篇首の立伝者一覧
- 孔希學
- 孔彦繩
- 顔希恵
- 曾質粹
- 孔聞禮
- 孟希文
- 仲于陛
- 周冕
- 程接道
- 程克仁
- 張文運
- 邵繼祖
- 朱梴
- 果墅
孔希學――家系と元代の祖父・父
- 孔希學は字を士行といい、先聖(孔子)五十六代の孫である。代々曲阜に住んだ。
- 祖父の思晦は字を明道といい、元に仕えて教諭となり学行があった。仁宗のとき思晦に衍聖公を襲封させた。卒して文肅と諡された。子の克堅が襲いだ。
- 克堅は字を璟夫という。至正六年、中書が「衍聖公の階は嘉議大夫にとどまり爵位に釣り合わない」と言上したので、通奉大夫に進め銀印を与えた。十五年、礼楽に明るく習熟した者として推薦され、同知太常禮儀院事に徴されたので、子の希學に襲封させた。克堅は累進して國子祭酒に至った。二十二年、病と称して闕里に還り、後に集賢學士・山東廉訪使に起用されたがいずれも赴かなかった。
孔希學――洪武初年の入朝
- 洪武元年三月、徐達が濟寜を下すと、克堅は病と称して希學を遣わして会わせ、達は希學を京師に送った。希學は父が病で来られないと奏し、太祖は克堅に敕諭してその末尾に「病と称するのはよろしくない」と述べた。
- ちょうど克堅も来朝し、淮安で使者に出会って恐れ入り、道を急いで謹身殿で謁見した。年を問われて「臣は年五十三」と答えた。太祖は「そなたの年はまだ老いてはいないのに病に取りつかれている。今はそなたを官職で煩わせぬ。そなたの家は先聖の後で、子孫が学ばぬわけにはいかぬ。そなたの子は温厚だから学に進ませよ」と言った。克堅は頓首して謝した。その日のうちに宅一区・馬一匹・米二十石を賜わった。翌日また召見して族人を訓戒するよう命じ、侍臣を顧みて「先聖の後は特に礼遇し、禄で養って職務は任せぬのだ」と言った。
孔希學――襲封と誥文
- 洪武元年十一月、希學に衍聖公を襲封させ、官属を置いた。掌書・典籍・司樂・知印・奏差・書寫を各一人。孔・顔・孟の三氏教授司を立てて教授・學録・學司を各一人。尼山・洙泗の二書院を立ててそれぞれ山長一人。孔氏の子孫および顔・孟の大宗の子孫の徭役を免除した。またその族人の希大を曲阜の世襲知縣とした。
- そのうえで衍聖公の秩を二品、階を資善大夫に進め、誥を賜わった。その趣旨は次のとおり。古の聖人は羲・農から文・武に至るまで、天に法って民を治め、明らかなことは日月に並び、徳化の盛んなことはこれに勝るものがない。しかしいずれも時に随って宜しきを制し、世ごとに因革があった。孔子は位を得なかったが前聖の道を会得して通じ、万世に教えを垂れて帝者の師となった。その孫の子思もまたこれを伝え述べて言葉にし、その盛んなさまを極めた。国家を保つ者がその統緒を尋ね爵号を尊ぶのは、徳を崇め功に報いるためである。歴代、襲封を受けた者にはその祖の跡を継げぬ者もあり、朕はこれを甚だ憐れむ。即位の初めに世襲すべき者を訪ね求めて五十六代孫の孔希學を得、大宗を継がせた。そこで典礼を行って褒め崇める意を示す。そなたは世の儒者の領袖となり、ますます聖道の働きを当世に展べ、朕の切なる望みに副えよ。何と立派なことではないか。
- 希大には承事郎の階を与えて敕を賜わった。
孔希學――克堅の死と希學の事績
- 洪武三年春、克堅が病を理由に帰郷を願い出たので、中使を遣わして慰問した。病が篤くなると、詔して駅伝を給して家に還らせ、白金と文綺を賜わった。舟が邳州に停泊したところで卒した。
- 六年八月、希學は喪明けに入朝し、担当の役所に食糧を給させ、従者にもみな賜与があり、あわせて敕をもってねぎらい、襲衣と冠帯を賜わった。九月に辞して帰るとき、翰林の官に光禄寺で餞別の宴を張らせ、白金と文綺を賜わった。
- 翌年二月、希學は先聖廟の堂と廊廡が崩れ、祭器・樂器・法服が備わっていないことを言上して有司に修理を命じるよう乞い、また先代からの田は戦乱の後で荒れ地が多いのに徴税は元のままなので減免を乞うた。いずれも許された。これ以後、毎年入朝し、席次は丞相に次ぎ、いずれも宴と賜与を加えられた。
- 希學は読書を好み、隸書を善くし、文詞は雅正であった。賓客が宴に集まるたび、談笑しながら筆を揮って見事な文章を成した。大乱の後を受けて廟の外観や服物を力を尽くして修め、ことごとく旧の姿に戻した。洪武十四年に卒し、守臣に命じて祭らせた。
孔訥・孔公鑑
- 子の訥は字を言伯という。洪武十七年正月に襲封し、禮官に命じて教坊の楽で國學まで導き送らせ、學官が諸生二千余人を率いて成賢街に迎えた。以後、毎年の入覲には符を給して伝馬に乗らせた。帝はすでに丞相の官を廃していたので、席次を文臣の首とさせた。訥は性質が恭謹で、一族に対して恩があった。建文二年に卒した。
- 子の公鑑が襲いだ。字は昭文、孝行があった。爵を嗣いで二年で卒した。成祖が即位すると使者を遣わして祭らせた。
孔彦縉
- 子の彦縉は字を朝紳という。永樂八年に襲封したときわずか十歳で、國學で学業に就くよう命じられ、久しくして帰された。十五年、闕里の文廟の修理が成り、御製の碑文を石に刻ませた。
- 仁宗が即位して彦縉が来朝したとき、仁宗は侍臣に「外蕃の貢使にもみな公館があるのに、衍聖公が民間に宿を借りるのは儒を崇め道を重んじる意ではない」と言い、東安門の外に邸宅を賜わった。
- 宣徳四年、彦縉が福建に使者を遣わして書を購おうと礼部に問い合わせたところ、部の臣が上聞し、購って与えるよう命じられた。ついで闕里の雅樂および楽舞生の冠服が破れていることを奏し、詔して有司に修理させた。
- 景泰元年、帝が学に行幸したとき、彦縉は三氏の子孫を率いて儀礼を観、彛倫堂に座を賜わって講義を聴いた。学に行幸するとき必ず前もって衍聖公を召すのは、これに始まる。
- 彦縉は幼くして父を失ったがよく自立した。しかし族人とは睦まじくなかった。景泰六年、族祖の克昫らと彦縉が互いに訴え合ったが、帝は放置して問わなかった。
孔𢎞緒と孔公恂
- 彦縉の子の承慶は先に卒し、孫の𢎞緒は字を以敬といい、わずか八歳のとき彦縉が卒した。妾の江が、𢎞緒は幼弱で族人に侵されていると訴えたので、詔して礼部の郎を遣わして喪を執り行わせ、その族父の公恂に家事を治めさせた。駅伝で𢎞緒を京に召して襲封させ、玉帯と金印を賜い、教授一人を選んでその学業を課した。
- 英宗が復辟すると入って賀し、便殿で謁見したとき手を握って膝の上に置き、長く語り合った。𢎞緒はわずか十歳で立ち居振る舞いに儀があり、帝は大いに悦んだ。毎年、聖寿を賀しに入った。帝はその賜邸が狭いと聞いて大きな邸と換えてやった。南城の賞花、西苑の較射にもみな与った。
- 公恂は字を宗文という。景泰五年に㑹試に合格したが、母の病を聞いて廷対に赴かなかった。帝が礼部に問うてその事情を知り、使者を遣わして召したが、日は正午に近く答案用紙を用意する間もなかったので、翰林院に命じて筆と紙を給した。及第するとすぐ母の喪に遭って帰郷した。
- 天順の初め、禮科給事中を授かった。大學士の李賢が「公恂は至聖の後、賛善の司馬恂は宋の大賢温國公司馬光の後である。太子を輔導させるべきだ」と言い、同日に少詹事に超えて拝せられ、東宮の講読に侍した。李賢は入って孝肅皇后に「私は今日、聖賢の子孫を得てあなたの子の傅としました」と語った。孝肅皇后とは憲宗の生母で、当時は皇貴妃として寵を受けていた。そこで官服を整えて拝謝し、宮中では盛事として語り伝えられた。
- 成化の初め、言事によって漢陽知府に左遷されたが、着任前に父の喪に遭った。喪明けに旧の秩に還り、南京詹事府に臨んだ。久しくして卒した。
孔𢎞㤗と孔聞韶
- 𢎞緒は年若くして貴く、また妻の父である大學士李賢を恃んで行き過ぎが多かった。成化五年、弾劾されて取り調べを受け、爵を奪われて庶人とされ、その弟の𢎞㤗に襲がせた。𢎞㤗が歿すると爵はやはり𢎞緒の子に戻った。
- 𢎞㤗は字を以和という。爵を嗣いだのち、𢎞治十一年、山東の按察の臣が「𢎞緒は善に遷り行いを改めた」と言上し、冠帯を復すことが命じられた。翌年六月、聖殿が火災に遭ったとき𢎞㤗はちょうど朝廷にいたので、𢎞緒が子弟を率いて駆けつけて救い、素服で廟に哭して百日間粗食した。𢎞㤗も帰ってから居喪と同じように斎して哭した。𢎞㤗は生後七か月で父を失い、母に孝を尽くし、𢎞緒と友愛して不和の言葉がなかった。𢎞治十六年に卒した。
- 𢎞緒の子の聞韶が襲いだ。字は知徳。翌年、新しい廟が建って規模は旧に勝り、大學士の李東陽を遣わして祭告させ、御製の碑文を石に刻ませた。
- 正徳三年、尼山・洙泗の二書院および鄒縣の子思子廟にそれぞれ祀事があるので、弟の聞禮にこれを主どらせることを奏請した。帝は聞禮に五經博士を授けて子思子の祀事を主どらせた。以後、代々衍聖公の弟がこれに当たった。両書院にはそれぞれ學録一人を置き、一族の賢者を推薦して充てた。
- 正徳六年、山東に盗賊が起こり、聞韶は巡撫の趙璜とともに闕里に城を築き曲阜県の治所を遷して廟を守ることを請うたが、実行されなかった。嘉靖二十五年、聞韶は卒した。
孔貞幹・孔尚賢・孔蔭植
- 子の貞幹が襲いだ。字は用濟。嘉靖三十五年に入朝して卒した。
- 子の尚賢が襲いだ。字は象之。巡撫の丁以忠が、尚賢は年少であるから𢎞㤗の例に倣って國學で学業に就かせるべきだと言い、そのとおりになった。萬厯九年、庶母の郭氏が尚賢を訴えたので、帝はそのために供奉の女樂二十六戸を廃し、三年に一度朝せよと命じた。十七年、尚賢はやはり毎年入って賀することを請い、許された。尚賢は博識であった。天啓元年に卒した。
- 子の蔭檜は先に卒して嗣がなく、従弟の子の蔭植が襲いだ。字は対寰。祖父の貞寜は衍聖公貞幹の弟で五經博士に仕えた。父の尚坦は國學生で衍聖公を追封された。蔭植は先に博士となっていたが、尚賢が子を失ったのでその嗣として育てられた。天啓四年、覃恩によって太子太保を加えられ、崇禎元年に太子太傅を加えられた。
孔彦繩――孔氏南宗
- 孔彦繩は字を朝武といい、衢州西安の人、先聖五十九代の孫である。宋の建炎年間、衍聖公の端友が南渡に扈従したので衢州に家を構えた。髙宗は州学を家廟とするよう命じ、田五頃を賜わって祭祀に充てさせた。五代伝わって洙に至り、元の至元年間に曲阜に帰って襲封するよう命じられたが、洙は爵を曲阜にいる弟に譲った。
- 𢎞治十八年、衢州知府の沈杰が奏して言った。衢州の聖廟は孔洙が爵を譲って以来、衣冠も礼儀も庶民と変わらない。いま洙の六世孫の彦繩を尋ね当てたので、官を授けて祀事を主どらせることを請う、と。また、その先代からの祭田は洪武の初めには軽い率で課税されていたが、のちに重税に改められたので、祀費に充てるためもとの軽い率に戻すことを請うた。帝は許可した。
- 正徳元年、彦繩に翰林院五經博士を授けて子孫の世襲とし、あわせてその祭田の税を減じた。彦繩が卒すると、子の承美(字は永實)が正徳十四年に襲ぎ、卒した。子の𢎞章(字は以達)が嘉靖二十六年に襲ぎ、卒した。子の聞音(字は知政)が萬厯五年に襲ぎ、卒した。子の貞運(字は用行)が萬厯四十三年に襲いだ。
- このころ、曲阜にいる者を孔氏の北宗、西安にいる者を南宗と呼んだ。
顔希惠――顔子の後裔
- 顔希惠は復聖(顔回)五十九代の孫である。洪武の初め、顔子五十七代孫の池を宣徳府學教授とし、十五年に三氏學教授に改めて祀事に奉らせた。
- 池は字を徳裕という。子の拳は字を克膺という。拳の子の希仁は字を士元という。
- 景泰三年、顔・孟の子孫のうち年長で賢明な者を各一人ずつ京に至らせて官に就けるよう詔した。その年、希仁は巡按御史の顧□(底本欠字)に弾劾され、詔して希仁を退け、希惠を召して翰林院五經博士とした。まもなく、希惠は嫡子でないとして、やはり希仁の長子の議をこれに充てることが議された。
- 議は字を定伯という。成化元年、京師に邸を賜わり、入覲には駅伝を馳せることを常例とした。議が卒して子の鋐(字は宗器)が成化十八年に襲ぎ、卒した。子の重徳(字は尚本)が正徳二年に襲ぎ、卒した。子の從祖(字は守嗣)が襲ぎ、卒して子がなかった。嘉靖四十一年、從祖の従父である重禮の長子の肇先を嗣とした。肇先は字を啟源という。卒して子の嗣慎(字は用修)が襲ぎ、卒した。長子の尹宗は先に卒し、次子の尹祚(字は永錫)が萬厯年間に襲いだ。
- 尹祚は博学で義を好み、尹宗の子の伯貞が成長すると、その職を譲った。伯貞は字を叔節といい、萬厯二十七年に襲ぎ、卒した。子は幼く、弟の伯亷(字は叔清)が三十四年に襲ぎ、卒した。子の紹緒が崇禎十四年に襲いだ。
曾質粹――曾子の後裔
- 曾質粹は字を好古といい、吉安永豐の人、宗聖(曾參)五十九代の孫である。その先祖の都鄉侯據が新莽の乱を避けて豫章に家を移し、子孫は撫州・吉安の諸郡に散り住んだ。
- 成化の初め、山東の守臣が上言した。嘉祥縣の南武山の西南、元寨山の東の麓で、漁をする者が穴に落ち、吊るされた棺と「曾參之墓」と刻んだ碣を見つけた、と。詔して修築を加えた。正徳年間、山東僉事の錢鋐が曾子の後裔一人を嘉祥の山中に訪ね当てたが、まもなく歿した。
- 嘉靖十二年、學士顧鼎臣の言により嫡系の嗣を求める詔が出て、江西の巡撫・巡按が質粹の名を上聞した。嘉祥に戻って衣巾の身のまま祀に奉るよう命じられ、十八年に翰林院五經博士を授かって子孫の世襲とされた。三十九年に卒した。
- 子の昊は襲がぬうちに卒した。昊の子の繼祖(字は繩之)は若くして目を病み、江西の族人の衮がその職を奪おうと謀ったが、給事中の劉不息・御史の劉光國に糾弾され、衮は罷官となり、繼祖がそのまま祀事を主どった。卒して子の承業(字は洪光)が萬厯五年に襲ぎ、卒した。子の𢎞毅(字は㤗東)が崇禎元年に襲ぎ、卒した。子の聞逹(字は象輿)が崇禎十四年に襲いだ。
孔聞禮――述聖(子思)の祀
- 孔聞禮は字を知節といい、衍聖公聞韶の弟である。正徳二年、詔して翰林院五經博士を授かり、述聖(子思)の祀事に奉った。以後、代々衍聖公の弟がこれに当たった。
- 聞禮が卒して嘉靖二十五年に貞寜(字は用致)が襲ぎ、卒した。萬厯二十二年に蔭桂が襲ぎ、卒した。天啓二年に蔭隆が襲ぎ、卒した。天啓八年に尚達が襲ぎ、卒した。崇禎十年に蔭相が襲ぎ、卒した。十四年に蔭錫が襲ぎ、卒した。十六年に蔭鈺が襲いだ。
孟希文――孟子の後裔
- 孟希文は字を士煥といい、亞聖(孟子)五十六代の孫である。洪武元年、孟子五十四代孫の思諒に祀事を奉らせ、代々その家の徭役を免ずるよう詔した。思諒は字を友道という。子の克仁は字を信夫という。克仁の子が希文である。
- 景泰三年、希文に翰林院五經𫝊士を授けて子孫の世襲とした。卒して子の元(字は長伯)が𢎞治二年に襲ぎ、卒した。子の公棨は幼かったので、嘉靖二年に元の弟の亨の子である公肇が襲いだ。公肇は字を先文といい、若くして学を好み、継母の孔氏に事えて孝行で聞こえた。卒して嘉靖十二年、あらためて公棨が襲いだ。公棨は字を槖文といい、卒した。子の彦璞(字は朝璽)が隆慶元年に襲ぎ、卒した。子の承光が萬厯二十九年に襲ぎ、卒した。子の𢎞譽が天啓三年に襲ぎ、卒した。子の聞玉が崇禎二年に襲いだ。
仲于陛――仲子の後裔
- 仲于陛は先賢仲子(子路)六十二代の孫である。萬厯十五年、仲子五十九代孫の吕に祀を奉らせるよう詔した。吕の子が銓、銓の子が則顯、則顯の子が于陛である。
- 崇禎十六年、衍聖公孔蔭植の言により、詔して于陛に翰林院五經博士を授けて子孫の世襲とし、泗水縣・濟寜州の田六十余頃と廟戸三十一を賜わってその祭祀に充てさせた。
周冕――周敦頤の後裔
- 周冕は先賢元公周子(周敦頤)十二代の孫である。その先は道州の人。熙寜年間、周子が母を江州に葬ったので、子孫はそのまま廬山蓮花峯の下に家を構えた。
- 景泰七年、冕に翰林院五經博士を授けて子孫の世襲とし、郷里に還って周子の祀事に奉らせた。卒して子の繡麟が襲ぎ、卒した。子の道が襲ぎ、卒した。子の聨芳が襲ぎ、卒した。子の濟が襲ぎ、卒した。従弟の汝忠が襲ぎ、卒した。子の蓮應が襲いだ。
程接道――程子の後裔(江寜)
- 程接道は先賢正公程子(程頤)の後である。宋の淳熙年間、純公程子(程顥)の五世孫で江寜に住む者があり、金陵書院の祀事を主どったが、卒すると名のある年少の学者がこれを承けた。明の初めに伝統は絶えた。
- 崇禎三年、河南巡按の李日宣が正公の後裔をその嗣とすることを請い、詔して許され、接道を翰林院五經博士として子孫の世襲とした。十四年、土賊の于大忠が乱を起こし、接道は力を尽くして拒み、そのために死んだ。
程克仁――程子の後裔(嵩縣)
- 程克仁は先賢正公程子十七代の孫である。代々嵩縣の六渾に住んだ。景泰六年、翰林院五經博士を授かって子孫の世襲とし、程子の祀事に奉った。
- 卒して子の繼祖が襲ぎ、卒した。次子の世宥が襲ぎ、卒した。子の心傅が襲いだ。心傳は荘重で口数が少なく、郷党に称された。卒して弟の宗益が襲ぎ、卒した。甥の佳引が襲ぎ、卒した。従弟の佳祚が襲いだ。崇禎十四年、土賊の于大忠に殺された。
張文運――張載の後裔
- 張文運は郿の人、先賢明公張子(張載)十四代の孫である。天啓二年、翰林院五經博士を授かって子孫の世襲とし、張子の祀事に奉った。崇禎三年に卒した。
- 子の承引は父の喪のため襲がなかった。崇禎六年、子の元祥。
- 本朝(清)の康熙元年に襲いだ。
邵繼祖――邵雍の後裔
- 邵繼祖は洛陽の人、先賢康節公邵子(邵雍)二十七代の孫である。崇禎三年、河南巡按の吳甡が、繼祖を翰林院五經博士として子孫の世襲とし邵子の祀事に奉らせることを請い、詔して従われた。卒して子の養醇が襲いだ。
朱梴――朱子の後裔(建安)
- 朱梴は字を孟齡といい、先賢文公朱子九世の孫である。代々福建建安縣の紫霞洲に住んだ。景泰六年、翰林院五經博士を授かって子孫の世襲とし、朱子の祀事に奉った。
- 梴は人となりが淳朴謹厳で、言動に法度があった。卒して子の燉(字は孔暉)が襲いだ。燉は用事があって都に入る途中で盗に遭った。まもなく道に金を落とした者があったが、燉はそれを守って持ち主に返した。人はその廉潔と節操を称えた。
- 卒して子の壆(字は元厚)が襲ぎ、卒した。子の鎏が襲ぎ、卒した。子の法(字は兆祖)が襲いだ。法は人となり孝友であった。卒して子の楗(字は士啓)が襲ぎ、卒した。子の瑩(字は惟玉)が襲ぎ、卒した。子の之儁(字は喬之)が襲いだ。
朱墅――朱子の後裔(婺源)
- 朱墅は先賢文公朱子十一世の孫である。正徳年間、給事中の戴銑・汪元錫、御史の王完らが相次いで言上した。朱子は孔子を継ぐ者である。孔子の後には曲阜と西安があり、朱子の後にも建安と婺源がある。いま建安への恩典はすでに手厚いのだから、婺源にいる者についても闕里の例に依ってその子孫一人を採録し、程度に応じて官を授けて祠の事を掌らせるべきだ、と。詔して許された。
- 嘉靖二年、墅に翰林院五經博士を授け、三十八年、本学訓導の席端の言によってこれを世襲とさせた。墅が卒して子の鎬が襲ぎ、卒した。子の徳洪が襲ぎ、卒した。子の邦相が襲ぎ、卒した。子の煜が襲ぎ、卒した。子の坤が襲いだ。