明史卷二百八十九 列傳第一百七十七 忠義
篇首の立伝者一覧
- 花雲(附・朱文遜、許瑗ら)
- 王愷
- 孫炎(附・王道同、朱文剛)
- 牟魯(附・裴源、朱顯忠、王均諒ら)
- 王綱(附・子の彦逹)
- 王禕(附・吳雲)
- 熊鼎
- 易紹宗
- 琴彭(附・陳汝石ら)
- 皇甫斌(附・子の弼、吳貴ら)
- 張瑛(附・熊尚初ら)
- 王禎
- 萬琛(附・王祐)
- 周憲(附・子の幹)
- 楊忠(附・李睿ら)
- 吳景(附・王源、馮傑、孫璽ら)
- 霍恩(附・叚豸、張汝舟ら)
- 孫燧
- 許逵
- 黄宏(附・馬思聰)
- 宋以方(附・萬木、鄭山、趙楠ら)
忠義傳の序
- 古来、忠臣義士が国のために命を捨てれば、その節義は一時に炳き、名は百世に垂れる。歴代とも表彰の制度は備わってきた。
- 明の太祖は江左に創業するや、まず余闕と福夀を褒めて忠義の気風を興した。挙兵に従った将士で功を遂げぬうちに死んだ者は、豫章の康郎山の両廟および鷄籠山の功臣廟に祀られ、公侯を追贈され、太廟の侑享にあずかり、子孫は恤録された。精忠を励まし義烈を激揚しようとする意図は遠大であった。
- 建文の変では、群臣が鼎鑊を恐れず一族を焼き尽くしてまで成祖の威稜に抗した。『表忠一録』は伝聞の疑わしい材料から出たものではあるが、それでも人心と天性の滅びないことを知るには足りる。
- 仁宗・宣宗以降、太平が二百餘載も重なったが、その間にも交阯の征討、土木の変、宸濠の叛乱、さらに神宗・熹宗両朝の辺陲の多事があり、身を沈めて殉難した者は数え切れない。司勲の褒恤の典はすべて優厚に従い、担当役所が奏し漏らした場合は後人が自ら陳請することもできたので、節烈の事績はみな当時のうちに顕彰された。
- 荘烈帝の朝に至り、時運は陽九に当たり、内外の諸臣が封疆に首を隕とし、あるいは闕下に命を致し、死地を踏むこと帰るがごとき者がとりわけ多かった。
- そこで明一代の死義・死事の臣を博く採り広く蒐めてここに次のように列べる。同時に死んだ者は事に因って附して見せる。事跡が繁多で国家の興亡に係わるもの、他伝と連なってはじめて本末が明らかになるもの、また直諫死忠でその疏の草稿が人口に伝誦するものは、おおむね前の帙に収めてある。前朝に忠を尽くし新朝の命に抗した者については、前史の例に稽えて併記してよい。
- 我が太祖・太宗は忠厚をもって基を開き、名教を扶植し、張銓の守義を奨め、張春を釈してこれに礼を加えた。その洪量は天地に同じく、大義は日月に懸かる。
- 国史の載せるところは丹青のごとく煥やかで、諸臣が志を遂げ仁を成したことはこれによって恥じるところがない。ゆえに備さにここに列べる。
花雲――太祖に従い各地を略取
- 花雲は懐逺の人。容貌は偉大で色黒く、驍勇は絶倫であった。至正十三年癸巳(1353年)、剣を杖いて臨濠に太祖を訪ねた。太祖はその才を奇として兵を将いて地を略させ、行く先々で必ず勝った。
- 懐逺を破ってその帥を擒え、全椒を攻めて抜き、繆家寨を襲って群冦を散走させた。
- 太祖が滁州を取ろうとして数騎を率いて先行したとき、雲も従った。突然に賊数千に遭遇したが、雲は鈹を挙げて太祖を庇い、剣を抜き馬を躍らせて敵陣を衝いて進んだ。賊は驚いて「この黒将軍は勇猛すぎる、その鋒先には当たれない」と言った。本隊が到着して滁州を克った。
- 甲午(1354年)、和州攻略に従い卒三百を獲て、功により管勾を授かった。乙未(1355年)、太祖が江を渡ったとき雲が先に渡り、太平を克つと忠勇をもって左右に宿衛した。
- 集慶攻略に従って卒三千を獲、総管に擢げられた。鎮江・丹陽・丹徒・金壇を徇えていずれも克った。
- 馬䭾沙を過ぎたとき、劇盗数百が道を遮って戦いを求めた。雲は進みながら闘い、三日三夜でことごとく擒殺し、前部先鋒を授かった。
- 常州攻略に従い牛塘営を守った。太祖が太平に行樞宻院を立てると、雲は院判に擢げられた。
- 丁酉(1357年)、常熟を克って卒万餘を獲た。寕國へ赴けと命ぜられたが、兵が山沢の中に八日も陥り、群盗が結びついて道を塞いだ。雲は矛を操り鼓譟して出入し、斬首は千百を数えたが、身には一矢も中らなかった。還って太平に駐した。
花雲――太平の陥落と殉節
- 庚子(1360年)閏五月、陳友諒が舟師をもって来寇した。雲は元帥朱文遜・知府許瑗・院判王鼎と陣を結んで迎え戦い、文遜が戦死した。
- 賊は三日攻めても入れず、増水に乗じて巨舟を寄せ、舟尾から堞をよじ登り城が陥ちた。賊が雲を縛ったが、雲は身を奮って大呼し縄をことごとく裂き、起って守る者の刀を奪い五六人を殺し、「賊め、我が主の敵ではない、なぜ早く降らぬか」と罵った。賊は怒ってその頭を砕き、檣に縛りつけて叢射した。賊を罵る態度は少しも変わらず、死に至るまで声はなお壮であった。年三十九。
- 瑗と鼎も抗って罵り死んだ。太祖は呉王に即位すると、雲を東邱郡侯、瑗を髙陽郡侯、鼎を太原郡侯に追封し、忠臣祠を立てて並び祀った。
花雲――妻の郜と侍児の孫
- 戦いが急なとき、雲の妻の郜は家廟を祭り、三歳の児を抱いて泣きながら家人に語った。「城が破れれば夫は必ず死ぬ。私も義として独り生き残るまい。ただ花氏を絶やしてはならぬ。お前たちよくこの子を養え」。
- 雲が捕えられると郜は水に赴いて死んだ。侍児の孫は埋葬を済ませて児を抱いて行き、掠われて九江に至った。孫は夜に漁家に身を投じ、簪や耳飾りを外して養育を頼んだ。
- 漢(陳友諒)の兵が敗れると、孫はまた児を盗み出して走り江を渡ったが、敗走軍に遇って舟を奪われ江中に棄てられた。折れた木に浮いて葦洲に入り、蓮の実を採って児に含ませ、七日経っても死ななかった。夜半、雷老という父老がこれを助けて連れて行った。
- 一年餘りで太祖のもとに到着した。孫が児を抱いて拝して泣くと太祖も泣き、児を膝の上に置いて「将種である」と言った。雷老に衣を賜おうとしたが、たちまち姿が見えなくなった。児には煒という名を賜い、累官して水軍衛指揮僉事となった。
- その五世孫が遼の復州衛指揮であったとき世宗に請い、郜に貞烈夫人、孫に安人を贈り、祠を立てて祭を致した。
花雲に附す――朱文遜・許瑗・王鼎ら
- 文遜は太祖の養子である。かつて元帥秦友諒とともに無為州を攻め克った。
- 瑗は字を栗夫、樂平の人。元末に二度郷試の第一となった。太祖が婺州に駐したとき瑗は謁して「足下が天下を定めようとするなら、英雄を延攬しなければ功は成りません」と言った。太祖は喜んで幕中に置き軍事に参ぜしめ、のち太平を守らせた。
- 鼎は儀徴の人。はじめ趙忠の養子であった。忠は総管として太平を克ち、行樞宻院判を授かって池州に鎮したが、趙普勝が来寇して陣没した。鼎は職を嗣ぎ、もとの姓に復して太平に駐し、ここで三人ともに死んだ。
- 同じころ劉齊という者が江西行省参政として吉安を守っていたが、守将の李眀道が門を開いて友諒の兵を入れ、参政(劉齊)を殺そうとした。萬中・陳海が齊および知府宋叔華を捕えて降伏を迫ったがいずれも屈しなかった。また臨安を破って同知趙天麟を捕えたが、これも屈しなかった。三人はまとめて友諒のもとへ送られ、友諒はちょうど洪都を攻めていたので、三人を城下で殺して見せしめとした。
- さらに無為州を陥したとき知州の董曾を捕えたが、曾は抗って罵り屈しなかったので、江に沈められた。
王愷――衢州の経営と殉節
- 王愷は字を用和、當塗の人。経史に通じ、元の府吏であった。太祖が太平を抜くと召して掾とし、京口攻略に従って新たに服属した民を撫定した。中書省が建てられると都事に用いられた。
- 杭州の苗軍数万が降って厳州の境で命を待っていたとき、愷は馳せて諭し、その帥とともに戻った。太祖が衢州を克つと軍民の事を総制させた。愷は城を高くし濠を浚え、遊撃軍を置き、丁壮を籍して万餘人を得た。
- 常遇春が金華に屯し、その部将が民を騒がせた。愷は械をつけて市で撻った。遇春が愷を責めると、愷は「民は国の本です。一部将を撻って民が安んずるのは、将軍の喜ばれるところでしょう」と答え、遇春は謝した。
- 当時、飢饉と疫病が相次いだ。愷は倉の粟を出し恵済局を修めて、救った者は数知れない。学校が毀れると、衢州にある孔子の家廟とともに新しくし、博士弟子員を設けたので、士はこぞって悦服した。
- 開化の馬宣、江山の楊明が相次いで乱を起こしたが、先後に討ち擒えた。左司郎中に遷り、胡大海を佐けて省の事を治めた。
- 苗軍が乱を起こして大海を害した。その帥の多徳は愷を擁して西へ走ろうとしたが、愷は正色して「わしは土地を守る身、義として死ぬべきだ。どうして賊に従おうか」と言い、ついにその子とともに殺された。年四十六。
- 愷は謀りごとと決断に長けていた。かつて事を申し上げて聴かれなかったとき、戸外に立ち続けて日暮れまで去らなかった。太祖が出てきて怪しんで問うと、愷は初めと同じく諫め、ついにその議に従った。のち奉直大夫・飛騎尉を贈られ、當塗縣男に追封された。
孫炎――劉基の招聘と処州の変
- 孫炎は字を伯融、句容の人。顔は鉄色、片足が跛であったが、談論は風を生じ、平素から経世済民をもって任じた。丁復・夏煜と交遊し詩名があった。
- 太祖が集慶を下すと召見された。炎は賢豪を招いて大業を成すことを請うた。時に行中書省が建てられ、首掾に用いられた。浙東征討に従って池州同知を授かり、華陽知府に進み、行省都事に擢げられた。処州を克つと総制を授かった。
- 太祖は劉基・章溢・葉琛らを招くよう命じたが、基は出てこない。炎は再び使者に行かせた。基が宝剣を贈ってきたので、炎は詩を作って「剣は天子に献じて命に従わぬ者を斬るべきもの、人臣が私すべきではない」として封じて返し、さらに基に数千言の書を送った。基はようやく出て会い、これを建康に送った。
- 当時、城外はすべて賊で、城の守りには一兵もいなかった。苗軍が乱を起こして院判耿再成を殺し、炎および知府王道同・元帥朱文剛を捕えて空室に幽閉し、降伏を迫ったが屈しなかった。
- 賊帥の賀仁徳は雁を燖り斗酒を添えて炎に食わせた。炎は飲みながら罵った。賊は怒って刀を抜き衣を脱げと叱ったが、炎は「これは紫綺の裘、主上から賜ったものだ。これを着たまま死ぬ」と言い、ついに道同・文剛とともに害された。時に年四十。
- 丹陽縣男を追贈され、像を再成の祠に建てられた。道同は中書省宣使から処州を知り、太原郡侯を贈られた。文剛は太祖の養子で小字を柴舎といい、変が起こったとき再成とともに兵を集めて賊を殺そうとしたが間に合わず難に遭った。鎮国将軍を贈られ功臣廟に附祭された。
牟魯――莒州同知としての死
- 牟魯は烏程の人。莒州同知であった。洪武三年(1370年)秋、青州の民の孫古朴が乱を起こして州城を襲い、魯を捕えて降らせようとした。
- 魯は「国家は海内を統一し民はみな生業を楽しんでいる。お前たちが過ちを悔いて改めれば禍を福に転じられる。さもなくば官軍が旦夕に至り種も残るまい。わしは土地を守る臣、義はただ一死あるのみだ」と言った。賊は敢えて害せず、擁して城南に至ったが、魯が大罵したのでついに殺した。賊が破られたのち、詔してその家を恤んだ。
牟魯に附す――白謙・裴源・朱顯忠ら
- ほかに白謙・裴源・朱顯忠・王均諒・王名善・黄里・顧師勝・陳敬・吳得・井孚の類がある。
- 謙は婺源知州。信州の盗の蕭明が来寇し、謙は禦ぐ力がなく、印を懐に抱いて北門を出て水に赴いて死んだ。
- 源は肇慶府経歴。公事で新興に赴く途中、山賊の陳勇卿に遇って捕えられ、跪けと命ぜられた。源は「わしは命官である、賊に跪くものか」と大罵し、殺された。洪武三年(1370年)、官二等を贈られた。
- 顯忠は如臯の人。張士誠の将であったが降り、指揮僉事として鄧愈に従って河州を下し土番に至り、傅友徳に従って文州を克ってそのまま留守した。洪武四年(1371年)、蜀将の丁世珍が番人数万を召して攻めてきた。食糧が尽き援軍もなく、逃げるよう勧める者がいたが顯忠は叱って聴かず、攻撃がいよいよ急になると傷を裹んで力戦し、城が破れて乱兵に殺された。均諒は当時千戸で、捕えられて屈せず磔にされた。事が聞こえて贈恤に差があった。
- 名善は義烏の人、髙州通判。海冦の何均善がかつて戮された。洪武五年(1372年)、その党の羅子仁が衆を率いて密かに城に入り名善を捕えたが、屈せず死んだ。
- 里は雲内州同知。洪武五年(1372年)秋、蒙古の兵が城に突入し、里は兵を率いて巷戦して死んだ。
- 師勝は興化の人、峩眉知縣。洪武十三年(1380年)、民兵を率いて賊の彭普貴を討ち戦死した。詔して褒め恤んだ。
- 敬は増城の人。洪武十四年(1381年)に賢良に挙げられ曲靖府経歴となり、劍川州の事を署した。隣境の冦が攻めてきて敬が禦いだが、官兵は少なく退こうとした。敬は目を瞋らせて大呼し、力戦して死んだ。命じてその家を恤んだ。
- 得は全椒の人、龍里守禦所千戸。洪武三十年(1397年)、古州上婆洞の蛮が乱を起こし、得は鎮守将の井孚とともに城を守った。賊が門を焼いて急攻すると、二人は門を開いて奮い出、得は毒弩に中って死に、孚も戦死した。得に指揮僉事、孚に正千戸を贈り、子孫は世襲とされた。
王綱――潮州の招諭と海冦の害
- 王綱は字を性常、餘姚の人。文武の才があった。劉基と親しく、常に「老夫は山林を楽しむ身だ。いつか志を得ても世縁でわしを累わすな」と語っていた。
- 洪武四年(1371年)、基の推薦で徴されて京師に至った。年七十であったが歯や髪や顔色は少壮のようであった。太祖はこれを異として治道を策問し、兵部郎に擢げた。潮州の民が鎮まらなかったので、広東参議に除して兵餉を督させた。綱は「わが命はここに尽きる」と嘆じ、書をもって家人に訣別し、子の彦逹を連れて行った。
- 小舟一艘で赴いて諭すと、潮州の民は叩首して罪に服した。還って増城に至ったとき海冦の曹鎮に遇った。賊は舟を遮って並び拝し、帥になってほしいと願った。綱が禍福を説いて諭すと、従わず一転して賊を罵った。賊は綱を舁いで去り、壇を作って坐らせ、日ごとに拝して請うたが、綱は罵り続け、ついに害された。
- 彦逹は十六歳、賊を罵って死を求めた。賊は併せて殺そうとしたが、その酋が「父は忠、子は孝。殺すのは不祥だ」と言った。食を与えても顧みず、羊の革を綴って父の屍を包んで運び出させた。
- 徴史の郭純がこのことを奏し、詔して死んだ場所に廟が立てられた。彦逹は蔭によって官を得たが、父を痛んで終身仕えなかった。
王禕――太祖に仕えて元史を修む
- 王禕は字を子充、義烏の人。幼くして敏慧、長じては身の丈高く嶽のごとく屹立し偉大な度量があった。桞貫・黄溍に師事し、文章をもって世に名を成した。
- 元の政治の衰えを見て七八千言の書を作り時の宰相に上った。危素・張起巖がともに薦めたが返事はなく、青岩山に隠れて書を著し『盛』と名づけた。
- 太祖が婺州を取ると召見して中書省掾史に用いた。江西征討に際して禕が頌を献じると、太祖は喜んで「江南に二儒あり、卿と宋濓のみだ。学問の博さでは卿は濓に及ばぬが、才思の雄大さでは濓が卿に及ばぬ」と言った。
- 太祖が礼賢館を創ると、李文忠が禕および許元・王天鍚を薦めて館中に置かせた。ほどなく江南儒学提挙司校理を授かり、累遷して侍礼郎、起居注を掌った。南康府の事を同知して恵政が多く、金帯を賜って寵された。
- 太祖が即位しようとして召し還し礼を議させたが、事に坐して旨に忤い、出されて漳州府通判となった。
- 洪武元年(1368年)八月、疏を上って、天に祈って命を永くする要は忠厚を心に存し寛大を政とし、天道に法り人心に順うことにある、雷霆や霜雪は一時のものであって常のものではない、浙西は既に平定したのだから科斂は減らすべきだ、と述べた。太祖は嘉して納れたが、ことごとくは従えなかった。
- 翌年、元史を修めるにあたり禕と濓に総裁を命じた。禕は史事に長け、煩を裁ち穢を剔り、力めて筆削に任じた。書が成って翰林待制・同知制誥兼国史院編修官に擢げられた。
- 詔を奉じて大本堂の教育にあずかった。経に明るく理に達し善く開導したので、殿廷に召対されれば必ず坐を賜って従容と語り合った。ほどなく吐蕃に奉使したが、到着しないうちに召し還された。
王禕――雲南への使いと殉節
- 五年(1372年)正月、雲南招諭が議され、禕に詔を齎して行かせた。着くと梁王に「速やかに版図を奉じて職方に帰すべきだ。さもなくば天討が旦夕に至る」と諭した。王は聴かず、別室に館した。
- 後日また諭して「朝廷は雲南百万の生霊を刃にかけたくないのだ。もし険阻と遠さを恃んで明の命に抗するなら、龍□(底本欠字)と鷁艫が会して昆明に戦い、悔いても及ばぬ」と言った。梁王は驚き服し、すぐに館を改めた。
- ちょうど元がトクトを遣わして兵糧を徴し、危言をもって王を脅して必ず禕を殺せと迫った。王はやむを得ず禕を出して会わせた。トクトが禕を屈服させようとすると、禕は叱って「天は既に元の命を終わらせ、我が朝がこれに代わったのだ。汝は爝火の燃え残り、日月と明るさを争おうというのか。しかも我も汝も同じ使者だ、どうして汝に屈しよう」と言った。
- 或る者が「王公は素より重い名声を負う、害してはならぬ」と勧めたが、トクトは腕まくりして「今は孔聖であっても義として生かしてはおけぬ」と言った。禕は梁王を顧みて「わしを殺せば天兵が続いて至り、汝の禍は踵を返す間もなく来るぞ」と言い、ついに害された。時に十二月二十四日である。
- 梁王は使を遣わして祭を致し、衣冠を具えて斂めた。建文中、禕の子の紳が禕の事を訟え、詔して翰林学士を贈り文節と諡した。正統中に忠文と改諡し、成化中に命じて祠を建てて祀った。
王禕に附す――子の紳・稌・汶
- 紳は字を仲縉。禕が死んだとき十三歳であった。兄の綬に養われ、母と兄に仕えて孝友を尽くした。長じて博学、宋濓に業を受け、濓はこれを器として「わが友は亡びなかった」と言った。
- 蜀献王が紳を聘して客礼をもって遇した。紳は王に願い出て雲南に行き父の遺骸を求めたが得られず、死んだ場所で祭を致し「滇南慟哭記」を述べて帰った。
- 建文帝の時、推薦により召されて国子博士となり、太祖実録の編修にあずかり、「大明鐃歌鼓吹曲」十二章を献じた。方孝孺と親しく、官に在って卒した。
- 子の稌は字を叔豐、方孝孺に師事した。孝孺が難に遭うと、その友の鄭珣らとともに密かに遺骸を収め、危うく禍が及ぶところであった。これより仕進を絶った。
- はじめ紳は父の死を痛んで食に味を兼ねなかったが、稌もこれを守って変えなかった。喪に居って酒を飲まず肉を食わないこと三年。門人が私かに孝荘先生と諡した。
- 子の汶は字を允逹。成化十四年(1478年)進士、中書舎人を授かった。病と称して帰り斉山の下で読書した。𢎞治の初め、言路の者が交々薦め、検討の陳献章とともに召されたが、京に着かないうちに卒した。
王禕に附す――吳雲
- 禕が雲南で死んだ三年後、また死事の者に吳雲がいる。雲は宜興の人、元の翰林待制であったが、太祖に仕えて湖廣行省参政となった。
- 洪武八年(1375年)九月、太祖はまた使を遣わして梁王を招諭しようと議し、雲を召して「いま天下は一家となったが、独り雲南だけが正朔を奉ぜず我が使臣を殺した。卿はわしのために陸賈となれるか」と言った。雲は頓首して行くことを請うた。
- 当時、梁王が鐵知院ら二十餘人を漠北へ使いに出したのを大将軍が捕えて京師に送っていた。太祖はこれを釈して雲と同行させた。境に入ると鐵知院らは「我らは使いを奉じて捕えられた、罪は死に当たる」と謀り、雲を誘って偽って元の使者とし、制書を改めてともに梁王を欺こうとした。雲は死を誓って従わず、鐵知院らはついに雲を殺した。
- 梁王はこのことを聞いて雲の骨を収め、蜀の給孤寺に送って殯した。雲の子の黻が雲の事を朝廷に上り、詔して駅伝を馳せて返葬させ、黻を国子生とした。𢎞治四年(1491年)正月、雲に刑部尚書を贈り忠節と諡し、禕と並べて祠り、祠額を改めて「二忠」とした。
熊鼎――内政の実績
- 熊鼎は字を伯潁、臨川の人。元末に郷試に及第し龍溪書院の長となった。江西が冦乱に陥ると郷兵を結んで自守し、陳友諒がしばしば脅したが応じなかった。鄧愈が江西に鎮して何度も引見しその才を奇として薦めた。太祖が官に就けようとしたが、親が老いていることを理由に辞し、愈の幕府に留まって軍事を賛けた。
- 母の喪が明けて召されて京師に至り、徳清縣丞を授かった。松江の民の錢鶴臯が反して隣郡が大いに驚いたが、鼎は静をもって鎮めた。
- 吳元年(1367年)、召されて礼儀を議し、中書考功博士に除せられ起居注に遷った。詔を承けて故事のうち懲戒とすべきものを捜し括って新宮の壁に書いた。
- 舎人の耿忠が広信から還って郡県官の違法の状を奏した。帝は御史を遣わして調べさせようとしたが、すでに赦書が頒たれていた。丞相の李善長が再三諫めても納れられない。鼎は給事中の尹正とともに進んで「朝廷は大信を四方に布いたのに、細事のために御史を煩わすのは信を失い、かつ威を褻すことです」と言った。帝は久しく黙然として、ついに御史を遣わさなかった。
- 洪武と改元し(1368年)、新たに浙江按察司が設けられると鼎を僉事として台州・温州に分部させた。台州・温州は方氏が窃拠して以来、偽官悍将二百人の横暴が甚だしかった。鼎はことごとくこれを江淮の間に遷し、民はようやく安んじた。
- 平陽知州の梅鎰が贓罪に坐し弁明して已まず、民数百人がみな知州に罪はないと訴えた。鼎がこれを聴こうとすると、吏は「知州をこれまで通り釈しては、こちらが罪に問われます」と言った。鼎は嘆じて「法は罪を誅するためのもの。譴責を恐れて無罪の人を誅せようか」と言い、鎰を釈して事情を具して奏し、報せは奏したとおりであった。
- 寕海の民の陳徳仲が黎異を支解し、異の妻がしばしば訴えたが直を得られなかった。鼎がある日その牒を見ていると青蛙が案上に立った。鼎が「蛙よ、お前は黎異ではないか。果たして異ならば動くな」と言うと、蛙は果たして動かなかった。そこで徳仲を逮えて鞫問し事実を得てその罪を正した。
熊鼎――山東按察司と岐寕衛での死
- この秋、山東がはじめて平定されて按察司が設けられ、また鼎を僉事とした。鼎は着任するとその任に堪えぬ有司数十人を奏して罷めさせ、諸部門は粛清された。
- 鼎は官吏の利弊を稽えようとして、郡県ごとに二部の暦を置き、日々処理した訟獄・銭粟の事を書かせ、一部は郡県に留め一部は憲府に上げ、交替で暦を按じて鈎考させた。誰も隠すことができなかった。
- ほどなく副使に進み晋王府右傅に徙り、連坐して左遷され、また王府参軍を授かり、召されて刑部主事となった。
- 八年(1375年)、西部の多爾濟巴勒が衆を率いて内附した。鼎を岐寕衛経歴に改めた。着任すると冦の降伏が偽りであることを知り、密疏してこれを論じた。帝は使を遣わして慰労し裘と帽を賜い、さらに中使の趙成を遣わして鼎を召した。
- 鼎が出発したあと冦は果たして叛き、鼎を脅して北に還そうとした。鼎は大義をもって責め罵り、ついに成および知事の杜寅とともに殺された。帝は聞いて悼み惜しみ、命じて黄羊川に葬り祠を立て、鼎が食んでいた俸をその家に給した。
易紹宗――倭に対して死を誓う
- 易紹宗は攸の人。洪武の時に従軍して功があり、象山縣錢倉所千戸を授かった。
- 建文三年(1401年)、倭が岸に登って剽掠した。紹宗は壁に大書して「将を設けるのは敵を禦ぐため、軍を設けるのは民を衛るためだ。敵を放てば不忠、民を棄てれば不仁。不忠不仁でどうして臣たりえよう。臣として職を果たさずしてどうして人たりえよう」と記した。
- 書き終えると妻の李に命じて牲と酒を具えさせ生きながら自らを奠り、訣別して出た。密かに遊兵に間道から賊の舟を焼かせた。賊は驚いて救いに戻り、紹宗は格闘してこれを追い、海岸に至って泥濘に陥り、自ら数十人を斬ったが、ついに害された。
- その妻が遺児を携えて朝廷に奏し、葬祭を賜い、碑を勒して旌された。
琴彭――茶籠州の孤城に死す
- 琴彭は交阯の人。永樂中、乂安知府として茶籠州の事を署し、善政があった。
- 宣徳元年(1426年)、賊の黎利が衆を率いてその城を囲んだ。彭は拒守すること七月に及び、糧は尽き兵は疲れ、諸将で援ける者はなかった。巡按御史が飛章して救援を請うた。宣宗は勅を馳せて榮昌伯陳智らを責め「茶籠を守る彭は孤城に困しみ死を期して二心がない。お前たちが援けねば何をもって責を逃れるのか。急ぎ兵を発して囲みを解き、国憲に触れることのないように」と言った。しかし勅が届く前に城は陥ち彭は死んだ。
- 詔して交阯左布政使を贈り、一子を京師に送って官に就けた。
- 当時、交阯の人の陳汝石・朱多蒲・陶季容・陳汀もみな忠節で著れた。汝石ははじめ陳氏の小校で、大軍が南征すると率先して帰附し、積功して都指揮僉事に至った。永樂十七年(1419年)、四忙の土官である車綿の子らが叛き、汝石は方政に従ってこれを討ち、賊陣に深入りして流矢に中って馬から墜ち、千戸の朱多蒲とともに死んだ。多蒲もまた交阯の人である。事が聞こえて行人を遣わして祭を賜いその家に賻し、官が塚を設けた。
皇甫斌――遼海衛での父子の戦死
- 皇甫斌は夀州の人。もと興州右屯衛指揮同知であったが、才により遼海衛に調された。忠勇にして智略があり、警急に遭えばいつも士卒に先んじた。
- 宣徳五年(1430年)十月、兵を勒して冦を禦ぎ、密城の東峪に至って朝から夕方まで力戦し、矢は尽き援軍は絶えた。子の弼は身をもって父を衛り、ともに戦死した。
- 千戸の吳貴、百戸の吳襄・毛觀はいずれも驍勇で、出れば必ず先鋒を衝いたが、ここでみな死んだ。斌らは死んだが敵に与えた損害の方が大きく、冦もまた退いた。事が聞こえて詔して有司に褒め恤ませた。
張瑛――鄧茂七の乱に死す
- 張瑛は字を彦華、浙江建徳の人。永樂中に郷試に及第し、刑部員外郎を歴任した。正統の時、建寕知府に擢げられた。
- 鄧茂七が乱を起こし、賊二千餘が城に迫って砦を結び四方に剽掠した。瑛は建安典史の鄭烈を率い、都指揮の徐信の軍と会して三路に分かれて襲い、斬首五百餘、ついにその砦を抜いた。右参議に進み、なお知府の事を執った。烈も主簿に遷った。
- 茂七が誅されたのち、その党の林拾得らが転じて城下を掠めた。瑛は従父の敬とこれを禦いだ。賊が敗れると勝ちに乗じて追ったが伏兵に陥り、敬は死に、瑛は捕えられて大罵し屈せず死んだ。
- 詔して福建按察使を贈り祭を賜いその子を官に就けた。𢎞治中、建寕知府の劉璵が朝廷に請うて祠を立て祭を致した。
張瑛に附す――熊尚初
- 当時、泉州守の熊尚初もまた賊を拒んで捕えられ死んだ。尚初は南昌の人。はじめ吏であったが才により都察院都事に擢げられ経歴に進んだ。正統中、都御史の陳鎰の推薦で泉州知府に擢げられた。
- 盗が起こり上官が檄して尚初に監軍させると、旬日たたぬうちに賊数百を降した。やがて賊が城下に逼ったが守将は敢えて禦がなかった。尚初は憤って民兵数百を率い、晋江主簿の史孟常、陰陽訓術の楊仕𢎞と分けて統べ、古陵坡で拒んだ。兵は敗れみな害された。郡人はこれを哀しみ忠臣廟に配享した。
王禎――夔州通判として賊に死す
- 王禎は字を維禎、吉水の人。祖父の省は建文の難に死に、別に伝がある。成化の初め、禎は国子生から夔州通判を授かった。
- 二年(1466年)、荊㐮の石和尚が流劫して巫山に至った。督盗同知の王某は怯えて救わなかった。禎は面と向かって責め、代わって所部の民兵を率い昼夜行軍した。着いたときには城はすでに陥ち、賊は山中に集まっていた。禎はその魁を撃殺し、残りはみな遁れた。そこで県を巡って傷ついた者を撫し、潰散した者を招き、久しくしてようやく還ることができた。
- わずか三日後、賊がまた大昌を劫した。禎が同知に出動を促したが応じない。指揮の曹能・柴成が同知と結んで禎を「公は国のために力を出す身、また出られますか」と激した。禎はすぐ行きたいと請うた。二人は偽って承知し左右を固めることにした。禎は馬に乗り二人を挟んで同行し、水を挟んで陣を敷いたが、渡ってしまうと二人は賊を見るなり走り去った。
- 禎は半日囲まれ、誤って泥濘に入った。賊は捕えて降らせようとしたが、禎が大罵したので、賊は怒ってその喉と右腕を断ち、禎は死んだ。従行した奉節典史および部卒六百餘人もみな死んだ。
- 死んだ場所から府まで三百餘里。乗っていた馬が奔り帰り、血に濡れて毛はすべて赤かった。人々ははじめて禎の敗を知り、行って屍を探すと顔は生けるがごとくであった。
- 子の広は馬を売って帰りの費用にしようとしたが、王同知が馬を得て代金を払わなかった。柩が出発すると、馬が夜半に哀しく鳴いた。同知が起きて見に行くと、馬は突然前に出て項を噛み胸を撃った。翌日、同知は血を吐いて死んだ。人はこれを義馬と称した。
- 事が聞こえて禎に僉事を贈り一子を録した。
萬琛――瑞金県の劇盗と戦って死す
- 萬琛は字を廷獻、宣城の人。慷慨にして気節を負い、郷試に及第して𢎞治中に瑞金縣を知った。
- 十八年(1505年)正月、劇盗が大挙して至り、県の人々は騒然として逃げ竄れた。琛に急いで去るよう勧める者がいたが、琛はこれを斥け、民兵数十人を率いて敵を迎え賊二十餘人を殺し、翌日まで持ちこたえた。力尽きて捕えられ、罵り続けたので、賊は寄ってたかって刺し殺した。
- 光禄少卿を贈り祭葬を賜い蔭を与えた。
萬琛に附す――王祐
- 当時、王祐という者が広昌知縣であった。賊が来て民はみな逃げ、援兵も来ない。祐は刀を抜いて自ら腹を刲き「城がありながら守れぬ、何のために生きよう」と言った。左右が駆け寄って刀を奪った。
- のち援兵が集まり賊はやや退いたが、七日後にまた突然襲来し、祐は倉皇として敵に赴いて死んだ。
周憲――華林の賊と父子の死
- 周憲は安陸の人。𢎞治六年(1493年)進士。刑部主事に除せられ員外郎に進んだ。十七年(1504年)、事に坐して詔獄に下され兖州通判に謫せられた。正徳の初め、もとの官に復し江西副使を歴任した。
- 華林・馬腦の賊が盛んで、総督の陳金が憲に檄して討たせた。馬腦砦および仙女・鷄公嶺の諸寨を平らげ、先後に千餘人を斬獲した。
- 華林の賊は窮して間諜を遣わし飢え困っていると偽った。憲はこれを信じ、檄を移して軍を会し挟撃しようとしたが、他の将の多くは様子見をした。憲は北門を攻めて三度戦い、賊はやや退いた。子の幹とともに先登して迫ったが、賊が木石を雨のように落として軍は潰えた。憲は槍に中り、幹は前に出て救い力戦して崖から堕ちて死んだ。憲は傷が重く捕えられ、罵り続けたので賊はこれを支解した。
- 事がはじめて聞こえて按察使を贈り祭葬を与え節愍と諡し、一子を蔭した。幹の門を旌して「孝烈」とした。嘉靖二年(1523年)、江西廵撫の盛應期が黄宏・馬思聰とともに旌することを請い、詔して忠烈祠に附祀した。のち給事中の李鐸の言により、有司に命じて毎年その家に米二石・帛二匹を給した。
楊忠――安化王の乱に罵って死す
- 楊忠は寕夏の人。代々中衛指揮を官とし、功により都指揮僉事に進んだ。廉潔剛直で謀と勇があった。
- 正徳五年(1510年)、安化王の寘鐇が反した。その党の丁廣が廵撫の安惟學を殺そうとしたとき、忠は傍らにいて「賊狗め、上を犯すか」と罵った。廣は怒って忠を殺したが、死ぬまで罵る声はいよいよ激しかった。
- 忠の同官の李睿は変を聞いて寘鐇のもとへ馳せたが、門が閉じて入れず、大罵して賊に殺された。百戸の張欽は逆に従わず、走って雷福堡に至ったがやはり殺された。いずれも官を贈り蔭を与えて忠を表し、睿を「忠烈の門」、欽を「忠節の門」とした。
吳景――江津を守って殉ず
- 吳景は南陵の人。𢎞治九年(1496年)進士。正徳中、四川僉事を歴任して江津を守った。
- 重慶の人の曹弼が播州に亡命し、衆を糾合して川南に寇し、大盗の藍廷瑞と合流しようと謀った。六年(1511年)正月、江津に逼った。御史の兪緇は遁れ去り、景および都指揮の龎鳳に禦がせた。鳳は景を誘ってともに走ろうとしたが、景は聴かず、典史の張俊を率いて迎撃し、自ら三賊を殺し顔に矢を受けた。急ぎ兵を収めて城に入って保とうとしたがすでに陥ちていた。大呼して「わしを殺してもよいが士民は殺すな」と言った。賊が跪かせようとしたが屈せず、ついに殺された。俊も死んだ。
- 廵撫の林俊がその事を上り、詔して景に副使を贈り祭葬を賜い江津に祠を立て世蔭を与えた。
吳景に附す――王源・馮傑
- この月、僉事の王源が川北を巡行していたところ、藍廷瑞・鄢本恕らが通州・巴州を掠めて營山に至った。源は典史の鄧俊を率いて禦いだが、ともに殺された。源に副使を贈りその子を蔭した。源は五䑓の人、𢎞治十二年(1499年)進士。
- 翌年正月、賊の麻六兒が川東に逼ろうとした。副使の馮傑が倉溪で追撃し俘斬はかなり多かった。夕方、営を鐵山闗に移したところ、賊が夜に乗じて突撃し傑は死んだ。按察使を贈り祭葬を賜い恪愍と諡し、百戸を世蔭した。
吳景に附す――孫璽・羅明・時植
- このとき略陽知縣の孫璽、劍州判官の羅明、梁山主簿の時植もみな賊に死んだ。
- 璽は字を廷信、代州の人。郷試に及第して扶風縣を知った。都御史の藍章が、略陽は漢中の要地なのに昔から城がないとして、璽に檄して行って城を築かせた。工事が終わらぬうちに賊が至り、県令の嚴順が去ろうとした。璽は刀を抜いて坐几を斫り「去りたい者はこれを見よ」と言い、僚属を率いて数日堅守した。城が陥ちて璽は捕えられ大罵して屈せず、賊は臠に切り刻んで殺した。順は逃げ去り、璽もともに逃げて江に溺れたと誣告し、他人の屍で璽を斂めた。子の啓が見て違うと訴え出、取り調べて死節の状が明らかとなり、光禄少卿を贈り祭を賜い蔭を与え、順を罪に問うた。
- 明は吏から身を起こした。鄢本恕がその城に逼ると、子の介とともに拒守し、城が陥ちて父子ともに賊を罵って死んだ。
- 植は字を良材、通許の人。国子生から官を授かり、当時県の事を摂していた。賊の方四らが地を略したが、植はこれを拒け斬獲数十級。ひと月後にまた来て数日拒み合い、城が陥ちた。降伏を説かれても屈せず、印を脅し取ろうとしても与えず、大罵して殺された。妻の賈は変を聞いてすぐ自縊し、九歳の娘は火に赴いて死んだ。明・植はいずれも制のとおり贈恤され、植の妻と娘は貞烈として表された。
吳景に附す――趙趣・徐敬之・雷應通・袁璋
- そのころ士民で死を冒して賊を殺した者に趙趣・徐敬之・雷應通・袁璋の類がある。
- 趣は梁山の諸生。賊が城を攻めると、友人の黄甲・李鳳・何璟・蕭鋭・徐宣・楊茂寛・趙采とともに死を誓って拒守し、城が陥ちてみな死んだ。都御史の林俊はその義を嘉して祠を立てて祀った。
- 敬之も梁山の人。衆に推されて部長となり、賊を拒んで陣中に陥って死んだ。
- 應通は嘉州の人。賊が百丈闗を衝いたとき、父子七人が義を唱えて死戦し、捕えられてともに慷慨として殺された。
- 璋は江南の人。平素から勇俠で聞こえた。廵撫の林俊が賊の討伐を委ね、行く先々で功があった。のち捕えられ、その子の襲が身を挺して救い、続けて七賊を殺したがやはり捕えられ、ともに死んだ。襲は死んで三日たっても両目はなお父を瞠り見ていた。林俊はその門を表して「父子忠節」とし、総制の彭澤は城隍廟に石を勒し忠孝祠に祀った。
霍恩――正徳六年の流賊と河南・畿内の死節者
- 霍恩は字を天錫、易州の人。𢎞治十五年(1502年)進士。正徳中、上蔡縣を知った。
- 六年(1511年)、賊が四方に起こって中原の郡邑が多く残破した。畿内では棗强知縣の叚豸、大城知縣の張汝舟、河南では恩および典史の梁逵、西平知縣の王佐、主簿の李銓、葉縣知縣の唐天恩、永城知縣の王鼎、裕州同知の郁采、都指揮の詹濟、郷官の任賢、固始丞の曾基、夏邑丞の安宣、息縣主簿の邢祥、睢寕主簿の金聲、邱紳、西華敎諭の孔環、山東では萊蕪知縣の熊驂、萊州衛指揮僉事の蔡顯、南畿では靈璧主簿の蔣賢が、みな節に抗して死んだ。中でも恩・佐・采・環の死はとりわけ烈しかった。
- 恩は梁逵とともに守った。賊が至ったとき妻の劉に「もし急なことがあればお前はどうする」と語ると、劉はともに死にたいと願った。そこで役所の後に台を築き「わしが城を下るのを見たら賊が入ったということだ」と約した。城が陥ちて恩が刀を抜いて城を下ると、劉は台上からこれを見てすぐ縊れ、絶命しないので簪で心を刺して死んだ。
- 恩は捕えられ、賊が跪かせようとすると「わしのこの膝が賊のために屈するものか」と罵った。賊は日々人を殺して威嚇したが、罵る声はいよいよ激しかった。賊は刀でその口を抉り、支解した。逵は自ら縊れて死んだ。
- 豸は字を世髙、澤州の人。進士から身を起こし、正徳中に兵科都給事中を授かり棗强令に謫せられた。賊が至ると連戦して退けたが、城が陥ちて四矢一鎗に中り、目を瞋らせて大呼し賊を殺して死んだ。賊はその城を屠った。
- 汝舟は大城に在官のとき、主簿の李銓とともに迎え戦いいずれも殺された。
- 佐は字を汝弼、潞州の挙人。西平令を授かり、自ら賊数十人を殺し、矢でその渠帥を斃した。賊は憤って三日急攻し、佐は力尽きて捕えられ罵り続けた。賊は竿に懸けて殺し支解した。
- 天恩は葉縣を知り、賊が至って父の政ら七人とともに死んだ。
- 鼎は永城を知り、城が陥ちると印を肘に繋いで端坐して賊を待ち、屈せず死んだ。
- 采は字を亮之、浙江山隂の人。進士で、主事から教諭に謫せられ裕州同知に遷った。濟・賢とともに堅守して斬獲が多かった。城が陥ちて捕えられ、采が罵り止まないので賊はその頬骨を砕いて殺した。濟もまた屈せず死んだ。
- 賢はかつて御史であった。郷里にいて邑の子弟三千人を招いて拒守し、賊を罵って死んだ。一家の死者は十三人。
- 基は固始丞。捕えられて馬を馭せと命ぜられたが従わず害された。
- 宣ははじめ夏邑丞を授かった。賊の楊虎がその境に逼り、行くなと勧める者もいたが、宣は道を兼ねて進み着任して七日、賊が大挙して至ると拒守して功があり、城が陥ちて死んだ。
- 祥はすでに致仕していたが、城が陥ちて賊を罵って死んだ。
- 聲は紳および義士の朱用之とともに迎え戦って死んだ。
- 環は南宫の人。歳貢生から來安知縣を授かったが、劉瑾の党に陥れられ西華教諭に左遷された。捕えられて賊が「わしを王と呼べば釈してやる」と言うと、「わしはお前を万段に砕けぬのが恨めしい。媚びて生を求めるものか」と厲声して、殺された。
- 驂は賊に捕えられ、主簿の韓塘とともに屈せず死んだ。
- 顯は三子の淇・英・順とともに盗を禦ぎ力戦して死んだ。
- 諸人の死節の事が聞こえ、みな官を贈り祭を賜い蔭を与え祠を立てること制のとおりであった。恩の妻の劉には宜人を贈り忠節坊を建てて旌した。天恩・鼎・基・宣・祥ら諸人の里貫は考えようがない。
霍恩に附す――鄭寶・王振
- 当時、鄭寶という者が欎林州同知として北流縣の事を署していた。妖賊の李通寶が北流を犯し、寶は子の宗珪とともに出て戦いともに死んだ。
- 王振という者は福建黄崎鎮の廵檢であった。海冦が大挙して至り、三子の臣・朝・寔を率いて終日迎え戦った。伏兵が起こって振は殺されたが、屍は突っ立ったままであった。三子が救おうとし、臣は重傷、朝と寔は死んだ。これにも恤みを与えること差があった。
孫燧――江西廵撫として宸濠に備う
- 孫燧は字を徳成、餘姚の人。𢎞治六年(1493年)進士。刑部主事を歴任し再遷して郎中となった。正徳中、河南右布政使を歴任した。
- 寕王の宸濠に逆謀があり、中官や幸臣と結んで日夜中央の動静を探り、変事の起こることを願っていた。また群吏を劫かし厚く餌を与えて自分の用に使った。廵撫の王哲が自分に附かないのを憎んで毒を盛り、哲は病を得て一年餘りで死んだ。董傑が哲に代わったがわずか八月でやはり死んだ。これ以来この地に官となる者は、無事に去れることを幸いとするありさまであった。傑に代わった任漢・兪諫もいずれも一年餘りで罷めて帰った。
- 燧は才と節義で著れ治績の評判があったので、廷臣が推してその後任とした。十年(1515年)十月、右副都御史に擢げられ江西を廵撫した。燧は命を聞いて「これは死生を賭けることになる」と嘆じ、妻子を郷里に還し、ただ二人の童僕だけを連れて赴いた。
- 当時、宸濠の逆状はすでに大いに露われ、南昌の人々は騒然として宸濠が朝夕にも天子となると言っていた。燧の左右はことごとく宸濠の耳目であったが、燧は防察が周密で左右も窺うことができなかった。ただ時々宸濠に大義を説いたが、ついに改めなかった。密かに副使の許逵が忠勇で大事を託せると見て、これと謀った。
- これより先、副使の胡世寕が宸濠の逆謀を暴いたが、中官・幸臣がこれをかばい、世寕は罪を得て去った。燧は朝廷に公然と訴えても益はないと考え、他の賊を禦ぐという名目であらかじめ備えをした。まず進賢に城を築き、次いで南康・瑞州に城を築いた。建昌縣に盗が多いのを患い、その地を割いて別に安義縣を置いて次第にこれを鎮めた。
- また饒州・撫州二州の兵備を復すことを請い、復せぬなら湖東分廵に勅して兼理させるよう請うた。九江は湖の要衝で最も要害なので重兵で備えることを請い、道の権限で南康・寕州・武寕・瑞昌および湖廣の興國・通城を兼摂させて統制の便を図った。廣信の横峰・青山の諸窯は地が険しく人が悍いので、通判を設けて弋陽に駐させ近隣五県の兵を兼督させるよう請うた。また宸濠が兵器を奪って賊討伐を口実にすることを恐れ、ことごとく他所へ出した。
- 宸濠は燧が自分を図っていることを窺い、人をやって朝中の幸臣に賄賂して燧を除こうとし、燧には棗・棃・薑・芥を贈って意を示した。燧は笑ってこれを却けた。逵は先に発して後で報告するよう勧めたが、燧は「どうして賊に口実を与えられよう。今しばらく待て」と言った。
孫燧――七度の密疏と宸濠の挙兵
- 十三年(1518年)、江西が大水となった。宸濠が平素から養っていた賊の淩十一・吳十三・閔念四らが鄱陽河に出没した。燧は逵と謀ってこれを捕えようとしたが、三賊は沙井に遁れた。燧は江の外から不意打ちにしようとしたが、夜に大風雨となって渡れず、三賊は宸濠の祖墓の間に逃げ込んだ。
- そこで密疏してその状を明らかにし、かつ宸濠は必ず反すると言った。上奏は七度に及んだが、いずれも宸濠に遮られて達しなかった。宸濠は大いに恨み、宴席で燧に毒を盛ったが死ななかった。燧は致仕を乞うたがこれも許されず、憂懼はなはだしかった。
- 翌年、宸濠が鎮守・廵撫の官を脅してその孝行を奏させた。燧は廵按御史の林潮とともに、これに藉りて少しでもその謀を緩めようと願い、ともに朝廷に奏した。朝議はまさに旨を降して燧らを責めようとしたが、ちょうど御史の蕭淮が宸濠の不軌の状をすべて摘発し、詔して重臣に宣諭させることとなった。宸濠はこれを聞いてついに反乱を決意した。
- 六月乙亥、宸濠の誕生日に鎮守・廵撫と三司を宴した。翌日、燧および諸大吏が入って謝礼した。宸濠は兵を左右に伏せ、大言して「孝宗は李廣に誤られ民間の子を抱かれた。我が祖宗が血食を受けられぬこと十四年。いま太后の詔があり、わしに兵を起こして賊を討てと言われる。お前たちも知っておろう」と言った。一同は顔を見合わせて呆然とした。
- 燧はまっすぐ前に出て「そのような言葉があってよいものか。詔を出して我らに示されよ」と言った。宸濠が「多言するな。わしは南京に行く、お前は駕に扈従せよ」と言うと、燧は大いに怒って「お前は早く死ぬだけだ。天に二日はない、どうしてお前に従って逆を為そうか」と言った。宸濠は怒って燧を叱り、燧はますます怒って急ぎ立ったが出ることができなかった。
- 宸濠は内殿に入って戎服に着替えて出、兵を指揮して燧を縛らせた。逵が奮って「お前たちどうして天子の大臣を辱めるのか」と言い、身をもって燧をかばった。賊は逵も併せて縛った。二人は縛られながら罵り続けた。賊が燧の左腕を撃って折り、逵とともに引き出した。逵は燧に「わしが先に発せよと勧めたのは、今日あることを知っていたからです」と言った。燧と逵はともに恵民門外で害された。廵按御史の王金、布政使の梁宸以下はみな稽首して万歳を呼んだ。
孫燧――死後の顕彰
- 宸濠は兵を発し、偽って三賊を将軍に任じた。まず婁伯を遣わして進賢を徇えさせたが、知縣の劉源清に斬られた。窯の賊を招こうとしたが、賊は守吏を畏れて動かなかった。城中で兵器を大捜索したが得られず、賊の多くは白木の棒を持つありさまであった。
- 伍文定が義兵を起こし、二人(燧と逵)の木主を文天祥の祠に設けて吏民を率いて哭し、南贛廵撫の王守仁とともに賊を平らげた。逃げた賊どもは安義に走ったがみな捕えられ脱れる者はなかった。人々はますます燧の功を思った。
- 燧は生まれつき異相があり、両目は爍爍として夜に光った。死んだ日、天がにわかに陰り烈風が数日にわたって吹き荒れた。城中の民は大いに恐れ、走って二人の屍を収めた。屍は変わらず、黒雲がこれを蔽い、蠅や蚋も近づく者がなかった。
- 翌年、守臣がその事を朝廷に上ったが返答はなかった。世宗が即位して礼部尚書を贈り忠烈と諡し、逵とともに南昌に祀り、祠の名を「旌忠」と賜い、それぞれ一子を蔭した。
孫燧に附す――子の堪・墀・陞と一族
- 燧の子の堪は父の訃を聞き、二人の弟の墀・陞を率いて赴いた。ちょうど宸濠がすでに擒えられており、柩を扶けて帰った。兄弟は墓のそばに廬して三年蔬食した。一茎九葩の芝が数本、墓の上に生じた。喪が明けても父が難に死んだことをもってさらに三年墨衰した。世に三孝子と称された。
- 堪は字を志健。諸生であったとき文をよくし騎射に長けた。錦衣の蔭を得たのち武会試に中って第一となり、署指揮同知に擢げられた。強弩を用いるのに長け、弩卒数千人を教えて辺備とした。都督僉事を歴任した。母の楊に仕えて至孝で、母が九十餘歳で京師に殁したとき、堪も年七十であったが喪を護って帰り、道中で悲しみのあまり卒した。廵按御史の趙炳然が堪の孝行を上って旌された。
- 堪の子の鈺も武会試に挙げられ都督同知に官した。鈺の子の如津は都督僉事。
- 墀は字を仲泉、選貢生から尚寳卿を歴官した。陞は官が尚書に至った。墀の孫の如㳺は大学士、如㳺の孫の嘉績は僉事。陞の子の鑨・鑛はいずれも尚書、鋌は侍郎、錝は太僕卿。鑨の子の如法は主事、如洵は参政。いずれも文章と行誼をもって家を世々伝えた。陞・鑨・鑛・如㳺・如法・嘉績の事は、いずれも別に見える。
許逵――樂陵知縣として流賊を破る
- 許逵は字を汝登、固始の人。正徳三年(1508年)進士。身の丈高く口が大きく猿臂燕頷、沈静で謀略があった。樂陵知縣を授かった。
- 六年(1511年)春、流賊の劉七らが城邑を屠り長吏を殺した。諸州県はおおむね城を閉じて守り、あるいは城を棄てて遁れ、あるいは飼葉や粟や弓馬を贈って攻めないでくれと乞うありさまであった。逵は着任すると慨然として戦守の計を立てた。県にはもともと城がなかったので、民を督して版築させ、一月たたずに城が成った。
- 民に命じて家の外に牆を築かせ、牆の高さは軒を越え、圭形の穴を開けて人一人がやっと通れるほどにした。家ごとに壮者一人を選んで刃を執って穴の内で待たせ、残りはみな隊伍に入れ、日々旗を見て合図とし、違う者は軍法に従って処した。また決死の士を募って巷中に伏せ、城門を大きく開いた。
- 賊が果たして至った。旗が挙がって伏兵が発し、穴の中の者もみな出た。賊は大いに驚いて逃げ、斬獲は残るところがなかった。その後も何度も攻めたがそのつど退けられ、ついに互いに戒めて近づかなくなった。
- 事が聞こえて秩二等を進めた。当時、知縣で賊に抗しえた者は、益都では牛鸞、郯城では唐龍、汶上では左經、濬では陳滯であった。ただ彼らの相手にした賊は少なく、逵はしばしば大賊を禦いで功があったので、鸞とともに抜擢されて兵偹僉事となった。
- 逵は武定州に駐した。州城は崩れ濠は平らになって牛馬さえ遮れなかった。逵は城を築き池を鑿ち楼櫓を設け廵卒を置いた。
- 翌年五月、賊の楊寡婦が千騎で濰縣を犯した。指揮の喬剛が禦いで賊はやや退き、逵が追って敗った。髙苑令と指揮の張勛が滄洲で邀撃し、先後に俘斬二百七十餘人。ほどなく賊の別部が徳平を掠めたが、逵がことごとく殲滅して威名は大いに著れた。
許逵――宸濠の乱に殉ず
- 十二年(1517年)、江西副使に遷った。当時宸濠の党が横暴で、逵は法をもって厳しく取り締まった。かつて孫燧に「寕王が敢えて横暴をなすのは権臣を恃むからです。権臣が寕王を庇うのは重い賄賂を貪るからです。重い賄賂は盗の巣窟から出ます。いま盗を剪れば賄賂は息み、賄賂が息めば党は孤立します」と言った。燧は深くそうだと思い、事あるごとに密議した。
- 宸濠が燧を縛るとき逵はこれを争った。宸濠は平素から逵を忌み「許副使は何と言うか」と問うた。逵は「副使にはただ赤心があるのみ」と答えた。宸濠が怒って「わしがお前を殺せぬとでも思うか」と言うと、逵は「お前はわしを殺せても天子はお前を殺せる。お前は反賊だ、万段に磔にしてやる。悔いても及ばぬぞ」と罵った。宸濠は大いに怒って併せて縛り、引き出してその頸を斫ったが、屹として動かない。賊たちが寄ってたかって押さえつけ跪かせようとしたが、ついにできず、そのまま死んだ。年三十六。
- はじめ逵は文天祥集を友人の給事中張漢卿に贈り、手紙は添えなかった。漢卿は人に「寕邸は必ず反する。汝登は文山(文天祥)となるつもりだろう」と語った。逵の父は家にいて、江西に変があり都御史および副使が殺されたと聞くと、すぐ位牌を設け服を替えて哭した。人が怪しんで理由を問うと、父は「副使とは必ずわしの子だ」と言った。
- 世宗が即位して左副都御史を贈り忠節と諡し一子を蔭した。また山東で賊を平らげた功を録してさらに一子を蔭した。嘉靖元年(1522年)、詔して逵の死事はとりわけ烈しいとして改めて礼部尚書を贈り、蔭を指揮僉事に進めた。
- 長子の㻛は学を好み器識があった。父を葬ったのち日夜号泣し、六年たってようやく蔭に就いた。人が催促すると、㻛は「父が死んでわしはそれで官を得るのか」と痛哭して仰ぎ見ることもできなかった。
- 㻛の子の䢿は親に仕えて孝であった。隆慶中に郷試に及第し、礼部の試には幾度も及第しなかった。試官に㻛の姻戚がおり、䢿の才を慕って取り立てようとしたが、䢿は「そんなことをしてどうして亡き忠節(父祖)に地下で会えよう」と言った。許氏の子孫は孫氏ほど貴顕にはならなかったが、やはりよくその家風を伝えた。
黄宏――宸濠の乱に憤死す
- 黄宏は字を徳裕、鄞の人。𢎞治十五年(1502年)進士。萬安縣を知った。民は訴訟を好み、訴えるたびに神に祈った。宏はその祠を毀って「令がここにいる、何を祈るのか」と言った。訴える者が来ればいつも片言で決着させた。
- 累遷して江西左参議となり、湖西・嶺北の二道を按じた。王守仁が横水・桶岡の賊を討ったとき、宏は兵糧を主管して功があった。賊の閔念四はすでに降っていたのに、また宸濠の勢いを恃んで九江の上下を掠めた。宏が兵を発して捕えようとすると、宸濠の祖墓の中に逃げ込んだ。その輜重をすべて押収して帰った。
- 宸濠の逆節がますます露われ士大夫は憂えた。宏は正色して「国家が不幸にしてこうなった。我らは土地を守って死ぬだけだ」と言った。大義を守って宸濠の党に従わない者があれば、宏はそのつど密かに助けた。
- 宸濠が反して宏は捕えられた。憤怒して手枷を柱に打ちつけて自分の項を撃ち、その夕べに卒した。賊もこれを義として棺に斂めた。子の紹文が駆けつけてその棺を求め得たが、逆賊の偽の命令で斂めたのは父の志ではないとして急ぎ改め、扶けて帰った。
黄宏に附す――馬思聰
- 当時、主事の馬思聰もまた節に抗して死んだ。思聪は字を懋聞、莆田の人。𢎞治の末に進士に及第し象山知縣となり、二十六の渠を復して万頃の田を漑いだ。累遷して南京戸部主事となり、江西で兵糧を督して安仁に駐していたところ、宸濠の反乱に遭って捕えられ獄に繋がれた。屈せず、絶食六日で死んだ。
- 世宗が立って宏に太常少卿、思聪に光禄少卿を贈り、ともに旌忠祠に配享した。当時、宏と思聪の死節は本当ではないと言う者があった。給事中の毛玉が江西の逆党を取り調べ、改めて宏・思聪および承奉の周儀を表彰することを請うた。また宏の子の紹武が朝廷に訴え、廵按御史の穆相が二人の死節の状を詳しく列挙して上ったので、ついに異議はなくなった。
宋以方――瑞州知府として宸濠に斬らる
- 宋以方は字を義卿、靖州の人。𢎞治十八年(1505年)進士。戸部郎中を歴任し、正徳十年(1515年)瑞州知府に遷った。
- 当時、華林の大盗がようやく平らいだばかりで傷痕は癒えていなかった。以方は心を尽くして撫育し、吏民に愛された。
- 宸濠の逆謀が萌したが瑞州にはもともと城郭がなかった。以方は城を築き守備の器具を繕い、兵三千を募って日夜訓練した。宸濠は深くこれを忌んだ。徴発を求めても応じなかったので、ついに鎮守に迫って弾劾させ南昌の獄に繋いだ。
- 翌日、宸濠が反した。以方を出して降伏を迫ったが承知しない。械をつけて舟中に置き安慶に至ったが、兵が敗れた。この地は何という名かと問うと、船頭が「黄石磯」と答えた。江西の人の発音では「王失機(王、機を失う)」と同じである。宸濠は不祥として以方を斬って江を祭った。
- のち賊が平らぎ、その子の崇学が遺骸を求めたが得られず、衣冠を斂めて帰葬した。嘉靖六年(1527年)、廵撫の陳洪謨がその事を上り、詔して光禄卿を贈り一子を蔭し瑞州に祠を立てた。
宋以方に附す――萬木・鄭山・趙楠ら西江の士民
- 宸濠が変を起こそうと謀ったとき、西江の士民で害を受けた者は数え切れない。はじめ宦官と校尉を四方に遣わして民の田や家を籍に取り、附かない豪強を捕縛した。
- 萬木・鄭山があり、ともに新建の人。郷人を集め砦を結んで自守した。賊党の謝重一が村に馳せ入って二人を捕え、葦を睢陽廟の前に積み、人馬を縛って生きながら焼いた。宸濠の党もその廟を犯そうとはしなかった。二人は江上で飲んでいたところ、盗の淩十一に逼られて宸濠に会わせようと促され、焼き印を当てられ椎で打たれたが、みな賊を罵って死んだ。
- 趙楠は南昌の諸生。兄の模がかつて粟を捐じて賑済を助けた。宸濠が模を捕えて金を要求したので、楠が代わって行った。脅されても屈せず、拷問されて死んだ。
- 同じ邑の辜増は迫られても節に抗して従わず、一家百口がみな死んだ。
- 諸生の劉世倫、儒士の陳經官、義士の李廣源はいずれも拷問されて屈せず死んだ。
- 葉景恩という者は俠で聞こえ、一族は吳城に居た。宸濠が乱を起こそうとして景恩を捕えて降伏を迫ったが従わず、獄中で死んだ。宸濠の兵が吳城を通ったとき、景恩の弟の景允が三百人で賊を邀撃した。賊は兵を分けて景允の家を焼き掠め、その一族の景集・景修ら四十九人がみな死んだ。
- また閻順という者は寕府典寳副であった。宸濠が反そうとしたとき、順は典膳正の陳宣、内使の劉良とともに婉曲に不可を言った。典寳正の涂欽に讒言され、三人は誅を懼れて密かに京師に赴いて変を上告した。群小は宸濠を庇って三人を獄に下し拷問を尽くした。宸濠は三人が都に赴いたと聞いて事の漏れるのを慮り、その罪を誣告して奏し、かつ群小を嗾けて必ず殺させようとしたが、ちょうどすでに孝陵の守衛に流されていたので免れた。世宗が立って官に復された。