明史卷三百八 列傳第一百九十六 奸臣

奸臣列傳の序

  • 『宋史』は君子・小人を陰陽になぞらえて論じたが、その説はもっともである。しかし小人は世に常にいるもので、一概に「奸」の名を被せてよいものではない。必ずや威権を盗み弄び、禍乱を作り出し、宗廟を動揺させ、忠良を屠り害し、心も跡もともに悪く、終身ひそかに人を害した者にして、はじめてこの悪名を加えられ、拒むことができないのである。
  • 明の一代、臣下の奸悪の大なるものは多く宦官から出ており、外廷の諸臣に求めればけだし少ない。
  • 太祖開国の初め、胡惟庸は凶悪狡猾でほしいままに振る舞い、ついに叛逆に坐して誅死した。陳瑛は成祖の時、酷薄をもってその奸私を遂げ、君に迎合して君の悪を助長し、善人を毒害した。これらはいずれも英武明断の君に仕えながら禍心を包み隠し、久しくしてようやく敗れたのである。もし凡庸な君主に遇っていたら、その悪はどれほどであったか言い尽くせない。
  • その後、権は宦官に帰し、奸を懐いて寵を固める徒が依り従い結託して、禍は搢紳に及んだ。ただ世宗朝には宦官が影を潜めたが、厳嵩父子が悪を助け、貪欲飽くことを知らなかった。
  • 莊烈帝は自ら逆党を除いたが、周延儒・溫體仁が私心を懐き党を植え、国を誤り邦を覆した。
  • 南都の末造はもとより言うに足らないが、馬士英は凡庸卑小の男で、貪り残なうことをほしいままにした。
  • この数人は、内には頼るべき宦官もなく、外は群邪と結び、国事を顧みず、もっぱら乱の階梯となった。その心跡を究めれば、ほとんど杞・檜(春秋の杞と南宋の秦檜)と同類というべきである。ああ、恐るべきことだ。よって奸臣傳を作る。

篇首の立伝者一覧

  • 胡惟庸(陳寧)
  • 陳瑛(馬麟ら)
  • 嚴嵩(趙文華ら)
  • 周延儒
  • 溫體仁
  • 馬士英(阮大鋮)

胡惟庸――独相としての専権

  • 胡惟庸は定遠の人。和州で太祖に帰し、元帥府奏差を授かり、まもなく宣使に転じ、寧國主簿に除せられ、知県に進み、吉安通判に遷り、湖廣僉事に抜擢された。吳元年(1367年)に召されて太常少卿となり、本寺卿に進んだ。洪武三年(1370年)中書省参知政事を拝し、まもなく汪廣洋に代わって左丞となった。六年正月(1373年)、右丞相の汪廣洋が廣東行省参政に左遷された。帝は適任者を得がたくて久しく丞相を置かず、胡惟庸がひとり省の事を専らにした。七月に右丞相を拝し、久しくして左丞相に進み、あらためて汪廣洋を右丞相とした。
  • 楊憲が誅されてから、帝は胡惟庸を才ありとして寵任し、胡惟庸も自ら励み、こまやかな慎み深さで上意にかなった。寵遇は日ごとに盛んとなり、ひとり丞相であること数年、生殺・黜陟を奏せずそのまま行うこともあった。内外諸司の封事は必ず先に取って読み、自分に不利なものは隠して奏聞しなかった。四方の出世を焦る徒や職を失った功臣・武人が争ってその門に走り、贈られる金帛・名馬・玩好は数え切れなかった。
  • 大將軍徐達がその奸を深く憎み、おもむろに帝に告げると、胡惟庸は徐達の門番の福壽を誘って徐達を害そうと図ったが、福壽に暴かれた。御史中丞の劉基もかつてその短所を述べた。久しくして劉基が病むと、帝は胡惟庸に医者を伴わせて診させ、そこで毒を盛った。劉基が死ぬといよいよ憚るところがなくなった。太師の李善長と結び、兄の娘をその甥の李佑に嫁がせた。學士の吳伯宗が胡惟庸を弾劾して危うく禍を得るところであった。これより勢いはますます熾んになった。
  • 定遠の旧宅の井戸に突然石筍が生じて水面上に数尺出たので、人々は争って瑞祥だと唱えた。また祖父三代の墓の上に地下から火光があって天を照らすとも言われ、胡惟庸はますます喜んで自負し、異図を抱くに至った。

胡惟庸――陸仲亨・費聚らとの結託

  • 吉安侯陸仲亨が陝西から帰るとき、ほしいままに駅伝に乗った。帝は怒って責め、「中原は兵火のあとで、民はやっと生業に戻ったばかりだ。戸を調べ馬を買うのは苦労が甚だしい。皆おまえのようにしたら、民は子女をすべて売っても足りない」と言い、代県で盗賊を捕らえる責めを負わせた。平涼侯費聚は命を奉じて蘇州の軍民を撫していたが、日々酒色にふけったので、帝は怒って西北へ蒙古の招降に赴かせ、功がないのでまた厳しく責めた。二人は大いに恐れた。
  • 胡惟庸はひそかに権勢と利益で二人を脅し誘った。二人はもともと剛直で勇ましく、胡惟庸が権を握るのを見てひそかに往来した。あるとき胡惟庸の家を訪れ、酒たけなわのころ、胡惟庸は左右を退けて「われらのやったことは多く不法だ。ある日事が発覚したらどうする」と言った。二人はますます恐れ、胡惟庸はそこで自分の意図を告げ、外で軍馬を集めさせた。
  • また陳寧と省中で天下の軍馬の名籍を調べ、都督の毛驤に衛士の劉遇賢および亡命の魏文進らを取り込んで腹心とさせ、「わたしにはおまえたちを使うところがある」と言った。
  • 太僕寺丞の李存義は李善長の弟で、胡惟庸の婿李佑の父である。胡惟庸は李存義にひそかに李善長を説かせた。李善長はすでに老いて強く拒むこともできず、初めは許さなかったが、のちにその間で曖昧な態度をとった。胡惟庸はいよいよ事は成ると考え、明州衛指揮の林賢を遣わして海に下り倭を招いて会期を約させ、また元の旧臣の封績を遣わして元の嗣君に臣と称する書を届け、兵を請うて外応とさせた。事はいずれもまだ発覚しなかった。

胡惟庸――占城の貢と誅殺(洪武十三年・1380年)

  • たまたま胡惟庸の子が市中で馬を走らせ車の下に落ちて死に、胡惟庸は車を挽いた者を殺した。帝は怒ってその死を償わせるよう命じた。胡惟庸は金帛をその家に与えると請うたが許されず、恐れて御史大夫の陳寧、中丞の凃節らと挙兵を謀り、ひそかに四方および自分に従う武臣に告げた。
  • 十二年九月(1379年)、占城が来貢したのに胡惟庸らは奏聞しなかった。中官が出てこれを見、入って奏したので、帝は怒って省の臣を敕責した。胡惟庸と汪廣洋は頓首して謝罪し、ひそかに咎を禮部に押しつけ、禮部の臣はまた中書に押しつけた。帝はますます怒って諸臣をことごとく囚え、主謀者を追及した。まもなく汪廣洋に死を賜り、汪廣洋の妾陳氏が殉死した。帝が問うと、没官された知県陳某の娘であった。大いに怒って「没官の婦女はただ功臣の家に給するのみである。文臣がどうして給されようか」と言い、法司に敕して取り調べさせた。ここにおいて胡惟庸および六部の堂上官・属官はみな罪に坐すべきこととなった。
  • 翌年正月(1380年)、凃節がついに変を上告して胡惟庸を告げた。御史中丞の商暠はこのとき中書省の吏に降されていたが、やはり胡惟庸の隠し事を告げた。帝は大いに怒って廷臣に下してさらに訊問させ、供述は陳寧・凃節に及んだ。廷臣は「凃節はもともと謀に加わり、事が成らないと見て初めて変を上告した。誅さないわけにはいかない」と述べた。そこで胡惟庸・陳寧を誅し、あわせて凃節も誅した。

胡惟庸――逆党の追及と三萬餘人の連座(洪武二十三年・1390年)

  • 胡惟庸が死んでも、その反状はなお全ては露われなかった。十八年(1385年)に至って李存義が人に告発され、死を免じて崇明に安置された。十九年十月(1386年)、林賢の獄が成り、胡惟庸が倭に通じた事がはじめて明らかとなった。
  • 二十一年(1388年)、藍玉が沙漠に出征して封績を捕らえたが、李善長は奏さなかった。二十三年五月(1390年)に至って事が発覚し、封績を捕らえて吏に下して訊問しその実状を得、逆謀はますます明らかとなった。
  • たまたま李善長の家奴盧仲謙が李善長と胡惟庸の往来の実状を告発し、陸仲亨の家奴封帖木もまた陸仲亨および唐勝宗・費聚・趙雄の三侯が胡惟庸とともに不軌を謀ったと告発した。帝は怒りを発して逆党を粛清し、供述に連座して誅された者は三萬餘人にのぼった。そこで『昭示奸黨録』を作って天下に布告した。株連は蔓延して数年を経てもなお静まらなかったという。

陳寧――才気による抜擢(附伝)

  • 陳寧は茶陵の人。元末に鎮江の小吏となり、従軍して集慶に至り軍帥の家に泊まった。軍帥に上書して事を論じ、太祖がこれを見て善しとし、召して檄文を試したところ文詞の意が雄偉であったので、行省掾吏に用いた。当時は四方に征討中で軍書が輻輳したが、陳寧は応答が整然として余裕があり、事に滞りがなかったので、太祖はますます才とした。
  • 淮安が降ると、命を奉じてその兵を徴発しに行き、高郵に至って吳(張士誠)の人に捕らえられた。陳寧は抗論して屈せず、釈放されて還り、廣徳知府に抜擢された。たまたま大旱があり民の租を免ずるよう乞うたが許されず、陳寧は自ら太祖のもとに詣って「民の飢えはこのとおりです。それでも徴租をやめないのは、張士誠のために民を駆り立てるようなものです」と奏した。太祖は壮として聴き入れた。
  • 辛丑(1361年)に樞密院都事に除せられ、癸卯(底本は「癸邜」に作る。1363年)に提刑按察司僉事に遷り、翌年浙東按察使に改まった。ある小吏がその隠れた過失を訴えたとき、陳寧はすでに中書参議に抜擢されていた。太祖が自ら鞫問すると陳寧は初めから罪に服し、応天の獄に一年繋がれた。吳元年(1367年)冬、処刑されようとしたが、太祖はその才を惜しみ、諸将に罪を数え上げさせたうえで赦し、太倉市舶提舉に用いた。

陳寧――苛酷な統治と誅死(洪武十三年・1380年)

  • 洪武元年(1368年)、召されて司農卿を拝し、兵部尚書に遷った。翌年、出て松江知府となり、厳しさをもって治め、積年の弊害を多く改めた。まもなく山西行省参政に改まり、召されて参知政事を拝し、吏・戸・禮三部の事を掌った。陳寧は初め名を亮といったが、この時「寧」の名を賜った。三年(1370年)、事に坐して出て蘇州を知り、まもなく浙江行省参政に改まったが、赴任しないうちに胡惟庸の推薦で召されて御史中丞となった。
  • 太祖がかつて東閣にあって冠を脱ぎ髪を梳っていたとき、陳寧と侍御史の商暠が入って奏事した。太祖はこれを見てそのまま便殿に移り、人を遣わして陳寧を止め、髪を梳り終え冠を整えて閣を出てから、はじめて入って謁見することを命じた。
  • 六年(1373年)、兼ねて國子監の事を領することを命じ、まもなく右御史大夫を拝した。八月、遣わされて先師に釈奠したとき、丞相の胡惟庸、参政の馮冕、誠意伯の劉基が陪祀せずに胙を受けた。太祖は陳寧が奏挙しなかったとして俸を半月停めた。これより祭に加わらない者には胙を頒たなくなった。久しくして左御史大夫に進んだ。
  • 陳寧は才気があったが性格はとりわけ厳酷であった。蘇州にあったときは賦の徴収が苛酷で厳しく、かつて鉄を焼いて人の肌を烙いたので、吏民は苦しんで「陳烙鐵」と呼んだ。憲臺(御史臺)に居るに及んでますます威厳を務め、太祖がかつて責めても改めなかった。その子の孟麟がしばしば諫めると、陳寧は怒って数百回打って死なせた。太祖はその情のなさを深く憎み、「陳寧はその子に対してこうなのだ。どうして君父に対して情があろうか」と斥けた。陳寧は聞いて恐れ、ついに胡惟庸と謀を通じた。十三年正月(1380年)、胡惟庸の事が発覚し、陳寧も誅に伏した。

陳瑛――建文の遺臣への追討

  • 陳瑛は滁の人。洪武中に人材として推挙されて太學に入り、御史に抜擢され、出て山東按察使となった。建文元年(1399年)北平僉事に転じたが、湯琮が陳瑛は燕王の金銭を受けて密謀を通じていると告げ、逮えられて廣西に流された。燕王が帝を称すると召されて都察院左副都御史となり院の事を署した。
  • 陳瑛は天性残忍で、帝の寵任を受けていよいよ深刻を務め、専ら人を打ちのめすことを能とした。着任早々、「陛下は天に応じ人に順い萬姓が服しておりますのに、廷臣のうちに命に順わず建文のために死を尽くした者、たとえば侍郎の黄觀、少卿の廖昇、修撰の王叔英、紀善の周是修、按察使の王良、知県の顔伯偉らがおります。その心は叛逆と異なりません。追って戮することを請います」と述べた。帝は「臣が奸臣を誅したのは齊・黄の数輩に過ぎない。後の二十九人のうち張紞・王鈍・鄭賜・黄福・尹昌隆のごときは皆宥して用いた。まして汝の言う者はこの数にも入らない。問わぬ」と言った。
  • 後に陳瑛は方孝孺らの獄詞を閲し、そこで黄觀・王叔英らの家を没収してその妻女を配し、遠縁・外戚まで連座しない者はなかった。胡閏の獄では没収された者数百家、冤を叫ぶ声が天に徹し、両列の御史はみな涙を掩ったが、陳瑛もまた顔色を暗くしながら人に「叛逆として彼らを処さなければ、われらの行為は名分を失う」と言った。ここにおいて諸忠臣には子孫が残らなくなった。

陳瑛――勲戚・大臣への弾劾(永樂元〜八年・1403〜1410年)

  • 永樂元年(1403年)、左都御史に抜擢され、いよいよ告発を能とした。八月、厯城侯盛庸が怨みそしっており誅すべきだと弾劾し、盛庸は自殺した。
  • 二年(1404年)、曹國公李景隆が不軌を謀ったと弾劾し、また景隆の弟の李増枝が景隆の不臣を知りながら諫めず、荘園を多く置き小作人・下僕を蓄えて心底が測りがたいと弾劾し、ともに捕らえられた。また長興侯耿炳文が僭上したと弾劾し、耿炳文は自殺した。駙馬都尉梅殷の邪謀を弾劾し、梅殷は殺害された。
  • 三年(1405年)、行部尚書の雒僉が事を言って帝の意に忤らったので、陳瑛は雒僉が貪暴であると弾劾し、雒僉は坐して誅死した。また駙馬都尉の明觀が民間の子女を強奪し娼を娶って妾とし、李景隆の逆謀に与ったのに、姻戚のゆえに宥されても改めないと弾劾した。帝は処断するなと命じ、明觀の朝請を停めた。のちにまたその怨望を弾劾し、逮えて下獄させた。
  • 八年(1410年)、隆平侯張信が練湖および江隆の官田を占有したと弾劾し、三法司に合同で処理させた。
  • 陳瑛は都御史であること数年、弾劾した勲戚・大臣は十餘人、いずれもひそかに帝の意向に迎合したものである。その他に弾劾した順昌伯王佐、都督陳俊、指揮王恕、都督曹遠、指揮房昭、僉都御史俞士吉、大理少卿袁復、御史車舒、都督王瑞、指揮林泉・牛諒、通政司参議賀銀ら、前後にまた数十人がみな罪を得た。帝は奸を暴くのに有能だとして寵任したが、その残酷さも知っていたので、上奏された裁きをすべて聴き入れたわけではなかった。

陳瑛――帝に退けられた弾劾の数々

  • 中書舍人の苪善は、弟夫婦が盗賊に殺されたとき、内心親しい者を疑って官に訴えたが、刑部が盗賊でないと検証して釈放した。苪善は帝に「刑部が故意に盗賊を放免した」と申し立てた。帝が御史に鞫問させると果たして盗賊ではなかった。陳瑛は苪善が妄りに奏したとして下獄させるべきだと弾劾した。帝は「兄弟は同気であり、賊を捕らえれば逃すことだけを恐れるものだ。苪善に何の罪があろう。問うな」と言った。
  • 車里宣慰使の刀暹答が威遠州の地を侵し、その知州の刀算黨を捕らえて帰った。帝が使を遣わして諭すと、刀暹答は恐れて土地と捕らえた知州を返し、弟の刀獵らを遣わして方物を貢して謝罪した。陳瑛はまず刀獵を法司に下し、あわせて刀暹答を逮捕して処断することを請うた。帝は「蛮獠の性は少しでも意に添わなければ互いに仇となるが、改めればそれで済む。今、改めたのにさらに罪して処断すれば、服さない者をどう扱うのか」と言い、赦して問わなかった。
  • 嘉興知県の李鑑が朝廷で謝罪したので帝が理由を問うた。陳瑛は「李鑑は奸黨の姚瑄を籍没しましたが、姚瑄の弟の姚亨も連座すべきなのに李鑑は姚亨を釈して籍没しませんでした。李鑑を罪すべきです」と言った。李鑑は「都察院の文書には姚瑄を籍没せよとあるだけで姚亨の名はありませんでした」と述べた。帝は「院の文書に名がないので籍没しなかったのは、慎重であることを失わない」と言い、李鑑は免れた。
  • 戸部の人材である高文雅が時政を論じ、あわせて建文の事に及び、言葉が率直であった。帝はこれを議して行うよう命じたが、陳瑛は高文雅の狂妄を弾劾して法に処すことを請うた。帝は「草野の人が何の忌み憚りを知ろう。その言に採るべきところがあるのに、どうして直だからといって廃するのか。陳瑛は刻薄で、朕が善を為すのを助ける者ではない」と言い、高文雅を吏部に付して才に応じて官を授けさせた。
  • 海運の糧が漂没したとき、陳瑛は官軍の罪を処断して弁償させることを請うた。帝は「海の波は険悪である。官軍が溺死を免れただけで幸いだ」と言い、ことごとく釈して問わなかった。
  • 陳瑛の奸険な附会と一途な苛刻は、みなこの類であった。

陳瑛――李貞の冤獄と失脚(永樂九年・1411年)

  • 帝が北巡し皇太子が監国したとき、陳瑛は兵部主事の李貞が皂隸の葉轉ら四人から金を受けたと言い、李貞を獄に下すことを請うた。まもなく李貞の妻が登聞鼓を撃って冤を訴え、皇太子は六部の大臣に廷鞫させた。辰の刻から午の刻に至るまで李貞らは来ず、ただ葉轉だけが来た。訊問すると「李貞は承服せず拷問に堪えられずに死に、三人の皂隸はみな笞で死んだ」と言った。三日のうちに、李貞は実は金を受けていなかったことが分かった。
  • これより先、袁綱・覃珩の両御史がともに兵部に来て皂隸を求め、李貞はにわかに応じられなかった。両御史はこれを恨んでこの獄を起こしたのである。
  • そこで刑科給事中の耿通らが、陳瑛および袁綱が徒党を組んで上を蒙蔽し、ほしいままに無辜を殺したとして、陳瑛を罪することを請うた。皇太子は「陳瑛は大臣であり、けだし下の者に欺かれて察知できなかったのだ」と言って問わずに置き、袁綱・覃珩を械繋してその罪状を行在に奏した。
  • また学官で事に坐して太學の膳夫に落とされた者があり、皇太子が法司に役を改めさせたが、陳瑛は妨げて行わなかった。中允の劉子春らがまた陳瑛が命に逆らってほしいままにすると弾劾し、皇太子は陳瑛に「卿は用心が刻薄で政体に明るくない。まったく大臣の道ではない」と言った。当時、太子は深く陳瑛を憎んだが、帝がまさに寵任していたのでどうしようもなかった。久しくして帝もまた次第に疎んじた。九年(1411年)春、陳瑛は罪を得て下獄して死に、天下は快とした。
  • 帝は簒奪によって天下を得たので、下を御するのに重典を多く用い、陳瑛が真っ先に風旨を承けて陥れ誣した者は数知れなかった。一時に臣工の多くがその所為に倣い、紀綱・馬麟・丁珏・秦政學・趙緯・李芳のごときは、みな傾険をもって聞こえた。紀綱は佞倖傳にある。

馬麟――告発を能とした言官(附伝)

  • 馬麟は鞏の人。洪武末に工科給事中となり、建文の時に罪に坐して雲南に流され吏となった。成祖が即位して建文朝に罷めた官をことごとく復したので、馬麟は召還され、まもなく兵科都給事中に進んだ。馬麟は他に建白するところがなく、専ら告発を能とした。帝も久しくして厭き、馬麟らに諭して「奏牘の一字の誤りまで喋々と煩わしい。甚だしいことだ。誤りは即座に改正すればよく、いちいち奏聞するには及ばない」と言った。馬麟らが「奏の中に臣と称さない者があるのは宥せません」と言うと、帝は「彼もたまたま書き落としただけだ。言官は軍国の大務を陳べるべきで、細事は略してよい」と言った。久しくして右通政に抜擢された。
  • 帝がある日、侍臣を顧みて「四方からしきりに水旱を奏してくる。朕は甚だ心安からぬ」と言うと、馬麟はすかさず進み出て「水旱は天数であります。堯・湯も免れませんでした。一、二郡にあるくらいは害になりません」と言った。帝は「『洪範』に、恒雨も恒暘もみな人事に本づくとある。天数に委ねられようか。おまえがそう言うのは学ばないからだ」と言い、馬麟は恥じて退いた。
  • 馬麟は言路にあって諸司を糾弾するのに事実の有無を問わなかった。かつて兵部の事を署してわずか一日で過失があり人に奏された。これより少し慎むようになった。通政にあること八年、官に卒した。

丁珏――冤獄による抜擢と流罪(附伝)

  • 丁珏は山陽の人。永樂四年(1406年)、里社の賽神を「衆を集めて不軌を謀った」と誣告し、坐して死んだ者が数十人にのぼった。法司はこれによって丁珏を忠と称し、特に刑科給事中に抜擢した。百官の小さな過失を伺い探ってはただちに上聞した。
  • 官に居ること十年、貪欲で廉恥を顧みなかった。母の喪が満期にならないうちに復職して事に当たり、そのまま衆に従って大祀の齋宮に赴き、さらに慶成の宴に加わったので、御史の俞信らに弾劾され、大不敬として死に当たると論ぜられた。帝は「朕はもとよりその奸邪を疑っていた。もしその言うところをすべて行っていたら、廷臣に一人でも免れる者があったろうか」と言い、そのまま辺境に流した。

秦政學・趙緯・李芳(附伝)

  • 秦政學は慈谿の人。永樂二年(1404年)の進士。行在禮部郎中を歴任し、人の過失を拾うことに努め、ほしいままに奸貪を働いた。十六年春(1418年)、罪あって誅に伏した。
  • 趙緯は初め大興教諭。燕の兵が起こったとき城の守備に功労があり、禮科給事中に抜擢された。罪に坐して思南宣慰司教授に流された。永樂七年(1409年)原官に復し、朝士の過失を拾い集めることに努めた。久しくして浙江副使に遷った。後に入朝したとき、仁宗はその名を見て「この者はまだ生きているのか。これは蛇蝎と変わらぬ」と言い、そのまま嘉興典史に落とした。
  • 李芳は穎上の人。永樂十三年(1415年)の進士。刑科給事中を歴任した。宣宗がしばしば便殿に出て大臣と事を議したとき、李芳は「洪武中、大臣が面と向かって時政を議するときは必ず給事中二人が同席しました。旧に復することを請います」と言い、帝はこれを是とした。李芳はそのまま自ら勝手にふるまい、百司の所為が少しでも意に添わなければただちに帝の前に詣って奏したので、人は紀綱に比した。久しくして帝もその奸を憎み、海鹽丞に落としたので、官を棄てて帰った。