明史卷二百八十三 列傳第一百七十一 儒林二
篇首の立伝者一覧
- 陳獻章(李承箕・張詡)
- 婁諒(夏尚樸)
- 賀欽
- 陳茂烈
- 湛若水(蔣信ら)
- 鄒守益(子の善ら)
- 錢徳洪(徐愛ら)
- 王畿(王艮ら)
- 歐陽徳(族人の瑜)
- 羅洪先(程文徳)
- 呉悌(子の仁度)
- 何廷仁(劉邦采・魏良政ら)
- 王時槐
- 許孚逺
- 尤時熙(張後覺ら)
- 鄧以讃(張元忭)
- 孟化鯉(孟秋)
- 來知徳
- 鄧元錫(劉元卿・章潢)
陳獻章――出自と修学
- 陳獻章は字を公甫といい、新㑹の人。正統十二年(1447年)の鄉試に合格したが、再度礼部の試験に上って及第しなかった。
- 呉與弼のもとで半年ほど講学を受けて帰り、以後は昼夜を分かたず読書して怠らず、陽春臺を築いてその中で数年間静坐し、戸外に足跡を残さなかった。
- ふたたび太學に遊んだとき、祭酒の邢讓が楊時の「此日不再得」に和する詩を課したところ、その一篇に驚いて「龜山(楊時)も及ばぬ」と評し、朝廷に向かって真儒がふたたび世に出たと言いふらしたので、名は京師に鳴り響いた。
- 給事中の賀欽はその議論を聞くとその日のうちに抗疏して官を解き、弟子の礼をとって獻章に事えた。
陳獻章――召命と辞退
- 獻章が郷里に帰ると四方の学者が日ごとに集まった。廣東布政使の彭韶と總督の朱英がともに推薦し、召されて京に至り吏部の試験を受けよと命じられたが、しばしば病と称して赴かず、疏を上げて終養を乞い、翰林院檢討を授かって帰郷した。
- 南安に至ったとき、知府の張弼が、官を拝した点が師の呉與弼と異なるのを疑った。獻章は答えて言った。呉先生は布衣の身で石亨に推薦されたので職を受けず秘書閣の書を閲覧することを求め、それによって主上を開悟させようと期したのに、時の宰相はそれを解さず、まず職を受けさせてから書を見せようとした。先生の意にまったく背いたので去る決意をされた。自分は聴選を受けた國子生にすぎず、偽りの言葉で虚名を釣ることなどできない、と。
- これ以後もしばしば推薦されたが、ついに起たなかった。
陳獻章――学風と晩年
- その学は静を主とし、学ぶ者にはただ端坐して心を澄ませ、静の中から端倪を養い出させるだけであった。著述を勧める者があっても答えなかった。
- 自ら次のように語っている。二十七歳で初めて呉聘君(與弼)に学び、古の聖賢の書は講じないものがなかったが入り口がつかめなかった。帰って白沙に居り、もっぱら力の用いどころを求めたがやはり得るところがなかった。そこで繁を捨てて約に就き、久しく静坐したのちに吾が心の本体が隠然と現れるのを見た。日常の応対も思うままで、馬が勒を外したようであった、と。
- その学は洒然として独得のもので、論者は鳶飛魚躍の楽しみがあると言い、蘭谿の姜麟に至っては「生きた孟子だ」と評した。
- 容貌は堂々として背が高く、右の頬に七つの黒子があった。母は二十四歳で節を守り、獻章はきわめて孝を尽くして事え、母が何か思うことがあると心が動いてすぐに帰宅した。
- 𢎞治十三年(1500年)に卒し、年七十三。萬厯の初めに孔廟に従祀され、文恭と追諡された。
李承箕――陳獻章門人
- 門人の李承箕は字を世卿といい、嘉魚の人。成化二十二年(1486年)の鄉試に合格し、獻章のもとへ赴いて師事した。
- 獻章は日々ともに山水に登り、投壺し詩を賦し、古今の事を縦横に論じたが、道について一言も口にしなかった。久しくして承箕は悟るところがあり、辞して帰り、黄公山に隠居して二度と仕えなかった。
- 兄で進士の承芳とともに学を好み、「嘉魚の二李」と称された。卒したとき年五十四。
張詡――陳獻章門人
- 張詡は字を廷實といい、南海の人。やはり獻章に師事した。成化二十年(1484年)の進士で、戸部主事を授かったがまもなく喪に服し、その後しばしば推薦されても起たなかった。
- 正徳年間に召されて南京通政司㕘議となったが、一度孝陵に謁しただけで帰郷を願い出た。
- 獻章はその学を、自然を宗とし、己を忘れることを大とし、無欲を至上とするもの、と評した。卒したとき年六十。
婁諒――出自と師事
- 婁諒は字を克貞といい、上饒の人。若くして絶学に志した。呉與弼が臨川にいると聞いて赴き従った。
- ある日、與弼が土を耕しながら諒を呼んで見せ、「学ぶ者は細かな務めに自ら当たらねばならぬ」と言った。諒はもともと豪邁な性質だったが、これによって節を折り、掃除の類まで必ず自分の手で行うようになった。
- 景泰四年(1453年)に鄉試に合格し、天順の末に成都訓導に選ばれたが、まもなく辞して帰り、門を閉ざして著述した。
婁諒――著述と学風
- 日録四十卷、三禮訂訛四十卷を著した。周禮はすべて天子の礼なので國禮とし、儀禮はすべて公卿・大夫・士・庶人の礼なので家禮とし、禮記を二経の伝として各篇に分けて附す(冠禮に冠義を附す類)。各篇に附せないものは各経の後に附し、一経に附せないものは二経の後にまとめて附す。諸儒の付会にすぎない箇所は程子の論によって退けた。
- 春秋本意十二篇を著し、三傳の記す事実を採らなかった。是非は三傳を待って初めて明らかになるというなら、春秋は捨てられた書だということになる、というのである。
- その学は放心を収めることを居敬の入り口とし、何思何慮・勿忘勿助を居敬の要旨とした。当時、胡居仁はしきりに陸子(陸九淵)に近いと譏り、後に羅欽順も禪學に似ていると評した。
- 子の忱は字を誠善といい、父の学を伝えた。娘は寜王宸濠の妃となり賢婦の評判があり、王に反乱を起こさぬよう勧めたが聞き入れられず、王はついに反した。諒の子孫はみな捕らえられ繋がれ、遺文も散逸してしまった。
夏尚樸――婁諒門人
- 門人の夏尚樸は字を敦夫といい、廣信永豐の人。正徳の初め、㑹試のために京に赴いたが、劉瑾が政を乱しているのを見て、時勢がこのようであるのになお仕官を求めてよいものかと慨嘆し、試験を受けずに帰った。
- 正徳六年(1511年)に進士となり、南京禮部主事を授かった。飢饉の年には救荒の数事を条上した。二度移って恵州知府となったが、自ら弾劾を願い出て帰郷した。
- 嘉靖の初めに山東提學副使として起用され、南京太僕少卿に昇った。魏校・湛若水らと日々講習した。言官が大學士桂萼を弾劾した際、その言葉が尚樸にも及んだが、吏部尚書の方獻夫がその私心のないことを明らかにした。まもなく病と称して帰郷した。
- 早くに諒に師事して主敬の学を伝えられ、常々「わずかでも提起すればそれが天理、わずかでも放下すればそれが人欲だ」と言った。魏校はしきりにこれを称賛した。著書に中庸語・東巖文集がある。
- 王守仁も若いころ諒に受業したことがある。
賀欽――出自と師事
- 賀欽は字を克恭といい、義州衞の人。若くして学を好み、近思錄を読んで悟るところがあった。成化二年(1466年)に進士として户科給事中を授かり、その後陳獻章に師事した。郷里に帰ってからはその肖像を描いて事えた。
- 𢎞治の改元にあたり閣臣の推薦で陕西㕘議に起用されたが、辞令が届く前に母が死んだ。そこで疏を上げて懇ろに辞退し、あわせて四事を陳べた。
賀欽――四事の上疏
- 第一。今日の急務として経筵に先んずるものはない。広く真儒を訪ね求めて君徳の啓発の資とすべきである。
- 第二。檢討の陳獻章は学術が醇正で大賢と称されている。異例の礼をもって招き、大政に参与させるか経筵を任せるかして君徳を養わせるべきである。
- 第三。内官の職掌は祖訓に載っており、掃除や門戸の開閉に備えるにすぎない。近年、王振・曹吉祥・汪直らは、あるいは機密に参預して政令に干渉し、権を招き寵を得て功を求め争いを起こし、あるいは左道を引き入れ淫らな細工物を献じて上の心を蕩かし、国を誤り民に災いした。これほどの害はない。今後は、内は政事に干預させず、外は地方を鎮守させず兵権を握らせぬよう、慎重に戒めるべきである。
- 第四。礼楽を興して天下を教化すべきである。陛下は即位の初めに朱子の喪葬の礼を行われたが、頽廃した習俗は依然として改まらない。正しい礼を明示し、教坊の俗楽を廃して教化を広めていただきたい。
- 疏はおよそ数万言に及んだ。奏上されたが「報聞」とされただけであった。
賀欽――義州の民変と学風
- 正徳四年(1509年)、劉瑾が遼東の田地を括ったので東方の人々は震え上がり、その上、義州の守将が貪欲横暴だったため民変が起こり、群衆が集まって略奪した。しかし彼らは互いに「賀黄門(給事中の賀欽)を驚かせるな」と戒め合った。欽はこれを聞くと急ぎ禍福を諭し、自ら身をもって責任を引き受けたので、乱はそのまま鎮まった。
- その学は博く渉ることを務めず、四書・六經・小學だけを専ら読んで、自らに引きつけて実践することを期した。学問は高遠なところに求める必要はなく、敬を主として放心を収めるだけだ、と言った。
- 卒したとき年七十四。天啟の初めに恭定と追諡された。
- 子の士諮は鄉貢士。かつて十二事を陳べて王政を論じたが取り上げられず、終身仕えなかった。
陳茂烈――出自と師事
- 陳茂烈は字を時周といい、莆田の人。十八歳で省克錄を作り、顔回の克己と曾子の日々の反省こそ学の方法だとした。
- 𢎞治八年(1495年)に進士となった。広東への使いを命じられた際に陳獻章の門で受業し、獻章は主静の学を授けた。退いて張詡と論難し、静思錄を作った。
- まもなく吉安府推官を授かった。勤務評定のために淮を通ったとき、寒いのに綿入れがなく凍死しかけた。
陳茂烈――清貧と孝養
- 入って監察御史となったが、袍服は粗末で痩せ馬一頭に乗り、人々は見て敬った。
- 母が老いたので終養を願い出た。母に供する分のほかは帳一つ設けず、畑を耕し水を汲むまで自分の手で行った。太守がその労苦を聞いて兵卒二人を差し向けて助けさせたが、三日で帰した。吏部はその貧しさを見て晉江教諭の禄を与えようとしたが受けず、さらに月々の米を給することを奏したときには、上書して次のように述べた。
- 臣はもとより貧しく食も倹しいから、母は臣の家で安んじていられ、臣もまた自らの貧を逃れずにいられる。人に及ぶほどの廉潔や孝を尽くしたということではない。古人が雇われ働き米を背負って運んだのはみな親のためである。臣の貧しさはまだそこまで至っていない。母は臣を苦労して育て、今年八十六、余命は多くない。臣は自ら心力を尽くしたいがなお足りぬことを恐れている。官の帑を煩わすのは心に安んじられない。
- 奏上は許されなかった。母が卒し、茂烈もまた卒した。
- 茂烈が諸生であったころ、韓文が林俊に莆田の人物を尋ねると「從吾(彭時)」と答え、さらに問うと「時周」と答え、「時周と語れば長患いも一度に去る」と言った。人に重んじられることこれほどであった。
湛若水――出自と登第
- 湛若水は字を元明といい、増城の人。𢎞治五年(1492年)に鄉試に合格したが陳獻章に従って遊び、仕進を楽しまなかった。母に命じられて出て、南京國子監に入った。
- 𢎞治十八年(1505年)の㑹試で、學士の張元禎・楊廷和が考官となり、その答案を撫でて「白沙(陳獻章)の徒でなければこれは書けぬ」と言い、第二に置いた。進士を賜り庶吉士に選ばれ、翰林院編修を授かった。
- そのころ王守仁が吏部にあって講学しており、若水と互いに応和した。まもなく母の喪に服し、三年間廬墓した。西譙講舎を築き、学びに来る士子にはまず礼を習わせてから講義を聴かせた。
湛若水――嘉靖朝の上疏
- 嘉靖の初めに入朝し、経筵で講学することを求める疏を上げ、聖学は求仁を要とすると論じた。
- ついで上疏して、陛下の初政は次第に終わりを全うできなくなっており、左右の近侍が争って声色や異教で上の心を蠱惑し、大臣の林俊・孫交らが法を守れずに多く自ら退いていくのは寒心すべきことだ、と述べ、速やかに賢を親しみ奸を遠ざけ、窮理講学して太平の業を隆んにするよう請うた。また日講を停止すべきでないと疏したが、報聞とされた。
- 翌年、侍讀に進んだ。さらに上疏して、この一、二年のあいだ天変・地震・山崩れ・川の氾濫・飢えて人が食い合う事態が空白の月もないほど続いている、聖人は困難な時だからといって賢を親しむ教えを後回しにせず、名医は深く固まった病だからといって元気を補う薬を廃さない、広く先王の道を修め明らかにする者を求めて日々文華殿に侍らせ聖学を助けさせるべきだ、と述べた。
- ついで南京國子監祭酒に移り、心性圖説を作って士を教えた。禮部侍郎を拝し、大學衍義補にならって格物通を作り朝廷に上った。南京の吏部・禮部・兵部の三部尚書を歴任した。南京の風俗が奢侈に流れていたので喪葬の制を定めて頒行した。老いて致仕を願い出て、九十五歳で卒した。
湛若水――学派と門人
- 若水は生涯、行く先々で必ず書院を建てて獻章を祀った。九十歳でなお南京に遊んだ。江西の安福を通ったとき、守仁の弟子である鄒守益が同志を戒めて「甘泉先生が来られる。我らは老を敬って教えを乞うにとどめ、軽々しく論弁を挑んではならぬ」と言った。
- 若水は初め守仁とともに講学したが、後にそれぞれ宗旨を立てた。守仁は致良知を宗とし、若水は随処に天理を体験することを宗とした。守仁は若水の学を外に求めるものだと言い、若水も守仁の格物の説には信じられない点が四つあると言った。また「陽明と自分とでは心の語の意味が違う。陽明のいう心は方寸を指し、自分のいう心は万物を体して残さぬものだ。だから自分の説を外とするのだ」と言った。一時の学者はここに王・湛の学に分かれた。
- 湛氏の門人で最も著名なのは、永豐の李懐、徳安の何遷、婺源の洪垣、歸安の唐樞である。懐は気質の変化を説き、遷は知止を説き、樞は真心を求めることを説き、おおむね王・湛両家のあいだに出入りしつつ別に一義を立てた。垣は両家を調停してその失を互いに救うことを主とした。いずれも師説を守りきったわけではない。
- 懐は字を汝徳といい南京太僕少卿、遷は字を益之といい南京刑部侍郎、垣は字を峻之といい温州府知府。樞は刑部主事で、李福達の事件を論ずる疏を上げて罷免され帰郷した。別に伝がある。
蔣信――湛若水門人
- 蔣信は字を卿實といい、常徳の人。十四歳で喪に居り痩せ衰えるほど哀しんだ。同郡の冀元亨と親しく、王守仁が龍場に流されてその地を通ったとき、元亨とともに事えた。
- 嘉靖の初めに貢生として京師に入り、あらためて湛若水に師事した。若水が南京祭酒であったとき、門下の士は多く分かれて教授にあたった。
- 嘉靖十一年(1532年)に進士となり、累進して四川水利僉事。播州の土官の賄賂を退け、妖言の道士を法に照らして処断した。貴州提學副使に移り、書院を二つ建てて多くの優秀な士を養った。龍場にはもとから守仁の祠があったので祠田を置いた。職を無断で離れたとして除名された。
- 信は初め守仁に従って遊んだ時にはまだ良知の教えはなかった。後に若水に従うことが最も久しく、学は湛氏に得たところが多い。実践に篤実で空論を事とせず、湖南の学者はその教えを宗として正學先生と称した。卒したとき年七十九。
- 当時、宜興の周衝は字を道通といい、やはり王・湛の門に遊んだ。舉人から髙安訓導を授かり、唐府紀善に至った。かつて「湛の天理体認は、すなわち王の致良知だ」と言った。信とともに師説を集めて新泉問辨錄を作った。両家の門人は互いに嘲り合ったが、衝はその趣旨を疏通した。
鄒守益――出自と登第
- 鄒守益は字を謙之といい、安福の人。父の賢は字を恢才といい、𢎞治九年(1496年)の進士で南京大理評事を授かり、しばしば条奏した。福建僉事を歴任し、武平の賊の首領である黄友勝を捕らえて殺した。家にあっては孝友と称された。
- 守益は正徳六年(1511年)の㑹試に第一で合格し、王守仁の門に出て、廷対では第三人となり翰林院編修を授かった。一年余りで帰郷を願い出て、贛州に守仁を訪ねて講学した。宸濠が反すると守仁の軍事に参与した。世宗が即位して初めて官に赴いた。
鄒守益――大礼の議と抗疏
- 嘉靖三年二月(1524年)、帝が興獻帝の本生の称を除こうとしたとき、守益は諫める疏を上げて旨に忤い譴責された。
- 一月余りしてふたたび上疏して述べた。陛下は本生の恩を隆んにしようとしてしばしば群臣に会議させたが、群臣が礼に拠って正論を述べると詰責を蒙り、道路には「孝長子」の称が伝わっている。昔、曾元は父の病篤いのに簀を取り替えるのをためらった。愛の極みだが曾子は姑息だと責めた。魯公は天子の礼楽を受けて周公を祀った。尊崇の極みだが孔子は「周公は衰えたか」と傷んだ。陛下が姑息な仕方で獻帝に事え、後世に「その衰えたる」の嘆きを残されぬよう願う。
- そもそも群臣が経を援き古を説いて陛下に正統に専念させようとするのは、みな陛下のための忠実な謀りごとである。それを察せずに咎め、忤い慢るとされる。前史を見渡せば、冷褒・段猶の徒は当時いわゆる忠愛の臣だったが後世は邪媚として斥け、師丹・司馬光の徒は当時いわゆる欺慢とされたが後世は正直として仰いでいる。後世が今を見るのは、今が古を見るのと同じである。
- どうか過ちを改めることを惜しまず、群臣の忠愛を察して信任し、国を去った者を召し戻し、奸人に国是を動揺させ宮闈を離間させぬようにしていただきたい。昔、先帝の南巡に群臣が次々に諫め止め、先帝は赫然と激怒された。欺慢は罪すべきだと言わないでいられようか。陛下は藩邸にあってこれを聞き、必ず先帝に忠を尽くしたものと思われたはずである。今、大統を継いで、独り群臣が陛下に忠を尽くすことをお許しにならないのか。
- 帝は大いに怒り、詔獄に下して拷問し、廣徳州判官に左遷した。
鄒守益――左遷後の歴任
- 守益は淫祠を廃し復初書院を建てて学者に講授した。やや昇って南京禮部郎中となり、州の人々は生祠を立てて祀った。
- 守仁の卒去を聞くと位牌を設けて哭し、心喪に服した。日々、吕柟・湛若水・錢徳洪・王畿・薛侃らと学を論じた。任期満了で都に入るとすぐ病と称して帰郷した。
- 久しくして推薦により南京禮部郎中に起用され、召されて司經局洗馬となった。守益は太子が幼くてまだ出閣できないことから、霍韜とともに聖功圖を上った。神堯(堯)の茅葺きの屋根と土の階から、帝が西苑で耕作養蚕を行うところまで、全部で十三図。帝はこれを誹謗だとし、あやうく罪を得るところだったが、韜が帝の知遇を受けていたおかげで解けた。
- 翌年、太常少卿兼侍讀學士に遷り、出て南京翰林院を掌った。夏言が遠ざけようとしたためである。御史の毛愷が東宮に留めて侍らせるよう請うたが左遷された。まもなく南京祭酒に改まった。
- 九廟が火災に遭ったとき、守益は上下がともに修める道を陳べ、殷の中宗・高宗は妖を転じて祥とし国を長く享けたと述べた。帝は大いに怒り、職を落とされて帰郷した。
鄒守益――人物と没後
- 天性は純粋で、守仁はかつて「有りて無きが如く、実ちて虚しきが如く、犯されても校べぬ、謙之はそれに近い」と言った。
- 郷里にあっては日々講学を事とし、四方の従遊者が続々と至った。学者は東廓先生と称した。家に居ること二十年余りで卒した。隆慶の初めに南京禮部右侍郎を贈られ、文莊と諡された。
穆孔暉――王守仁門下
- これに先立ち、守仁が山東の試験を主宰したとき、堂邑の穆孔暉が第一であった。後に侍講學士に至って卒し、禮部右侍郎を贈られ文簡と諡された。
- 孔暉は端雅で学を好み、初めは守仁の説を宗とすることを肯んじなかったが、久しくして篤く信じ、自ら王氏の学と名のった。次第に釈氏の説に浸っていった。守益のほうは戒懼慎獨に一意専心であった。
鄒善とその子孫
- 子の善は嘉靖三十五年(1556年)の進士。刑部員外郎として湖廣の恤刑にあたり、罪を憐れんで釈放した者がきわめて多かった。山東提學僉事に抜擢され、しばしば諸生と講学した。萬厯の初めに累進して廣東右布政使となり、病と称して帰郷した。久しくして推薦により在家のまま太常寺の官を授けられて致仕した。
- 子は徳涵・徳溥。徳涵は字を汝海といい、隆慶五年(1571年)の進士。刑部員外郎を歴任した。張居正が講学を禁じたが、徳涵は平然とこれを守った。御史の傅應禎・劉臺が相次いで居正を論じたが、いずれも徳涵と同郷だったため一党と疑われ、出て河南僉事となった。御史が居正の意を承けて弾劾し、位を貶されて帰った。父の教えをよく身につけ実践に怠りなく、その家学と称された。ところが徳涵が耿定理に従って遊んだとき定理が答えなかったので、発憤して深く思いをめぐらし自得するところがあり、これより専ら悟りを宗とするようになり、祖父から伝わったものが一変した。
- 徳溥は萬厯十一年(1583年)の進士から司經局洗馬を歴任した。
- 善の甥の徳泳は萬厯十四年(1586年)の進士で御史となった。給事中の李獻可が太子の教育を早く始めるよう請うて庶民に落とされたとき、徳泳は同僚とともに救おうとしてやはり籍を削られた。家に居ること三十年、言う者が次々に推薦した。光宗が立つと尚寶少卿に起用され、太常卿を歴任した。魏忠賢が政を執ると休職を乞うて帰った。役所が忠賢のために祠を建てようとしたとき、徳泳がその募金の名簿を塗り潰して破ったのでやめになった。
錢徳洪――出自と師事
- 錢徳洪は名を寛、字を徳洪といい、後に字を通称とし、字を洪甫と改めた。餘姚の人。
- 王守仁が尚書から郷里に帰ると、徳洪は数十人とともに共に学んだ。四方の士が続々と至り、徳洪は王畿とともにまずその大旨を疏通してやってから、守仁のもとで学を卒えさせた。
- 嘉靖五年(1526年)に㑹試に合格したがそのまま帰った。七年の冬、畿とともに廷試に赴く途中で守仁の訃報を聞き、喪に駆けつけた。貴溪に至って喪服を議したとき、徳洪は「自分には親があるので麻衣布絰、それ以上は加えられぬ」と言い、畿は「自分には親がない」と言って斬衰に服した。喪から帰ると徳洪と畿は墓所に室を築いて心喪を終えた。
錢徳洪――郭勛の獄と罷免
- 嘉靖十一年(1532年)に初めて進士となり、累進して刑部郎中。郭勛が詔獄に下され刑部に移して罪を定めることになったとき、徳洪は獄詞に拠って死罪を論じた。廷臣は不軌の罪に当てようとして徳洪は刑名に習熟していないと言い、帝ももともと勛を死なせたくなかった。言官の疏によって徳洪は詔獄に下されたが、役所がその罪を上申したときには既に出獄していた。帝は「初めに朕は刑官に勛を械につなぐなと命じた。徳洪はことさらこれに背いた。勛が敕を受けなかったのと何が違うか」と言い、再び獄に下した。
- 御史の楊爵、都督の趙卿も繋がれており、徳洪は彼らと易を講じて怠らなかった。久しくして庶民に落とされた。
錢徳洪――講学と晩年
- 徳洪は罷免されてから四方を巡って良知の学を講じた。当時の士大夫はおおむね講学を高名の手段としたが、徳洪と畿は守仁の高弟として特に人々に宗とされた。
- 徳洪の徹悟は畿に及ばず、畿の持循は徳洪に及ばなかった。しかし畿はついに禅に入り、徳洪はなお儒者の規矩を失わなかった。
- 穆宗が立つと復官して朝列大夫に進階し致仕した。神宗が位を継ぐとさらに一階進んだ。卒したとき年七十九。学者は緒山先生と称した。
王守仁の初期の門人たち
- はじめ守仁が郷里で道を唱えると、近隣から従い学ぶ者がきわめて多く、徳洪と畿がその筆頭であった。最初に受業した者には、餘姚の徐愛、山隂の葉宗兖・朱節、および應良・盧可久・應典・董澐の類がいる。
- 徐愛は字を曰仁といい、守仁の妹の夫である。正徳三年(1508年)の進士で南京工部郎中に至った。良知の説は学者が初め多く信じなかったが、愛が疏通し弁析してその要旨を伸べた。守仁は「徐生の温恭、葉生の沈潜、朱生の□(底本欠字)敏は、いずれも自分の及ばぬところだ」と言った。愛は三十一歳で卒し、守仁は哭して悲しんだ。ある日、講義を終えて「どうすれば曰仁を九泉から起こしてこの言葉を聞かせられようか」と嘆じ、門人を率いてその墓所に行き酒を注いで告げた。
- 葉宗兖は字を希淵といい、正徳十二年(1517年)の進士で四川提學僉事に至った。
- 朱節は字を守中といい、正徳八年(1513年)の進士。御史となって山東を巡按した。大盗が顔神鎮に起こり十数の州県に広がったので、軍馬のあいだを駆け回り、その労で卒した。光祿少卿を贈られた。
- 應良は字を原忠といい、仙居の人。正徳六年(1511年)の進士で編修に官した。守仁が吏部にいたとき良は学んだ。親が老いたので帰って養い、山中で講学すること十年近くに及んだ。嘉靖の初めに任に還り、闕下に伏して大礼を争って廷杖された。張璁が翰林を退けて外官としたとき、良は山西副使を得た。病と称して帰り卒した。
- 盧可久は字を一松、程粹は字を養之といい、ともに永康の諸生で、同じ邑の應典とともにみな守仁に師事した。粹の子の正宜は順天應尹を歴任した。
- 應典は字を天彞といい、進士で兵部主事に官した。家にあって母を養い栄利を求めず、仕籍に入って三十年、在官はわずかに一考であった。
- 可久は東陽の杜惟熙に伝え、惟熙は同じ邑の陳時芳・陳正道に伝えた。維熙は克己を要とし、「学ぶ者が一息も昧まさなければ万古みな通じ、一刻でも緩めれば朝じゅう欠けたままだ」と言った。卒したとき年八十余。時芳は博覧多聞で実践に帰した。歳貢だが仕えなかった。正道は建安訓導となり、八十余歳でなお徒歩で五峰の講会に赴いた。その門人の吕一龍は永康の人で、言動が苟且でなく学者はみなこれを宗とした。
- 董澐は字を子夀といい、海寧の人。六十八歳で㑹稽に遊び、瓢と笠と詩巻を肩にして守仁に謁し、ついに弟子となることを請うた。子の榖は知縣に官し、やはり守仁に受業した。
王畿――出自と登第
- 王畿は字を汝中といい、山隂の人。二十歳で鄉試に合格し、放縦に振る舞って自ら喜んだ。後に王守仁に受業し、その言葉に滞りのないことを聞いて守仁は大いに喜んだ。
- 嘉靖五年(1526年)に進士となったが、錢徳洪とともに廷対に就かずに帰った。守仁が思田を征討するとき、畿と徳洪を留めて書院を主宰させた。まもなく守仁の喪に駆けつけて葬儀を取り仕切り、心喪三年を過ごした。久しくして徳洪とともに進士に及第した。
- 南京兵部主事を授かり郎中に進んだ。給事中の戚賢らが畿を推薦したが、夏言は畿を偽学だと斥け賢の職を奪った。畿は病と称して帰郷した。
王畿――学風と門流
- 畿はかつて「学は致知見性に尽きる。事に応じて小さな過ちがあっても累となるには足りぬ」と言った。それゆえ在官のとき請託を免れず、不謹慎を理由に斥けられた。
- 罷免されてからはますます講学に努め、足跡は東南に遍く及び、呉・楚・閩・越いずれにも講舎があった。八十余歳になってもやめなかった。談論に長け人を動かすことができ、行く先々で聴く者が雲のように集まった。講義のたびに禅機を交え、自らそれを隠さなかった。学者は龍谿先生と称した。その後、浮薄で不逞の士はおおむね自ら龍谿の弟子と名のった。
王艮――泰州の学
- 泰州の王艮もまた守仁に受業し、門徒の盛んなことは畿と肩を並べた。学者は心齋先生と称した。陽明学派は龍谿・心齋がその宗旨を得たとされる。
- 艮は字を汝止、初めの名は銀といい、王守仁が改名させた。七歳で郷塾に学んだが貧しくて学業を終えられなかった。父は竈丁で、冬の朝に寒さを冒して官の使役に出た。艮は哭して「人の子として父をこのような目に遭わせて人といえようか」と言い、外に出ては父の役に代わり、家では朝夕の挨拶を怠らなかった。
- 艮の読書は孝經・論語・大學にとどまったが、口をついて出る談論は道理に当たっていた。ある客が艮の言葉を聞いて「何と王中丞(守仁)の語に似ていることか」と驚いた。
- 艮はそこで江西に守仁を訪ねて謁し、久しく論弁したうえで大いに服し、拝して弟子となった。翌日、悔いたと告げて再び賓客の席に戻り平然としていたが、自ら心が折れてついに弟子と称した。
- 守仁に従って郷里に帰り、「わが師は絶えた学を明らかに唱えられたのに、なぜ風が広まらないのか」と嘆じた。家に還って小さな車を作って北上し、通る先々で人士を招き寄せて守仁の道を説いた。集まって見る者は千百を数えた。京師に着くと同門の者が驚いてその車を隠し、急いで帰らせた。守仁はこれを聞いて喜ばず、艮が訪ねても拒んで会わず、長く跪いて謝罪してようやく許された。
- 王氏の弟子は天下に遍くおり、おおむね爵位に居って勢いがあったが、艮は布衣の身でそのあいだに抗し、名声はかえって諸弟子の上に出た。しかし艮はもともと狂士で、しばしば師説を越えてその上を行き、持論はますます高遠になって釈老の二氏に出入りした。
- 艮は林春・徐樾に伝え、樾は顔鈞に伝え、鈞は羅汝芳・梁汝元に伝え、汝芳は楊起元・周汝登・蔡悉に伝えた。
徐樾・林春
- 徐樾は字を子直といい、貴溪の人。進士に挙げられ雲南左布政使を歴任した。沅江の土豪の首領那鑑が反いて偽って降伏したのを樾は信じ、その城下に至って死んだ。詔して光祿寺卿を贈り、祭葬を賜い、子一人に官を任じた。
- 林春は字を子仁といい、泰州の人。良知の学を聞き、日々朱と墨の筆で善悪を記して自ら省み、行動に規矩があって寸分も踰えなかった。嘉靖十一年(1532年)の㑹試第一で戸部主事を授かり吏部に移った。京師で講学する搢紳の士は数十人いたが、聡明で悟りが早く談論に長けた者としては王畿を推し、志行の篤実な者としては林春および羅洪先を推した。文選郎中に進み、在官のまま卒した。年四十四。その箱を開くと白金わずか四両しかなく、同僚が官の費用で納棺して喪を郷里に帰した。
羅汝芳とその門流
- 羅汝芳は字を維徳といい、南城の人。嘉靖三十二年(1553年)の進士。太湖知縣となり、諸生を召して学を論じ、公務の多くを講座の場で決した。刑部主事に遷り寧國知府を歴任した。民に兄弟で財産を争う者があったとき、汝芳が向かい合って泣くと民も泣いて訴えをやめた。開元会を創設し、罪囚にも聴講させた。
- 入覲した際に徐階に四方の計吏を集めて講学するよう勧め、階はついに靈濟宮で大会を開き、聴く者は数千人であった。父の喪に服し、喪明けに東昌に補せられ、雲南屯田副使に移り、參政に進んで永昌を分守した。事件に坐して言官に論じられ罷免された。
- 初め汝芳は永新の顔鈞に従って講学したが、後に鈞が南京の獄に繋がれ死罪に当たったとき、汝芳は獄中で洪養(供養の誤りか)し、財産を売って救い、減刑して戍に落とすことができた。汝芳が罷官してから鈞も赦されて帰り、汝芳はこれに事えて飲食は必ず自ら進めた。人々は難しいことだとした。鈞は奇矯で狂放、その学は釈氏に帰したので、汝芳の学もまた釈に近かった。
- 楊起元・周汝登はともに萬厯五年(1577年)の進士。起元は歸善の人で庶吉士に選ばれた。ちょうど汝芳が參政として賀に入ったので学んだ。張居正が講学を憎み汝芳は弾劾されて罷免されたが、起元は平然としていた。累進して吏部左侍郎。拾遺で弾劾されたが帝は問わなかった。まもなく卒した。天起(天啟の誤りか)の初めに文懿と追諡された。
- 汝登は嵊の人。初め南京工部主事として税を榷したが額に達せず兩淮鹽運判官に左遷され、累進して南京尚寶卿。起元は清らかに修めて節を美しくしたが、その学は禅を諱まなかった。汝登はさらに儒と釈を合わせて会通しようとし、聖學宗傳を編んで先儒の語類をことごとく採るなかに禅者を入れた。萬厯の世に士大夫で講学する者は多くこの類であった。
- 蔡悉は字を士備といい、合肥の人。嘉靖三十八年(1559年)の進士で常徳推官を授かり、郭外に六つの堤を築いて水害を免れさせた。南京吏部主事に抜擢され、累進して南京尚寶卿、國子監に移り署した。かつて東宮を立てることを請い、また鉱税の害を極論した。学行があって官途に淡泊で、仕えること五十年のうち大半は家で食べていた。清操亮節、淮西の人はこれを宗とした。
歐陽徳――出自と登第
- 歐陽徳は字を崇一といい、泰和の人。二十歳になったばかりで鄉試に合格し、贛州に赴いて王守仁に学び、㑹試には二度応じなかった。
- 嘉靖二年(1523年)の策問がひそかに守仁を誹謗していたが、徳は魏良弼らとともにそのまま師の教えを述べて阿るところがなく、ついに及第した。六安州の知州を授かり龍津書院を建てて生徒を集め学を論じた。入って刑部員外郎。
- 嘉靖六年、朝士のうち学行ある者を選んで翰林とせよとの詔があり、徳を編修に改めた。南京國子司業に遷り、講亭を作って諸生と四方の学者を集めそこで道を論じた。まもなく南京尚寶卿に改まり、召されて太僕少卿。親の養に便であることから南京鴻臚卿に改まった。父の喪に服し、喪明け後は母を留め養った。鄒守益・聶豹・羅洪先と日々講学した。
- 推薦により旧官に起用され、累進して吏部左侍郎兼學士、詹事府を掌った。母の喪で帰り、喪明けを待たずに禮部尚書に用いられ、喪を終えて官に就き、無逸殿に直するよう命じられた。
歐陽徳――建儲の議
- 当時、儲位は久しく空いており、帝は陶仲文の「二龍は相見えず」の説に惑わされて建儲を口にすることを忌んでいた。徳は懇請した。
- ちょうど二王が邸を出て同日に婚礼を挙げよとの詔があったので、徳は裕王は儲貳であるから外に出すべきでないとして疏を上げた。かつて太祖は父として子を娶らせ諸王はみな禁中にいた。宣宗・孝宗は兄として弟を娶らせて初めて外府に出した。今の事は太祖の場合と同じであるから初制に従うことを請う、と。帝は許さなかった。
- 徳はまた、会典の醮詞には、主器であれば承宗といい、分藩であれば承家という、今、裕王はどちらに従うべきか、と述べた。帝は喜ばず「すでに王礼と言うからには自ずと典制がある。お前の言うとおりなら、なぜいっそ冊立を行わないのか」と言った。徳はただちに冊立の儀を整えて上った。帝はますます喜ばなかったが、結局その誠を諒とし、婚礼も同日にはならなかった。
- 裕王の母である康妃杜氏が薨じたとき、徳は成化朝の紀淑妃の先例に倣うことを請うたが従われなかった。
歐陽徳――靈濟宮の講会と没後
- 徳は事に当たって率直で、諸宗藩を裁量するにはとりわけ固く守るところがあり、利害に触れて人々が顔を見合わせ恐れおののくときも、徳は意気平然としていた。
- このころ徳は徐階・聶豹・程文徳とともに宿学の身で顕位に居た。そこで四方の名士を靈濟宮に集めて良知の学を論じ、赴いた者は五千人。都城の講学の会はこのとき最も盛んであった。
- 徳は器量が温かく純粋で、学は実践に努めて空虚を尚ばなかった。晩年に帝に知られて重用されようとしたが、にわかに卒した。太子少保を贈られ文莊と諡された。
- 族人の瑜は字を汝重といい、やはり守仁に学んだ。守仁は「常に不足を覚えて自ら是とせぬことだ」と教え、瑜は終身これを実践した。鄉試に合格したが㑹試には就かず、「老いた親がある。三公とも代えられぬ」と言った。母が死ぬと墓側に廬を結び、虎が廬を巡って吼えても動じなかった。四川㕘議を歴任し、行く先々で廉潔と恵政の評判があった。九十近くで卒した。
羅洪先――父の羅循
- 羅洪先は字を達夫といい、吉水の人。父の循は進士で兵部武選郎中を歴任した。武職の考選にあたり、もとから劉瑾の門下から出た指揮が二十余人いたので、循はその管事を罷めた。瑾は怒って尚書の王敞を罵り、敞は懼れて役所に帰り奏を書き換えるよう急かしたが、循はことさら数日引き延ばした。瑾が失脚すると敞は循に謝った。循は鎮江・淮安の二府の知府、徐州兵備副使を歴任し、いずれも評判が高かった。
羅洪先――状元と免官
- 洪先は幼くして羅倫の人となりを慕い、十五歳で王守仁の傳習録を読んで気に入り、赴いて受業しようとしたが循が許さずやめた。そこで同じ邑の李中に師事してその学を伝えられた。
- 嘉靖八年(1529年)の進士第一で修撰を授かり、すぐに休暇を願って帰郷した。舅の太僕卿曽直が喜んで「幸いにも我が婿は大名を成した」と言うと、洪先は「儒者の事業にはこれより大きなものがある。三年に一人の栄誉など喜ぶに足りない」と答えた。
- 親に孝で、父母が客をもてなすときは冠帯して酒を注ぎ、席を払い几を進めてきわめて恭しかった。二年ののち、休暇の期限を過ぎた者を弾劾せよとの詔があり、そこで官に赴いた。まもなく父の喪に遭い、藁のうえで粗食し三年間室に入らなかった。続いて母の喪に遭ったときも同じであった。
- 嘉靖十八年、東宮の官僚を選んで召され春坊左賛善を拝した。翌年の冬、司諫の唐順之、校書の趙時春とともに疏を上げ、来年の朝正の後に皇太子が文華殿に出御して群臣の朝賀を受けるよう請うた。当時、帝はしばしば病と称して朝に臨まず、儲貳が朝に臨む事を口にするのを忌んでいた。洪先らの疏を見て大いに怒り「これは朕が必ず起たぬと見込んだのだ」と言い、百余言の手詔を降して厳しく責め、ついに三人の名を除いた。
羅洪先――帰郷後の学問と実務
- 洪先は帰ってますます守仁の学を探究した。淡泊に甘んじ寒暑に身を鍛え、馬を駆り強弓を引き、図を考え史書を読み、天文・地志・禮樂・典章・河渠・辺塞・戰陣攻守から陰陽算数に至るまで精究しないものはなかった。人材・吏事・国計・民情についてもことごとく心を留めて訪ね尋ね、「もしその任に当たればみな自分の事だ」と言った。
- 邑の田賦に久しい弊害があったので担当の役所に均すよう請うと、役所はそれを洪先に任せた。精しく実情を察して弊害はたちまち除かれた。飢饉の年には郡邑に書を送って粟数十石を得、友人を率いて自ら配って救った。流賊が吉安に入って主管者がうろたえると、戦守の策を立ててやり、賊は引き上げた。
- もともと順之と親しく、順之が召しに応じたとき洪先も引き出そうとし、嚴嵩も同郷のよしみで辺境の才に仮託して起用しようとしたが、いずれも力を尽くして辞退した。
羅洪先――学説と晩年
- 洪先は良知の学を宗としたが、守仁の門には及んだことがなく、常に易の大傳の「寂然として動かず」と周子の「無欲なるが故に静」の旨を挙げて学ぶ人に告げた。また「儒者の学は経世にあり、無欲を本とする。無欲であってこそ出て世を経めるときに識見が精しく力が大きい」と言った。
- 当時、王畿が「良知は自然であって毫ほどの力も借りぬ」と言うと、洪先はこれを非として「世にどうして出来合いの良知などあろうか」と言った。畿と交わりは親しかったが持論は終始合わなかった。
- 山中に石洞があり、もとは虎の穴であったが、茅を葺いてそこに住み石蓮と名づけ、客を謝して黙坐し、一つの寝台で三年間戸を出なかった。
- 初めに休暇で帰る途中、儀真を通ったとき、同年の主事項喬が分司であった。死罪に当たった富人が万金を使って便宜を求めたが、洪先は拒んで聞かず、喬がそれとなく仄めかすと、声を励まして「君は聞かぬか、志士は溝壑に身を捨てることを忘れぬというのを」と言った。
- 江が増水してその家を壊したとき、巡撫の馬森が建て直そうとしたが固辞して受けなかった。隆慶の初めに卒し、光祿少卿を贈られ文恭と諡された。
程文徳――羅洪先の同年
- 程文徳は字を舜敷といい、永康の人。初め章懋に受業し、後に王守仁に従って遊んだ。洪先の榜に進士第二で及第し(1529年)、翰林編修を授かった。
- 同年の揚名が汪鋐を弾劾した事に連座して詔獄に下り、信宜典史に左遷された。鋐が罷免されると安福知縣に量移され、兵部員外郎に遷った。父の喪に墓側に廬を結び、喪を終えるまで内に入らなかった。兵部郎中に起用され、廣東提學副使に抜擢されたが赴任前に南京國子祭酒に改まった。母の喪の後、禮部右侍郎に起用された。
- 諳達が京師を侵したとき宣武門を分守し、賊を避ける郷民をことごとく城内に入れた。吏部に移って左侍郎、ついで詹事府を掌った。
- 嘉靖三十三年(1554年)、西苑に供事して撰した青詞にかなり諷諫するところがあり、帝は含むところがあった。たまたま南京吏部尚書に会推されたとき、帝は文徳が自分を遠ざけようとしていると疑い、南京工部右侍郎に調えるよう命じた。文徳は辞退の疏を上げて帝に安静和平の福を享けるよう勧めたが、帝は誹謗として除名した。
- 帰郷して徒を集め講学した。卒したとき貧しくて納棺もできなかった。萬厯年間に禮部尚書を追贈され文恭と諡された。
呉悌――出自と歴官
- 呉悌は字を思誠といい、金谿の人。嘉靖十一年(1532年)の進士で樂安知縣を授かり、繁劇の宣城に移り、召されて御史となった。
- 嘉靖十六年(1537年)、應天府が試験の記録を進めたとき、考官の評語が名を書き損じており、諸生の答策には時政を譏るものが多かった。帝は怒って考官の諭徳江汝璧、洗馬歐陽衝を詔獄に逮え貶官し、府尹の孫懋らを南京の法司に下した。まもなく職には還したが挙子の㑹試を停止した。悌は挙子のために寛大な処置を求めたことに坐して詔獄に下された。
- 出て兩淮の鹽政を視察した。海が溢れて通州・泰州の民家が水没したとき、悌はまず漕米を出して救い、後から奏聞した。まもなく病と称して帰った。
呉悌――剛直の事跡
- 朝に還って河南を巡按した。伊王の典楧は驕り高ぶっていたが悌を憚り、書を送って友と称した。悌は返答して「殿下は天子の親藩であって悌の敢えて友とするところではない。悌は天子の憲臣であって殿下の友とし得るところではない」と言った。王はますます憚った。
- 夏言・嚴嵩が国政に当たっていたころ、悌とは同郷であった。かつて言に謁したとき、人々は言が新しい宮袍を着ているのを見て争って前に出て褒めたが、悌は下がって進まなかった。言が理由を問うと、ゆっくりと「談話の合間を待って政事についてお願いしたい」と答えた。言はそのために顔つきを改めた。
- 嵩が政を専らにするに及んで悌はこれを憎み、病と称して家に居ること二十年近くに及んだ。嵩が失脚すると旧官に起用され、一年のうちに累進して南京大理卿に至った。当時、呉嶽・胡崧・毛愷がそろって年長の俊才として卿貳となり、悌とあわせて南都四君子と称された。隆慶元年に刑部侍郎に遷り、翌年卒した。
- 悌は王守仁の学を修めたが、清らかに修めて果断潔白、自らに省みて得るところが多かった。萬厯年間、子の仁度が恤典を請うと、吏部尚書の孫丕楊は「悌は理学の名臣、通常の格に従うべきでない」と言い、ついに黄孔昭の例を用いて禮部尚書を贈り文莊と諡した。郷人は祠を建てて陸九淵・呉澄・呉與弼・陳九川とともに祀り、五賢祠と称した。学者は疏山先生と称した。
呉仁度――呉悌の子
- 仁度は字を繼疎といい、萬厯十七年(1589年)の進士で中書舍人を授かった。三王並封の議が起こると抗疏して争った。
- 久しくして吏部主事に抜擢され、考功郎中を歴任した。稽勲郎中の趙邦清が弾劾されたとき、同僚の鄧光祚らが言路をけしかけたと疑って憤激して弁じ立て、その章は考功に下された。仁度は邦清の罰をやや軽くしようとしたので、給事中の梁有年は仁度が徒党を組んだと弾劾した。当時、光祚が病と称して去り仁度が代わって文選となると、御史の康丕揚がまた仁度が光祚を陥れて代わったと弾劾し、詔して南京に転任させた。
- 邦清が論じられて以来、言路の攻撃は止まず、都御史の温純はひどく憤り、国是を定めて衆人の疑いを解くことを請い、深く仁度のために惜しんだ。
- 仁度はまもなく南京刑部郎中に補せられ、太僕少卿に抜擢され、右僉都御史に進んで山西を巡撫した。廉潔を磨き慈愛を務め、魏允貞と名声を並べた。四年いて病により帰った。
- 熹宗の初めに大理卿に起用され、兵部右侍郎に進み、また病と称して去った。再び工部左侍郎に起用された。天啟五年(1625年)、魏忠賢は仁度が趙南星・楊漣らと親しいことから致仕を強い、まもなく卒した。仁度は名高い父の子として自ら奮い励むことができ、鄒元標がしきりに称賛した。
何廷仁・黄𢎞綱――出自と師事
- 何廷仁は初めの名を秦といい、字を通称として字を性之と改めた。黄𢎞綱は字を正之といい、ともに雩都の人。廷仁は温和篤厚で人と接するに誠意があふれ、𢎞綱は近づきがたく人に笑顔を見せることがなかった。しかし二人の志と行いは相似ていた。
- 廷仁は初め陳獻章を慕い、後に王守仁の学を𢎞綱から聞いた。守仁が桶岡を征討したとき軍門に詣って謁し、ついに師事した。嘉靖元年(1522年)に鄉試に合格し、あらためて浙東で守仁に従った。
- 廷仁の議論は平実を尚び、守仁の没後に高きに過ぎる論を立てる者があると、そのつど「これは我が師の言葉ではない」と言った。新㑹知縣を授かり、獻章の祠に釈菜の礼を行ってから政務を執った。政治は簡易を尚び士民に愛された。南京工部主事に遷り、儀真に分司し蕪湖の税を榷したが一銭も私しなかった。任期の考課を終えるとすぐに致仕した。
- 𢎞綱は鄉試出身で刑部主事に官した。守仁の門で従い学ぶ者は常に数百人、浙東・江西が特に多かったが、師説をよく敷衍する者としては𢎞綱・廷仁および錢徳洪・王畿が挙げられ、当時の人は「江西には何・黄あり、浙には錢・王あり」と言った。
- しかし守仁の学が山隂・泰州に伝わった流れは弊害が果てしなく、ただ江西に実践が多かった。安福では劉邦采、新建では魏良政兄弟が最も著名である。
劉邦采・劉文敏・劉曉
- 劉邦采は字を君亮という。一族の子である曉が守仁に受業し、帰って邦采に語ったので、従兄の文敏および弟や甥ら九人とともに守仁を里第に訪ねて謁し師事した。
- 父の喪に野菜と水だけで廬墓し、喪明けの後も再び科挙に応じなかった。提學副使の趙淵が檄して試験に赴かせ、御史の儲良才が常服のまま入場することを許したので、衣を解いて検査を受けずに試験を受け、合格した。久しくして夀寜教諭を授かり、嘉興府同知に抜擢されたが官を棄てて帰った。
- 邦采は識見が高明で力の入れ方が鋭かった。守仁が良知を唱えて学の的としたが、久しくしてますます弊れ、揣摩を妙悟とし恣に自然を装う者が現れた。邦采はそのつど極言して思うさま排斥した。
- 劉文敏は字を宜充という。父の喪が明けると科挙を思い切った。かつて言った。学ぶ者は本心の明に従い、時に自分の過ちを見て磨き励まし、気稟を融かし外からの誘惑を絶ち、倫理と事物の実際に照らして一つとして心に満たぬところがなくなって初めて聖門の正学となる。困難を経て努めなければ入ることはできない。高談虚悟は末を飾って本を離れるもので、徳の賊ではないか、と。
- 劉曉は字を伯光といい、鄉試に合格し、後に新寜知縣となって善政があった。
魏良政とその兄弟
- 魏良政は字を師伊という。守仁が江西を巡撫したとき、兄の良弼、弟の良器・良貴とともにみな学んだ。提學副使の邵鋭、巡按御史の唐龍は持論が守仁と異なり、諸生に謁しに行くなと戒めたが、良政兄弟だけは意に介さず、深く守仁に許された。
- 良政は特に専心で、孝友篤実、くつろいでいるときも怠った様子がなかった。かつて「人を咎めなければどんな人とも処せぬことはなく、事に累わされなければどんな事もなし得ぬことはない」と言った。鄉試第一に挙げられて卒した。
- 良弼はかつて「自分は夢に師伊を見るたびに汗が背をびっしょり濡らす」と言った。兄を憚ることこれほどであった。
- 良器は字を師顔といい、性質はきわめて聡明であったが、良知を宗としながら実践は平実に努めた。良弼には別に伝がある。良貴は右副都御史に官した。
王時槐――出自と歴官
- 王時槐は字を子植といい、安福の人。嘉靖二十六年(1547年)の進士で南京兵部主事を授かり、禮部郎中・福建僉事を歴任し、累進して太僕少卿、光祿少卿に降った。
- 隆慶の末に出て陕西參政。張居正が国政を執ると京察によって罷免され帰郷した。
- 萬厯年間、南贛巡撫の張岳が疏で推薦したところ、吏部は「六年ごとの京察は祖法である。執政に排除したい者があって時期外れに一度行うのを閏察という。時槐は閏察に引っかかったもので人々は納得していない」と述べ、時槐を召し、あわせて永く閏察を停めることを請い、許可された。
- 久しくして陸光祖が銓衡を掌り、貴州參政に起用し、ついで南京鴻臚卿に抜擢し太常に進めたが、いずれも赴かなかった。
王時槐――学説
- 時槐は同県の劉文敏に師事し、仕えてからは四方の学者に遍く質したが、自ら終に得るところがないと思った。五十歳で官を罷めて自らに省みて実証し、初めて造化の生生の機は思念の起滅に従わないことを悟った。学ぶ者が真の機を識ろうとするなら慎獨から入るべきだ、と説いた。
- 性を論じて言った。孟子の性善の説は決して改められない。もし性の中にもともと仁義がなければ、惻隠・羞悪はどこから生じよう。また人が事物に応対して、こうであれば安んじ、こうでなければ安んじられない。それが善でなくて何であろう、と。
- また言った。居敬と窮理の二つはどちらも欠かせないが、要するに居敬の二字で尽きる。その居敬の精明な了悟の面から言えば窮理という。考索討論もまた居敬の中の一事である。敬は包まぬところがなく、敬の外に余事はない、と。
- 年八十四で卒した。
- 廬陵の陳嘉謨は字を世顯といい、時槐と同年の進士。給事中となって嚴嵩に阿らず外に出され、湖廣參政を歴任し、休職を乞うて帰った。もっぱら学に力を用い、その門に入る者にはみな「塘南がおられる、行って師とせよ」と告げた。塘南は時槐の別号である。年八十三で卒した。
許孚逺――出自と歴官
- 許孚逺は字を孟中といい、徳清の人。同郡の唐樞に学んだ。嘉靖四十一年(1562年)に進士となり、南京工部主事を授かり、そのまま吏部に改まり、ついで北京の吏部に移った。
- 尚書の楊博は孚遠の講学を憎み、大計の際に京朝官の浙江出身者をほとんど半ば退けたが、博の郷里である山西からは一人も出さなかった。孚遠が後で言うと博は喜ばず、孚遠はついに病と称して去った。
- 隆慶の初め、髙拱の推薦で考功主事に起用され、出て廣東僉事。太監の李茂・許俊美を招き、倭の一党七十余名を捕らえて降らせ、功を録して銀と幣を賜わった。まもなく福建に移った。
- 神宗が立って拱が政を退くと、張居正は拱の一党を追うことを議し、また京官を大計したとき、王篆が考功となって孚遠を拱の党だと誣告し、兩淮鹽運司判官に左遷した。兵部郎中を歴任し、出て建昌府を知った。暇があれば諸生を集めて講学し、貢士の鄧元錫・劉元卿を引いて友とした。
- まもなく給事中の鄒元標の推薦で陕西提學副使に抜擢された。貢士の王之士を敬い礼遇し、当路に書を送って元卿・元錫とあわせて推薦した。後にこの三人がそろって徴されたのは孚遠が唱えたからである。應天府丞に遷ったが、李材のために冤を訴えたことに坐して二階を貶され、廣東僉事から再び右通政に遷った。
許孚逺――福建巡撫
- 萬厯二十年(1592年)、右僉都御史に抜擢され福建を巡撫した。倭が朝鮮を陥れ封貢が議されたとき、孚遠は日本に敕諭して平秀吉を捕らえ斬ることを請うたが従われなかった。
- 吕宋國の首長の子が、商人が父を襲って殺したと訴えたので孚遠は上聞し、詔して罪人を誅し厚くその使者をねぎらった。
- 福州の飢えた民が官府を略奪したとき、孚遠は首謀者を捕らえて乱はやや鎮まったが、給事中の耿隨龍、御史の甘士价らが孚遠を斥けるべきだと弾劾した。帝は問わなかった。
- 管轄地に僧田が多かったので、孚遠はその六割を官に収め、また民を募って海壇の地八万三千余を開墾させ、城を築き営舎を建て兵を集めて守らせた。これを南日・彭湖および浙中の陳錢・金塘・玉環・南麂の諸島に及ぼすことを請い、いずれも許可された。
- 三年いて入って南京大理卿となり、兵部右侍郎に遷り左に改まり、北京の兵部に調えられたが、道半ばで論じられ休職を乞い、疏を重ねてようやく許された。さらに数年して家で卒した。南京工部尚書を贈られ、後に恭簡と諡された。
許孚逺――学説と門人
- 孚遠は良知を篤く信じたが、良知に託して仏に入る者を憎んだ。建昌を知ったとき郡の人である羅汝芳と講学して合わず、南京に官してからは汝芳の門人である禮部侍郎楊起元、尚寶司卿周汝登とともに講席を主宰した。
- 汝登が無善無惡を宗としたので、孚遠は九諦を作って難詰し、次のように言った。文成(王守仁)の宗旨はもともと聖門と異ならない。性に不善がないゆえに知に不良がないことが分かる。良知はすなわち未発の中である。立論はきわめて明晰だ。「無善無惡は心の体」という一語は、その未発のときの廓然寂然たるさまを指して言ったもので、静の一字を形容し得たにすぎない。下の三語と合わせて初めて病がなくなる。今、心・意・知・物のすべてに善悪を言えぬとするのは文成の正しい伝ではない、と。彼我の論はますます食い違った。
- 孚遠が福建を巡撫したとき巡按御史の陳子貞と折り合わず、子貞が南畿の督学となるとひそかに同列をそそのかして拾遺で弾劾させた。
- 孚遠に従って遊んだ者には馮從吾・劉宗周・丁元薦があり、みな名儒となった。
尤時熙――出自と学問
- 尤時熙は字を季美といい、洛陽の人。生まれつき機敏で群を抜いていた。二十歳で嘉靖元年(1522年)の鄉試に合格した。
- 当時、王守仁の傳習錄が出たばかりで士大夫の多くは力を尽くして排斥したが、時熙は一見して嘆じ「道はここにあるのではないか。これまで自分は詞章に志を役してきた、末なることだ」と言った。
- その後、病のためにやや養生の術に従い、元氏教諭を授かった。父の喪が明けて章邱に転じ、もっぱら致良知を教えたので、両邑の士もまた新建(王守仁)の学を知るようになった。
- 入って國子博士。徐階が祭酒となって六館の士にみなこれに倣わせた。常に守仁に師事できなかったことを恨みとし、郎中の劉魁が守仁の伝を得ていると聞いてこれに師事した。魁が直言によって詔獄に幽閉されると、疑問を書き記してしばしば獄中から質問した。
- まもなく戸部主事として滸墅の税を榷したが、足りるだけを目安として止め、一銭も私しなかった。母が老いたことを思って終養を乞うて帰り、ついに再び出なかった。日々、己を修め人を善くすることを事とし、足は公府に踏み入れなかった。書斎に守仁の位牌を設け、朝起きると必ず香を焚いて拝し、学びに来る者にも拝礼させた。
- 晩年、学者が虚な見解に頼って実践をおろそかにし、はなはだしくは規矩を越えて恣にするのを憂えた。それゆえその議論は日常に切実で、空虚で怪異な談を為さなかった。萬厯八年(1580年)に卒し、年七十八。学者は西川先生と称した。門人では孟化鯉が最も著名で、別に伝がある。
張後覺――出自と講学
- 張後覺は字を志仁といい、茬平の人。父の文祥は鄉試出身で廣昌知縣に官した。後覚は生まれつき素質があり、親に孝で、喪に居って哀しみに毀れ、三年間房事を絶った。
- 早くに県の教諭である顔鑰から良知の説を聞き、精しく思い力めて実践し、同志と講習した。その後、貴谿の徐樾が王守仁の再伝弟子として参政に来たので、後覚は同志を率いて赴いて師事し、学はいっそう聞くところがあった。
- 久しくして歳貢生から華隂訓導を授かった。ちょうど大地震があって多くの人が圧死したので、上官が県事を代行させ、救災扶傷して人々は悦服した。致仕して帰るとき士民は泣いて送り道に満ちた。
- 東昌知府の羅汝芳、提學副使の鄒善はいずれも守仁の学を宗とし後覚と志を同じくした。善は建昌に学書院を建てて六郡の士に師事させ、汝芳も見泰書院を建ててしばしば討論した。
- なお友を求めることが広くないとして、北は京師に走り南は江左に遊び、賢を親しみ講学することを事とした。門弟子は日ごとに増え、その地に官として赴く者や茬平を通る者で、廬を訪ねて教えを問わぬ者はいなかった。巡撫の李世達が二度その山居を訪ねたが、病んで礼を執れず、席を寄せて存分に語り合い、粗食に飽いて去った。
- 生涯、詩を作らず禅を談ぜず著述を事とせず、その行いは遠近に信を得て、学者は𢎞山先生と称した。年七十六、萬厯六年(1578年)に卒した。門人では孟秋・趙維新が最も著名。秋には別に伝がある。
趙維新――張後覺門人
- 趙維新もまた茬平の人。二十歳で後覚が良知の学を講ずるのを聞いて師事し、その問答の語をまとめて𢎞山教言とした。
- 性質は純孝で、喪に居って五味を口にせず、痩せ枯れて骨立ち、杖にすがって立ち上がるほどであった。郷人がその孝行を推挙しようとしたが力を尽くして辞退した。妻に死に別れて五十年、再び娶らなかった。
- かつて垣を築いて金一箱を掘り当てたが、職人がそれを持ち去っても咎めなかった。家は貧しく二日分をまとめて一度に食べることもあったが超然として自得していた。やはり歳貢生から長山訓導となり、年九十二で病なく世を去った。
鄧以讚・張元忭――出自と資質
- 鄧以讚は字を汝徳といい、新建の人。張元忭は字を子藎といい、紹興山隂の人。二人とも生まれつき素質があり、また読書を好んだ。
- 以讚は幼いころ父が人と学を論ずるのを見ると衣を引いて後をついて回り、時折口にする言葉は年功を積んだ儒者のようだった。父はその勤学ぶりを憐れんで、狭い部屋に閉じ込めたこともあった。
- 元忭はもともと体が弱く、母が働き過ぎるなと戒めたので、灯を帳の中に隠し、母が寝るのを待って初めて誦した。十余歳のとき節気をもって自負し、楊繼盛の死を聞くと文を作って遠くから誄し、慷慨して涙を流した。
- 父の天復は雲南副使に官し、武定の賊である鳳繼祖を撃って功があった。その後、賊が戻って武定を襲い官軍が敗れたが、巡撫の吕光洵が討ち滅ぼした。隆慶の初めに至って議者が以前の失態を追及し、天復を逮えて雲南で対決させた。元忭はちょうど落第して帰るところで、万里を護送して髪はことごとく白くなった。ついで闕下に馳せ参じて冤を訴え、担当者が憐れんで天復は籍を削られて帰ることができた。
鄧以讚――登第と歴官
- 隆慶五年(1571年)、以讚は㑹試第一、廷試第三で編修を授かり、元忭は廷試第一で修撰を授かった。
- 萬厯の初め、座主の張居正が国政を執り、以讚が時折諫めたので居正は喜ばなかった。病と称して帰郷した。久しくして旧官に補せられたが、すぐ引退した。詔して中允に起用され途中まで来たが、母を思ってまた戻った。再び南京祭酒に起用され、そのまま禮部右侍郎に抜擢され、さらに吏部に転じた。
- 重ねて疏を上げて建儲を請い、あわせて三王並封の非を力説して述べた。中宮は元子を鍾愛し、早く春宮を正すことを願うのは臣民よりも切実である。陛下が中宮を後回しにして冊立を遅らせるのは中宮の心を諒としないに近い。まして信は国の大宝であり、建儲の一事にしばしば変更を示せば詔令が天下に信じられなくなり、宗廟を重んじ社稷を安んずる所以ではない、と。たまたま廷臣に諫める者が多く、事はついに沙汰止みとなった。
- まもなく召されて吏部右侍郎となったが力を尽くして辞退し拝さなかった。以讚は及第して二十余年、在官はわずかに一考を満たすのみであった。母の喪に居り悲しみに堪えず卒した。禮部尚書を贈られ文潔と諡された。
張元忭――歴官と孝行
- 元忭はかつて抗疏して御史の胡涍を救い、また列女傳を両宮に進講して二南の教化を修めることを請うたが、いずれも取り上げられなかった。
- 萬厯十年(1582年)、楚府への使いから還って家に寄り母を見舞い、出発してから胸騒ぎがして馳せ帰ると、わずか五日で母が卒した。元忭は両親の病には湯薬を自ら口で味わってから進め、喪に居って痩せ衰えるまで古礼に遵い、郷人は多く感化された。
- 喪明けに旧官に起用され左諭徳に進み、経筵に侍した。かつて元忭は帝の即位の恩によって父の官を復すことを請い、冠帯を給する詔許を得ていた。ここに至ってあらためて前の願いを申し出たが阻まれて従われなかった。元忭は泣いて「自分には父母に会わせる顔がない」と言い、ついに鬱々として病を得て卒した。天啟の初めに文恭と追諡された。
- 以讚と元忭は及第以前から王畿に従って遊び良知の学を伝えられたが、いずれも孝行に篤く実践躬行した。以讚は品行正しく志が潔く、元忭は規矩が厳然として禅寂に流れ込む弊がなかった。元忭の子の汝霖は江西㕘議、汝懋は御史。
孟化鯉・孟秋――出自
- 孟化鯉は字を叔龍といい、河南新安の人。孟秋は字を子成といい、茬平の人。化鯉は十六歳で慨然として聖賢をもって自ら期し、秋は子供のころ詩を授かって桑中の諸篇に至ると読み捨てて最後まで読まなかった。
孟化鯉――吏部での抵抗
- 化鯉は萬厯八年(1580年)の進士で戸部主事を授かった。時の宰相が招き寄せようとしたが辞して行かなかった。河西務で税を榷し諸生と講学したので、河西の人は生ける神のように祀った。南畿・山東の大飢饉に命を受けて赴き救い、生き延びた者が多かった。
- 吏部に移り文選郎中を歴任した。尚書の孫鑨を助けて人事の黜陟にあたり評判が高かった。当時、内閣の権が重く、任用のたびに必ず先に化鯉に告げてきたが、独り応じなかった。中官の請託にも応じなかったので、多くの者に憎まれた。
- 都給事中の張棟が以前に建言によって籍を削られていたのを化鯉が奏して起用させたところ、旨に忤って長官の俸を奪われ、化鯉および員外郎の項復𢎞、主事の姜仲軾を雑職に落とした。閣臣が疏で救い、原品のまま外に転じるよう命じられたが、まもなく言官がまた次々に救ったので帝はいよいよ怒り、言官の俸を奪い、化鯉らを斥けて庶民とした。
- 帰郷して川辺に書院を築き、学者と講習して怠らず、四方の従遊者は常に数百人。久しくして卒した。
孟秋――歴官と清貧
- 秋は隆慶五年(1571年)の進士で昌黎知縣となり善政があった。大理評事に遷った。去る日には老人も子供も道に満ちて泣いて留めた。
- 職方員外郎として山海関を監督した。関の政務は久しく弛み奸人が勝手に出入りしていたが、秋が厳しく禁じたので中に流言があり、萬厯九年(1581年)の京察で貶されて帰った。妻子とともに一台の牛車に乗り、道端で見る者はみな歎息した。
- 許孚遠がかつて張秋を通ってその廬を訪ねると、茅屋数間に書物が散らかっているのを見て「孟我疆の風味は大江以南にはまだない」と歎じた。我疆は秋の別号である。
- 後に刑部主事に起用され、尚寶丞・少卿を歴任して卒した。秋の没後、廷臣が諡を請う章は数十上り、天啟の初めに清憲の諡を賜わった。
二孟の交わりと学統
- 化鯉は貢生として太學に入って以来、秋と道義をもって励まし合い、後に化鯉が吏部郎、秋が尚寶に官したときは隣り合わせに住み、飲食起居ともにしないものはなく、当時の人は二孟と称した。
- 化鯉の学は洛陽の尤時熙に得たもので、秋は同じ邑の張後覺に受業した。時熙の師は劉魁、後覺は顔鑰・徐樾の弟子である。
来知徳――出自と孝行
- 来知徳は字を矣鮮といい、梁山の人。幼くしてすぐれた行いがあり、役所は孝童として推挙した。嘉靖三十一年(1552年)に鄉試に合格した。
- 両親が相次いで没すると六年廬墓し、酒を飲まず葷を食べなかった。喪明けの後、禄で親を養うに及ばなかったことを傷み、終身、麻の衣に粗食で通し、役人に会わぬことを誓った。
来知徳――易学と晩年
- その学は致知を本とし、倫を尽くすことを要とした。著書に省覺錄・省事錄・理學辨疑・心學晦明解の諸書があり、周易集註一篇にはとりわけ力を注いだ。自ら「学は易より深いものはない」と言った。
- 初め釜山に廬を結んで六年学んだが得るところがなく、後に遠く求溪の山中に客居して数年思いを凝らし、初めて易象を悟った。さらに数年して文王の序卦と孔子の雜卦の意を悟り、さらに数年して変卦の非を悟った。およそ二十九年を経て書は成った。
- 萬厯三十年(1602年)、總督の王象乾と巡撫の郭子章が言葉を合わせて推薦し、特に翰林待詔を授かった。知徳は力を尽くして辞退し、詔して授けた官のまま致仕させ、役所が月に米三石を給して終身とした。
鄧元錫――出自と学問
- 鄧元錫は字を汝極といい、南城の人。十五歳で父を喪い、水も口にしなかった。十七歳で社倉法を行って郷人に恵んだ。
- 諸生となってから邑の人である羅汝芳の門に遊び、また吉安に赴いて諸先達に学んだ。嘉靖三十四年(1555年)に鄉試に合格し、あらためて鄒守益・劉邦采・劉陽の諸宿儒に従って学を論じた。後は㑹試に応じず、門を閉ざして著述すること三十年を越え、五經すべてに成書があった。閎深博奥、学者は潜谷先生と称した。
鄧元錫――度重なる推薦
- 休寜の范涞は城南を知ったとき元錫を重んじ、後に南昌知府となって萬厯十六年(1588年)に入覲し、元錫および劉元卿・章潢を朝廷に推薦した。南京祭酒の趙用賢もまた呉與弼・陳獻章の先例のように徴聘することを請い、旨を得て役所が部の試験に送ろうとしたが元錫は固辞した。
- 翌年、御史の王道顯があらためて元錫・元卿をともに推薦し、かつ祖宗の徴辟の先例に倣って部試に拘らぬことを請うた。詔して役所に病が癒えたかを問うて部に赴かせよとしたが、ついに行かなかった。
- 萬厯二十一年(1593年)、巡按御史の秦大䕫がふたたび二人をともに推薦し、詔して翰林待詔として徴した。役所が促して道に上らせたが、家を離れたばかりで卒した。郷人は私に文統先生と諡した。
- 元錫の学は王守仁に淵源するがその説を丸ごと宗としない。当時、心学が盛んに行われ、学はただ無覚であり、一たび覚れば余す蘊はなく、九容・九思・四教・六藝はみな桎梏だと言われたが、元錫は力めてこれを排した。それゆえ生涯、群書を博く極めながら要は六經に帰した。著書に五經繹・函史上下編・皇明書があり、いずれも世に行われた。
劉元卿――鄧元錫の同志
- 劉元卿は字を調父といい、安福の人。隆慶四年(1570年)の鄉試に合格した。翌年の㑹試で対策に極めて時弊を陳べたので主管者は敢えて採らず、張居正はこれを聞いて大いに怒り、担当官に下して戒飭させ、かつ人をやってひそかに探らせたが、その者がかえって事情を告げたので免れることができた。
- 帰郷して同じ邑の劉陽に師事した。陽は王守仁の弟子である。萬厯二年(1574年)の㑹試に及第せず、ついに科名を思い切って道を求めることに専念した。
- しばしば推薦されて國子博士に召され、禮部主事に抜擢された。疏して早朝勤政を請い、また鄒守益・王艮を文廟に従祀すること、外蕃朝貢の旧儀を正すことを請うた。まもなく病と称して帰った。著述に力を尽くし、山居草・還山續草・諸儒學案・賢奕編・思問編・禮律類要・大學新編の諸書がある。
章潢――鄧元錫の同志
- 章潢は字を本清といい、南昌の人。父の喪に居って哀しみに毀れ血を溢れさせた。此洗堂を構えて同志を連ねて講学し、群書を輯めること百二十七卷、圖書編と名づけた。また周易象義・詩經原體・書經原始・春秋竊義・禮記劄言・論語約言の諸書を著した。従い学ぶ者はきわめて多かった。
- しばしば推薦され、吏部侍郎の楊時喬の請により遥かに順天訓導を授けられ、陳獻章・来知徳の先例のように役所が月に米三石を給してその家を養った。萬厯三十六年(1608年)に卒し、年八十二。
- その郷人は、潢は幼少から老年まで、口に非礼の言なく、身に非礼の行いなく、交わりに非礼の友なく、目に非礼の書なし、と称し、私に文徳先生と諡した。
- 呉與弼より後、元錫・元卿・潢がそろって薦辟を蒙り、江右四君子と号された。