明史卷三百九 列傳第一百九十七 流賊

流賊総序

  • 盗賊の禍はどの時代にもあったが、明末の李自成・張獻忠に至って極まった。史書の記載でこれほど酷いものはない。
  • 永樂年間に唐賽兒が山東で乱を唱え、その後も隙に乗じて兵を弄ぶ者がしばしば現れたが、いずれもすぐに撲滅された。ただ武宗の世だけは流寇が蔓延して宗社を危うくし、それでも結局は掃除された。
  • 莊烈帝は励精有為で武宗とは天と地ほども違うのに、かえって天下を失ったのはなぜか。
  • 明が興って百年、朝廷の綱紀はすでに粛正され、天下の風俗はまだ薄れていなかった。孝宗が賢能を選挙して中外に配し、民とともに休養生息すること十余年、仁沢は深く人心は固く、元気は盛んで国脈は安らかであった。武宗の童昏でしきりに稗政を行い、中官や倖臣が左右を濁乱させても、根本はまだ抜き尽くされず、宰輔にも老成の者が多かった。盗賊が四方に起こると王瓊が独り中枢を掌り、陸完・彭澤が閫帥を分任し、委任が専らで横から掣肘されることがほとんどなかった。だからこそ危うくとも亡びなかった。
  • 莊烈帝は神宗・熹宗のあとを承けた。神宗は怠荒して政を棄て、熹宗は閹人を昵近し、元気は尽き国脈は絶えかけていた。もし熹宗の治世があと数年延びていたら、天下の滅亡は次の代を待たなかったであろう。
  • 莊烈帝が統を継いだとき、臣僚の党争の構図はすでに成り、民間の物力はすでに耗し、国家の法令はすでに壊れ、辺境の騒擾はすでに甚だしかった。
  • 莊烈帝は鋭意刷新して名と実を照合したが、人材の賢否・議論の是非・政事の得失・軍機の成敗を心中に見抜き、外から揺るがされずにいることができなかった。
  • そのうえ性は疑い深く監察に頼り、剛を好み気概を尚んだ。監察に頼れば苛刻で恩に乏しく、気概を尚べば急ぎすぎて措置を失う。
  • 群盗が山に満ち四方が沸き返ったとき、政柄を委ねられた者は凡庸でなければ佞人であり、剿と撫の両端で成算がなかった。内外の大臣は過失の取り繕いに追われ、人はみな利を計って自身を全うする心を懐き、率直で弊害の核心を衝く発言をする者はことごとく退けられて去った。
  • 閫帥に任じられた者は事権を中央に握られ功と過が償われず、一方面が敗れれば一人の将を戮し、一城が落ちれば一人の吏を殺した。賞罰を明らかにしすぎてかえって罰しえなくなり、統制を厳しくしすぎてかえって統制しえなくなった。
  • 加えて天災が流行し飢饉が重なり、政は繁く賦は重く、外は攻められ内は叛かれた。一人の身にたとえれば元気が衰えたところへ疽毒が並び発したようなもので、症状はもとより甚だ危うい。そこへ医者は良否とりまぜて進み、薬は寒と熱を互いに投じ、病は膏肓に入って救いようがなくなった。滅亡を待つほかなかったのである。
  • ゆえに明の滅亡は流賊によって亡びたが、滅亡を招いた根本は流賊にはない。
  • ああ、莊烈帝は亡国の君ではないのに亡国の運に当たり、しかも救亡の術に乏しく、ただ焦り苦しみ心乱れて独り上に立つこと十七年、帷幄には張良・陳平のような謀臣を聞かず、軍中には李光弼・郭子儀のような将を見ず、ついに宗社は顛覆して身を以て殉じた。悲しいことである。
  • 唐賽兒以下は事の本末をたどりやすく、その事跡は賊を剿した諸臣の伝の中にある。ここでは独り天下を亡ぼした者を記して、李自成・張獻忠の伝を立てる。

篇首の立伝者一覧

  • 李自成
  • 張獻忠

李自成――出自と生い立ち

  • 李自成は米脂の人。代々懐遠堡の李繼遷寨に住んだ。父の守忠に子がなく華山に祈ったところ、神が夢に「破軍星をお前の子としよう」と告げ、まもなく自成が生まれた。
  • 幼くして邑の大姓艾氏のもとで羊を牧した。長じて銀川駅の卒となり、騎射を善くしたが、粗暴な無頼で幾度も法を犯した。知縣の晏子賓が捕らえて死罪にしようとしたが脱走し、屠殺を業とした。
  • 天啟末、魏忠賢の党の喬應甲が陝西巡撫、朱童蒙が延綏巡撫となり、貪欲で盗を取り締まらず、盗賊はここから始まった。

李自成――崇禎元年〜二年 陝西の飢饉と群盗の蜂起

  • 崇禎元年(1628年)、陝西は大飢饉。延綏は軍餉を欠き、固原の兵が州の倉庫を掠奪した。白水の賊王二、府谷の賊王嘉允、宜州の賊王左掛・飛山虎・大紅狼らが一時に並び起こった。安塞の馬賊高迎祥は自成の舅にあたり、飢民の王大梁と衆を集めてこれに応じた。迎祥は闖王、大梁は大梁王を自称した。
  • 二年(1629年)春、詔して楊鶴を三邊總督としてこれを捕えさせた。參政の劉應遇が王二・王大梁を撃ち斬り、參議の洪承疇が王左掛を撃破し、賊はやや懼れた。
  • 折しも京師が戒厳となり、山西巡撫耿如杞の勤王の兵が騒いで西へ向かい、延綏總兵吳自勉・甘肅巡撫梅之煥の勤王の兵も潰えて群盗と合流した。延綏巡撫張夢鯨は憤死し、洪承疇が代わった。もとの總兵杜文煥を召して延綏・固原の兵を督させ、便宜に賊を剿させた。

李自成――崇禎三年 駅站の裁減と賊勢の拡大

  • 三年(1630年)、王左掛・王子順・苗美らは戦って屢々敗れ降伏を乞うたが、王嘉允は延安・慶陽の間を掠め、楊鶴の招撫を聴かず、神木から黄河を渡って山西を犯した。
  • このころ秦地の徴発は新餉・均輸・間架と名目が日ごとに増え、吏がこれに乗じて姦を働き、民は大いに困窮した。給事中劉懋の議で駅站が裁減され、山西・陝西の游民で駅の糧に頼っていた者は食を得られずみな賊に従い、賊はますます盛んになった。兵部郎中李繼貞が「延安の民は飢えて尽く盗となろう。国庫の金十万で賑済されたい」と奏したが、帝は聴かなかった。
  • 嘉允はすでに黄甫川・清水・木瓜の三堡を襲い破り、府谷・河曲を陥した。また神一元・不沾泥・可天飛・郝臨庵・紅軍友・點燈子・李老柴・混天猴・獨行狼といった諸賊が至る所で蜂起し、あるいは秦を掠め、あるいは東して晋に入り、城堡を屠り陥した。官兵は東西に奔走して撃ち、賊は降るか死ぬかしてたちまち滅びまたたちまち熾んになった。延安の賊張獻忠もまた衆を集めて十八寨に拠り、八大王と称した。

李自成――崇禎四年 三十六營と闖將

  • 四年(1631年)、孤山副将曹文詔が河曲で賊を破り、王嘉允は逃れ去った。のち岳陽から澤州・潞州を突き犯し、左右の者に殺された。その一党は王自用(号して紫金梁)を魁に推した。
  • 自用は群賊の老□□・曹操・八金剛・掃地王・射塌天・閻正虎・滿天星・破甲錐・邢紅狼・上天龍・蝎子塊・過天星・混世王らと、迎祥・獻忠を結び合わせて三十六營、衆二十余万を山西に集めた。自成は兄の子の過とともに迎祥に従い、獻忠らと合して闖將と号したが、まだ名は知られていなかった。
  • 楊鶴の招撫は効なく逮捕され、洪承疇が鶴に代わり、張福臻が承疇に代わった。諸将の曹文詔・楊嘉謨が賊を剿し向かうところ勝ちを得て、陝西の地はほぼ平定した。しかし山西の賊は大いに盛んで、寧鄉・石樓・稷山・聞喜・河津の間を剽掠した。

李自成――崇禎五年 山西の分割討伐

  • 五年(1632年)、賊は道を分けて四方に出て、大寧・隰州・澤州・壽陽の諸州県を連ねて陥し、山西全土が震動した。
  • そこで巡撫宋統殷を罷めて許鼎臣を代え、宣大總督張宗衡と分けて諸将を督させた。宗衡は虎大威・賀人龍・左良玉らの兵八千人を督して平陽に駐し、平陽・澤潞の四十一州県を担当した。鼎臣は張應昌・頗希牧・艾萬年の兵七千人を督して汾州に駐し、汾・太・沁・遼の三十八州県を担当した。
  • 賊もまた磨盤山に転じ入り、衆を三つに分けた。閻正虎は交城・文水に拠って太原を窺い、邢紅狼・上天龍は吳城に拠って汾州を窺い、自用・獻忠は沁州・武鄉を突いて遼州を陥した。

李自成――崇禎六年 山西三大盗の敗北と河北への転戦

  • 六年(1633年)春、官兵がともに進んで力攻し、自用は懼れてもとの錦衣僉事張道濬に降伏を乞うたが、約束が定まらぬうちに陽和の兵が襲ったので、賊は怒って約を破って去った。
  • 折しも總兵官曹文詔が陝西の兵を率いて至り、諸将の猛如虎・虎大威・頗希牧・艾萬年・張應昌らと合わせて剿し、屢々戦っていずれも大勝した。前後して混世王・滿天星・姬關鎖・翻山動・掌世王・顯道神らを殺し、自用・獻忠・老□□・蝎子塊・掃地王ら諸賊を破った。のち自用も四川の将鄧玘に射殺され、山西の三大盗はいずれも敗れた。
  • 初め賊が澤州を破ったとき、衆を分けて南に太行を越え、濟源・清化・修武を掠め懐慶を囲んだが、官軍に撃たれて逃走した。別の賊が西山に侵入して順德・真定の間を大掠し、大名道の盧象昇が力戦して退けた。賊は邢臺の摩天嶺から西下して武安に至り、總兵左良玉を敗った。河北三府はほぼ焼き掠められ、潞王が上疏して急を告げ、あわせて衛・鳳・泗の陵寝の守備を請うた。詔して特に總兵倪寵・王樸を遣わし、京營の兵六十人を率いて諸将とともに進ませた。
  • 賊はこれを聞いて河内から太行へ走ろうとしたが、文詔が迎え撃ったので進めなかった。山西で敗れた賊も河北に奔って合流し、迎祥・自成・獻忠・曹操・老□□らがみな至った。京兵がその後ろを迫り、左良玉・湯九州らが前を扼して、青店・石岡・石坡・牛尾・柳泉・猛虎村で連戦して屢々破った。賊は逃れようとしたが黄河に阻まれて大いに困った。
  • 賊は日ごろ曹文詔と張道濬を畏れていたが、道濬は先に事に坐して辺境送りとなり、文詔は秦・晋・河北を転戦して賊に遇えば必ず大勝したのに、御史がその驕慢を弾劾して大同總兵に転出させられた。そこで賊は偽って降伏を乞い、監軍の大監楊進朝がこれを信じて奏上した。
  • 折しも寒気で黄河が凍りついたので、賊は毛家寨から馬を進めてまっすぐ河南へ渡った。諸軍に黄河を扼する者がなく、賊は澠池・伊陽・盧氏の三県を連ねて陥した。河南巡撫元黙が諸将を率いて兵を盛んにして待ち構えると、賊は盧氏の山中に逃げ込み、間道から内鄉へ直行して鄖陽を掠め、また南陽・汝寧を分けて掠め、棗陽・當陽に入って湖廣に迫った。巡撫唐暉は兵を収めて境を守った。賊は歸州・巴東・夷陵等を犯し、夔州を破り廣元を攻めて四川に迫り、至る所で急を告げた。

李自成――崇禎七年 車箱峽の詐降

  • 七年(1634年)春、特に山陝・河南・湖廣・四川の四省總督を設けて専ら賊に当たらせ、延綏巡撫陳奇瑜をこれに任じ、盧象昇を鄖陽撫治とした。奇瑜には延水關で賊を破った威名があり、象昇は戦陣を経て兵を知っていたからである。そこで奇瑜は均州から入り象昇とともに進み、烏林關に軍を留めて賊数千級を斬った。賊は漢南へ走った。奇瑜は湖廣は憂うるに足らずとして兵を引いて西を撃った。
  • 初め賊が澠池から渡河したとき、高迎祥が最も強く、自成はこれに属していた。河南に入るに及んで、自成は兄の子の過、および李牟・俞彬・白廣恩・李雙喜・顧君恩・高傑らと結んで一軍を成した。過と傑は戦いに巧みで、君恩は謀に巧みであった。
  • 奇瑜の兵が至ると獻忠らは商雒へ奔り、自成らは興安の車箱峽に陥った。大雨が二か月続き、馬は秣を欠いて多く死に、弓矢はみな用をなさなくなった。自成は君恩の計を用い、奇瑜の側近に賄賂して偽りの降伏を申し出た。奇瑜は賊を軽んじて許し、諸将に檄して兵を控えて殺すなと命じ、通過する州県には糒を用意させて賊を送らせた。賊は桟道を渡るや大いに騒ぎ、通過した七州県をことごとく屠り、略陽の賊数万も来会して賊勢はいよいよ張った。奇瑜は籍を削られる罰を受け、自成の名がはじめて世に著れた。

李自成――崇禎七年後半 陝西・河南の転戦

  • やがて洪承疇が奇瑜に代わり、李喬が陝西巡撫、吳甡が山西巡撫となった。大學士温體仁は甡に「流賊は皮膚病のようなもの、憂えるには及ばぬ」と言った。
  • まもなく西寧に兵変が起こり、承疇は命を受けて東へ向かったが、変を聞いて急ぎ引き返した。迎祥・自成はそこで鞏昌・平涼・臨洮・鳳翔の諸府数十州県に入り、賀人龍・張天禮の軍を敗り、固原道の陸夢龍を殺し、隴州を四十余日囲んだ。承疇が總兵左光先に檄して人龍と合撃させ大破した。朝廷もまた河南・湖廣・山西・四川の兵を四道から陝西に入らせ、迎祥・自成は終南山に逃げ込んだ。
  • やがて東に出て陳州・靈寶・汜水・滎陽を陥し、左良玉が来ると聞いて梅山・溱水の間に陣を移し、配下の賊は下蔡を抜き汝寧の外郭を焼いた。そこで承疇に關を出て賊を追わせ、山東巡撫朱大典と力を合わせて撃たせた。

李自成――崇禎八年 滎陽の会盟

  • 賊はこれを察知し、八年(1635年)正月、滎陽に大会した。老□□・曹操・革裏眼・左金王・改世王・射塌天・横天王・混十萬・過天星・九條龍・順天王および迎祥・獻忠、あわせて十三家七十二營である。
  • 官軍を拒む策が決まらぬところへ自成が進み出て「一人の男でさえ奮い立つ、まして十万の衆ではないか。官兵など何もできぬ。兵を分けて向かう先を定め、利鈍は天に任せればよい」と言い、みな善しとした。
  • そこで議して、革裏眼・左金王が四川・湖廣の兵に当たり、横天王・混十萬が陝西の兵に当たり、曹操・過天星が黄河の線を扼し、迎祥・獻忠および自成らが東方を略し、老□□・九條龍が往来して策応することとした。陝西の兵が鋭いので射塌天・改世王を加えた。破った城邑の子女・玉帛はすべて均分することとし、衆は自成の言うとおりにした。

李自成――崇禎八年 鳳陽の皇陵焼き討ち

  • 先に南京兵部尚書呂維祺が賊の南下を懼れて鳳陽の陵寝の防備を加えるよう請うたが、返答がなかった。迎祥・獻忠が東下すると江北は兵が手薄で固始・霍邱がともに失守し、賊は壽州を焼き、潁州を陥した。知州尹夢鼇・州判趙士寬が戦死し、もとの尚書張鶴鳴が殺された。勝ちに乗じて鳳陽を陥し皇陵を焼いた。留守署正朱國相らはみな戦死した。
  • 報が届くと帝は素服して哭し、官を遣わして廟に告げ、漕運都御史楊一鵬を逮えて棄市とし、朱大典を代えて大いに兵を徴して賊を討たせた。
  • 賊は幟に大書して「古元真龍皇帝」と掲げ、楽を合わせて大いに飲んだ。自成が獻忠に皇陵の宦官で鼓吹の巧みな者を求めたが獻忠が与えず、自成は怒って迎祥とともに西の歸德へ趨き、曹操・過天星と合してふたたび陝西に入った。獻忠は独り東下して廬州へ向かった。
  • 承疇はちょうど汝州に馳せ至り、諸将の左良玉・湯九州・尤世威・徐來朝・陳永福・鄧玘・張應昌に湖廣・河南・鄖陽の諸関隘を分けて扼させ、曹文詔を中軍に召したが、文詔が至らぬうちに玘は兵の乱によって死んだ。
  • 迎祥・自成は終南山から出て富平・寧州を大掠した。老□□・獻忠・曹操・蝎子塊・過天星ら諸賊は承疇が關を出たと聞いて先後してみな陝西へ走り、西安・平涼・鳳翔の諸郡を焼き掠めた。承疇は急ぎ引き返して救い、諸将を分け遣わして老□□らを撃たせ、副總兵劉成功・艾萬年に寧州で迎祥・自成を撃たせたが、萬年は伏兵に遭って戦死した。文詔が怒って再び撃ったが、これも伏兵に遭って戦死した。
  • 群賊は勝ちに乗じて地を掠め、火は西安城中を照らした。承疇は力戦して涇陽・三原の間で決死の戦いを行い、賊は通過できなかった。獻忠・老□□らは別の道から朱陽關を突き、守關の将徐來臣は軍が潰えて死に、尤世威は矢に中って逃れた。かくて群賊はみな關を出て十三営に分かれて東を犯し、迎祥・自成だけが陝西に留まった。
  • このとき盧象昇はすでに湖廣巡撫に転じ、直隸・河南・山東・四川・湖廣の諸軍務を総理していた。詔して承疇に關中を、象昇に關外を督させた。賊も兵を分け、迎祥は武功・扶風以西を略し、自成は富平・固州以東を略した。承疇が将を遣わして自成を追い醴泉で小勝した。賊将高傑は自成の妻邢氏と通じ、誅を懼れて邢氏を連れて降ってきた。承疇は自ら自成を追って渭南・臨潼で大戦し、自成は大敗して東へ走った。迎祥も屢々敗れ、東に華陰を越え南原の険しい嶺を経て自成とともに朱陽關を出て獻忠と合流した。
  • 冬十一月、群賊が閿鄉に迫り、左良玉・祖寬が防いだが勝てず、賊は陝州を陥して雒陽を攻めた。河南巡撫陳必謙が良玉・寬を督して雒陽を援けた。獻忠は嵩・汝へ走り、迎祥・自成は偃師・鞏縣へ走り、魯山・葉縣を略し光州を陥した。象昇が確山でこれを撃破した。

李自成――崇禎九年 高迎祥の敗死と闖王襲名

  • 九年(1636年)春、迎祥・自成が廬州を攻めたが抜けず、含山・和州を陥して知州黎弘業および在籍の御史馬如蛟らを殺した。また滁州を攻めたが、知州劉大鞏・太僕卿李覺斯が堅守して下らなかった。象昇が自ら祖寬・羅岱・楊世恩らを督して来援し、朱龍橋で戦って賊は大敗、屍が水をふさいで流れなかった。北のかた壽州を攻めたが、もとの御史方震孺が堅守した。西へ折れて歸德に入り、辺将祖大樂に破られ、密・登封へ走り、もとの總兵湯九州が戦死した。道を分けて南陽・裕州を犯すと、必謙が南陽を援け、象昇が裕州を援け、大樂らに賊を撃たせて迎祥・自成の精鋭をほぼ殺し尽くした。
  • 賊はふたたび兵を分けて陝西に入り、迎祥は鄖・襄から興安・漢中へ、自成は南山から商雒を越えて延綏へ走り、鞏昌の北境を犯した。諸将の左光先・曹變蛟がこれを破り、自成は環縣へ走った。まもなく官軍が羅家山で敗れて士馬・器仗をことごとく失い、總兵官俞翀霄が捕えられ、自成の勢いはふたたび振るった。
  • 進んで綏德を囲み、東に黄河を渡ろうとしたが山西の兵に遮られ、また西へ米脂を掠めた。知縣邊大受を呼んで「ここは我が故郷である。我が父老を虐げるな」と言い、金を与えて文廟を修めさせた。榆林を襲おうとしたが河の水が急に増して賊は多く溺死し、韓城から西へ道を改めた。
  • このとき象昇および大樂・寬らはみな京師の援護に入っていた。孫傳庭が新たに陝西巡撫に任じられ、鋭意賊を滅ぼそうとした。秋七月、盩厔で迎祥を捕え、闕下に献じて磔死とした。ここに賊党はともに自成を推して闖王とした。
  • この月、階州・徽州を犯し、まもなく汧・隴を出て鳳翔を犯し渭河を渡った。

李自成――崇禎十年 四川侵入

  • 十年(1637年)、涇陽・三原を犯し、蝎子塊・過天星がともに来会した。傳庭が曹變蛟を督して七日連戦していずれも勝ち、蝎子塊は降った。
  • 自成は過天星とともに秦州へ奔り、蜀に入って寧羌を陥し、七盤關を破り、廣元を陥した。總兵官侯良柱が戦死した。ついで昭化・劍州・梓潼・江油・黎雅・青川等の州県を連ねて陥した。劍州知州徐尚卿・吏目李英俊、昭化知縣王時化、郫縣主簿張應奇、金堂典史潘夢科がみな死んだ。進んで成都を攻めること七日、抜けなかった。巡撫王維章は賊を避けたことに坐して召還された。

李自成――崇禎十一年 商洛山への潜伏

  • 十一年(1638年)春、官軍が梓潼で賊を敗り、自成は白水へ奔った。食が尽き、承疇と傳庭が梓潼原で合撃して大破し、自成は兵卒をことごとく失い、劉宗敏・田見秀ら十八騎だけで囲みを破って商洛山中に潜伏した。
  • この年に獻忠が降り、自成の勢いはますます衰えた。承疇は薊遼總督に、傳庭は保定總督に転じたが、傳庭は病を理由に辞して逮えられ下獄した。二人が去って自成はやや安んじた。總理熊文燦はもっぱら招撫を主とし、諜者が自成の死を報じることもあって、ますます手を緩めた。

李自成――崇禎十二年 再起と河南進出

  • 十二年(1639年)夏、獻忠が穀城で叛くと自成は大いに喜んで出て衆を収め、衆はふたたび大いに集まった。陝西總督鄭崇儉が兵を発して囲んだが、「囲む師は必ず一方を空けよ」と令したため、自成は空いた所から出て武關を突き獻忠を頼った。獻忠が自成を図ろうとしたので、察して逃げ去った。
  • 楊嗣昌が夷陵で督師し、檄して降伏を命じたが、自成はあざけりの言葉を返した。官軍が巴西・魚復の諸山中に自成を囲み、自成は大いに困って自ら縊れようとしたが、養子の雙喜が諌めて止めた。賊将の多くが降った。
  • 劉宗敏は藍田の鍛冶職人で最も驍勇だったが、これも降ろうとした。自成は宗敏と歩いて叢祠に入り、顧みて嘆じて「人は我を天子となるべきだと言う。占ってみよう。不吉なら我が頭を斬って降れ」と言った。三たび占って三たび吉であった。宗敏は諾して帰り、その二人の妻を殺して自成に「私は死んでも君に従う」と言った。軍中の壮士もこれを聞いて多く妻子を殺して従うことを願った。自成はそこで輜重をことごとく焼き、軽騎で鄖・均から河南へ走った。
  • 河南は大旱で穀一斛が万銭となり、飢民で自成に従う者は数万に上った。そこで南陽から出て宜陽を攻めて知縣唐啟泰を殺し、永寧を攻めて知縣武大烈を殺し、萬安王采□(底本欠字)を殺害し、偃師を攻めて知縣徐日泰が賊を罵って死んだ。十三年十二月のことである。
  • 自成の人となりは、頬骨が高く、目は落ちくぼんだ鴟の目、鼻は獅子鼻、声は豺のようであった。性は疑い深く残忍で、日々人を殺し、足を斬り心臓を裂いて遊びとした。通過する所の民はみな塢堡に籠って降らなかった。

李自成――李巖・牛金星・宋獻策の帰属

  • 把縣の挙人李信は、逆案に名を連ねた尚書李精白の子である。かつて粟を出して飢民を賑わせ、民は徳として「李公子が我らを生かした」と言った。折しも綱渡り芸人の紅娘子が叛いて信を捕え、無理に身を委ねさせた。信は逃げ帰ったが、官は賊とみなして獄に囚えた。紅娘子が救いに来て飢民も応じ、ともに信を助け出した。
  • 盧氏の挙人牛金星は磨勘によって斥けられ、ひそかに自成の軍に入って主謀となり、密かに帰ったが事が漏れて斬に坐し、のち減刑を得ていた。この二人がともに自成に投じ、自成は大いに喜んで信の名を巖と改めた。
  • 金星はまた卜者の宋獻策を薦めた。身の丈三尺余りで、讖記を献じて「十八子、神器を主る」と言い、自成は大いに悦んだ。
  • 巖は説いて「天下を取るには人心を本とします。人を殺さず天下の心を収めてください」と言い、自成は従って屠戮は減った。また掠奪した財物を散じて飢民を賑わせ、施しを受けた民は巖と自成の区別もつかず、いっしょくたに「李公子が我らを生かした」と呼んだ。巖はまた謡を作って「闖王を迎えれば糧を納めずにすむ」と児童に歌わせて煽り、自成に従う者は日ごとに増えた。

李自成――崇禎十四年 洛陽陥落と開封攻囲

  • 十四年(1641年)正月、河南(洛陽)を攻め、営中の兵卒が賊を城に引き入れて城は陥落し、福王常洵が殺された。自成の兵は王の血を汲んで鹿の醢に混ぜて嘗め、「福祿酒」と名づけた。王の世子由崧は裸で逃げた。自成は王邸の金を出して飢民を賑わせ、移って開封を攻めた。
  • このとき張獻忠もまた襄陽を陥して襄王翊銘を殺した。開封の周王恭枵は賊が至ると聞いて急ぎ庫の金を出して決死の士を募り、巡撫都御史高名衡らと固守した。自成は七昼夜攻めて囲みを解いて去り、密縣を屠った。賊魁の羅汝才、土寇の袁時中がみな自成に帰した。時中の衆は二十万、小袁營と号した。汝才はすなわち曹操で、獻忠とともに降り、ふたたび叛いて去った者である。
  • 自成ははじめ迎祥の裨将であったが、ここに至って勢いは大いに盛んになった。
  • 帝はもとの尚書傅宗龍を陝西總督として専ら自成に当たらせ、別に保定總督楊文岳に命じて会師させた。宗龍は關に馳せ入り巡撫汪喬年と兵を調えたが、兵はすでに出払っていたので、河南の大将李國奇・賀人龍の兵を配下に隷属させて急ぎ關を出た。文岳は虎大威の軍を率い、ともに新蔡に至って自成と遭遇した。人龍の卒が先に逃げ、國奇・大威も続いた。宗龍・文岳は親軍で塁を築いて自ら固めたが、夜に文岳の兵が潰えて陳州へ奔った。宗龍は賊と数日持ちこたえたが食が尽きて囲みを破って走り、捕えられて死んだ。
  • 自成は葉縣を陥して副将劉國能を殺し、郾城に左良玉を囲んだ。喬年が宗龍に代わって總督となり、關を出て襄城に軍を留めた。自成が鋭を尽くして攻め、喬年と副将李萬慶がともに死んだ。自成は諸生百九十人の鼻を削ぎ足を斬った。
  • 勝ちに乗じて南陽・鄧州など十四城を陥し、ふたたび開封を囲んだ。巡撫名衡と總兵陳永福が力を尽くして拒み、矢を射て自成の目に中て、砲で上天龍らを殪した。自成はいよいよ怒った。

李自成――攻城法「放迸」

  • 自成は城を攻めるのに古来の梯衝の法を用いず、もっぱら瓴甋(甎)を取った。一枚の甎を得れば営に帰り、遅れた者は必ず斬った。甎を取ればすぐに穴を穿ち、穴ははじめ一人が入るだけだが次第に十人・百人となり、順に土を運び出す。三五歩ごとに土柱を一つ残して太綱をつなぎ、掘り終わると万人が綱を曳き、一声かければ柱が折れて城が崩れる。
  • 名衡は城上に横の坑道を鑿ってその下の音を聴き、毒物・汚物を注ぎ込んで多く死なせた。そこで賊は城の壊れた所で火攻の法を用い、甕に火薬を詰め、火をつけて薬が発すると当たった者はたちまち砕けた。これを「放迸」と名づけた。

李自成――崇禎十五年 開封の水没

  • 十五年(1642年)二月、城が半ば崩れ、賊は放迸の法で攻め、鉄騎数千が馳せ騒いで城が崩れれば押し入ろうと窺った。城はもと宋の汴都で金人が重ねて築いたもの、厚さ数丈、土は堅く、火が外へ向かって撃ち返して賊の騎兵は多く殲された。自成は驚いて去った。
  • 南のかた西華を陥し、ついで陳州を屠った。副使關永傑・知州侯君耀がともに賊を罵って死んだ。歸德・雎州・寧陵・大康など数十の郡県がことごとく焼き払われた。商邱知縣梁以樟は傷を負って死にまた蘇生したが、一家は殲滅された。
  • ついでふたたび開封を攻め、長い囲壁を築いて持久の計とした。詔して孫傳庭を總督に起用し、もとの尚書侯恂を釈して督師を命じ、左良玉を召して開封を援けさせた。良玉は朱仙鎮に至って大敗し襄陽へ奔り、諸軍はみな黄河の北に屯して進もうとしなかった。開封は食が尽き、山東總兵劉澤清も詔を奉じて至った。傳庭は開封の急を知り、諸将を西安に大会して急ぎ關を出て救いに来たが、着かぬうちに名衡らが朱家寨口の河を決して賊に注ごうと議し、賊もまた馬家口の河を決して城に注ごうとした。
  • 秋九月癸未、大雨が降り、二つの決口が並び決壊して音は雷のようであった。水は北門を潰して入り、東南門を穿って出て渦水に注いだ。城中の百万戸はみな水没し、脱れ得たのは周王妃・世子および撫按以下二万人に満たなかった。賊もまた万余が流され溺れ、営を抜いて西南へ去った。
  • 先に馬守應が老□□と称し、賀一龍が革裏眼と称し、賀錦が左金王と称し、劉希堯が爭世王と称し、藺養成が亂世王と称する者があり、みな自成に付いて当時「革左五營」と号した。
  • 自成は西へ向かって傳庭の兵を迎え、南陽で遭遇して傳庭の軍は潰走した。河南の人がいう「柿園の敗」である。

李自成――崇禎十六年 襄陽制覇

  • このとき大清の兵が南侵して京師が急を告げており、朝廷は賊を討つ余裕がなかった。自成はそこで群賊を収めて連営五百余里、ふたたび南陽を屠り、進んで汝寧を攻めた。總兵虎大威は砲に中って死に、楊文岳は殺された。自成は崇玉由樻を脅して従軍させた。
  • 確山・信陽・泌陽から襄陽へ向かうと左良玉は風を望んで南走した。自成は襄陽に入り、属城および德安の諸州県を分けて徇えていずれも下し、ふたたび夷陵・荊門州を破った。自ら荊州を攻め、湘陰王儼□(底本欠字)が殺され、獻陵の木城を焼き宮殿を穿ち毀した。
  • 十六年(1643年)春、承天を陥した。獻陵を発こうとしたが山谷を震わす音がしたので懼れて止めた。傍ら潛山・京山・雲夢・黄陂・孝感等の州県を掠めていずれも下した。先鋒が漢陽に迫り良玉は九江へ走った。鄖陽を攻めたが撫治都御史徐起元および王光恩が力守して下らなかった。光恩は賊から官軍に転じた者である。

李自成――軍制と軍法

  • 自成は「奉天倡義大元帥」を自称し、羅汝才を「代天撫民威德大將軍」と号した。衆を分けて標營といって兵百隊を領させ、前・後・左・右営はそれぞれ兵三十余隊を領した。標營の幟は白、纛は黒。自成だけは白い鬃の大纛と銀の浮屠を用いた。左営の幟は白、右は緋、前は黒、後は黄で、纛もその色に従った。五営は順を追って当直し、昼夜交代で休息し、巡邏は厳密で、逃亡する者を「落草」といって磔にした。
  • 男子で十五以上四十以下の者を集めて兵とし、精兵一人につき秣を扱い武器を持ち炊事する者十人を付けた。軍令では銀を隠し持ってはならず、城邑を通るときは家屋に泊まってはならず、妻子以外の婦人を連れてはならない。寝起きはすべて単布の幕を用いた。綿甲は厚さ百層で矢も砲も通らない。兵一人に馬三、四匹を副えた。冬には敷物をその蹄に敷き、人の腹を裂いて馬槽とし馬に飼った。馬は人を見ると牙を鳴らして噛もうとし、虎豹のようであった。
  • 軍が止まればすぐに騎射を競わせ「站隊」といった。夜四鼓に寝床で食事をとって令を聴いた。通過する高い岡や険しい坂も馬を躍らせてまっすぐ上った。水では黄河だけを憚り、淮・泗・涇・渭なら万の衆が馬の背に足を上げ、あるいは鬣を抱き尾に縋って風を呼んで渡り、馬蹄が塞いで水が流れなくなるほどであった。
  • 陣に臨めば馬三万を並べて「三堵墻」と名づけ、前の者が振り返れば後ろの者がこれを殺した。戦いが長引いて勝てないと馬兵が偽り敗れて官兵を誘い、歩卒の長槍三万が飛ぶように突き刺し、馬兵が返し撃って大勝しないことはなかった。
  • 城を攻めて降を迎える者は殺さず、一日守れば十分の三を殺し、二日守れば十分の七を殺し、三日守れば皆殺しにした。およそ人を殺すと屍を束ねて松明とし「打亮」といった。城が陥ちようとするときは歩兵万人が城壁の下を取り巻き、馬兵が巡邏して一人も逃れられなかった。獻忠でさえ残忍さでは及ばなかった。
  • 諸営の将校が獲た物は、馬・騾が上等の賞、弓矢・鉛銃がその次、幣帛がまたその次、珠玉が下等とされた。
  • 自成は酒色を好まず、粗末な玄米を食べて部下と苦楽をともにした。汝才は妻妾数十人が絹綾を着、幕下に女楽数部を置いて手厚く自らを養い、自成はこれを嗤った。汝才の衆は数十万、山西の挙人吉珪を謀主とした。自成は攻めに巧みで汝才は戦いに巧みで、二人は左右の手のように互いを必要とした。

李自成――羅汝才の誅殺と官制の創設

  • 自成は宛・葉を下し梁・宋を制して兵は強く士は付き従い、専制の心を抱いて独り汝才を忌んだ。そこで汝才と親しい賀一龍を召して宴で縛り、朝に二十騎で帳中に汝才を斬り、その衆をことごとく併せた。
  • 自成は中州では略した城をそのつど焼き払っていたが、漢江を渡ってからは荊襄を根拠地とする謀を立て、襄陽を襄京と改め、襄王の宮殿を修めて住み、禹州を均平府、承天府を揚武州と改め、他の府県も多く改称した。牛金星が官爵と名号を創ることを教え、大いに官を置いた。
  • 自成に子はなく、兄の子の過と妻の弟の高一功が代わる代わる左右に居て信任され事に当たった。田見秀・劉宗敏を權將軍、李巖・賀錦・劉希堯らを制將軍、張鼐・党守素らを威武將軍、谷可成・任維榮らを果毅將軍とし、あわせて五営二十二将であった。また上相・左輔・右弼・六政府侍郎・郎中・從事等の官を置いた。要地には防禦使を設け、府を尹、州を牧、縣を令と称した。
  • 崇玉由樻を襄陽伯、邵陵王在城を棗陽伯、保寧王紹圯を宣城伯、肅寧王術授を順義伯に封じた。張國紳を上相、牛金星を左輔、來儀を右弼とした。國紳は安定の人でかつて參政を務め、降ってから文翔鳳の妻鄧氏を献じて自成に媚びたが、自成は同類を傷つけるのを憎んで國紳を殺し、鄧氏をその家に帰した。
  • 六政府侍郎は、石首の喻上猷、江陵の蕭應坤、招遠の楊永裕、米脂の李振聲、江陵の鄧巖忠、西安の姚錫允。ついで宣城の邱之陶が振聲に代わって兵政府侍郎となった。その他偽職を受けた者は甚だ多いが記載しない。
  • 高一功・馮雄に襄陽を、任繼光に荊州を、藺養成・牛萬才に夷陵を、王文曜に澧州を、白旺に安陸を、蕭雲林に荊門を、謝應龍に漢川を、周鳳梧に禹州を守らせた。かくて河南・湖廣・江北の諸賊で命を聴かぬ者はなくなった。

李自成――新順王の自称と進路の議論

  • 自成はすでに汝才・一龍を殺し、また藺養成を襲って殺し、馬守應の兵を奪い、杞縣で袁時中を撃ち殺した。獻忠がちょうど武昌に拠っていたので、自成は使者を遣わして祝賀するとともに「老□□はすでに降り、曹操らは誅殺された。次はお前の番だ」と脅した。獻忠は大いに懼れて南のかた武昌に入った。
  • このとき十三家七十二営の大賊はみな降るか死ぬかしてほぼ尽き、ただ自成と獻忠だけが残り、自成が独り強盛であった。そこで「新順王」を自称した。
  • 牛金星らを集めて兵の向かう先を議した。金星は先に河北を取ってまっすぐ京師へ向かうことを請い、楊永裕は金陵を下して燕都の糧道を断つことを請うた。從事の顧君恩は「金陵は下流にあり、事が成っても遅きに失する。まっすぐ京師へ向かって勝てなければ、退いてどこへ帰るのか。急ぎに失する。關中は大王の郷里、百二の山河にして天下の三分の二を得る地である。まずここを取って基業を建て、そののち三辺を略してその兵力を資とし、山西を攻め取り、しかるのち京師へ向かえば、進んで戦い退いて守り、万全で失敗がない」と言った。自成はこれに従った。

李自成――孫傳庭の敗死と西安占領

  • 傳庭は柿園に敗れて陝西に帰ってから大いに兵を整え、火車二万両を作り、壮士を募って白廣恩・高傑に率いさせ、賊が飢えるのを待って撃とうとした。朝議が日ごとに戦いを督促したのでやむなく關を出た。牛成・盧光祖を前鋒として靈寶から洛に入り、高傑を中軍とし、廣恩に檄して新安から来会させ、河南の将陳永福に新灘を守らせ、四川の将秦翼明を商洛に出して掎角の勢を成した。
  • 前鋒が澠池で賊を破り、寶豐に至ってその城を抜き、郟に軍を留めた。自成が万騎を率いて還り戦ったが、また大敗して危うく捕えられかけた。
  • 折しも大雨で道が泥濘み糧車が進まなかった。自成が軽騎を汝州に出して糧道を遮った。傳庭は軍を三つに分け、廣恩に大道を行かせ、高傑の親随に間道から糧を迎えさせ、永福に営を守らせた。傳庭が出発すると永福の兵も争って出て禁じられず、賊に付け入られた。南陽に至って傳庭が引き返して戦うと、賊の陣は五重で、官軍はその三重を破ったが、やがてやや退き、火車が逃げ出して騎兵も大いに崩れた。賊が鉄騎を放って踏みにじり、傳庭は大敗した。自成は陣を空にして一日一夜に四百里余りを追い、官軍の死者は四万余人、失った兵器・輜重は数十万に上った。傳庭は黄河の北へ奔り、転じて潼關へ趨いたが、気力が挫けて二度と振るわなかった。
  • 冬十月、自成が潼關を陥し傳庭は死んだ。ついで華陰・渭南・華州・商州・臨潼を連ねて破り、進んで西安を攻めた。守将の王根子が東門を開いて賊を入れた。自成は秦王存樞を捕えて權將軍とし、永壽王誼況を制將軍とした。巡撫馮師孔以下死者十余人、布政使陸之祺らはみな降った。自成は三日大掠したうえで令を下して禁止した。西安を長安と改め西京と称した。顧君恩に女楽一部を賜った。關に入る策を献じた賞である。
  • 大いに民を徴発して長安城を修め馳道を開いた。自成は三日ごとに自ら教練場に赴いて射を検分し、百姓は黄龍の纛を望み見るとみな地に伏して万歳を呼んだ。諸将の白廣恩・高汝利・左光先・梁甫が先後してみな降った。陳永福はさきに自成の目を射当てていたので山頂に籠って下りようとしなかったが、自成が矢を折って誓って招くとやはり降った。ただ高傑だけは自成の妻を盗んだために延安へ走り、李過に追われて東へ折れ、宜川を渡り蒲津を絶って守った。
  • 自成の兵が至る所は風になびくように従った。そこで米脂に詣でて墓を祭った。かつて官軍に発かれて焼き棄てられていた遺骨に土を築いて封じ、その一族を探して金を贈り爵に封じて去った。延安府を天保府、米脂を天保縣、清澗を天波府と改めた。鳳翔は下らなかったので屠った。
  • はじめ自成は陝西に入ったとき、故郷だから侵し暴くなと言ったが、一月も経たぬうちに掠奪は元通りになった。また士大夫は必ず自分に付かないとして、郷紳をことごとく探し出して打ち据えて金を徴し、死者は一つの穴に埋めた。
  • 榆林は従来どおり死守して李過らは抜けなかった。自成が大いに兵を発して陥した。副使都任、總兵王世國、尤世威らはみな屈せず死んだ。勝ちに乗じて寧夏を取り、慶陽を屠り、韓王稟塉を捕え、移って蘭州を攻め、甘肅巡撫林日瑞らも死んだ。進んで西寧を陥し、肅州・山丹・永昌・鎮番・莊浪はみな降り、陝西の地はことごとく自成に帰した。
  • また賊を遣わして黄河を渡らせ平陽を陥し、宗室三百余人を殺した。高傑は澤州へ奔った。詔して余應桂を三邊總督として辺兵を収めて賊を剿させたが、陝西全土がすでに失われて應桂は進めなかった。

李自成――崇禎十七年 大順の建国

  • 十七年(1644年)正月庚寅朔、自成は西安で王を称し、僭かに国号を大順、改元して永昌、名を自晟と改めた。その曾祖以下を追尊して諡号を加え、李繼遷を太祖とした。天祐殿大學士を設けて牛金星をこれに任じ、六政府尚書を増置し、𢎞文館・文諭院・諫議・直指使・從政・統會・尚契司・驗馬寺・知政使・書寫房等の官を設けた。
  • 乾州の宋企郊を吏政尚書、平湖の陸之祺を戸政尚書、真寧の鞏焴を禮政尚書、歸安の張嶙然を兵政尚書とした。五等の爵を復して大いに功臣を封じ、侯は劉宗敏以下九人、伯は劉體純以下七十二人、子は三十人、男は五十五人であった。
  • 軍制を定め、一頭の馬でも隊列を乱す者は斬り、馬が田の苗に入った者も斬った。歩兵四十万、馬兵六十万を籍に登録した。兵政侍郎楊王休が大閲兵を行い、横門を出て渭橋に至り、金鼓の音は地を動かした。𢎞文館學士李化鱗らに檄を草させ、遠近に馳せ諭して天子を名指しで非難した。この日、大風が起こり土埃が舞い、黄色い霧が四方を塞いだ。
  • 事が聞こえて帝は大いに驚き廷臣を召して議した。大學士李建泰が督師を請い、帝は許した。
  • このとき山西は平陽から河津・稷山・滎河までみな陥ち、他の府県も多く風を望んで降伏を申し出た。二月、自成は黄河を渡って汾州を破り、河曲・靜樂を徇え、太原を攻めて晉王求桂を捕えた。巡撫蔡懋德が死んだ。北のかた忻州・代州を徇え、寧武總兵周遇吉が戦死した。
  • 自成はまず遊兵を故關に入れて大名・真定を掠めさせ、自身は衆を率いて北辺沿いに東を犯し、大同を陥した。巡撫衛景瑗・總兵朱三樂が死んだ。自成は代王傅㸄を殺し、代藩の宗室はほぼ絶えた。宣府を犯すと總兵姜瓖が迎え降り、巡撫朱之馮が死んだ。ついで陽和を犯し、柳溝から居庸に迫ると總兵官唐通・太監杜之秩が迎え降った。三月十三日、昌平を焼き、總兵官李守鑠が死んだ。

李自成――北京陥落と莊烈帝の死

  • はじめ賊は京師の虚実を探ろうと、しばしば密かに人を遣わして重い財貨を車で運ばせて都で商売させ、また部院の掾吏に潜り込ませて機密を探らせた。朝廷に謀議があれば数千里でもたちまち報が馳せた。賊が昌平に至ると兵部が騎兵を出して賊を探らせたが、賊はこれを引き込んで降らせ、一人も帰らなかった。賊の遊騎が平則門に至っても京師はまだ知らなかった。
  • 十七日、帝が召して問うたが群臣は答えず、泣く者があった。まもなく賊が九門を取り巻いて攻めた。門外に先に置かれていた三大営はことごとく賊に降った。京師は久しく軍餉を欠いて城壁に登る者は少なく、内侍を加えた。内侍が専ら守城に当たり、百司は口を出せなかった。
  • 十八日、賊の攻めはいよいよ急となった。自成は彰義門外に駐し、賊に降った太監杜勲を縄で城内に入れて帝に会わせ、禅譲を求めた。帝は怒って叱りつけ、詔を下して親征するとした。日が暮れて太監曹化淳が彰義門を開き、賊はことごとく入った。帝は宮を出て煤山に登り、烽火が天に達するのを望んで嘆息し「ただ我が民が苦しむだけだ」と言った。久しく徘徊して乾清宮に帰り、太子および永王・定王を外戚の周奎・田𢎞遇の邸へ送らせ、剣で長公主を撃ち、皇后に自尽を促した。
  • 十九日丁未、夜の明けぬうちに皇城は守れなくなり、鐘を鳴らして百官を集めたが至る者がなかった。そこでふたたび煤山に登り、衣の襟に書いて遺詔とし、帛で山亭に縊れ、帝はついに崩じた。太監王承恩がその傍らで縊れた。
  • 自成は氈笠に縹色の衣、烏駁の馬に乗って承天門に入った。偽の丞相牛金星、尚書宋企郊・喻上猷、侍郎黎志陞・張嶙然らが騎して従った。皇極殿に登って御座に拠り、令を下して帝と后を大々的に捜索させ、百官には三日以内の朝見を期した。
  • 文臣は范景文を筆頭に、外戚・勲臣は劉文炳を筆頭に、殉節した者は四十余人。宮女魏氏が身を投げ、従う者二百余人。象房の象はみな悲しげに吼えて涙を流した。
  • 太子は周奎の家に身を寄せたが入れられず、二王も隠れられず、先後して連れて来られたがみな外に出されず、自成は宮中に留め置いた。長公主は絶命してのち蘇生し、担がれて至ると賊の劉宗敏に治療させた。やがて帝后の崩御を知ると、自成は宮の扉に載せて運び出させ、柳の棺に納めて東華門外に置かせた。通りかかる百姓はみな顔を覆って泣いた。

李自成――北京での拷掠と即位

  • 三日を経た己酉の未明、成國公朱純臣・大學士魏藻德が文武百官を率いて祝賀に入った。みな素服で殿前に坐したが自成は出て来ず、群賊が争ってからかい辱め、背を突き帽を脱がせ、あるいは足を頸に載せて笑い楽しんだ。百官は恐れ入って動けなかった。太監王德化が諸臣を叱って「国は亡び君は喪われた。お前たちは先帝を殯すことを思わずここに居るのか」と言って哭き、内侍数十人がみな哭き、藻德らも哭いた。顧君恩がこれを自成に告げ、帝后を改めて殮め、衮冕と褘翟を用い、葦の仮屋を設けたという。
  • 大學士陳演が即位を勧めたが許さなかった。太子を宋王に封じ、刑部・錦衣衛の囚人を放った。
  • 自成は西安にいたとき既に官吏を置いていたが、ここに至ってますますことごとく官制を改めた。六部を六政府、司官を從事、六科を諫議、十三道を直指使、翰林院を𢎞文館、太僕寺を驗馬寺、巡撫を節度使、兵備を防禦使、知府・知州・知縣をそれぞれ尹・牧・令と称した。
  • 朝官を召見するときは、自成が南面して坐り、金星・宗敏・企郊らが左右に入り混じって坐り、順に名を呼んで三等に分けて職を授けた。四品以下は少詹事梁紹陽・楊觀光らに至るまで偽の任命に汚れない者はなかった。三品以上はただもとの侍郎侯恂だけを用いた。
  • その他の勲戚・文武の諸臣、周奎・朱純臣・陳演・魏藻德らあわせて八百余人を宗敏らの営中に送り、拷問して賄賂を出させ、肉を灼き脛を折るなど惨毒の限りを尽くした。藻德は馬世奇の家人に遇うと泣いて「私はお前の主人のようにはできなかった。今死のうとしても死ねぬ」と言った。
  • 賊はまた戸を組に編み、五家で一人の賊を養わせ、大いに淫掠をほしいままにし、民は堪えかねて縊死する者が相次いだ。諸々の勲戚・大臣から金を取り立て、金が足りるとすぐに殺した。太廟の神主を焼き、太祖の神主を帝王廟に遷した。
  • このとき賊党はすでに保定を陥し、李建泰は降り、畿内の府県はことごとく従った。山東・河南にも遍く官吏を設け、至る所で逆らう者がなかった。淮に及んで巡撫路振飛が兵を発して拒んだので去った。
  • 自成は真に天命を得たと思い、金星が賊衆を率いて三たび表を奉って即位を勧め、ついに従い、即位の儀式を撰ばせ吉日を選んだ。ところが自成が御座に上ると、たちまち身の丈数丈の白衣の人が剣を手に怒って睨むのが見え、座の下の龍の爪と鬣がみな動いた。自成は恐れて急ぎ降りた。金の璽および永昌銭を鋳たが、いずれも成らなかった。

李自成――山海關の敗戦

  • 山海關總兵吳三桂が兵を起こしたと聞いて、陝西へ帰る謀を立てた。はじめ三桂は詔を奉じて援に入り山海關に至ったが、京師が陥ちて猶予して進まなかった。自成はその父の襄を脅して書を書かせて招いた。三桂は降ろうとして灤州まで来たが、愛姫の陳沅が劉宗敏に掠め去られたと聞いて激しく憤り、急ぎ山海に帰って賊将を襲い破った。自成は怒って自ら賊十余万を率い、呉襄を軍中に捕えたまま東のかた山海關を攻め、別将に一片石から關外へ回らせた。三桂は懼れて我が大清に降を乞うた。
  • 大清の四月二十二日、自成の兵二十万が關内に陣を布き、北山から海まで連なった。我が兵は賊に対して陣を置き、三桂は右翼の末に位置し、鋭卒をことごとく出して力戦し賊数千人を殺した。賊も力闘し、囲みが開いてはまた合わさった。戦うことしばらく、我が兵が三桂の陣の右から突出して賊の中堅を衝いた。万馬が奔り躍り、飛矢が雨のように堕ち、大風が起こって砂石が飛び走り、雹のように賊を撃った。自成はちょうど太子を伴って高い岡に登って戦いを見ていたが、我が兵と知って急ぎ馬を駆って岡を下り逃げた。我が兵は四十里追撃し、賊衆は大崩れして互いを踏みつけ、死者は数えきれず、屍が野に遍く、溝の水はことごとく赤くなった。
  • 自成は永平へ奔り、我が兵がこれを追い、三桂が先駆して永平に至った。自成は呉襄を殺し、京師へ奔り帰った。
  • このとき牛金星が留守しており、降った人々が謁見して門生の礼を執ること甚だ恭しかった。金星が「今しも流言が起こっている。諸君は外出を控えよ」と言ったので、降った者は懼れはじめ多くが身を隠した。
  • 自成は着くと、拷問して取り立てた金および宮中の蓄えや器皿をことごとく鎔かして餅に鋳た。餅一枚が千金、およそ数万枚。騾馬の車で西安へ運ばせた。
  • 二十九日丙戌、武英殿で僭かに帝号を称し、七代を追尊してみな帝・后とし、妻の高氏を皇后に立てた。自成は冠冕を被り儀仗を列ねて朝を受け、金星が代わって郊天の礼を行った。この夕、宮殿および九門の城楼を焼き、明け方に太子と二王を伴って西へ走り、偽將軍の左光先・谷可成を殿軍とした。

李自成――李巖の誅殺と潰走

  • 五月二日、我が大清の兵が京師に入り、令を下して百姓を安んじ、帝后のために発喪して諡号を議し、将を遣わして三桂とともに自成を追わせた。このとき福王がすでに南京で監国し、大學士史可法が督師して賊を討っていた。
  • 自成が定州に至ると我が兵が追って戦い、谷可成を斬った。左光先は足を傷つけられ、賊が背負って逃げた。自成は西のかた真定へ走り、さらに衆を出して攻めて来たが、我が兵がまた撃ち、自成は流れ矢に中って傷が重く、西へ故關を越えて山西に入った。我が兵が東へ返ったので、自成は潰散した者を集めて平陽へ走った。
  • 李巖はかつて自成に人を殺さず人心を収めよと勧めた者である。京師が陥ちてからは懿安皇后を保護して自尽させ、また独り士大夫を拷掠しなかった。金星らはこれを大いに忌んだ。定州の敗ののち河南の州県が多く官軍に復帰したので、自成が諸将を召して議したとき、巖は兵を率いて行くことを請うた。金星はひそかに自成に告げて「巖は雄々しく武勇があり大略を備え、長く人の下に居られる者ではありません。河南は巖の故郷、大兵を貸せば必ず制しきれなくなります。十八子の讖とは巖のことではありませんか」と言い、謀反の意ありと讒言した。自成は金星に巖と酒を飲ませて殺させた。賊衆はみな心が離れた。
  • 自成は西安へ帰り、また賊を遣わして漢中を陥し、總兵趙光遠を降し、進んで保寧を略した。このとき獻忠が兵で拒んだので還った。
  • 八月、祖と父の廟が成り、祀りに行こうとしたが、たちまち寒さに震えて礼を果たせなかった。自成ははじめ巖の言によって偽って仁義を行っていたが、巖が死んでからは、また屢々敗れたこともあって強情で自分勝手になった。偽尚書の張第元・耿始然はみな些細な逆らいで死んだ。銅の鏌を作り、官吏が賄賂に坐すればすぐ鏌で斬り、民は鶏一羽を盗んでも死罪としたので、西方の人は大いに懼れた。

李自成――順治二年 九宮山の最期

  • 順治二年(1645年)二月、我が兵が潼關を攻め、偽の伯である馬世耀が六十万の衆で迎え戦って敗死し、潼關は破れた。自成は西安を棄て、龍駒寨から武岡へ走り、襄陽に入り、また武昌へ走った。我が兵は両道から追い迫って連ねて追い詰め、鄧州・承天・德安・武昌と窮追して、賊の本営に至って大破すること八度に及んだ。
  • このとき左良玉は東下しており武昌は空で人がなく、自成は五十余日屯した。賊衆はなお五十余万。江夏を瑞符縣と改めた。まもなく我が兵に迫られ、部下の多くは降りあるいは逃げ散った。自成は延寧・蒲圻を走って通城に至り、九宮山に逃げ込んだ。
  • 秋九月、自成は李過を留めて寨を守らせ、自ら二十騎を率いて山中に食を求めたが、村民に囲まれて脱け出せず、ついに縊れて死んだ。一説には、村民がちょうど堡を築いていて賊が少ないのを見て争って前に出て撃ち、人も馬もともに泥沼に陥り、自成は鋤で頭を打たれて死んだ。その衣を剥ぐと龍衣と金印が出て、片目が潰れていたので、村民は大いに驚いて自成であったと知った、という。
  • このとき我が兵は自成を見知る者を遣わしてその屍を検めさせたが、朽ちて判別できなかった。自成の二人の従父である偽趙侯・偽襄南侯、および自成の妻妾二人、金印一つを獲た。また偽汝侯劉宗敏・偽總兵左光先・偽軍師宋獻策を獲た。そこで自成の従父および宗敏を軍中で斬った。牛金星・宋企郊らはみな逃亡した。
  • 自成の兄の子の過は名を錦と改め、諸々の賊帥とともに高氏を奉じて總督何騰蛟に降った。このとき唐王が閩に立ち、錦に赤心の名を賜い、高氏を忠義夫人に封じ、その軍を忠貞營と号して騰蛟の麾下に隷属させた。永明王のとき赤心は興國侯に封じられ、まもなく死んだ。

張獻忠――出自と蜂起

  • 張獻忠は延安衛柳樹澗の人。李自成と同じ年の生まれである。長じて延綏鎮に隷属して軍籍に入ったが、法を犯して斬罪に当たった。主将の陳洪範がその容貌を奇として總兵官王威に願って釈させ、そこで逃げ去った。
  • 崇禎三年(1630年)、陝西の賊が大いに起こり、王嘉允が府谷に拠って河曲を陥すと、獻忠は米脂の十八寨でこれに応じ、八大王を自号した。翌年嘉允が死に、その一党の王自用がふたたび衆を集めて三十六營とし、獻忠および高迎祥・羅汝才・馬守應らがみなその頭目となった。
  • その冬、洪承疇が總督となり、獻忠と汝才はともに招撫に応じたが、やがて叛いて山西に入り、群賊とともに焼き掠め、ついで河北を騒がし、また黄河を渡った。これ以後、陝西・湖南・湖廣・四川・江北の数千里の地はみな蹂躙された。
  • このころ賊の頭目は衆を率いていても統一した主がなく、官軍に遇えば各自勝手に戦い、勝てば進み、敗れれば争って山谷に逃れ互いを顧みなかった。官軍も敗走する敵を追い殺すとき、どの賊を追っているのか分からなかった。賊は分かれ合わさり東西に走り回って勢いは日ごとに強盛となった。

張獻忠――崇禎八年〜九年 江北の転戦

  • 八年(1635年)、十三家が滎陽に会して官軍への対応を議したとき、守應が北へ渡ろうとし、獻忠がこれを嗤ったので守應は怒った。李自成が取りなして議は定まった。獻忠ははじめ高迎祥と並んで蜂起して賊となり、自成は迎祥の副将で獻忠と肩を並べられなかったが、このときから互いに張り合うようになった。
  • ともに東を掠め、河南・江北の諸県を連ねて破り、皇陵を焼いた。やがて迎祥・自成が西へ去り、獻忠は独り東のかた廬州を囲んだが、舒城とともに下せず、桐城を攻め、廬江を陥し、巢・無為・潛山・太湖・宿松の諸城を屠った。應天巡撫張國維が防ぐと、獻忠は英山・霍山から逃れ、麻城を経て守應らと合し、關に入って鳳翔で迎祥と会した。
  • ついで商洛を出て靈寶に屯して迎祥を待ち、迎祥が至ると兵を合わせてふたたび東へ向かった。總兵官左良玉・祖寬が撃つと、獻忠は迎祥と道を分けて走った。寬は獻忠を追い、嵩縣および九皋山で戦って三戦いずれも勝ち、捕虜と斬首は甚だ多かった。獻忠は憤って再び迎祥の衆と合して引き返して戦ったが、また大敗した。
  • 迎祥はまもなく自成とともに陝西に入り、守應・汝才の諸賊はそれぞれ鄖陽・商洛の山中に盤踞して救えず、獻忠もまた山中に逃れた。

張獻忠――崇禎十年 襄陽侵犯と江北の攻防

  • 翌年秋、總督盧象昇が去り、苗胙土が湖廣巡撫となったが兵事に習熟していなかった。そこで獻忠は均州から、守應は新野から、蝎子塊は唐縣から並び進んで襄陽を犯し、衆は二十余万に上った。總兵秦翼明は兵が少なく防げず、湖廣は震動した。
  • 獻忠は汝才・守應および闖塌天の諸賊を糾合して流れに乗って東下し、江北の賊賀一龍・賀錦らと合流し、烽火は淮・揚に達した。南京兵部尚書范景文、操江都御史黄道直、總兵官楊御蕃が担当区を分けて固守し、安池道副使史可法が自ら兵を率いて賊の正面に当たった。賊は間道から安慶を犯し、連営百里に及んだ。巡撫國維が急を告げ、詔して左良玉・馬爌・劉良佐に兵を合わせて援けさせ、ついに賊を大破した。賊は潛山の天王古寨へ走り、國維が良玉に檄して山を捜索させたが良玉は応じず、まもなく北へ去った。
  • 賊はふたたび太湖に出て蘄州・黄州に連なり、酆家店で官軍を破り、參将程龍・陳于王ら四十余人を殺した。折しも總兵官牟文綬が良佐とともに来援してまた賊を破り、賊はみな逃れ、獻忠は湖廣に入った。
  • このとき河南・湖廣の賊十五家のうち獻忠が最も狡猾で驍勇強悍、次が汝才であった。獻忠はかつて官兵を装って宛城を欺こうとしたが、良玉がちょうど至り、獻忠は慌てて走った。前鋒の羅岱が射て額に中て、良玉が馬で追いついて刃が獻忠の顔をかすめたが、馬を走らせて逃れた。

張獻忠――崇禎十一年 穀城の投降

  • 折しも熊文燦が總理となり、檄文を刻んで賊を招撫した。闖塌天(本名は劉國能)は獻忠と隙があり、文燦のもとへ行って降った。獻忠は傷が重く戦えず大いに恐れた。
  • 十一年(1638年)春、陳洪範が文燦の麾下に隷して總兵となっていると知って大喜し、人を遣わして厚い礼物を洪範に献じ「獻忠は公の大恩によって死なずに済みました。公はお忘れですか。願わくは部下を率いて降り自ら尽くしたい」と言った。洪範も喜んで文燦に告げ、その降伏を受け入れた。巡按御史林銘球・分巡道王瑞柟は良玉と謀って獻忠が来たら捕えようとしたが、文燦は許さなかった。獻忠は穀城に拠って十万人分の軍餉を請い、文燦は決しかねた。
  • このとき群賊はみな南陽に集まって周辺の州県を屠り掠め、文燦は裕州に赴いていよいよ大いに檄を発して賊を招撫した。汝才は戦いに敗れて太和山の監軍太監李繼改のもとに降を乞うた。
  • 翌年、射塌天・混十萬・過天星・關索・王光恩ら十三家の頭目が先後してみな降り、陝西總督洪承疇・巡撫孫傳庭がふたたび李自成を大破して自成は崤函の山中に逃げ込み、朝廷はみな賊がほぼ討ち尽くされたと思った。
  • 獻忠は穀城で兵卒を訓練し武具を整え、意見を述べる者は反意を疑ったが、帝はちょうど兵部尚書楊嗣昌の「文燦は賊を処理できる」という言を信じ、もはや憂えなかった。

張獻忠――崇禎十二年 穀城の再叛

  • 夏五月、獻忠が叛いて知縣阮之鈿を殺し穀城を毀ち、房縣を陥し、汝才の兵と合して知縣郝景春を殺した。十三家の降った賊が一時に並び叛き、ただ王光恩だけが従わなかった。
  • 獻忠が房縣を去ると左良玉が追撃したが、前鋒の羅岱が羅□(底本欠字)山に至って伏兵に遭って死に、良玉は大敗した。
  • 嗣昌はすでに大學士を拝しており、自ら督師を請い、帝は大いに悦んだ。十月朔、嗣昌は襄陽に至り諸将を集めて進兵を議した。このとき群賊は大いに掠め、賀一龍・賀錦が隨・應・麻・黄を犯して官軍と対峙し、汝才および過天星は漳・房・興遠に潜み、獻忠は湖廣と四川の境に拠って西を犯そうとしていた。嗣昌は東方の攻略をやや緩め、輜重を襄陽に置き、濠を浚い城を築いて甚だ堅固にし、良玉に専ら獻忠を剿させた。

張獻忠――崇禎十三年 瑪瑙山の敗戦と入蜀

  • 十三年(1640年)閏正月、良玉が枸坪關で賊を撃ち、獻忠は逃れた。瑪瑙山まで追うと賊は山に拠って拒んだが、良玉が先登し、賀人龍・李國奇が挟み撃ちにして大敗させ、千三百余級を斬首し、獻忠の妻妾を捕えた。湖廣の将張應元・汪之鳳が水右壩まで追って敗り、四川の将張令・方國安がまた岔溪で邀撃した。獻忠は柯家坪へ奔った。張令が敗走する敵を追って深入りして囲まれたが、應元・之鳳が援けてまた賊を破った。獻忠は千余騎を率いて興山・歸州の山中に逃げ込み、勢いは大いに窮した。
  • はじめ良玉が進兵したとき嗣昌と意見が合わなかった。獻忠が間者を遣わして良玉を説くと、良玉は囲むだけで攻めなかった。獻忠はそこで山民と塩・秣・米・乳製品を取引し、潰散した者を集め、旗を伏せ鼓を止めていよいよ西の白羊山へ走った。
  • このとき汝才と過天星は寧昌から大昌・巫山を窺い、渡江しようとして官兵に遮られていた。獻忠が至って合流した。獻忠は度重なる敗北にも意気はますます盛んで、江岸の兵馬で前に進まない者はそのつど斬ったので、賊は争って死闘し、官軍は退き、賊はみな渡って萬頃山に屯した。歸州・巫山は大いに震えた。
  • やがて汝才・過天星が開縣を犯して利あらず、汝才は東へ走り、過天星はふたたび開縣を通り過ぎて西へ向かい、諸将が行き来して追いかけた。獻忠は衆を挙げて土地嶺で楚の兵を攻め、副将潘之鳳が戦死した。ついに大昌を陥し、進んで開縣に屯した。張令が戦死し、石砫の女土司秦良玉も敗れた。
  • 汝才がふたたび東から至り、獻忠とともに達州へ転じた。四川巡撫邵捷春は退いて涪江を扼した。賊は北のかた劍州を陥して漢中に入ろうとしたが、總兵官趙光遠・賀人龍が陽平・百丈の険を守って賊は通れず、また巴西・涪江へ走った。軍は潰え、捷春は死罪を論じられた。
  • 獻忠は綿州を屠り、成都を越え、瀘州を陥し、北へ渡って永州を陥し、漢州へ走り、得陽から巴州に入り、また巴州から達州へ走り、ふたたび開縣に至った。
  • 先に嗣昌は賊が四川に入ったと聞いて重慶に進駐していた。監軍萬元吉が「賊は東へ突き出るかもしれず備えがなくてはならない。中軍を分けて間道から梓潼に出し帰路を扼すべきです」と言ったが、嗣昌は聴かず、諸将をことごとく瀘州に赴かせて賊を追わせようとした。

張獻忠――崇禎十四年 襄陽襲取と襄王殺害

  • 十四年(1641年)正月、總兵猛如虎・參将劉士傑が開縣の黄陵城まで追ったが、賊が引き返して戦って官軍は大敗し、士傑および遊撃郭開らがみな死んだ。獻忠は果たして東へ出て、汝才に鄖陽巡撫袁繼咸の兵を拒ませ、自ら軽騎を率いて一日一夜に三百里を馳せ、道中で督師の使者を殺して軍符を奪い、それで欺いて襄陽城を陥した。
  • 獻忠は襄王翊銘を縛って堂下に置き、酒をすすめて「私は王の首を借りて、楊嗣昌を藩王を陥れた罪で誅させたいのだ。王よ、努めてこの酒を飲み干されよ」と言い、そのうえで殺した。あわせて鄖襄道張克儉・推官鄺曰廣を殺し、また奪われていた妻妾を取り戻して去った。
  • ついで樊城・當陽・郟を陥し、汝才と合して光州に入り、商城・羅山・息縣・信陽・固始を荒らした。軍を分けて茶山・應城を犯し、隨州を陥した。左良玉の幟を偽って泌陽に入り、ふたたび應山を攻めたが抜けずに去り、鄖陽を攻めたが守将王光恩が力戦してようやく囲みが解けた。また鄖西を抜き、付き従う群盗は万を数え、ついに東方の地を略した。
  • 獻忠は瑪瑙山の敗以来、心中良玉を畏れていたが、屢々勝って驕りの色があった。秋八月、良玉が信陽で追撃して大破し、降った賊衆は数万に上った。獻忠は股を傷つけ、夜に乗じて東へ奔り、良玉が急追したが、折しも大雨で江が溢れ道が絶えて官軍は進めず、獻忠は逃れて助かった。
  • ふたたび商城に出て英山へ向かおうとしたが、副将王允成に破られ、衆は道々散じて尽き、従う騎はわずか数十であった。このとき汝才はすでに自成と合しており、獻忠も自成に身を投じたが、自成が部曲として扱ったので従わず、自成は殺そうとした。汝才が諌めて「留めておいて漢南を騒がせ、官軍の兵力を分けさせるべきです」と言い、ひそかに獻忠に五百騎を与えて逃れさせた。獻忠は道々土賊の一斗穀・瓦罐子らを糾合して衆はまた盛んになったが、なお表向きは自成を推し立てていた。

張獻忠――崇禎十五年 革左二賀との合流

  • 先に賊営の革左二賀が含山・巢縣・潛山の諸県を陥し、西へ獻忠と合そうとしたが、湖廣の官兵に阻まれて達しなかった。汴(開封)の囲みが急となり、督師丁啟睿および左良玉がともに汴を援けに行ったので、獻忠はその隙に亳州を陥し、英山・霍山の山中に入って革左二賀と対面し、みな大いに喜んだ。
  • 翌年、合して舒城・六安を攻め陥し、民を掠めて軍に加え、廬州を陥して知府鄭履祥が死んだ。無為・廬江を陥し、巢湖で水軍を訓練した。太監盧九德が總兵官黄得功・劉良佐の兵を率いて夾山で戦って敗れ、江南は大いに震えた。鳳陽總督高斗光・安慶巡撫鄭二陽が逮捕されて処罰され、詔して馬士英を起用して斗光に代えた。
  • この秋、得功・良佐が潛山で賊を大破し、獻忠の腹心や側近はことごとく蘄水へ走り、革左二賀は北のかた自成に投じた。やがて獻忠はふたたび太湖を襲って陥した。良玉が自成を避けて東下し、湖廣の兵をことごとく引き揚げて自ら従えたので、獻忠はこれを聞いてまた黄梅を襲い陥した。

張獻忠――崇禎十六年 武昌占拠と僭号

  • 十六年(1643年)春、廣濟・蘄州・蘄水を連ねて陥し、黄州に入った。黄州の民はみな逃げていたので、婦女を駆り立てて城を削らせ、ついで殺して塹を埋めさせた。麻城の人湯志は大家の奴で、諸生六十人を殺して城を挙げて賊に降った。獻忠は麻城を州と改めた。
  • また西のかた漢陽を陥し、全軍が鴨蛋洲から渡って武昌を陥し、楚王華奎を捕えて籠に入れて江に沈め、楚の宗室をことごとく殺した。男子で二十以下十五以上を登録して兵とし、残りはみな殺した。鸚鵡洲から道士洑まで、浮かぶ屍が江を蔽うこと一月を越え、人の脂が厚さ数寸に積もり、魚鼈は食べられなくなった。
  • 獻忠はついに僭かに号を称し、武昌を天授府、江夏を上江縣と改め、楚王の邸に拠って「西王之寶」を鋳、偽に尚書・都督・巡撫等の官を設け、科挙を開いて士を取った。興國州の柯・陳の両姓の土官は悍勇なのでこれを招き降した。黄鶴楼に詩を題した。楚王邸の金を出して飢民を賑わせるよう令し、蘄州・黄州など二十一州県はことごとく従った。
  • このとき李自成は襄陽におり、これを聞いて忌みかつ怒り、書を送って責めた。

張獻忠――湖南・江西の席巻

  • 左良玉の兵がふたたび西上し、偽の官吏は多く捕えられ殺された。獻忠は懼れて衆を挙げて岳州・長沙へ趨いた。
  • そこで監軍道王瓆、沔陽知州章曠、武昌の生員程天一、白雲寨長易道三がみな兵を起こして賊を討ち、蘄州・黄州・漢陽の三府はみな官軍に復した。
  • 獻忠は咸寧・蒲圻を陥して岳州に迫った。沅陽巡撫李乾德・總兵孔希貴らが陳陵磯に拠って拒み戦い、三戦三勝してその前部隊を殲滅した。獻忠は怒って百の道から並び進み、乾德らは支えきれずみな走り、岳州は陥ちた。
  • 獻忠は洞庭湖を渡ろうとして神に卜ったが不吉であったので、珓を投げつけて罵った。渡ろうとすると風が大いに起こり、獻忠は怒って巨舟千艘を連ね婦女を載せて焼き、水の光は夜も昼のようであった。
  • 騎して長沙に迫ると、巡按劉熙祚が吉王・惠王を奉じて衡州へ走り、總兵尹先民が降って長沙は陥ちた。ついで衡州を破り、吉王・惠王・桂王はみな永州へ走った。そこで桂王府の材木を折り取って長沙に運び偽の宮殿を造り、自ら三王を永州に追った。熙祚は中軍に命じて三王を護って廣西に入らせ、自身は永州に入って死守し、城が陥ちて殺された。
  • また寶慶・常德を陥し、もとの督師楊嗣昌の祖先の墓を発いてその屍を斬ると血が出た。道州を攻め、守備沈至緒が戦死し、その娘が再び戦って父の屍を奪い還り、城は全うされた。
  • ついで東のかた江西を犯し、吉安・袁州・建昌・撫州・永新・安福・萬載・南豐の諸府県を陥し、廣東は大いに震え、南詔の属城の官民はみな逃げた。賊に呉越を取る計を献じる者があったが、獻忠は良玉が居ることを憚って聴かず、蜀中に入る策を決した。

張獻忠――崇禎十七年 成都占領と大西國王

  • 十七年(1644年)春、夔州を陥し、萬縣に至って水が漲ったので三か月屯留した。ついで涪州を破り、守道劉麟長・總兵曹英の兵を敗り、進んで佛圖關を陥し重慶を破った。瑞王常浩が殺された。この日、天に雲がないのに雷が鳴り、賊で震死した者があった。獻忠は怒って巨砲を放って天と張り合った。
  • ついで進んで成都を陥した。蜀王至澍は妃・夫人以下を率いて井に身を投げ、巡撫龍文光は殺された。
  • このとき我が大清の兵はすでに京師を平定し、李自成は逃れて西安に帰り、南京の諸臣は福王を尊立し、もとの大學士王應熊に四川・湖廣の軍事を督させたが、兵力が弱く賊を討てなかった。
  • 獻忠はついに大西國王を僭称し、大順と改元した。冬十一月庚寅、偽位に即き、蜀王府を宮とし、成都を西京と名づけた。汪兆麟を左丞相、嚴錫命を右丞相とし、六部・五軍都督府等の官を設け、王國麟・江鼎鎮・龔完敬らを尚書とし、養子の孫可望・艾能奇・劉文秀・李定國らをみな将軍として張の姓を賜い、諸府州県を分けて徇えてことごとく陥した。保寧・順慶は先に自成に降って官吏が置かれていたが、獻忠はことごとく逐い去り、自成が兵を発して攻めたが抜けず、獻忠はついに蜀の全土を領有した。ただ遵義一郡と黎州の土司馬金堅だけが下らなかった。

張獻忠――四川の殺戮

  • 獻忠は黄色い顔・長身・虎のような顎で、人は「黄虎」と呼んだ。性は狡猾で殺人を好み、一日でも人を殺さないと鬱々として楽しまなかった。偽って科挙を開いて士を取り、青羊宮に集めてことごとく殺し、筆と墨は丘や塚をなした。成都の民を中園に生き埋めにし、各衛の軍籍の者九十八万を殺した。また四人の将軍を遣わして各府県を分けて屠らせ「草殺」と名づけた。偽の官が朝会で拝伏すると獒数十匹を殿下に呼び、獒が嗅いだ者を引き出して斬り「天殺」と名づけた。また生きたまま皮を剥ぐ法を創り、皮を剥ぎ終わらぬうちに絶命した者があると刑を執行した者を死に当てた。将卒は殺した人数で功の序列を定め、あわせて男女六万万余を殺した。賊将には忍びなくて縊死する者もあった。偽都督張君用・王明ら数十人はみな殺した人数が少ないことに坐して皮を剥がれて死に、その一家も屠られた。
  • 四川の士大夫を脅して偽職を受けさせ、敘州の布政使尹伸、廣元の給事中呉宇英は屈せず死んだ。職を受けた諸人も後にはやはりみな殺された。その惨虐は人の道に外れており、記し尽くせない。
  • また術を用いて錦江の流れを移し、涸れたところを深さ数丈に掘り、金宝億万を埋め、そののち堤を決して流れを戻し「水藏」と名づけて「後世の人が得られぬようにするのだ」と言った。
  • このとき曾英・李占春・于大海・王祥・楊展・曹勛らの義兵が並び起こった。それゆえ獻忠の誅殺はますます酷くなり、四川の民が尽きたので西安を窺う謀を立てた。

張獻忠――順治三年 鳳凰坡の最期

  • 順治三年(1646年)、獻忠は成都の宮殿・家屋をことごとく焼き、その城を平らげ、衆を率いて四川の北へ出た。また四川の兵をことごとく殺そうとしたので、もと四川兵を統べていた偽将の劉進忠がこれを聞いて一軍を率いて逃げた。
  • 折しも我が大清の兵が漢中に至り、進忠は来降して道案内となることを願い出た。鹽亭の境に至って大霧となり、獻忠は暁に行軍していて突然鳳凰坡で我が兵に遭い、矢に中って馬から墜ち、積んだ薪の下に這い伏せた。そこで我が兵が獻忠を捕え、引き出して斬った。
  • 四川は獻忠の乱に遭って以来、城内に雑木が茂って一抱えになり、狗が人肉を食って猛獣のようになり、虎豹は人を噛み殺してもすぐ棄て去って食い尽くさなかった。民は深山に逃れ草を衣とし木を食い、久しくして全身に毛が生えた。
  • 獻忠が誅されると、賊党の可望・能奇・文秀・定國らは崩れて四川南部に入り、曾英・李乾德らを殺し、のちみな永明王に降った。