明史卷三百十 列傳第一百九十八 土司

土司の総序

  • 西南の諸蠻は、虞氏の時代の苖、商の鬼方、西漢の夜郎・靡莫・邛莋・僰・爨の類がこれに当たる。巴䕫より東、湖湘・嶺嶠に至るまで数千里に盤踞し、種類はそれぞれ異なり、歴代自分たちで君長を立ててきた。
  • 王朝に役使される起こりをたずねれば、周の武王が孟津で大会したとき、庸・蜀・羌・髳・㣲・盧・彭・濮の諸蠻が参加したことにさかのぼる。楚の莊蹻が滇に王となり、秦が五尺道を開いて吏を置き、漢の武帝に及んで都尉・県属を置き、なお自ら保たせた。これが土官・土吏の始まりであろう。
  • 明に至って元の故事を踏襲し、大いに版図を広げ、司・郡・州・県に分けて賦役の額を定め、こちらの駆調に従わせ、法が備わった。
  • その要諦は覊縻にある。彼らの大姓は代々の威約を積み重ねているが、こちらの爵祿を借り名号で寵すればこそ統摂しやすく、それゆえ命令のままに奔走する。
  • しかし調遣が日ごとに繁くなれば急に変を生じ、功を恃み過ちを庇って侵擾がいよいよ深くなる。歴朝の徴発は利害相半ばする。要は撫綏に人を得て恩と威とを兼ね済すことにあり、そうすれば死力を得て患いとするに足りない。
  • 實錄に、成化十八年(1482年)馬平主簿の孔性善の言を載せる。溪峒の蠻獠はつねに化を梗すが、乱に原因が無いわけではない。かつて陳景文が令であった時は猺・獞もみな差徭に応じた。その後の撫字が乖方となってから反側し始めたのである。守令に人を得て恩信を示し禍福を諭せば、彼らも心を改めるはずだ、と。帝は嘉納したが実際に究め用いることはできなかった。惜しむべきことで、これは治蠻の実地の鑑となる。
  • 洪武の初め、西南夷で来帰した者にはそのまま元の官を授けた。土官の銜号は、宣慰司・宣撫司・招討司・安撫司・長官司といい、労績の多寡で尊卑の等差を分けた。府・州・県の名もしばしば置かれた。襲替は必ず朝命を奉じ、万里の外にあっても皆闕に赴いて職を受けた。
  • 天順の末、土官が繳呈して勘奏することを許したので、威柄が次第に弛んだ。成化中には納粟して備振させることを令じたので、規取が日ごとに陋しくなった。孝宗は発憤して釐革しようとしたが因循して改まらなかった。
  • 嘉靖九年(1530年)に初めて旧制に復し、府州県等の官は驗封に、宣慰・招討等の官は武選に隷属させた。驗封に隷するものは布政司が領し、武選に隷するものは都指揮が領した。ここに文武が相維持し、中土に比するに至った。
  • その間、叛服は常ならず、誅と賞とが互いに見える。そこで事跡のとくに著しいものを取ってこの篇に列する。

湖廣土司――概説

  • 湖南は古の巫郡・黔中の地である。施州衛と永順・保靖の諸土司の境は、岳州・辰州・常徳の西に介在し、川東の巴䕫と接壤する。南は黔陽に通じ、谿峒が深く険阻で寇盗が起こりやすく、元末にはとくに甚だしくなった。
  • 陳友諒が湖湘の間に拠ったとき、利を餌にして彼らの兵を用い、諸苗も力を尽くし、旁の寨に兵を乞うて駆使する者まであった。友諒はこれによっていよいよ肆になった。
  • 太祖が鄱陽で友諒を殲し、進んで武昌を克つと、湖南の諸郡は風を望んで帰附した。元の時に置かれた宣慰・安撫・長官司の属も先後に迎降し、太祖は原官のままこれを授けた。
  • やがて化を梗するようになり、洪武三年(1370年)慈利安撫使の覃垕が諸蠻を連ねて入寇したが、征南将軍周徳興がこれを平らげた。
  • 五年(1372年)再び鄧愈に征南将軍として師を率いさせ、散毛など三十六洞を平定した。副将軍呉良はさらに五開・古州の諸蠻、あわせて二百二十三洞を平らげ、その民一万五千を籍に入れ、潰散した士卒四千五百余人を収集して、その地を平定した。
  • 間もなく五開・五谿の諸蠻が乱れたが討ち平らげた。
  • 十八年(1385年)五開の蠻呉面兒が反し、勢いは甚だ獗であった。禁王楨に命じて征南将軍湯和を将いさせ、九谿など諸処の蠻獠を撃斬し、四万余人を俘獲した。諸苖はここに至って初めて懼れて靖まった。沅・道・澧の間でも十年のうちに起こってはまた滅する動きがあった。開国の初めは師武・臣力によったとはいえ、実際には太祖の控制の道が恩威を備えていたからである。
  • 永樂の初め、苗が絶えた家を継ぐと告げて冠帯を襲い、いよいよ銜勒に就いた。それから百年近く経ち、五開・銅鼓の間でまた紛々と警報が多くなった。時に英宗が北狩し、中原の各地で侵擾があり、苖の勢いはことに熾んであった。
  • 景泰の初め、総兵官宮聚が奏した。蠻賊は西は貴州の龍里、東は湖廣の沅州、北は武岡、南は播州の境に至るまで二十万を下らず、諸郡邑を囲困し焚掠している。臣の領する官軍は二万に及ばず、前後に奔赴しても平越の囲みを解くことができない。京辺の軍および征麓川の卒十万を急ぎ調してこちらへ寄越し、調遣の資としてほしい、と。しかし久しく師は徴されて来ず、他の帥に更易し、六、七年も浸淫した。
  • 天順元年(1457年)総督石璞が総兵官方瑛を調し、期を剋して征𠞰させ、初めて天堂・小坪・墨溪など二百二十七寨を破り、偽王・侯・伯等百余人を禽らえ、賊首千四百余級を斬り、奪われていた軍人の男女千三百余口を奪回した。ここにおいて苗の患いは次第に平らいだ。
  • おおむね貴州に萌発して湖南に蔓衍したもので、いずれも生苖が梗をなしたのであり、諸土司は初めは動揺しなかった。永順・保靖の諸宣慰は代々富強を席巻し、征伐のたびに戈を荷って前駆することを願い出た。国家もこれに頼って撻伐した。それゆえ永順・保靖の兵は「□(底本欠字)雄」と号された。嘉靖・隆慶以来は徴発の符が四方に出て、湖南の土司はみな臂指のごとく備わった。

篇首の立伝者一覧

  • 施州(施南宣撫司・散毛宣撫司・忠建宣撫司・容美宣撫司)
  • 永順軍民宣慰使司
  • 保靖州軍民宣慰使司

施州――沿革と管轄の諸司

  • 施州は隋では清江郡であり、のち施州と改められ、明初もこれに従った。洪武十四年(1381年)施州衛軍民指揮使司に改置し、湖廣都司に属させた。
  • 領する軍民千戸所は一、大田である。
  • 領する宣撫司は三、施南・散毛・忠建である。
  • 領する安撫司は八、東鄉五路・忠路・忠孝・金峒・龍潭・大旺・忠峒・高羅である。
  • 領する長官司は七、揺把峒・上愛茶峒・下愛茶峒・劍南・木册・鎮南・唐崖である。
  • 領する蠻夷長官司は五、鎮逺・隆奉・西泙・東流・臘壁峒である。
  • また容美宣撫司も境内にあり、長官司四を領する。椒山瑪瑙・五峰石寳・石梁下峒・水盡源通墖平である。

施州――呉王期から洪武の経略

  • 太祖が呉王の位に即いた甲辰(1364年)六月、湖廣安定宣撫使の向思明が長官の硬徹律らを遣わし、元から授かった宣撫の敕印を献上して改授を請うた。そこで安定等処宣撫司二をそのまま置き、思明と弟の思勝をこれに充てた。
  • また懷徳軍民宣撫司一を置いて向大旺を充て、統軍元師二に南木・潘仲玉を充てた。抽攔不用黄石の三洞にそれぞれ長官一を置き、没葉・大蟲・硬徹津を充てた。簳坪洞には元帥府一を置いて向顯祖を充て、梅梓・麻寮の二洞にそれぞれ長官一を置いて向思明・唐漢明を充てた。いずれも新たに降った者である。
  • 丙午(1366年)二月、容美洞宣撫使の田光寳が弟の光受らを遣わし、元から授かった宣撫の敕印を献上した。光寳を四川行省參政・行容美洞等処軍民宣撫司事とし、なお安撫・元帥を置いてこれを治めさせ、あわせて太平臺・宜麻寮など十寨の長官司を立てた。
  • 洪武四年(1371年)宣寧侯曹良臣が兵を帥いて桑植・容美洞を取った。元の施南道宣慰使覃大勝、その弟の大旺、副宣慰の覃大興、光寳の子答谷らがみな来朝し、元から授かった金虎符を納めた。施州宣慰司を從三品、東鄉ほかの諸長官司を正六品とし、流官を参用させた。
  • 五年(1372年)忠建の元帥墨池が子の驢吾に所部の溪洞元帥阿巨らを率いさせて帰附し、元から授かった金虎符ならびに銀印・銅章・誥敕を納めた。忠建長官司および沿邊溪洞長官同を置き、墨池らを長官とした。
  • 同年二月、容美宣撫の田光寳が再び子の答谷を遣わして来朝した。征南将軍鄧愈が散毛・柿谿・赤谿・安福など三十九峒を平らげ、散毛宣慰司都元帥の覃野旺が偽夏から授かった印を献上した。
  • 十四年(1381年)江夏侯周徳興が師を移して水盡源通墖平・散毛の諸峒を討ち、施州衛軍民指揮使司を置いた。
  • 十五年(1382年)施南宣撫司を置き、施州衛に隷属させた。
  • 十七年(1384年)散毛沿邊安撫司の安撫覃野旺の子起刺が来朝し、本司の僉事に任じられた。景川侯曹震が、散毛など諸洞の蠻がしばしば寇掠して民の患いとなっているので、すでに施州衛および施南宣撫の覃大勝に招諭させたが、なお固に負るなら発兵して討つことを請うた。
  • 二十二年(1389年)忠建宣撫の田思進の子忠孝に父の職を代わらせた。思進が八十余歳で致仕を乞うたためである。
  • 翌二十三年(1390年)涼国公藍玉が散毛洞を克ち、刺惹長官の覃大旺ら万余人を禽らえ、大田軍民千戸所を置いて施州衛に隷属させた。藍玉が、散毛・鎮南・大旺・施南など諸洞の蠻は叛服が常ならず、黔江と施州衛の兵は互いに遠く応援が難しい、いま散毛の地は大水田と連なっているから千戸所を置いて守禦させるべきだと奏したためである。そこで散毛を大田と改め、千戸の石山らに土兵一千五百人を領させて鎮守させた。
  • この時、忠建・施南の叛蠻が龍孔に寨を結んだ。藍玉は指揮の徐玉に兵を将いて攻めさせ、宣撫の覃大勝を禽らえた。余蠻は退走したが、玉はさらに兵を分けて捜索し、男女一千八百余人を殺獲した。大勝とその党八百二十人を械して京師に送り、大勝を伂で磔にし、残りは開元に戍らせ衣糧を給して送り出した。
  • 永樂二年(1404年)㪚毛・施南の二長官司を復設した。これに先立ち洪武の初め、来降した諸土司の長官にはみな元の官を与えたが、蠻苗呉面兒の難で諸土司の地の多くが荒廃し、長官も承襲を罷めていた。ここに至って故土官の子覃友諒らが蠻民を招き復したことを理由に治所の再置を請うたので、その戸口が少ないため長官司に降し、大田軍民千戸所に隷属させ、友諒を散毛長官、覃添富を施南長官とした。
  • 四年(1406年)施南・散毛を再び宣撫司に改めた。友諒・添富が来朝したためである。また田應虎を龍潭安撫とした。應虎が来朝して、祖父は宋・元以来ずっと安撫であったが、蠻乱でその地が散毛に併合され、隔たりが遠くて治めがたいと言い、旧に復すことを乞うたので、これに従った。
  • 同時に高羅安撫の田大民が、蠻民四百余戸を招き復したとして原職と治所の返還を乞うた。木册長官の田谷佐、唐崖長官の覃忠孝も、父祖が代々安撫であったが洪武の時の大軍による平蜀で民が驚き潰えて治所が廃したと言い、いま谷佐らが三百余戸を招集したとして襲職を請い、許された。
  • 五年(1407年)鎮南長官の覃興らが来朝し、世職であったが洪武中に廃されたところ、いま蠻民三百戸を招き寄せたとして旧に復すことを乞うた。五峰石寶長官の張冄武も襲職を請い、いずれも許された。
  • 同時に東鄉五路安撫を設けて覃忠を充て、施南に隷属させた。石梁下峒・椒山瑪瑙・水盡源通墖平の三長官司を設けて向潮文・劉冄貴・唐思文を充て、容美に隷属させた。さらに忠路・忠孝・金峒の三安撫司を復設して施州衛に隷属させ、覃英・田大英・覃添貴を充てた。いずれも洪武年間の蠻乱で民が散じてその治が廃されていたもので、覃忠らが故官の子姪として来朝して奏請したので、みなこれに従い、それぞれ印章と冠帯を賜った。

施州――宣徳・正統から成化の推移

  • 宣徳三年(1428年)劍南長官司を設けて忠路安撫に隷属させた。揺把峒・上愛茶峒・下愛茶峒の三長官司および鎮逺・隆奉の二蠻夷官司はみな東鄉五路安撫に隷属させ、東流・臘壁峒の二蠻夷官司は散毛宣撫に、石闗峒長官司と西泙蠻夷官司は金峒安撫に隷属させた。いずれもその酋長を長に充てた。
  • これに先立ち、忠路安撫司などが、元の故土官の子孫である牟酋蠻らがそれぞれ蠻民を擁して久しく谿峒に拠っていたが、いま招撫に応じたので官司を設けて職事を授けることを請うた。兵部が奏聞すると、帝は蠻を馭するにはその情に順うべきだが、授ける諸司には等差を設けよと言った。兵部は、四百戸以上のものは長官司、四百戸以下のものは蠻夷官司とし、元の土官の子孫には量って職を授け、招いた官司の管属に従わせることを議し、みなその通りとされた。三年に一度の朝貢は旧例の通りとさせた。
  • 九年(1434年)木册長官の田谷佐が、高羅安撫が常に勢いに倚って侵し、その土地人民を奪ってきた、すでに朝廷の分理を蒙ったがなお宿怨が平らがず加害を恐れるとして、直接施州衛に隷属させることを乞い、許された。
  • 正統三年(1438年)散毛宣撫の覃友諒の子瑄に試職を命じた。初め友諒は罪で械されて京へ赴く途中に逃げ隠れ、後に官軍に獲られて獄死していた。ここに至って本司が、その子は蠻民に信服されているとして襲職を乞うたので、帝は友諒の罪は重く革すべきだが、蠻であるゆえに法を詘げて恩を信じ、瑄に試職させて後の効を図らせた。
  • 景泰二年(1451年)禮部が奏した。散毛宣撫司副使の黄縉が、瑄は親兄を謀殺し律では斬に当たるが、その妻譚氏が子の忠らを遣わして馬を貢し罪を贖おうとしていると称している。しかし瑄の罪は重く宥すべきでないから、鈔を給して馬の値に酬いるべきだ、と。その通りとされた。
  • 天順元年(1457年)容美宣撫の田潮美が老疾のため子の保富に代職させることを請い、許された。
  • 五年(1461年)禮部が奏した。施州木册長官司の土舍譚文夀は兇暴で、あわせて不法・誹謗の言をこしらえ、罪は刑に当たる。いまその母の向氏が馬を進めて贖おうとしているが、従うべきではない、と。帝は鈔百錠を給してその母を慰め、子はなお禁錮させた。
  • 成化二年(1466年)揺把峒長官の向麥答踵が、近隣の洗羅峒長が、本洞の土兵が両廣の征に調され村寨が空虚になったのを知り、土蠻を煽り誘って攻め刧したと奏し、官軍を調して𠞰治することを乞うた。
  • 五年(1469年)禮部が、容美宣撫司の田保富らが人を遣わして方物を進貢したが数に及ばず、使者の侵盗が疑われるので賞を停め、なお所司に移知すべきだと奏した。施州など諸衛の八安撫司も、成化五年の朝覲の進馬をすでに辺衛に付して騎操に充てたのに、諸衛の収馬の文移が届かず虚詐の恐れがあるので、勘実のうえ賞を給してほしいとそれぞれ奏し、いずれも従われた。
  • 𢎞治二年(1489年)木册長官の田賢および容美の致仕田保富がそれぞれ馬を進めて土人譚敬保らの罪を贖おうとした。刑部は、蠻民が馬を納めて罪を贖うのは軽い罪なら許せるが重い罪は宥しがたいとして、按臣に察覈させるべきだと言った。
  • 八年(1495年)容美宣撫が馬と香を貢したが、禮部は香が数に及ばず、馬も多くが道中で斃れ、しかも文験が無いとして、賞を半分与えるよう命じた。
  • 九年(1496年)金峒安撫の覃彦龍が奏した。境内は杉木を産し、かつてこれを売って金三千を庫に貯えた。いま彦龍は年老い、子は一人しかないので、死後に土人が争奪するのを恐れる。部に解送したい、と。工部は貢典に非ずとして却けた。

施州――正徳・嘉靖の紛擾

  • 正徳四年(1509年)容美宣撫および椒山瑪瑙長官司が遣わした通事の劉思朝らが、赴京進貢の沿道で驛𫝊に需索し、侦事の者に摘発された。魯橋以北だけで千余金に上った。部臣が奏聞したが、帝は遠蠻であるとして宥した。散毛宣撫および五峰石寶・水盡源通墖平長官司が入貢の期に後れ、部議で賞を半分とし、従われた。
  • 九年(1514年)大田千戸所千戸の冉霦の子舜卿を指揮僉事とした。自ら川寇討伐の功を陳べたためである。
  • 十一年(1516年)容美宣撫の田秀が幼子を愛し、兄の白俚俾を逐って幼子に襲がせようとした。白俚俾は恨んで父とその弟を賊殺した。事が聞こえ、鎮巡官に下して験治させ、磔死とした。土官の唐勝富・張世英らが白俚俾のために奏辨したので罪も当坐すべきであったが、詔して、蠻獠は異類であって尽くは法で縄しがたいとして並坐を免じ、戒飭するにとどめた。
  • 十五年(1520年)容美宣撫司同知の田世瑛が、鎮南軍民府の古印を獲た、これは始祖の田始進が開熙二年に頒給されたものだとして、宣撫司を軍民府に改陞することを乞うた。禮部は、宣撫を開設して印を頒ってすでに久しく、古印のために改めるべきでないとし、繳納させるよう議して、その通りとされた。
  • 嘉靖七年(1528年)容美宣撫司・龍潭安撫司が朝貢のたびに千人を率い、通過する先で擾害した。鳯陽巡撫の唐龍が奏聞し、禮部は旧制で進貢は百人を過ぎず、赴京は二十人を過ぎないとして、所司に申飭を命じた。また忠孝安撫司の把事田春ら数十人が入貢と称して闗文を偽造し、驛𫝊を騒擾した。應天巡撫が奏聞し、兵部は、土司が例に違って入貢し、しかも通過先で横索するのは他の虞れがあるとして、厳しく禁ずるよう諭すことを議した。
  • 二十六年(1547年)臘壁峒など長官司が入貢したが、禮部が印文を検めて詐偽と判明した。詔してその賞を革め、あわせて按臣に下して勘問させた。
  • 三十三年(1554年)湖廣・四川・貴州総督にあわせて容美十四司を節制させることを詔した。
  • 初め、容美土官の田世爵と土官の向元楫とは累世の仇であった。元楫が幼い時、世爵は偽って講和し、娘を嫁がせたうえでその産を奪おうと謀り、元楫を姦の罪で誣告した。有司は激変を恐れて自ら捕えさせ、元楫は下獄して死罪と論じられた。世爵はそこで発兵して向氏をことごとく俘え、その土地を籍に入れてみな没入した。久しくして撫按がその謀を知り、元楫と対状するよう責めたが、世爵は出頭せず、密かに羅峒の土舍黄中らと叛を謀った。
  • そこで湖廣巡按御史の周如斗が、荆南道を移して施州衛を分巡させて控制の便を図り、廣西清浪などの戍軍を調して行伍を充実させることを請うた。疏は督臣の馮岳らに下されて議された。岳らは言う。施州は地勢が孤懸していて久しくは居られず、戍軍も一時には集められない。荆瞿の守備を施州に、九永の守備を九谿に移し、上荆南道に巡厯を備えさせるべきだ。世爵は驕横で有司が摂治できず、ひとり久しく元楫を繋いでいるのは何事か。督臣に容美節制の権を仮して世爵の抗違の罪を問い、悛めなければ法で縄すべきだ、と。その通りとされた。
  • この時、龍潭安撫の黄俊はもとより貪暴で、支羅洞の寨に拠り、睚眥のことで人を殺して繋獄されていた。白草番の反に会い、俊の子中が立功して父の罪を贖うことを請い、さらに自ら副指揮を求めて当事者に賄い、許された。俊は出るといよいよ驕り、中および群盗の李仲實らと四川の雲陽・奉節の間で恣行した。副使の熊逵らが計って俊と仲實を禽らえ、俊は獄死した。中は自ら縛して降り、余党の譚景雷らを執えて自ら贖った。帝は俊を追戮して梟示し、仲實らを斬に論じ、中を謫戍とし、功のあった者に賞した。
  • 三十五年(1556年)容美宣撫の田九霄に襲職を命じ、紅紵衣一襲を賜った。浙江の黄宗山で倭を撃った功による。

施州――隆慶・萬厯から崇禎

  • 隆慶元年(1567年)吏科給事の朱繪らが、湖廣施州衛忠路安撫の覃大寧が一日に五度も上奏し、語に不実が多いとして究治を請うた。都察院は、金峒安撫の土舍覃璧が印を争って相殺したこと、および磁峒が四川に轄されるべきでないことを議し、いずれも撫按官に勘報させた。
  • 四年(1570年)覃璧が乱を起こして官軍を傷つけた。撫按が失事の諸臣の罪を治めることを請うたが、兵部は、本衛は境外に孤懸し事は倉猝に起きたのだから寛く貰して後の功を責めるべきだと言った。帝はもっともとし、所司に機を見て𠞰撫させた。
  • 五年(1571年)巡撫の劉慤が覃璧平定後に五事を条議し、いずれも従われた。
  • 川東の管轄する巫山・建始・黔江・萬縣を上荆道に改属させること。
  • 荆州は施州衛から遠く巡厯に不便であり、夷陵の西には𫝊友徳が開いた蜀を取る故道で百里荒と名づけられたものがあり、衛まで僅か五百余里である。巴東の石砫司巡檢と施州衛の州門驛・三㑹驛を近い土地に移して閭井を連絡させ、さらに百里荒および東卜壠に哨堡を創建し、千戸一員に班軍百人を督させて戍守させること。
  • 施州衛は延袤が広く物産が最も豊かであるのに、衛官の朘削で民が逃げ夷地が乱れる。通判を裁して同知を設け、民と蠻とを撫治し、徭賦を均平にし、額外の横索をさせないこと。
  • 金峒の世官を遽かに絶やすべきではない。覃勝の罪を貸して安撫から峒長に降し、支羅所百戸の提調に従わせること。
  • 施州の管轄する十四司の応襲の官舍は、必ず先に道院に申告してから理事を許し、擅に名号を立てる者は厳治すること。あわせて兵巡道に毎年施州を経厯させ、あらかじめ各官舍を調集して奬諭し、学に赴かせて観化させること。
  • 萬厯十一年(1583年)湖廣の撫按が、施州衛・施南など宣撫司の各官は引き続き鎮筸參將の節制を聴くことを敕書に載せて事権を一つにすることを奏し、従われた。
  • 崇禎十二年(1639年)容美宣撫の田元が疏で言う。六月に榖賊がまた叛し、撫治の両臣が土兵を調用したので、臣はただちに行糧と戦馬を捐じ、土兵七千を遣って副長官の陳一聖らに将いさせ前行させた。ところが悍軍の鄧維昌らが征調を憚り、譚正賓と結んで七十二村から銀一万七千両を鳩め、巴東知縣の蔡文陞に賂って、民を逼って従軍させているという文を上報させ、忠義を阻んで辺釁を啓いた、と。帝は撫按にその事を核べさせた。この時、中原は寇盗が充斥して時事は日ごとに非となり、土司の徴調が至らなくてももはや問うこともできなくなっていた。

永順――沿革と洪武・永樂・宣徳

  • 永順は漢の武陵、隋の辰州、唐の溪州の地である。宋初に永順州とされ、嘉祐中に溪州刺史の彭仕羲が叛したので大兵で臨むと仕羲は降った。熙寧中に下溪州城を築き、㑹溪の名を賜った。元の時、彭萬潛が自ら永順等処軍民安撫司と改めた。
  • 洪武五年(1372年)永順安撫使の順徳汪倫、堂厓安撫使の月直が人を遣わして偽夏から受けた印を献上したので、詔して文綺と襲衣を賜った。
  • 六年(1373年)永順等処軍民宣慰使司を置き、湖廣都指揮使司に隷属させた。領する州は三、南渭・施溶・上谿である。領する長官司は六、臘惹洞・麥著黄洞・驢遲洞・施溶溪・白崖洞・田家洞である。
  • 九年(1376年)永順宣慰の彭添保が弟の義保らを遣わして馬と方物を貢し、衣幣を差を付けて賜った。以後は三年に一度入貢した。
  • 永樂十六年(1418年)宣慰彭原の子の仲が、土官・部長六百六十七人を率いて馬を貢した。
  • 宣徳元年(1426年)禮部が、永順宣慰の彭仲の子英の朝正が期に後れたとして罪を請うたが、帝は遠人には風濤や疾病の障りがないとは言えないとして、なお例の通り賜予した。総兵官の蕭綬が、酉陽宋農里石提洞の軍民が臘惹洞長の謀古賞らに連年攻め刧され、被害が後溪にも及び、招いても従わないとして、兵を調して𠞰することを乞うた。謀古賞らは懼れて人馬を罰として出し罪を贖うことを願ったので、兵を罷めた。
  • 正統元年(1436年)彭仲の子世雄に襲職を命じた。
  • 天順二年(1458年)世雄に、土兵を調して貴州東苖を会𠞰するよう諭した。

永順――成化から正徳

  • 成化三年(1467年)兵部尚書の程信が、永順の兵を調して都掌蠻を征することを請うた。
  • 十三年(1477年)征苖の功で宣慰の彭顯英に散官一階を進め、なお敕を賜って奬労した。
  • 十五年(1479年)永順の賦を免じた。
  • 𢎞治七年(1494年)貴州が平苗の功を奏し、宣慰の彭世騏らに労があったとして、世騏は陞職を乞うた。兵部は例に非ずとし、世騏の階を昭勇将軍に進め、なお敕を賜って襃奬することを請い、従われた。
  • 八年(1495年)世騏が馬を進めて謝恩した。
  • 十四年(1501年)世騏が北辺に警があるとして、土兵一万を帥いて延綏に赴き討賊を助けることを請うた。兵部は不可と議し、敕を賜って奬諭し、あわせて奏事の使者に路費として鈔千貫を賜り、翌年の朝覲を免じた。ちょうど賊婦米魯を征する調を聴くところであったからである。
  • 正徳元年(1506年)世騏の従征の功で紅織金麒麟服を賜り、世騏は馬を進めて謝恩した。
  • 二年(1507年)馬を進めて中宮の冊立を賀し、例の通り賞を給した。
  • 五年(1510年)永順と保靖が地を争って累年攻め合い決着しないので朝廷に訴えた。それぞれ米三百石を罰した。
  • 六年(1511年)四川の賊藍廷瑞・鄢本恕らとその党二十八人が両川に乱を倡え、烏合の衆十余万人となり、王号を僭し四十八営を置き、城を攻め吏を殺して黔・楚に毒を流した。総制尚書の洪鍾らが討ったが克てず、その後官軍に遏められて食に乏しくなると、偽って撫を聴きながら劫掠は自若としていた。廷瑞は娘を永順の土舍彭世麟に嫁がせて兵を緩めることを冀った。世麟は偽って許し、期を約したところ、廷瑞・本恕および王金珠ら二十八人がみな来会したので、伏兵を置いてこれを禽らえた。余賊は潰えて河を渡り、官兵が追って囲み、禽斬および溺死した者は七百余人であった。総制・巡撫が捷を奏聞し、賞に差があった。論者はこの役では世麟を首功とした。
  • 七年(1512年)賊の劉三らが遂平から東臯に趨った。宣慰の彭明輔と都指揮の曹鵬らが土軍で追撃し、賊は倉卒に河を渡って溺死した者二千人、斬首八十余級であった。巡撫の李士實が奏聞し、永順宣慰に格外の加賞を命じ、なお明輔に誥命を給した。
  • 十年(1515年)致仕した宣慰の彭世麒が大木三十、それに次ぐもの二百を献じ、自ら運搬を督して京に至った。子の明輔の進献も同様であった。敕を賜って襃諭し、進奏の使者に鈔千貫を賞した。
  • 十三年(1518年)世麒が大楠木四百七十を献じ、子の明輔も営建に備える大木を進めた。詔して世麒を都指揮使に陞せ、蟒衣三襲を賞してなお致仕させ、明輔には政三品の㪚官を授けて飛魚服三襲を賞し、敕を賜って奬励し、鎮廵官に宴を設けて労わせた。
  • この時、政は権倖から出て恩沢はみな干請によっていた。そこで郴州の民が、世麒の征賊の際の号令が厳明であったことを頌し、その土官の彭芳らも世麒の功を頌して蟒衣・玉帯を乞うたが、兵部が格して不可としたのでやめになった。世麒は賞を辞して立坊を請い、「表勞」の名を賜った。
  • ちょうど保靖との両宣慰の間で両江口をめぐる争いの議があり、その詞が明輔に連なって、主管者が逮治を議した。明輔はそこで蠻民に自分の従征の功を奏させ、香鑪山で得るはずの陞賞をすべて辞退して逮治の辱を贖おうとした。部議はすべてこれをやめにした。

永順――嘉靖の抗倭と萬厯の援遼

  • 嘉靖六年(1527年)岑猛を禽らえた功を論じ、応襲の宣慰彭宗漢の赴京を免じ、宗漢の父明輔・祖世麒に銀幣を加えた。
  • 二十一年(1542年)巡撫の陸傑が、酉陽と永順が採木のことで仇殺し、保靖もその間を煽り惑わして大いに地方の患いとなっていると言った。そこで川・湖の撫臣に撫戢させ、兵端を醸さないよう命じた。この年、永順の秋糧を免じた。
  • 三十三年(1554年)冬、永順の土兵を調して蘇州・松江で倭賊を協𠞰させた。翌年(1555年)永順宣慰の彭翼南が兵三千を統べ、致仕宣慰の彭明輔が二千を統べ、ともに松江に会した。時に保靖の兵が石塘灣で賊を破ると、永順の兵が邀撃し、賊は王江涇に奔って大いに潰えた。保靖の兵を最とし、永順をこれに次ぐとした。帝は敕を降して奬励し、それぞれ銀幣を賜い、翼南には三品服を賜った。
  • これに先立ち、永順の兵が新場で倭を𠞰した際、倭はわざと出ず、保靖の兵が誘われて急に先に入り、永順の土官田菑・田豐らも争って入ったので賊に囲まれてみな死んだ。議する者はみな督撫の経略が宜しきを失って永順の兵を再戦再北させたと言った。王江涇の戦いでは保靖が犄し永順が角し、斬獲は一千九百余級。倭は気を奪われ、東南の戦功の第一とされた。
  • この時、功を邀える者が賞を行い、翼南は昭毅将軍を授けられ、次いで右參政に陞って宣慰司の事を管し、明輔とともに銀幣の賜を受けた。
  • この時、保靖・永順の二宣慰は破倭の後に兵が驕り、通過する先でみな劫掠し、沿江の上下が苦しんだ。御史が究治を請うたが、部議は、土兵は新たに功があるのに遽かに罰すれば遠人の心を失うとして諭し責めるにとどめ、あわせて浙江・南直隷に郷勇を練らせ、以後は軽々しく土兵を調さないよう令じた。
  • 四十二年(1563年)大木献上の功で再び賞を論じ、明輔に都指揮使を加えて蟒衣を賜り、その子で宣慰司事を掌る右參政の彭翼南を右布政使とし飛魚服を賜り、なお敕を賜って奬励した。
  • 四十四年(1565年)永順が再び大木を献じ、詔して明輔・翼南に二品服を加えた。
  • 萬厯二十五年(1597年)東方の事が急を告げ、永順の兵一万を調して援に赴かせた。宣慰の彭元錦が自ら衣糧を備えて調を聴くことを請うたが、その後言を左右にして要挾する迹があったので、罷めさせた。
  • 三十八年(1610年)元錦に都指揮の銜を賜い、蟒衣一襲を給し、妻の汪氏を夫人に封じた。
  • 四十七年(1619年)永順の貢馬が期に後れたので賞を減じた。兵部は、先に調した宣慰元錦の兵三千は援遼にすでに半年経つのに関に到った者は僅か七百余人だとして、主兵者を究めるよう命じた。
  • 四十八年(1620年)元錦を都督僉事に進めた。これに先立ち、元錦は兵三千では立功に足らず一万を以て往くことを願い、朝廷はその忠を嘉して恩を加えること優渥であった。ところが八千を檄調すると僅か三千で塞責し、また病と称して上疏したので巡撫に劾された。㫖を得て切責され、元錦はやむを得ず出兵して通州に抵ったが、北で三路の敗䘐を聞くとそのまま大潰した。そこで巡撫の徐兆魁が、永順の兵八千を調して費用は十万を踰えたのに、いま奔潰して虚しく糜費し無益だと言い、これを罷めた。

保靖――沿革と洪武・永樂・宣徳

  • 保靖は唐の溪州の地である。宋に保靖州を置き、元もこれに因って新添葛蠻安撫司に属させた。
  • 明の太祖が初めて起こったとき、安撫使の彭世雄が属を率いて帰附し、なお保靖安撫使とされた。
  • 洪武元年(1368年)保靖安撫使の彭萬里が子の徳勝を遣わして表を奉じ、馬と方物を貢した。詔して安撫司を保靖宣慰司に陞せ、萬里をこれに充て、湖廣都指揮使司に隷属させた。以後の朝貢は制の通りであった。
  • 永樂元年(1403年)保靖の族属の大蟲可宜らが互いに仇殺したので、御史の劉從政に敕を齎させて撫諭した。
  • 三年(1405年)辰州衛指揮の襲能らが筸之坪など三十五寨の生苗廖彪らを招諭し、それぞれ子を遣わして入貢した。そこで筸子坪長官司を設けて彪を充て、保靖に隷属させた。
  • 九年(1411年)宣慰の彭勇烈が人を遣わして貢した。
  • 十二年(1414年)筸子坪の賊呉者泥が苗王を自称し、蠻民の苗金龍らと乱を起こしたが、総兵の梁福がこれを平らげた。
  • 間もなく者泥の子呉擔竹がまた苖の呉亞麻を誘い、貴州の答意など諸蠻を糾合して叛したが、都督の蕭授が斬って平らげた。
  • 二十一年(1423年)宣慰の彭藥哈俾が人を遣わして馬を貢した。
  • 宣徳元年(1426年)宣慰の彭大蟲可宜が子の順を遣わして貢した。
  • 四年(1429年)兵部が、保靖には旧来二人の宣慰があったが、一人は人に殺され、一人は人を殺して死罪に当たり、同知以下の官もみな欠けているとして、流官による統治に改めることを請うた。帝は、蠻の性は馴らしがたく流官は土俗に諳くないとして、都督の蕭授に衆が推服する者を択んで奏聞させた。
  • 正統十四年(1449年)保靖宣慰と族人の彭南木答らが互いに訐奏したが、その後講和し、米を輸めて誣奏の罪を贖うことを願い、従われた。
  • 景泰七年(1456年)保靖の土兵を調して銅鼓・五開・黎平の諸蠻を協剿させ、先に賞を頒って犒った。
  • 天順元年(1457年)宣慰の彭捨怕俾に敕して、兵を選んで進討させた。
  • 三年(1459年)保靖が夏の災害を奏した。

保靖――成化・𢎞治の内訌と両江口の争い

  • 成化二年(1466年)保靖宣慰の彭顯宗の征蠻の功で誥命を給した。
  • 三年(1467年)再び保靖の兵を調して都掌蠻を征した。
  • 五年(1469年)保靖宣慰ら諸土司の成化二年分の税糧八百五十三石を免じた。しばしば廣西および荆襄・貴州の征に調されて功があったからである。
  • 七年(1471年)顯宗が老いて事に任えないので、その子の仕瓏に代わらせた。
  • 十三年(1477年)平苖の功で顯宗・仕瓏ともに一階を進めた。
  • 十五年(1479年)災害により保靖の租賦を免じた。仕瓏が、両江口長官の彭勝祖が例に違って進貢したことを奏し、部臣は逮問すべきと議したが、鎮巡官に諭させるにとどめた。
  • 𢎞治十二年(1499年)永順宣慰司が、仕瓏が擅に兵を率いて長官の彭世英を攻め、多年仇殺して禍を構えて已まないとして、発兵して征𠞰することを乞うた。部の覆奏は、しばしば按問を行っても報告が無いので、鎮巡官に速やかに勘奏させるべきだとし、従われた。
  • 十四年(1501年)保靖宣慰らが調を聴くところなので翌年の朝覲を免じた。貴州の賊婦米魯を征する役があったからである。
  • 初め、保靖安撫の彭萬里が洪武元年に帰附し、その地に保靖宣慰司を設けて萬里に宣慰使を授け、白崖・大别・大江・小江など二十八の村寨を領させた。萬里が卒して子の勇烈が嗣ぎ、勇烈が卒して子の藥哈俾が嗣いだが年少であった。萬里の弟麥谷踵の子である大蟲可宜が土人に諷して、自分を副宣慰・同理司事とするよう奏させ、そのうえで藥哈俾を殺してその十四寨を占拠した。事が発覚して逮問され獄死し、副宣慰は革されたが、占拠された寨はもとのままであった。
  • その後、勇烈の弟の勇傑が嗣ぎ、子の南木杵、孫の顯宗、曾孫の仕瓏へと伝えた。一方、大蟲可宜の子の忠、忠の子の武、武の子の勝祖およびその子の世英とが代々の仇敵となった。武は正統中の従征の功で両江口長官を授かり、勝祖も成化中に功で前職を授かり、ともに司に随って理事したが印署は無かった。
  • 𢎞治の初め、勝祖は年老い世英は無官であったので、仕瓏にその地を奪われることを恐れ、例に援って世襲を求めた。奏して覈実を行わせたが仕瓏が沮んだので、仇恨はいよいよ甚だしくなり、両家の轄する土人もそれぞれ党を分けて仇殺した。永順宣慰使の彭世麒は勝祖の娘を娶っており腹心となって左右したので、互いに攻撃し合い、奏訴に寧い歳が無かった。
  • 𢎞治十年(1497年)巡撫の沈暉が、世英に粟を納めさせて父の職を嗣がせ、それで平定を図ることを奏したが、仕瓏の奏訐は止まなかった。この時、敕して世英を貴州従征に調したが、兵部の移文に「兩江口長官司」の字があったので、仕瓏は世英が官署を得て自分の約束を聴かなくなるのではないかと疑い、またこれを奏言した。
  • そこで巡撫の閻仲宇・巡按の王約らが、前後の章奏を兵部・都察院に下して議させることを請うた。議は次の通り。世英が占拠する小江の七寨を仕瓏に返させ、大江の七塞だけを領させて仕瓏の約束を聴かせる。もと居た両江口は襟喉の要地なので清水溪堡の官兵を調して守らせ、世英を沱埠に徙して争いの端を絶つ。以後、土官の応襲の子弟はことごとく入学させて風化に漸染させ頑㝠を格し、入学しない者には承襲を認めない。世麒は世英に党したので法では治めるべきだが、湖廣の従征に忠勤を効し、すでに功で贖うことを許す㫖がある。仕瓏・世英はともに逮問し、勝祖は常例に照らして発遣する。奏上され、従われた。𢎞治十六年(1503年)六月のことである。

保靖――正徳の仇殺と嘉靖の抗倭

  • 正徳十四年(1519年)保靖両江口の土舍彭惠は、祖の大蟲可宜以来彭藥哈俾と世仇であったが、この時さらに宣慰の彭九霄と怨みを構えた。永順宣慰の彭明輔がこれと姻を連ねて兵力を助けたので、九霄との仇殺が往復して数年止まず、死者は五百余人、前後の訐奏は累計八十余章に及んだ。守巡官が惠を獄に繋ぐと明輔が衆を率いて劫し去り、ほどなくまた捕えて繋いだ。
  • 事が聞こえ、詔して都御史の呉廷舉に勘処させた。廷舉は鎮巡に議させ、惠の罪は誅に当たるが土蠻はことごとく法で縄しがたいとして、惠を辰州・常徳の城中に徙し、九霄に価を出させて両江口の故地と易えさせ、なお左遷された文官二人を首領官として勧め相けさせ、数年の後に心を改め化に向かえば敕を賜って奬諭し首領に擢用することを請うた。兵部の議は、惠を内地に徙せば後の患いを貽すことを恐れるとして、廷舉に再議させた。
  • そこで廷舉らは改めて、大江の右の五寨を保靖に帰し、大江の左の二寨を辰州に属し、大剌巡檢司を設けて流官一人に主らせ、惠は遷徙を免じてなお沱埠に居らせ、土舍の名目で巡檢の事を協理させることを請うた。部の覆奏は廷舉の言の通りとした。
  • 嘉靖六年(1527年)岑猛を禽らえた功で九霄を湖廣參政に進め、銀幣を賜った。長子の虎臣は戦没して指揮僉事を贈られ、次子の良臣が襲職し、この時は赴京を免じられた。
  • 二十六年(1547年)保靖の秋糧を免じた。
  • 三十三年(1554年)詔して宣慰の彭藎臣に所部三千人を帥いて蘇州・松江に赴き倭を征させた。翌年(1555年)石塘灣で倭に遇って大いに戦い、これを破った。賊は北の平望に走り、諸軍が尾して王江涇で大破した。功を録して保靖を首とし、敕して藎臣に銀幣ならびに三品服を賜い、兵を統べてさらに賊を撃たせた。
  • これに先立ち、都司の李經が保靖の兵を率いて倭を新場に追ったが、倭二千人が伏して出ず、保靖の土舍彭翅が軍を引いて探ったところ伏に中り、所部とともに死んだ。翅に一官を贈り、あわせて棺殮の具を賜った。王江涇の捷に及んで藎臣を昭毅将軍に進めた。
  • 次いで保靖の土兵六千を総督の軍前に調した。胡宗憲の請によるものである。この時すでに趙文華・宗憲の功を叙しており、さらに藎臣に右參政・管宣慰司事を加え、なお銀幣を賞した。
  • 萬厯四十七年(1619年)保靖の兵五千を調し、宣慰の彭象乾に親統して援遼させた。
  • 四十八年(1620年)象乾に指揮使を加えた。象乾は涿州に至って病み、夜中に兵の逃散する者が三千余人に及んだ。部臣が奏聞し、帝は厳しい㫖で統兵者を責め、あわせて監軍道に敕して沿道で招撫させた。
  • 翌年(1621年)象乾は病んで行けず、子姪に親兵を率いさせて関を出させ、渾河に戦って全軍がみな没した。
  • 天啟二年(1622年)象乾を都督僉事に進め、彭象周・彭緄・彭天祐にそれぞれ都司僉事を贈った。渾河の役で一門が殉戦し、義烈が諸土司の冠であったからである。