明史卷二百八十五 列傳第一百七十三 文苑
文苑傳の序――明一代の詩文の流れ
- 明初の文学の士は、元末の虞集・栁貫・黄溍・呉萊のあとを承け、師友のあいだで講じ貫き、学に本原があった。宋濂・王褘・方孝孺は文で雄となり、高(啓)・楊(基)・張(羽)・徐(賁)および劉基・袁凱は詩で著名であった。そのほか前代の遺逸で風流の標映する者は数えきれず、まことに盛んと称してよい。
- 永楽・宣徳以降は作者が次々に興ったが、いずれも沖融演迤で鉤棘を事とせず、気体はしだいに弱まった。
- 𢎞治・正徳の間に李東陽が出て、宋元に出入りし唐代に溯り、館閣に声を擅にした。そこへ李夢陽・何景明が復古を唱え、文は西京(前漢)より、詩は中唐より下を一切吐き棄てよと言い、觚を操り芸を談ずる士は翕然としてこれを宗とした。明の詩文はここで一変した。
- 嘉靖に至って王慎中・唐順之の輩は文を欧陽脩・曾鞏に宗とし詩を初唐に倣い、李攀龍・王世貞の輩は文を秦漢に主とし詩を盛唐に規した。王・李の持論はおおむね李夢陽・何景明と相唱和するものであった。
- 帰有光はやや後れて出、司馬遷・欧陽脩を自ら任じて李(夢陽)・何(景明)・王(世貞)・李(攀龍)を力めて排した。徐渭・湯顕祖・袁宏道・鍾惺の属もまたそれぞれ一時に争鳴し、ここに李・何・王・李を宗とする者はやや衰えた。
- 天啓・崇禎の時に至って銭謙益・艾南英は北宋の矩矱に準じ、張溥・陳子龍は東漢の芳華を擷り、また一変した。
- 明一代の文士で卓卓として表見した者の源流はおおむねこのとおりである。いま諸家の集を博く考え、衆論を参じて、その著しい者を録して文苑伝を作る。
篇首の立傳者一覧
- 楊維楨(陸居仁・錢惟善)
- 胡翰
- 蘇伯衡
- 王冕(郭奎・鎦炳)
- 戴良(王逢・丁鶴年)
- 危素
- 張以寧(石光霽・秦裕伯)
- 趙壎(宋僖ら)
- 徐一夔
- 趙撝謙(樂良ら)
- 陶宗儀(顧徳輝ら)
- 袁凱
- 髙啟(楊基ら)
- 王行(唐肅・宋克ら)
- 孫蕡(王佐ら)
- 王䝉(郭傳)
楊維楨――出自と鐵崖の五年
- 字は廉夫、山陰の人。母の李氏が月中の金銭が懐に墜ちる夢を見て生んだ。
- 少時から日に数千言を記した。父の宏が鉄崖山中に楼を築き、楼をめぐって梅百株を植え、書数万巻を集め、梯子を取り去って楼上で誦読させること五年。そこで自ら鉄崖と号した。
楊維楨――元朝での仕官と正統辯
- 元の泰定四年(1327年)進士。天台尹に署せられ、銭清場塩司令に改まる。狷直で物に忤い、十年のあいだ昇進しなかった。
- 遼・金・宋三史の修成に際し、維楨は「正統辯」千余言を著した。総裁官の欧陽元功が読んで嘆じ、「百年の後の公論はここに定まる」と言い、薦めようとしたが果たさなかった。
- 建徳路総管府推官に転じ、江西儒学提挙に擢せられたが赴任前に兵乱に会い、富春山に避難し、のち銭塘に移った。
楊維楨――張士誠の招きを拒む
- 張士誠がしばしば招いたが赴かず。士誠がその弟の士信を遣わして訪ねさせたので、五論を撰し書を具えて士誠に復し、順逆成敗の説を反覆して告げたが、士誠は用いることができなかった。
- また丞相の達實に忤い、松江の上海に移り住んだ。
- 内外の搢紳大夫と東南の才俊の士が門を訪れて履を納れぬ日はなかった。酒がたけなわになると筆墨が横に飛んだ。あるときは華陽巾を戴き羽衣を披て船屋の上に坐して鉄笛を吹き「梅花弄」を奏し、あるときは侍児を呼んで「白雪」の辞を歌わせ、自ら鳳琶に倚ってこれに和した。賓客はみな蹁躚と起って舞い、神仙のなかの人だと言い合った。
楊維楨――明の召命と晩年
- 洪武二年(1369年)、太祖が諸儒を召して礼楽書を纂させ、維楨は前朝の老文学であるとして翰林の詹同を遣わし幣を奉じて門に詣らせた。維楨は謝して「老婦が棺に入ろうという時になって再び嫁ぐ支度をする道理があろうか」と言った。
- 翌年(1370年)また有司を遣わして促したので、「老客婦謡」一章を賦して進上し、「皇帝が自分の能うところを尽くさせ、能わぬところを強いないのであれば結構だが、そうでなければ海に身を投げて死ぬだけだ」と言った。
- 帝はこれを許し、安車を賜って闕廷に詣らせた。留まること百十日、纂述の凡例がほぼ定まると骸骨を乞うた。帝はその志を成し、なお安車を給して山に還らせた。史館・国子監の士が西門の外で祖帳を張った。宋濂が詩を贈って「君王の五色の詔を受けず、白衣にて召され白衣にて還る」と言った。これを高しとしたのである。
- 家に着いて卒した。年七十五。
楊維楨――詩文の交わりと評価
- 維楨の詩名は一時を擅にし、その体を「鉄崖体」と号した。永嘉の李孝光、茅山の張羽、錫山の倪瓚、崑山の顧瑛と詩文の友であり、碧桃叟の釈臻、知帰叟の釈現、清容叟の釈信と方外の友であった。
- 張雨は、その古楽府が杜少陵と二李(李白・李賀)の間に出入りし、曠世の金石の声があると称した。宋濂は、その論撰は商の敦や周の彝の雲雷の文様を見るようで寒芒が横逸し、詩は震蕩陵厲、鬼が設け神が施したかのようだと称し、とりわけ名家と号した。
陸居仁・錢惟善(附)
- 維楨が松江に移った時、華亭の陸居仁および僑居していた銭惟善と互いに唱和した。
- 惟善は字を思復、銭塘の人。至正元年(1341年)の省試「羅刹江賦」で、鎖院に三千人がいたなか、ひとり惟善だけが枚乗の「七発」に拠って銭塘江が曲江であることを弁じ、これによって名を得て曲江居士と号した。官は副提挙。張士誠が呉に拠るとついに仕えなかった。
- 居仁は字を宅之。泰定三年(1326年)の郷試に合格。隠居して教授し、自ら雲松野衲と号した。
- 両人は死後、維楨とともに干山に葬られた。
胡翰
- 字は仲申、金華の人。幼くして聡穎、常児と異なった。七歳の時に道で落とし物の金を拾い、坐して守り、その持ち主が来るのを待って返した。
- 長じて蘭谿の呉師道、浦江の呉萊に古文を学び、さらに同邑の許謙の門に入った。同郡の黄溍・栁貫は文章で天下に名があったが、翰の文を見てほめて口を閉じなかった。元の都に遊ぶと公卿がかわるがわる誉め、武威の余闕・宣城の貢師泰ととくに親しかった。仕えるよう勧める者があったが応じなかった。
- 帰ったのち天下大乱に遭い、南華山に避難して著書自適した。文章は宋濂・王褘と相上下した。
- 太祖が金華を下すと召見され、許元らとともに中書省で会食するよう命ぜられた。のち侍臣にまた翰を薦める者があり、金陵に召された。折しも金華の民を兵籍に入れようとしていたので、翰は従容として「金華の人は儒を業とする者が多く兵を習う者は少ない。籍に入れても徒に糧を費やすだけだ」と進言し、太祖はただちにやめた。衢州教授を授かった。
- 洪武初、聘されて元史を修め、書が成って賜与を受けて帰った。北山の泉石を愛してその下に卜築し、徜徉すること十数年で終わった。年七十五。
- 著書に「春秋集義」、文は「胡仲子集」、詩は「長山先生集」がある。
蘇伯衡
- 字は平仲、金華の人。宋の門下侍郎の蘇轍の裔。父の友龍は許謙の門に受業し、蕭山令・行省都事となった。明の師が浙東を下したとき、長子が閩に仕えていたことに坐して滁州に謫徙された。李善長が官に就けるよう奏したが力めて辞して帰った。
- 伯衡は警敏絶倫、群籍に博洽で、古文を作って声誉があった。元末に郷から貢挙された。太祖が礼賢館を置くと伯衡もこれに与った。丙午の歳(1366年)国子学録に用いられ、学正に遷った。薦めにより召見されて翰林編修に擢せられたが、力めて辞し、親の見舞いを乞うて帰った。
- 洪武十年(1377年)、学士の宋濂が致仕したとき、太祖が誰が代われるかと問うと、濂は「伯衡は臣の同郷、学は博く行いは修まり、文詞は蔚贍にして法があります」と答えた。太祖はただちに徴したが、入見してまた病を理由に辞し、衣と鈔を賜って還った。
- 二十一年(1388年)会試を主宰するよう聘され、事が終わるとまた辞して還った。ほどなく処州教授となったが、表箋の誤りに坐して吏に下され死んだ。二子の恬・怡は父を救おうとしてともに刑を被った。
王冕
- 字は元章、諸曁の人。幼くして貧しく、父に牛を牧させられた。ひそかに学舎に入って諸生の誦書を聴き、暮れて帰ると牛を失っていた。父は怒って鞭打ったが、しばらくするとまた同じことをした。母が「この子の癡かたはこのとおりです。したいようにさせてはどうか」と言った。
- 冕は去って僧寺に身を寄せ、夜は仏像の膝の上に坐り、長明灯の明かりで書を読んだ。会稽の韓性が聞いて非凡としこれを弟子に録し、ついに通儒と称された。性が卒すると門人は冕に事えること性に事えるようであった。
- しばしば科挙に応じたが及第せず、棄てて去った。北のかた燕に遊び、秘書卿の台哈布哈の家に客となり、館職に薦めようとされたが力めて辞し就かなかった。
- 帰ってからは常々「天下はまさに乱れる」と大言し、妻子を携えて九里山に隠れ、梅千株を植え桃杏をその半ばとし、自ら梅花屋主と号した。梅を描くのが上手で求める者が踵を接し、幅の長短で得る米の多少を差とした。
- かつて「周官」に倣って書一巻を著し、「これを持って明主に遇えば伊尹・呂尚の事業も難しくない」と言った。太祖が婺州を下したとき物色して見つけ出し、幕府に置いて諮議参軍を授けた。一夕にして病死した。
郭奎・鎦炳(附)
- 同じころ郭奎・鎦炳もみな早くから戎幕に参じ、詩で名があった。
- 奎は字を子章、巣県の人。余闕に従って経を治め、闕はしきりにこれを称した。太祖が呉国公であったとき来帰し幕府に従事した。朱文正が南昌に大都督府を開くと、奎に命じてその軍事に参ぜしめた。文正が罪を得たとき奎も坐して誅された。
- 炳は字を彦昺、鄱陽の人。至正中に浙で従軍。太祖が淮南に起こると書を献じて事を言い、中書典籤に用いられた。洪武初、大都督府に従事し、出て知県となった。二考を閲して病を告げて帰り、久しくして卒した。
戴良――元末の去就
- 字は叔能、浦江の人。経史百家および医・卜・釈・老の説に通じ、黄溍・栁貫・呉萊に古文を学んだ。貫が卒するとその家の事を取りしきった。
- 太祖がはじめ金華を定めると、胡翰ら十二人とともに省中で会食させ、日ごとに二人ずつ交替で経史を講じ治道を陳べさせた。翌年、良を学正に用い、宋濂・葉儀らとともに諸生を訓えさせた。太祖が軍を旋すと良は突然官を棄てて逸れ去った。
- 辛丑(1361年)、元の順帝が薦者の言により良に江北行省儒学提挙を授けた。良は時事のなすべからざるを見て呉中に避難し張士誠に依った。久しくして士誠がまさに敗れると見るや、家を挙げて海に泛び登州・莱州に至り、間道を行って庫庫の軍に帰そうとしたが道が塞がり、昌楽に数年寓した。
戴良――明への召しと死
- 洪武六年(1373年)はじめて南に還り、姓名を変えて四明山に隠れた。太祖が物色して探し出し、十五年(1382年)京師に召し、文を試み、会同館に居らせて日ごとに大官の膳を給し、官に就けようとしたが、老疾を理由に固辞して旨に忤った。翌年四月に暴卒した。おそらく自裁である。
- 元が亡んだのち、ただ良と王逢だけが故主を忘れず、常に歌詩に表した。それゆえについにその死を全うできなかったという。
- 良は代々金華の九霊山の下に居り、自ら九霊山人と号した。
王逢(附)
- 字は原吉、江陰の人。至正中に「河清頌」を作り、台臣がこれを薦めたが病と称して辞した。
- 張士誠が呉に拠ると、その弟の士徳が逢の策を用いて北のかた元に降り、明に抗した。太祖が士誠を滅ぼして辟用しようとしたが、堅く臥して起たなかった。上海の烏涇に隠れ、歌詠して自適した。
- 洪武十五年(1382年)文学を以て徴され、有司が急き立てて道に上らせたが、子の掖が通事司令であり、父の年高きを以て叩頭泣訴して請うたので、吏部に符して止めさせた。さらに六年して卒した。年七十。
- 「梧渓詩集」七巻がある。逢は自ら席帽山人と称した。
丁鶴年(附)――回回の家系
- 回回の人。曽祖の阿喇卜丹とその弟の烏瑪爾はともに巨商であった。元の世祖が西域を征したとき兵糧が乏しく、阿喇卜丹が軍門に策を杖いて資財をことごとく献じた。功を論じて京師に田宅を賜り朝請を奉じた。烏瑪爾は累官して甘粛行省左丞。父の智黙羅丹は世廕により武昌県達嚕噶齊となり恵政があり、官を解いてその地に留まり葬られた。
丁鶴年(附)――母を葬り故国を思う
- 至正壬辰(1352年)武昌が兵禍を被ったとき、鶴年は十八歳、母を奉じて鎮江に走った。母が歿すると塩も酪も口にしないこと五年。四明に避難した。方国珍が浙東に拠り、最も色目人を忌んだので、鶴年は転々と逃げ隠れ、童子の師となり、あるいは僧舎に身を寄せ漿を売って自給した。
- 海内が大いに定まると、牒して武昌に還るを請うたが、生母はすでに道が阻まれて先に死に、東村の廃屋のなかに埋められていた。鶴年は痛哭して母を探し歩き、夢に告げられて、血を齧んで骨に沁ませて確かめ、収斂して葬った。烏斯道が「丁孝子伝」を作った。
- 鶴年は自家が代々元に仕えたゆえ故国を忘れず、順帝が北に遁れたのちは泣きながら詩を賦し、情詞は悽惻であった。晩年は浮屠の法を学び父の墓に廬を結んで住み、永楽中に卒した。
- 鶴年は学を好み洽聞、詩律に精しかった。楚の昭王・荘王の二王がみな礼敬した。正統中、憲王がその遺文を刻して世に行った。
危素――元朝での歴任と建言
- 字は太樸、金谿の人。唐の撫州刺史の危全諷の後裔。少くして五経に通じ、呉澄・范梈の門に遊んだ。
- 至正元年(1341年)大臣の薦めにより経筵検討を授かる。宋・遼・金三史を修め、また爾雅に注して成り、金および宮人を賜ったが受けなかった。
- 国子助教から翰林編修に遷り、后妃らの伝を纂したが、事跡が逸して拠るところがなかった。素は餳餅を買って宦官に贈り、これを問いただして実を得、それを書に筆録し、ついに全史をなした。
- 太常博士・兵部員外郎・監察御史・工部侍郎に遷り、大司農丞・礼部尚書に転じた。時に乱が急であり、素は常に得失を抗論した。
- 十八年(1358年)中書省の事に参じ、平章の鼎珠に専ら西方の兵を任せ、帝師を迎えて軍事を誤らせぬよう請うた。また布延布哈を参政として江南を経略させ、兵農宣撫使司を立てて畿内を安んじ、賢良な守令を任じて流竄の民を撫することを請い、「今日の事はまさに臥薪嘗胆して中興を力図すべきだ」と言った。
- ほどなく御史台治書侍御史に進み、二十年(1360年)参知政事を拝した。にわかに翰林学士承旨に除せられ、出て嶺北行省左丞となったが、言事が採り上げられず、官を棄てて房山に居った。
- 素は人となり侃直で、しばしば建白し、あえて事に任じた。上都の宮殿が焼け、大安・睿思の二閣を重建せよと勅されたときは、諫めて止めさせた。親ら南郊を祀り北郊を築いて合祭の失を斥けるよう請うた。進講にことよせて民間の疾苦を陳べ、詔して銭・粟を出させ河南・永平の民を賑わせた。淮南の兵乱では素が赴いて実情を調べ、便宜を仮りて楮幣を発し、維揚・京口の飢えを賑わせた。
危素――元史庫を守る
- 房山に居ること四年。明の師がまさに燕に至ろうとしたとき、淮王の特穆爾布哈が監国となり、素を起こして承旨をもとのとおりとした。素が着いたばかりのところへ明の師が入った。そこで住んでいた報恩寺に走って井に入ったが、寺僧の大梓が力ずくで引き上げ、「国史は公でなければ知る者がない。公が死ぬのは国史を死なせることだ」と言った。素はついに思いとどまった。
- 兵が史庫に迫ったときは、赴いて鎮撫の呉勉らに告げて運び出させ、元の実録は失われずにすんだ。
危素――明での恩遇と謫居
- 洪武二年(1369年)翰林侍講学士を授かる。しばしば元の興亡の理由を訪ねられ、また皇陵の碑文を撰するよう詔され、いずれも旨に称った。
- ほどなく朝を失したことに坐して弾劾され罷めたが、一年して故官に復し、𢎞文館学士を兼ね、小車を賜って朝謁を免ぜられた。
- かつて諸学士とともに宴を賜り、しばしば内官を遣わして酒を勧め、御製詩一章を示して恩寵を表し、各々詩を進めるよう命じた。素の詩は最後に成ったが、帝はひとりこれを覧て善しとし、「素は老成で先憂の意がある」と言った。時に素はすでに七十余であった。
- 御史の王著らが「素は亡国の臣であり侍従に列すべきでない」と論じ、詔して和州に謫居させ余闕の廟を守らせた。一年余りで卒した。
危素――宋の諸陵と理宗の顱骨
- これより先、至元の間に西僧の嗣古妙高が宋の会稽の諸陵を毀とうとし、夏人の嘉木揚喇勒智が江南総摂となって徽宗以下の諸陵をことごとく掘り、金宝を攫い取り、帝后の遺骨を集めて杭州の故宮に埋め、その上に浮屠を築いて「鎮南」と名づけて厭勝を示した。また理宗の顱骨を截って飲器とした。
- 敗れるに及んでその資財はみな官に籍せられ、顱骨もまた宣政院に入り、いわゆる帝師なる者に賜られていた。
- 素は翰林にいた時、宴見の場でその始末をつぶさに述べた。帝は歎息すること久しく、北平の守将に命じて西僧の儒克鼐のもとから顱骨を購い得させ、有司に諭して高坐寺の西北に安置させた。翌年、紹興が永穆陵の図を献じてきたので、勅して故陵に葬らせた。これは実に素から発したことである。
張以寧――幼名と元での経歴
- 字は志道、古田の人。父の一清は元の福建・江西行省参知政事。
- 以寧が八歳の時、ある者がその伯父を県に訴えて獄に繋いだ。以寧が県に出向いて申し開きをすると、尹は非凡としてその場で「琴堂詩」を賦させたところ立ちどころに成り、伯父は釈された。以寧はこれで知られるようになった。
- 泰定中、春秋を以て進士に挙がる。黄巌判官から六合尹に進んだが、事に坐して免官となり、江淮に滞留すること十年。順帝が徴して国子助教とし、累りに翰林侍読学士・知制誥に至った。
- 朝の宿儒であった虞集・欧陽元・掲傒斯・黄溍の属が相次いで物故し、以寧は俊才があり博学強記で当時に名を擅にし、人は「小張学士」と呼んだ。
張以寧――安南への使い
- 明の師が元の都を取ると、危素らとともに京に赴き、奏対が旨に称い、あらためて侍講学士を授かってとくに寵遇された。帝がかつて鍾山に登ったとき、以寧は朱升・秦裕伯らとともに扈従し、擁翠亭で筆札を給わって詩を賦した。
- 洪武二年(1369年)秋、命を奉じて安南に使いし、その主の陳日煃を国王に封ずることとなり、御製詩一章を持たされた。ところが境に着いたばかりで日煃が卒し、国人は印と詔をその世子に授けるよう乞うたが、以寧は聴かず、洱江のほとりに留まって、世子に朝廷へ喪を告げ、あわせて襲爵を請うよう諭した。命が下ったのちも、後の使者の林唐臣が至るのを待ってから境に入って事を行った。
- 事が終わると世子に三年の喪に服すことを教え、その国人には中国に倣って頓首・稽首の礼を行わせた。天子が聞いて嘉し、璽書を賜って陸賈・馬援になぞらえ、重ねて御製詩八章を賜った。
- 帰る途中で卒した。有司に詔してその柩を帰らせ、所在の地で祭を致させた。
張以寧――人となりと春秋の学
- 人となりは潔清で財産を営まず、使いの往還に襆被のほかは持ち物がなかった。
- もと春秋によって高第となったので、学ぶところはとくに春秋に専らで、自得するところが多かった。「胡伝辨疑」を撰し、最も辨博である。ただ「春王正月考」だけは未完で、安南に寓すること半年余りにしてようやく完成した。
- 元の故官で京に来た者では素と以寧の名がとりわけ重い。素は史に長じ、以寧は経に長じた。素の宋史・元史の草稿はともに失伝したが、以寧の春秋学はついに世に行われた。
石光霽(附)
- 字は仲濂、泰州の人。読書は五行ともに下るほど速かった。洪武十三年(1380年)明経を以て挙げられ、国子学正を授かり博士に進んだ。「春秋鈎元」を作り、よく以寧の学を伝えた。
秦裕伯(附)
- 字は景容、大名の人。元に仕えて累官して福建行省郎中に至った。世乱に遭って官を棄て揚州に客となり、久しくしてまた上海に避難した。母の喪に居って礼を尽くした。
- 張士誠が姑蘇に拠って人を遣わして招いたが拒んで納れなかった。呉元年(1367年)太祖が中書省に命じて檄を飛ばして起こそうとしたが、裕伯は使者に「元の禄を食むこと二十余年でこれに背くのは不忠、母の喪が終わらぬのに哀を忘れて出るのは不孝である」と答え、中書省に上って固辞した。
- 洪武元年(1368年)また徴されたが病と称して出なかった。帝は手ずから書いて諭し、「海浜の民は闘いを好む。裕伯は智謀の士でありながらこの地に居る。堅く守って起たなければ、後悔することがあろう」と言った。裕伯は書を拝して涙が横に流れ、やむを得ず使者とともに入朝し、侍読学士を授かった。固辞したが許されなかった。
- 張以寧らとともに扈従して鍾山に登り、擁翠亭で筆札を給わって詩を賦し、たいそう寵遇された。二年(1369年)待制に改まり、ほどなく治書侍御史となった。三年(1370年)はじめて科挙を設けて士を取ったとき、裕伯は御史中丞の劉基とともに京畿の主考官となった。
- 裕伯は博辨で論説に巧みで、占奏はことごとく帝意に当たり、帝はしばしばこれを称した。出て隴州を知り、官に卒した。
趙壎――元史の両局に与る
- 字は伯友、新喩の人。学を好み文を作るに巧みであった。元の至正中に郷挙され上猶教諭となった。
- 洪武二年(1369年)太祖が元史を修めるよう詔し、左丞相の李善長を監修官、前起居注の宋濂と漳州府通判の王褘を総裁官とし、山林の遺逸の士を徴して纂修官とした。すなわち汪克寛・胡翰・宋僖・陶凱・陳基・曾魯・高啓・趙汸・張文海・徐尊生・黄篪・傅恕・王錡・傅著・謝徽であり、壎もこれに与った。
- この年二月に天界寺に局を開き、元の「経世大典」など諸書を取って参考に供し、八月に成った。諸儒はそろって賜与を受けて帰されたが、順帝一朝の史がまだ備わらなかったので、儒士の欧陽佑らに命じて北平に赴かせ遺事を採らせた。
- 翌年(1370年)二月に還朝し、あらためて史局を開き、なお宋濂・王褘を総裁とし、四方の文学の士を徴して纂修官とした。すなわち朱右・貝瓊・朱廉・王彝・張孟兼・高遜志・李懋・李汶・張宣・張簡・杜寅・殷弼・兪寅、および壎である。
- 先後の纂修は三十人、両局ともに与ったのは壎ひとりだけであった。六か月を経て書が成り、諸儒の多くは官を授かったが、ただ壎と朱右・朱濂だけは受けずに帰った。
趙壎――明での官歴
- ほどなく召されて日厯を修め、翰林編修を授かった。
- 高麗が使を遣わして朝貢し、宴を賜って楽を奏したところ、使者が国喪を理由に辞退した。壎が進んで「小国の喪は大国の礼を廃さない」と言った。太祖はたいそう悦び、宋濂と史館で同職とした。濂はこれに兄として事えた。
- かつて詔を奉じて「甘露頌」を撰し、太祖は善しと称した。出て靖江王府長史となり卒した。
元史纂修の諸儒(附)――宋僖・陳基
- はじめ壎とともに纂修した者のうち、汪克寛・陶凱・曾魯・高啓・趙汸・貝瓊・高遜志にはそれぞれ伝がある。いま宋僖以下の考えうる者をこの篇に附す。
- 宋僖は字を無逸、余姚の人。元の繁昌教諭。乱に遭って帰った。史事が終わると福建郷試を主宰するよう命ぜられた。
- 陳基は字を敬初、臨海の人。少くして兄の聚とともに義烏の黄溍に受業し、溍に従って京師に遊び、経筵検討を授かった。かつて人のために諫章を草し、力めて順帝が后を並べた失を陳べた。順帝が罪しようとしたので身を引いて郷里に帰った。のち母を奉じて呉に入り、太尉の張士誠の軍事に参じた。士誠が王を称したとき基ひとりが諫止したので殺そうとしたが果たさなかった。呉が平らぐと召されて元史を修め、金を賜って還り、洪武三年(1370年)冬に卒した。
- はじめ士誠が太祖と相持したとき、基はその幕府にあって、書檄には明を指斥する語が多かった。呉が亡んだとき呉の臣の多くは誅されたが、基ひとりは免れた。世に伝わる「夷白集」にはその指斥の文がなお備さに列せられているという。
元史纂修の諸儒(附)――張文海・徐尊生・傅恕・烏斯道
- 張文海は鄞の人。同郷の傅恕とともに史館に入った。
- 徐尊生は字を大年、淳安の人。元史が成って賜与を受けて帰り、また日厯の同修に加わった。のち宋濂の薦めで翰林応奉文字を授かり、草した制はことごとく旨に称った。ほどなく老疾を理由に辞して還った。
- 傅恕は字を如心、鄞の人。学は経史に通じ、同郡の烏斯道・鄭真とともに文名があった。洪武二年(1369年)闕に詣って治道十二策を陳べた。すなわち、朝廷を正す、守令を重んずる、外蕃を馭する、禄秩を増す、民田を均す、法役を改める、異端を斥ける、服制を改める、学校を興す、選挙を慎む、榷塩を罷める、榷茶を停める、である。太祖は嘉して納れ、元史を修めさせた。事が終わって博野知県を授かったが、のち累に坐して死んだ。
- 烏斯道は字を継善、慈谿の人。兄の本良とともに学行があった。洪武中、薦められて石龍知県を授かり、永新に転じたが、事に坐して定遠に謫役され、放還されて卒した。斯道は古文に巧みで書法にも精しかった。子の緝もまた詩文をよくし、洪武四年(1371年)郷試第一に挙がり臨淮教諭を授かった。入見して宴を賜り詩を賦して旨に称い、広信教授に除せられた。自ら榮陽外史と号した。
元史纂修の諸儒(附)――傅著・謝徽・朱右・朱廉
- 傅著は字を則明、長洲の人。史が成って帰り常熟教諭となった。魏観が郷飲酒礼を行ったとき、長洲教諭の周敏はその父の南老に、著はその父の玉に侍し、いずれも降って北面して立った。礼を観る者はこれを盛事とした。歴官して知府となり卒した。
- 謝徽は字を元懿、長洲の人。史が成って翰林国史院編修を授かり、ほどなく吏部郎中に擢せられたが力めて辞して拝せず帰った。あらためて起こされて国子助教となり卒した。徽は博学で詩文に巧みで、同邑の高啓と名を斉しくした。弟の恭、字は元功もまた詩をよくした。
- 朱右は字を伯賢、臨海の人。史が成って辞して帰った。のち徴されて日厯・宝訓を修め、翰林編修を授かり、晋府右長史に遷った。九年(1376年)官に卒した。
- 朱廉は字を伯清、義烏の人。幼くして学に力め、黄溍に従って古文を学んだ。知府の王宗顕が招いて郡学を教えさせ、李文忠が厳州を鎮したときは招いて釣台書院山長とした。洪武初、元史が成っても官を受けず帰った。ほどなく徴されて日厯を修め、翰林編修に除せられた。八年(1375年)中都に扈駕して詩十章を進め、太祖は善しと称して和すること六章を賜った。のち楚王経を授けられ、楚府右長史に遷り、久しくして病を理由に辞して帰った。廉は程朱の学を好み、かつて「朱子語類」からその精義を摘んで「理学纂言」と名づけた。
元史纂修の諸儒(附)――王彞・張孟兼
- 王彞は字を常宗、その先は蜀の人。父が崑山教授となったので嘉定に卜居した。少くして孤で貧しく、天台山中で読書し、王貞文に師事して蘭谿の金履祥の伝を得、学に端緒があった。かつて論を著して力めて楊維楨を詆り、「文妖」と目した。元史が成って銀幣を賜って還り、また薦めにより翰林に入ったが、母が老いたので帰るのを乞うた。知府の魏観の事に坐して高啓とともに殺された。
- 張孟兼は浦江の人。名は丁、字を以て通った。史が成って国子学録を授かり、礼部主事・太常司丞を歴した。劉基がかつて太祖に「いま天下の文章は宋濂が第一、その次は臣の基、さらに次は孟兼です」と言い、太祖は頷いた。
- 孟兼は性が傲であった。かつて累に坐して輸作に謫せられ、のち復官した。太祖が孟兼を見て濂に「卿の門人か」と問うと、濂は「門人ではなく同郷の子です。その文には才があり、臣の劉基がかつて称しました」と答えた。太祖は孟兼をじっと見て「生まれつき骨相が薄い。仕官はゆっくりでこそよい」と言った。
- ほどなく山西僉事に用いられた。廉勁で悪を憎み、姦猾を糾摘して互いに引き合わせ、事ごとに数十人を株連した。吏民は「張僉事が部を巡る」と聞くと凛然として胆を落とした。声が朝に聞こえ、山東副使に擢せられた。
- 布政使の呉印は僧であった。太祖が急に貴くして寵愛がはなはだしかったが、孟兼はこれを軽んじた。印が孟兼に謁して中門から入ると、孟兼は門を守る卒を杖った。またのちに他の事で互いに突っ張り合った。太祖は先に印の言を容れ、孟兼を逮えて笞った。孟兼は憤って印のために書奏を作った者を捕らえ罪に問おうとした。印がまた上書して事情を述べたので、太祖は大いに怒り「豎儒が我に抗するか」と言い、械して闕下に引き立てさせ、棄市を命じた。
元史纂修の諸儒(附)――李汶・張宣・張簡・杜寅
- 李汶は字を宗茂、当塗の人。博学多才。史が成って巴東知県に除せられ、南和に移った。晩年は郷里に帰り経学で後進を訓えた。
- 張宣は字を藻重、江陰の人。洪武初、考礼のことで徴され、ほどなく元史の修に加わった。太祖が自らその名を書いて召し対え、殿廷で即日翰林編修を授け、「小秀才」と呼んだ。詔を奉じて帰って娶ったが、年はすでに三十であった。六年(1373年)事に坐して濠梁に謫徙され、道中で卒した。
- 張簡は字を仲簡、呉県の人。はじめ張雨に師事して道士となり鴻山に隠居した。元末の兵乱に母が老いたので帰って養い、儒服に返った。洪武三年(1370年)薦められて元史を修めた。
- 元末、浙東・浙西の士大夫は文墨を尊び、毎年必ず詩社を連ね、一、二の文章の大家を聘して主宰させた。四方の名士がことごとく至り、讌賞は昼夜を尽くし、詩の勝れた者には厚い贈り物があった。臨川の饒介は元の淮南行省参政で、詩に豪であり自ら醉樵と号した。かつて大いに諸名士を集めて「醉樵歌」を賦させたところ、簡の詩が第一で黄金一餅を贈られ、高啓がこれに次いで白金三斤を得、楊基がまたこれに次いでなお一鎰を贈られた。
- 杜寅は字を彦正、呉県の人。史が成って岐寧衛知事に官した。洪武八年(1375年)番賊がいったん降ってまた叛き、寅は経歴の熊鼎とともに害された。
徐一夔――礼書の纂修
- 字は大章、天台の人。文に巧みで義烏の王褘と親しかった。
- 洪武二年(1369年)八月、礼書を纂修するよう詔され、一夔および儒士の梁寅・劉于・曾魯・周子諒・胡行簡・劉宗弼・董彝・蔡深・勝公琰がともにこれに与った。翌年、書が成った。
徐一夔――元史の修に招かれるのを辞す書
- 続いて元史を修めることになったとき、褘は総裁官であり一夔を薦めた。一夔は書を遺って辞退した。その趣旨は次のとおりである。
- 県令が命を伝えて「朝廷が続修元史のことで徴す」と言い、執事(王褘)が自分を叙事に長けているとして当路に薦めたと聞いた。不材多病の人になぜそれほど惓惓とされるのか、ひそかに怪しむ。執事は自分を知る人だと思ってきたが、いま自ら省みてとうてい期待に副えない。
- 近世、史を論ずる者で日厯に過ぎるものはない。日厯は史の根柢である。唐の長寿中に史官の姚璹が時政記の撰を奏請し、元和中に韋執誼がまた日厯の撰を奏した。日厯は事を日に繋け、日を月に繋け、月を時に繋け、時を年に繋ける。なお春秋の遺意がある。起居注の説もまた専ら甲子によって例を起こす。事を紀す法でこれに勝るものはない。
- かつて宋は史事を極めて重んじ、日厯の修には諸司が必ず関白した。詔誥は三省が必ず書き、兵機・辺務は枢密が必ず報じ、百官の進退、刑賞の与奪、台諫の論列、給事中・中書舎人の繳駁、経筵の論答、臣僚の転対、侍従の直前啓事、中外の囊封・匭奏、下は銭穀・甲兵・獄訟・造作に至るまで、およそ政体に関わるものは日を追って録さぬものはなかった。それでもなお吏の文書から出て誤りがあることを患え、欧陽脩は、宰相で監修する者が年末に修撰官の日々録した事を検点し、失職ある者を罰するよう奏請した。こうすれば日厯は誤りに至らない。後日の会要の修も、実録の修も、百年後の紀・志・列伝もここから取る。これが宋の史が精確である所以である。
- 元朝はそうではない。日厯を置かず起居注も置かず、ただ中書に時政科を置いて一人の文学掾に掌らせ、事を史館に付し、一帝が崩ずれば国史院が付されたものによって実録を修めるだけであった。史事についてはきわめて疎略である。
- 幸い天暦の間に虞集が六典の法に倣って「経世大典」を纂し、一代の典章文物がほぼ備わった。それゆえ前の史局には十三朝の実録があり、またこの書があって参稽でき、当時の纂修の諸公、すなわち胡仲申(胡翰)・陶中立・趙伯友(趙壎)・趙子常(趙汸)・徐大年(徐尊生)の輩はみな史才・史学があったので、辛うじて書を成すことができた。
- 順帝三十六年の事に至っては、拠るべき実録もなく参稽の書もなく、ただ採訪によって足し補うほかない。事は必ずしも確かでなく、言は必ずしも馴わず、首尾は必ずしも一貫しないのではないかと恐れる。しかも先の数公は、あるいは官を受けあるいは山に還ってそれぞれ散り去った。それを不材多病の自分のような者に後を承けさせようとしても、執事の望みに副いたくてもどうしようもない。謹んで書状を奉り、憐れみ察してくださるよう乞う。
- 一夔はついに赴かなかった。ほどなく薦めにより杭州教授に署せられ、召されて大明日厯を修め、書が成って翰林院の官を授けられようとしたが足の病を理由に辞し、文綺を賜って帰された。
趙撝謙
- 名は古則、のち謙と改めた。余姚の人。幼くして孤で貧しく、山寺に寄食し、朱右・謝粛・徐一夔らと文字の交わりを結んだ。
- 天台の鄭四表が易に善かったのでこれに従って易を受けた。定海の樂良、鄞の鄭真は春秋に明るく、山陰の趙俶は詩を説くに長じ、迮雨は楽府をよくし、広陵の張昱は歌詩に巧みで、無為の呉志淳、華亭の朱芾は草書・篆隷に巧みであり、撝謙はことごとくこれらと友であった。
- 六経百氏の学を博く究め、とくに六書に精しく「六書本義」を作り、また「声音文字通」を作った。時人は「考古先生」と目した。
- 洪武十二年(1379年)詞臣に命じて正韻を修めさせたとき、撝謙は年二十八で聘に応じて京師に入り、中都国子監典簿を授かった。久しくして薦めにより召されて瓊山県学教諭となった。二十八年(1395年)番禺に卒した。
- のち門人の柴欽、字は広敬が庶吉士として永楽大典の修に与り、その師の撰した「声音文字通」を採録すべきだと進言し、命を奉じて馳伝しその家に赴いてこれを取った。
樂良・迮雨・趙俶・張昱・呉志淳・朱芾(附)
- 樂良は字を季本。迮雨は字を士霖。
- 趙俶は字を本初。洪武中、国子監博士に官し、年老いて帰るのを乞い、翰林待制を加えられた。
- 張昱は字を光弼、廬陵の人。元に仕えて江浙行省左右司員外郎・行枢密院判官。西湖の寿安坊に留まり住んだ。貧しくて廬を葺くこともできず、酒の席で瞿佑のために自作の詩を誦し、笑って「私が死んだら骨を湖のほとりに埋め、『詩人張員外の墓』と題してくれればそれで足りる」と言った。太祖が徴して京に至らせたが、その老いを憫れんで「もう閒でよい」と言い、厚く賜って帰した。そこで自ら「可閒老人」と号した。年八十三で卒した。
- 呉志淳は字を主一。元末に靖安・都昌二県を知り、奏して翰林待制に除せられたが権勢の寵臣に阻まれ、鄞に兵を避けた。
- 朱芾は字を孟辨。洪武初、編修に官し、中書舎人に改まった。
陶宗儀
- 字は九成、黄巌の人。父の煜は元の福建・江西行枢密院都事。
- 宗儀は少くして有司の試を受け、一度及第しないとすぐに棄て去って古学に努め、窺わぬところがなかった。浙東・浙西に遊学し、張翥・李孝光・杜本に師事し、詩文を作るのにみな程度があった。とくに字学に志を刻み、母方の伯父の趙雍の篆法を習った。
- 浙帥の台哈布哈、南台御史の綽羅が行人に挙げ、また招いて教官としたが、いずれも就かなかった。張士誠が呉に拠って軍諮に署したが、これも赴かなかった。
- 洪武四年(1371年)天下の儒士を詔徴し、六年(1373年)有司に人材を挙げるよう命じたとき、いずれも宗儀に及んだが、病と称して赴かなかった。晩年、有司が聘して教官としたが、その志ではなかった。二十九年(1396年)諸生を率いて礼部の試に赴き、大誥を読み、鈔を賜って帰った。久しくして卒した。
- 著書に「輟耕録」三十巻、また「説郛」「書史会要」「四書備遺」を編み、ともに世に伝わる。
顧徳輝(附)――玉山佳処
- 字は仲瑛、崑山の人。家は代々素封であった。財を軽んじ客を結び、豪宕で自ら楽しんだ。年三十にしてはじめて節を折って読書し、古書・名画・彝鼎・秘玩を購った。
- 茜涇の西に別業を築いて「玉山佳処」と名づけ、朝夕に客と酒を置いて詩を賦した。四方の文学の士――河東の張翥、会稽の楊維楨、天台の柯九思、永嘉の李孝光、方外の士では張雨・于彦成・琦元璞の輩――がみなその家を宿とした。園池・亭榭の盛んなこと、図史の富、および餼館・声伎はいずれも一時に冠絶した。徳輝の才情も妙麗で諸名士とほぼ相当した。
- かつて茂才に挙げられ会稽教諭を授かり、行省の属官に招かれたが、いずれも就かなかった。張士誠が呉に拠って強いて官に就けようとしたので、嘉興の合渓に隠れた。ほどなく子の元臣が元の水軍副都万戸となったので、徳輝は武略将軍・飛騎尉・銭塘県男に封ぜられた。
- 母の喪で綽渓に帰ったところ、士誠が再び招いたので、髪を断って廬墓し、自ら「金粟道人」と号した。呉が平らぐと父子ともに濠梁に徙され、洪武二年(1369年)卒した。
孫作(附)
- 士誠が呉に拠ったとき、かなり知名の士を招き集めたので、東南の兵を呉に避けた士はこれに依った。
- 孫作は字を大雅、江陰の人。文を作ることは醇正典雅、常に典拠があった。かつて書十二篇を著して「東家子」と号し、宋濂が「東家子伝」を作った。
- 元末、家を挙げて呉に兵を避けたとき、他の物をことごとく棄てて書二簏だけを載せた。士誠が禄を給したが、ほどなく母の病を理由に辞し去り、松江に客となった。人々が田を買い室を築いて住まわせた。
- 洪武六年(1373年)聘されて大明日厯を修め、翰林編修を授かり、太平府教授に改めるよう乞うた。召されて国子助教となり、ほどなく中都に分教し、一年を越えて国学に還り、司業に擢授され、帰って家に卒した。
張憲・周砥・高明・藍仁ら(附)
- 元末は文人が最も盛んで、詞学で知名の者にはさらに張憲・周砥・高明・藍仁の属がある。
- 張憲は字を思廉、山陰の人。楊維楨に詩を学び最も許された。才を負って羈束されず、かつて京師に走って恣に天下の事を論じ、人々はその狂を駭いた。還って富春山に入り、僧の群れに混じって自ら放った。ある日、高きに升って親しい者を呼び「禍が至る、早く去れ」と語った。三日して寇が至り、死者五百家。のち張士誠に仕えて枢密院都事となり、呉が平らぐと姓名を変え、杭州の報国寺に寄食して歿した。
- 周砥は字を履道、呉の人。無錫に僑居した。博学で文詞に巧みで、宜興の馬治と親しかった。乱に遭って治の家に客となり、治は舟車を用意して陽羨の山渓の勝を尽くさせた。その郷には富人が多く、治と親しい者はみな酒を置いて砥を招いたが、砥は心に厭い、ある日書を遺して治に別れ、夜半に遁げ去り、会稽に遊んで兵乱に歿した。治は字を孝常、また詩をよくし、洪武の時に内邱知県となり建昌知府で終わった。
- 高明は字を則誠、永嘉の人。至正五年(1345年)進士、処州録事を授かり、行省掾に招かれた。方国珍が叛いたとき、省臣は明が海浜の事に詳しいので択んで自分に従わせた。事を論じて合わず、国珍が招撫に応じるに及んで幕下に留め置こうとしたので、即日官を解いて鄞の櫟社に旅寓した。太祖がその名を聞いて召したが、老疾を理由に辞して還り、家に卒した。
- 藍仁は字を静之、弟の智は字を明之、崇安の人。元の時、清江の杜本が武夷に隠れて古学を尊んだ。仁の兄弟はともに赴いて師事し、四明の任士林の詩法を授けられ、そこで科挙を謝して一意に詩を作った。のち武夷書院山長に招かれ、邵武尉に遷ったが赴かなかった。明に内附したのち、例により濠梁に徙され、数か月で放帰されて卒した。智は洪武十年(1377年)薦めにより起家して広西僉事となり、廉潔の声があった。
袁凱
- 字は景文、松江華亭の人。元末に府吏となる。博学で才辨があり、議論は飇のごとく発し、しばしば同座の者を屈服させた。
- 洪武三年(1370年)薦めにより御史を授かった。武臣が功を恃んで驕恣し罪を得る者がしだいに多くなったので、凱は「諸将は兵事には習熟しているが、まだ君臣の礼を悉くしていないのではないか。都督府に通経学古の士を招き、諸武臣を都堂に赴かせて講を聴かせ、族を保ち身を全うする道を得させたい」と上言した。帝は台省に勅して名士を招き、午門に直して諸将のために書を説かせた。
- のち帝が慮囚を終え、凱に命じて皇太子に送って再審させたところ、憐れんで減刑するところが多かった。凱が帰って報告すると、帝は「朕と太子といずれが是か」と問うた。凱は頓首して「陛下は法の正しさ、東宮は心の慈しみでございます」と言った。帝は凱を老猾で両端を持す者として憎んだ。凱は懼れて狂を装って免れ、告げて帰り、久しくして寿を以て終わった。
- 凱は詩に巧みで盛名があった。性は恢諧で自ら「海叟」と号し、背に烏巾を戴き黒牛に逆さに乗って九峰の間を遊行した。好事者はこれを絵に描くほどであった。
- はじめ楊維楨の座にあったとき、客が賦した白燕詩を出したところ、凱は微笑して別に一篇を作って献じた。維楨は大いに驚き賞して座客にあまねく示した。人はそこで「袁白燕」と呼んだという。
高啟
- 字は季迪、長洲の人。博学で詩に巧みであった。張士誠が呉に拠ると、啓は母方の家に依って呉淞江の青邱に居った。
- 洪武初、薦められて同県の謝徽とともに召されて元史を修め、翰林院国史編修官を授かった。あらためて命ぜられて諸王を教授した。
- 三年(1370年)秋、帝が闕楼に御したとき、啓と徽はともに入対し、啓を戸部右侍郎、徽を吏部郎中に擢した。啓は自ら年少で重任に当たれないと陳べ、徽もまた固辞したので許された。ともに白金を賜って放還された。
- 啓はかつて詩を賦して諷刺するところがあり、帝はこれを含んでいたが表に出さなかった。帰って青邱に居り、書を授けて自給した。知府の魏観がその家を郡中に移し、朝夕に招いて会い、たいそう歓んだ。観が府治を改修したことで譴責を受けたとき、帝は啓の作った上梁文を見て怒りを発し、市で腰斬にした。年三十九。
楊基(附)
- 明初、呉下には詩人が多く、啓は楊基・張羽・徐賁とともに「四傑」と称され、唐の王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王になぞらえられた。
- 基は字を孟載、その先は蜀の嘉州の人。祖父が呉中に仕官し、基を生んでそのまま家した。九歳で六経を暗誦し、長じて書十万余言を著して「論鑑」と名づけた。
- 乱に遭って呉の赤山に隠れた。張士誠が招いて丞相府記室としたが、ほどなく辞去し、饒介のもとに客となった。明の師が平江を下すと、基は饒氏の客として臨濠に安置され、ほどなく河南に徙された。
- 洪武二年(1369年)放帰され、ほどなく起こされて滎陽知県となり、鍾離に謫居した。薦められて江西行省の幕官となったが、省臣が罪を得たことで落職した。六年(1373年)起用され、命を奉じて湖広に使いし、召還されて兵部員外郎を授かり、山西副使に遷り、按察使に進んだが、讒言により官を奪われ輸作に謫せられ、ついに工事の場で卒した。
- はじめ会稽の楊維楨が呉中に客となり詩を以て自ら豪としていたとき、基は座上で「鉄笛歌」を賦した。維楨は驚喜してともに東し、従遊する者に「私は呉でもう一つの鉄を得た。おまえたちはこれに就いて学べ。老鉄に学ぶより優る」と語った。
張羽(附)
- 字は来儀、のち字を以て通った。もと潯陽の人。父に従って江浙に仕官し、兵乱に阻まれて帰れず、友の徐賁と約して呉興に卜居した。郷薦を得て安定書院山長となり、再び呉に徙った。
- 洪武四年(1371年)京師に徴されたが応対が旨に称わず放還され、再び徴されて太常司丞を授かった。太祖はその文を重んじ、十六年(1383年)自ら滁陽王の事を述べ、羽に命じて廟碑を撰させた。ほどなく事に坐して嶺南に竄せられ、半ばも行かぬうちに召還されたが、羽は自ら免れないと知って龍江に身を投げて死んだ。
- 羽の文章は精潔で法があり、とくに詩に長じ、画は小米(米友仁)に師事した。
徐賁(附)
- 字は幼文、その先は蜀の人。常州に徙り、さらに平江に徙った。詩に巧みで山水をよく画いた。張士誠が招いて属としたが、ほどなく辞し去った。呉が平らぐと臨濠に謫徙された。
- 洪武七年(1374年)薦められて京に至った。九年(1376年)春、命を奉じて晋・冀に使いし調査するところがあった。帰ったときその嚢を検べると紀行詩数首だけであった。太祖は悦んで給事中を授け、御史に改めて広東を巡按させ、また刑部主事に改め、広西参議に遷った。政績が卓異であったので河南左布政使に擢せられた。
- 大軍が洮岷を征してその境を通ったとき、犒労が時に間に合わなかったことに坐して下獄し、獄中に病死した。
王行――出自と学
- 字は止仲、呉県の人。幼くして父に随って薬売りの徐翁の家に身を寄せた。徐翁の妻は稗官小説を聴くのを好み、行は日に数本を記憶して媼のために誦した。媼は喜んで翁に言い、論語を授けたところ、翌日ことごとく誦じた。翁は大いに驚いて家にある書をすべて読ませた。こうして経史百家の言に淹貫した。
- 二十歳にならぬうちに辞して去り、斉門で徒弟に授け、名士がみな交わりを結んだ。富人の沈万三が家塾に招き、文が成るごとに白金を鎰で計って酬いたが、行はそのたびに払いのけて「富を守り通せるものなら、臍を焼かれるような惨事にも至るまい」と言った。
- 洪武初、有司が招いて学校の師としたが、ほどなく辞し去って石湖に隠れた。
王行――藍玉の獄に連座
- その二子が京に役されたので行は見に行った。涼国公の藍玉が家に館し、しばしばこれを薦め、太祖の召見を得た。のち玉が誅されると行の父子もまた坐して死んだ。
- はじめ呉中で戦があったとき、至るところ礮石を並べて自ら固めていた。行はひそかに知人に「兵法に柔よく剛を制すという。大竹を地に植えて布をその端に繋げば、礮石が至っても布がそれに随って低昂し、人を害することができず礮石も用をなさなくなる」と語った。のち常遇春が平江を取ったとき、果たしてその法のとおりであった。行もまた自ら兵を知ると自負し、それで禍に及んだという。
北郭十友(附)――唐肅・宋克・余堯臣・呂敏・陳則
- はじめ高啓の家は北郭にあり、行と隣り合っていた。徐賁・高遜志・唐粛・宋克・余堯臣・張羽・呂敏・陳則はみな住まいが近く、「北郭十友」と号し、また「十才子」とも称された。啓・賁・遜志・羽にはそれぞれ伝がある。
- 唐粛は字を処敬、越州山陰の人。経史に通じ、あわせて陰陽・医卜・書数を習った。少くして上虞の謝粛と名を斉しくし「会稽の二粛」と称された。至正壬寅(1362年)郷試に挙がる。張士誠の時に杭州黄岡書院山長となり、嘉興路儒学正に遷った。士誠が敗れると例により京に赴き、ほどなく父の喪で還った。洪武三年(1370年)薦めにより召されて礼楽書を修め、応奉翰林文字に擢せられた。その秋に科挙が行われ分考官となった。免ぜられて帰り、六年(1373年)濠梁に佃するよう謫せられて卒した。子の之淳、字は愚士は宋濂がしきりに称した。建文二年(1400年)方孝孺の薦めにより翰林侍読に擢せられ、孝孺とともに修書の事を領し、官に卒した。謝粛は官が福建僉事に至り、事に坐して死んだ。
- 宋克は字を仲温、長洲の人。躯幹が偉大で書史に博渉した。少くして任俠、剣を学び馬を走らせるのを好んだ。家はもと饒かで、客を結んで飲み博した。壮年に及んで酒徒を謝し、兵法を学び、各地を周流したが遇うところがなく、ますます気概を自ら誇った。張士誠が招致しようとしたが就かなかった。性は抗直、人と議論すれば必ず勝つことを期し、古を援いて今に切し、人はよく難ずることができなかった。門を閉ざして筆を染め、日に十紙を費やし、書を善くすることで天下に名があった。時に宋広、字は昌裔もまた草書をよくし「二宋」と称された。洪武初、克は鳳翔同知に任じ卒した。
- 余堯臣は字を唐卿、永嘉の人。呉に入って士誠の客となった。城が破れ、例により濠梁に徙され、洪武二年(1369年)放還されて新鄭丞を授かった。
- 呂敏は字を志学、無錫の人。元の時、道士となった。洪武初、無錫教諭に官し、十三年(1380年)人材に挙げられたが、どの官で終わったかは分からない。
- 陳則は字を文度、崑山の人。洪武六年(1373年)秀才に挙げられ応天府治中を授かり、にわかに戸部侍郎に擢せられ、戸口の閲実により出て大同府同知となり、知府に進んだ。
孫蕡――嶺南の五先生
- 字は仲衍、広東順徳の人。性は警敏、書は窺わぬところがなく、詩文は筆を執れば立ちどころに成り、詞采は爛然としていた。節概を負って妄りに交遊しなかった。
- 何真が嶺南に拠って開府したとき士を招き、蕡は王佐・趙介・李徳・黄哲とともに礼遇を受け、「五先生」と称された。
- 廖永忠が南征したとき、蕡は何真のために降表を草した。永忠は招いて教事を掌らせた。
孫蕡――明での官歴と獄死
- 洪武三年(1370年)はじめて科挙が行われ、蕡はその選に与って工部織染局使を授かり、虹県主簿に遷った。兵火のあと蕡が慰撫し集めたので、民の多くが生業に復した。
- 一年居って召されて翰林典籍となり、洪武正韻の修に与った。九年(1376年)遣わされて四川に祀った。久しく居って出て平原主簿となり、累に坐して逮捕され、京師の望都門の城垣を築かされた。蕡が謳って粤の声を出したところ、監督する者が奏し、召見して歌った詩を誦させたが、語はみな忠愛であったので釈された。
- 十五年(1382年)起用されて蘇州経歴となり、また累に坐して遼東に戍った。のち藍玉の党を大いに治めたとき、蕡がかつて玉のために画に題したことがあったので、死を論ぜられた。刑に臨んで詩を作り、長く謳って逝った。時に門生の黎貞もまた遼東に戍っていたので、蕡の屍は収斂を得た。
- 黎貞は字を彦晦、新会の人。詩文に巧みであった。かつて本邑の訓導となったが、事で誣告され遼陽に十八年戍った。従遊する者ははなはだ多かった。放還されて卒した。
- 蕡の著には「通鑑前編綱目」「孝経集善」「理学訓䝉」および「西菴集」「和陶集」があるが、多くは佚して伝わらない。番禺の趙純は「天人性命の理を究極し、一時の儒宗であった」と称したという。
王佐・趙介・李徳・黄哲(附)
- 王佐は字を彦挙、先は河東の人。元末、父の官に侍して南雄にあり、乱を経て帰れず、南海に籍を占めた。蕡と詩社を結んだ。辞を構えるに敏捷なことでは佐は蕡に及ばず、句意の沈著では蕡もまた佐に及ばなかった。何真は佐に書記を掌らせ謀議に参ぜしめた。真が朝に帰順すると佐も郷里に還った。洪武六年(1373年)薦められて徴され給事中となった。太祖が宋濂に黄馬を賜り、また歌を作って侍臣に唱和を命じたとき、佐は立ちどころに成した。性は要職を楽しまず、辞して帰ろうとした。当時、辞去を告げる者は多く重い譴責を受けており、ある者が「しばらく忍べ。命が惜しくないのか」と押しとどめた。佐はそこで二年ためらい、骸骨を乞うて帰り卒した。
- 趙介は字を伯貞、番禺の人。六籍および釈老の書に博通した。気は豪邁で仕進の意がなかった。歩くときは嚢を携え、景に遇えば詩を賦してその中に投じた。日々西樵の泉石の間を往来した。有司がしばしば薦めたがみな辞し免れた。洪武二十二年(1389年)累に坐して逮えられ京に赴く途中、南昌の舟中で卒した。四子の潔・絢・繹・純はみな詩文をよくし篆隷に巧みであった。絢は隠居して出ず、父の風があった。純は御史に仕えた。
- 李徳は字を仲修、番禺の人。洪武三年(1370年)明経を以て薦められ洛陽典史を授かり、南陽・西安二府の幕官を歴し、いずれもその職をよくした。年老いて漢陽教諭に改めるよう乞い、任期が満ちて義寧に転じた。義寧は粤西にあって荒陋がはなはだしかったが、徳が振い起こし文教がしだいに興った。官を解いて帰り卒した。徳ははじめ詩を作るのを好み、晩年は洛閩の学を究め、誠意を古の聖喆の心要とした。それゆえ嶺南の人は理学を称するとき必ず「李仲修」と言ったという。
- 黄哲もまた番禺の人。州郡に歴仕し治績で称された。
王䝉
- 字は叔明、湖州の人。趙孟頫の甥である。文に敏で規矩を尚ばなかった。山水を画くのに巧みで、あわせて人物をよくした。
- 少時に宮詞を賦したところ、仁和の兪友仁がこれを見て「これは唐人の佳句だ」と言い、そのまま妹を妻わせた。
- 元末、理問に官した。乱に遇って黄鶴山に隠居し、自ら「黄鶴山樵」と称した。洪武初、泰安州の事を知った。
- 䝉はかつて胡惟庸を私邸に訪ね、会稽の郭伝・僧の知聡とともに画を観た。惟庸が伏法すると、䝉は事に坐して逮えられ、獄中に病死した。
郭傳(附)
- 一名は正伝、字は文遠。
- 洪武七年(1374年)帝が武楼に御し、学士の宋濂に坐を賜って「天下はすでに定まった。朕はいまや宿学の士に意を用いようと思う。卿はその人を知っているか」と言った。濂は「会稽に郭伝という者がおります。学に淵源があり、その文は雄贍新麗、その議論は六経に根拠を置いています。異才です」と答えた。
- やがて濂がその文を持って進めた。帝は謹身殿で召見し、翰林応奉・直起居注を授け、兵部主事に遷し、さらに考功監丞に遷し、監令に進め、出して湖広布政司参政に署した。