明史卷三百十一 列傳第一百九十九 四川土司
四川土司の総序
- 四川の土司は、その境の多くが蜀から遠く滇・黔に近い。烏蒙・東川は滇に近く、烏撒・鎮雄・播州は黔に近い。
- 明の太祖が辺方を略定するにあたり、まず蜀の夏を平らげて四川布政司使を置き、諸蠻を招諭したので次第に帰附した。それゆえ烏蒙・烏撒・東川・芒部のもと雲南に属していたものも、みな四川に隷属し、年ごとに貢賦を輸めるにとどめ、羈縻の姿勢を示した。
- しかし夷の性は獷悍で、利を嗜み殺を好み、争って競い尚び、焚焼・劫掠を常のこととした。省から遠く隔たって控制できず、附近の辺民はみなその毒を被った。いずれも規模が草創のままで、文武の官を設けて鈐轄させることをせず、彼らが自ら雄長を競うにまかせたためである。天朝の爵号を受けてはいても、実際にはその地に自ら王として臨んだので、明の一代を通じてつねに撻伐に煩わされた。
- ただ建昌・松茂などの地に衛所を設け、播州を遵義・平越の二府に改めて以後は、やや安らかに戢まったという。
四川土司一
篇首の立伝者一覧
- 烏蒙・烏撒・東川・鎮雄 四軍民府
- 馬湖
- 建昌衛(寧番衛・越巂衛・鹽井衛・㑹川衛)
- 茂州衛
- 松潘衛
- 天全六畨招討司
- 黎州安撫司
烏蒙・烏撒・東川・芒部――沿革と洪武の経略
- 烏蒙・烏撒・東川・芒部は、古くは竇地・的巴・東川・大雄の諸甸で、いずれも唐の烏蒙の裔である。宋には烏蒙王に封ぜられた者もあった。元初に烏蒙路を置き、東川・芒部をともに烏蒙・烏撒等処宣慰司に隷属させた。烏撒は富み盛んで諸部の甲であり、元の時には軍民総管府を置き、東川には万戸府を置いた。地勢はいずれも蜀の東南にあって滇・黔と壤土を接し、みな険阻に拠って深く、中土の声教と隔絶していた。
- 明の太祖は蜀を平らげてのち雲南を規取しようとし、大師をみな辰州・沅州に集め、あわせて諸蠻を剪って蜀道を通じようとした。
- 洪武十四年(1381年)内臣に敕を齎させて烏蒙・烏撒の諸部長に諭して言う。西南の諸部は古今を通じて中国に朝貢しないことはなかった。朕は天命を受けて天下の主となって十五年になるが、烏蒙・烏撒・東川・芒部・建昌の諸部長はなお桀驁として朝せぬ。朕はすでに征南将軍潁川侯、左副将軍永昌侯、右副将軍西平侯を遣わして師を率いて征かせたが、なお諸部長が朕の意を諭さないことを恐れて、重ねて内臣を遣わして諭す。罪を悔いて義に向かうなら、ただちに自ら来朝するか、あるいは人を遣わして入貢し、速やかに誠款を披くがよい。朕は兵を罷めて黎庶を安んじよう。よく省みよ、と。
- この時、征南将軍の傅友徳はすでに都督の胡海洋らを分遣して師五万を帥い、永寜から烏撒へ趨らせ、さらに自ら師を率いて曲靖から格孤山に沿って南下し、永寧の兵と通じて烏撒を擣とうとしていた。元の右丞実保は海洋の兵が至ると聞いて兵を赤水河に聚めて拒んだが、大軍が続いて進むと聞くとみな遁げた。
- 友徳は諸軍に城を築かせたが、版牐が整ったところへ蠻の寇が大挙して集まった。友徳は兵を山岡に屯して持重して待ち、士の勇が用いるに足ると知ってから兵を縦って接戦した。芒部の土酋が衆を率いて来援し、実保の兵と合してその鋒はきわめて鋭かったが、大軍は鼓譟して前進し、その酋長の多くが槊に中って馬から墜ちて死んだ。大軍はいよいよ奮い、蠻衆は支えきれず大いに潰えた。斬首三千、獲馬六百。実保は衆を率いて遁げた。
- そこで烏撒に城を築き、星闗を克って畢節に通じ、また可渡河を克った。ここにおいて東川・烏蒙・芒部の諸蠻は震え慴え、みな風を望んで降附した。
- 十五年(1382年)東川・烏撒・烏蒙・芒部の諸衛指揮使司を置き、諸部の人民に、雲南はすでに降附したのだから、いよいよ中国に順を効して昇平を享けるべきだと詔諭した。さらに諸部長に諭して言う。いま郵伝を置いて雲南に通じたい。土人を率いてその疆界の遠近に随って道路を開き築かせ、それぞれ幅十丈とし、古法に準じて六十里を一駅とせよ。符が至れば奉行せよ、と。
- また征南将軍の友徳らに敕して言う。烏蒙・烏撒・東川・芒部の諸酋長はすでに降ったとはいえ、大軍がひとたび還ればまた嘯聚することを恐れる。符の到る日、ことごとくその酋長を送って入朝させよ、と。あわせて、貴州にはすでに都指揮使を設けたが地勢が東に偏っているので、いま実保の居る地に司を立てて控制の便を図るべきだ、卿はこれを審らかにせよ、と諭した。
- やがて烏撒の諸蠻がまた叛した。帝は友徳に諭して言う。烏撒の諸蠻は官軍が散処するのを伺ってこの変を起こした。朕は前からこれを慮っていたが、果たしてその通りとなった。しかし雲南の地は曲靖・普安・烏撒・建昌のように必ず守るべき勢のところがある。東川・芒部・烏蒙はまだ遽かには守れない。しばらく大軍を留屯して諸蠻を蕩掃し、その渠長を戮してこそ、初めて兵を分けて守禦できよう、と。
- そこで安陸侯呉復を総兵、平涼侯費聚をその副として、烏撒・烏蒙の諸叛蠻を征させ、あわせて蠻と関索嶺の上で戦うなと諭した。分兵して掩襲し、直ちにその巣を擣てば、彼らはそれぞれ家を救うに暇なく、必ず出て大師に抗することはできまい。三将軍が至るのを俟って破り禽らえよ、と。
- 七月、副将軍西平侯の沐英が大理から還軍して友徳に会し、烏撒を撃ってその衆を大敗させ、斬首三万余級、獲た馬牛羊は万を数え、余衆はことごとく遁げたのをさらに追撃して破った。
- 帝は友徳らに諭した。師が捷ってのちは必ずその渠魁を戮して畏懼させ、その余党を捜してその根株を絶ち、彼らの智が窮まり力が屈して誠心から款附するようにしてこそ、兵を留めて鎮守できる、と。また兵の勢いに乗じて道路を修治し、土酋にその民を諭して各々糧一石を輸めさせ、軍に給して持久の計とせよ、と諭した。
- 十六年(1383年)雲南に属していた烏撒・烏蒙・芒部の三府を四川布政使司に隷属させた。烏蒙・烏撒・東川・芒部の諸部長百二十人が来朝して方物を貢し、詔してそれぞれ官を授け、朝服・冠帯・錦綺・鈔錠を差を付けて賜った。烏撒の女酋卜実には珠翠を加賜した。芒部知府の発紹と烏蒙知府の阿普が病没したので、詔して綺衣ならびに棺殮の具を賜り、官を遣わして致祭させ、その柩を家に帰した。
- 十七年(1384年)雲南の東川府を割いて四川布政使司に隷属させ、あわせて烏撒・烏蒙・芒部をみな軍民府に改め、その賦税を定めた。烏撒は年に二万石と氊衫一千五百領、烏蒙・東川・芒部はいずれも年に八千石と氊衫八百領を輸めるものとした。また茶・塩・布疋で馬に易える数を定め、烏撒は年に馬六千五百匹、烏蒙・東川・芒部はいずれも四千匹を易えるものとし、およそ馬一匹につき布三十疋、あるいは茶一百斤を給し、塩もこれに準じた。実保がまた馬を貢したので綺と鈔を賜った。
- 十八年(1385年)烏蒙知府の亦徳が、蠻地は刀耕火種であり、近年霜・旱・疾疫が続いて民が飢え窘しみ、年ごとに輸める糧を徴納するすべがないと言った。詔してことごとくこれを免じた。
- 二十年(1387年)烏撒知府の阿能を京に徴した。
- 二十一年(1388年)西平侯沐英に南征を命じた。英は、東川は強盛で烏山の路に拠って乱をなし、罪状はすでに著しいから必ず先に兵を加えるべきだが、その地は関を重ね嶺を複ね、上下三百余里は人跡が阻絶しているので、大兵を以て臨まねばならないと言った。帝は潁国公傅友徳に引き続き征南将軍とし、英と陳桓を左右副将軍として諸軍を率いて進討させた。
- 友徳らに敕して言う。東川・芒部の諸夷は種類がみな玀玀から出ている。その後子姓が蕃衍し、それぞれ疆場を立ててその名を異にし、東川・烏撒・烏蒙・芒部・禄肇・水西と称する。事無ければ互いに争端を起こし、事あれば互いに救援し合う。唐の時、閣羅鳯が亡げて大理に居り、唐兵が追捕して道が芒部の諸境を経たとき、群蠻が衆を聚め険に拠って伏を設け、唐将は備えなくてその計に墮ち、師二十万を喪ったのは、みな将帥に謀が無かったためである。いまはあらかじめ防閑を加え、厳重に備えよ、と。
- 烏撒軍民府の葉原常が馬三百匹・米四百石を征南将軍に献じて軍用に資し、あわせて土兵を収集して従征することを願った。英らが奏聞し、従われた。
- また景川侯曹震・靖寜侯葉昇らに分かれて東川を討たせてこれを平らげ、叛蠻五千五百三十八人を捕獲した。
- 二十三年(1390年)烏撒の土知府阿能、烏蒙・芒部の土官がそれぞれ子弟を遣わして監に入って読書させた。
- 二十七年(1394年)烏撒知府の卜穆が、霑益州がしばしばその地を侵すと奏したので、沐春に諭させた。
- 二十八年(1395年)戸部が、烏撒・烏蒙・芒部・東川の年賦の氊衫が数に足りないので、詔してすでに徴を免じたのに、いま有司がなお追徴していると言い、申明すべきだとして従われた。
- 二十九年(1396年)烏䝉軍民府知府の実哲が馬と氊衫を貢した。これより諸土知府は三年に一度入貢するのを常とし、あるいは恩賜があれば馬と方物を進めて謝恩した。
烏蒙・烏撒・東川・芒部――宣徳から正徳
- 宣徳七年(1432年)兵部侍郎の王驥が、烏䝉・烏撒の土官禄昭・尼禄らが地を争って仇殺しているので、官を遣わして按問すべきだと言った。
- 八年(1433年)行人の章聰・侯璉に敇を齎させて往かせて諭し、なお巡按と三司の官に敕して往いて平らげさせた。烏蒙に儒学教授・訓導各一員を設けた。通判の黄甫越が、元の時に本府にはもともと学校があり、いま文廟は存っているが師儒が建てられていないので、教官を除き、俊秀の子弟を選んで入学読書させ、文治を広めることを乞うたためで、従われた。
- 正統七年(1442年)烏撒軍民府の通判・推官・知事・検校各一員を裁した。
- 十一年(1446年)烏蒙・東川の知事・検校各一員を裁し、あわせて烏撒・烏蒙の遞運所を革めた。
- 景泰元年(1450年)烏撒・烏蒙の諸府の土官普茂らに敇諭した。貴州の諸苗が叛乱し、隣近に滋蔓することを恐れるので、戒厳して防守し、賊衆の誘惑を聴くことなかれ、もし来て逼り犯すことがあればただちに𠞰殺せよ、と。
- この時、烏撒の万寿の表が期を踰えたので部議は究めるべきだとしたが、詔して遠人であるとして宥した。以後、朝貢が期を過ぎたり表箋が届かなかったりした場合も、朝廷はおおむね土官であるとして寛く貸し、賞すべきものにはその半分を給した。
- 天順元年(1457年)鎮守四川中官の陳清らが、芒部の管轄する白江の蠻賊千余人が乱をなし筠連県の県治を攻め囲んでいると奏した。御史の項愫に敇して鎮巡官と会してこれを捕えさせた。
- 成化十二年(1476年)烏撒知府の隴舊らが、同知の剛正は撫字に方があり蠻民が信服している、いま九年の秩が満ちたので再任三年を乞い、群望を慰めたいと奏し、従われた。
- 𢎞治十四年(1501年)烏撒の管轄する可渡河巡檢司が言う。閏二月二十七日から大雷雨が止まず、二十九日に至って水が漲り山が崩れ地が裂け、山が牛の吼えるように鳴り、地が陥って清泉数十派が湧き出し、廬舎・橋梁を衝き壊し、圧死した人口・牲畜は数えきれない。また本府の阿都地方でも八月に暴風雨があり、田土が渰没したところ二百余処、死者三百余人であった、と。
- 正徳十五年(1520年)芒部の𤏡蠻阿又磉らを討ち斬った。初め芒部の土舎隴夀が庶弟の隴政および兄の妻の支禄と襲職を争って仇殺し、所部の𤏡蠻阿又磉らが機に乗じて乱を倡え流劫した。事が聞こえ、鎮守中官に撫按官と会して捕治するよう命じた。ここに至って貴州參政の傅習、都指揮の許詔が永寧宣撫司の女土官奢爵らを督して討ち、阿又磉ら四十三人を禽らえ、一百十九級を斬って事はようやく定まった。
芒部――嘉靖の改流と鎮雄府
- 嘉靖元年(1522年)芒部の護印土舎隴夀に知府を襲がせ、赴京を免じた。故事では土官は九品以上はみな京に保送されてのち襲職したが、この時は隴夀・隴政らが襲職を争って任を離れることを敢えてしなかった。朝廷は嫡であるがゆえに隴夀を立てたのだが、隴夀が赴京すれば隴政らが隙に乗じて乱をなすことを恐れたので、この命があった。
- しかし隴政と支祿は烏撒の土舎安寧らの兵力に倚って従前どおり仇殺した。壩底參將の何卿が巡撫の許廷光に請うて土兵二万五千人を発し、貴州參將の楊仁らにこれを将いさせ、何卿の節制を受けさせ、機を相て進𠞰させた。隴政と支禄は偽って撫を聴き師を緩めることを乞いながら、賊党の阿黒らに周泥站・七星関を掠めさせ、さらに阿核らを遣わして諸苗を糾集し畢節などを剽掠し、官軍を殺傷し官民の房屋を燬くこと甚だ多かった。
- 兵部が、賊の勢いが猖獗なので速やかに征すべきだと言い、そこで何卿らが進𠞰して斬首二百余級、俘二十余人、その衆数百を降した。隴政は敗れて烏撒に奔った。何卿は烏撒の土舎安寧、土婦奢勿にこれを禽らえるよう檄したが、安寧は偽って許諾しながら僅かに阿核らの屍を献じただけで、ついに隴政を出さなかった。兵は久しく解けず、都御史の湯沐が奏聞したので、詔して諸将および守巡官の罪を切責し、何卿の冠帯を革めて賊を𠞰って自ら贖わせた。
- 四年(1525年)隴政が隴夀を誘い殺してその印を奪った。巡撫の王軏、巡按の劉黻がそれぞれこの事を上奏し、黻は蠻情に従って支禄を立てるのが便宜だと言い、軏は隴政・支禄は終始怙り悪を稔らせ、朝廷の命ずる吏を戕った、罪は赦すべからずと言った。そこで鎮巡官に命じて安寧に隴政・支禄および諸々の悪を助けた者を縛らせようとしたが、この時隴政はすでに官軍によって水西で禽らえられていた。芒部の印信を追獲し、前後に斬首六百七十四級、生擒一百六十七人、白烏石など四十九寨を招撫し、捷を奏聞した。貴州巡按の劉廷簠は、烏撒の献じた阿核らの屍および水西の縛った隴政は真偽が信じがたく、首悪がなお在って後の慮れがないとは言えないとして、覈実を請うた。
- 五年(1526年)兵部が奏した。芒部の隴氏の釁は蕭牆に起こり、両省を騒動させ、王師の大挙によってようやく蕩平できた。いまその本属の親支はすでに尽きて承襲する人が無いから、鎮雄府と改め、流官の知府を設けて統べさせるべきである。夷良・毋響・落角・利の地を分属させて懐徳・帰化・威信・安靜の四長官司とし、隴氏の疎属である阿濟・白夀・祖保・阿萬の四人に統べさせ、程番府の例に倣って三年に一度入朝させ、馬十二匹を貢させるべきだ、と。そこで通判の程洸を試知府とした。
- 六年(1527年)芒部の賊沙保らが隴氏の復興を謀り、隴夀の子の勝を擁して衆を糾めて鎮雄城を攻め陥れ、程洸を執えてその印を奪い、数百人を殺傷した。洸は畢節に奔れた。事が聞こえ、兵科給事中の鄭自壁らが、鎮雄は流官を設けたばかりで蠻情がまだ服さないのに、有司が事に先んじる防ぎを失し、急いで遺裔の隴勝を収めなかったために沙保が孺子を擁することを得て一方に禍を煽らせた、速やかに総兵の何卿を遣わし力を併せて寇を𠞰すべきだと言った。
- そこで兵部の覆奏に言う。隴勝は真の隴夀の子ではないから流官を設けることを議したのであるが、有司の撫循が策を失い、ついに叛乱を生じた。沙保の罪は誅しても余りあり、討つべきである。何卿はいま松潘を守っていて勢い相援けがたいから、急いで都御史の王廷相を任に趨かせ、あわせて総兵の牛桓に敕して兵を調して速やかに進ませるべきだ、と。
- 時に沙保は鎮雄府の印を出して降を乞うたが、なお両端を持し、従前どおり土官を立てさせようとした。四川の撫按は、沙保は狡悍で馴らしがたいとして、瀘州守備の丁勇に檄してこれを撃たせ、また使いを遣わして芒部の撫夷郤良佐を労い賜って、計って沙保を禽らえさせようとしたので、沙保は怒ってまた叛した。
- 七年(1528年)川・貴の諸軍が会𠞰して沙保らを敗り、禽斬三百余級、招撫した蠻玀の男女は千を数えた。捷が聞こえ、鎮雄の流官を旧のように設けた。ところが芒部・烏撒・毋響の苗蠻隴革らがまた起こって畢節の屯堡を攻め劫し、士民を殺掠したという報が紛々と告げられた。
- 兵部尚書の李承勛は、伍文定がもっぱら用兵を主張したのを失策だとして疏でこれに及び、御史の楊彛もまた、芒部の改土帰流は長策ではない、しかも折しも荒饉に値して小民は救死に贍らないのにどうして戦に趨けようと言った。時に帝もまた災傷を軫念し、芒部の兵を罷め、秋の実りを俟ってから改めて征討を議するよう令じた。
- そこで四川巡撫の唐鳯儀が言う。烏蒙・烏撒・東川の諸土官はもとより芒部と唇歯の関係にある。芒部が改流されてから諸部は内に不安を懐き、これによって反する者がしばしば起こった。いま懐徳長官の阿濟らは自ら賊を禽らえたと詭っているが、その心は隴勝が一職を得て隴氏の後を存えることを望んでいる。臣は宣徳中に安南を復した故事に倣い、輿情に俯順することを請う。そうすれば兵を借りずとも禍源は自ら塞がる、と。川・貴の巡按の戴金・陳講らも鳯儀の言の通りに奏した。金はさらに、首悪である毋響・祖保らは𠞰誅してその驕気を折り、そのうえで撫処に下すべきである、いま沙保らを生きたまま献ずることを許して阿濟を死なせないこととし、しかるのちに隴勝の故職を復するか、あるいは知州に降し、その長官司は因るか革めるか分属させるかすれば、操縦が宜しきを得て恩威が並び著れると言った。
- 章が部に下されて覆奏され、そこで鎮雄の流官知府を革め、隴勝を通判として鎮雄府の事を署させ、三年の後に果たして職を率いて貢を奉じられれば知府の旧銜に復することを許すこととした。嘉靖九年(1530年)四月のことである。
東川――阿堂の乱
- 三十九年(1560年)東川の阿堂の乱を勘べるよう命じた。
- 初め東川の土知府禄慶が死に、子の位は幼く、妻の安氏が府事を摂した。営長の阿得革は頗る権を擅にし、その官を奪おうと謀り、まず安氏に烝することを求めたが得られず、そこで火を放って府治を焼き、武定州に走って土官に殺された。得革の子の于堂は水西に奔り、賄って烏撒の土官安泰と結び、東川に入って安氏を囚えその印を奪った。
- 貴州宣慰の安萬銓はもとより禄氏と姻を連ねていたので、兵を起こして阿堂の居る寨を攻めてこれを破った。堂の妻の阿聚は幼子を携えて霑益州の土官安九鼎のもとに奔ったが、萬銓は九鼎を脅して阿聚と幼子を取り、これを殺した。堂はこれによって九鼎を怨み、たびたび攻撃し合った。堂の兵が羅雄州の境を侵したので、九鼎および禄位、羅雄土官の者濬らがそれぞれ上書して堂の罪を訟えた。
- 詔が下って雲南・貴州・四川の撫按官に会勘させた。堂は車洪江で勘を聴き、罪に服し、劫し取った府印ならびに霑益・羅雄の人口・牲畜および侵した地を献じて死を貸されることを乞うた。この時、禄位およびその弟の僎はすでに没していたので、官府は禄氏の襲ぐべき者を訊ねたが、堂は自分の幼子を禄哲と詭名して報告し、府印を占拠すること従前どおりであった。さらに九鼎と兵を治めて攻め合ったので、九鼎はこれを雲南巡撫の游居敬に訴え、堂は乱に怙っているとして討伐を請い、しかも自ら所部を率いて前鋒となり必ず堂を禽らえて献じようと詭った。居敬はこれを信じ、そこで上疏して、堂は悪を稔らせて悛めないから、もっぱら進𠞰して地方のために害を除くことを請うた。
- 帝は部議を允し、川・貴の撫按に会勘して具奏させたが、居敬は遽かに土漢の兵五万余を調して進𠞰した。雲南は久しく承平であったので、ひとたび兵が動くと費用は計り知れず、賦斂が百方に出て、諸軍衛および有司・土官・土舍らがこれに乗じて奸利を図り、遠近が騒動した。
- 巡按の王大任が言う。逆賊の堂が印を奪い官を謀ったのは法として必ず誅すべきである。ただし彼はなお朝廷の印を借りて土蠻を約し、禄氏の宗を冒して世職を図っているにすぎず、四川への差税の納入は時を違えず、雲・貴の隣壌にも侵越は見られない。これは叛でないことが明らかである。九鼎と兵を治めて攻め合ったのは、彼此ともに罪がある。居敬は一偏の詭辞を信じ、会勘の明㫖に違い、軽々しく大衆を動かした。意外の患を生ずることを恐れる。しかも外の議は籍々として、居敬は九鼎から重賄を入れて怨みを雪ごうとし、また各土官の賂を受け帑積を攘い盗んだと言い、みな実跡がある。急ぎ居敬を罷め、しばらく征𠞰を停めるのが便宜である、と。そこで居敬を逮えるよう命じた。
- この時、堂は大兵が東川に至ったと聞いて深い箐に逃げ込み、諸将は兵を分けて新旧の諸城で窮捜したが獲られず、地方の民夷は大いに屠掠に遭った。
- 四十年(1561年)営長の者阿易が堂の心腹である母勒・阿濟らと謀り、戛来矣石の地で堂を掩い殺した。その子の阿哲は禽らえられたが、哲はこの時年八歳であった。事は定まったが府印の所在は知れなかった。そこで安萬銓が東川府の経歴の印を取って禄位の妻の寧著に与えて署させ、照磨の印を羅雄土官の者濬に与え、寧著の娘を者濬の子に嫁がせ、なお水西の兵三千を東川に留めて寧著の防衛とした。水西は東川と隣り、萬銓はもと水西の土官であったから、議者は彼に密かに東川を占拠する志があると言った。
- 巡按の王大任は阿堂を誅したことを奏聞し、あわせて言う。東川の地方は残傷し、当府の三つの印はことごとく土官が部置している。川・貴の総督および鎮巡官に通しで敕して各土官が私に擅に標署した罪を按究させ、あわせて祿氏の支派で立てるべき者と阿哲の処置とを訪ね求めさせるべきだ、と。部の覆奏はこれを可とした。
- 四十一年(1562年)四川東川府の印を鋳給した。初め阿堂が誅されてから府印を索めても獲られず、人は安萬銓が匿したのだと疑った。ここに至ってたびたび勘べたところ印は実際に亡失しており、しかも祿位の近い支派はことごとく絶えて、ただ六世祖を同じくする幼男の阿采がいるだけであった。撫按官の雷賀・陳瓚が、阿采に祿氏の職を襲がせ、しばらく同知の銜を与えて寧著に署掌させ、後に果たしてその衆を撫輯できれば知府を進襲させることを請い、その新印は名を改めて奸偽を防ぐことを請うた。㫖があって、名を改める必要はない、その他は議の通りとされた。
- これに先立ち、烏撒は永寧・烏蒙・霑益・水西の諸土官と境土が相連なり、代々婚戚として親しく厚かったが、やがてそれぞれ私に親しむところがあって彼此に禍を構え、奏訐が紛々とした。詳しくは四川永寧土司の伝の中にある。当事者は頗るこれを厭い苦しんだ。萬歴六年(1578年)そこで蠻俗の罰牛の例に照らして処分し、務めて禍を悔い争いを息めて境を保ち民を安んずるよう令じたが、ついに靖まらなかった。
東川・烏撒――萬歴から崇禎
- 三十八年(1610年)東川の土司はあわせて雲南の節制を聴くよう詔した。時に巡按の鄧漾が疏で称した。蜀の東川は武定・尋甸の諸郡に偪り処り、ただ一嶺を隔てるだけで、出没に時が無く朝に発てば夕に至る。その酋長の禄夀・禄哲の兄弟は安忍にして親しむこと無く、日々干戈を尋ね、その部落は劫殺を生業として耕作を事とせぬ。蜀の管轄は遼遠で法紀が疎かになりやすく、滇は我が属内でないとして号令が行われない。これによって驕蹇が習いとなり、目に漢法が無い。いまはただ敕を改めて滇の撫臣に東川を兼制させるほかない、と。よって三つの利を条列して進めた。詔してこれに従った。
- これに先立ち、四川の烏撒軍民府と雲南の霑益州とは、滇と蜀とで管轄を異にしていたが宗派は一源であった。明初、大軍が南下したとき、女土官の実卜と夫の弟の阿哥の二人が衆を率いて帰順したので、実卜に烏撒土知府を、阿哥に霑益土知州を授けた。その後、彼が絶えればこちらが継ぎ、通じて一家となった。
- 萬厯元年(1573年)霑益の女土官安素儀に嗣が無く、土知府禄墨の次子を本州に継がせることを奏した。すなわち安紹慶である。やがて禄墨および長子の安雲龍と二人の孫がみな没したので、安紹慶は次子の安効良を帰宗させて土知府を襲がせることを奏した。安雲龍の妻の隴氏は、鎮雄の女土官者氏の娘である。雲龍は故くなったがなお遺孤があるとし、しかも外家の兵力を挟んで紹慶と敵対した。紹慶の方は、隴氏の生んだ子は明らかに仮子だとし、また霑益の兵力に倚って隴氏と難をなした。彼此に仇殺して一方に毒を流し、士民が連名で上奏した。事は両省に会勘させたが十四年を経ても結着しなかった。
- この年、安雲翔が、隴氏に子の官保があっていま成長した、効良は父の兵の強きに倚って竊拠を図り無辜を殺戮していると奏し、効良を立ててはならぬ理由を数事に極言した。
- 三十九年(1611年)廷臣が川・貴の大吏に勘報させることを議した。貴州の撫臣は、土官の職を争うのは雲南にあるが害をなすのは黔・蜀であるから、必ず三省の会勘を得て初めて獄を定められるとした。帝は速やかに勘べるよう命じた。
- そこで隴鶴書に鎮雄土知府を承襲するよう命じた。鶴書のもとの名は阿卜で、その始祖の隴飛沙が土を献じて帰順し世職の知府を授けられ、五たび伝えて庶魯卜となって果利の地に別居し、さらに四たび伝えて庶禄姑となって夷良七欠頭の地に別居し、また五たび伝えて隴氏の正支は斬えた。水西の安堯臣が禄氏に贅入してこれを奄有しようとしたので衆論が不平とし、安を駆って隴を立てよという奏が起こった。㫖を奉じて隴氏の後を察し立てることとなり、女官の者氏は阿固を挙げた。阿固は魯卜の六世孫で、名を隴に易えて正しくした者である。そこで阿固を立てることを主とし、まずその父の阿章を立てたが、章はほどなく病死し、阿固は夷衆に服されなかった。往復して察勘したところ、者氏および四十八目・十五火頭らが共に阿卜を推した。阿卜は禄姑の五世孫で、みな年長でしかも賢だとし、者氏もまた印を献じたので、ついに阿卜を立てることに定め、阿固を管事に充てた。巡撫の喬應星の議に従ったものである。
- 四十一年(1613年)烏撒の土舎安効良は、初め安雲翔と立つことを争い、朝廷は嫡派であるとして効良を立てた。雲翔はしばしば乱をなして効良を逐おうと謀り、烏撒を焚き劫した。四川の撫按がこの事を上奏し、効良は雲龍の親姪であり雲翔はその堂弟であるから親疎は判然としており、効良が当然立つべきである、雲翔は地方を擾害し朝廷を欺罔した罪はもとより赦しがたいが、奸人に指使されたものであるから情として原すべきである、しばらく冠帯を復することを准すべきだと言い、従われた。
- 四十三年(1615年)雲南巡按の呉應琦が言う。東川の土官禄夀・祿哲が襲職を争って以来、それぞれ部衆を縦って境を越えて劫掠し、千余の衆を擁して両府を剽掠し、十日ばかりの間に村屯を並べ掃った。荼毒でこれほど甚だしいものはまだ無い。撫するか𠞰するかして、禍を養って日ごとに滋らせてはならぬ、と。所司に下して勘奏させた。
- 貴州巡按御史の楊鶴が言う。烏撒の土官は安雲龍が物故して以来、安咀と安効良とが官を争い印を奪って仇殺すること二十年、夷民に統べる者が無く盗寇が蜂起し、堡屯は焼き燬かれ、行賈が絶えることもまた二十年である。つまり官を争い印を奪うのは蜀の土官であるのに、蹂躙され糜爛するのは黔の赤子である。まことに黔に改隷すれば、弾圧も便となり干戈も戢めうる、と。また言う。烏撒は滇・蜀の咽喉の要地である。臣は普安から滇に入って七日でようやく烏撒に達した。見るところ、効良の父の安紹慶は霑益に拠って曲靖の門戸に当たり、効良は烏撒に拠って滇・蜀の咽喉を扼している。父子がそれぞれ一方に拠り、しかも壌地が相接して、間を隔てて鈐制する他の郡県・上司が無い。将来、尾大不掉となることは実に寒心に堪えない。思うに黔には制すべき勢があっても権が無く、蜀には遥かに制する名があっても実が無い。まことに黔に隷するのが便宜だと思う、と。帝は所司に速やかに議するよう命じた。
- 泰昌元年(1620年)雲南の撫按沈敬炌らが言う。蜀の東川はすでに朝命を奉じて兼制されているが、事権が全く相関わらず、禄千鍾・禄阿伽が賊を縦って披猖し患いをなして已まない。つまり東川は蜀に隷していながら相去ること甚だ遠く、滇に隷していなくとも禍は実に隣を震わせる。特に蜀の撫按に敕して、襲替のたびに必ず両省で会勘させ、蜀はその世次を察し、滇もまた侵犯の無いことを按べて初めて起送を許すのがよい。これもまた羈縻綏靜の要術である、と。詔が所司に下された。
- 時に諸土司はみな桀驁で制しがたく、烏撒・東川・烏蒙・鎮雄の諸府は地界が川・滇・黔・楚の間に錯綜し、統轄が分かれて事権が一つでなく、往々にして軼れ出て諸辺の害となった。それゆえ封疆の大吏は紛々と情を陳べて辺隅を安んじることを冀ったが、中枢の臣は動もすれば勘報に諉し、年を彌り月を経ても結局成案が無く、ついに疆事は日ごとに壊れていった。
- 播州が平らいだばかりで永寧がまた叛し、水西が煽り起こると、東川・烏蒙・鎮雄はみな観望して騎牆し、心に疑二を懐いた。ここにおいて安効良は烏撒を挙げて真っ先に安邦彦に附逆し、力を併せて陸廣を攻め、さらに霑益の賊と合して羅平を囲み、霑益を陥れたが、雲南巡撫の閔洪學に敗られた。洪學は兵力が続かなかったので好言でこれを招き、賊を禽らえて自ら贖わせようとし、効良もまた偽って恭順を装った。
- しかし黔の師が陸廣に出、滇の師が霑益に出るのを見ると、水西・烏撒の勢いはすでに騎虎となり、そこで永寧・水西の諸部三十六営と合して直ちに霑益に抵り、城下に対塁すること五日。副総兵の袁善、宣撫使の沙源らが将士を督して力戦し、奇兵を出してこれを破り、効良は敗れて死んだ。
- 効良の妻の安民には子が無く、妾の設白がその爵・その禄を生んだ。二人の婦はもとより仲が悪く、安氏は塩倉に居り、設白母子は抱渡に居た。安氏はそこで効良に代わって土官となったが、その爵を絶やしはしなかった。その爵もまた安氏が安位の姉であるため抗うことを敢えてしなかった。
- 崇禎元年(1628年)四川巡撫が差官の李友芝を遣わし、冠帯を齎してその爵母子を奬賞し、烏撒を管させた。安氏はこの分け方を憎み、初めてその爵を絶とうとした。その爵は夜に安氏の塩倉を襲ったが克てず、設白・その禄とともに東川の界に逃れたが東川に拒まれ、抱渡もまた失った。李友芝が制府に請うて滇の兵三千を発してその爵を援けようとしたが、滇の撫臣は応じなかった。
- 安氏は懼れて霑益土官の安邉を迎えて婚を結び、烏撒を授けてその爵を拒もうと謀った。安邊もまた安氏を娶ってその禄を拒もうとし、催糧を名として建昌に至った。安氏はそこで安邊を迎えて塩倉に至らせ婚を成した。一時は皇々として、水西が必ず霑益・烏撒を糾めて入り犯すだろうと言われた。雲南巡撫の謝存仁がこれを奏聞し、存仁はそこで鎮を曲靖に移して変を観た。安邊と安氏は烏撒衛を復して自ら贖うことを請うた。
- 二年(1629年)総督の朱燮元が漢兵・土兵を調集して霑益に営を列ね、滇の撫臣に兵を会して烏撒の境に進むよう趣した。安邊・安氏は偏橋に逃避し、大兵は塩倉に入って難民一千余人を抜き出して師を還した。安邊と安氏はまた塩倉に還り、人を軍前に遣わして、烏城が克復されるのを俟って身を束ねて命に帰したいと請うたが、意は実は師を緩めることにあった。
- そこで再び発兵して安邊と安氏を逐い、塩倉をその爵に授けた。兵が望城坡に至って賊の哨騎百余に遇い、兵を麾いて奮撃すると賊はことごとく箐の中に奔り、ついに烏撒城を復した。安邊は三十里の外に駐まり、兵を擁して見えることを求めたので、いま身を束ねて誠に帰せと諭したが、邊は夜に遁げ、そのまま塩倉を棄てて九龍囤に入った。烏撒が賊に陥ちてから八年、ここに至って初めて復した。そこでその爵を塩倉に召し、九人の頭目を約束して守らせ、さらに安邊・安氏を献ずることを図らせた。その爵は塩倉が残り燬けているとして烏撒城に移ることを乞い、許された。
- 時にその爵は烏撒知府を署し、その禄は霑益知州を署し、懦稚ではあったが頗る忠順であり、その母もまた頗る主持するところがあって衆の心を得た。安邊はしばしば総督の朱燮元に降を乞い、あわせて水西の安位を藉りて代わりに申し立て、邊は実は紹慶の嫡孫であるから知州を襲ぐべきで、その爵・その禄を罪すべきだと言った。燮元は曲げて調護し、職銜を与えて烏撒を分けて安置しようとしたが、雲南の撫按は堅く執って不可とした。安邊はいまその党に野馬川で兵を勒し、さらに千金でその爵の頭目を誘い、日々霑益・烏撒を併呑する計を図っている。万一その爵が襲われれば烏撒を失って前功はことごとく棄てられる。烏撒を失えば霑益が危うくなり滇全体が動揺する。ただ隣を震わすだけでなく実に切膚の事である、というのである。ついに行われなかった。
- 安邊はそこで安位に師を乞い、これを霑益に納れてその禄を逐った。時に安氏はまだ在った。やがて安氏が死ぬと、安位は安邊と貳心を生じ、その禄はそこで羅彩の手を借り、者布に難を発させたので、邊は一日を移さず遄かに死んだ。その禄が兵を率いて至り、叔父の仇を報ずるのだと詭って言うと、士民の帰する者は流れのようであった。ここにおいてその禄は再び霑益を有したが、廟堂の上ではもっぱら流寇に急で、もはや問うこともできなかったという。
馬湖
- 馬湖は漢の牂牁郡の内地である。龍馬の湖があるので馬と名づけた。唐では羈縻州四とし、総名を馬湖部といった。
- 洪武四年(1371年)冬、馬湖路総管の安濟が子の仁を遣わして帰附した。詔して馬湖路を馬湖府と改め、長官司四を領させた。泥溪・平夷・蠻夷・沐川である。安濟を知府として世襲させた。
- 六年(1373年)安濟が病を告げ、子の安仁に代職させることを乞い、詔して従われた。これより三年に一度入貢した。
- 七年(1374年)馬湖知府の珉徳が弟の阿穆を遣わして表を上り馬を貢した。廷臣が、洪武四年に大兵が蜀に下ったとき、珉徳の叔父の安濟が子を遣わして入朝し、朝廷は世襲の知府を授けた、恩は至って渥い。いま珉徳はその職を襲ぎながら自ら来朝せず弟を遣わすのは、上に奉ずる道ではないと言った。帝はその貢した馬を却けた。
- 十二年(1379年)珉徳が香楠木を貢し、詔して衣と鈔三十錠を賜った。珉徳が来朝して馬十八匹を献じ、衣一襲・米二十石・鈔三十錠を賜った。
- 永樂十二年(1414年)泥溪・平夷・蠻夷・沐川の四長官司が人を遣わして方物を貢し、鈔幣を賜った。
- 宣徳八年(1433年)平夷長官司が、このごろ公廨が火にかかり、およそ朝廷が頒降した榜文、倉庫の税糧・銭帛および案牘がみな救い出せなかったとして罪を免ぜられることを乞い、あわせて馬二匹を献じた。帝は、遠蠻がこれほど恭謹に法を畏れるとはと言い、問わずに置いた。
- 正統二年(1437年)泥溪の土官医学正科の田璣が官蔵の絲鈔を盗み、永樂・宣徳の時の例で辺夷の犯には馬で贖うことを聴す例に援ったので、これを許した。
- 三年(1438年)馬湖府の挙人王有学の吏への充当を免じた。これに先立ち有学は会試に期を過ぎて至らず、例では吏に充てられることになっていた。有学の原籍の長官司が通事を遣わして馬を貢し、罪を宥して太学で肄習させることを乞い、これを許した。
- 𢎞治八年(1495年)土知府の安鰲が罪あって伏誅した。鰲は性が残忍で民を虐げ、口を計って銭を賦し、年に入る銀は万を数えた。土民に婦女があれば多く淫し、妖僧の百足を用いて魘魅して人を殺した。また人をやって平夷長官の王大慶を殺させようとしたが、大慶は聞いて逃れたので、その弟を殺すという横をなした。二十年、巡按御史の張鸞が治めることを請い、実を得て伏誅した。そこで馬湖府を流官知府に改めた。
建昌衛
- 建昌衛はもと卭都の地である。漢の武帝が越嶲郡を置き、隋・唐ではいずれも巂州とした。至徳の初め(756年頃)土番に没し、貞元中に収復し、懿宗の時に蒙詔に拠られ、建昌府と改めて烏・白の二蠻をここに実らせた。元の至元年間に建昌路を置き、また羅羅斯宣慰司を立ててこれを統べさせた。
- 洪武五年(1372年)羅羅斯宣慰の安定が来朝したが、建昌はまだ帰附しなかった。十四年(1381年)内臣に敕を齎させて諭したので、ようやく降った。
- 十五年(1382年)建昌衛指揮使司を置いた。元の平章裕嚕特穆爾らが雲南の建昌から来て馬一百八十匹を貢し、あわせて元から授かった符印を献上した。詔して裕嚕特穆爾に綺衣・金帯・鞾襪を賜り、家人には綿布一百六十疋・鈔二千四百四十錠を賜り、裕嚕特穆爾を建昌衛指揮使とし、月に三品の俸を給してその家を贍わせた。
- 十六年(1383年)建昌の土官安配および土酋の阿派が先後に来朝して馬と方物を貢し、いずれも織金の文綺・衣・帽・鞾襪を賜った。
- 十八年(1385年)裕嚕特穆爾が家を挙げて来朝し、子を入学させることを請うたので、厚く賜って遣った。
- 二十一年(1388年)建昌府の故土官安思正の妻の師克らが来朝して馬九十九匹を貢した。詔して師克に知府を授け、冠帯・襲衣・文綺・鈔錠を賜り、あわせて師克に東川・芒部および赤水河の叛蠻を討つよう命じた。
- 二十三年(1390年)安配が子の僧保ら四十二人を遣わして監に入って読書させた。
- 二十五年(1392年)致仕した指揮の安配が馬を貢したので、詔して配およびその把事五十三人に幣・鈔を差を付けて賜った。
- やがて裕嚕特穆爾が反し、徳昌・㑹川・迷易・柏興・邛部ならびに西番の土軍万余人を合わせ、官軍の男女二百余口を殺し、屯牛を掠め営屋を焼き、軍糧を劫し、衆を率いて城を攻めた。指揮使の安的が所部の兵で出戦してこれを敗り、八十余級を斬り、その党十余人を禽らえた。賊は退いて阿宜河に屯し、転じて蘇州を攻めた。指揮僉事の魯毅が精騎を率いて西門から出て撃ったが、賊衆が大いに集まったので、毅は戦いつつ却き、また城に入って拒み守った。賊が城を囲むと、毅は隙に乗じて壮士の王旱を遣わし、賊の営に突入して賊を斫らせ、賊は驚いて遁げた。
- そこで建昌・蘇州の二軍民指揮使司および㑹州軍民千戸所を置き、京衛および陝西の兵一万五千余人を調して往いて戍らせた。なお将士に互いに応援し伏を設け奇を出すよう諭し、あわせて賊首を禽らえて献ずる者には千金を賞すると諭した。さらに総兵官涼国公藍玉に、裕嚕時穆爾は詭詐であるからその降を信じて師を緩め禍を養ってはならぬと諭した。
- 四川都指揮使の瞿能が各衛の兵を率いて雙狼寨に至り、偽千戸の段太平らを禽らえ、賊衆は大いに潰えた。裕嚕特穆爾は敗れて遁げ、能は兵を督して追捕し、托落寨を攻めてこれを抜き、転戦して前進し、打沖河の三里ばかりのところで裕嚕特穆爾と遇って大いに戦い、またこれを敗り、その衆五百余人を俘え、溺死した者は千余、獲た牛馬は数えきれなかった。官軍が徳昌に入ると、能は指揮同知の徐凱を調して兵を分けて普濟州に入らせて捜捕させ、また打沖河に橋を架け、指揮の李華を遣わして兵を引いて托落寨の余孽を追わせ、進んで水西に至って裕嚕特穆爾の把事七人を斬った。その截路寨の土蠻長沙納的もみな矢に中って死んだ。能は還って天星・卧漂の諸寨を攻めてみな克ち、先後に俘殺した者は千八百余人であった。裕嚕特穆爾は柏興州に遁げ入った。
- 帝は藍玉に諭して言う。裕嚕特穆爾はその逆党である逹勒逹・楊把事らを信じており、あるいは彼らを先に遣わして降らせ、あるいは自ら来て我を覘わせるだろう。密かに防がねばならぬ。その柏興州の賈哈喇の境内の麽些などの部にも、さらに留意を要する、と。賈哈喇というのは麽些洞の土酋である。初め王師が建昌を克つと指揮の職を授けたが、これより裕嚕特穆爾に従って叛したのである。
- 玉が兵を率いて柏興州に至り、百戸の毛海を遣わして計って裕嚕特穆爾およびその子の胖伯を誘い致し、そのままその衆を降し、裕嚕特穆爾を京師に送って伏誅させた。玉はよって奏した。四川は地が曠く山が険しく、西畨を控扼する。松・茂・碉・黎は土畨の出入する地に当たり、馬湖・建昌・嘉定はいずれも要道であるから、みな屯衛を増すべきだ、と。可とされ、玉に班師を命じた。
- 二十七年(1394年)麽些洞の蠻が打沖河の西を寇したので、守堡都督の徐凱がこれを撃ち敗った。
- 二十九年(1396年)威龍土知州の普習が叛した。普習は裕嚕特穆爾の妻の兄である。官軍がこれを捕えようとしたが、普習は流矢に中って死んだ。
- 三十一年(1398年)徐凱らが卜木瓦寨を平らげ、賈哈喇を執えて京師に送って誅した。寨の地は峻険で三面が陡り絶え、下は大江に臨み、江流は悍急で舟を行らせられず、ただ一道だけが辛うじて人の通行を許した。官軍が至るとすぐ上から石を投げるので進めなかった。凱はそこでその汲みの道を断ってこれを困しめ、寇が窮まり促まったところで凱は将士を督してその寨に抵り、力攻してこれを破り、ついに禽らえた。
- そこで建昌路を建昌衛と改め、軍民指揮使司を置き、安氏に指揮使を世襲させたが印は給せず、その居を城の東の郭外一里ばかりに置いた。所属には四十八の馬站があり、大頭・土番・𤏡人子・白夷・麽些・狢□(底本欠字)・猓玀・韃靼・回紇の諸種が山谷の間に散居した。北は大渡に至り、南は金沙江に及び、東は烏蒙に抵り、西は鹽井に訖り、延袤千余里に及んだ。昌州・普濟・威龍の三州の長官をこれに隷属させ、把事四人がありその衆を世々轄し、みな四川行都指揮使司の節制を受けた。西南の土官では安氏がほぼ首と称された。
- 安配の六世孫の安忠に後が無く、妻の鳯氏が指揮使の事を管したが、鳯氏が死ぬと族人の安登が継襲し、また子が無く、妻の瞿氏が事を管して族人の世隆を嗣とした。世隆にもまた子が無く、継妻の禄氏が事を管し、禄氏が死ぬと族姪の安崇業を嗣とした。崇業は禄氏と仲が悪く、そのため那固を養って仮子とした。その奴の禄祈が唆して難を構え、毎年仇殺した。鎮巡官がこれを讞き、那固を殺して禄祈を戍らせ、事はようやく平らいだ。
- 安氏の轄する四駅は、禄馬・阿用・白水・瀘沽で、それぞれ百里ほどの差があった。その涼山・拖郎・桐槽・熱水の諸番は、強弱によって向背した。
- 領する昌州など三長官司は、いずれも衛の東・西・南三百里の内にある。洪武十八年(1385年)土官の盧尼姑・吉撒加・白氏らが帰附し、いずれも世襲の知州とさせたが、裕嚕特穆爾の乱で諸州はみな廃革された。永樂元年(1403年)復置し、ことごとく長官司に改めて、なお建昌に隷属させた。
- 衛に隷属する千戸所は三、禮州・打沖河・徳昌である。禮州は漢の蘇示県、打沖河は唐の沙野城、徳昌は元の定昌路である。
寧番衛
- 寧番衛は元の時に卭都の野に立てられ、蘇州といった。洪武年間に土官の怕兀它が裕嚕時穆爾に従って乱をなしたので州を廃して衛を置き、二十七年(1394年)寧番衛と改めた。環り居る者はみな西番の種であるから寧番といった。冕山千戸所がある。
越巂衛
- 越巂衛は漢の邛都および闌の二県の地である。奴諾城があり、蜀漢の時に諸葛亮が蠻を征して軍を憩わせるために築いたものである。元は邛部安撫招討司を置き、のち邛部州と改めた。洪武中に領真伯が招討使として帰順したので、邛部軍民州と改めた。
- 洪武十五年(1382年)越巂軍民指揮使司を邛部州に置き、指揮僉事の李質に謫戍の軍士を領させて守らせた。二十六年(1393年)越巂衛を置いた。永樂元年(1403年)邛部を長官司に改め、越巂衛に隷属させた。
- 萬歴中、土官の嶺柏が死に、孽子の應昇が印を負って去った。柏の妾の沙氏がこれを争ったが得られず、土目の阿堆らが沙氏を擁して利濟站の廬舎を焼き、兵を擁して城に臨んだ。総兵の劉顯が兵を率いて往いて撫し、沙氏は禍を悔いて阿堆らを殺して自ら贖ったので、顯はそこで印をこれに授けた。のち沙氏が族人の阿祭と淫し、印はまた應昇に奪われた。祭が死ぬと、その子の嶺鳯起が他の番を嗾して應昇を刺殺させた。鎮守官が平蠻の師によって鳯起を誘い縶し、その印を収めて鳯起に従って乱をなした者百余人を誅した。印は帰する所が無く庫に緘じられ、部衆は統べる者が無くほしいままに盗をなした。普雄の部衆姑咱らが勢いに乗じて蜂起し、郵伝は通ぜず遠近が震え恐れた。十五年(1587年)鎮巡官が師を会してこれを討ち、斬馘は千を数えた。鳯起は病死し、その衆は争って帰附したので、平夷・帰化の二堡を置いてこれを居らせた。鎮西千戸所がある。
鹽井衛
- 鹽井衛は古の定笮県である。元初は落蘭部となり、至元中に黒鹽井・白鹽井に閏鹽県を置き、県に柏興府を置いた。洪武中に柏興千戸所と改め、まもなく鹽井衛と改め、また二井に鹽課司を置いた。
- 永樂五年(1407年)馬刺長官司を設けた。その村落には白夷が多く居り、長官は代々阿氏である。洪武の時に帰附して世職を授けられた。地は雲南の北勝州に接し、庶富と称され、人もまた擾やかで馴れている。
- 打沖河守禦中左千戸所。その土千戸の刺兀は洪武二十五年(1392年)賈哈喇征討の際に順を効して帰したので、その子の刺馬非がまた馬を貢して京に赴き、本所の副千戸を授けられた。永樂十一年(1413年)正千戸に陞せ、他の四所と別にした。地は麗江・永寧の二府と隣り、麗江の土官木氏がその地を侵し削ること、ほぼ半ばに及んだ。
㑹川衛
- 㑹川衛は越巂の㑹無県である。唐の上元中に卭都県を㑹川鎮に移し、川原が並び㑹するのでこの名がある。宋は大理に属して㑹川府となり、元は㑹川路を置いて武安州に治し、羅羅斯宣慰司に隷属させた。
- 洪武十七年(1384年)㑹川の土同知馬誠が来朝したので、改めて㑹川府を立て、武安・永昌・麻龍などの州を領させた。二十六年(1393年)㑹川府を革めた。初め裕嚕特穆爾が反したとき、土知府の王春が㑹川を陥れて民居と府治を燬いたので、ここに至ってその城を墮ち、まもなく㑹川衛軍民指揮使司と改め、迷易千戸所を領させた。
- 土官は賢姓で、その先は雲南景東の𤏡種である。その属を徙して来て田を種えさせた。洪武十六年(1383年)帰附し、東川・芒部への従征の労で世襲の副千戸を授けられ、所治の城外に居した。轄するところの𤏡蠻は僅かに八百戸であった。
茂州
- 茂州は古の冉駹国の地である。漢の武帝が汶山郡を置き、宣帝は北部都尉とした。隋は蜀州とし、まもなく㑹州と改めた。唐の貞觀に茂州と改め、宋・元も旧に仍って汶山県に治した。
- 洪武六年(1373年)茂州権知州の楊者七および隴木頭・靜州・岳希蓬の諸土官が来朝して貢した。
- 十一年(1378年)茂州衛指揮使司を置いた。時に四川都司が兵を遣わして灌県の橋梁を修めさせ、陶闗に至ったところ、汶川の土酋孟道貴がこれを疑って部落を集め、陶関の道を阻んだ。都司は指揮の胡淵・童勝らを遣わして兵を統べさせ、二道に分けて撃たせた。一は石泉から、一は灌口からである。灌口からの軍が進んで陶関に次ると、蠻衆が両山の間に伏して崖の下に石を投げたので兵は進めなかった。ちょうど汶川の土官が降ってきてその間道を得たので、勇士を選んで旗と甲を捲かせ夜に乗じて密かに両山の後ろに出し、明け方に山頂から旗幟を張り火砲を発したところ、蠻は驚いて潰えた。師が雁門関に進むと道が険しく蠻がまたこれに拠ったので、平野に駐まり小舟を得て渡り、龍止鐵冶寨に至ってこれを撃ち破った。石泉からの軍は泥池に次り、蠻が衆を挙げて拒んだが、千戸の薛文が陣を突いて射て却け、士卒が奮撃して大いにその衆を敗った。両軍はついに茂州で会し、楊者七が迎え降った。者七に引き続きその州を領させ、詔して茂州衛を立て、指揮の楚華を留めて兵三千を将いて守らせた。
- 十五年(1382年)者七が密かに生畨と結び、日を約して伏兵を置き城を陥れようとした。小校が密かに告げたので、そのまま発兵して者七を捕えて斬った。生畨はこれに気づかず期の通り入寇したが、官軍が掩撃してこれを敗り、ここにおいて羌民をことごとく城外に徙した。
- 正徳二年(1507年)太監の羅籥が、茂州の管轄する卜南村・曲山などの寨が白人となって糧差を納めることを願っていると奏した。その俗では白を善、黒を悪とする。禮部は覆奏して、畨人が化に向かうのだから入貢させて賞を給すべきだとし、従われた。
- 十四年(1519年)巡撫の馬昊が松潘の兵を調して小東路の番寨を攻めたところ、茂州の核桃溝・上下関の番蠻が懼れ、そこで白石・羅打鼓の諸寨の生番を糾めて城堡を攻め囲み、游撃の張傑が敗績した。
- 十五年(1520年)巡撫の盛應期が、綽頭畨が松州を犯したが総兵の張傑がこれを克ったと奏した。また雄溪屯を犯したが指揮の杜欽がこれを敗り、烟崇などの寨がみな降った。
- 萬歴十九年(1591年)威州・茂州の諸番が乱をなして新橋を攻め破り、勢いに乗じて普安などの堡を囲んだ。四川巡撫の李尚忠が諸路の兵に檄して追剿させ、河を過ぎて普安の諸堡は保全を得た。
- 茂州の地方は数千里、唐の武徳に郡を改めて㑹川とし、羈縻州九を領したが、前後いずれも蠻族で、もとより城郭が無かった。宋の熙寧中、范百常が茂州を知ったとき、民が築城を請い、蠻人が来て争ったので、百常はこれと拒み、戦いつつ築いてようやく城が立った。宋から元に至るまでみな羌人に拠られ、州県を置かないこと二百年近くに及んだ。
- 洪武十一年(1378年)蜀を平らげて疊溪右千戸所を置いて茂州衛に隷属させ、また威茂道を置いて茂州に開府させ、游撃を分けて疊溪に駐めさせ、規防が初めて立った。しかし東路の生羌のうち白草が最も強く、また松潘の黄毛韃と相通じ、出没して寇をなすことが相沿って絶えなかったという。
- 西域に通ずる要路は桃坪で、すなわち古の桃関である。縄橋があって江を渡る。桃坪を守るのは隴木司である。
- 茂州の長官司は三、隴木・靜州・疊溪である。
- 隴木長官司。その長官は隴木里の人である。洪武の時に帰附して承直郎を授かり世襲の長官となり、年に馬二匹を貢した。所属の玉亭・神溪の十二寨はいずれも編氓とされ、保長がこれを統べた。
- 靜州長官司。その地は唐の悉唐県である。その長官もまた靜州里の人である。襲官と貢馬は隴木と同じ。正徳の間、岳希蓬節孝と乱をなして茂城を攻め、水道を断つこと七日に及んだが、節孝の弟の車勺が密かに水を引いて我が軍を済った。事が平らいでから車勺に襲職させた。轄する法虎・核桃溝の八寨はいずれも編戸として氓とし、やはり保長がこれを統べた。
- 疊溪千戸所は永樂四年(1406年)に置き、長官司二を領した。疊溪は治の北一里に、鬱即は治の西十五里にある。疊溪の郁氏は洪武十五年(1382年)に帰附し、印を給されて世襲となり、三年ごとに馬四匹を貢した。長官の轄する河東の熟番八寨はいずれも大姓および馬路・小関の七族である。その土舎は河西の小姓六寨を轄した。地は広遠で畜産と稞麥に饒み、路に積み、人はみな梟黠で、名は熟番でも生番と等しかった。鬱即の長官噉保は萬歴十八年(1590年)黒水・松坪とともに兵を称して新橋を攻め、翌年(1591年)伏誅した。漢関墩附近の諸小姓はもと鬱即に属していたが、ここに至って疊溪に改属させた。初め都督の方政が歴日の諸寨を平らげて長寧安撫司を設け松潘に隷属させたが、正統元年(1436年)に至って総兵の蔣貴がその遼闊なことを言い、これも疊溪守禦千戸に改隷させた。
松潘
- 松潘は古の氏羌の地である。西漢は護羗校尉をここに置いた。唐初に松州都督を置き、廣徳の初めに吐蕃に陥ちた。宋の時、吐蕃の将潘羅支がこれを領して潘州と名づけた。元は吐蕃宣慰司を置いた。
- 洪武十二年(1379年)平羌将軍・御史大夫の丁玉に命じてその地を定めさせ、これに敕して言う。松潘は僻して万山に在り、西戎の境に接する。朕はどうして兵を窮めて遠くを討とうとしようか。ただ羌戎がしばしば辺を寇するので、征するのはやむを得ないのだ。いま捷報が至り、松州がすでに克たれたことを知った。ゆるゆると容州に資糧を将い、進んで潘州を取れ。三州の地を尽くせば、疊州は兵を窮めずとも自ら来服するだろう。士の勇なる者を択んで納都・疊溪の路を守らせよ。その駅道に阻遏の無いところは守るに及ばぬ。降ってきた諸戎の長は必ず遣わして入朝させよ。朕が親しく撫諭しよう、と。
- そこで潘州を松州に併せ、松州衛指揮使司を置いた。丁玉は寧州衛指揮の髙顯を遣わしてその地に城を築かせた。
- 十三年(1380年)帝は松州衛が遠く山谷に在って屯種が足らず、餽餉が難しいとしてこれを罷めるよう命じた。まもなく指揮の耿忠がその地を経略し、松州は番と蜀の要害の地であるから罷めてはならぬと奏したので、復置を命じた。
- 十四年(1381年)松潘等処安撫司を置き、龍州知州の薛文勝を安撫使とし、秩は從五品とした。また十三族長官司を置き、秩は正七品とした。勒都・阿昔洞・北定・牟力結・蛒匝・祈命・山洞・麥匝・者多・占藏先結・包藏先結・班班・白馬路である。
- その後さらに松潘に隷属した長官司は四、阿思・思囊兒・阿用・潘斡寨であり、安撫司は四、八郎・阿角寨・麻兒匝・芒兒者である。のちに思曩日安撫司も附された。諸長官司は三年ごとに入貢し、賞賜は例の通りであった。
- 十五年(1382年)占藏先結などの土酋が来朝して馬一百三匹を貢し、詔して綺・鈔を差を付けて賜った。
- 十六年(1383年)耿忠が、臣の轄する松潘等処安撫司に属する各長官司は、その戸口の数によって民力を量り、年ごとに馬を納めさせて駅を置き、その民を籍して駅夫に充て徭役に供させるべきだと言い、従われた。やがて松潘の羌民が乱をなしたので官兵が討ち平らげ、松州および疊溪の城を甃った。
- 十七年(1384年)松潘八積族の老虎などの寨の蠻が乱れ、官兵が撃ち破って馬一百二十、犏牛三百、氂牛五百九十を獲た。景川侯の曹震が、良馬を択んで京師に貢し、余りは軍に給し、犏牛・氂牛は中国の畜うところでないので糧餉に易えて軍を犒わせることを請い、従われた。
- 十八年(1385年)松州の羌が反し、成都衛指揮の成信らが兵を率いてその牟力などの寨を攻めて破った。兵が還るとき、また道で賊三千人に遇い、これも撃ち敗り、乞刺河まで追ってから還った。
- 二十年(1387年)松州衛を松潘等処軍民指揮使司と改め、松潘安撫司を龍州と改めた。
- 二十一年(1388年)朶貢の生番則路南向らが草地の生畨千余人を引いて潘州阿昔洞長官司を寇し、人口を殺傷した。指揮の周助が馬歩の軍を率いて松潘衛の軍とともにこれを討ち、番の寇は衆を率いて迎え戦ったが、千戸の劉徳がこれを破り、斬首三十四級、獲馬三十余匹。賊は潰えて河を渡り四十余里、また敗卒を収めて屯聚したが、指揮の周能が追撃して斬首一百三十余級、獲馬六十余匹、溺死した者は甚だ多く、群番は遠く遁げた。
- 二十六年(1393年)西番の思曩日などの族が来帰し、馬百三十匹を進めた。金銅の信符を給し、あわせて文綺・襲衣を賜るよう命じた。
松潘――宣徳の兵乱と正統以後
- 宣徳二年(1427年)麻兒匝の順化喇嘛著八讓卜が来帰したので、麻兒匝安撫司を置き、喇嘛著八讓卜を安撫とした。麻兒匝は阿樂の地にあり、松潘を去ること七百余里である。初め著八讓卜はしばしば辺民を侵掠し、また八郎安撫司の朝貢の路を遮った。松潘衛指揮の呉瑋が人を遣わして招いたので、そこで姪の完卜を遣わして来貢し、その地は広く民は衆く八郎に勝るので宣撫司を置いて轄させることを請うた。帝は安撫を置くよう命じ、敕を遣わして諭した。
- 四川の巡按らが、松潘衛の轄する阿用などの寨の蠻寇が万余の衆を擁して官軍を傷け敗ったとして討伐を請うた。帝は、辺将に必ずこれを激した者がいるはずだと思った。やがて四川都司の奏が至り、番の寇ではなく、実は千戸の錢宏が、松潘の官軍を調発して交阯征討に往かせようとしたところ衆が行くことを憚ったので、宏が偽って番の寇が至ったから追捕すべきだと言って調発を免れることを冀い、さらに軍を領いて麥匝の諸族に突入して牛馬を逼り取ったために番人が忿り怨んだ、しかも大軍が討伐しようとしていると懾したので番衆が驚き潰え、黒水の生番と約して乱をなしたのだと言った。
- 帝は宏らを逮えるよう命じ、諸司が辺務に怠玩であったことを責め、急いで官軍を傷けた者たちを捕えさせた。都指揮僉事の蔣貴を遣わして松潘衛指揮の呉瑋とともに番の寇を招撫させ、附近の諸衛の軍二万人を調して行かせた。
- 時に賊は松潘・疊溪・茂州を囲んで索橋を断ち、官軍は戦ってみな敗れ、賊は出て緜竹などの県を掠め、官署・民居はみな焚燬され、鎮撫の侯璉が死んだ。蜀王が護衛の官校七千人を遣わして来援した。都督の陳懐と指揮の蔣貴らに師を合わせて急ぎ討たせ、あわせて宏を松潘で梟して徇え、諸将で貪淫・玩寇の者を竄した。
- 三年(1428年)陳懐らが諸軍を率いて圪答壩・葉棠関でしばしば賊を敗り、永鎮などの橋を奪い、疊溪を復し、祁命など十族を撫定し、また渇卓など二十余寨を招降して、松潘は平らいだ。
- 八年(1433年)八部安撫司および思囊兒十四族の朝貢の使が陛辞したとき、敕を齎して還り、その土官に、轄する蠻民を約束し分を安んじ理に循い、過ちをなして罪戾を取ることのないよう諭させた。
- 九年(1434年)指揮僉事の方政・蔣貴らに敕して松潘を撫𠞰させた。政らが至って禍福を榜諭すると、威州・茂州の諸衛はみな命を聴いたが、ただ松潘・疊溪の轄する任昌・巴猪・黒虎などの寨だけが化を梗した。政は指揮の趙得・宮聚らに命じて順次に進兵させ、龍溪など三十七寨を平らげて班師した。蔣貴に征蠻将軍の印を佩びて松潘を鎮守するよう命じた。
- 十年(1435年)貴が、このごろ番人が靖まらないため松潘・疊溪の諸処の倉糧が支銷して尽き、別に儲積が無いと奏した。帝は戸部に、四川の年運の数から二分を量り増して給するよう命じた。
- 正統三年(1438年)巖州長官司の讓達が乱をなして雜道の諸辺を侵したので、雜道長官の安白が朝に訴えた。帝は四川の三司に往いて諭させ、みな帰服した。
- 四年(1439年)松潘指揮の趙得が、祁命族の番寇商巴が乱をなしたので官軍が捕え禽らえたが、その弟の小商巴がまた浦江・新塘などの関に聚まって険に拠り劫掠していると奏し、大軍を発して𠞰除することを乞うた。帝は李安を総兵官、王翺を參贊軍務とし、成都左衛の官軍および松潘の土兵あわせて二万人を調して征させた。やがて翺は商巴が都指揮の趙諒に陥れられたことを知り、そこで諒を按じて誅し、商巴らを釈し、事はそのまま已んだ。
- 九年(1444年)松潘指揮僉事の王杲が、このごろ黒虎などの寨の番蠻が椒園・松溪などの関堡を攻め囲んで官民を殺傷しているので禽𠞰したいが、各寨が驚き疑うことを恐れる、賊を禽らえた者には重賞を与えると諭すべきだと奏し、可とされた。
- 十年(1445年)黒虎寨の賊首多児太が伏誅した。初め多兒太は茂州の境を掠めて官軍に獲られたが、誡めて釈された。まもなくまた諸寨を糾めて入り掠めたので、帝は序班の祁全を遣わして諸寨に諭させ、多兒太を禽らえて京に至らせ、その首を梟した。
- 十一年(1446年)寇深を僉都御史として松潘の兵備を提督させた。時に松潘はみなすでに化に向かっていたが、ただ歪地・骨鹿族の二十寨だけが服さなかったので、髙廣・王杲らを督してこれを𠞰させた。思曩日安撫司を設けて阿思観をこれに充て、松潘衛に隷属させた。これに先立ち、阿思観の父の端葛が洪武中に帰順して金牌を給され番を撫し、阿思観に至ってもよく招撫したので、この命があった。
- 景泰三年(1452年)鎮守松潘の刑部左侍郎の羅綺らが、雪兒卜寨の賊首卓時芳ら、烟崇寨の賊首阿兒結らが累年安化関で糾合して劫掠していたので、臣が師を会してその巣穴に抵り、斬首は数えきれず、卓時芳・阿兒結らを生け捕って市で梟斬したと奏した。
- 七年(1456年)提督松潘の羅綺がまた奏した。松潘の土番の王永は習性が兇獷で、かつてその土官の髙茂林の男女五百余口および故土官の董敏の子伯浩ら二十余人を殺した。いままた番蠻を糾合して地方を攻め劫したので、臣は指揮の周貴らと官軍を統領して直ちに桑坪に抵り、すでに永らを誅滅して辺境は粛清した、と。敕を降して襃賞した。
- 天順五年(1461年)番衆が龍安・石泉などに入って糧道を擾した。
- 六年(1462年)松潘総兵の許貴に敕して言う。敘州の蠻賊が出没して患いをなし、松潘より甚だしい。急ぎ往いて会𠞰せよ、と。貴は命を聞いて兵を会し、敘州で追討し、昔乖・件莫洞・都夜の三寨を分兵二哨で克ち、硬寨四十余を克ち、斬首一千一百余級であった。
- 成化二年(1466年)鎮守太監の閻禮が、松・茂・疊溪の轄する白草壩などの寨の番羌が衆五百人を聚めて龍州の境を越えて剽掠したと奏した。白草番というのは唐の吐蕃贊普の遺種で、上下あわせて十八寨あり、部曲はもとより強く、その険阻を恃んで往々に剽奪して患いをなした。
- 四年(1468年)禮がまた、白草の諸番が衆を擁して安県・石泉などを寇したが、各軍がみな山都掌蠻の征に調されていたため指揮の王璟の備禦が謹まなかったと奏した。副総兵の盧能に𠞰させ、能は指揮の閻斌を遣わして辺を巡らせたが、廟子溝で番賊三百が突然至り、殺傷は相当し、斌は失機で逮治された。
- 九年(1473年)巡撫の夏塤が、黒虎寨の賊首夜合らが関堡を劫し攻めたので、左參將の宰甪、兵備副使の沈琮が兵を督して松溪堡に馳せ詣ってこれを敗り、夜合ら三十六級を斬獲したと奏した。松潘指揮僉事の堯彧も、臣が兵備の沈琮と分かれて白馬路・水土茹兒などの番寨を𠞰し、大いに克ったと奏した。
- 𢎞治二年(1489年)松潘の番寇が平夷堡の官軍を殺傷したので、指揮以下の各官を逮えて治めるよう命じた。
- 三年(1490年)思曩日安撫など十六族の翌年の朝覲を免じた。守臣がその地方の災傷を言ったためである。
- 七年(1494年)松潘の空心寨の畨賊が辺を犯し、都指揮僉事の李鎬がこれを敗った。
- 十三年(1500年)畨賊が松潘の壩州坡に入り犯し、関に抵って勢いがいよいよ獗であった。指揮の湯綱らを逮えるよう命じ、巡撫の張瓚に敕して漢・土の官兵五万を調し、東南の二路から分かれて剿らせた。白羊嶺・鵞飲溪など三十一寨を破り、四百余級を斬り、商巴ら二十六族はみな款を納れた。
- 十四年(1501年)さらに黄頭・青水の諸寨を攻め、前後に殺獲した男女は七百余人、その碉房九百を赭め、崖から墜ちて死んだ者は数えきれなかった。諸番はやや靖まった。
- 正徳元年(1506年)巡撫の劉洪が、祈命族の八長官司の摂する番衆は多いもので三十寨、少ないものでも二十余寨あり、松潘の両河に環り布いている、その土官がすでに死んだ場合、子孫が当然承襲すべきだが、いまは察勘して原の降された印信のある者にのみ襲を許すべきだと奏し、可とされた。
- 十六年(1521年)松潘衛の熟番八大禳らが乱をなし、同知の杜欽がこれを平らげた。
松潘――嘉靖以後と龍州
- 嘉靖五年(1526年)都督僉事の何卿に松潘を鎮守するよう命じた。時に黒虎の五寨および烏都・鵓鴿の諸番が叛したが、卿は順次にこれを平らげ、降る者が日ごとに至った。卿は威望があって鎮に在ること十七年、松潘は寧んじた。二十三年(1544年)北の警により卿を召して入衛させ、これに継いだ李爵・髙岡鳯はまもなくいずれも巡撫に劾されて罷められた。
- 二十六年(1547年)改めて卿に往いて鎮するよう命じた。時に白草の番が乱れ、卿は巡撫の張時徹と会して討ち、渠悪数人を禽らえ、俘斬九百七十余級、営寨四十七を克ち、碉房四千八百を毀ち、獲た馬牛・器械・儲積は数えきれなかった。嘉靖の世を通じて松潘の鎮は人を得たと号され、辺境は安堵した。
- 初め龍州の薛文勝が洪武六年(1373年)に降り、引き続き龍州を知らせるよう命じた。松潘安撫司を置くと文勝を安撫使とし、松州衛を置くと松潘をまた龍州とした。
- 宣徳七年(1432年)龍州を宣撫司に陞せ、土知州の薛忠義を宣撫使とした。龍州は漢の陰平道である。宋の景定の間、臨邛の進士薛嚴が来てこの州を守り、捍衛の功で世襲を得た。薛宣勝が帰附するに及び、その部長の李仁廣・王祥もみな糧餉を輸めて功があったので、やはり世襲を得た。宣徳中、松潘征討の功で州を宣撫使に陞せ、仁廣を副使、祥を僉事とし、それぞれ兵五百を統べて白馬・白草・木𤓰の番地を世々守らせた。
- 嘉靖四十四年(1565年)に至り、宣撫の薛兆乾と副使の李蕃とが互いに仇訐し、兆乾は衆を率いて蕃の父子を囲み執えて毆り殺した。撫按が兵備僉事の趙教に檄してその事を勘べさせると、兆乾は懼れて母の陳氏および諸々の左右と白草の番衆数千人を糾め、分かれて各関隘に拠って命を拒み、松潘の餉道を絶ち、僉事の王華を脅したが従わなかったのでその家を屠り、居民で焚掠された者は数えきれなかった。この年の春、官軍と戦って利あらず、上下十八族の畨蠻に救いを求めたがみな応じなかった。兆乾は家属を率いて石壩に奔ったが官軍が追い及んで禽らえた。
- 四十五年(1566年)兆乾が伏誅し、その家を籍し、母およびその党二十二人はみな同謀として斬に論じ、余党はことごとく平らいだ。そこで龍州宣撫司を龍安府と改め、馬湖と同じく流官を設立し、保寧の江油、成都の石泉の二県を割いて分属させた。
- 萬厯八年(1580年)雪山国師の喇嘛ら四十八寨が北辺の部落を勾いて寇をなし、漳臘を囲んだ。守備の張良賢がこれを破った。鎮虜を犯したとき百戸の杜世仁が力戦して城は全きを得たが、世仁は死んだ。また制臺を犯し、良賢がまたこれを撃ち、思答弄まで追って連戦して大いに破り、火落赤の姪の小王子が死んだ。
- 十九年(1591年)巡按の李化龍が、松潘は四川の屏蔽であり、疊溪・茂州は松潘の咽喉である、番戎が梗をなすと松潘の力では支えきれないから、四川総兵を松潘に移して防禦に備えるべきだと言った。この時、疊溪・茂州の諸番衆が糾結して乱をなし、鎮巡官が兵を率いて𠞰し、俘馘八百余級。番の寇もまたその部長の黒卜・白什らを斬って功を献じ罪を贖った。しかし松坪の諸悪が大雪山の頂に屯拠したので、諸将卒が捜討してやはり斬獲があり、捷を奏聞した。そこで平武県を龍安府に設けた。
- 松潘は孤城を以て絶域に介し、一綫の饋運の路を龍州に寄せているので、制守は難しかった。洪武の時にはこれを棄てようとしたことが数度あったが、形勝の扼険であるため罷めることができず、そこで内には屯務を修め、外には羌戎を輯め、俗に因って拊循し、人を択んで理めさせたので、番衆は相安んずること四十余年に垂んとした。宣徳の初めに調兵が釁を啓いてついに干戈を動かすに至り、これより鎮を置き牙を建て重兵を宿して弾圧に資したが、やはり時に服し時に叛した。漳臘から北はすなわち大荒であり、これが辺を籌る者の急ぎ図るべきところである。
天全六番招討司
- 天全は古の氐羌の地である。五代の孟蜀の時に碉門・黎雅・長河西・魚通・寜逺の六軍安撫司を置き、宋もこれに因って雅州に隷属させた。元は六安撫司を置いて土番等処宣慰司に属させ、のち六番招討と改め、また天全詔討司を分置した。明初、あわせて天全六番招討司とし、四川都司に隷属させた。
- 洪武六年(1373年)天全六番招討使の髙英が子の敬嚴らを遣わして来朝し方物を貢した。帝は文綺・龍衣を賜り、英を正招討、楊藏卜を副招討とし、秩は從五品とし、三年ごとに入貢させ、賜予は甚だ厚かった。
- 二十一年(1388年)楊藏卜が来朝し、茶戸はこれまで西番と貿易して年ごとにその課を収めていたが、近ごろ官で収買することになって額が虧けているとして、民の便に従わせることを乞い、許された。
- これに先立ち、髙敬嚴が招討使を襲いだとき、楊藏卜とともに土民を簡んで兵とし辺境を守らせることを奏請し、詔して許された。敬嚴らはそこで土民を招き選び、戦陣を教えて馬歩の卒千余人を得た。ここに至って藏卜が来朝してその事を奏したので、詔して天全六番招討司を武職に改め、辺界を戍守させて西番を控制させた。
- 三十一年(1398年)帝は左都督の徐増夀に諭した。さきに碉門から長河西口までの道路が険隘であったために往来の跋渉が艱難で、市馬の数が少なかった。いま聞くところでは、碉門から柘木塲に出て径ちに長河西口に抵り、雜道長官司に通ずる道があって、道路は平坦で往来も径直だという。すぐに所司に檄して開拓させ、往来の便を図れ、と。
- 永樂二年(1404年)髙敬譲が来朝し、あわせて皇太子の冊立を賀し、さらにその子の虎を国子学に入れたので、虎に衣衾などの物を賜った。
- 十年(1412年)敬譲が子の虎を遣わして馬を貢した。初め虎は国学に入って読書していたが母の憂に丁って去り、ここに至って服闋けて監に還ったので、皇太子は禮部に例の通り賜予するよう命じた。
- 宣徳五年(1430年)六番招討司が、旧額では年に烏茶五万斤を辦じ、二年に一度碉門茶馬司に運び付けて馬に易えていたが、いま戸部が重ねて芽茶二千二百斤を辦ずるよう令じた、山は深く地は瘠せて採辦に艱しいのでその数を減らすことを乞うと奏した。帝は烏茶を免じ、芽茶だけを辦じさせた。
- 十年(1435年)髙鳯に天全六番招討司の事を署させた。これに先立ち敬讓が罪で下獄して死に、ここに至ってその子の鳯が父の職を襲ぐことを乞うたので、帝はその祖に撫綏の功があったことを念い、しばらく招討の事を理めるよう命じた。正統四年(1439年)鳯に襲職を命じた。
- 正徳十五年(1520年)招討の髙文林の父子が兵を称して乱れ、副招討の楊世仁もまた悪を助けたので、四川の撫按官にこれを討たせた。初め文林らが蘆山県の民と田を争って釁を構えたところ、知県の処置が宜しきを失って叛乱に至った。年を踰えて文林を討ち斬り、その子の継恩を禽らえ、その宗人を択んで承襲させた。
- 初め天全招討司は碉門城に治した。元の碉門安撫司で、雅州の境にある。明初、宣慰の余思聰・王徳貴が帰附したので、初めて司を降して州とし、雅州千戸所を設け、碉門百戸を設けた。天全六畨の界に近い。また茶課司を置いて互市を平らげさせた。思うにその地は南詔の咽喉であり、三十六番が朝貢に出入りする路であった。
- 三十六番というのはみな西南の諸部落である。洪武の初めに先後に京に至って職を授かり印を賜った。都指揮使に立てられたものは二、烏斯藏・朶甘である。宣慰司となったものは三、朶甘・董卜韓湖・長河西魚通寧逺である。招討司となったものは六、万戸府となったものは四、千戸所となったものは十七。これで三十六種である。あるいは三年、あるいは五年に一度朝貢し、その道はみな雅州から入った。詳しくは西蕃の伝にある。
黎州安撫司
- 黎州は漢の沈黎郡の地である。史記に、越巂の東北の君長は十を以て数え、筰都が最も大きいという。唐蒙が夜郎に通じてから邛・筰の君が内臣となることを請うたので、筰都県を置き、また旄牛県といった。元鼎中に沈黎郡とした。唐は雅・巂の二州を割いて黎州を置き、天寶の初めに洪源郡と改め、まもなく漢源と改めた。宋は成都路に属し、元は土番等処宣慰司に属した。
- 洪武八年(1375年)漢源県を省いて黎州長官司を置き、芍徳を長官とした。徳は雲南の人で馬姓、その祖は元に仕えて邛部州六番招討使を世襲した。明氏が蜀に拠ったとき、徳の兄の安がまた黎州招討使となった。明氏が亡ぶと蠻民は潰散し、徳は母を奉じて邛部に還り居た。ここに至って四川布政司がこれを招いたので、徳はそこで来朝して馬を貢し、長官司を置くことを請うた。詔して徳を黎州長官とし、印および衣服・綺帛を賜った。
- 十一年(1378年)黎州安撫司に陞せ、そのまま徳を使とした。
- 十四年(1381年)徳が使いを遣わして馬を貢し、詔して徳に鈔五十四錠・文綺七疋を賜った。これより三年に一度入貢した。
- 𢎞治十四年(1501年)黎州安撫を四川都司に隷属させるよう命じた。
- 萬歴十九年(1591年)安撫の馬祥に後が無く、妻の瞿氏が司の事を掌り、瞿姓の子を取って撫養し、他の志を抱こうとした。祥の姪で松坪に居た土舎がそこで兵を興して城を攻め印を奪い、番衆が機に乗じて剽掠した。時に參將の呉文傑がちょうど東征の役にあったが、師を移してこれを𠞰し平らげた。
- 二十四年(1596年)黎州安撫司を千戸所に降し、所の治を司の南三十里の大田山壩に立て、上七枝を分けて編戸とし大渡河千戸所に属させ、下七枝は引き続き松坪の馬氏の約束に属させた。松坪は司の東南にあり、炒米城から直ちに峨嵋に接し、高山・峻坂三百余里はみな安撫の族人が居った。
- 黎州・雅州の諸蠻は宋の時にしばしば辺の患いとなった。明が興ると、諸蠻はみな天全六番の諸部が二州の境に散居しているものだとして、黎州に安撫を設け、天全六番に招討を設けて羈縻の意を示した。しかし雅州の所属と招討の轄する蠻民とは境土が相連なり、しばしば争訟があった。
- 徼外の大小木𤓰の種は三枝に分かれ、膩乃卜が最も強く、代々西河に居った。初めは馬湖の土官安氏の鈐轄に属したが、馬湖が改流されてから諸𤓰は叛いて邛部に入り嶺氏に帰した。その地は西河から涼山・雪山の諸処に至るまで周囲に蟠り拠った。嘉靖の末、諸𤓰は畜牧が蕃り盛んになって時に辺を窺い、邛部長官の嶺柏は制することができず、嘉定・峨眉・犍為の諸辺はみな侵擾された。鎮巡官が卭部の兵を督してこれを捕えたが、𤓰の兵はいよいよ熾んになったので、大征を議し、建昌・越巂・馬湖の三路に分かれて兵を進めて討った。𤓰部は初めて惶駭して降を請い、年ごとに馬と方物を貢することを願った。そこでその地四千八百四十余畆を定め、糧四百四十余石を徴して峨眉県に輸めさせた。
- 明初、安撫司と同時に置かれたものに大渡河守禦千戸所がある。唐の時、河は平らかで広く漕運を通せた。戍将がひとたび守らなければ、黎・雅・卭・嘉・成都はみな動揺する。宋の建隆三年(962年)王全斌が蜀を平らげ、図を献上したとき、議者は兵威に乗じて越巂を復そうとしたが、藝祖は玉斧で図を画して、これより外は吾は有たぬ、と言った。これより後、河の中流が忽ち五、六十文も陥み下がり、水はここに至って空中から落ちるように洶湧し、船筏が通じなくなった。噎口と名づけ、おそらく天が険を設けて内外を限ったものだという。