明史卷三百十二 列傳第二百 四川土司二

篇首の立伝者一覧

  • 播州宣慰司
  • 永寧宣撫司
  • 酉陽宣撫司
  • 石砫宣撫司

播州宣慰司――沿革と洪武朝の帰順

  • 遵義府はすなわち播州である。秦には夜郎・且蘭の地、漢には牂牁に属した。唐の貞觀中に播州と改めた。乾符の初め南詔が播を陥れたとき、太原の楊端が募に応じてその城を回復し、播人に懐服され、五代を歴て子孫が代々この地を領有した。宋の大觀中に楊文貴が土地を納め、遵義軍が置かれた。元の世祖は楊邦憲に宣慰使を授け、その子の漢英に賽音布哈の名を賜って播國公に封じた。
  • 洪武四年(1371年)、蜀を平定し、使者を遣わして諭した。
  • 五年(1372年)、播州宣慰使の楊鏗、同知の羅琛、總管の何嬰、蠻夷總管の鄭瑚らが相率いて帰順し、方物を貢して元から授かった金牌・銀印・銅章を納めた。詔して鏗に衣幣を賜り、播州宣慰使司を置いた。鏗と琛はいずれも旧職のままとし、安撫司二(草塘・黄平)と長官司六(真州・播州・餘慶・白泥・容山・重安)を領させ、嬰らを長官とした。
  • 七年、中書省が「播州の土地はすでに版圖に入ったのだから貢賦を収めるべきで、毎年粮二千五百石を納めさせて軍儲とすべきだ」と奏した。帝は率先して帰順した点を評価し、田税は収穫に応じて納めさせ、定額を課す必要はないとした。すでに播州黄平宣撫司を復置していた。播州江渡の蠻である黄安が乱を起こし、貴州衛指揮の張岱が討ち平らげた。
  • 八年、鏗が弟の錡を遣わして入貢し、衣幣を賜った。以後は三年に一度入貢することとなった。
  • 十四年、使者に敕を持たせて鏗を諭した――近ごろ浮言を聴いて疑貳を生じていると聞く。いま大軍が南征するにあたり戰騎を多く用いる。兵二萬・馬三千を率いて先鋒となり、その誠を表すがよい、と。
  • 十五年、播州沙溪に城を築き、官兵一千人・土兵二千人を置いて戍らせた。播州宣慰司を貴州の管轄に改め、黄平衛を千戸所に改めた。
  • 十七年、鏗の子の震が京で卒し、有司に命じてその喪を帰らせた。
  • 二十年、鏗を徴して入朝させ、馬十匹を貢した。帝は守土保身の道を諭し、鈔五百錠を賜った。
  • 二十一年、播州宣慰使司と所属の宣撫司の官がそれぞれ子を遣わして来朝し、太學への入学を請うた。帝は國子監の官によく訓導するよう敕した。

播州宣慰司――永樂から成化まで

  • 永樂四年(1406年)、播州の荒田の租を免じた。重安長官司を設けて播州宣慰司に隷せしめ、張佛保を長官とした。佛保がかつて重安の蠻民を招輯して嚮化させた功による。
  • 七年、宣慰使の楊昇が、草塘・黄平・重安の管轄する當科・葛雍ら十二寨の蠻人を招諭して帰順させた。
  • 宣徳三年(1428年)、昇が萬夀節の賀に後れ、禮部は賞を半減すべきだと議したが、帝は道が遠いことを理由にその賜与を奪わなかった。
  • 七年、草塘所属の穀□(底本欠字)ら四十一寨の蠻が乱を起こし、總兵の陳懷が𠞰撫して間もなく平定した。
  • 正統十四年(1449年)、宣慰使の楊綱が老疾のため、子の輝が代わった。
  • 景泰三年(1452年)、輝が奏した――湖貴の管轄する臻剖・五坌などの苗賊が、草塘・江渡の諸苗である黄龍・韋保らと結んで人民を殺掠し、たびたび撫しても再び叛く。兵を調発して征𠞰し民の患いを靖めたい、と。帝は總督の王來・總兵の梁珤らに、四川巡撫と会同して𠞰させた。
  • 七年、輝の兵を調発して銅鼓・五開の叛苗を征させ、敇を賜って賞を頒った。
  • 成化十年(1474年)、播州の賊である齎果らが毎年患いをなすとして、川貴の鎮巡官を敇責した。正統末に苗蠻が衆を集めて辺を寇したさい、土官同知の羅宏が、輝に疾があるので子の愛を代わらせたいと奏した。帝は愛の襲職を認め、愛にただちに兵を率いて總兵官に従い賊を𠞰せよと敇した。これより先、輝は、所属の天壩干地五十三寨および重安管轄の灣溪などの寨がたびたび苗蠻に占拠されているとして、湖貴の会兵征討を請い、輝の言のとおりとされていた。部議では、愛が年少なので輝を起用して暫く軍事を執らせ、また輝ひとりでは任が重いので都御史の張瓚を播州に赴かせて督理させ、輝らを励まして威武を振るわせ征調に備えさせ、その機宜はすべて瓚の裁量に委ねることとした。
  • 十二年、瓚が諸軍と輝を督して灣溪・天壩干地の諸苗を攻め破った。破った山寨は十六、斬首四百九十六級、撫した男女は九千八百餘口。事は兵部に下され、撫に就いた苗が多いので処分を量るべきだとされた。瓚は安寧宣撫司ならびに懷逺・宣化の二長官司を設け、靖南・陽場の二堡を建てることを議し、輝にその工事を董させた。輝は兵民五千餘を調発して治所を立て、所属の黄平など諸長官に分担させて城垣を築かせた。完成間近になって輝が奏した――各寨の苗蠻は近ごろ懼れを知ったが、大軍が引き揚げた後は無事を保ちがたい。播州にはもともと操守土兵一千五百人がある。いま懷逺・靖南・夭漂・龍場に各二百人、宣化に百人、安寧に六百人を割いて守らせ、その家族も移して同居させれば固守の計となる。未完の工事は臣の子の愛に董させ、臣は従前どおり致仕させてほしい、と。詔してこれに従った。
  • 灣溪に安寧宣撫が立つと、爛土の諸蠻はそれが迫ってくるのを憎み、齎果らを引き入れて夭漂・靖南の城堡を攻め陥れ、安寧を囲んだ。愛は襲職したばかりで支えきれず、川貴の二鎮に救援を求めた。兵部は輝を再び起用して兵を統べ𠞰させるよう奏し、また川貴の兵に助けさせるよう敕した。
  • 十五年、貴州巡撫の陳儼が奏した――苗賊の齎果がいよいよ横暴である。川湖などの官軍五萬五千を調発し、期日を定めて貴州に集め、儼の節制に従わせたい、と。兵部は言った――賊は四川に起こったのに貴州の守臣が自ら諸軍を節制しようとするのは、功を横取りする者が出るのを恐れる。しかも五萬を興し半年で計算すれば軍儲は十三萬五千石を要し、山路は険峻で輸送の人夫は二十七萬を要する。まして時は暑に向かい瘴癘も懸念される、と。帝はその奏を然りとした。
  • 二十二年、愛の兄で宣撫の楊友が愛を訐奏した。帝は刑部侍郎の何喬新に赴いて勘問させた。
  • 二十三年、喬新が奏した――輝は生前、庶子の友を溺愛して承襲させようとし、長官の張淵はこれに阿ったが、安撫の宋韜は楊氏の家法では嫡子を嗣とすると主張し、愛を立てるべきだとした。輝はやむなく愛を立てたが、なお地を割いて友に与えようとし、淵と謀った。夭壩干は本州懷逺の故地でありながら生苗に拠られているとして兵を出して取ることを請うたが、容山長官の韓瑄は、土民が安定して久しいので征すべきでないとした。そこで淵は輝と計って瑄を捕え杖殺した。前巡撫の張瓚は輝の賄賂を受け、その地に安寧宣撫司を設け、偽って友を宣撫に任じた。輝は証文を作って所有の金玉・服用・莊田を諸子に均分させた。輝が没すると淵は友とひそかに愛を刺すことを謀り、淵の弟の深も謀議に加わったが果たさなかった。友はそこで、愛の居処・器物が朝廷に僭擬し、また唐府と密書を交わし、私に兵法・天文を習って不軌を謀っていると奏したが、いずれも誣告であった、と。帝は淵と深を斬るよう命じ、愛については讒言を信じて兄に薄かったこと、友については公事にかこつけて擅殺し、かつ嫡を謀り官錢を盗んだことはいずれも罪があるとして、愛は贖罪して復任させ、友は保寧に遷して羈管とし、なお喬新に適宜処置するよう敕した。

播州宣慰司――𢎞治・正徳から嘉靖まで

  • 𢎞治元年(1488年)、重安守禦千戸所を増設し、播州に毎年土兵一千を調発させて戍守を助けさせた。
  • 七年、平苗の功により敕を賜って愛を労った。
  • 十四年、播州の兵五千を調発して貴州の賊婦の米魯らを征させた。
  • 正徳二年(1507年)、播州宣慰使の楊斌を四川按察使に陞せ、なお宣慰の事を執らせた。旧制では土官に功があれば衣帯を賜るか部衆を旌賞するだけで、方面の官に列銜する者はなかった。斌は狡猾横暴で兩司の節制を受けず、安撫の羅忠らにほのめかして普安などでの戦功を上申させ、劉瑾に重く賄賂して得たものであった。翌年、巡按御史の俞緇が授けるべきでないと言い、裁いて原職に戻された。
  • はじめ友が保寧に編置されると愛はますます恣となり、重く取り立てて中官に賄賂し、友がかつて居た凱里の地からの徴取はとくに苛烈であった。同知の楊才は安寧にいてこれに乗じ、搾取はいっそう甚だしかった。諸苗は憤怨した。凱里の民は友の復官を奏請したが認められず、ひそかに保寧に入って友を連れ戻し、衆を集めて乱を起こし、播州を攻めて愛の居館および公私の役所をほぼ焼き払い、才を殺して多くを殘戮した。愛はたびたび朝廷に奏し、帝は鎮巡官に兵を調発して征させたが、たまたま友が死んだので出兵を緩めた。
  • その後、鎮巡官が言った――友の子の𢎞は過ちを悔いて自新し、かつ蠻衆をよく撫馭するので、その統率に委ねたい。以前に友の側が焼殺したぶんはいずれも土地の習慣に従って償わせ、侵奪したぶんも官に返させた。𢎞に冠帯を授けて土舍とし、播州經歴司と協同して諸蠻を撫輯させ、保寧に置いた家族は帰して播州の管轄に隷せしめ、あわせて斌と𢎞に協和して再び釁端を作らぬよう諭したい、と。裁可された。
  • まもなく播州安撫の宋淮が奏した――貴州の凱口・爛土の苗が凱離・草塘の諸寨と婚姻を結び、ひそかに結託して山苗を誘い乱をなしている。斌に敕を賜って毎年辺境を巡視させ、湖廣の鎮巡官と会して処置させたい、と。部議は、土官で敕を受けて出巡した先例はないとし、斌には士衆を撫綏し親族を輯睦させて朝廷の優待の意に副わせよとした。よって致仕した宣慰の愛に昭毅將軍を授け、誥命を給し麒麟服を賜った。斌はさらに父のために進階と服色を請うたが、禮科は服色は等威にかかわり仮すべきでないとして駁した。兵部は、愛にはもとより𠞰賊の功があるとしていずれも許した。斌はまた子の相のために入学を請い、あわせて冠帯を賜った。
  • 十二年、播州安撫の羅忠・宋淮らが奏した――斌に父の喪があり、文臣の例に倣って守制したいというが、辺防が重いのでなお掌印して事を執らせたい、と。
  • はじめ楊宏が凱里に帰ってから重安土舍の馮綸らと怨みを結び、宏が卒すると綸らが苗蠻を誘って攻め、互いに仇殺して貴州境に侵入した。巡撫の鄒文盛が事情を上申し、あわせて四川に移文して官を集め処置させるよう請うたが、年を越えても返答がない。文盛は參議の蔡潮を播州に遣わし、致仕した楊斌を督して撫平させた。そのうえで言った――安寧宣撫を復して宏の子弟に襲がせ、斌はまだ衰えていないので起用して任事させ諸蠻寨を制すべきである。潮には撫蠻の労があるので量って抜擢すべきだ、と。兵部は議した――安寧はすでに廃止されており復すべきでない。斌は子がすでに代わっているので起用すべきでない。土官の襲職の可否は四川に属し、黔が専断できるところではない。文盛の請うところは行いがたいが、その功は誣うべきでない、と。
  • 十六年、斌に蟒衣・玉帯を賜った。
  • 嘉靖元年(1522年)、播州の儒學に四書集註を賜った。宣慰の楊相の奏に従ったものである。
  • 宏が死ぬと弟の張が襲職を求めたが得られず、そのころ辺を荒らして白泥司の印信を奪い、また相と兵を構えた。守臣は凱里を貴州に属させ張を土知州として和解させることを請うた。兵部は議した――張は父兄の悪に染まりながら罪を免れたのを幸いとし、あえて肆に印信を握って要求している。川貴の守臣に命じて前後の争産・殺人の諸罪を取り調べ法に照らすべきだ。もし張が悔い改めて事情を申し出、奪った印を返すなら、なお量って一官を授け、調発に応じて賊を殺し自ら功を立てさせてよい。もし悪に固執するなら必ず誅して法を弄ぶ者への戒めとせよ、と。結局、張の宣撫襲職を許し、安寧を凱里と改めて貴州に隷せしめた。
  • はじめ楊相の祖父はいずれも嫡庶で相争い、禍を数世にわたって重ねた。ここに至って相もまた庶子の煦を寵愛したので、嫡子の烈の母である張氏がはなはだ悍く、烈とともに兵を盗んで相を逐った。相は逃れて水西で客死した。烈が父の遺体を求めると、宣慰の安萬銓は水烟・天旺の故地を要求したうえで遺体を渡すとした。烈は表向き承知したが、相の喪が還ると土地を惜しんで渡さず、ついに水西と紛争を構え、またその長官の王黻を殺した。嘉靖二十三年(1544年)のことである。
  • 烈が代襲すると、黻の党である李保と兵を治めて攻め合うこと十年に及んだ。總督の馮岳が總兵の石邦憲を調発して討ち平らげた。真州の苗である盧阿項もまた久しく乱を称していた。邦憲は兵七千でこれを撃破した。賊が播に援を求めたと言う者があったが、邦憲は「わしはいま水西の兵を調発し、烈が逆賊を助けた罪を言い立てようとしている。烈に人を救う暇があろうか」と言った。まもなく阿項父子を捕え、斬獲四百餘人。
  • はじめ嘉靖の初めに凱里を貴州に属させる議があり、さらに播の地の多くが貴州境にあるとして併せて思石兵備に改属させた。真州の盗が平らぎ地方が安定すると播の人々はこれを不便とし、川貴の守臣は異議して決しなかった。總督に会勘を命じ、總督は、播は四川に帰し、貴州の思石兵備はなお播・酉・平邑の諸土司の事を兼制するよう奏した。裁可された。

播州宣慰司――楊應龍の跋扈

  • 隆慶五年(1571年)、烈が死に、子の應龍が襲職を請い、職を与えるよう命ぜられた。
  • 萬厯元年(1573年)、應龍に宣慰使の敕書を給した。
  • 八年、故宣慰の楊烈に祭葬を賜った。應龍の請に従ったものである。
  • 十四年、應龍が大木七十材を献じ、その美を賞して飛魚服を賜った。應龍はさらに祖の斌が蟒を賜った例を引いたが、部議は、斌には軍功がありかつ特別の恩から出たもので先例にはできないとした。帝は都指揮使の銜を應龍に授けるよう命じた。
  • 十八年、貴州巡撫の葉夢熊が應龍の兇悪な諸事を疏論し、巡按の陳效が應龍の二十四か条の大罪を数え上げた。当時ちょうど松潘を防禦しており播州の土兵を調発して四川を協守させていたので、四川巡按の李化龍は、しばらく勘問を免じて應龍に戴罪して功を図らせるよう疏請した。これにより川貴の撫按の主張は分かれ、蜀の側は應龍に取り調べるべき罪はないと言い、黔の側は蜀には應龍をひそかに庇う心があると言った。そこで給事中の張希臯らが、事は重大で両省の利害はまったく通じないものではあるまい、公正に会勘し先入観を持たぬようにと請うた。
  • 十九年、夢熊は播州管轄の五司を改土為流してことごとく重慶に属させる議を主張し、化龍の意見とまた食い違った。化龍はそこで嫌疑を避けて罷免を求めた。そもそも應龍は猜疑心が強く兵を恃んで殺を好み、管轄の五司七姓はことごとく離叛していた。愛妾の田氏が妻の張氏を屠り、その母にまで及んだ。妻の叔父の張時照が部下の何恩・宋世臣らとともに変事を上告し、應龍の謀反を訴えた。夢熊は兵を発して𠞰すことを請うた。蜀中の士大夫はみな、蜀は三面が播に隣し属する諸族は数十数百を数え、いずれも播が抑えているところである、しかも播の兵は驍勇でたびたびの征調に功があった、剪除は長策ではないと言った。そのため蜀の撫按はそろって撫を主張し、朝議は勘問を命じた。應龍は蜀に赴くことを願い、黔へは赴かなかった。
  • 二十年(1592年)、應龍は重慶に出頭して対決し、法に照らして斬に当たったが、二萬金での贖罪を請うた。御史の張鶴鳴がまさに反駁して問い糺そうとしたところ、たまたま倭が大挙して朝鮮に入り天下の兵を徴した。應龍は弁明を奏し、あわせて兵五千を率いて倭を征し自ら贖いたいと願った。詔して釈された。兵はすでに出発したが、まもなく中止が報された。巡撫の王繼光が着任して厳しく勘問の決着を迫ったが、應龍は抗して出頭せず、張時照らが再び闕に詣でて奏した。
  • 繼光の用兵の議はここで決した。二十一年、繼光は重慶に至り、總兵の劉承嗣らと兵を三道に分けて婁山關に進み、白石口に屯した。應龍は降伏を約すと偽って苗兵を統べ関に拠って突撃し、承嗣の兵は敗れて殺傷は大半に及んだ。たまたま繼光が論罷されたため、ただちに撤兵して輜重をほぼ棄て去った。黔の師も協同して𠞰したが功はなかった。
  • 当時、新任の撫である譚希忠は貴州の鎮撫と再び剿を議したが、御史の薛繼茂は撫を主張した。應龍は上書して自ら弁明し、その党に金を持たせて京に入れ離間を行わせた。もとの告発者である何恩は綦江縣に赴いた。
  • 二十二年、兵部侍郎の邢玠を貴州總督とした。
  • 二十三年、玠は蜀に至り、永寧・酉陽はいずれも應龍の姻戚であり、黄平・白泥は久しく仇讐であると見て取り、その枝葉の党を剪るべきだとして應龍に檄し、死罪にはしないと告げた。たまたま水西宣慰の安疆臣が父の國亨の恤典を請うたので、兵部尚書の石星の手紙を疆臣に示し、應龍を出頭させれば赦しを得られると促した。疆臣は手紙を奉じて播に至り應龍を招いた。当時、七姓は應龍が出頭して罪を除かれることを恐れ、また四方の亡命者がその間に潜んでいて應龍の謀反を幸いとして利としていたので、駅伝の文書はしばしば途中で妨げられた。玠は重慶知府の王士琦に檄して綦江に赴かせ、應龍に安穏で勘問に従うよう促した。應龍は弟の兆龍を安穏に遣わして宿舎を整え糧を蓄えさせ、叩頭して郊外に出迎え、贈物を礼のとおり届けた。應龍は言った――首謀者を縛って松坎で罪を待つ。安穏へ敢えて行かないのは、安穏の仇敵の民に不測の禍に陥れられるのを恐れるからだ。どうか松坎で処置を受けたい、と。士琦は「松坎もかつて勘問の地として奏上された場所だ」と言い、ただちに単騎で赴いた。應龍は果たして道端で自ら縛につき、泣いて死罪を請い、罪人を捕えて差し出し罰金を出して安國亨の例に準じてもらいたいと願った。國亨とは、かつて告発され罪を懼れて境を出なかった者で、そのため應龍はこれを引き合いに出したのである。士琦が玠に請うと許された。應龍はそこで黄元ら十二人を縛って差し出した。取り調べの結果、應龍は斬に当たるが論じて贖わせ、四萬金を納めさせて採木を助けさせ、なお革職して子の朝棟を代とし、次子の可棟を府に留めて贖金を取り立てることとした。黄元らは重慶の市で斬られた。總督はこれを奏聞した。当時、倭の脅威はまだ靖まらず、兵部は應龍の件を緩めて東方に力を注ごうとし、朝廷もまた應龍にはこれまでの積年の労があるとしてその奏を認め、松坎に同知を設けて治めさせ、士琦を川東兵備副使としてこれを取り締まらせた。
  • 應龍は寛大な処置を得るとますます悪に固執して改めなかった。まもなく可棟が重慶で死ぬと、いよいよ痛恨して喪を急ぎ帰らせようとしたが認められず、また贖金を完納するよう督促された。應龍は「わしの子の身代金の銀ならすぐ届くわ」と豪語し、兵を擁して千餘の僧を駆り出して招魂して去った。土目を分遣して関を置き険に拠り、諸苗を厚く撫し、屈強な者を「硬手」と名づけ、州の人でやや富裕な者はその財産を没収して苗を養った。苗人はみな進んで死力を尽くそうとした。
  • 二十四年、應龍は餘慶を荒らし、大阡・都壩を掠め、草塘・餘慶の二司および興隆・都勻の各衛を焼き掠めた。また党を遣わして黄平を囲み、重安長官の一家を殺した。勢いは再び大いに熾んになった。
  • 二十五年、江津および南川を流劫し、合江に迫って仇敵の袁子升を捜し出し、城から綱で下ろして磔にした。当時、兵備の王士琦は倭征に調発されており、應龍はいよいよ苗兵を統べて貴州の洪頭・髙坪・新村の諸屯を大いに掠めた。さらに湖廣の四十八屯を侵し、駅站を塞いだ。もとの告発者である仇敵の民、宋世臣・羅承恩らが一家を挙げて偏橋衛に隠れているのを探り当て、襲い破って城中を捜索し、その父母を殺しその妻女を辱め、慘酷を極めた。
  • 二十七年、貴州巡撫の江東之が都司の楊國柱に卒三千を率いさせて應龍を𠞰し、三百落を奪ったが、賊は偽って敗走して官軍を誘い込み殲滅した。國柱らはことごとく死んだ。東之は罷免され郭子章が代わり、李化龍を起用して川・湖・貴州の諸軍事を節制させ、東征の諸将である劉綎・麻貴・陳璘・董一元を調発して南征させた。当時、應龍は大兵の未集に乗じて兵を率いて綦江を犯した。城中の新募の兵は三千に満たず、賊兵八萬が突如として至った。游擊の張良賢が市街戦で死に、綦江は陥落した。應龍は城中の人をことごとく殺し、屍を投じて江を蔽い、水は赤く染まった。さらに九股の生苗および黒脚苗らと結んで助けとし、官壩に屯して蜀を窺うと声を挙げた。まもなく東坡・爛橋を焼き、楚黔の路は塞がった。

播州宣慰司――萬厯二十八年の平定と楊氏の滅亡

  • 二十八年(1600年)、應龍が五道から並び出て龍泉司を破った。當時、總督の李化龍はすでに重慶に移駐し徴発した兵が大いに集まっていたので、二月十二日に誓師し、八路に分けて進んだ。各路およそ三萬人、官兵が三分の一、土司が七分。旗鼓甲仗が林立し、苗は大いに驚いた。總兵の劉綎がその前鋒を破り、楊朝棟はかろうじて身一つで免れた。賊は胆を落とした。ついに桑木・烏江渡の三関を連続して抜き、天都三百落の諸囤を奪った。賊は連敗し、隙に乗じて烏江を突いて犯し、水西の隴澄が合流して哨するとの偽情報で永順の兵を誘い、橋を断って溺死させた将卒は数知れなかった。まもなく綎は九盤を破り婁山關に入った。関は賊の前門で、萬峰が天を衝き、中はただ一線が通じるのみ。綎は間道から藤を攀じ柵を毀って侵入し、これを陥れた。四月朔、師は白石に屯した。應龍は諸苗を率いて決死の戦いを挑んだ。綎は自ら騎兵を率いて中堅を衝き、両翼を分けて挟撃して破った。追撃して養馬城に至り、龍爪・海雲・險國を連破し、海龍囤に迫った。海龍囤は賊が頼みとする天険で、飛ぶ鳥も跳ぶ猿も越えられぬと言われた地である。当時、偏沅の師はすでに青蛇囤を破り、安疆臣もまた落濛関を奪って大水田に至り、桃溪莊を焼いた。賊は勢いの急なるを見て父子相抱いて哭し、囤に上って死守した。各路に降伏の文書を出して官軍の進撃を緩めさせた。總兵の吳廣が崖門關に入り水牛塘に営し、賊と力戦すること三日でこれを退けた。賊は謀って婦人に囤上で拜表痛哭させ「田氏がまさに降ろうとしている」と言わせ、さらに應龍が仰いで死を報いると築ったと偽った。廣は軽々しく信じて兵を動かさなかったが、賊の偽りを見抜くといよいよ兵を励まして二関を攻め焼き、賊の薪水の路を奪った。八路の師が大いに集まると、海龍囤に長い包囲線を築き、交替でかわるがわる攻めた。賊は死を免れぬと知った。たまたま化龍は父の喪を聞いたが、詔して喪服のまま軍を視させた。化龍は賊の前面の囤が険しくて越えられないことを考え、馬孔英に精兵を率いさせ力を併せてその背後を攻めさせた。天は雨に苦しみ、将士は泥濘の中を馳せて苦戦した。六月四日、天が忽ち晴れ、綎は士卒に先んじて土城を抜いた。應龍はいよいよ追い詰められ、金を撒いて決死の士を募り防戦させようとしたが応じる者はなかった。立って刀を提げ塁を巡ると、四面の火光が天を照らし、大兵はすでに囤に登り士城を破って侵入していた。應龍は倉皇として愛妾二人とともに一族を挙げて縊れ、かつ自ら火を放った。吳廣はその子の朝棟を捕え、急ぎ應龍の屍を焔の中から捜し出した。賊の平定は、出師から滅賊まで百十四日と数えられた。八路で合わせて斬級二萬餘、朝棟ら百餘人を生け捕った。化龍は露布して奏聞し、俘虜を闕下に献じた。應龍の屍を斬り刻み、朝棟・兆龍らを市で磔にした。播州は唐に楊氏が入ってから二十九世八百餘年を伝え、應龍に至って亡んだ。
  • 三十一年、播州の残党である吳洪・盧文秀らが叛き、總兵の李應祥らが討ち平らげた。播の地を二つに分け、蜀に属するものを遵義府、黔に属するものを平越府とした。

永寧宣撫司――沿革と洪武朝

  • 永寧は唐の藺州の地。宋は瀘州江安・合江二県の境、元は永寜路を置いて筠連州および騰川縣を領させ、後に永寧宣撫司と改めた。
  • 洪武四年、蜀を平定して永寧が内附し、永寜衛を置いた。
  • 六年、筠連州滕大寨の蠻である編張らが叛き、雲南の兵と詐称して湖南・長寧の諸州県に拠った。成都衛指揮の袁洪に討たせた。洪は兵を率いて敘州慶符縣に至り清平關を攻め破り、偽千戸の李文質らを捕えた。編張は逃走し、さらに兵で江安の諸県を犯した。洪は追いついてその衆を破り、九寨を焼き、編張の子で偽鎮撫の張夀を捕えた。編張は溪洞に逃げ隠れ、残党は散じて雲南に入った。帝はこれを聞いて洪に敕諭した――南蠻の叛服は定まらず、罪とするに足りない。すでに俘を得たのだから編成して軍とせよ。かつ境上に駐屯して必ず兵威で震わせ、天威に懼れさせて後患を残すな、と。まもなく張がまた衆を集めて滕大寨に拠ったので、洪は兵を移して破り、小芒部まで追った。張は逃げ去り、そこで花寨を取り阿普らを捕えた。以後、張は再び出ることができず、その寨はことごとく平らいだ。よって筠連州を降して県とし敘州に属させ、九姓長官司を永寧安撫司に隷せしめた。
  • 八年正月、永寧等處軍民安撫司を宣撫使司に陞せ、秩は正三品とし、禄照を宣撫使とした。
  • 十七年、永寧宣撫使の禄照が馬を貢し、詔して鈔幣・冠服を賜り、三年に一貢とすることを例のとおり定めた。
  • 十八年、禄照が弟の阿居を遣わして来朝し言った――近年の賦馬はすべて納めたが、粮だけは定数どおりにできない。大軍の南征で蠻民が驚いて逃げ散り耕種の時を失い、加えて兵乱の後の疾疫で死亡した者が多いためである、と。命じてこれを免除した。
  • 二十三年、永寧宣撫が、管轄地の水道に一百九十灘があり、その江門大灘の十二か所はいずれも石が流れを塞いでいると言上した。詔して景川侯の曹震を遣わして疏鑿させた。
  • 二十四年、震は瀘州に至って視察し、永寧に通じる支流があったので石を鑿り崖を削って漕運を通じさせた。
  • 二十六年、禄照の子の阿聶が襲職した。これより先、禄照は事に坐して逮えられ京に至り、無罪を認められて帰る途中で卒した。その子の阿聶と弟の智はともに太學にいたので、庶母の奢尾が司の事を代行していた。ここに至って奢尾が入朝して阿聶の襲職を請い、認められた。

永寧宣撫司――永樂から成化まで

  • 永樂四年、永寧の荒田の租を免じた。
  • 宣徳八年、故宣撫の阿聶の妻である奢蘇が朝貢した。
  • 九年、宣撫の奢蘇が奏した――生儒はみな土地の者で、朝廷が授けた官とは言語が通ぜず訓誨しがたい。永寧の監生である李源は資質が厚く学に通じているので、雲南鶴慶府の例に倣って儒學訓導に任じてほしい、と。詔して従った。
  • 景泰二年、永寧宣撫司税課局の鈔を減じた。苗賊が出没して客商の路が阻まれたためで、布政司の請に従ったものである。
  • 成化元年、山都掌・大壩などの寨の蠻賊が分かれて江安などの県を劫し、兵部が奏聞した。
  • 二年、國子學録の黄明善が奏した――四川の山都掌蠻は毎年出没して良民を殺掠する。景泰元年に招撫したが再び叛き、天順六年に撫したがまた反した。近ごろ總兵の李安が永寧宣撫の奢貴に大壩へ赴いて招撫させたがこれも効がない。釁を開いて際限がなくなるのを恐れる。大兵が集まるのに乗じて早く方針を定め、辺患を醸さぬようにすべきだ、と。
  • 三年、明善がまた言った――宋のとき多剛縣の蠻が寇をなし、白芀子の兵を用いて破った。白芀子とは今の民壯、多剛縣とは今の都掌多剛寨である。前代に郷兵を用いて明らかな効があったのだから、急ぎ民壯を募って官軍を助けさせるべきだ。都掌の水稲は十月に熟すので、兵を督して時に先んじてその田の禾を取れば、三月のうちに蠻は必ず飢える。軍は三路に分けるべきで、南は金鵞池から大壩を攻め、中は戎縣から箐前を攻め、北は髙縣から都掌を攻め、小寨を破れば大寨は自ずと抜ける。また大壩の南百餘里は芒部、西南二百里は烏蒙なので、二府の土官にその険要を遮らせよ。さらに火器を用い、下から上へ、風に順って焼き延ばせば寨は必ず攻め落とせる。かつ土兵の征調は処置が適切であることを要し、民壯の募集は賞罰に必ず信があることを要する、と。詔して總兵官に参考として用いさせた。
  • 当時、總督尚書の程信もまた奏した――都掌は地勢が険要で、必ず土兵を道案内に得なければならない。東川・芒部・烏蒙・烏撒の諸府の兵に敕して速やかに調発し、湖廣の永順・保靖の兵も調発して征遣に備えよ、と。また南京の戦馬一千を用に充てたいと請うた。いずれも裁可された。
  • 四年、信が、永寧宣撫の奢貴が運道を開通し賊首を捕えたので璽書を降して奬賚すべきだと奏し、従われた。
  • 十六年、白玀玀の羿子と都掌・大壩の蠻が攻め合った。禮部侍郎の周洪謨が言った――臣は敘の人で敘の蠻情を知る。戎・珙・筠・髙の諸県は前代にはみな土官であったが、國朝が初めて流官に代えたので言語・性情が相通ぜず、それによって変を激した。洪武・永樂・宣徳・正統の四朝に四たび将に命じて征討させたが、服したかと思えば叛いた。景泰の初めからいよいよ蔓延し、今に至るまで障害となっている。臣はかつて、なお土官を立てて治めさせるのが久遠の計だと言った。ところが都御史の汪浩が辺功を求めて、自ら保証した土官および寨主二百餘人を誣殺したので、諸蠻の怨みは骨髄に入り、いよいよ肆に劫掠し、尚書の程信が大兵を統べてようやく克つことができた。臣が思うに、今のうちに蠻人の情に順い、その衆が推服する者を選んで大寨主とすることを許し世襲させれば、互いに安んずることができよう、と。また言った――白玀玀は広西の流蠻と伝えられ、衆数千を擁するが統属がない。景泰中に戎・珙の苗を糾合して長寧の九県を攻め破り、今また都掌を侵している。その居る崖は険しく箐は深く、剪滅は難しいので、やはり長官司を立てて治めさせるべきである。地は芒部に近いのでこれに隷せしめよ。羿子は永寧宣撫の管轄であるが、永寧は雲貴の要衝で、南は赤水・畢節に跨がること六七百里、一人の柔弱な婦人で数萬の強梁の衆を制しているため、しばしば劫掠を肆にする。臣が思うに宣撫は土地の者であるから、なお宣撫の奢貴に治めさせ、その南境の寨蠻で赤水・畢節の要路に近い者には二長官司を立ててなお永寧宣撫に隷せしめよ。そもそも土官は職があって俸がなく、国庫の負担にならずに辺備の益となる、と。従われた。
  • 二十五年、永寧宣撫司の女土官である奢禄が大木を献じ、誥を給すること例のとおりであった。

永寧宣撫司――萬歴年間の内訌と鎮雄・水西

  • 萬歴元年、四川巡撫の曽省吾が奏した――都蠻が叛逆したので兵を発して征討する。土官の奢効忠が真っ先に調発に応じたが、貴州の土官である安國亨と讐があるので、あわせて總兵官の劉顯に節制させ、讐を報いることを口実に妄りに騒動を起こさぬようにさせたい、と。従われた。
  • はじめ烏撒と永寧・烏蒙・水西・霑益の諸土官は境を接し、さらに代々の姻戚で親しかった。やがて安國亨が安信を殺し、信の兄の智が永寧宣撫の奢効忠と結んで讐に報い、互いに攻め合った。安國亨の部下の吏目は智と親しく、國亨に殺されるのを恐れて安路の墨墨に身を投じ、土知府の安承祖と詐称して京に赴き代わって奏した。やがて國亨もまた子の安民に陳訴させ、奢効忠とともに命を奉じて川貴の巡撫で取り調べを受けた。議して蠻俗に照らし牛を罰して罪を贖わせることとし、裁可された。
  • 効忠が死ぬと、妻の世統には子がなく、妾の世続には幼子の崇周がいた。世統は嫡であるとして印を奪おうとし、互いに讐殺した。奏報のあいだに、總兵の郭成・參將の馬呈文がその財産を利として急に兵千餘を発して落紅に深入りし、奢氏九世の蓄積を捜し掠めて空にした。世続もまた兵を発してその後を追い、効忠の弟の沙卜が出て防戦し、あわせて水西の兵を招いて讐に報いた。成の兵は敗績した。そこで檄して沙卜を世統から引き渡させようとしたが、統は応じず、また把總三人を殺し、苗兵萬餘を集めて永寧を攻めて怨みを晴らそうとした。巡按は成らが利を求めて釁を起こしたとして逮捕すべきだと弾劾し、議して二人の土婦に冠帯を与え、なお地を分けて各々の所属を管させ、その宣撫司の印は奢崇周が成人して襲職に赴き事を執るのを待つこととした。裁可された。
  • 十四年、奢崇周が代職したがまもなく死んだ。奢崇明は効忠の実弟である盡忠の子で、幼くして孤となり世統に養われること十三年、ここに至って永寧に送られた。世続は氊馬を贈り、印を出して渡すと約した。事が定まったのに、諸々の奸である閻宗傳らは、昔に世職に従って世統を逐い沙卜を殺したので崇明が立てば必ず前の恨みを晴らすと懼れ、水西に付いて阿利を立てて自らを固めた。安疆臣はそのあいだで日和見をし、蠻兵が四方に出て屯堡を焼き掠めたが官兵は禁じえなかった。總督が奏聞し、朝議は奢崇明にしばらく宣撫の事を管させ、崇明が旧恨を捨てて人心を収めることを期待した。しかし閻宗傳らは永寧・普寧・摩尼を攻め掠めること従前のとおりであった。崇明が承襲してほぼ一年、世続は印をついに渡さず、しかも印を私に安疆臣の妻の弟である阿利に与えた。巡撫は都司の張神武を遣わして世続を捕え印を求めさせた。世続は印は鎮雄の隴澄のもとにあると言った。隴澄とは水西の安堯臣である。隴氏が絶えかけたので堯臣が入り婿となり、そのまま隴姓を冒して隴澄と称した。播州・敘州を平らげた功には澄も与っていたが、中央はそれが堯臣であることを知らなかった。堯臣は外は播の功を頼み、内は水西を頼んで、鎮雄に拠って永寧を制する心があった。蜀の撫按は堯臣が隴氏の血筋でないので鎮雄を授ける意がなかった。堯臣はこのために両端を懐き、ひそかに世続を助けた。世続が阿利に授けることができれば、自らが鎮雄に拠るのはいよいよ堅くなり、また朝廷は兵を厭い、宗傳・阿利らがまさに騒がせているので、寝ながらにして隴氏を取れると考えたのである。そして閻宗傳らは焼き掠めるたびに鎮雄の兵と称して諸部を怖れさせた。川南道の梅國樓が捕えた蠻の丑者は、鎮雄が将の魯大功を遣わして兵五営を督して大壩に屯させ、水西の兵はすでに馬鈴堡を渡ったと言った。永寧・普市を攻める約束であったが、そこで潰え、宗傳らは空城を棄てて去った。奢崇明もまた、堯臣が遣わした目把の彭月政・魯仲賢の六大営が逆賊を助けて退かず、まさに敘南に至って永寜・瀘州を攻めようとしていると言った。そこで總兵の侯國弼らはみな悪を堯臣に帰した。都司の張神武らが捕えた唤者・朗者はみな鎮雄の土目で、堯臣もこれを弁解できなかった。黔中の撫按は西南に事が多く兵も食も乏しいので鎮雄を取る意がなく、堯臣はそこで普市・摩尼の諸々の焼き掠めをみな蜀の将に帰した。議する者はそこで功を貪って釁を起こしたことを蜀の将の罪とした。四川巡撫の喬璧星が言った――堯臣は狡猾に鎮雄を簒おうと謀り、藺の地に垂涎して年久しい。宗傳が背逆して鎮雄を恃むのは、鎮雄が水西を恃むのと同じである。水西の疆臣が兵を助けなかったことは臣がすでにその実情を得ている。逆賊の悪がまだ成らぬうちに乗じ、いま貴州の撫按に兵を調発させ臣と会して𠞰させたい。もし堯臣が悪を重ねること従前のとおりであれば、臣はただちに軍を移して撃つ。摧かなかった蝮が再び蛇となり、塞がなかった罅が再び河となることのないようにせよ、と。疏が上がったが、廷議で敢えて用兵を決する者はなかった。久しくして阿利が死に印も出たが、蜀中の堯臣を逐おうとする議はついに解けなかった。当時、播州の清疆の議がまさに沸騰して黔蜀それぞれ紛糾していたが、ここに至って永寧の兵議もまた聚訟のようになった。
  • 当時、朝廷はすでに一意に兵を休めており、三十五年、奢世続を釈し閻宗傳らの罪を赦し、隴氏の子孫を訪ね求めて鎮雄の後嗣とし、あわせて安疆臣に堯臣を約束して本来の土司に帰らせ、遥授の職銜に留めて隴の職を冒襲することを許さぬよう命じた。そこで宗傳は降り、堯臣は身を退くことを請い、黔の督はそこで撤兵を請うた。
  • 旧制では永寧衛は黔に隷し土司は蜀に隷していたが、水西と藺が攻め合って軍民が激変してから、奢崇明が立ったものの取り調べはまだ報ぜられず、摩尼・普市の千戸である張大䇿らが再び永寧宣撫を改土為流するよう請うた。兵部は、故なく流に改めれば崇明をどこに置くのかと言い、速やかに前の取り調べの諸案を完結するよう命じた。そこで蜀の撫は張大䇿を城池失守の罪で斬に当たると擬し、黔の撫は張仲武を擅に兵を用いて劫掠した罪でやはり斬に当たると擬した。䇿は黔の人、武は蜀の人であったため、双方とも納得せず、諸臣は互いに訴訟し合って再び紛糾して解けなかった。
  • たまたま奢崇明の子の寅が、水西の故土官の妻である奢社輝と地を争った。安の兵馬は奢の十倍であったが奢の兵は精強で、両者は対峙した。蜀黔の撫按は制することができず、事情を奏聞した。
  • 四十八年、黔の撫である張鶴鳴が、赤水衛白撒所の屯地が永寧に占拠されているので返還させるべきだとしたが、いずれも取り調べを待って未決であった。

永寧宣撫司――奢崇明の乱と平定

  • 天啓元年(1621年)、崇明が馬歩兵二萬を調発して遼を援けることを請い、認められた。崇明と子の寅は久しく異心を蓄えており、援遼の調兵に借りて、壻の樊龍・部黨の張彤らに兵を率いさせて重慶に至らせ、久しく駐まって出発しなかった。巡撫の徐可求が重慶に移鎮して永寧の兵を促すと、樊龍らは行糧の増加を名目に機に乗じて反し、巡撫・道府・總兵ら二十餘員を殺した。そこで重慶に拠り、兵を分けて合江・納溪を攻め、瀘州を破り、遵義を陥れた。興文知縣の張振徳がこれに殉じた。興文はもと九絲蠻の地である。進んで成都を囲み、偽の国号を大梁とした。布政使の朱燮元・周著、按察使の林宰が門を分けて固守した。石砫土司の女官である秦良玉は弟の明屏、姪の翼明らを遣わして兵四千を発し、道を倍して急行し、ひそかに重慶を渡って南坪關に営した。良玉は自ら精兵六千を統べて江に沿って上り成都に急いだ。諸々の援兵も次第に集まった。当時、寅は城を攻めるのが急で、ひそかに劉勲らを引き入れて内応させようとしたが、露見して伏誅した。また雲梯および旱船を造り昼夜城に迫ったが、城中もまた礮石でこれを撃ち壊した。対峙すること百日。たまたま賊将の羅乾象が人を遣わして帰順を申し出、賊を殺して自ら功を立てたいと願った。その夜、乾象が火を放って営を焼くと賊兵は乱れ、崇明父子は倉皇として逃げ、錢帛や穀物を棄てること山積となり、窮民はこれによって生き延びることができた。乾象はそこでその党の胡汝髙らを率いて降った。当時、燮元はすでに巡撫を授けられており、川の卒を率いて崇明を追い、江安・新都・遵義の諸郡邑をすべて回復した。二年三月のことである。
  • 樊龍は残兵数萬を集めて重慶の険塞に拠った。燮元は良玉らを督して二郎關を奪い、總兵の杜文煥は佛圖關を破り、諸将は重慶に迫って布陣した。奢寅は賊党の周鼎らを遣わして道を分けて救わせたが、鼎は敗走して合江の民に縛られた。官軍は平茶・酉陽・石砫の三土司と合して重慶を囲んだ。城中は食に乏しく、燮元は計をもって樊龍を捕えて殺した。張彤もまた乱兵に殺された。龍の子の友邦およびその党の張國用・石永髙ら三十餘人を生け捕り、ついに重慶を回復した。
  • 当時、安邦彦が貴州で反し、崇明は遠くこれを頼んで声援とした。三年、川の師は遵義を回復して永寧に進攻し、奢寅と土地坎で遭遇して兵を率いて激突した。大兵は奮撃して破り、寅は傷を負って遁れ、樊虎もまた戦死した。進んでその城を抜き、降った賊は二萬。さらに進んで紅崖・天台の諸囤寨を抜き、降る者は日ごとに至り、崇明の勢いはいよいよ窮まった。水西に救いを求めると、邦彥は十六営を遣わして河を渡って援けた。羅乾象は急ぎ藺州を破り九鳯樓を焼いてその巣を覆した。崇明はよろめきながら逃れて水西に身を投じ、邦彦と兵を合わせて遵義・永寧を分けて犯した。川の師は芝蔴塘でこれを破り、賊は青山に逃げ込んだ。諸将は渭河に迫り、龍場に攻め込んで崇明の妻の安氏および奢崇輝らを陣中に捕え、斬獲は萬を数えた。藺州は平らいだ。總督の朱燮元は、赤水河を境として河東の龍場は黔に属させ、河西の赤水・永寧は蜀に属させ、永寧に道府を設けて遵義・建武と声勢を連絡させることを請うた。
  • まもなく貴州巡撫の王三善が邦彥に襲われて死ぬと、崇明の勢いは再び張り、春を越えて大挙して永寧を寇そうとした。たまたま奢寅が部下に殺され、燮元もまた父の喪で去ったので、崇明・邦彦は誅を免れることができた。崇明は大梁王と称し、邦彦は四裔大長老と号し、元帥と称する者は数えきれず、兵十餘萬を合わせてまず赤水を犯そうと図った。崇禎の初め、燮元を起用して貴・湖・雲・川・廣の諸軍務を總督させ、大いに師を集めた。燮元は計を定めて賊を誘って深入りさせ、永寧に向かわせて五峰山・桃紅壩で迎え撃たせ、總兵の侯良柱に大敗させた。崇明・邦彥はいずれも首を授けた。この役は蜀黔数十年の巨悪を掃蕩したもので、前後を通じてみな燮元の功であるという。

酉陽宣撫司

  • 酉陽は漢の武陵郡酉陽縣の地。宋は酉陽州、元は懷徳府に属した。
  • 洪武五年、酉陽軍民宣慰司の冉如彪が弟の如喜を遣わして来朝貢し、酉陽州を置いて如彪を知州とした。
  • 八年、宣撫司に改め、なお冉如彪を使とした。平茶・邑梅・麻兔・石耶の四洞長官司を置き、楊底綱・楊金奉・冉徳原・楊隆をこれに充て、三年に一度入貢させた。石耶は自ら京に至れないので酉陽に付して貢することを命じた。
  • 二十七年、平茶洞署長官の楊再勝が兄の子の正賢および洞長の楊通保らを殺そうと謀った。正賢らはこれを察知して京師に逃れ、その事を訴え、あわせて再勝が景川侯と謀反したと言った。帝は再勝を逮えて鞫問させた。再勝は自白して族誅に当たり、正賢もまた連坐に当たったが、帝は再勝を誅して正賢を釈し、長官を襲がせた。酉陽宣撫の冉興邦が襲職により来朝し、渝州に改隷するよう命ぜられた。
  • 永樂三年、指揮の丁能・杜福が亞堅ら十一寨の生苗一百三十六戸を撫諭し、それぞれ子を遣わして入朝させた。酉陽宣撫司に隷せしめるよう命じた。
  • 四年、酉陽の荒田の租を免じた。
  • 五年、興邦が部長の龔俊らを遣わして方物を貢し、あわせて儒學を立てられた恩を謝した。
  • 景泰七年、宣撫僉事の冉廷璋の兵を調発して五開・銅鼓の叛苗を征させ、敇を賜って諭し賞賚した。
  • 天順十三年、宣撫の冉雲に散官一階を進めるよう命じた。叛苗の討伐を助け石全州を捕えた功による。
  • 𢎞治七年、宣撫の冉舜臣が貴州の叛苗を征した功により陞職を乞うた。兵部は前例がないとして、舜臣に明威將軍の階を進め敇を賜って褒めることを請うた。
  • 十二年、舜臣が奏した――宋農寨の蠻賊が諸々の寨洞の蠻を脅して糾合し、殺掠焚劫している。𠞰捕してほしい、と。保靖・永順の二宣慰もまた、邑梅副長官の楊勝剛父子が酉陽を占拠しようと謀り、俊倍洞長の楊廣震らと結んで宋農・後溪の諸蠻を呼び集め、兵を集めて殺掠していると奏し、あわせて討つよう請うた。兵部は、酉陽は溪洞が連なっていて煽動されやすいのでただちに撲滅すべきだとし、鎮巡官に機宜を斟酌させるよう請うた。
  • 十四年、酉陽の兵五千を調発して貴州の賊婦である米魯を協剿させた。
  • 正徳三年、酉陽宣撫司の獲印舍人である冉廷璽および邑梅長官司が、湖廣鎮溪所の洞苗が衆を集めて攻め劫していると奏し、兵での𠞰捕を請うた。
  • 八年、宣撫の冉元が大木二十を献じ、子の維翰が襲職のため京に赴くのを免じてほしいと乞い、従われた。
  • 二十年、元が再び大木二十を献じ、詔して量って服色を加え酬賞した。
  • 萬歴十七年、宣撫の冉維翰が大木二十を献じ、価は三千を超えた。工部は従三品の服を加えて土官の忠誠を奨励すべきだと議し、従われた。
  • 四十六年、酉陽の兵四千を調発し、宣撫の冉躍龍にこれを率いて遼を援けるよう命じた。
  • 四十七年、躍龍は子の天允および文光らを遣わして兵を率いて遼陽に赴かせ、虎皮・黄山などの地に駐すること三年。奉集の囲みを解き、再び瀋陽を援けたが、渾河で敗れて冉見龍が戦没し、死者は千餘人。撤いて遼陽を守ったが、また降敵が火を放ったため冉文煥らが戦没し、死者は七百餘人。兵部尚書の張鶴鳴が言った――躍龍は子弟を遣わして萬里の勤王をさせ、見龍はすでに身を殺して国に殉じ、躍龍はまた自ら金二千兩を投じて軍器を山海關まで運び、困窮を救い魂を招いた。忠義は嘉すべきである。臣が貴州にいたとき、躍龍はまた自ら軍餉を投じて紅苗を征し、しばしば奇功を建てた。今また辺境で節を尽くした。優恤を加えて諸辺の模範とすべきである、と。
  • 天啓元年、躍龍に宣慰使を授け、あわせて妻の舒氏にも誥命を給し、なお戦死した千七百餘家を恤んだ。
  • 二年、奢崇明が叛くと、躍龍は援軍を率いて重慶を包囲し、崇明が誅されるにあたってはその土舍である冉紹文にも功があった。
  • 四年、躍龍が東西の調発に応じて命を効したことにより、弟の見龍および諸々の戦死者のために賚恤を請い、命は所司に下された。
  • 崇禎九年、宣慰使の冉天麟が疏して言った――庶孽の天允が旨に仮託して臣の爵土を奪おうと謀り、遂げられずに擅に兵を用いて殺害した、と。撫按に下して察勘させた。当時、蜀はまさに盗賊に悩まされ、大吏は自らを顧みる暇もなく、土官の事は多くが棚上げにされたという。

石砫宣撫司

  • 石砫は石潼關・砫蒲關によって名づけられた。後周が施州を置き、唐が青江郡と改め、宋末に石蛀安撫司を置き、元は石砫軍民府と改め、まもなくもとの安撫司に戻した。
  • 洪武七年、石砫安撫使の馬克用が子の付徳と同知の陳世顯を遣わして入朝し方物を貢した。
  • 八年、石砫安撫司を宣撫司に改め、重慶府に隷せしめた。
  • 十六年、石砫の溪蠻が施州を寇し、黔江の守禦官軍が撃破した。
  • 十八年、石砫宣撫同知の陳世顯が子の興潮らを遣わして表を奉じ方物を貢し、翌年の正旦を賀した。
  • 二十四年、石砫宣撫同知の陳興潮およびその子の文義に白金百兩を賜った。散毛洞の征討に従った功による。
  • 宣徳五年、宣撫の馬應仁の子である鎮を宣撫とするよう命じた。はじめ應仁は罪があって死に当たったが減免されて謫戍された。ここに至って帝はその祖の克用がかつて先朝に力を尽くしたことを念い、その子孫の良き者を求めて用いるよう命じたので、この命があった。
  • 成化十八年、四川巡撫の孫仁が奏した――三月のうちに盗三百人が石砫に入り、宣撫の馬澄および隷卒二十餘人を殺し、焼き掠めて去った。石砫は地が酆都に隣し、互いに銀場を争って訴え合ったが、有司が処置しなかったために讐殺に至った、と。命じて有司に賊を捕えるよう責めた。仁はまた奏した――石砫は毎年、鉛課五千一百三十斤を弁じていたが正統の後に停止された。隣境の軍民がこれに仮託して課を徴し、機に乗じて窃取し、禍の階梯を醸している。その課を除き、その洞を閉じ、なお忠州臨江の巡檢を酆都南賓里の姜池に移して防守に便ならしめてほしい、と。従われた。この年、馬徽を宣撫とするよう命じた。
  • 萬歴二十二年、石砫の女土官である覃氏が宣撫の事を執っていたが、土吏の馬邦聘がその印を奪おうと謀り、党の馬斗斛・斗霖らと衆数千を集めて覃氏を囲み、火を放って公私の建物八十餘所を焼き、殺掠して一空にした。覃氏が上書して言った――臣は疊茂の従征以来、大雪山で賊を撃ち、斬首・捕寇にいずれも成果があり、しばしば上官の奬賞を受けた。今、邦聘は故なく孤寡を虐殺している。臣とて一軍を出して勝負を争えぬわけではないが、まことに朝命でないので敢えてしないのである。今、叛人はここにいる。先年の楚金洞舍の覃碧が簒奪を謀った例に準じ、邦聘とともに吏に就くことを願う、と。
  • 二十三年、四川の撫按にその獄を裁くよう命じたが、事が未決のうちに、たまたま楊應龍が播州で反した。覃氏は應龍と姻戚であり、斗斛もまた應龍と結んでいたので、両家は形勢を窺い、獄はそのまま解けた。覃氏には智計があり、性は淫であった。それゆえ應龍と通じ、長子の千乘は愛を失い、次子の千駟を可愛がって、應龍は頼むに足ると考え、その娘を娶って千駟の妻とした。千駟は播に入り應龍とともに反した。千乘は馬氏の爵を襲ぎ、調発に応じて酉陽の冉御龍とともに應龍を征した。應龍が敗れると千駟は伏誅し、千乘は宣撫となること従前のとおりであった。千乘が卒すると、妻の秦良玉は功により夫人に封ぜられた。別に伝がある。