸々の黎は感じ悦んで相継いで来帰した。瓊山・臨髙の諸県の生黎の峒首 王罰・鍾異・王琳らが来朝し、主簿・巡檢に命じた。
- 六年(1408年)、銘はまた生黎の峒首 王賢祐・王惠・王存禮らを率いて来朝し馬を貢いだ。賢祐を儋州同知、惠と存禮を萬安県主簿に命じた。
- 八年(1410年)、文昌県の斬脚寨の黎首 周振生らが来帰し、鈔幣を賜い、なお往って諸峒を招かせた。
- 九年(1411年)、臨髙県の典史 王寄扶が命を奉じて生黎二千余戸を招き至らせ、峒首の王乃らを連れて来朝した。寄扶を県の主簿に命じ、あわせて王乃らに鈔を賜った。
- 十一年(1413年)、瓊山県東洋都の民 周孔洙が包黎などの村の黎人 王観巧ら二百三十戸を招諭し、籍に附いて民となることを願ったので、従った。臨髙の民 黄茂が命を奉じて深峒の那呆など二十四峒の生黎を招撫し、黎首の王聚・符喜らを率いて来朝し馬を貢いだ。黎民で来帰した者は四百戸余であった。前後に撫した諸々の黎を通計すると、あわせて千六百七十処、戸は三万余であり、いずれも本より廟算によるものであるという。
- 十四年(1416年)、王賢祐が生黎の峒首 王撒黎・佛金らを率いて来朝し貢いだ。帝は嘉して納れ、礼部に命じて言った。黎人は遠く海南に処りながら義を慕って来帰した。しかし朝貢が頻繁では存撫の意ではない。今より生黎の土官・峒首はいずれも三年に一貢とし、令として著せ。
- 十六年(1418年)、感恩の土知県 樓吉禄が峒首を率いて馬を貢いだ。
- 十九年(1421年)、寧遠の土県丞 邢京が峒首の羅淋を率いて朝貢した。当時 崖州の民が私の忿りから相い戦い闘い、衞の将は漁ろうとするところを利として兵を発して剿そうとした。瓊州知府の王伯貞は執って不可とし、あれは自ら仇殺しているだけで、城邑を寇し良民を殺すという悪ではないから官軍を煩わすには足りぬと言った。衞の将が従わないので、伯貞は寧遠県丞の黄童を遣わして按視させたところ、果たして仇殺であったので数人を逮え治め、黎人はそこで安んじた。
瓊州(附)――宣徳・正統・景泰年間
- 宣徳元年(1426年)、樂會の土主簿 王存禮らが黎首の黎寧および萬州の黎民 張初らを遣わして来貢した。帝は尚書の胡濙に、黎人は海島に居って礼儀を識らず叛服が常でない、昔は専ら官を設けて撫綏させた、今 来朝したのだから賚を加えるべきだと述べた。
- 九月、澄邁県の黎 王観珠、瓊山県の黎 王観政らが衆を聚めて瓊山の土知県 許志廣を殺し、郷村を流劫して人畜を殺し掠った。広東三司に命じて実を勘べ討たせた。
- 二年(1427年)、指揮の王瑀らが黎賊を追い捕らえ、兵が金雞嶺に至ると賊は衆を率いて拒み敵したが、これを破って賊首の王観政および従賊二百六十二人を生け捕り、二百六十七級を斬った。余衆は潰えて山へ走り入り、招撫して業に復した黎は八百十二戸であった。捷を報じ、観政らを械して京へ送った。帝は尚書の蹇義に、蛮の性は馴らし難いとはいえ、変を為すに至るには必ず激するものがある、黎を撫する諸官を厳しく戒め寛をもって馭させよ、もし事を生じて変を激すれば国に常刑がある、と述べた。
- 正統九年(1444年)、崖州守禦千戸の陳政が黎賊の出没を聞き、副千戸の洪瑜とともに軍を領して搜し捕らえたが、かえって熟黎の村を囲み、黎首が出て見えたのにすぐこれを殺し、さらに軍旗の孫得ら十五人にその廬舎を焚かせ、妻孥数人を殺しその財物を擄わせた。各々の黎は激して変じ、政および官軍百人はみな殺された。巡按御史の趙忠がこれを報じ、瑜は変を激した律に坐して斬られた。
- 景泰三年(1452年)、萬州判官の王琥に敕して言った。爾の祖父が黎人を招撫できたので特に土官を授けた。爾もよく父の志を継いで既に年を経た。ここに特に敕を降して爾に付す。管する村峒の黎人を撫諭して各々生業に安んじさせ、別の峒の生黎の所為を倣わせてはならぬ。その官軍もまた擅に村峒に入って擾し害し変を激してはならぬ。
- 天順五年(1461年)、両広巡撫の葉盛に敕して、海南の賊五百余が城池を占拠しているので瓊州へ馳せ至り、機に応じて撫し捕らえ、滋り蔓らせぬようにさせた。
瓊州(附)――符南蛇の乱と那燕の乱
- 𢎞治二年(1489年)、崖州の故土官 陳迪の孫で冠帯舎人の陳崇祐が朝貢した。黎人の逋逃を撫して業に復させることができたので、厚く賜った。
- 十五年(1502年)、黎賊の符南蛇が反き、鎮の兵が討ったが下せなかった。戸部主事の馮顒が奏した。府治は大海の南にあり、五指山の峒があって黎人が雑居し、外に三州・十県・一衞・十一所がある。永樂間に土官の州県を置いてこれを統べさせ、黎民はもとどおり安堵していた。成化間に黎人が乱を起こし三たび征討したが、将領は功を貪って無辜を殺戮した。𢎞治に至って知府の張桓・余濬が貪残で苛斂し大いに黎の心を失い、今日の南蛇の禍を醸した。臣はもと土地の者で事勢をかなり知っている。もとの設置どおりに襲ぐべき土官の子舎を考え、各々土兵を集めさせれば数万を得られる。鎮巡の官の節制を聴かせ、首悪の符南蛇を擒えられた者にはその祖の職を復するとすれば、蛮をもって蛮を攻め、数月ならずして績を奏せよう。詔して従った。
- 嘉靖十九年(1540年)、総督の張經が、崖・萬の二州の黎岐が叛乱して城邑を攻め逼っているとして、参将一員を設けて瓊州に駐劄させ分守させるよう請うた。
- 二十八年(1549年)、崖州の賊首 那燕らが衆四千人を聚めて乱を為し、詔して両広の官軍九千を発してこれを剿させた。給事の鄭廷鵠が言った。瓊州の諸々の黎は山峒に盤踞し、州県はかえってその外を環っている。その地は彼は高く我は低く、その土は彼は膏腴で我は鹹鹵、その勢いは彼は聚まり我は散じている。だから郡が開かれてより千六百余年、歳として黎の害に遭わぬことはなかったが、今日ほど甚だしいことはない。今日の黎の患は九千の兵で弁ずべきものではなく、必ず狼兵・土官兵を添え調し、あわせて打手を召し募って数万の衆を集め、一鼓のもとに四面から攻めてはじめて克てる。かつて黎の患を剿め除いた大挙を考えると二つある。元の至元辛卯にはかつてその巣を空しくし五指山に石を勒したが、そのとき屯田府を建て定安・會同の二県を立てたものの、経略が尽くされなかったのが惜しまれ、得たものはたちまち失われた。嘉靖庚子にもまた大いに師徒を渡し巣崗を攻め毀って至らぬ処はなかった。そこで議者は、徳霞は地勢が平衍だから城を建て邑を立て新民を招いて耕し守らせるべきだとし、既に挙げ行ったのに中道で廃し、たちまち賊の資となって今日に至った。謹んで三事を条陳する。
- 一つ。崖の黎は三面が郡県で、ただ東南が郎温・嶺脚の二峒に連なり、岐賊は実に萬州・陵水の衝に当たる。崖の賊が攻められれば必ず二峒と東江を借りて我が兵の勢いを分けるので、まず奇兵を分けて二峒を攻め、大兵をもって直ちに崖の賊を擣くべきである。そうすれば彼此 自ら救うに暇なく互いに顧みられず、殲滅が期せる。伝え聞くところでは賊首の那燕は既に凡陽に入って岐賊を構え集めているという。これは必ず多方に我を誤らせようとするもので、そのうえ訛言で揺り惑わせ、諸部が逆を助ける心を堅くさせようとしている。開き示して慰め安んじ、狐疑の党を解くべきである。
- 一つ。隋唐の郡県の輿図は考証できるが、今は多く黎の中に陥っている。蕩平の後はことごとく恢復し、あわせて徳霞・千家・羅活などの膏腴の地をすべて州県に還して屯田を設立し、耕しつつ守るべきである。なお羅活・磨斬から路を開いて定安に達し、徳霞から溪水に沿って昌化に達すれば、道路は四方に達し井邑は相い望み、ただ奸を懾し萌を銷すだけでなく、王路もいっそう開拓される。
- 一つ。軍威が既に振るえば、徳霞に参将府を建て、各州県に便宜に事を行うことを許して人心を鎮め安んずべきである。その新たに附いた民のうちに異志ある者があれば、あるいは海北の地方に遷して屯田させ、あるいは附近の衞所の戎籍に編入する。漢が潳山蠻を徙した故事のとおりである。また仁明慈恵の長を択んで久しく任じ安輯させれば、瓊の人は万世の利を受けるであろう。
- 疏は兵部に下されて議され、詔してことごとく允し行わせた。
- 二十九年(1550年)、総兵官の陳圭・総督の歐陽必進らが兵を督して進み剿し、賊五千三百八十級を斬り、千四十九人を俘にし、牛羊・器械はその倍を奪い、三百七十六人を招撫した。捷が聞こえ、帝はその功を嘉して圭と必進に禄米・廕襲を差をつけて賜った。
- 萬歴十四年(1586年)、長田峒の黎が出て掠めたので、兵備道が兵を遣わして執え戮した。草子坡の諸々の黎が衆を召して報復に来たが、長沙営で戦って黎首百余級を斬った。そこで黄村・田尾の諸峒の黎はみな出て降った。
- 瓊州の黎人のうち、五指山の中に居る者を生黎といい、州の人と交わらない。その外を熟黎といい、州の地に雑って耕す。もとの姓は黎であったが、後には王および符を姓とする者が多い。熟黎の産の半ばは、湖広・福建の奸民や亡命の者、および南恩・藤・梧・髙・化の征夫が、その土を利としてそこを占め居り、各々酋首を称したものである。成化間に副使の涂棐が計を設けて犁き掃い、次第に編差に就いた。𢎞治間の符南蛇の乱は郡を連ねて震え驚かせた。その小醜の侵し突くことは時として息むことがないという。