明史卷三百十八 列傳第二百六 廣西土司二

篇首の立伝者一覧

  • 太平
  • 思明
  • 思恩
  • 鎮安
  • 田州
  • 恩城
  • 上隆
  • 都康

太平――沿革

  • 太平は漢代には交阯に属し、麗江と号した。唐では羈縻州として邕州都督府に隷した。宋が嶺南を平定すると左右二江の溪峒に五寨を立て、その一つが太平で、古萬・遷隆・永平・横山の四寨とともにそれぞれ州・県・峒を領し、邕州建武軍節度に属した。元も五寨のままだったが、のち廃して麗江に太平路を置いた。
  • 洪武元年(1368年)、征南将軍廖永忠が広西の左江を下すと、太平の土官黄英衍らが使者に印を持たせ、平章楊璟のもとへ赴いて降った。
  • 楊璟が広海から帰ると、帝は黄・岑二氏の管轄する地の情勢を問うた。璟は、蠻獠は頑獷で、散れば民となり聚まれば盗となるので文治は難しく、兵をもって臨めばはじめて畏服すると答えた。帝は、蠻猺は性習こそ異なるが生を好み死を悪む心は変わらない、安靖をもって撫し誠をもって待ち理をもって諭せば従わないはずがない、と述べた。
  • 帝は中書照磨の蘭以權に詔を持たせ、左右両江の溪峒の官民に諭させた。詔の趣旨は次のとおり。武功で天下を定め、文徳で遠人を化するのは古の哲王が威と徳を並べ施して遐邇を服させたやり方である。両江の地は南徼に接し風俗は質樸で、唐宋以来 黄・岑二氏が代々そこに居り、世が乱れれば境土を保ち、世が治まれば職貢を修めてきた。時を審らかにし機を知る者だからこそできたことである。先に将に命じて南征させ八閩を克ち両広を靖んじたとき、そなたらは師旅を煩わせることなく印を奉じて帰順した。その嚮慕の誠は嘉すべきである。今 特に使者を遣わすので、心を慎み職に励み、朕の意を宣布して居民を安んぜよ。
  • 蘭以權は広西衞鎮撫の彭宗、万戸の劉維善の兵に護送されて両江に至ろうとしたが、折しも来賓洞の蠻が楊家寨の住民を寇掠した。以權は彭宗らに、詔を奉じて遠く来たのは民を安んずるためであり、賊を見て撃たなければ何によって民を庇うのかと言い、宗らを督して撃たせた。賊は敗走し、その地を安輯した。両江の民はこれによって懾服した。
  • 二年(1369年)、黄英衍が使者を遣わして表を奉じ馬を貢いだ。そこで太平府と改め、英衍を知府として世襲させた。

太平――趙暹の乱と許善の処断

  • 宣徳元年(1426年)、崇善県の土知県 趙暹が地界を広げようと謀り、亡叛の者を招き納れて左州を攻め、もとの土官を捕らえてその印を奪い、その母を殺し、大いに擄掠して村峒四十余所を占拠した。火器を造り旗幟を建てて王を僭称し、偽の官を署して州県を流劫した。
  • 事が聞こえると、帝は総兵官の顧興祖に命じて広西三司と会し剿捕させた。興祖らが招いても服さないので、千戸の胡廣に兵を率いて進ませた。暹は寨に拠って拒み守ったが、廣は包囲し、奪った各州の印を出させたうえで、脅されて従った官民を撫諭して職業に復させた。暹は計窮まって間道から遁れたが伏兵に邀撃され、その党とともにみな擒えられた。
  • このとき左州の土官 黄榮も、蠻人の李圓英が居民を劫掠し官爵を偽称していると奏して発兵剿捕を乞うた。帝は兵部に、蠻民は愚獷で私讐や忿争から殺し合うことがあり、訴え出る者は必ず相手を深く罪に落とそうとするので遽かに信じてはならぬと述べ、鎮遠侯および広西三司に実情を勘べさせ、まず人を遣わして招撫し、叛逆が本当に明らかになってから発兵しても遅くはないとした。
  • 二年(1427年)、南寧の百戸 許善を斬った。善ははじめから趙暹の逆謀を知りながらこれと通じており、総兵官が善を遣わして暹を追わせたときにも暹から馬十匹・銀百両を受け取ってわざと遅延させ、暹が免れるのを幸いとしていた。事が発覚して御史の鞫問に下され、事実が得られたので斬った。余党もみな伏誅した。
  • 太平は州県を十数領し、明初はいずれも世職として土官に授け、流官をその佐に置いた。

太平――所属の州県

  • 太平州。旧名は瓠陽、西原の農峒の地である。唐では波州、宋では太平寨に隷し、元では太平路に隷した。洪武元年、土官の李以忠が帰附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を佐とした。
  • 鎮遠州。旧名は古隴。宋に置かれて邕州に隷し、元では太平路に隷した。洪武初、土官の趙勝昌が帰附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を佐とした。
  • 茗盈州。宋に置かれて邕州に隷し、元では太平路に隷した。洪武初、土官の李鐵釘が帰附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を佐とした。
  • 安平州。旧名は安山、これも西原の農峒の地である。唐に波州が置かれ、宋が析いて安平州とし、元では太平路に隷した。洪武初、土官の李郭佑が帰附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を佐とした。
  • 思同州。旧名は永寧、西原の地である。唐に置かれて邕州に隷し、元では太平路に隷した。洪武元年、土官の黄克嗣が帰附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を佐として太平府に属した。萬歴二十八年(1600年)に永康州へ省入された。
  • 養利州。元は太平路に属した。洪武初、土官の趙日泰が帰附して知州を授けられ、順次に伝襲した。宣徳三年(1428年)、その裔の趙文安が隣境を侵掠し、七年(1432年)に討平して流官に改めた。
  • 萬承州。旧名は萬陽。唐に萬承・萬形の二州が置かれ、宋が萬形を省いて太平寨に隷させ、元では太平路に隷した。洪武初、土官の許郭安が帰附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を佐とした。永樂間、郭安は交阯征討に従って軍中に死に、子の永誠が襲いだ。
  • 全茗州。旧名は連岡、西原の地である。宋に置かれて邕州に隷し、元では太平路に隷した。洪武初、土官の李添慶が帰附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を佐とした。
  • 結安州。旧名は營州、これも西原の農峒の地である。宋に結安峒が置かれて太平寨に隷し、元が州に改めて太平路に属させた。洪武元年、土官の張仕榮が帰附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を佐とした。
  • 龍英州。旧名は英山。宋では峒、元が州に改めて太平路に属させた。洪武元年、土官の李世賢が帰附し、上懷の地を割いてその境に加え、世襲の知州を授けて流官の吏目を佐とした。
  • 結倫州。旧名は那兜、これも西原の農峒の地である。宋では結安峒に属して太平寨に隷し、元が州に改めて太平路に属させた。洪武初、峒長の馮萬傑が帰附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を佐とした。
  • 都結州。元は太平路に属し、土官は農姓であった。洪武初に内附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を佐とした。
  • 上下凍州。旧名は凍江。宋に凍州が置かれ、元が上凍・下凍の二州に分けたがほどなく合わせて一とし、龍州萬戸府に属させた。洪武元年、土官の趙貼從が帰附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を佐として太平府に属した。貼從が死んで子の福瑀が襲ぎ、永樂四年(1406年)に交阯征討に従って軍中に死んだ。
  • 思城州。これも西原の農峒の地である。唐に州が置かれ、宋が上思城・下思城の二州に分けて太平寨に隷させ、元の至正間に併せて一とし太平路に属させた。洪武元年、土官の趙雄傑が帰附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を佐とした。
  • 永康州。宋に県が置かれて遷隆寨に隷し、元では太平路に隷した。土官は楊姓。成化八年(1472年)、その裔孫の楊雄傑が峒賊二千余人を糾合して宣化県に入り劫掠し、しかも官職を偽って署した。総兵官の趙輔がこれを捕らえ誅し、そこで流官に改めた。萬歴二十八年(1600年)に州に升った。
  • 左州。旧名は左陽。唐に置かれて邕州に隷し、宋では古萬寨に隷し、元では太平路に属した。洪武初、土官の黄勝爵が帰附して世襲の知州を授けられた。二代を経て子孫が襲を争って仇殺し、成化十三年(1477年)に流官へ改めた。
  • 羅陽県(旧名は福利)と陀陵県(旧名は駱陀)はいずれも宋に置かれ、元では太平に隷した。洪武初、土官の黄宣・黄富が帰附し、ともに世襲の知県を授けられ、流官の典史を佐とした。

思明――沿革と洪武年間の朝貢

  • 思明は唐に州が置かれて邕州に隷し、宋では太平寨に隷し、元が思明路と改めた。洪武初に府と改めた。
  • 二年(1369年)、土官の黄忽都が使者を遣わして馬と方物を貢いだ。詔して忽都を思明府知府とし世襲させた。
  • 十五年(1382年)、忽都はまた弟の祿政を遣わして表を奉じ来貢した。詔して鈔錠を賜った。
  • 二十三年(1390年)、忽都の子 黄廣平が思州知州の黄志銘に属部を率いさせ、十五州の土官 李圓泰らとともに来朝した。
  • 翌年(1391年)、廣平は服喪を終えたので知州の黄忠を遣わして表を奉じ馬と方物を貢いだ。詔して廣平に襲職を許し、冠帯・襲衣および文綺十匹・鈔百錠を賜った。
  • 二十五年(1392年)、憑祥洞の巡檢 髙祥が、思明州知州の門三貴が思明府知府 黄廣平の殺害を謀り、廣平がそれを察して三貴を殺したのに、病死したと朝に報告して言うところが事実でないと奏した。詔して廣平を逮えて鞫問した。廣平が到着すると帝は刑部に、蠻寇が殺し合うのは性習として当然のことだが、廣平だけは事実を言わなかったので法に照らすのだ、今は姑く宥そうと述べ、道里の費を給して帰らせた。以後は例のとおり朝貢した。

思明――安南に侵された地の返還交渉

  • 二十九年(1396年)、土官の黄廣成が使者を遣わして入貢し、あわせて奏した。その趣旨は次のとおり。本府は元が思明路軍民総管を置いて以来、左江一路の州・県・峒・寨を管轄し、東は上思州、南は銅柱に至る。元が交阯を征したとき、銅柱を去る百里の地に永平寨軍民萬戸府を置いて兵を戍らせ、交人に軍餉を供させた。元末の擾乱で交人が兵をもって永平寨を攻め破り、銅柱を越えて二百余里まで進み、思明の属地である邱温・如嶅・慶逺・淵脱ら五県を侵奪した。民をこれに附かせたので、この五県の歳賦はみな土官が代わりに輸している。先に本府が朝廷に対して理を失ったため、交人の侵迫はいっそう甚だしくなった。礼部の任尚書に告げて洞登に站を立てたが、洞登は実は思明の地であるのに、交阯は銅柱の界に属すると称している。かつて具さに奏して朝廷が刑部尚書の楊靖を遣わしその事を覈べさせたことがあり、建武志は今も考証に足る。安南に敕して旧封を還させれば疆域は正しきに復し、歳賦も虚しくならないであろう。
  • 帝は戸部にその奏を録させ、行人の陳誠・吕讓を遣わして安南に諭させた。
  • 三十年(1397年)、誠と讓は安南に至り、その王の陳日焜に思明の地を還すよう諭したが、議論が往復して久しく決しなかった。訳者の言葉が意を伝えないというので、あらためて書を作って諭した。安南はついに辯論をやめず、黄金二錠・白金四錠および沈檀などの香を出して誠に賄おうとしたが、誠はこれを却けた。安南はまた戸部に咨を出したが、地を還す意はなかった。廷臣はその抗命を誅すべきだと議したが、帝は、蠻人が頑なさを恃んで改めなければ終には禍を取るであろう、姑く待てと述べた。

思明――永樂・宣徳年間

  • 永樂二年(1404年)、憑祥の巡檢 李昇が、その地は安南に瀕して百姓は業を楽しみ生齒が日々繁えているので、県に改めて撫輯に便ならしめたいと言い、許された。昇を知県とし、流官の典史一員を置いた。
  • 三年(1405年)、昇は新設の県治のことで来朝し、馬と方物を貢いで謝恩した。廣成は安南がその禄州・西平州・永平寨の地を侵奪したと奏し、使者を遣わして還させるよう請い、許された。
  • 九年(1411年)、思明の税糧を免じた。廣成が、去秋の雨水で稼が傷んだと言ったためである。
  • 宣徳元年(1426年)、思明が天寿節を賀する表を奉ずるのが期を過ぎたので礼部が罪を請うたが、帝は遠方の蠻が既に至ったのだからとして土官を問わなかった。
  • 知府の黄□(底本欠字)が、憑祥は凶年で民が飢えていると奏したので、龍州の官倉の糧を発して振わせた。

思明――黄□一家の殺害と黄□の顛末

  • 正統七年(1442年)、黄□(底本欠字)が使者を遣わして入貢した。九年(1444年)には解毒の薬味を貢ぎ、鈔と錦を賜った。
  • 景泰三年(1452年)、黄□が致仕して子の鈞が襲いだ。黄□の庶兄で都指揮の黄□(底本欠字)は、鈞を殺して自分の子を代わりに立てようとした。黄□は潯州の守備であったが、徴兵と称して思明府に自分の子に衆を糾合させ、府から三十里の外に営を結ばせ、みずから馳せて府に至って黄□の一家を襲殺し、黄□と鈞を支解して後圃に甕葬したうえ、もとの寨に帰った。翌日 城に入って偽って発哀し、人を遣わして黄□自身に賊の捕縛を報じさせて迹を掩った。
  • 黄□が殺されたとき、その僕の福童が難を免れて憲司に走り事を訴え、徴兵の檄を証拠とした。郡人もまた、黄□の一家を殺したのは黄□父子だと言った。副総兵の武毅がこれを報告し、逮えて治めようとした。
  • 黄□は禍が自分に及ぶと察し、朝廷の意に迎合しようと謀って、千戸の袁洪を遣わし「永く国本を固める事」と称して儲君を易えるよう請う奏を上らせた。奏が入ると帝は、これは天下国家の重事であるから多くの官で会議して報告せよと述べた。黄□がこの挙に出たので衆はみな驚愕し、必ずその賄を受けて教えた者があるはずだと言い、侍郎の江淵ではないかと疑う者もあった。事が成れば黄□は罪を釈かれ、そのうえ秩も進むはずであった。英宗が復辟すると、黄□はそれを聞いて自殺した。帝は棺を発いてその屍を戮させた。その子の震もまた都督の韓雍に捕らえられて誅された。

思明――成化以降の争闘

  • 成化十八年(1482年)、土知府の黄道が、管轄下の思明州の土官の孫 黄義が族人の黄紹に殺されたと奏し、発兵剿捕を乞うた。帝は両広の守臣に区処して報告させた。
  • 𢎞治十年(1497年)、況村の賊 黄紹が思明の上石・下石の三州を侵占し、さらに知府 黄道の父子を殺害しようと謀った。道の妻 趙氏がしきりに朝に訴え、しばしば委官が勘問したが、みな賄によって免れていると述べ、発兵誅殺を乞うた。
  • 十一年(1498年)、紹は衆数千人を集めて郷村を焚劫し三州を占拠した。しばしば撫しても下らないので、総鎮が発兵剿捕を請うた。
  • 嘉靖四十一年(1562年)、猺獞を剿平した功により、上官知州の男 黄承祖に暫く本職を襲がせた。
  • 隆慶四年(1570年)、忠州の土官 黄賢相らが南寧府に属する四都の地に拠って乱を起こした。永康の典史 李材が計をもってその党を誘い、賢相を縛して降した。
  • 萬歴十六年(1588年)、思明州の土官 黄拱聖が襲を奪おうと謀り、その母と兄の拱極ら五人を殺した。思明知府の黄承祖は乱に乗じて村寨を掠め、これを援けた。按臣は、拱聖と諸々の凶徒を正法に処し、思明州を流官の府に改属させ、承祖の冠帯を革して立功自贖させたうえ掠めたものを追徴し、あらためて族人の黄恩に拱極の妻 許氏と遺孤の世延を護らせ、成長を待って官に就けるよう請うた。
  • 三十三年(1605年)、総督の戴燿が奏した。思明の叛目は既に擒えた。土官の黄應雷は僕を放って釁を起こし印を棄てて逃げたので断じて復官させ難い。黄應宿は地を争って六哨を殺戮して仇となり、しかも義子であるから襲職させるべきでない。黄應聘は承祖の幼子で人心が推戴しているので、知府を承襲させて黄氏の宗祀を存すべきである。ただし年はわずか七歳なので、暫く流官の同知に府事を署させ、十五歳になったら印を交わして接管させる。應雷は既に廃されたので同じ城にいるのはよろしくなく、土舎に降し、その後は永く土舎を襲がせ、田を給して養贍し、その出入を制する。應宿はもとの業を管させ、いずれも思明府の節制に属させる。府治に教授一員を設け、廪生六名を量って給し、太平府に寄附している者はみな本学に帰す。以後 祭祀と廪餼の用を増やしていけば、地方は安んじ文教は興るであろう。詔してことごとく従った。
  • 崇禎十一年(1638年)、総督の張鏡心が、土官が職官を殺したこと、思明州の黄日章・黄徳志らが衆を鼓して叛逆したことを疏報した。帝は速やかに首悪を擒えて地方を靖んずるよう令じた。
  • 論者は、黄□は神のごとき奸物で身は大逆の罰を逭れ、その凶悪を代々受け継いで四世に及び、なお思明州まで併せ持った、王綱はここに隳れたと言う。しかし骨肉が相屠ることがこれで四たび見えたのは、思うに天道であろうという。

思明――所属の州

  • 思明州。東は思明府に、西は交阯の界に、南は西平州に、北は龍英州に抵る。土官は黄姓で思明府と同族である。洪武初、黄君夀が帰附して世襲の知州を授けられ思明府に属した。のち黄□に併呑された。萬歴十六年(1588年)の黄拱聖の乱ののち太平に改属した。
  • 上石西州。宋では永平寨に属し、元では思明路に属し、明初は思明府に属した。萬歴三十八年(1610年)に太平府へ改属した。州は土官が趙氏・何氏・黄氏の三姓と替わり、いずれも絶えたので、はじめて流官に改めた。
  • 下石西州。宋が石西州を分けて置き、元では思明路に属した。洪武二年(1369年)、土官の閉賢が帰附して世襲の知州を授けられ、流官の吏目を佐とした。
  • 忠州。宋に置かれて邕州に隷し、元では思明路に属した。洪武初、土官の黄威慶が子の中謹を率いて帰附し、威慶に江州知州、中謹に忠州知州を授けていずれも世襲とし、流官の同知・吏目を佐とした。その隣地に四峒というところがあり、南寧・思明・忠・江の間に界していて、思明と忠州がしばしば侵奪した。副使の翁萬達は峒の名を四都と改めて南寧に隷させるよう議し、地方はやや定まった。隆慶三年(1569年)冬、思明府の土官 黄承祖が四都の地を取りたいと奏し、忠州の土官 黄賢相がこれを争って擅に総管などの名目を立て、兵数千を分けて戍らせ、剽掠を縦にして禍は甚だ烈しかった。僉事の譚惟鼎が永康の典史 李材を調して計をもって賢相を擒え、獄で死なせた。流官に改める議は成らず、そこで州を南寧に改隷し、州印はなお賢相の子 有瀚に与えて襲職させた。
  • 憑祥。宋では憑祥峒で永平寨に属し、元では思明路に属した。洪武十八年(1385年)、土蠻の李昇が帰附したので憑祥鎮を置き、昇に巡檢を授けて思明府に属させた。永樂二年(1404年)に県を置き、昇を知県とした。成化八年(1472年)に州へ升せ、昇の孫 廣寧を知州として布政司の直隷とした。廣寧には十人の子があり、廣寧が死ぬと諸子が立つことを争って決せず、三、四年してようやく孫の珠が知州の職を襲いだ。嘉靖十年(1531年)、珠が死ぬと族弟の珍と珏が立つことを争い、珍は印を携えて況村へ走り、珏が州事を摂した。十四年(1535年)、州目の李清・趙琪らが珍を納れることを謀り、思明府の黄朝に州をその属とすることを約した。朝はそこで兵をもって珍を憑祥に納れ、珏は罄柳へ奔った。のち珍は思明に属したことを悔いて朝と隙を生じ、朝は外婦の生んだ子 時芳を廣寧の孫だと詐称して兵千人でこれを納れた。当時 珍は淫縦で部民に怨まれていたので、廣寧の末子 寰が尊属として廃立を謀った。十七年(1538年)、寰はついに珍を殺して安南の莫登庸に附き、その嚮導となった。総督の張經が副使の翁萬達に命じて擒えさせ、死を論じた。ここで珏と時芳がまた立つことを争い、時芳は思明の勢に倚ったので州民はみなこれに味方した。萬達は珏を黜け、時芳を死に論じ、あらためて李佛を立てて珍を嗣がせ知州とし、憑祥はようやく定まった。

思恩――沿革と岑瑛の代

  • 思恩は漢では交阯に属し、唐では思恩州として邕に属した。もとは澄州止戈県の地である。宋の開寶間に澄州を廃し、止戈・賀水・無虞の三県を上林に省入した。治平間に上林の止戈を武縁に入れて邕に隷させた。元では田州路に属し、歴代 羈縻したにとどまった。
  • 明の洪武二十二年(1389年)、田州府知府の岑堅がその子で思恩州知州の永昌を遣わして方物を貢いだ。
  • 二十八年(1395年)、歸徳州の土官 黄碧が、思恩州知州の岑永昌は五県の民を匿して賦税を供せず、なお元のもとの印章を用いていると言った。帝は朝命を奉じないとして左都督の楊文に機に応じて討たせたが、のち荒遠であるとして問わなかった。
  • 永樂初、布政司に改属した。当時の居民はわずか八百戸であった。
  • 永昌が死んで子の瑛が襲いだ。宣徳二年(1427年)、瑛は弟の璥を遣わして馬を貢いだ。
  • 正統三年(1438年)、瑛の職を知府に進め、なお州事を掌らせた。瑛は謀略があり兵をよく治め、蛮寇の征討に従ってしばしば功があったための命である。ところが知府の岑紹と交悪して各々奏を上げたので、総兵官および三司に議させた。そこで安遠侯の柳溥らが、思恩を府に陞せて瑛と紹がそれぞれ疆土を守るようにし侵争を杜ぐことを請い、許された。
  • 六年(1441年)、瑛が属を受けて詐を挟んだことが発覚した。帝は土蛮であるとして宥して問わず、法司に文を移して戒めさせた。瑛は府治が僻隘であり、喬利堡はちょうど猺寇の出没する所で城垣も公廨もあるとして、そこへ移すことを乞い、許された。思恩府を思恩軍民府とした。
  • 十二年(1447年)、儒学を設けて教授一員・訓導四員を置いた。いずれも瑛の請によるものである。
  • 景泰四年(1453年)、総兵官の陳旺が、桂林に赴いて哨守する思恩の土兵は本府から遠く離れていて耕種に不便なので税糧を暫く免ずべきだと奏し、許された。同年六月、瑛がみずから本部の狼兵 韋陳威らを率いて城に赴き操練して軍威を助けたので、敕して奉議大夫を授け綵緞を賜い、韋陳威らにもみな冠帯を給した。
  • 五年(1454年)、瑛の請により廟学を建て祭祀の楽器を造った。また瑛が猺寇を征剿した功により、土軍が本年 納めるべき田糧の半を免じ、瑛を従二品の散官に進めた。
  • 瑛はしばしば兵を領して征に随い、子の鑌を知府の代理としたが、鑌は無頼を招集して不法を働いた。瑛はその事を挙発し、総兵のもとから府に帰って治めることを請うた。鑌は父が来ると聞いて自縊した。事が聞こえると、愛を割いて忠を効したことを嘉して敕を降し慰諭した。また柳溥の奏により、思恩から調用した土軍千五百人の秋糧二千三百余石を免じた。
  • 天順元年(1457年)、戸部が奏した。思恩に存留して広西で操練する軍千五百人は種田納糧に支障があるので三班に分け、五百人を留めて操練させてその糧七百七十余石を免じ、千人を帰して耕種させてその糧千五百四十余石を徴し、寧靖の日を俟って全て徴すべきである。許された。
  • 三年(1459年)、鎮守中官の朱祥が、瑛を都司の軍職に量って遷すよう請うた。帝は瑛が歴練老成でしばしば軍功があるとして都指揮同知に改授し、なお総兵官の鎮守の調用を聴かせ、その子の鐩を知府とした。
  • 成化元年(1465年)、兵科給事中の王秉彞に敕を齎させて瑛父子を奨諭し、あわせて銀幣を賜った。
  • 二年(1466年)、瑛の父母と妻に誥命を給した。総兵 趙輔の請に従ったものである。
  • 十四年(1478年)、瑛が卒した。瑛は父の職を襲いでから年々兵を領して外にあり斬獲するところが多く、知府・参政・都指揮使を歴陞し、年は八十近くになってもなお軍中にあった。卒した後、鐩が誥を請うたので、帝はその労を念って特にこれを賜った。

思恩――岑濬の乱と流官の設置

  • 十六年(1480年)、田州府の土目 黄明が乱を起こし、知府の岑溥が思恩へ避難した。鐩が鎮守らの官と会してこれを討平した。総督の朱英が鐩の功を奨するよう請うた。
  • 鐩が死んで子の濬が襲いだ。
  • 𢎞治十二年(1499年)、田州の土官 岑溥が子の猇に殺され、猇もまた死んだ。次子の猛は幼く、頭目の黄驥と李蠻が難を構えた。督府は濬に命じて衆を調し猛を護らせた。驥は濬に厚く賄い、そのうえ娘を献じ、さらに地を分けると約した。濬は兵を驥に属けて猛を田州へ送ったが入ることができず、猛はそのまま久しく濬のもとに留まった。総鎮の諸官が濬を摂して、ようやく猛を出して知府を襲がせた。濬は約束の分地を索めたが得られず怒り、泗城・東蘭の二州と約して田州を攻め劫し、殺掠は万を数え城郭は廃墟となった。濬の兵二万は旧田州に拠り、龍州の印を劫し、故知府 趙源の妻 岑氏を納れた。総兵官が田州に赴いて勘治すると、黄驥は懼れて濬のもとに匿れた。
  • 先に濬は丹良荘に石城を築いて兵千余人を屯し、江の道を截って商利を括っており、官が毀すよう命じても聴かなかった。官軍が田州から還る際にその便に乗じて城を毀すと、濬の兵が来て拒み官軍二十余人を殺した。官軍はこれを破り、その目兵九人を俘にした。総鎮および巡按らの官が濬の罪を治めるよう請うたが、参政の武清は濬の賄を納れて曲げて庇った。濬の従弟の業は若くして中官に従って京師に出、大理寺副となっていた。三司と総鎮は業を遣わして諭させるよう敕を請うたが、兵部は、濬の悪の深さは業の諭しうるところでないとし、鎮巡に敕して濬を軍門に召し、朝廷の威徳を諭し、首悪を罪し、侵した地を返させ、劫した印および官私の財物を納めさせて、そのうえで赦すべきだとした。総督の鄧廷瓚は、濬はしばしば撫しても服さないので、官軍・土兵を調して分哨して逐捕し按問し、兵を集めて敵に拒むようなら機に応じて剿殺し、あわせて田州の土官 岑猛も一括して区処し辺疆を靖んずるよう奏した。
  • 十六年(1503年)、総督の潘蕃が奏した。濬の僭叛は兵を用いて誅剿すべきであるが、今 濬の従弟の岑業が山東布政司参議として内閣の制敕房で事を弁じており、そこは禁密の地なので漏泄の恐れがある。吏部は改調を擬し、業もまた養を乞うて去りたいと奏した。
  • 十七年(1504年)、濬は上林・武縁などの県を掠め、死者は数えきれなかった。また田州を攻め破り、猛はわずかに身一つで免れ、その家属五十人が掠われた。総鎮がこれを報じ、兵部は三広の兵を調して剿すよう請うた。
  • 十八年(1505年)、総督の潘蕃・太監の韋經・総兵の毛鋭が両広・湖広の官軍と土兵あわせて十万八千余人を調集し、六哨に分けた。副総兵の毛倫と右参政の王璘は慶遠から、右参将の王震・左参将の王臣および湖広都指揮の官纓は柳州から、左参将の楊玉・僉事の丁隆は武縁から、都指揮の金堂・副使の姜綰は上林から、都指揮の何清・参議の詹璽は丹良から、都指揮の李銘と泗城州土舎の岑接は工堯から、それぞれ道を取ってともに巣寨に抵った。賊は兵を分けて険に拠り拒み敵したが、官軍は奮い勇んで直ちに前進し、崖を援じて登った。濬は勢い蹙まって旧城へ遁れ、諸軍が囲み攻めると城中の者がその首を献じ、思恩はついに平定された。前後の斬捕は四千七百九十級、男女八百人を俘にし、思恩府の印二・向武州の印一を得た。進兵から班師まで、わずかに一月を越えただけであった。捷が聞こえると帝は蕃らの功を璽書で労った。兵部は、濬が既に伏誅した以上 再びその功を録すべきでないと議した。
  • その後 流官に改め設け、適任の者を択んで雲南知府の張鳳を広西右参政に陞せ思恩府の事を掌らせ、敕を賜った。
  • 正徳七年(1512年)、鳳化県の治を増設した。当時は流官を置いたばかりで諸蛮はまだ服さず、相継いで乱を起こした。
  • 嘉靖四年(1525年)、都御史の盛應期が官軍を遣わしてこれを平げた。

思恩――王守仁の招撫と九土巡檢司

  • 六年(1527年)、土目の王受が田州の盧蘇と謀って乱を煽り、勢いがまた熾んになった。新建伯の王守仁が命を受けて至り、ひたすら招撫に努める一方、受らに檄して八寨の賊を破らせた。そこで思恩の地を九つの土巡檢司として頭目に管させ、王受には白山司の巡檢を授けて世官に比せられるようにした。また思恩の旧治は瘴霧が昏塞なので爽塏の地に更めるべきだとして、荒田に地を択んで新しい郡を建て、武縁の止戈の二里を割いて加え、さらに上林の三里を割いて鳳化県の治をそこへ移すことを議した。犬牙相錯の意を寓するものであった。
  • 巡撫の林富は、郡を遷すことと止戈里を割くことは守仁の議のとおりでよいが、三里には衞を設けるべきで鳳化県はあわせて裁くべきだとした。そのため府治はいっそう孤立することになった。
  • その後 九司の頭目は日ごとに恣になり、管轄下の蛮民は堪えられなかった。知府の陳璜が曲げて綏戢を加えたが、目把の劉觀・盧回が土を復すことを名として衆を鼓し乱を起こした。副使の翁萬達は安南に事があったのに乗じ、計をもって盧回を擒えて殺し、乱に従った三十余人を招いて帰らせた。最後に東蘭の岑瑄が岑濬の子 起雲だと詐称して土官の復活を謀ったが、九司の頭目に縛された。
  • 萬歴七年(1579年)、督撫の吳文華が、九司は日ごとに驕黠となり編氓は甚だ少なく緩急に恃み難いとして、南寧の武縁県を割いて思恩に属させるよう奏した。これより思恩は巨鎮と称された。
  • 思恩府の土巡檢九司はいずれも嘉靖七年(1528年)の設置である。興隆・那馬・白山・定羅・舊城・下旺・安定・都陽・古零という。

鎮安

  • 鎮安は宋のとき鎮安峒に右江軍民宣撫司を建て、元が鎮安路と改めた。明の洪武元年、鎮安が帰附した。もとの治所が僻遠なので、廃された凍州に移して建て、府に改め、土官の岑添保に知府を授けた。朝貢は例のとおりであった。
  • 二十七年(1394年)、添保が上言した。かつて征南将軍の傅友徳が郡民に毎年 米三千石を輸して雲南の普安衞へ運ばせた。鎮安は溪洞の僻地にあって南は交阯に接し一方に孤立し、しかも属する州県もなく人民は少なく、舟車も通ぜず、陸路を行けば二十五日でようやく普安に着く。道は遠く険しく、一人が米三斗を負っても食に給すれば残りはわずかである。そのため往々にして耕牛や他の物を持って行き、現地で米に易えて納めているが、普安は荒遠で米も得難く、民は甚だ苦しんでいる。また毎年 本衞に米四百石を輸するのもきわめて難儀なので、旧例のとおり白金一両で一石に折納したい。許された。
  • 永樂中、向武知州の黄世鐵が鎮安の髙寨などの地を侵奪した。朝廷は兵を遣わして討平し、その地を鎮安に属させた。
  • 成化八年(1472年)、知府 岑永夀の姪 宗紹が土兵を糾集して府治を攻め破り、嫡母を殺傷し、郷村を流劫した。有司が撫諭しても服さず、都指揮の岑瑛が擒えて斬った。
  • 嘉靖十四年(1535年)、田州の盧蘇が乱を起こし、歸順州の土官 岑瓛を糾して鎮安府を攻め毀ち、目兵で害された者は万を数えた。按臣の曽守約がこれを報じ、帝は両広総督の陶諧に治めさせた。当時 蘇が乱を倡えて田州には主がなく、鎮安府の土官の男 岑真寶が兵をもって岑邦佐を田州に納れていた。歸順州の岑瓛は蘇の壻であり、向武州の黄仲金とともに真寶と隙があったので、真寶が田州に入った隙に乗じ、蘇が瓛と仲金を遣わして鎮安を襲い破らせた。真寶は乱を聞いて走り還ったが、蘇は目兵を会して追い、武陵寨に囲んだ。瓛らはそのうえ真寶の父母の墓を発いてその骸を焚き、兵を分けて諸々の峒寨を占拠した。真寶が軍門に訴え、督が瓛らに諭したが退かず、久しくしてようやく解け、官軍が真寶を帰らせた。ここで瓛と真寶は互いに訐しあった。巡按御史は、土蛮が互いに讐うのは他を侵犯したのとは違うとして末減に従うべきだと言い、蘇・瓛・仲金にそれぞれ差をつけて降罰し、真寶もまた冠帯を革して立功自贖を許した。
  • 二十二年(1543年)、猺獞の作乱で防禦に人を要するとして、真寶ら諸土官の来朝を免じた。
  • 鎮安の所属には上映洞・湖潤寨の巡檢があり、いずれも土人の世官である。

田州――沿革と洪武・永樂年間

  • 田州は古の百粤の地である。漢では交阯郡に属し、唐が田州を置いて邕州都督府に隷させ、宋もこれに因って邕州の横山寨に属させた。元が改めて田州路軍民総管府を置いた。明が興ると田州府と改め、来安府を省いてここに入れた。のち田州と改め、県一を領した。上林という。
  • 洪武元年、大兵が広西を下すと、右江の田州府土官 岑伯顔が使者に印を持たせ平章の楊璟のもとへ赴いて降った。
  • 二年、伯顔は使者を遣わして表を奉じ馬と方物を貢いだ。詔して伯顔を田州知府とし世襲させた。これより朝貢は制のとおりであった。
  • 六年(1373年)、田州の溪峒の蛮賊が竊かに発ったので伯顔がこれを討平した。伯顔は振安州・順龍州・侯州・陽県・羅博州・龍威寨の人民のために牛と米を給し、その税を二年蠲ずるよう請い、詔して有司にそのようにさせた。
  • 十六年(1383年)、伯顔が死んで子の堅が襲いだ。
  • 十七年(1384年)、都指揮使の耿良が奏した。田州知府の岑堅、泗州知州の岑善忠はその土兵を率いて猺寇を討捕し功績が多い。壮丁それぞれ五千人を選び取らせて二衞を立て、善忠の子 振と堅の子 永通を千戸として衆を統べ守禦させ、耕しつつ戦わせたい。これは古人の、蛮をもって蛮を攻める術である。詔してその言のとおり行わせた。
  • 二十年(1387年)、堅は子で思恩知州の永昌を遣わして例のとおり朝貢し、賜を給された。
  • 永樂元年(1403年)、堅が死んで子の永通が襲いだ。永通は上隆州の知州でもあったので、州は瓊に代わらせ、自らは父の職を襲いだ。
  • 正統八年(1443年)、知府の岑紹に誥命を賜い、あわせてその父母と妻を封贈した。

田州――吕趙の乱と岑鏞・岑溥の代

  • 天順元年(1457年)、田州の頭目 吕趙が敵国大将軍を偽称し、旗幟を張り鉦鼓を鳴らして衆を率い南丹州を劫掠し、さらに向武州に拠った。武進伯の朱瑛がこれを報じ、兵部は瑛および土官の岑瑛に剿捕を命ずるよう請うた。
  • 三年(1459年)、巡撫の葉盛が奏した。田州の叛目 吕趙の勢いはいよいよ獗しく、知府の岑鑑を殺して地方を占拠し、太平王を偽称し、岑氏の宗族を図って知府の職事を冒し襲ごうとしている。帝は総兵に速やかに討たせた。
  • 四年(1460年)、巡按御史の吳禎が奏した。敕を奉じて反賊 吕趙を剿捕するため官軍・土兵を選調し、功饒・婪鳳の二関を攻め破って府城を直ちに擣いた。吕趙は妻子を携え、知州の岑鐸らを挟んで夜に遁れたが、官軍は雲南の富州まで追って鐸らおよびその子と壻を奪い返し、四十九級を斬り、賊衆はことごとく降った。趙は数騎で鎮安府へ走ったが追いつき、趙とその子四人・従賊十八人を斬り、その妻孥および偽の太平王の木印、無敵将軍の銅印ならびに鳳旗・盔甲などの物を獲た。あらためて知府の岑鏞に府事を掌らせて人民を撫安し、田州は平定された。帝は使者に敕を齎させて禎らを奨諭し、あわせて鏞には法度を謹み宗族を保全するよう敕した。
  • 成化元年(1465年)、兵科給事中の王秉彞に敕を齎させて鏞を諭し、あわせて銀幣を賜った。兵部が、その部下の土官狼兵はしばしば調されて剿に労があり、しかも大藤峽の事もあると言ったためである。
  • 二年(1466年)、総兵官の趙輔が、鏞の従征の功により誥命を給してその父母と妻を旌するよう奏し、許された。
  • 五年(1469年)、また輔の言により鏞に官誥を与えた。
  • 十六年(1480年)、田州の頭目 黄明が衆を聚めて乱を為し、知府の岑溥は思恩へ走り避けた。総督の朱英が参将の馬義に軍を率いて明を捕らえさせ、明は敗走したが恩城知州の岑欽に執えられ、族属とともに誅された。その後 溥はまた欽と交悪し、欽は田州を攻め奪って溥を逐い五十余家を殺した。当時 泗城州の岑應方は兵の強きを恃んでさらに欽に党し、人民二万六千余を殺し擄い、欽と田州を分割してその地に拠った。
  • 𢎞治三年(1490年)、総制が官を遣わして溥の子 猇を田州に入れさせようとしたが欽に遏められ、潯州に居った。按察使の陶魯が官軍を率いて南寧に次ったところ、欽は拒み敵して敗走したが應がまたこれを援けて城に入り、兵を陳ねて備えた。総督の秦紘は貴州・湖広および両広の兵を合わせて剿すよう請うた。欽は勢い蹙まって應に兵を乞い、そのまま應のもとに匿れた。総鎮の官が應に檄して欽を捕らえさせると、欽は應に従って飲む席で應父子をその座で殺し、その兵を収めて官軍に拒んだ。ほどなく應の弟 岑接が偽って兵で欽を田州の界まで送り、そこで欽父子を殺して報いた。事が聞こえると廷議はやはり溥を田州に還すよう命じた。
  • 九年(1496年)、総督の鄧廷瓚が、溥は以前 罪により革職されたが近ごろ征に随って功があるとして、その冠帯を復し土兵を領して梧州に赴き調を聴かせるよう乞い、許された。

田州――岑猛の襲職をめぐる争い

  • 十二年(1499年)、溥は子の猇に弑され、猇もまた自殺した。次子の猛はまだ四歳であった。溥の母 岑氏と頭目の黄驥がこれを護って制府に赴き襲を告げ、帰る途中 南寧に至ったとき頭目の李蠻が迎えに来た。驥は蠻に自分の権を奪われることを慮り、その使者を殺した。蠻は兵を率いて旧田州に至り、驥は懼れて蠻が変を為そうとしていると誣り、兵で猛を納れることを乞うた。そこで思恩の岑濬を調して兵を率い猛を衞らせた。濬は驥の賄を受けてその娘を納れ、猛を挟んでその六甲の地を分けると約した。田州に至ると蠻は拒んで納れず、驥はまた猛を思恩へ奔らせて幽した。事が発覚すると廷瓚は副総兵の歐磐らに檄して濬を摂させ、久しくしてようやく猛を出させ会城に置き、奏によって命を得て猛に知府を襲がせた。
  • 驥と濬は事が自分たちから出なかったことを怒り、泗城の岑接・東蘭の韋祖鋐に要めてそれぞれ兵を起こして蠻を攻めさせた。接の兵二万がまず田州に入り、男女八百余人を殺し掠め、駆り立てて水に溺れ死んだ者は数知れず、府庫を括り兵を放って大いに掠め、城郭は廃墟となった。濬の兵二万は旧田州を攻めてこれに拠り、男女五千三百余人を殺し掠め、蠻は逃げ去った。副総兵の歐磐・参政の武清らが田州府に赴いて勘治し、兵を遣わして猛を府へ還した。驥は罪を懼れて濬の家に匿れ、有司は濬の罪を治めるよう請うた。
  • もともと蠻が猛を迎えたときには他意はなく、猛が外にある間 蠻は土を守ってその帰りを待っていたのであり、驥が権を争って乱を首め、濬・接・祖鋐が悪に党してこの変を致したのであった。清は濬の賄を受けて曲げてこれに味方し、蠻が府治を占拠し兵を阻んで権を弄したと誣り、事はついに蠻にとって正しく決しなかった。そこで廷瓚は、思恩の岑濬の罪悪はまさに逐捕すべきものであり、田州の岑猛もこの機に乗じて区画し、府を降して州とし、他日の尾大の患の基とせぬようにすべきだと言い、許された。
  • 十八年(1505年)、廷議は、思恩・田州が既に平いだ以上 流官を設けるべきであり、岑猛は代々 兇悪を重ねて府治を陥れたのだから千戸に降し授け、才望ある者を選んで方面の職銜を仮して田州を守らせ、なお敕を賜ってその権を重からしめるべきだとした。帝は然りとし、そこで平樂知府の謝湖を右参政として府事を掌らせた。当時 岑猛は既に福建の平海衞千戸に降されていたが遷延して行かず、湖が至るとまた兵を陳ねて自衞し、祖母の岑氏に、広西の極辺で部下を率いて立功し祭養に便ならしめたいと奏させた。詔して総鎮の官に詳しく議して報告させた。総督の陳金は、猛が旧巣に拠って府佐を要求し平海衞に赴かず、参政の謝湖もすぐには赴任せず猛に拒まれ、餽遺を納れてその要求に徇ったのであるから逮問すべきだと奏した。このとき猛は人を遣わして劉瑾に重く賄い、旨を得て猛は留められ、湖は褫され、そのうえ前の撫であった潘蕃・劉大夏にも及んだ。猛はついに同知として府事を摂ることになった。
  • 猛は遺民を撫輯して兵は再び振るい、やや旁の郡を侵すようになった。みずから、督撫に調発があれば立功して旧職を復したいと言っていた。折しも江西で盗が起こると都御史の陳金が猛に檄して従征させた。猛は行く先々で剽掠したが、賊が平いだので功を論じて指揮同知に遷った。これは猛の本意ではなく、頗る怨望した。
  • 正徳十五年(1520年)、猛が奏した。田州の土兵は征調のたびに一戸に一、二丁を留めて耕種させ常税に供させているが、久しく外で労している者には量って振給し、その輸税を免じてほしい。許された。

田州――姚鏌の征討と岑猛の死

  • 嘉靖二年(1523年)、猛は兵を率いて泗城を攻め六寨を抜き、ついに州治を克した。岑接が軍門に急を告げ、猛が故なく兵を興して寨を攻めたと言い、猛は、接は岑氏の後ではないのにその祖業に拠っているので侵された地を取り戻したいのだと言った。当時ちょうど上思州の役があり、徴した兵はみな至らず、総督の張嵿がその状を報じた。
  • 四年(1525年)、提督の盛應期・巡按の謝汝儀が大征を議し、猛は征調の事宜を条陳した。詔して可と報じたが、應期が他の事で去ったので、詔して都御史の姚鏌を代え、金を懸けて猛を購わせた。しかし鏌は猛に反心のないことを知っており、猛はちょうど奏して弁明していたので鏌も師を緩めようとした。巡按の謝汝儀は鏌と隙があり、鏌の子 淶が猛から万金を納れたと誣り、淶の書を廉り得て献じた。鏌は惶恐して、あらためて疏して征を請うた。
  • そこで兵部が鏌に期を剋して進むよう趣し、鏌は総兵官の朱麟とともに兵八万を発し、都指揮の沈希儀・張經らに統べさせ、道を分けて並び入った。猛は大兵の至るのを聞き、部下に兵を交えるなと令じ、帛を裂いて寃状を書き軍門に陳べて憐察を乞うたが、鏌は聴かず督兵はいよいよ急であった。沈希儀が猛の長子 邦彦を工堯の隘で斬った。猛は懼れて出奔しようと謀ったが、歸順州知州の岑璋は猛の婦翁で、その娘は愛を失っていたため、璋はこれに藉りて猛に報いようとし、甘言で猛を歸順へ誘い、鴆殺してその首を斬り献じた。
  • 六年(1527年)、鏌は田州平定を京師に告捷し、そこで田州を流官に改めることと善後の七事を陳べ、詔していずれも従われた。鏌は参議の汪必東・僉事の申惠・参将の張經を留め、兵一万でその地を鎮めさせ、知府の王熊兆に府事を署させた。ところが必東と惠はともに病と称して他所に駐し、經と熊兆だけが府にあって兵勢は分かれ、防守はやや懈った。そこで逆党の盧蘇・王受らが偽の印を作り、猛は生きており、そのうえ交阯の兵二十万を借りて興復を図るのだと誑した。蛮民はこれを信じ、衆を聚めて府城に薄った。經は出撃したが兵が少なく敵わず引き還そうとしたところ、城中が陰かに内応して呼び譟ぎ四方に出た。官軍は腹背に攻めを受け、力戦したが支えきれず、囲みを突いて江を渡り走ったが、賊がその後ろに逼り、舟を争って溺死する者は甚だ多かった。賊は江沿いに闌索を置き藥弩を伏せて両岸から並び起こり、官軍は戦いながら行って向武に抵ったが、士卒三、四百人を失った。賊はついに府城に入って拠り、倉の粟を焼くこと万を以て数えた。
  • 御史の石金がその事を上り、前の撫であった盛應期が事を生じて釁を召いたのだと頗る罪を委ねた。給事中の鄭自璧は、なお湖広の永順・保靖の兵に檄して力を併せて賊を剿すよう請うた。帝は、四方の兵数万がまさに帰り休んだところなのにどうしてまた調せようかと述べ、あらためて機宜を計って報告するよう命じた。
  • 当時 盧蘇らは府に拠って叛きながら偽って撫を聴くふりをし、人を遣わして署府事の王熊兆を迎えた。その党の王受らは衆万余を糾して思恩城を攻め拠り、知府の吳期英・守備指揮の門祖蔭らを捕らえたが、ほどなく期英らを釈し、やはり上官に牒を投じて招撫を聴きたいと願い出た。都御史の姚鏌は兵がまだ集まらないので姑くこれを受けてその謀を緩め、諜者を遣わして東蘭・歸順・鎮安・泗城・向武の諸土官に檄し、それぞれ兵を勒して自ら効するよう命じ、あわせて事を失した守巡・参将らの官を責めて立功自贖させた。さらに疏して、湖広の永順・保靖の土兵、江西の汀州・贛州の畬兵を調し、みな南寧に会して力を併せて進剿することを請うた。
  • 帝は、蛮乱が久しいのに鎮巡の官は大征を命ぜられながらまだ殄絶しないうちに捷を奏し、兵を散じて余孽を再び滋らせた、罪は逭れがたいが姑く前の過ちを赦して新たな功を図らせるとし、原任兵部尚書の新建伯 王守仁を起こして軍務を総督させ、鏌とともにこれを討たせた。

田州――王守仁の招撫

  • 当時 受は既に思恩に入って府庫を封じ賊兵に守らせ、自らは武縁を攻めた。守巡の官 鄒輗らが兵を率いて思恩に至ると、思恩の千夫長 韋貴・徐伍らが壮士を間道から城に入れて内応させ、夜に官兵を引き入れて門を奪い賊二十余人を殺し、府の印と庫の物を収め、期英を賓州へ護送し、あわせて城中のまだ下らない者を招撫した。当時 受の武縁攻めは甚だ急であったが、参将の張經が堅く壁して拒み守り、鎮守頭目の許用が戦ってその渠帥一人を斬った。賊は援兵が大いに集まるのを見て遁れ去った。鏌がこれを報じた。帝は、田州・思恩の賊の鋒は挫かれたが首悪をまだ擒えていないとして、なお守仁に速やかに兵を督して剿撫させた。
  • 守仁は威名がもとより重く、軍務を督して兵数万を調して至ると、諸蛮は心に懾れた。守仁は南寧に至る道中で受らの勢いの盛んなのを見、にわかには滅ぼせないと度り、疏を上って用兵の利害を極言した。兵部は守仁の所見はまだ確かでないと議し、あらためて五事を陳べて守仁に詳しくその宜しきを計らせた。
  • そこで守仁がまた疏して言うには――臣は昨年十二月に命を奉じて広西の平南県に至り、巡按御史の石金および藩臬の諸将領らと会議した。思恩・田州の禍が両省に結ばれてから既に二年を越えた。今日どうしても窮兵して尽く剿そうとすれば十の患があり、兵を罷めて撫を行えば十の善がある。臣は諸臣と心を攄べて極論し、今日の局面は撫がよいとした。臣は南寧に抵るや、調集した防守の兵をことごとく撤せよと令し、数日のうちに甲を解いて帰った者は数万に及んだ。ただ湖広の兵数千だけは道が阻んで遠くすぐには帰れないので、南寧に分け留めて甲を解き休養させ、機を待って動かすこととした。そして盧蘇・王受は先に頭目の黄富らを遣わして訴え出、境に帰って生を投じ一死を宥されたいと乞うた。臣らは朝廷の威徳を諭し、飛牌を齎して巣に帰り曉諭させ、速やかに降って死を免れるよう期させた。蘇・受らは牌を得てみな羅拜し踴躍し、歓声は雷のようであった。やがて衆を率いて南寧の城下に至り、四つの営に分かれ屯した。蘇・受らは囚首自縛して頭目数百人とともに軍門に赴き命を請うた。臣らはさらに諭して、朝廷は既に爾らの罪を赦したが、爾らは衆を擁して固きに負き一方を騒動させた、罰を示さなければ何によって憤を雪ごうか、と言い、そこで蘇・受を軍門に下してそれぞれ杖一百を加え、そのうえで縛を解いた。またこれに諭して、今日 爾らの死を宥すのは朝廷の好生の徳であり、必ず爾らを杖つのは人臣が法を執る義である、と言うと、衆はみな叩首して悦び服し、賊を殺して立功したいと願った。臣は続いてその営に至って衆七万余人を撫し定め、あらためて布政使の林富らに委ねて安插させ、二月二十六日にことごとく業に帰らせた。これはみな皇上の至孝達順の徳、神武にして殺さざる威によるもので、一月も経たぬうちに蛮民は率いて服し、一矢も折らず一人も傷つけずに数万の生霊を全く活かした。古の舞干の化もこれに加えるものはない――と。
  • 疏が聞こえ、帝は嘉して行人に敕を齎させ奨賚した。
  • そこで守仁はまた疏して言った。思恩・田州は久しく禍を構え両省を荼毒すること既に二年を越え、兵力は哨守に尽き、民の脂は転輸に竭き、官吏は奔走に疲れ、地方は破れた舟が風浪に漂うようで覆り溺れることは目前にあり、智者を待たずとも知れる。どうしても窮兵して憤を雪ぎ一隅を殲そうとしても、克てないのは論ずるまでもなく、たとい克ったとしても患は測り難い。まして田州は外は交阯を捍ぎ内は各郡の屏となり、深山絶谷には猺獠が盤據している。その人をことごとく誅してしまえば、他日 土を改めて流にしようとしても誰を編戸とするのか。自ら藩籬を撤するばかりでなく、土を拓き疆を開いて鄰敵に資することになり、得計ではない。今 岑氏は代々 辺功を効し、猛だけが詿誤して法に触れたが、まだ伏誅していないうちに既に病死したと聞く。臣は、田州を治めるには岑氏でなければならぬと考える。田州府を降して田州とし、その子を官につけて岑氏の後を存すよう請う。調べると猛には二子があり、長子の邦佐は幼くして出て武靖州知州を継いでいる。武靖は猺賊の衝に当たり、邦佐の才は制馭するに足りるので旧職のままとし、今 建てる州には猛の幼子 邦相を吏目に授けて州事を署させ、後に順次 知州に陞せて岑氏の祀を承けさせたい。土巡檢の諸司を設け、盧蘇・王受ら九人をこれに充ててその勢を殺ぎ、田寧府を添え設けて流官の知府に統べさせその権を総べさせたい。許された。
  • ただし守仁が奏した岑猛の子については撫按の報告と異なるとして、あらためて覆させた。そこで守仁は言った。臣が初め岑氏の後を立てることを議したとき、当府の土目および耆老はみな、岑猛にはもと四子があり、長子の邦佐は妻 張氏の出、次の邦彦は妾 林氏の出、次の邦輔は外婢の生むところ、次の邦相は妾 韋氏の出であると言った。猛は林氏を嬖溺して張氏は愛を失い、そのため邦佐は幼くして武靖に出継した。邦彦は既に死に、邦佐は武靖の民心を得ていて代える人も得難い。邦輔を立てようとしたが、土目は外婢の生んだ者では名実が正しくないと言い、ただ邦相だけが猛の正派で質貌が厚重、岑氏を継ぐに堪えると言った。だから当時 猛の子で存する者は二人だと言ったのであり、それは名を正し始めを慎み後日の争いを杜ぐためでもある。疏が上って議のとおり行われた。
  • 八年(1529年)、守仁は思恩・田州に流官を設けることを議したうえ、さらに南丹衞を八寨に移し、思恩府城を荒田に改め、鳳化県の治を三里に改め設け、思龍に流官の県を添え設け、五屯に五鎮の城堡を増築することを議した。侍郎の林富がこれを継ぐと、また言った。田州は南寧・泗城に界し雲貴・交阯に交通し、備えは一つでないから流官に改め設けるべきでない。南丹衞は賓州に設けられていて八寨を遥かに制するに足りず、八寨に遷せば還って賓州を護ることができない。今日の計としては、ただ上林の三里、守仁が県を設けようと議したところに南丹衞を遷すのがよい。そもそも県を設ければ賓州の地を割いて思恩に加えることになり、彼を顧みて此を失うことになる。衞を遷せば八寨の吭を扼して還って賓州を護ることになり、一挙にして両つながら得られる。ただし田州に属させず、なお南寧に属させるのが便である。その議は守仁とかなり異同があったが、詔は富の言に従った。

田州――盧蘇の専擅と岑芝以後

  • 初め、邦相の兄 邦彦に子の芝があり、大母の林氏・瓦氏に依って官給の養田に居った。その後 邦相は蘇の専擅を憎み、密かに頭目の盧玉らと蘇および芝を誅する謀をした。蘇はこれを知った。折しも邦相が二氏のもとの食荘田を侵し削ったので、二氏は蘇と合謀し、芝を梧州へ奔らせて軍門に襲を告げさせ、蘇もまた芝のために疏請した。ほどなく人をやって邦相を刺させたが、邦相は覚って刺客を殺した。そこで蘇は兵を伏せて盧玉らを殺し、兵で邦相の宅を囲み、邦相を誘い出して夜に乗じ瓦氏とともに縊り殺した。巡按御史の曾守約がこれを報じ、帝は総督の陶諧に勘処させた。
  • 蘇が邦相を殺すと、歸順・鎮安・泗城・向武の諸土官が群れ起こって難を構え、互いに訐り奏した。当事者は、岑芝の承襲が定まらず田州に主がないために隣封に覬覦させたのだとして、劄付を給して芝に事を管させるべきだとした。蘇はまた早く芝に冠帯を給して田州を撫するよう請い、みずから罪を悔いて糧を裹んで立功し、累年の逋した糧賦を追い補いたいと願い出た。巡按御史の諸演が疏聞し、部議は、土蛮が互いに讐い殺したのだから末減に従うべきだとし、みな立功させてはじめて贖罪と復官を准すこととした。
  • 三十二年(1553年)、芝が死に、子の大夀はまだ四歳であった。土人の莫葦が岑姓を冒し、土官の岑施と相煽って乱を構えた。提督の郎檟が、思恩守備の張啟元を暫く田州に駐めて鎮めさせるよう奏し、可と報じられた。
  • 三十四年(1555年)、田州の土官の婦 瓦氏が狼兵を率いて調に応じ、蘇州に至って倭を剿し、総兵の俞大猷の麾下に隷した。賊を殺すことが多かったので、詔して瓦氏およびその孫男の岑大夀・大禄に銀幣を賞し、その余は軍門に奨賞させた。
  • 四十二年(1563年)、広西の猺獞を平げた功により、岑大禄に知州の職を実受させた。
  • 泰昌元年(1620年)、総督の許𢎞綱が奏した。田州の土官 岑懋仁は悪を肆にして釁を起こし上林を窺い占め、叛人の黄得隆らを納れて衆を糾し城を破り、擅に土官の黄徳勲を殺してその妻女と印信を擄った。その罪を正すよう乞う。詔して岑懋仁に速やかに印を献じ諸々の犯人を執え送らせ、按臣に分別して正法させ、違えば進んで剿すこととした。
  • 天啟二年(1622年)、巡撫の何士晉が、懋仁の逮問を免じ、それぞれ土兵を率いて援け剿し功があったとして優叙するよう請い、許された。
  • 田州は代々 岑氏で、流官に改めることが二度あったが結局は果たされず、盧蘇は再び叛いて主を弑しながらついに罰を逸れた。論者はこれを失刑と見なしている。
  • 上林は田州の東にある。宋に置かれて横山寨に隷し、元では田州路に属した。洪武二年、土官の黄嵩が帰附して世襲の知県を授けられ、流官の典史を佐とした。

恩城州

  • 恩城州は唐に置かれ、宋・元も旧のままで、明初もこれに因り広西布政司に隷した。朝貢は例のとおりであった。
  • 成化十九年(1483年)、知州の岑欽は田州土官 岑溥の叔であったが、互いに讐い殺し合い、溥が敗れると欽は田州に入って府治を焼き大いに殺し掠めた。溥が制府に愬え、三司の官に下して鞫理させた。
  • 𢎞治三年(1490年)、欽はまた田州に入り、泗城の土官 岑應と地を分けて拠った。巡撫の秦紘が兵を調して剿すよう請うたが、兵部は兵を軽々しく動かすべきでないと言い、ただ守臣に命じて應に欽を縛らせ自ら贖わせることとした。
  • 五年(1492年)、欽は岑應のもとへ走って兵を借りた。総鎮が應に檄してこれを捕らえさせると、欽は應父子を殺した。ほどなく應の弟 接が偽って兵で欽を送り、やはり欽父子を殺した。有司は恩城を裁革すべきだとし、許されて州は廃された。

上隆州

  • 上隆州は宋に置かれて横山寨に隷し、元では田州路に属し、明もこれに因り、のち布政司に改隷した。
  • 洪武十九年(1386年)、上隆知州の岑永通が従子の岑安を遣わして来貢し、綺帛・鈔錠を賜った。
  • 洪熙元年(1425年)、土官知州 岑瓊の母 陳氏が来朝して馬を貢ぎ、鈔幣を賜った。
  • 宣徳四年(1429年)、陳氏を知州とした。当時 瓊は既に卒して子がなく、土人が朝に訴えて陳氏の襲職を願ったので、この命があったのである。

都康州

  • 都康州は宋に置かれて横山寨に隷し、元では田州路に属した。洪武間に蛮獠に拠られたが、建文元年(1399年)に復置して布政司に隷させた。土官は馮姓である。その界は東南は龍英に抵り、西は鎮安に至り、北は向武に至る。