明史卷二百九十 列傳一百七十八 忠義二
篇首の立伝者一覧
- 王冕(附・龔諒)
- 陳聞詩(附・董倫)
- 王鈇(附・錢泮)
- 錢錞(附・唐一岑)
- 朱裒(附・齊恩)
- 孫鏜
- 杜槐
- 黄釧(附・陳見ら)
- 王徳(附・叔の沛)
- 汪一中(附・王應鵬、唐鼎)
- 蘇夢暘(附・韋宗孝、龍旌)
- 張振徳(附・章文炳ら)
- 董盡倫(附・李忠臣、髙光ら)
- 龔萬禄(附・李世勛、翟英ら)
- 管良相(附・李應期ら)
- 徐朝綱(附・楊以成、孫克恕、鄭鼎)
- 姬文允(附・孟承光)
- 朱萬年(附・秦三輔ら)
- 張瑶(附・王與䕫ら)
- 何天衢(附・楊于陛)
王冕――鄱陽湖で宸濠を破る
- 王冕は字を服周、洛陽の人。正徳十二年(1517年)進士、萬安知縣に除せられた。
- 宸濠が反すると長吏の多くは逃げ散ったが、冕は勇壮の士を募って決死の兵数千人を得、王守仁に従って南昌を攻め取り返した。
- 宸濠は安慶の囲みを解いて還り救い、鄱陽湖に至って両軍がにらみ合った。濠が金帛をことごとく出して士を犒い、決死の戦いを挑んだので官軍は不利であった。冕は密かに守仁に献策し、小舟に葦を積み、建昌の人の言葉をまねて賊の艦に近づき、風に乗じて火を放った。濠の兵は大いに驚いて潰敗し、焼け死に溺れ死んだ者は数知れない。濠は舟を替えて宮人を連れて遁れたが、冕の部下の兵が漁舟を漕いで追いつき捕えた。
- 宸濠が平定されて守仁は新建伯に封ぜられたが、冕は叙されないうちに他の事に坐して職を落とされた。やがて前の功が録され兵部主事に擢げられ、山海闗を巡視した。
王冕――山海闗で母を庇って死す
- 嘉靖三年(1524年)十二月、遼東の妖賊の陸雄・李真らが乱を起こして闗内に突入した。侍吏が冕を扶けて避けさせようとしたが、冕は承知せず「わしには親がいる」と言って急ぎ母のもとへ走り、武器を執って守った。
- 賊が至って母が傷つけられ、冕は奮って前に出て救おうとして捕えられ、刃をつきつけて脅されたが大罵し、ついに害された。詔して光禄少卿を贈り、有司が祠って祀った。
王冕に附す――龔諒
- 世宗が位を嗣いだ年、寧津に盗が起こり転じて掠めて徳平に至った。知縣の龔諒が吏民を率いて禦いだが、力尽きて殺された。済南通判を贈りその家を恤んだ。
陳聞詩――師尚詔の乱に絶食して死す
- 陳聞詩は字を廷訓、柘城の人。嘉靖中に郷試に及第したが、親が老いていることから仕進の意を絶ち、親が殁すると喪に居って哀しみに身を毀った。
- 三十二年(1553年)秋、賊の師尚詔が歸徳を陥した。聞詩の名を聞いて劫かして帥に立てようとした。やがて柘城を陥し、擁して連れて来て百方誘い説いたが屈しない。その家の者数人を引き出して斬り「従わねば汝の一族を滅ぼす」と言った。聞詩は偽って「どうしても行かせたいなら、人を殺すな、火を放つな」と言った。賊が承知して擁して行くと、聞詩はそのまま食を絶ち、鹿邑に至って自ら縊れて死んだ。
陳聞詩に附す――董倫
- 董倫は歸徳の検校であった。尚詔が歸徳に入ると知府および守衛の官はみな遁れたが、倫は民兵を率いて巷戦して捕えられ、死に瀕してなお自ら数人の賊を斬った。妻の賈および童僕もみな死に従った。
- 詔して聞詩に鳯陽同知、倫に歸徳同知を贈り、ともに死んだ場所に祠を立てた。
王鈇――常熟知縣として倭を破る
- 王鈇は字を徳威、順天の人。嘉靖二十九年(1550年)進士、常熟知縣を授かった。
- 海に臨んで大悪党が多く、亡命者を匿って悪事を働いていた。鈇はことごとくその罪を赦し、悪党たちに「何をもってわしに報いるか」と語ると、みな死力を尽くしたいと請うた。そこで耆長を立てて子弟を部署し数百人を得、防卒と合わせて訓練した。
- 県にはもともと城がなかったので、鈇は士卒を率いて城を築いた。倭が何度も迫ったが、そのつど禦ぎ退けた。
- やがて倭は三丈浦から分かれて常熟・江隂を掠めた。参政の任環が鈇と指揮の孔燾に官民の兵三千を分けて統べさせ、その寨を破って斬首百五十有餘、二十七艘を焼いた。残りの倭はみな遁れてまた近県を掠め、尚湖から海に還ろうとした。
王鈇――尚湖の追撃と殉節
- 鈇は憤って「賊がまだわしの土地を渡るというのか。必ず撃ち殺してやる」と言った。ちょうど邑の人の錢泮、字は鳴聲という者が、江西参政の身で郷里におり、倭が父の柩を焼いたことを憤って、しきりに勧めて鈇を助けた。
- そこで小舟数十で倭を追ったが、倭は隘路の中で挟み撃ちにした。従っていたのは耆長数人だけで、みな力闘して死んだ。鈇は泥濘に陥り、目を瞋らせて大呼し腹を刺されて死んだ。泮は数本の鎗を受けながら三賊を殺して死んだ。時に三十四年(1555年)五月である。
- 詔して泮に光禄卿、鈇に太僕少卿を贈り、ともに錦衣衛の世襲百戸を蔭し、官を遣わして諭祭し、死んだ場所に祠を立てて歳時に奉祀した。
錢錞――江隂知縣として狼兵を率いて死す
- 錢錞は字を鳴叔、鍾祥の人。嘉靖二十九年(1550年)進士、江隂知縣を授かった。
- 着任したときすでに倭の勢いは盛んであった。三十三年(1554年)に侵入し、郷民で城に逃げ込む者は万を数えたが、兵備道の王從古は入れなかった。錞は「民が死ぬのを救わず、空城を守って何になるか」と言い、門を開いて入れ、自ら斜橋で戦い、三度戦って退けた。
- 翌年六月、倭が蔡涇閘に拠り、衆を分けて塘頭を犯した。錞は狼兵を率いて九里山に戦ったが、夕暮れに雷雨が大いに起こり伏兵が四方から発した。狼兵はことごとく逃げ、錞は戦死した。
錢錞に附す――唐一岑
- 当時、唐一岑が崇明縣を知っていた。新城を建て終えて移住を議したが、千戸の髙才・翟欽に阻まれた。倭が突入し、一岑は戦いながら罵ったが、ついに乱軍に殺された。
- 詔して錞と一岑に光禄少卿を贈り、錞は錦衣衛百戸を世蔭し、岑(の子)は国子生に応ずることとし、ともに祠を建てて祀った。
朱裒――揚州同知として倭に死す
- 朱裒は字を崇晉、鄖西の人。嘉靖中に郷試に及第し、鞏縣教諭の事を署し、武功知縣に遷った。豪強を抑え積年の弊を除いたので、闗中では「鉄漢」と呼ばれた。揚州同知に遷り、吏で民から一銭でも取ろうとする者はいなくなった。
- 三十四年(1555年)、倭が侵入した。これを沙河で撃ち敗ってその酋を殲し、掠奪された牲畜を非常に多く取り戻した。ほどなく倭がまた大挙して城の東門に迫り、兵を督して奮撃したが、兵が潰えてそこで死んだ。左参政を贈り一子を録した。
朱裒に附す――齊恩
- 翌年、倭が無為州を犯した。同知の齊恩が舟師を率いて団山北らの港で倭を破り斬首百餘級。子の嵩は十八歳で最も驍勇であった。倭を撃って安港に至ったところ伏兵が発して囲まれ、恩の家の二十餘人がともに力戦して死に、ただ嵩ら三人だけが生き延びた。
- 恩に光禄丞を贈り一子を録し、厚くその家を恤み、祠を建てて祀った。
孫鏜――呉中の商人から義兵の将に
- 孫鏜は莒州の人。呉越の地で商いをしていた。倭が松江を騒がせると郡守に謁して自ら資財を出して軍を助けたいと請うた。守は参政の翁大立に薦めた。双刀を試させると飛ぶがごとくであったので、録して土兵とした。
- 倭を撃ち走らせ、参政の任環を囲みから救い出した。人をやって莒に還らせ家の資財をかき集め、郷里の若者をすべて召して手足とした。呉中の人々は鏜を長城のように頼みとした。
- 倭の舟が泖滸を渡った。鏜は突出して終日激しく戦ったが、援兵は来ない。還って石湖橋に至り、半ばまで渡ったところで伏兵が大いに起こり、鏜は水中に墜ちて刃にかかって死んだ。光禄丞を贈り一子を禄し、やはり祠を建てて祀った。
杜槐――父に代わって郷勇を率い戦死す
- 杜槐は字を茂卿、慈谿の人。倜儻にして俠を任じた。倭寇が至り、県が父の文明を部長に指名して郷勇を組織させようとしたが、槐は父の老いを傷んで自ら引き受け、しばしば倭を破った。
- 副使の劉起安が槐に委ねて餘姚・慈谿・定海を守らせた。定海の白沙で倭に遇い、一日に十三度戦って三十餘人を斬り、酋一人の首を獲た。身に数本の鎗を受け馬から墜ちて死んだ。
- 文明は倭を鳴鶴場に撃って酋一人を斬り、倭は驚いて遁れ、「杜将軍」と称した。ほどなく追って奉化の楓樹嶺に至り戦没した。
- 文明に府経歴、槐に光禄丞を贈り、祠を建ててともに祀り、槐の子を国子生に蔭した。
黄釧――温州同知として倭に寸斬さる
- 黄釧は字を珍夫、安溪の人。挙人から温州同知を歴官した。
- 嘉靖三十四年(1555年)、倭が侵入したので釧は撃ち走らせた。倭が必ずまた来ると知って日夜備えをした。三年後、倭は果たして大挙して至った。
- 釧は城を出て迎え撃ち、軍を三つに分けた。釧が中軍を将い、他の二軍の帥はいずれも紈袴の子弟で、左右で応援する約束であった。倭に遭うと、倭は衆を分けて二軍を掩い、精鋭を中軍に当てた。釧が強弩と巨砲を放ってしばらく戦い、倭がまさに支えきれなくなったとき、二軍の帥は敵を見ただけで潰えた。倭は兵を合わせて釧を撃ち、釧は腹背に敵を受けてついに捕えられた。
- 降伏を迫られても屈せず、金で贖えと責められると、釧は笑いかつ罵って「お前は黄大夫が銭を愛さぬのを知らぬのか」と言った。倭は怒って裸にして寸刻みに斬った。子が屍を買い取ろうとしたが得られず、衣冠を具えて葬った。
- 事が聞こえて浙江参議を贈り一子を官に就け、有司が祠を建てた。
黄釧に附す――陳見・林咸・奚世亮・武暐
- この年、倭が福清を陥した。挙人の陳見が衆を率いて禦ぎ、訓導の鄔中涵とともに捕えられ大罵して死んだ。
- 倭が勝ちに乗じて恵安を犯すと、知縣の番禺の人林咸が五昼夜拒み守り、倭は引き去った。やがてまた至ったので、咸は鴨山でこれを撃ち、追い詰めて敗走する敵を逐ううちに伏兵に陥って死んだ。泉州同知を贈り祠を賜い一子を任じた。
- 倭が興化を陥したときは、延平同知の奚世亮が府の事を署して一月余り守り、城が陥ちて力戦して死んだ。右参議を贈り子を蔭し葬を賜った。世亮は字を明仲、黄岡の人。
- これより先、三十一年(1552年)、台州知事の溧水の人武暐が倭を釣魚嶺に追って力戦して死んだ。上官がこれを奏上しなかったので、その子の尚實が朝廷に訴え、太僕丞を贈り尚實を国子生に蔭した。
王徳――給事中としての諫言
- 王徳は字を汝修、永嘉の人。嘉靖十七年(1538年)進士。戸科給事中を歴任した。
- 定國公の徐延徳が無極ら諸県の閑田を乞うて自分の領地にしようとし、かつ私に置いた荘田は災害を理由に賦を免ずべきでないと言った。徳は疏を抗げてこれを弾劾した。
- 諳達が都城を囲んだとき、しばしば軍国の便宜を陳べ、いずれも許可された。当時、城門はすべて閉ざされ避難者が入れず、その号叫は西内にまで届いた。徳がこれを言上してはじめて民は入ることができた。
- 冦が退くと山東で兵を募るよう命ぜられ、集めた兵はいずれも驍勇で諸道随一であった。朝に還ったとき、李黙が吏部に長たり、徳の名刺の出し方が倨傲だと怒って、嶺南兵備僉事に出した。巡撫と事を争って弾劾を投じてそのまま帰った。黙がまた吏部に起用され、前の恨みで職を落とし閑住させた。
王徳――倭を禦いで郷里に死す
- 徳は郷里にあって倭乱のため母を奉じて城中に居り、資財を傾けて健児を募って郷土防衛の計を立てた。
- 三十七年(1558年)夏、倭が梅頭から至って大いに掠めた。徳は族父の沛とともに義兵を督して撃ち、倭は夜のうちに遁れた。にわかに一艘が突然襲来し、沛および族弟の崇堯・崇修が殲された。
- ほどなく倭がまた至って大いに掠めた。徳は憤怒して部下を率いて追撃し龍灣に至ったが、軍が敗れ、自ら数人を射殺し、賊を罵って死んだ。しかし倭はこれ以来、徳の郷里を越えて郡城を侵すことを敢えてしなくなった。
- 事が聞こえて太僕少卿を贈り錦衣衛百戸を世蔭し、祠を立てて「愍忠」と称した。沛には太僕丞を贈り祠を立て蔭を与えた。
汪一中――泰和の賊を討って戦死す
- 汪一中は字を正叔、歙の人。嘉靖二十三年(1544年)進士。開封推官から江西副使を歴任した。
- 四十年(1561年)、隣境の賊が侵入して泰和に迫った。一中はちょうど宴席にいたが箸を投げて起ち「賊は鼓を鳴らして西進し我が不備を衝いている。早く手を打たねば生き残る者もいなくなる。酒を飲んでいる時か」と言った。当路はそこで賊討伐をこれに委ねた。
- これより先、泰和巡檢の劉芳が力戦して死に、賊が怒ってその屍を磔にしていた。一中は着くと諸将吏を率いて祭って「そなたは関を守る職でありながら国境の事に死んだ。わしは方面の任にある身、賊を滅ぼさずして何のために生きよう」と言った。
- そこで師を誓い陣を列ねて鼓を進め、五人を俘にして斬首し見せしめとした。翌日も前日どおり陣した。ちょうど賊が至ると左右の軍がみな潰え、賊はことごとく中軍に向かい、中軍も潰えた。一中は馬を躍らせて賊の鋒先に当たり二人を射殺し一人を手ずから斬ったが、左脇に鎗二本、両腕に刃三か所を受け、指揮の王應鵬、千戸の唐鼎とともに死んだ。
- 妻の程は井に投じ、人が引き上げた。喪が到着すると五日食を断って死んだ。一中に光禄卿を贈り祭葬を給し忠愍と諡し、妻の程にも制のとおり贈恤した。
蘇夢暘――禄豐知縣として鳯騰霄の乱に死す
- 蘇夢暘は萬厯の間、雲南禄豐知縣であった。三十五年(1607年)十二月、武定の賊の鳯騰霄が反して雲南府城を囲み、転じて禄豐に寇した。夢暘は民兵を率いて城を出て力戦し、賊は退き去った。
- 翌年の元旦、朝服して祝釐しているところへ、賊が不意を衝いてその城を襲い陥し、夢暘を捕えて連れ去った。屈せず死んだ。光禄少卿を贈り、有司が祠を建て一子を録した。
蘇夢暘に附す――韋宗孝・龍旌
- 禄豐がまだ陥ちないうち、賊はまず嵩明州を犯した。吏目の韋宗孝が出て禦いだが敗れ、一門ともに死んだ。本州同知を贈り、子が国学に入ることを蔭した。
- 龍旌という者は趙州の人。歳貢生から嵩明州学正となった。賊が城に迫って捕えられ、賊を罵って死んだ。国子博士を贈った。
張振徳――興文知縣として奢崇明の乱に一門殉ず
- 張振徳は字を季修、崑山の人。祖父の情、従祖父の意はいずれも進士で、情は福建副使、意は山東副使であった。振徳は選貢生から四川興文知縣を授かった。
- 県はもと九絲蛮の地で、萬厯の初めにはじめて数尺の土牆を築いたばかり、戸数も千に満たなかった。永寧宣撫の奢崇明に異志があり、密かに悪人と結んで子女を掠め売っていた。振徳はその悪人を捕えて流配に処し、掠われた者三百餘人を招き還した。崇明が二千金を賄賂に贈ると、振徳は怒って却け、その文書を裂いた。
- 天啓元年(1621年)、振徳はちょうど成都に赴いて郷試の事にあずかっていたが、崇明の部将の樊龍が巡撫の徐可求、副使の駱日升・李繼周らを殺した。重慶知府の章文炳、巴縣知縣の段髙選はみな節に抗して死に、賊はついに重慶に拠った。
- 当時、振徳は兼ねて長寜を署しており、そちらは賊からやや遠かったので、従者は長寜へ走ろうとした。振徳は「興文を守るのが正しい」と言い、急ぎ城に入った。長寜主簿の徐大禮は振徳と親しく、騎馬で迎えに来たが、振徳は却けた。
- 郷兵を督して戦ったが敵せず、退いて居民を集めて城を守った。ちょうど大風雨となり、賊は土城を毀って入った。振徳は妻の錢および二人の娘に一振りの剣を持たせて後堂に坐らせ「お前たちはここで死ね、わしは前堂で死ぬ」と言った。そして二つの印を取って肘の後ろに繋ぎ、北に向かって拝して「臣、職を奉じながら不甲斐なく賊を殺すことができませぬ。ただ一死をもって志を明らかにいたします」と言った。
- 妻と娘がまず剣に伏して死に、そこで家人に命じて火を放たせ、火が盛んになると自ら頸を刎ねた。一門の死者は十二人。賊が火の場所に至り、振徳の顔が生けるがごとく、左手に印を繋ぎ右手に刀を握り、憤怒して敵に赴くような姿であるのを見て、みな驚き並び拝して去った。
- 事が聞こえて祭葬を賜い光禄卿を贈り烈愍と諡し、有司に勅して祠を建てさせ、錦衣衛千戸を世蔭した。
張振徳に附す――劉希文・徐大禮
- 振徳が死んだのち、興文教諭の劉希文が代わって県の事を署した。わずか半年で賊がまた城に迫ったが、死を誓って去らなかった。妻の白も慷慨としてともに死にたいと願った。城が破れて夫婦は賊を罵ってともに死んだ。
- 大禮は長寜を守ったが、城はやはり陥ちた。大禮は「わしは張公に背けぬ」と言い、一家四人で薬を仰いで死んだ。重慶同知を贈り百戸を世蔭した。
張振徳に附す――章文炳・段髙選
- 文炳は長泰の人。萬厯四十一年(1613年)進士。戸部郎中を歴任し知府に遷った。政治は清廉潔白で吏民に愛された。賊が巡撫の可求らを殺したのち、文炳も賊を罵って殺された。後に賊もその賢を知り、屍を探して殯して帰した。喪が江上を出るとき、両岸の人々はみな大いに哭した。太僕少卿を贈り、さらに太常卿を贈り、外衛副千戸を世蔭した。
- 髙選は雲南劍川縣の人。萬厯四十七年(1619年)進士。たまたま演武場にいて変を聞き、ただちに吏を遣わして印を役所に返し、厲しい声で賊を叱った。賊の首領は部下に殺すなと戒めたが、髙選が罵り続けたのでついに害された。父の汝元、母の劉、側室の徐および一子一女は変を聞いてみな自尽した。僕が死を冒して主の屍を探したがこれも害された。
- はじめ尚寳卿を贈り百戸を世蔭した。崇禎元年(1628年)、子の暄が振徳の例に倣って闕に訴えて手厚い恤みを請い、光禄卿を贈り錦衣衛千戸を世蔭し祠を建てて奉祀した。汝元らも旌された。十五年(1642年)にはさらに諡を請い、恭節と諡を賜った。
張振徳に附す――四川で先後に殉難した官
- 当時、先後に殉難した者は次のとおりである。
- 灌縣知縣の左重は壮士を率いて賊を成都に追い力戦したが、馬が躓いて賊を罵って死んだ。
- 南溪知縣の王碩輔は城が陥ちて自尽し、賊はこれを支解した。
- 桐梓知縣の洪維翰は城が陥ちて印を奪われかけたが屈せず死んだ。典史の黄啟鳴も死んだ。
- 郫縣訓導の趙愷は衆を率いて賊を撃ち刺されて死んだ。
- 遵義推官の馮鳯雛は身を挺して賊を禦ぎ傷を負って死んだ。
- 遵義司獄の蘇樸、威逺経歴の袁一修は、義として賊に汚されぬとして城から身を投げて死んだ。
- 大足主簿の張志譽、典史の宋應皐は兵を集めて奮戦し力尽きて死んだ。
- 担当官署がその状を上り、重・碩輔・維翰に尚寳卿を贈り千戸を世蔭し、啟鳴に重慶通判、愷に重慶同知を贈り、ともに試百戸を世蔭した。崇禎十二年(1639年)、重の子の廷皐が髙選の例に倣って恩を乞い、命じてその請いのとおりとした。
張振徳に附す――王昌允
- 崇明の父子は永寧に拠った。貴陽同知の嘉興の人王昌允が永寧衛の事を分理していて難に死んだ。僉事を贈り祭を賜った。
- 崇禎の初め、その子の監生の世駿が言上した。賊が永寧に踞ったとき臣の父は血を刺して三度上申書を草し、印を上官に返し、翌年五月に再拝して自ら縊れた。賊はこれを恨んでその屍を焼いた。二人の孫と一人の孫娘および僕婢十三人が同じ日に害された。張振徳の例のとおり手厚く恤典を加えていただきたい、と。許可された。
董盡倫――奢崇明の乱に重慶を衝いて戦死す
- 董盡倫は字を明吾、合州の人。萬厯中に郷試に及第し、清水知縣に除せられ安定に調され、いずれも恵政があった。任期が満ちると安定の人が闕に詣って留任を奏し、詔して鞏昌同知を加え、なお県の事を執らせた。久しくして同知として甘州の軍餉を管理し、職を解いて帰った。
- 天啓の初め、奢崇明が反して衆を率いて城に迫った。盡倫は知州の翁登彦とともに固守した。賊が使者を遣わして降伏を説くと、盡倫は大いに怒って自ら賊の使者を斬り、その眼球を抉って食った。しばしば賊の鋒先を挫き、城は無事であった。
- さらに衆を率いて銅梁を援けて功があった。ほどなく檄を受けて重慶を衝いたが、孤軍で深入りし伏兵が四方から起こり、ついに戦死した。
- 光禄少卿を贈り百戸を世蔭し祠を建てて奉祀した。ほどなく蔭を指揮僉事に改め、崇禎の初めに城を全うした功を論じて蔭を錦衣衛千戸に改めた。
董盡倫に附す――李忠臣・髙光・胡縝ら
- そのころ郷里にいて死節した士大夫に李忠臣がある。永寧の人、松潘参政に官した。家にいて賊の手に落ち、決死の士を募って密かに総兵官の楊愈懋と約し、大軍に城へ迫らせ自分は内応しようとした。事が漏れて一門ともに害された。
- 髙光は瀘州の人。かつて應天通判であった。城が陥ちて髪を剃って僧となり、子の在崑とともに壮士を募って賊百餘を殺した。賊が怒って追い大葉壩に至り、光は賊を罵って屈せず、家の者十二人とともに死んだ。
- 胡縝は永寧の挙人。崇明が必ず反すると予測し、書を当局に上ったが納れられなかった。賊が起こって捕えられ、厳刑を受けて獄中に閉じ込められた。弟の緯が家を傾けて救い出した。そこで義徒を糾合し、密かに賊将の張令らと結んでその偽の宰相を捕え、行陣を部署して自ら一方面を受け持ち、しばしば賊を斬った。賊は大いに畏れた。やがて火薬に焼かれて死んだ。
- 聶繩昌は富順の挙人。家を潰して義勇を募り賊を禦いで戦死した。
- 吳長齡は瀘州の監生。衆を率いて瀘州を回復したが、ほどなく伏兵に遭い父子ともに戦死した。
- 胡一䕫は興文の人。龍陽縣丞に仕え、捕えられて屈せず死んだ。以上はいずれもまだ恤みを与えられていない。
龔萬禄――建武所を守り三日力戦して死す
- 龔萬禄は貴州の人。目に一丁字なかったが大志があり膂力は人に過ぎた。劉綎に従って楊應龍を征し海龍囤に先登し、守備を署して建武所に戍った。
- 奢崇明が反すると、衆は萬禄を推して遊撃将軍とし兵事を主らせた。指揮の李世勛は名位が萬禄より上であったが、やはりその節制を受け、力を合わせて固守した。
- 崇明は成都を犯そうと謀ったが、萬禄が後ろを牽くのを憚り、部将の張令を遣わして降伏を説かせた。令は萬禄と結んで、崇明には降伏したと偽った。崇明は果たして他の将を遣わして戍らせたので、萬禄はこれを脅して降し、誘い殺した者は数知れない。
- さらに微服して敘州に走り、副使の徐如珂に「賊の精騎は成都に集まり、本拠に残るのは老弱ばかりです。もし萬禄に一万人を貸していただければその巣を衝きます。彼は必ず還って成都を救い、囲みはたちどころに解けましょう」と説いた。如珂はその計を奇としたが用いることができなかった。
- ほどなく賊が全軍で建武を攻めた。萬禄は十里の外で邀撃したが兵が少なく敗れて城に還り、城はついに陥ちた。世勛は衣冠を具えて再拝し、家族を率いて自ら焼け死んだ。萬禄は自ら二人の妾と二人の孫を斬り、自刎したが死にきれず、そこで矟を握って馳せ出て「わしは龔萬禄だ。誰か追えるか」と大呼した。賊は顔を見合わせて敢えて迫らなかった。
- 敘州に走って巡撫の朱爕元に援軍を乞い、兵をもって建武を回復した。ちょうど官軍が江門で敗れ、賊が四面から攻めて来た。萬禄は三日力戦し、自ら数十人を斬り、子の崇学とともに死んだ。詔して都督僉事を贈り祠を立て祭を賜い百戸を世蔭した。
龔萬禄に附す――翟英・韓應泰・郁聫若・張羽
- 当時、成都衛指揮の翟英は賊を龍泉驛に扼し、成都後衛指揮の韓應泰は成都に救援に赴いて草堂寺の小河で賊に遭い、所鎮撫の郁聫若は賊と城西で激闘し、茂州百戸の張羽は郫縣を救援した。いずれも力戦して死んだ。
管良相――烏撒衛を守って自縊す
- 管良相は烏撒衛指揮である。人となりは慷慨で奇節を負った。天啓の初め、樊龍らが四川に反し、巡撫の李橒が召して麾下に置きともに軍事を謀った。良相は安邦彦が必ず反すると策し、橒を佐けて固守の計を立てた。
- ほどなく祖母の病を理由に休暇を乞うて帰るとき、泣いて橒に語った。「烏撒は孤城で水西に近接し、しかも安效良と互いに仇です。水西に変があれば禍はまず及びましょう。良相には子がなく、死をもって国に報いたいと願います。長策を立ててこの一方を保っていただきたい」。
- ひと月余りで邦彦は果たして反し、その城を囲んだ。良相は固守して降らなかったが、久しくして外の援けが来ず、城が陥ちて自ら縊れて死んだ。同僚の李應期・朱運泰・蔣邦俊も害された。
- 当時、普定衛の王明重、威清衛の邱述堯、平壩衛の金紹勛、壩陽把総の簡登龍、郷里にいた元守備の劉皐とその子の景がともに難に死んだ。また訓導の劉三畏は賊が至っても避けず、書斎の中に端坐したまま殺された。人はこれを「龍里三劉」と称した。
徐朝綱――安順推官として一門殉ず
- 徐朝綱は雲南晉寧の人。萬厯二十八年(1600年)郷試に及第し、天啓元年(1621年)安順推官を授かり、着任するとすぐ府の事を署した。
- 翌年、安邦彦が反して城を攻めに来た。朝綱は兵と民を督してともに守ったが、土官の温如璋らが門を開いて賊を迎え入れた。朝綱は憤って戦を督した。賊が捕えて降伏を迫ったが屈せず、印を出せと求めると「死賊奴め、わしの首は断てても印は取れぬ」と罵った。賊は怒って刀斧を交々振り下ろし、朝綱は死んだ。
- その妻はこれを聞いて楼に登って自ら縊れた。長子の嫁は急いで火を放って家を焼き、十歳の娘を抱いて烈火の中に躍り込んで死んだ。孫の應魁は十六歳、矛を持って囲みを破って城を出て祖父を探したが、賊に遇って殺された。婢僕で死に従った者は十一人。
- 五年(1625年)正月、殉難の諸臣を恤み、朝綱に光禄少卿を贈り、子が国学に入ることを蔭した。
- 子の天鳯は進士に及第するとすぐ喪に奔って帰り、服喪を終えて戸部主事を授かった。疏して「臣の家は一門にして、臣(の父)は忠に死に、妻は節に死に、嫁は姑のために死に、孫は祖父のために死に、婢僕は主のために死にました。これは従来なかった節烈です。張振徳の例のとおり重ねて手厚い恤みを加え、臣の母と臣の兄嫁も同様に旌表していただきたい」と言った。帝は深くこれを嘉した。重ねて光禄卿を贈り、蔭を錦衣衛の世襲千戸に改め、祭葬を賜い祠を立て坊を建て、死に従った者もみな附祀した。
徐朝綱に附す――楊以成
- 同時に殉難した者に楊以成がある。雲南路南の人。萬厯中に貢生から貴陽通判を授かり畢節衛の事を管理した。任期が満ちて同知に進み、なお畢節を治めた。
- 邦彦が貴陽を囲むと、以成は蝋書を作って雲南巡撫の沈儆炌に援けを乞うた。書を出したときすでに賊は至っており、戦って退けた。賊はますます増えた。以成は吏に印を懐に抱かせ間道から省城へ走らせ、自身は吏民を督して拒み守った。ちょうど援兵が至って賊が夜逃げしようとしたところ、衛吏の阮世爵が内応して城はついに陥ちた。
- 以成は倉皇として縄に首を掛けたが、賊が縛って連れ去った。そこで書を作って賊中の状況を述べ竹筒に入れ、弟の以恭を遣わして雲南に赴いて変を告げさせた。納溪に至って散り散りになり、賊がその書を捜し当てて以成と併せて殺した。家族の死者は十三人。按察僉事を贈り葬を賜った。
徐朝綱に附す――鄭鼎
- 鄭鼎は字を爾調、龍溪の人。郷試に及第して廣順知州となった。安邦彦が必ず反すると策し、書を当局に上って事情を述べた。州にはもともと城がなかったので、民を督して柵を樹て土を詰めさせた。
- ほどなく邦彦は果たして反して城を攻めて来た。鼎は死を誓って固守した。賊の勢いが盛んだから定番に走るべきだと言う者がいたが、鼎は「わしは土地を守る吏だ。義として城と存亡をともにする」と言った。
- 賊が入ると、土官の金燦とともに堂上に端坐したまま、ともに賊に殺された。婢僕で死に従った者は六人。吏目の胡士統は捕えられてやはり屈せず死んだ。巡撫の李橒が朝廷に上り、僉事を贈り祭を賜った。
- 崇禎元年(1628年)、以成の子の挙人興南、鼎の子の挙人崑禎がいずれも朝綱の例に倣って恤みを加えることを請い、ともに光禄卿を贈り錦衣衛千戸を世蔭し祭葬を与え、有司が祠を建て坊を立てた。以恭も附祀された。崑禎はのち進士に及第し御史・尚寳卿を歴任した。
徐朝綱に附す――孫克恕
- 当時、孫克恕という者がある。字を推之、馬平の人。郷試に及第し貴州副使を歴官して思石道を分巡した。賊を禦いで戦死したが、虎がその骸を守って去らず、蛮人は嘆じて異とした。事が聞こえて太僕卿を贈り祭葬を賜った。
姬文允――滕縣知縣として白蓮の賊に死す
- 姬文允は字を士昌、華州の人。郷試に及第し、天啓二年(1622年)滕縣知縣を授かった。
- 政務を執ってわずか三日、白蓮の賊の徐鴻儒が城に迫り、民の十のうち九は乱に従った。文允は徒歩で叫び号んで吏卒を駆り立てて城壁に登らせたが三百人にも満たず、賊を望んではすぐ逃げ、残ったのはわずか数十人であった。
- なぜ賊に従うのかと問うと「禍は董二から出た」と言う。董二とは元の延綏巡撫董國光の子で、郷里で貪欲横暴、民は生活が立たず、それで賊に従ったのである。文允は城に凭れて「良民は董二のせいで立ち上がって賊に従ったのだ。わしが董二を捕えて法にかけ、お前たちのために憤りを雪いでやろう。それでどうか」と諭した。
- 文允は身の丈高く顔は赤く鬚髯は戟のように張っていた。賊は望み見て驚いて神人かと思い、みな歓呼して並び拝した。
- ところがにわかに西の隅から矢が放たれて二人の賊を斃した。見るとそれは延綏の沙柳の矢柄であった。賊は文允が欺いたと思って大いに憤り、肉薄して城に登り、守兵はことごとく潰えた。
- 文允は緋の衣を着て堂の上に坐し、歯を噛みしめて賊を罵った。賊が前に出て掴みかかり冠と衣を裂いて械をかけたが、三日罵り続けて屈しなかった。密かに印を解いて小吏の魏顯照と家僮の李守務に与え、北に向かって闕を拝してついに自ら縊れた。賊は顯照を拷問して印を求めたが、顯照は密かにその父に授け、守務とともに賊を罵ってともに死んだ。
- 事が聞こえて太僕少卿を贈り祠を立てて祀り一子を録し、顯照・守務の家を手厚く恤んだ。董二は城を越えて遁れ去った。
姬文允に附す――孟承光
- 当時、賊が鄒縣を陥した。博士の孟承光は責められて罵り返し屈せず死んだ。尚寳少卿を贈り錦衣衛千戸を世蔭した。承光は字を永觀、亜聖(孟子)の裔で、代々五経博士を蔭する家柄であった。
朱萬年――萊州知府として砲を撃たせて死す
- 朱萬年は黎平の人。萬厯中に郷試に及第し、萊州知府を歴任して恵政があった。
- 崇禎五年(1632年)、叛将の李九成らが登州を陥し、衆を率いて攻めて来た。萬年は吏民を率いて固守した。当時、山東廵撫の徐從治と登萊廵撫の謝璉がともに城中におり、囲まれて数か月堅守した。從治は砲に中って死んだ。
- 賊が偽って降伏を乞うたので、璉が萬年を率いて受けに行き、捕えられた。萬年は「わしを捕えても益はない。精騎を出してわしに従い、守る者を呼んで降らせよう」と言った。賊は精騎五百で萬年を擁して城下に至った。萬年は大呼して「わしは捕えられた、必ず死ぬ覚悟だ。賊の精鋭はことごとくここにいる。急ぎ砲を放って撃て。わしのことは念頭に置くな」と叫んだ。守将の楊御蕃が忍びずにいると、萬年はさらに足を踏み鳴らして大呼した。賊は怒って萬年を殺した。城上の人々は萬年がすでに死んだのを見てついに砲を放ち、賊の死者は半ばを超えた。
- 事が聞こえて太常卿を贈り祭葬を賜い、有司が祠を建て一子を官に就けた。
朱萬年に附す――秦三輔・吳世揚・陳所聞ら
- はじめ賊が新城を掠めたとき、知縣の秦三輔と訓導の王協中が禦いでともに死んだ。
- 黄縣を陥したときは知縣の吳世揚が賊を罵って死に、縣丞の張國輔、参将の張竒功、守備の熊奮渭がみな力戦して死んだ。
- 平度を陥したときは知州の陳所聞が自ら縊れて死んだ。
- 三輔と世揚に光禄少卿、所聞に太僕少卿を贈り、ともに祭葬を賜い祠を建て子を蔭した。協中・國輔・竒功にも贈恤に差があった。三輔は三原の人、世揚は洛陽の人、所聞は畿輔の人で、いずれも乙榜(挙人)から身を起こした。
張瑶――登州の陥落に殉ず
- 張瑶は蓬萊の人。天啓五年(1625年)進士、開封府推官を授かった。請託を絶ち豪強を抑え、吏民は神のごとくに畏れた。
- 崇禎四年(1631年)、行取されて都に入った。吏科の宋鳴梧が力めて宋玫を援けて給事とし、瑶を抑えて府同知を授けさせた。瑶は怒って疏して玫の贈賄の状を摘発した。吏部尚書の閔洪學が瑶の贈答と猟官を弾劾し、鳴梧もさらに極論したので、河州判官に謫せられた。まだ赴かないうち、翌年正月に李九成らが登州に迫った。
- 瑶は家の者を率いて城壁に登り拒み守った。城が陥ちても瑶はなお石を揮って奮撃した。賊が取り囲んで捕えたが、大罵して屈せず殺された。妻と娘の四人はともに井に投じて死んだ。光禄少卿を贈った。
張瑶に附す――挙人・貢生の死難と恤典の議
- これより先、賊が新城を陥したとき挙人の王與䕫・張儼然が死んだ。他の県が陥ちたときは貢生の張聫台・蔣時行も死んだ。いずれも規定に阻まれて旌されなかった。
- 礼部侍郎の陳子壯が上言した。挙人・貢生の死難に恤典がないのは旧制である。しかし名はすでに天府に登っているのに、恩だけが流官に後れる。九泉の下で怨みがなかろうか。近ごろ武挙の李調が賊を禦いで身を捐じてすでに贈恤を蒙った。武の途でさえこうである。文儒だけが遺されてよいものか。せめて一官を贈って永く定制とされたい、と。許可された。
- そこで與䕫・儼然に宛平知縣、聫台・時行に順天府教授を贈った。その後、地方で死難した挙人の李譲・吳之秀・賈煜・張慶雲、貢生の張茂貞・張茂恂のような者は、みな前の制のとおり官を贈られた。
何天衢――普名聲に叛いて明に帰し、のち自焚す
- 何天衢は字を升宇、阿米州の人。勇略があった。土酋の普名聲が招いて頭目とし三郷に駐させた。
- 崇禎三年(1630年)、名聲が反し、三路に兵を出して昆明に至って会戦しようと謀り、天衢には維摩・羅平から入らせ、砲手三百人を付けて助けさせた。天衢は慨然として「これこそ大丈夫が国に報いる時だ。どうして逆賊に使われようか」と言い、砲手数十人を坑殺し、衆を率いて帰順した。署維摩州同知の李嗣泌が城を開いて迎え入れた。
- 名聲はすでに彌勒を陥していたが、これを聞いて大いに懼れ、急ぎ二路の兵を撤収して帰した。巡撫の王伉がその事を上り、守偹に任じた。その後もしばしば嗣泌とともに進んで討伐して功があった。
- 名聲が死ぬと、妻の萬氏が代わってその衆を率い、しばしば天衢を攻めたが、天衢はそのつど挫いた。功を録して参将に進み、十三年(1640年)副総兵に擢げられた。
- 萬氏は沙定洲を婿に迎え、南安の兵を加え、かつ黔國公の側近に厚く賄賂して天衢を陥れさせた。天衢が兵と兵糧を請うてもいずれも応じられず、賊が全力で攻めた。食糧が尽き、一家を挙げて自ら焼け死んだ。
何天衢に附す――楊于陛
- はじめ名聲の乱のとき、楊于陛という者があった。劍州の人。郷試に及第し武定府同知を歴官した。巡撫の伉が命じて軍事を監紀させたが、兵が敗れて捕えられ死んだ。太僕少卿を贈り祠を建てて「精忠」と称した。