明史卷三百十七 列傳第二百五 廣西土司
廣西土司の総説
- 廣西は猺(ヤオ)と獞(チワン)が多く住み、幾万もの嶺の中に蟠踞している。三江の険にあたり、六十三山を巣穴とし、三十六源をその腹心の地としている。
- 桂林・柳州・慶逺・平樂の諸郡縣に散らばる者は、いたる所で蔓延しており、なかでも田州・泗城の類はとりわけ強悍と称された。種類が多くて一つ一つ挙げきれない。蠻勢の多さは滇(雲南)と肩を並べる。
- そこで、とくに著しいものを取り上げて篇に列した。その叛服の定まらぬさま、沿革の異なりようを見れば、中國の徳威を窺い、蠻情の順逆を知ることができ、辺境を経営する者の一助となるであろう。
篇首の立伝者一覧
廣西土司一
- 桂林
- 柳州
- 慶逺
- 平樂
- 梧州
- 潯州
- 南寧
桂林――沿革と、土官を置かぬ地でも猺獞の患いがあること
- 桂林は秦が郡を置いてより、漢では始安、唐では桂州、のちに建陵郡と改め、宋では静江府、元では靜江路、明の初めに桂林府と改めて廣西布政使司の治所とした。所属は内地であって本来は土司の篇に列すべきではない。
- しかし廣西では桂林と平樂・潯州・梧州にだけ土官を置かなかったとはいえ、猺獞のいない土地はなかった。桂林の古田、平樂の府江、潯州の藤峽、梧州の岑溪は、いずれも大征を行ってはじめて平定できたところで、結局は草を刈り獣を狩るように一掃することはできず、代々防備を設け戍を置いて患いとなった。それゆえ省くわけにはいかない。
桂林――洪武から景泰まで
- 洪武七年(1374年)、永州・道州・桂陽の諸州で蛮が蜂起し、金吾右衞指揮同知の陸齡に命じて兵を率いて討ち平らげさせた。
- 洪武二十二年(1389年)、富川縣の逃亡した吏である首賜が苗賊の盤大孝らを糾合して乱を起こし、知縣の徐元善らを殺し、往来して掠奪した。廣西都指揮の韓觀が千戸の廖春らを遣わして討ち、盤大孝ら二百余人を捕らえ殺した。
- 韓觀はそこで「靈亭鄉は猺蠻の出入りする地で、討伐を続けて年を経てもまだ殲滅しきれていない。桂林などの衞の余った軍士で千戸所を置いて鎮めるべきである」と言上し、詔してその請いに従った。
- 洪武二十七年(1394年)、全州・灌陽などの縣の平川諸源の猺民が衆を集めて乱を起こし、湖廣・廣西の二都司に命じて兵を発して討たせ、千四百余人を捕らえ殺した。諸猺は逃げ散り、灌陽守禦千戸所を置いた。
- はじめ灌陽縣は湖廣に隷属していたが、廣西の平川など三十六源の猺賊が乱を起こして縣治を攻撃したので、詔して寶慶衞指揮の孫宗を総兵として討ち平らげさせた。縣丞の李原慶が「灌陽は湖廣から遠く廣西に近い」と奏したので、そのまま灌陽を桂林府の千戸所に隷属させ、廣西都指揮同知の陶瑾に兵を率いて城を築き守らせた。
- 永樂二年(1404年)、総兵の韓觀が「潯州・桂林・柳州の三郡の蠻寇である黄田らが重ねて掠奪し、人畜を殺し奪ったので、すでに都指揮の朱輝を調えて追討させ、斬獲がかなり多かった。まもなく官を遣わして敕を持たせ撫安していただき、黄田などの猺はみな帰化して奪った人畜をことごとく返した」と奏した。帝は韓觀に、生業に復した者をよく撫恤するよう命じた。
- 宣徳六年(1431年)、都督の山雲が「廣西の左江・右江には土官の衙門が大小四十九か所ある。蠻の性は定まらず仇殺が絶えない。朝廷はそのつど臣に廵按御史や三司の官とともに裁断を命じるが、いずれも瘴気の地であるうえ蠱毒もあり、三年の間に派遣した官のうち死んだ者が十七人に及び、事はついに片づかない。今、衆議として、土官の衙門の軍務の重事についてはその地へ直接赴くが、その他の争論・訴訟は最寄りの衞で処理したい」と奏し、許された。
- 景泰五年(1454年)、廣西の古丁などの洞の賊首である藍伽・韋萬山らが蠻の同類を糾合して南寧・上林・武緣などを掠奪した。鎮守副總兵の陳旺が上申し、詔して総督の馬昻らに討ち捕らえさせた。
桂林――古田の韋銀豹と殷正茂の大征
- はじめ桂林の古田は獞の種族がきわめて多く、最も強いのは韋・閉・白であったが、いずれも韋に併合された。賊首の韋朝威は古田縣に拠り、官は省城へ逃げ込み、典史を縣に入れて撫諭させたところ、これを煮て食った。
- 𢎞治年間に大征を行ったが、副總兵の馬俊と參議の馬鋐が殺された。正徳の初めに再征したが、通判・知縣・指揮などの官が殺された。嘉靖の初めにもまた征討したが、指揮の舒松らが殺された。
- そのころ韋銀豹はその従父の韋朝猛とともに洛容縣を攻め落とし、古田に拠って、その地を上六里・下六里に分けた。韋銀豹は掠奪に出るとき下六里の人を連れて行き、上六里は加えなかった。
- 嘉靖四十五年(1566年)、提督の吳桂芳がその隙を突いて典史の廖元を上六里に入れて撫諭させ、生業に復した獞は二千人に及んだ。韋銀豹は勢いが孤立して降を請うたが、しばらくしてまた猖獗となった。
- 韋銀豹はかつて五人の子を率いて鳳皇・連水の二寨に拠り、昭平知縣の魏文端を襲って殺し、さらに永福から桂林に入って布政司の庫を掠め、署事參政の黎民衷を殺し、城壁を縄で下って去った。官軍が追ったが及ばなかった。
- しばらくして臨桂・永福の各縣の兵が群がり立って賊を捕らえ、はじめて賊党の扶嫩・土婆顯ら三十余人を各山寨の中から捕らえた。しかし首悪はまだ捕らえられなかった。
- 隆慶三年(1569年)、朝議により廣西に専任の巡撫を置くこととし、江西按察使の殷正茂を僉都御史に推して赴任させた。殷正茂は着任すると討賊を上奏し、土兵と漢兵あわせて十萬を集めて衆議を行った。
- 当時、八寨が逆賊を助けていたので、衆議はまず八寨を討つべしとし、敕書にも「まず八寨を平らげ、徐々に古田を図れ」とあった。しかし殷正茂ひとりはそうと考えず、まず榜を出して八寨に諭し、八寨が命に従ったのを見てから兵を七哨に分け、總兵の俞大猷にこれを統べさせ、副總兵の門崇文、參將の王世科・黄應甲、都司の董龍・魯國賢、遊擊の丁山らにそれぞれ一哨を領させた。
- さらに土兵を二隊に分けて交代で道を清めさせ、必ず数里先を清めてから進ませた。賊の巣に至ると営を合わせて攻め、七千四百六十余級を斬り、韋朝猛を生け捕って軍中で梟し、男女千余口を俘虜とした。韋銀豹は追い詰められて自分に似た者を選んで斬り、その首を献じて勝報とした。しかしまもなく韋銀豹とその子の扶枝膠を生け捕りにして縛り、京師へ送って斬った。
- 古田が平定されたので、八寨に龍哈・咘咳を併せて十寨とし、長官司を立てて黄昌らを長官および土舍とし、守禦と調度に従わせた。さらに古田縣を昇格させて永寧州とした。
桂林――永寧の韋狼要の乱と萬歴の大征
- やがて永寧の獞である韋狼要がその一党の黄銀成と仲違いして殺し合い、常安巡檢がこれを徹底的に処罰しようとしたので、韋狼要はそのまま右江の荔浦・山灣の諸獞とともに乱を称した。
- 指揮の徐民瞻に兵を率いて捕らえさせた。徐民瞻は伏兵を置いて韋狼要を捕らえたが、諸猺は大いに騒ぎ立った。総制の殷正茂と巡撫の郭應聘は檄を発して田州・向武・都康の諸土兵を徴発し、參將の王瑞に属させて進討させ、廖金鑑・廖金盞・韋銀花・韋狼化らを斬った。
- 萬歴六年(1578年)、総制の淩雲翼と巡撫の吳文華が河池・咘咳の諸猺を大征し、四萬八百余級を斬り、嶺表はことごとく平らいだ。
柳州――沿革
- 柳州は唐の貞觀年間に置かれ、明の初めに治所を馬平に移した。所属は州二・縣十である。
- 内属して千余年になるが、上林縣だけはなお土官であり、賓州・象州・融縣・羅城の諸猺蠻は蟠踞して寇をなし、城外五里はもう賊の巣であって、軍民には耕せる土地さえなかった。のちたびたび討伐を加え、各峒・隘に土巡檢を置いて、ようやくいくらか安寧を得た。
柳州――洪武・永樂
- 洪武二年(1369年)、中書省の臣が「廣西の諸峒は平定したが、その民を内地へ移せば辺患はなくなる」と言った。帝は「溪洞の蠻獠は雑居しており、その人々は礼義を知らない。順に導けば服し、逆らえば変を起こす。軽々しく動かしてはならない。ただ兵を分けて要害を守らせて鎮服し、日々に教化を進めれば、数年後には良民となろう。何も移すには及ばない」と述べた。
- 永樂七年(1409年)、柳州の道村寨の蠻である韋布黨らが乱を起こし、都指揮の周誼が兵を率いて討ち捕らえた。命じて韋布黨を斬り、その首を寨に梟した。廣西洞の蠻である韋父融と、融縣・羅城洞の蠻である潘父䓗がそれぞれ衆を集めて乱を起こし、柳州などの衞の官軍が捕らえて斬った。
- 永樂九年(1411年)、賓州の遷江縣、象州の武仙縣の古逢などの洞の蠻獠が乱を起こし、詔して柳州・南寧・桂林などの衞の兵を発して討たせた。
- 永樂十四年(1416年)、融縣の猺民が乱を起こし、官軍が討ち平らげた。
- 永樂十七年(1419年)、象州の土吏である覃仁用が「父の覃景安は元の時に本州の巡檢を務め、兵獞二百人を持っていた。今はみな民となっているので、集めて軍としたい」と言ったが、帝は許さなかった。
- 永樂十九年(1421年)、融縣の蠻賊五百余人が群れ集まって剽掠し、廣西參政の耿文彬が民兵を率い桂林衞指揮と合流して平定した。柳州などの府、上林などの縣の獞民である梁公竦ら六千戸、男女三萬三千余口、および羅城縣の土酋である韋公成乾ら三百余戸が生業に復した。はじめ韋公らが乱を唱えたとき、獞民の多くが山谷に逃げ込んで彼らと結んだ。事が上聞され、御史の王煜らを遣わして招撫し復業させたが、ここに至ってみな帰り、もとどおり戸籍に編入して民とした。
柳州――宣徳年間
- 宣徳の即位の年(1425年)、蠻寇の覃公旺が乱を起こし、思恩縣の大小富龍の三十余峒に拠って険阻を固守し、官軍を拒んだ。總兵官の顧興祖らが兵を督して分道して攻め、覃公旺およびその一党千五十余人を斬った。
- 勝報が届くと帝は言った。「蠻民もまた朕の赤子である。千数百人も殺したのでは、脅されて従っただけの無辜の者もあったのではないか。今後は恩信を示して撫慰し降らせるべきである。賈琮が交州を守ったようにするのがよい」。
- 宣徳元年(1426年)、柳州の獞の首領である韋敬曉らが帰附した。
- 宣徳二年(1427年)、廣西三司が「柳州・慶逺などの府の賊首である韋萬黄・韋朝傳らが衆を集めて掠殺し民の害となっている」と奏し、顧興祖に敕して兵を進め討ち平らげさせた。
柳州――懐逺の猺と隆慶の討伐
- 懐逺は柳州の属邑で右江の上流にあり、近くの靖州・綏寧・黎平の諸猺がひそかに拠って久しかった。
- 隆慶年間、古田を大征したとき、懐逺知縣の馬希武はその隙に乗じて城を築こうとし、諸猺を召して労役させたが、約束した犒(ねぎらいの品)を与えなかった。諸猺はそこで繩坡・頭板・江の諸峒と合して官吏を殺し叛いた。
- 総制の殷正茂が朝廷に請い、總兵官の李錫と參將の王世科を遣わして兵を統べ進討させた。官兵が江の板(板江)に至ると猺賊はみな険に拠って死守した。殷正茂は諸猺がひとえに永順の鉤刀手と狼兵を恐れることを知っており、そこで三道の兵数萬人に檄して太平・河裏の諸村を撃ち、大いに破り、続けて数寨を抜き、賊首の榮才富・吳金田らを斬った。前後して捕らえ斬った者は三千余、俘虜とした男女および牛馬は数知れなかった。
- 事が上聞され、兵を置いて防ぐことを議し、萬石・宜良・丹陽を土巡司に改め、土兵五百人を屯して、耕しながら守らせた。
柳州――萬歴の洛容の乱と韋王朋
- 萬歴元年(1573年)、洛容知縣の邵廷臣が親の養護のため帰郷し、主簿の謝漳が縣の事を代行していた。上元の夜、単騎で山中を巡って檄を伝えていたところ、獞蠻の韋朝義が上油・古底の諸獞を率いて夜半に掠奪に出て、謝漳を追い立て、城まで追って謝漳を殺し、縣の印を奪って去った。
- その夜、指揮の朱昌允と土巡檢の韋顯忠がともに兵を提げて決戦し、三十一級を斬った。兵校の文斌が韋朝義を捕らえ、縣の印を奪い返した。守巡の官が上申し、そこで總兵の李錫、參將の王瑞・康仁らに討たせ、上油・古底の諸寨を破り、覃金狼ら二千八百三十余級を斬り、二百二十余人を俘虜とし、牛馬・器械もこれに見合う数を得た。
- のち残った獞の黄朝貴がふたたび融縣の猺と合し、一萬人と号して富福鎮に入ると声言した。王世科がまた兵を引いて撃ち、五十余人を斬った。
- はじめ洛容は万山の中にあり、城は小さく雉堞(狭間つきの城壁)もなく、縣の官はみな府城に寓居していた。知縣の余涵が城を白龍巖に移すよう請うたが実現せず、ここに至って謝漳が難に遭ったのである。
- また韋王朋という者は馬平の獞である。はじめ馬平を平定したとき営堡を建て、土舎の韋志隆に兵を提げてその地に屯させた。韋王朋は堡の兵を仇のように見なし、つねに東歐・大産の諸蠻を率いて営堡を脅した。兵備の周浩が千總を遣わして撫させたところ、その千總を殺して村落を掠めた。總兵の王尚父がこれを討ち平らげた。
慶逺――沿革と安撫司の設置・廃止
- 慶逺は秦の象郡、漢では鬰林郡の地であり、晉では州、のちに蛮の手に落ちた。唐にはじめて粤州を置き、天寶の初めに龍水郡と改めて嶺南道に属させ、乾封年間に宜州と改め、宋は慶逺軍節度に昇格させ、咸淳の初めに慶逺府と改めた。元は慶元路とし、洪武元年(1368年)にもとどおり慶逺府と改めた。
- 当時、征南將軍の楊文がすでに廣西を平定していた。洪武二年(1369年)、行省の臣が「慶逺府は八番の溪洞に地を接し、管轄する南丹・宜山などは宋・元ともに土酋の安撫使を用いて統べさせていた。天兵が廣西に下ると安撫使の莫天䕶が真っ先に帰順した。宋・元の制にならって登用し民を統べさせれば、蠻情は服しやすく守備兵も減らせる」と言上した。
- 帝はこれに従い、詔して慶逺府を慶逺南丹軍民安撫司と改め、安撫使・同知・副使・經歴・知事を各一員置き、莫天䕶を同知、王毅を副使とした。
- 洪武三年(1370年)、行省の臣が「慶逺はもと府であったが今は安撫司である。その地はみな深山曠野、その民はみな安撫の莫天䕶の一族である。莫天䕶はもとより庸弱で、宗族の強い者が動もすれば跋扈し、河池縣丞の蓋讓を殺すまでに至り、諸蠻と煽動し合って乱をなしている。これを姑息に扱って将来に禍を残してよいものか。安撫司を廃し、もとどおり府を設けて衞を置き、その地を守っていただきたい」と言上し、許された。そこで莫天䕶に京へ赴くよう命じた。
- 洪武七年(1374年)、廣西の土官である莫金に文綺六匹を賜い、南丹州を置いて慶逺府に隷属させ、莫金を知州とした。
- 洪武八年(1375年)、那地縣の土官である羅貌が来朝し、羅貌に知州の事を執らせた。
慶逺――洪武の莫金の叛乱と三衞の設置
- 洪武二十八年(1395年)、都指揮の韓觀が兵を率いて宜山などの縣の蠻寇二千八百余人を捕らえ、偽大王の韋召、偽萬戸の趙成秀・韋公旺らを斬って首を京師に伝えた。当時、嶺南は盛暑で官軍の多くが瘴気で病んだので、帝は韓觀に班師を命じた。
- 南丹の土官である莫金が叛いた。帝は征南將軍の楊文に、龍州平定の後に師を移して南丹・奉議などを討つよう命じた。龍州の趙宗夀は来朝して謝罪し方物を貢した。大軍は進んで奉議を征し、參將の劉真を調えて分道して南丹を攻め破り、莫金を捕らえてその衆を俘虜とした。
- のち寶慶衞指揮の孫宗らを遣わして兵を分けて巴蘭などの寨を撃たせると、蠻獠は恐れて寨を焼いて逃げ去った。官兵が追い捕らえて斬り、蠻の地はことごとく平定された。詔して南丹・奉議・慶逺の三衞を置き、官軍に守らせた。
- 洪武二十九年(1396年)、廣西布政司が「新設の南丹など三衞および富川千戸所は毎年の軍餉が二十余萬石にのぼり、有司の徴収では足りない」と言上した。帝は命じてすべて屯田を置き耕種を給し、まもなく中使を桂林などの府に遣わして牛を購い、南丹・奉議の諸衞の軍士に給した。
- 都指揮の姜旺・童勝が兵を率いて思恩縣の鎮寧などの村洞に至り、叛いた蛮三千余人を殺し捕らえ、一千百余戸を降し、宋の銅印一つを得て献上した。
慶逺――永樂・宣徳・正統
- 永樂二年(1404年)、慶逺府が「忻城・宜山の二縣の洞蠻である陳公宣らが出没して寇をなしている。討ち捕らえていただきたい」と言上した。帝は都指揮の朱輝に自ら赴いて撫諭するよう命じ、陳公宣らは相次いで帰附した。あわせて千三十五戸であった。
- 荔波縣の民である覃眞保が「縣は洪武から今日まで人民が生業に安んじているが、ただ八十二洞の猺民だけが戸籍に編入されていない。今、朝廷が恩を加えて撫綏していると聞き、みな民となることを願っているが自ら申し出る手立てがない。使者を遣わして招撫していただきたい」と言上した。そこで右軍都督府に命じて都督の韓觀に文書を移し、人を遣わして撫諭させ、民となることを願う者には量って賜与を給し、徭役を三年免除した。
- 宣徳五年(1430年)、總兵官の山雲が慶逺の蠻寇を討ち、七千四百を斬って平定した。
- 宣徳九年(1434年)、山雲が「思恩縣の蠻賊である覃公砦らが数年来乱を起こしている。今、都指揮の彭義らに委ねて兵を率いて討ち捕らえさせ、賊首の梁公成・潘通天らを斬って梟した。なお官軍を督して余党を捜索させている」と奏し、帝は敕を賜って慰労した。
- 山雲はまた「慶逺・鬰林などの州縣で蠻寇が出没しており必ず討ち除くべきだが、兵力が足りない」と奏した。帝は廣東都司に命じて近くの衞所の精鋭の士卒千五百人を調え、都指揮一員に委ねて廣西へ赴かせ、山雲の指揮に従わせた。
- 宣徳十年(1435年)、南丹の土官である莫禎が来朝して馬を貢し、綵幣を賜った。
- 正統四年(1439年)、莫禎が奏して言った。「本府が管轄する東蘭など三州は土官の統治で、年来この方、地方は安寧である。宜山など六縣は流官の統治だが、溪峒の諸蠻が絶えず出没する。その由来をたずねれば、流官は近くの良民を撫育することはできても、険を頼んで悪をなす溪峒の諸蠻を抑えることができないからである。彼らが出没するたびに軍を調えて討ち捕らえようとしても、各縣の住民で諸蠻と結んでいる者が先に軍情を漏らすので賊は逃げ隠れ、招撫と聞けば従うふりをしてなお掠奪をほしいままにする。こうして兵は連なり禍は結ばれ、安らかな年がない。臣はひそかに良民が害を受けるのに堪えない。臣を本州の土官のまま知府とし、流官には府の事を総理させて、臣はもっぱら蠻賊に備え、長年害をなす者の捕縛と殲滅に努めたい。その他の者は伍に編み冊を作って調発に応じさせ、険しい岩に拠る者は平地に集めて頼るものを無くし、名望ある者を選んで頭目に立て、心を込めて撫恤し、生業に励ませたい。各村寨にはみな社學を置いて次第に教化し、三十里から五十里ごとに一堡を設けて土兵に守備させ、寇乱があればただちに衆を率いて討ち殺したい。もし賊を除けず地方が静まらなければ、臣を欺罔の罪に問うていただきたい」。
- 帝はその奏を読んで、ただちに總兵官の栁溥に敕して言った。「蠻をもって蠻を攻めるというのは古くからの説である。今、莫禎の奏するところは意がまことに嘉すべきである。彼が本当に力を尽くしてわが辺費を省いてくれるなら、朝廷が官の一つを惜しむことがあろうか。そなたはよく斟酌せよ」。
慶逺――𢎞治以後の土兵と長官司
- 𢎞治九年(1496年)、總督の鄧廷瓚が「廣西は猺獞の数が多く土民の数が少ないうえ、各衞の軍士も十のうち八九まで失われている。征調のたびにすべて土兵に頼っている。東蘭土知州の韋祖鋐の子一人に土兵数千を領させて古田・蘭麻などに田を割り当てて耕し守らせ、古田を平定した後に長官司を設けてこれを授けていただきたい」と言上した。
- 廷議は「古田は省の治所に近接しており、その土地の多くは良民の代々の生業である。もし韋祖鋐の子を土官にすれば、数年後には良民の田税がみなわが手を離れる恐れがある。長官司を設けるならば土民の中から選んで補うのがよい」とした。
- 鄧廷瓚はまた「慶逺府の天河縣はもと十八里であったが、次第に獞賊に占拠され、残った民は八里だけである。分けて一長官司を設けて治めていただきたい」と言上した。部議により永安長官司を増設し、土人の韋萬妙らを正副の長官とし、あわせて流官の吏目一員を置いた。
- 同じ年、忻城縣の流官を廃し、土官の知縣を残して縣の事を掌らせた。これも鄧廷瓚の奏によるものである。
- 𢎞治十二年(1499年)、韋祖鋐が兵五千を率いて思恩の岑濬を助けて田州を攻め、男女八百余人を殺掠し、追い立てて水に溺れ死んだ者は数知れなかった。副總兵の歐磐が田州に赴いて、ようやく兵が解けた。
- 嘉靖二十七年(1548年)、那地州の土官である羅廷鳳が調発に応じて労があったので、襲替(襲職・交替)を認め、京へ赴くことを免じた。
- 嘉靖四十二年(1563年)、猺を平らげた功を録して、東蘭州・那地州の土官の職を授けた。
慶逺――属する州縣と長官司
- 慶逺の領する州は四。河池は𢎞治年間に縣から州に昇格し流官に改めた。東蘭・那地・南丹はいずれも土官である。
- 領する縣は五。忻城は土官である。
- また長官司が三。永順・永定・永安である。
東蘭州
- 東蘭州は府城の西南四百二十里にある。宋の時に韋君朝という者が文蘭峒に居って蠻長となり、子の韋宴閙に伝え、崇寜五年(1106年)に内附したので、蘭州を置いて韋宴閙に知州の事を執らせ、その官を世襲させた。元は東蘭州と改め、韋氏の世襲はもとのままであった。
- 洪武十二年(1379年)、土官の韋富撓が家人の韋錢保を遣わして闕に詣で、元から授かった印を献上し方物を貢した。韋錢保は韋富撓の名を隠して自分の名で上申したので、韋錢保が東蘭州を知ることになった。まもなく韋錢保の徴斂が過酷で民が命に堪えず、韋富撓を担いで乱を起こした。廣西都司が討ち平らげ、韋錢保を捕らえてその罪を正し、その地はもとどおり韋氏に返した。
那地州
- 那地州は府城の西南二百四十里にある。宋の熙寧の初め、土人の羅世念が降り、世職を授かった。崇寧五年(1106年)、諸蠻が土地を納めたので地州・那州の二州を置き、羅氏に代々地州を知らせた。大觀年間に地州を分けて孚州を置いたが、元はもとどおり地州・那州の二州とした。
- 洪武元年(1368年)、土官の羅黄貌が帰附し、詔して那州を地州に併せて那地州とし、印を与えて羅黄貌に土知州を世襲させ、流官の吏目を補佐に付けた。
南丹州
- 南丹州は宋の開寶の初めに土官の莫洪臙が内附し、元豐三年(1080年)に南丹州を置いて諸蠻を管轄させ、代々承襲してきた。元の至正の末に莫國麒が土地を納め、慶逺南丹谿洞安撫使に任じられた。
- 明の洪武初め、安撫使の莫天䕶が帰附し、洪武七年(1374年)に州を置いて莫金に知州を授け世襲させ、流官の吏目を補佐に付けた。莫金が叛いて誅されると州を廃して衞を置いたが、のちその地は瘴気が多いので賓州へ移した。まもなく蠻民が乱を起こしたので、ふたたび土官の知州を置き、莫金の子の莫祿をこれに充てた。
忻城
- 忻城は宋の慶歴年間に縣を置いて宜州に隷属させた。元は土官の莫保を八仙屯千戸とした。洪武の初めに流官の知縣を設け、兵を管する官を廃し、その屯兵を民として戸籍に入れたので、莫氏はそのまま忻城の界へ移り住んだ。
- 宣徳・正統の後、猺獞が荒れ狂い、知縣の蘇寛が職に堪えなかった。猺の長老である韋公泰らが莫保の孫の莫誠敬を土官に推し、蘇寛が上官に請うて具奏し、知縣の世襲を得た。これによって邑には二人の令があって権限が統一されず、流官は空印を握って府城に間借りするだけとなった。
- 𢎞治年間、總督の鄧廷瓚が奏して流官を廃した。土人の韋保が内官となってひそかにこれを後押ししたのである。こうしてはじめて土官だけになった。
永順司・永定司
- 永順司・永定司はもと宜山縣であった。正統六年(1441年)、蠻民が静まらず有司が制御できなかったので、耆民の黄祖記が思恩の土官である岑瑛と結び、地を割いて思恩に帰そうとして知縣の朱斌備に謀った。当時、岑瑛は左江・右江に雄視されており、大将の多くが彼に味方していた。朱斌備も彼を頼って自らを固めようとし、そこで具奏して地を思恩に属させ替えた。
- 土民は服さず、韋萬秀が失地の回復を名として乱を唱えた。成化二十二年(1486年)、覃召管らがふたたび乱を起こし、たびたび征討しても静まらなかった。
- 𢎞治元年(1488年)、官を委ねて撫させたところ、衆は先の地を取り戻して別に長官司を立てることを願った。都御史の鄧廷瓚が上奏して永順・永定の二司を置き、それぞれ長官一・副長官一を設け、鄧文茂ら四人をこれに充てた。いずれも宜山の洛口・洛東の諸里の人である。
- これによって宜山の東南は百八十四村の地を、宜山の西南は百二十四村の地を捨てることになった。議者は「忻城は唐宋以来、内属して二百余年になるのに、一朝にしてこれを挙げて蛮に捨てたのは失策である」と言った。
永安長官司
- 永安長官司は𢎞治九年(1496年)九月、天河縣を分けて置いた。
平樂――沿革と洪武年間
- 平樂ははじめ縣であったが、元の大徳年間に平樂府と改め、明もこれを踏襲した。
- 洪武二十一年(1388年)、廣西都指揮使が「平樂府富川縣の靈亭山・破紙山などの洞の猺二千余人が内地を占拠して耕し、嘯集して掠奪し、住民は擾され、恭城・賀縣および湖廣の道州・永明などの縣の民も害を受けている。近ごろ衞の兵を調えて捕らえようとするとすぐ巖谷に逃げ隠れ、兵が退けばまた跳梁する。臣らは秋の収穫時に部下を統べ、永州・道州の諸軍と合流して賊の境に屯を列ね、その要路を扼し、彼らの植えた穀粟を収めたい。糧食がなければ勢い自ら窮するから、機に乗じて捕らえ殺せば後患を絶てる」と言上し、許された。
- 洪武二十九年(1396年)、富川縣を富川千戸所へ移した。当時、富川千戸所は靄石城に新設されたばかりで、典史が「縣治に城がなく、蠻寇が蜂起すれば守るすべがない。城内へ移すのが便宜である」と言い、許された。
平樂――𢎞治の昭平堡の議
- 𢎞治九年(1496年)、總督の鄧廷瓚が「平樂府の昭平堡は梧州と平樂の間に介在し、猺獞がしばしば出て患いをなす。上林土知縣の黄瓊と歸徳土知州の黄通にそれぞれ子弟一人を選ばせ、土兵各千人を領させてその地に駐屯させ、そのうえで城垣を築き長官司の役所を置き、平樂縣の仙回峒の空き田を割り当てて耕させたい。冠帶千夫長の龍彪は昭平巡檢に改め授け、哨船三十を造って府江を往来して哨戒させ、流官の選任は停止していただきたい」と言上した。
- 廷議は「昭平堡は内地に属するので、土官を増やせば後患を残す恐れがある。まして府江一帯には近ごろすでに按察司副使一員を置いて兵備を整えている。土官をわざわざ差し向けるには及ばない。ただ毎年それぞれ土兵一千を出させて調発に応じさせるだけでよい」とし、詔してその議に従った。
平樂――府江の猺獞と剗馬賊、隆慶の討伐
- 府江には両岸・三洞の諸獞がおり、みな荔浦に属し、千余里にわたって延びている。その間の巣峒が入り組んで猺獞の窟穴となり、江上の諸賊はこれを味方として、日々府江の酋長である楊公滿らとともに荔浦・平樂および峰門・南源を掠め、永安知州の楊惟執を捕らえ、指揮の胡翰、千戸の周濂、土舎の岑文および兵民を数知れず殺した。
- また遷江の北三、來賓の北五はいずれも右江の獞で、これも時に東歐・西里および三都・五都の諸賊と互いに寄り合った。馬が多く人は屈強で、俗に剗馬賊と呼ばれた。つねに兵を陳ねて嶺東へ走り、三水・清逺の諸縣を掠め、帰りには南寧・平南・武宣・來賓・藤縣・貴縣に入って府庫を掠めた。やがて來賓所の千戸である黄元舉を掠め、土吏の黄勝とその子四人および兵七十余人を殺し、さらに明經の諸生である王朝經・周松・李茂・姜集らを殺した。白昼に劫殺が行われ、道は行く人が絶えた。
- 隆慶六年(1572年)、巡撫の郭應聘と總督の殷正茂が討伐を請い、詔して總兵官の李錫に軍を督して進討させ、あわせて東蘭・龍英・泗城・南丹・歸順の諸土兵を調え、土吏の韋文明らに統べさせた。古西・巖口・笋山・古造および兩峰・黄洞などの寨を攻め、賊の首領を斬獲した。余党は仙回・古帶の諸山へ逃げ込んだが捜索してほぼ捕り尽くした。
- そこで北三・北五に檄を移して帰降を促すと、峒老の韋法眞が、掠われていた來賓・遷江の民である䝉演らとともに軍前に詣でて降を乞い、これを許した。そのうえで善後の六策を定めて上申した。
- はじめ荔浦の峰門・南源、修仁の麗壁、永安の古眉の諸巡司は諸獞に奪われていた。ここに至って土巡檢に改め、才武ある者を推挙して選び、冠帶を給して事を管させ、三年間職に堪えてはじめて世襲させることを議した。
平樂――萬歴の譚公□の乱
- 萬歴六年(1578年)、北山の蠻である譚公□(底本欠字)が毒弩を携えて旅人を傷つけてまわり、出るごとに十人・百人と群れをなした。黄勝を殺してからは、さらに一党を集めて三千人で仚鳳山・龜鼈塘に出て、河塘の韋宋武とともに江のほとりに寨を結んだ。
- 当時、義寧・永寧・永福の諸獞が群がり立って殺し掠め、道路が通じなくなった。ちょうど咘咳寨の藍公潺が土吏の黄如金を捕らえてその司を奪ったので、巡撫の吳文華は守巡道の吳善・陳俊に檄して永順・白山の兵および狼兵を徴発して討たせ、横山・咘咳の諸巣を平らげた。諸徭(猺)は侵した地と掠った捕虜を返し、賦を納めて良民となることを願い出たので、そこで班師した。
平樂――右江十寨の帰服と三鎮の設置
- 右江十寨は、隆慶年間に總督の殷正茂が古田を撃ち破ったとき、そのまま檄して八寨に帰降を促し、死を免ぜられた。そこで寨老の樊公懸・韋公良らが軍門に来て謁し、「十寨は合わせて百二十八村、村を囲んで住む者は二千百二十余家、いずれも賦を受けることを願う」と申し出た。
- 右江兵備の鄭一龍と參將の王世科は、「十寨がすでに民となることを願う以上、十家を単位として米一石を賦し、村ごとに甲長一人、寨ごとに峒老一人を立てて徴賦にあたらせるべきだ」とした。そのうえで思古・周安・落紅・古卯・龍哈で一州を立てて向武の土官である黄九疇に属させ、羅墨・古鉢・古憑・都北・咘咳で一州を立てて那地の土官である黄暘に属させ、いずれも土知州とした。
- すでに思恩の守備を周安堡へ移していたが、布政使が不便だとしたので、殷正茂はそこで八寨に長官司を立て、兵八千人を黄暘に属させて長官とし、黄昌と韋富にはいずれも冠帶を給して土舎とし、それぞれ兵二百を引いて守らせることを議した。
- しばらくして十寨はふたたび一党を集めて乱を起こし、民の田産を占拠し、白昼に都市へ入って剽掠し、ついには城を攻め庫を掠め官民を害するに至った。總制の劉堯誨と巡撫の張任は急ぎ兵を統べて進討し、一萬六千九百余級を斬り、器仗三千二百、牛馬二百三十九を獲た。
- 帝はそこで諸土吏の功を昇進・賞賜し、あらためて八寨を分けて三鎮とし、それぞれ一城を建て、東蘭州の韋應鯤・韋顯能および田州の黄馮克を土巡檢とし、兵一千人を留めて戍らせた。三里には二堡を増築し、楊渡水を境として田を開いて屯種させ、南丹衞に道を通じ、慶逺・賓州へ通わせて、思恩と三里が絶えず連絡できるようにした。こうして右江十寨はふたたび安んじて賦を納めた。
平樂――三十二年の乱と平樂の地勢
- 三十二年、桂林・平樂の猺獞が険に拠って乱をほしいままにし、知縣の張士毅を殺し、焼き掠める月がなかった。總督の應檟が總兵官の顧寰に檄して兵を督し進討させ、四百八十四人を捕らえ斬り、男女三百四十、牛馬・器械をきわめて多く俘獲した。守臣が勝報を上げ、あわせて僉事の茅坤、參將の王寵、都指揮の鍾坤秀、參政の張謙、百戸の吳通らの功状を上申し、それぞれ昇進と廕(子孫への恩典)に差があった。
- 平樂は桂林と梧州の境にあり、西北は楚の清湘・九嶷に近く、鬰結して樛(もつ)れ合い、東南は梧州に入る。溪洞の林や竹藪の多くは猺人の盤踞するところであった。たびたびの大征の後、山を切り開いて道を通し、広く周(あまね)き行路とし、さらに樓船を増置し校壘を修繕したので、住民も旅人もみな安んじて席に落ち着き、猺獞もまた次第に文治に馴れていった。
梧州
- 梧州は漢の蒼梧郡である。元の至元年間に改めて梧州路を置いた。
- 洪武元年(1368年)、征南將軍の廖永忠と參將の朱亮祖らが廣東を平定して兵を引いて梧州の境に至ると、元の達嚕噶齊である拜住が官吏・父老を率いて迎え降った。朱亮祖は藤州に駐兵し、そこで潯州・貴州などの州縣が次々に降り附いた。
- 洪武二年(1369年)、南流縣を鬱林州に、普寧縣を容州に併せ、藤州とともにいずれも梧州府に隷属させた。
- 洪武四年(1371年)、梧州守禦千戸所を置いた。
- 洪武二十三年(1390年)、容縣守禦千戸所を置いた。
- 廣西の全省で蒼梧一道だけが土司を持たず、猺の患いもまれであった。
梧州――萬歴の潘積善と懐集の猺
- 萬歴の初め、岑溪に潘積善という者があり、平天王を僭号し、六十三山・六山・七山の諸猺獞とともに山に拠って寇をなした。住民が討伐を請うたが、ちょうど大兵が羅旁を征していて手が回らなかった。總制の淩雲翼が檄して禍福を説くと、潘積善は帰降して賦を納めることを願ったので、その死を免じ、あわせてその子を学に入れた。
- 議者は「七山は蒼梧・藤縣の要地、六山は容縣・北流の要衝、北科は六十三山の咽喉、懷集は賀縣の諸村の出入り口である」とした。そこで五つの大営を立て、一営六百人、合わせて三千人とし、參將および屯堡三十を設けて治めた。
- 懐集の猺賊は正徳年間にすでに十五寨に雄拠し、二百余里を囲んで州縣の患いとなっていた。官軍がたびたび討って帰降させたが、根を張る様は元のままで、しばしば諸峒の蛮と結んで掠奪し、百戸の朱裳および把總の羅定朝を殺した。村民は彼らを恐れて東西に逃げ隠れた。
- 都御史の吳善が總兵の戚繼光に檄して羅定・泗城・都康の諸土司から兵を徴し、五道に分けて、參將の戴應麟らに命じて金鵝・松柏の諸寨を撃たせ、渠魁を斬り、四百余人を撫した。
- 当時、鬱林の猺もまた桀驁で、たびたび諸生猺を糾合して諸村寨を破り、興業縣に寇入した。兵巡道副使の王原相が總制に告げ、兵を調えて撃ち破り、諸猺はことごとく平らいだ。
潯州――沿革と洪武・永樂
- 潯州は、江を潯江といい、東の城門を潯陽といったので、それにちなむ郡名である。
- 洪武八年(1375年)、潯州の大藤峽の猺賊が蜂起し、柳州衞の官軍が捕らえた。
- 洪武二十年(1387年)、知府の沈信が言上した。「府の境は柳州・象州・梧州・藤州などの州に接し、山溪は険峻で猺賊の出没が定まらない。近ごろ廣西布政司參議の楊敬恭が大亨・老鼠・羅渌山の生猺に殺された。官軍が討っても、賊は岩に登り木に攀じること猿のようで追いつけない。長く駐兵すれば瘴癘が時に発して兵の多くが疫にかかり、進取も難しい。兵が退けばまた出て患いとなる。臣が思うに、桂平・平南の二縣に古くから附いている猺民はみな弓弩に慣れ、険阻を歩き慣れている。その少壮千余人を選んで差役を免じ、軍器と衣装を給して、それぞれ村寨に団結させ、烽火を置いて官兵と互いに声援し合い、協同して追捕させれば殲滅できる」。
- 帝は「蠻夷が教化に逆らうのは昔からのことである。ただ防禦を謹んで患いとならないようにすべきだ。もし寇をやめなければ兵を発して討てばよい。何も団寨を作るには及ばない」とした。
- 永樂三年(1405年)、總兵の韓觀が「桂平縣の蠻民が乱をなしている。兵を発して討ち捕らえていただきたい」と奏したが、帝はしばらく撫して兵を用いるなと命じた。
潯州――宣徳・正統の大藤峽
- 宣徳四年(1429年)、總兵の山雲が潯州・柳州の二州の寇を討ち、あわせて寇に従った者二千四百八十人を誅し、境上に梟首した。
- 宣徳七年(1432年)、山雲が桂平などの縣の蠻寇である覃公專らを斬獲した首級の数を奏した。帝は左右を顧みて「蠻寇はわが良民を害する。蟊賊が稲を害するようなもので、除かぬわけにはいかない。しかし殺すことが多すぎるのもまた忍びない。彼らが自ら滅亡を招いたとはいえ、朕は天地の心をもって心とするのである」と述べた。
- 宣徳九年(1434年)、山雲が「潯州などで蠻寇が良民を掠奪したので、指揮の田眞が兵を率いて大藤峽などで前後に九十六級を斬り、掠われていた男女二百三人を返した」と奏した。
- 正統元年(1436年)、兵部尚書の王驥が「桂平の大藤峽などで蠻寇が鄉村を攻め掠めたので廣東の官軍二千人を調えたが、すでに一年を越えて軍器・衣装が損壊している。貴州の諸軍の例にならって交代の支給を与えるべきである」と奏し、許された。
- 正統二年(1437年)、山雲が奏して言った。「潯州府の平南などの縣の耆民が言うには、大藤峽などの山の猺寇が絶えず出没して住民を掠奪し旅人を阻んでおり、山に近い荒れ田は賊に占拠されて耕されている。一方、左江・右江は人が多く食が少なく、その狼兵はもとより勇猛で賊の恐れるところである。頭目を選び委ねて山近くの荒れ田に屯種させ、賊の出没する路を断てば、数年ならずして賊は坐して困り、地方は安寧となる。臣はすでに巡按・諸司と協議し、田州などの府の族目・土兵を割り当てて境を分けて耕し守らせ、土官都指揮の黄竑に領させ、賊が出没すれば協同して討ち殺させることとしたい」。許された。
- 正統七年(1442年)、猺賊の藍受貳らが居る大藤峽の山の険を頼み、大信などの山の山老・山丁数百人を糾合して掠殺した。千戸の潘智らが誘い出して十人を捕らえた。帝は梟首を命じ、その家口は功のあった家に給した。
- 正統十一年(1446年)、大藤峽の蠻賊が鄉村を流れ掠め諸縣を侵犯したことを、巡按の萬節が上申した。
- 景泰七年(1456年)、大藤峽の賊が荔浦などの賊を糾合して縣治を掠め、住民を殺し攫った。總兵の栁溥らに討たせた。
潯州――天順の顔彪の征討と梧州城の襲撃
- 天順五年(1461年)、鎮守廣東中官の阮隨が「大藤峽の猺賊が出没して両廣で悪をなすこと数年、近ごろはいっそう甚だしい。しばしば兵を合わせて討ち捕らえてきたが、地が遼遠であるうえ両廣の軍馬は互いに統属していないため成功しにくい。大挙してその巣穴を衝き、民の患いを絶つべきである」と奏した。そこで都督僉事の顔彪に征蠻將軍の印を佩びさせ、南京・江西および直隸の九江などの衞の官軍一萬を調えてこれに属させた。
- 天順六年(1462年)、顔彪が「臣は軍を率いて大藤に進討し、七百二十一寨を攻め破り、三千二百七十一級を斬り、掠われていた男女五百余口を取り返した」と奏した。帝は敕して奨めた。
- 天順七年(1463年)、大藤峽の賊が夜に梧州城へ入った。当時、總兵官の泰寧侯である陳涇が城中に駐兵し、太監の朱祥、巡按の吳璘、副使の周璹、僉事の董應軫、參議の陸禎、都指揮の杜衡、土官都指揮の岑瑛らと兵の調発を議していた。夜半、賊が梯を掛けて城に登ったが陳涇らは気づかず、そのまま府治に入って庫を掠め囚を放ち、軍民を殺すこと数知れず、城中を大いに掠め、副使の周璹を捕らえて人質とし、訓導の任璩を殺した。
- 陳涇らは慌てて手だてもなく、ただ兵を擁して自衛するばかりで、随行の軍器や賞与に備えた銀・物はみな賊のものとなった。布政使の宋欽はそのとき致仕して家に居たが、身を挺して出て大義を説いて賊を諭し、殺された。
- 夜明けに賊は「官軍が動けば周副使を殺す」と声言した。陳涇らは人を遣わして賊と講和し、夕刻に城から出させた。賊は出てから周璹を返した。当時、官軍は数千いたのに賊はわずか七百であった。
- 都指揮の邢斌の奏が届くと、帝は「梧州はほんの小さな城で、總兵・鎮守・巡撫・三司がみな重兵を擁して城中に駐まりながら、小賊に侮られた。まして大敵に遭ったらどうなるか。そなた兵部はただちに処置を議して行え」と述べた。
潯州――封登の上奏と大藤峽の地形
- 天順八年(1464年)、國子監生の封登が奏して言った。「潯州の江を挟む諸山は険しく切り立ち、峽の中に斗ほどの太さの大藤があって両岸に延び渡り、丸木橋のようになっている。蠻の衆が蟻のように渡るので大藤峽と呼ばれる。最も険悪な地であり、また最も高い。藤峽の頂に登れば数百里がみな眼前にはっきりと見え、軍旅の集散・往来を見渡すことができる。諸蠻はここを奥まった要地としている。 桂平の大宣鄉・崇姜里が前庭、象州の東鄉・武宣の北鄉が後戸、藤縣の五屯が左を、貴縣の龍山が右を、両腕のように守っている。峽の北の巖峒は百を数え、仙人關・九層崖はきわめて険峻である。峽の南には牛腸・大岵の諸村があり、いずれも江に沿って寨を立てている。 藤峽と府江の間は力山で、力山の険しさは藤峽の倍である。さらに南は府江で、その中には暗い巖や奥深い谷、絶壁と層をなす崖が多く、十歩のうち九度は折れ曲がり、足を踏み外せば身を落とす。ここに生まれる猺人の藍・胡・侯・槃の四姓が渠魁である。力山にはまた獞人がおり、毒薬を塗るのが巧みで、弩の矢に中たれば立ちどころに死なぬ者はなく、四姓の猺もこれを恐れている。 景泰以来、嘯集して一萬人に達し、城を壊し吏を殺し、修仁・荔浦・平樂・力山の諸猺がこれに応じて勢いはますます張った。渠長の侯大狗にはかつて千金の懸賞をかけたが得られなかった。鬱林・博白・新會・信宜・興安・馬平・來賓もまた煽動され、至る所が丘墟となって民の害となっている。良将を選び、官軍・狼兵を多く調えて急ぎ賊を滅ぼしていただきたい」。上聞された。
潯州――成化の韓雍・趙輔の大征と斷藤峽
- 成化元年(1465年)、編修の邱濬が両廣の用兵の機宜を条陳した。兵部尚書の王竑が「峽の賊が乱を称して久しいのは、みな守臣が招撫を功としたために大患を醸したのである。大いに懲らしめなければやまない」と奏し、そこで浙江參政の韓雍に文武の才があると薦めた。命じて韓雍を僉都御史とし、都督同知の趙輔を征蠻將軍、和勇を遊擊將軍として、師を率いて討たせた。
- 当時、大藤峽の賊三千余が南平縣を陥れ、典史の周誠を殺してその妻子を攫い、あわせて縣の印を掠め、また藤縣の城に入って官庫を掠め縣の印を奪った。鎮守總兵の歐信がこれを上申した。
- そこで總兵官の趙輔が軍を率いて至り、「大藤の蠻賊は修仁・荔浦を羽翼としている。今、大軍が境に迫っているので、まずそれを討つべきだ」と奏した。そこで諸軍十六萬人を合わせ、五道に分けて進み、まず修仁を破り、力山まで追撃して千二百余人を生け捕り、七千三百余級を斬った。
- 成化二年(1466年)、趙輔・韓雍らが奏して言った。「元年十一月、師は潯州に次した。深く入ってその巣を覆すことを謀り、そこで總兵官の歐信らを調えて兵を五哨に分けて山の北から進ませ、臣および指揮の白全は兵を八哨に分けて潯州から直行して山の南を衝き、さらに參將の孫震に兵を二哨に分けて水路から入らせ、別に指揮の潘鐸らを遣わして兵を分け諸山の隘口を守らせた。十二月の朔日を期して水陸ともに進み、腹背から攻めた。 賊は軍が来るのを知ると先に妻子・銭・米を桂州の横石塘などへ移して隠し、山の南の各寨に柵を立てて固め、木石・鏢鎗・毒弩を用い、険を頼んで拒み守った。官軍は團牌・扒山虎などの器を用い、魚のように連なって進み、士は死を決して戦い、一日のうちに山南の石門・林峒・沙田・古營の諸巣を攻め破り、火を放ってその蓄えを焼いた。賊はみな潰走した。 さらに兵を督して追いすがり、山を削って路を開き、まっすぐ横石塘および九層樓などの山に至った。賊はすでに険に拠って柵を幾重にも立て、また木石・鎗・弩を用いて拒み守った。臣らは疑兵を多く設けて賊を誘い、木石をほとんど投げ尽くさせ、別に壮士を遣わして賊が備えていない高山の絶頂から礮を挙げて合図とし、諸軍は木に縁り蔓に攀じ、蟻のように取り付いて登り、四面から挟み撃った。連日の激戦に賊は支えきれず、寨三百二十四か所を破り、三千二百七級を斬り、侯大狗ら七百八十二人を生け捕り、婦女二千七百十八人を獲た。戦死・溺死した者は数えきれない」。
- そのうえで大藤峽を斷藤峽と改め、石に刻んで記し、天の討伐を明らかにした。勝報が届き、帝は敕を降して褒め諭し、なお趙輔に長策を計議して永く後患を絶つよう敕した。
- まもなく韓雍が「斷藤峽の残賊である侯鄭昂ら七百余人が夜に潯州府城へ入り、軍營と城樓を焼き、百戸所の印三顆を奪い、男女数十人を殺掠したが、ほどなく參將の孫震と指揮の張英が軍を率いて賊魁を撃ち斬り、余党はまた巣へ逃げ込んだ」と奏した。
- そののち韓雍はさらに「諸猺の性は官吏に会うのを憚る。流官で治めるのでは結局は乱を静めがたい」と奏し、武宣縣の東鄉などの巡檢司を改め設けて土人の李昇らを副巡檢とし、武靖州を峽内に設けて上隆州知州の岑鐸に知州の事を執らせ、土人の覃仲英に土官の吏目を世襲させるよう請うた。
- しかし府江の東西両岸、大小の桐江・洛口は斷藤峽・朦朧・三黄などの村や巣と地続きで、道は険しく、衆を集めての掠奪はついに除けなかった。
潯州――正徳の陳金と、王守仁の八寨・藤峽の平定
- 正徳十一年(1516年)、總督の陳金がふたたび両廣の官軍・土兵を督調して六つの大哨に分け、按察使の宗璽、布政使の吳廷舉、副總兵の房閏、鎮守太監の傅倫、參將の牛桓、都指揮の魯宗貫・王瑛にこれを将いさせ、水陸ともに進んで七千五百六十余級を斬った。
- 陳金は「諸蠻は魚と塩を利としているだけだ」と考え、そこで彼らと約して、峽に入る商船は船の大小に応じて魚と塩を与え、蠻は水辺で受け取って去ること𣙜稅(専売の税)のようにさせ、その代わり妨害をさせないこととした。蠻ははじめ利を得て約に従い、道はかなり通じた。陳金はこの法が長続きすると考え、峽の名を永通と改めた。
- ところが諸蠻はこれによって遠慮がなくなり、大いに掠奪をほしいままにし、少しでも意に沿わなければ殺した。因循するうちに猖獗となり、江路が断たれた。
- そのとき總督の王守仁が田州を平定して帰る途中、左江・右江の父老が道を遮って峽の賊に阻まれ害されている状を訴えた。王守仁は上疏して討伐を請い、許された。
- 王守仁は湖南の兵を率いて南寧に至り、日を約して兵を集めた。寇は湖南の兵が来ると聞いてみな逃げ隠れた。王守仁はわざと諸兵を解散させるように見せかけ、寇が緩んで備えなくなったところで、官軍に突進を命じ、油□(底本欠字)・石壁・大皮などの寨を連破した。賊は斷藤峽へ奔り、追撃してこれも破った。賊は横水江を渡って逃げ、溺死する者六百余人、俘虜と斬首もきわめて多く、賊は潰え散った。
- そのまま兵を仙臺・花相・白竹・古陶・羅鳳の諸所へ移すと、賊は支えきれず永安の力山へ逃げ込んだ。官軍は次々にこれを破り、三千余人を捕らえ斬り、俘獲は数知れなかった。八寨は平らぎ、左江・右江はことごとく平定された。
潯州――侯公丁の乱と翁萬達・田汝成の計略
- 王守仁はそこで土官の岑猛の子である岑邦佐を武靖知州として残党を鎮めさせたが、岑邦佐は衆をまとめられず、しかも賊の賄賂を貪ったので、峽北の賊はふたたび猛威をふるった。
- 侯勝海という者が首領となっていたが、指揮の潘翰臣が誘い出して殺した。侯勝海の弟の侯公丁が衆を集めて城下で騒ぎ立てた。僉事の鄔閲と參議の孫繼武が都御史の潘旦に言上して討伐を請うた。參將の沈希儀は「春に江が増水するのを待って流れに乗って下ればこそ賊を破れる」としたが、聞き入れられなかった。
- 鄔閲と孫繼武は千人を率いて撃ちに行ったが賊は逃げ、痩せた寇を一人斬って帰り、いい加減に「賊は退いた」と言い、堡を置くことを請うた。堡ができると、鄔閲は土目の黄貴・韋香に三百人を率いて戍らせた。
- もともと黄貴と韋香は侯勝海の田や家屋を狙って潘翰臣に侯勝海を殺すよう説いたのであり、ここに至って戍りに行くとそのまま侯勝海の田と家屋を奪った。そこで諸猺はみな憤り、岑邦佐もひそかに彼らに味方した。
- 侯公丁はそこで二千余人を嘯集し、夜に乗じて堡城を陥れ、戍兵二百人を殺した。黄貴と韋香は逃げて助かった。巡按が上申して鄔閲と孫繼武を罷免し、潘旦も交代させた。
- 侍郎の蔡經に兵を督して討たせることを命じたが、ちょうど朝議が安南征討に向いたので沙汰やみとなった。侯公丁らはいよいよ横暴となり、時々出て殺掠した。
- しばらくして蔡經は安逺侯の柳珣と協議して兵を発することを決し、兵事を副使の翁萬達に委ねた。翁萬達は百戸の許雄が賊と通じている実状を調べ上げて詰問した。許雄は恐れて自ら力を尽くしたいと願い出た。
- 翁萬達はうわべでは侯公丁をかばうふりをして、侯公丁を訐訟(暴き訴える)した者数人を捕らえて繋いだ。侯公丁は果たして人を遣わして自ら申し開きをした。翁萬達はうわべでこれを許し、また許雄に借金と偽って賄賂を贈らせた。侯公丁は喜んでいよいよ許雄を信じた。
- ちょうど翁萬達が他郡を巡視することになり、事を參議の田汝成に委ねた。田汝成は許雄を召して申し渡した。許雄は侯公丁を騙して田汝成のもとへ出頭して申し開きをさせ、堡を襲った事は他の猺のしわざだと言わせた。田汝成もこれを慰めて帰した。
- そのうえでひそかに含みを持たせ、城中の住民で賊の害を受けた者の家から人を出して侯公丁を殴らせた。市中はみな騒然となり、その騒ぎに紛れて檄を発して侯公丁を逮捕し獄に繋いだ。許雄を遣わしてその一党に「堡を襲った件を侯公丁は諸猺に罪をなすりつけているが、事実か」と諭させた。諸猺は「事は侯公丁から出たものだ」と言い、論罪を承知して敢えて味方しなかった。そこで侯公丁を檻に入れて軍門へ送り、磔にした。
潯州――嘉靖の藤峽再平定と隆慶の右江
- 田汝成はそこで蔡經に「首悪はすでに誅した。勢いに乗じて兵を進め賊を討つべきだ」と言った。そこで副總兵の張經と都指揮の髙乾に左右の二軍を分けて将いさせ、翁萬達および副使の梁廷振がこれを監し、副使の蕭畹が功を記し、參政の林士元および田汝成が糧餉を督した。
- 嘉靖十八年(1539年)二月、両軍が一斉に発した。左軍三萬五千人は六道に分かれて紫荆・石門・梅嶺・木昂・藤沖・大坑などの巣を攻め、右軍一萬六千人は四道に分かれて碧灘・羅淥・上中下洞などの巣を攻め、南北から挟撃した。賊は大いに窮し、衆を擁して林峒へ逃れて東へ向かったが、王良輔が迎え撃って中ほどで断ち、賊はまた西へ奔ったので、諸軍が合わせ撃って大いに破り、千二百級を斬った。羅連山まで追ってさらに百余級を斬った。
- 平南縣には小田・羅應・古陶・古思の諸猺があり、これも険に拠って静まらなかったが、翁萬達らが兵を移して討ち、賊党二百余人を招降した。江南の胡姓の諸猺で帰順した者も千余人であった。藤峽はふたたび平らいだ。
- 隆慶三年(1569年)、右江の諸猺獞がふたたび乱れ、巡撫の郭應聘が糧餉を給して討ち除くことを請うた。給事中の梁問孟は「賊の一党は多く、滅ぼし尽くすことはできない。守臣に熟慮させるべきだ」とした。
- 兵部は次のように言上した。「府江は正徳十二年(1517年)に都御史の陳金が征討して以来ほぼ六十年になるが、右江の北三・北五などの巣はもとより懲らしめを受けたことがなく、人口は日ごとに増えてついに猖獗をきわめている。先ごろ古田を大征したときには各巣がみな威を畏れて身を慎んだが、府江・右江だけは険を頼んで乱をなしている。もしまた放置すれば、八寨・懐逺の招撫を固められないばかりか、古田に二心を抱かせる端緒ともなりかねない。討つのが得策である。ただし兵は万全を期すべきであるから、科臣の懸念するところをそのまま提督の殷正茂および巡撫の郭應聘らに伝え、便宜に行わせるのがよい」。
- 郭應聘はそこで總兵官の李錫らに檄して兵を将いて討たせ、勝報を上げた。
南寧――沿革と洪武年間
- 南寧は唐の邕州である。元は邕州路、泰定年間に南寧路と改めた。
- 洪武二年(1369年)、潭州衞指揮同知の邱廣を總兵官とし、寶慶衞指揮僉事の胡海と廣西衞指揮僉事の左君弼を副として、兵を率いて左江の上思州の蠻賊である黄龍冠らを討たせた。黄龍冠は一名を英傑という。当時、衆一萬余を集めて鬱林州に寇し、知州の趙鑑と同知の王彬が民丁を集めて拒み守った。賊は半月囲んだが陥せず、海北などの衞の官軍が救援に来ると賊は夜に逃げた。上思州の境まで追って破ったが、賊は逃げ帰ってなお集まり解散しなかった。事が上聞され、そこで邱廣らに討たせたのである。
- 邱廣らの兵が上思州に至ると賊は拒み戦ったが、これを撃ち破り、賊に従った黄權らを捕らえた。英傑は十萬山へ逃げたが官軍が追いついて斬り、上思州は平らいだ。
- 洪武三年(1370年)、南寧・柳州の二衞を置いた。当時、廣西省の臣が「廣西は雲南・交阯に地を接し、治めるところはみな溪洞の苗蠻で、性は狠戾で叛くことが多い。府や衞の兵は遠く靖江の数百里の外にあり、急に警報があっても互いに救援しがたい。衞を立て兵を置いて鎮めていただきたい」と言上した。
- また「廣海の風俗はもとより獷戾で、動もすれば互いに仇殺する。これは郡縣に兵がなくて御せないためである。近ごろ盗賊が寇したとき、鬱林の同知が民兵を集めて拒み守り、潯州の經歴である徐成祖もまた民兵千余で賊を破った。土兵は用いられぬものではない。辺境の郡縣に民丁の壮健な者を集めさせ、衣甲・器械を備えて名簿に登録し、有司の管理下に置き、事あれば賊を捕らえ、事なければ農に務めさせていただきたい」と言った。詔してこれに従い、そこで衞を置き兵を増して守禦し、王彬・徐成祖ら功のあった者を賞した。
- 洪武五年(1372年)、宣化で盗が起こって南寧府を掠奪し、詔して廣西の官軍を発して討ち平らげさせた。もともと南寧衞指揮僉事の左君弼が民のうち無籍の者を調べて軍に編入し、また部下を放って山に入って木を伐らせ、民を大いに擾したので、彼らが結んで盗となったのである。ここに至って討ち平らげ、大都督府に左君弼の罪を糾すよう命じた。
南寧――地勢と重鎮の議
- 南寧はもと邕管と称し、牂牁がその西北にそびえ、交阯がその西南に踞し、三十六洞が土地を入り組ませて住み、千里近くにわたって延びている。横山・永平はとりわけ要害で、唐から宋にかけて牙旗を建て帥を置き、桂州と並び称された。
- また郡の地は平らかに広く、数萬の師を宿営させられる。成化の時に田州を征し、安南を経略したときには、いずれもこの地に節(旗じるし)を止めた。
- 後には猺蠻が静まらないため、往々にして狼兵を頼み、急なときは前駆とし、緩やかなときは檄して守禦させた。そのため諸猺は次第に驕り恣となり、すべてを法で縛ることができなくなった。邕の事を議する者は「重鎮を開いて邕州督府の旧に復すべきである」と言っている。
- 南寧の領する州は七。新寧と横州は流官、歸徳・果化・上思州・下雷州・忠州は土官である。
- 領する縣は三。宣化・隆安・永淳である。
歸徳州
- 歸徳州は宋の熙寜年間に置かれ、元は田州路に属した。洪武二年(1369年)、土官の黄隍城が帰附し、知州を授け、流官の吏目を補佐に付けた。
果化州
- 果化州は宋にはじめて置かれ、元は田州路に属した。洪武二年(1369年)、土官の趙榮が帰附し、世襲の知州を授け、流官の吏目を補佐に付けた。
- 洪熙元年(1425年)、果化州の土官である趙英が一族の趙誠らを遣わして馬と方物を貢した。
- 𢎞治年間、州は歸徳とともに田州に侵し削られたので、南寧に隷属させ替えた。
上思州
- 上思州は唐にはじめて置かれ、元は思明路に属した。洪武の初め、土官の黄中榮が内附して知州を授かったが、子孫は叛服が定まらなかった。𢎞治十八年(1505年)に流官に改め、南寧府に属させた。
- 正徳六年(1511年)、土目の黄錙が衆を集めて城を攻め、都御史の林廷選が捕らえて獄に下した。やがて脱獄してまた叛いた。官軍が防ぐと偽って降り、州城を攻め破ったが、ふたたび捕らえられて誅に伏した。
- 嘉靖元年(1522年)、都御史の張嵿が「上思州はもと土官であったのを後に流官に改めたため、土人が乱を称するに至った。もとどおりにして土吏のうち良い者を選んで任じるのがよい」と言上した。議もそのとおりとされ、もとどおり土官に襲がせた。
下雷州
- 下雷州は宋に置かれたが、明の初めに印を失って廃され峒となり、湖潤寨にあって鎮安府に属した。峒長の許永通が調発に応じて功があり、冠帶を給された。世烈・國仁と伝えて峒の事を継襲した。
- 嘉靖七四年、旧印を得た。許國仁とその子の許宗蔭はたびたび戦功を立てた。
- 嘉靖四十三年(1564年)、南寧府に属させ替えた。
- 萬歴十八年(1590年)、地が交南に迫っていることから上奏して州に昇格させ、印を頒ち、許宗蔭の子の許應珪を上判官に授け、流官の吏目を補佐に付けた。
忠州
- 忠州は宋にはじめて置かれ、邕州左江道に属した。元は思明路に属し、明の初めは思明府に属した。隆慶三年(1569年)、南寧府に属させ替えた。