明史卷二百八十六 列傳第一百七十四 文苑二
篇首の立傳者一覧
- 林鴻(鄭定ら)
- 王紱(夏㫤)
- 沈度(弟の粲・滕用亨ら)
- 聶大年
- 劉溥(蘇平ら)
- 張
- 張泰(陸鈛・陸容)
- 程敏政
- 羅玘
- 儲巏
- 李夢陽(康海・王九思・王維楨)
- 何景明
- 徐禎卿(楊循吉・祝允明・唐寅・桑悦)
- 邊貢
- 顧璘(弟の瑮・陳沂ら)
- 鄭善夫(殷雲霄・方豪ら)
- 陸深(王圻)
- 王廷陳
- 李濓
林鴻――閩中十才子の首
- 字は子羽、福清の人。洪武初、人材として薦められ将楽県訓導を授かり、礼部精膳司員外郎を歴した。性は脱落として仕えるのに向かず、四十にならぬうちに自ら辞めて帰った。
- 閩中で詩を善くする者を「十才子」と称し、鴻がその首であった。十才子とは、閩県の鄭定、侯官の王褒・唐泰、長楽の高棅・王恭・陳亮、永福の王偁、および鴻の弟子の周元・黄元――当時の人が「三元」と目した者たち――である。
- 鴻の詩論の大意は次のとおり。漢魏は骨気は雄だが菁華が足りない。晋は玄虚を祖とし、宋は条暢を尚び、斉梁以下はただ春の華を務めて秋の実が少ない。ただ唐の作者だけが大成といえる。しかし貞観はなお旧来の陋を習い、神龍にようやく常調が変わり、開元・天宝の間に声律が大いに備わった。学ぶ者はこれを楷式とすべきである。閩の人で詩を言う者はおおむね鴻に本づいた。
浦源(附)
- 晋府引礼舎人の浦源、字は長源は無錫の人。鴻の名を慕って嶺を越えて訪ね、その門に至った。二元(周元・黄元)が作を誦するよう請うと、「これは我が家の詩だ」と言った。鴻は迎え入れて社に入れた。
閩中十才子(附)――鄭定・王褒・唐泰・高棅・王恭・陳亮
- 鄭定は字を孟宣。かつて陳友定の記室であった。友定が敗れると海に浮かんで交州・広州の間に亡命し、久しくして長楽に還り住んだ。洪武中に徴されて延平府訓導を授かり、国子助教を歴した。
- 王褒は字を中美、鴻の兄の子の婿である。長沙の学官となり永豊知県に遷った。永楽中に召されて大典の修に加わり、漢府紀善に擢せられた。
- 唐泰は字を亨仲。洪武二十七年(1394年)進士。陝西副使を歴した。
- 高棅は字を彦恢、名を廷礼と改め、別号は漫士。永楽初、布衣のまま召されて翰林に入り待詔となり、典籍に遷った。性は飲を善くし、書画に巧みで、とくに詩に専らであった。その選んだ「唐詩品彙」「唐詩正声」は明の世を通じて館閣が宗とした。
- 王恭は字を安中。七巌山に隠居し自ら皆山樵者と称した。永楽初、儒士として薦められ翰林待詔に起こされた。年六十余で大典の修に加わり、書が成って翰林院典籍を授かった。
- 陳亮は字を景明。自ら元の儒生であるとして、明が興っても再三の詔に応じて出なかった。「陳摶伝」を作って志を示し、滄洲のなかに草屋を結び、三山の耆彦と「九老会」を作り、生涯仕えなかった。
王稱(王偁)・王洪(附)
- 王稱は字を孟敡。父の翰は元に仕え節に抗して死んだ。偁は当時わずか九歳で、父の友の呉海が撫育し教えた。洪武中に郷薦を得て国学に入り、事情を陳べて母を養い、母が歿すると廬墓すること六年。永楽初、薦めにより翰林検討を授かり、大典の修に加わった。
- 学は博く才は雄で、最も解縉に重んじられた。自負して同輩を認めなかったが、ひとり同官の王洪だけには譲った。
- 王洪は字を希範、銭塘の人。八歳で文を作り、十八で進士となり、吏科給事中を授かり翰林検討に改まった。偁らとともに大典の修に加わり、修撰・侍講を歴した。帝が塞外で仏曲を頌したとき洪に文を作るよう命じたが、逡巡して詔に応じなかったため、同列に排斥され、二度と進用されず官に卒した。
- 偁はのち累に坐して交阯に謫せられ、さらに解縉の事に連座して獄中に繋がれて死んだ。
黄元・周元・趙迪ら(附)
- 黄元は字を元之、将楽の人。鴻が官を棄てて帰ったと聞いて、妻子を携えて閩県に住んだ。歳貢によって泉州訓導に官した。
- 周元は字を微之、閩県の人。永楽中に文学を以て徴され礼部員外郎を授かった。かつて書千巻を携えて高棅の家に留まって十年読み、辞し去るときその書をことごとく棄てて「もう我が腹の書箱に入っている」と言った。
- 同じころ趙迪・林敏・陳仲宏・鄭関・林泊璟・張友謙もまた詩を能くすることで名があり、みな鴻の弟子である。
王紱――画の高潔
- 字は孟端、無錫の人。博学で歌詩に巧みで、書をよくし、山林・竹石を描いて一時に妙絶であった。
- 洪武中、累に坐して朔州に戍った。永楽初、薦めにより書を善くする者として文淵閣に供事し、久しくして中書舎人に除せられた。
- 紱は仕える前、呉の人の韓奕と友となり九龍山に隠居し、自ら九龍山人と号した。書法ではつねに古人を以て自ら期し、画は苟くも作らなかった。遊覧のおり酒がたけなわになると筆を握り、長廊の素壁に淋漓と揮灑した。金幣を投じて一枚の紙を購おうとする者があると袖を払って起ち、あるいは門を閉じて入れず、豪貴の人であっても顧みなかった。諫める者があると紱は「丈夫は身の処し方を審らかにすべきだ。軽い事でこうならば、重い事ではどうするというのか」と言った。
- 京師にいたとき、月下に簫を吹く声を聞いて興に乗じて石竹図を描き、翌朝その人を訪ねて贈ったところ、商人であった。客が紅氍毺を贈って、もう一枝描いて対にしてほしいと請うたので、紱は先の画を取り返して裂き、贈り物を返した。
- ある日、退朝の折に黔国公の沐晟が後ろからその字を呼んだが、紱は応じなかった。同列が「あれは黔国公だ」と言うと、紱は「聞こえなかったのではない。きっと私に画を求めるのだ」と言った。晟が走って追いつき、果たして画を請うたが、紱は頷いただけであった。数年して晟がまた書を送ってきて、紱ははじめて画を作った。しかしのちに「私の画を黔公に直接贈るのはよくない。黔公の客の平仲微は私の友だ。友のよしみで彼に与え、黔公が彼から求めるならよかろう」と言った。その高介絶俗はこのようであった。
夏昶・張益・平仲微(附)
- 崑山の夏昶もまた竹石を画くのを善くし、紱に次いだ。竹一枝の値が白金一錠であったが、人の多くは贈り物によってこれを得た。
- 㫤は字を仲昭。永楽十三年(1415年)進士、庶吉士に改まり、官は太常寺卿を歴した。㫤は上元の張益と同じ年に進士となり、同じく文で名があり、同じく竹を画くのを善くした。のち㫤は益の「石渠閣賦」を見て自ら及ばないとし、以後は賦を作らなくなった。益は㫤の画いた竹石を見て、これもまた以後は竹を画かなくなった。益は土木の難で死んだ。
- 仲微は名を顕、銭塘の人。かつて滕県の事を知り、雲南に謫戍された。その詩ははなはだ豪放で自ら喜び、雲南の詩人を称するに「平・居・陳・郭」と言うが、その一人である。
沈度・沈粲――兄弟の書
- 度は字を民則、弟の粲は字を民望、松江華亭の人。兄弟ともに書を善くし、度は琬麗で勝れ、粲は遒逸で勝れた。
- 度は経史に博く渉り、文章を作るのに浮靡を絶ち去った。洪武中に文学に挙げられたが就かず、累に坐して雲南に謫せられた。岷王が礼幣を具えて聘し、しばしば諫言を進めたが、ほどなく辞し去った。都督の瞿能とともに京師に入った。
- 成祖が即位したはじめ、書を善くする者を選んで翰林に入れ廩禄を給するよう詔した。度は呉県の滕用亨、長楽の陳登とともに選ばれた。当時、解縉・胡広・梁潜・王璉はみな書に巧みであったが、度が最も帝に賞せられ、名は朝士の右に出た。日ごとに便殿に侍し、およそ金版・玉冊で朝廷に用いるもの、秘府に蔵するもの、属国に頒つものは、必ず度に書かせた。こうして翰林典籍から検討に擢せられ、修撰を歴して侍講学士に遷った。
- 粲は翰林待詔から中書舎人に遷り、侍読に擢せられ、階は大理少卿に進んだ。兄弟ともに織金の衣を賜り、姓名を象牙の笏に鏤め金泥を塗り、父母にその官と同じ官を贈られ、駅伝を馳せて帰り墓に告げた。
夏昺・夏㫤(附)
- 崑山の夏昺は字を孟暘、その弟の㫤とともに書画を善くすることで聞こえ、同じく中書舎人に官した。当時「大中書・小中書」と号し、度と粲は「大学士・小学士」と号された。
沈度・沈粲――人となり
- 度は性が敦実で謙って人にへりくだり、取ると与えるを厳しくした。ある訓導が友を介して書を求め、その上に姓名を識してほしいと請うた。度は沈思して「以前、有司を訐奏した者ではないか」と言い、ただちに却けた。その友が固く請うたが、ついに姓名を書かなかった。内廷にあって顧問に備えるときは必ず正論で答えた。
- 粲は兄に事えることに篤く、賜り物があると常にその兄に譲った。
滕用亨・陳登・程南雲(附)
- 滕用亨ははじめ名を権、字を用衡。篆隷の書に精しかった。薦められた時すでに年七十であった。召見されて「麟・鳳・亀・龍」の四字を大書して進め、また「貞符詩」三篇を献じ、翰林待詔を授かり永楽大典の修に加わった。用亨は古を鑒するのに善く、かつて帝に侍して画巻を観たとき、まだ終わらぬうちに衆人は趙伯駒の作と目したが、用亨は「これは王詵の筆だ」と言い、巻尾に至って果たしてそのとおりであった。
- 陳登は字を思孝。はじめ羅田県丞に仕え、蘭谿に改まり、再び浮梁に改まり、選ばれて翰林に入ったが、なお県丞の禄を給された。十年を歴してはじめて中書舎人を授かった。登は六書の本原について博く考え詳しく究め、力を用いること甚だ勤めた。周・秦以来の残碑断碣は必ず窮め搜して摹搨し、審らかに度って弁定した。その伝を得た者が太常卿で南城の程南雲である。
聶大年
- 字は寿卿、臨川の人。父の同文は洪武中に翰林侍書・中書舎人に官した。燕王が京師に入ったとき、迎え謁える道中で暑気に当たって死んだ。死後五か月して大年が生まれ、母の胡氏が撫育した。
- 長ずるに及び博学で詩・古文を善くした。葉盛はその詩を「三十年来の絶唱である」と称した。書は欧陽率更(欧陽詢)の法を得た。
- 宣徳の末、薦められて仁和訓導を授かった。母が卒すると帰って葬り、その哀しみは道行く人をも感じさせた。里人がその母子の賢行を列記して有司に上げ、詔してその門を旌表した。服喪が明けると常州に分教し、仁和教諭に遷った。景泰六年(1455年)薦められて翰林に入ったが、ほどなく病を得て卒した。
- はじめ尚書の王直が詩を銭塘の戴文進に寄せて画を求めた。その自序に「昔、文進と交わり、戯れに詩一聯を作ったが、いま十年してようやく成った」とあった。大年がその後に題して「公は文進の画を愛して十年も忘れなかった。この心で天下の賢者を待つならば、天下にどうして遺賢がありましょうか」と書いた。直はその言を聞いても怒らず、また薦めもしなかった。
- 大年の病が篤くなったとき、詩を作って直に贈り、「鏡中の白髪は誰か我を憐れまん、湖上の青山は誰を待たんと欲する」の句があった。直は「これは私に墓誌を書かせたいのだ」と言い、そのために誌を作った。
劉溥
- 字は原博、長洲の人。祖の彦、父の士賓はいずれも医で官を得た。溥は八歳で「溝水詩」を賦し、当時「聖童」と目された。長じて祖父・父に侍して両京に遊び、経史を研究し、あわせて天文・厯数に通じた。
- 宣徳の時、文学を以て徴されたが、溥は医を善くすると言う者があったので恵民局副使を授かり、太医院吏目に調せられた。医で名のることを恥じ、日々吟詠を事とした。
- その詩ははじめ西崑を学び、のちさらに奇縦となった。湯允勣・蘇平・蘇正・沈愚・王淮・晏鐸・鄒亮・蔣忠・王貞慶とともに「景泰十才子」と号し、溥が主盟であった。
景泰十才子(附)
- 允勣は東甌王湯和の曽孫で、自ら伝がある。
- 蘇平は字を秉衡、弟の正は字を秉貞、海寧の人。兄弟ともに布衣で終わった。
- 沈愚は字を通理、崑山の人。生涯医を業とした。
- 王淮は字を柏源、慈谿の人。
- 晏鐸は字を振之、富順の人。庶吉士から御史を授かり、両畿・山東を按じて至る所に声誉があった。言事に坐して上高典史に謫せられた。隣境に寇が起こり官兵が討てなかったのを、鐸が捕らえ滅ぼし、掠奪されたものを民に返した。
- 鄒亮は字を克明、長洲の人。况鍾の薦めにより吏部司務に擢せられ、御史に遷った。
- 蔣忠は字を主忠、儀真の人。句容に移り住んだ。
- 王貞慶は字を善甫、駙馬都尉の王寧の子である。節を折って士を好み、詩名があり、当時「金粟公子」と称された。
張弼
- 字は汝弼、松江華亭の人。成化二年(1466年)進士。兵部主事を授かり、員外郎に進み、南安知府に遷った。この地は両広の要衝に当たり、奸人が山谷に集まって悪をなしていたが、ことごとく捕らえ滅ぼした。淫祠百数十区を毀ち、社学を建てた。病と称して帰ったとき、士民はその祠を立てた。
- 弼は幼くして穎抜、詩文を善くし、草書に巧みで、怪偉跌宕として一世を震撼した。自ら東海と号したので「張東海」の名が外夷にまで流播した。
- 詩を作るのに手の向くまま筆を縦にし、草稿を残さないことが多かった。草稿があっても、書のゆえに人が持ち去ってしまった。李東陽・謝鐸と親しかった。かつて自ら「私は書が詩に及ばず、詩が文に及ばない」と言ったが、東陽は戯れて「英雄が人を欺くのはいつもこうだ。信ずるに足りない」と言った。鐸は「学を好んで倦まず、詩文は一家を成した」と称した。子の𢎞至には自ら伝がある。
張泰・陸釴・陸容
- 張泰は字を亨父、太倉の人。陸釴は字を鼎儀、崑山の人。陸容は字を文量、これも太倉の人。三人は若くして名を斉しくし「婁東三鳳」と号された。
- 泰は順天に挙がり、八年の進士。庶吉士に選ばれ検討を授かり、修撰に遷った。人となりは恬淡で自ら守った。詩名は李東陽に次ぎ、𢎞治の間、文壇はみな「李懐麓・張滄洲」と称した。東陽に「懐麓堂集」、泰に「滄洲集」があるからである。
- 釴は泰と同年の進士で、殿試第二。編修を授かり、修撰・諭徳を歴した。孝宗が立つと東宮の講読の労により太常少卿に進み侍読を兼ねた。病を得て帰った。泰・釴はいずれも早く卒した。
- 容は成化中の進士、殿試第二。兵部職方郎中に進んだ。西番が獅子を献じ、大臣を遣わして迎えるよう奏請したとき、容は諫めてやめさせた。浙江参政に遷り、罷めて帰った。
程敏政――神童から侍講学士へ
- 字は克勤、休寧の人。南京兵部尚書の程信の子である。十歳のとき父の官に侍して四川にいたが、巡撫の羅綺が神童として薦め、英宗が召して試みて悦び、翰林院で読書させ廩饌を給するよう詔した。学士の李賢・彭時が成くこれを愛重し、賢は娘を妻わせた。
- 成化二年(1466年)進士及第、編修を授かり、左諭徳を歴して東宮に直講した。翰林のなかで、学問の該博なら敏政、文章の古雅なら李東陽、性行の真純なら陳音と称され、それぞれ一時の冠であった。
- 孝宗が位を嗣ぐと、宮僚の恩により少詹事兼侍講学士に擢せられ経筵に直した。敏政は名臣の子で才が高く文学を負い、常に同輩を見下したので、かなり人に憎まれた。𢎞治元年(1488年)冬、御史の王蒿らが雨災を理由に敏政を弾劾し、致仕を勒せられた。
- 五年(1492年)復官し、ほどなく太常卿兼侍読学士に改まり院事を掌り、礼部右侍郎に進んで専ら内閣の誥勅を典った。
程敏政――会試鬻題の獄
- 十二年(1499年)李東陽とともに会試を主宰したところ、挙人の徐経・唐寅があらかじめ作った文が試題と合致した。給事中の華㫤が敏政を「題を売った」と弾劾した。時に榜はまだ発表されておらず、詔して敏政に閲巻させず、その録した者は東陽に同考官とともに覆校させたが、二人の巻はいずれも採られた中になかった。東陽はそう報告したが、言う者はなお已まなかった。
- 敏政・㫤・経・寅はいずれも下獄した。経はかつて敏政に贄をもって見え、寅はかつて敏政に文を乞うたことに坐して、吏に落とされた。敏政は致仕を勒せられ、㫤は言事が不実であったとして南京太僕主簿に調せられた。
- 敏政は出獄すると憤り恚って癰を発して卒した。のち礼部侍郎を贈られた。ある者は「敏政の獄は、傅瀚がその地位を奪おうとして㫤に奏させたのだ」と言うが、事は秘されて明らかにできない。
羅玘――古文への沈潜
- 字は景鳴、南城の人。博学で古文を好み、務めて奇奥を為した。年四十で諸生のまま困窮し、粟を輸して国学に入った。邱濬が祭酒であったとき、南人は北監に留めないという議があったが、玘は固く請んで已まなかった。濬は罵って「おまえは幾字を識っていて、そんなに崛強なのか」と言った。玘は仰いで「ただ中秘の書だけがまだ読めておりません」と答えた。濬はしばらく留め、後日文を試みたところ、大いに驚き異とした。
- 成化の末、京闈の郷試第一。翌年進士に挙がり、庶吉士に選ばれ編修を授かった。ますます古文に力を尽くし、作るたびに高い樹に拠り、あるいは一室に閉じ籠って坐し、目を瞑って心中に度り、形容は灰のように槁れた。これより文はいよいよ奇となり、玘もまた大いに自負した。
羅玘――節義と諫言
- とくに節義を尚んだ。台諫が劉遜を救おうとしてことごとく下獄したとき、玘は「優容して国体を全うすべきだ」と言った。
- 宦官の李広が死に、大臣で賄賂を交わした者を記した籍を一つ遺した。帝が怒って言官に名を指して弾劾するよう命じたとき、玘は上言した。「大臣は百僚の表となる者。いまもしこのようであれば重典に置くのが当然だが、天下も四裔もみなこれを仰ぎ望んでいる。一朝にして名を指してその悪を暴けば、遠人が朝廷を慢る心を起こす。言官は籍記を見ておらず、臆測で論ずれば玉と石をどう弁別できよう。ひとたび攻め摘まれれば終身の瑕となる。臣は勅を降して密かに諭し、病と称して退かせるか、他の事にことよせて斥けるようお願いしたい。そうすれば朝廷の恥とならず、仕路もまた清まる」。
- 李夢陽が下獄したときは、「寿寧侯は肺腑の親であり、これを保全する道があってしかるべきだ。夢陽は侯の累となることまでは保証できまい」と言い、帝は深く納れた。
- 任期が満ちて侍読に進んだ。正徳初、南京太常少卿に遷った。劉瑾が政を乱し、李東陽がその間で依違していたとき、玘は東陽の挙げた士であったが、書を贈って大義を以て責め、あわせて門生の籍から削るよう請うた。
- ほどなく本寺の卿に進み、南京吏部右侍郎に擢せられた。事に遇っては厳謹で、僚属は畏れ憚った。畿輔に盗が横行し皇儲がまだ立てられていないとき、玘の疏は論が激切で、あわせて執政をも侵した。七年(1512年)冬、考績のため都に赴き、そのまま病と称して致仕して帰った。
- 寧王の宸濠がその名を慕って使者を遣わし贈り物をしたが、玘は深山に避けた。叛くに及んで玘はすでに病んでいたが、書を守臣に馳せて賊を討つことを約した。事がまだ挙がらぬうちに卒した。嘉靖初、諡を文粛と賜った。学者は圭峰先生と称した。
儲巏――吏部での公正
- 字は静夫、泰州の人。九歳で文を属ることができた。母が病んだとき股を刲いて療したが、ついに癒えなかった。家は貧しく、力を尽くして墓域を営み、朝には冢で哭し、夜は読書して輟めなかった。
- 成化十九年(1483年)郷試、翌年(1484年)会試、いずれも第一。南京考功主事を授かった。孝宗が位を嗣ぐと、かつて直諫して貶謫された者――主事の張吉・王純、中書舎人の丁璣、進士の李文祥ら――を薦める疏を上げ、吉らはみな録用された。
- 久しくして郎中に進んだ。吏部尚書の耿裕はその賢を知って北部に調え、考課の注記はその臧否がすべて至公から出た。かつて一官の実を糺したとき、裕がその評を改めようとしたので、巏は正色して「公の執るところは王介甫(王安石)と何が違いましょう」と言った。群僚がみなそばにいたので裕は大いに慚じ、やがて「郎中の言が是である。だが私でなければ容れられまい」と言った。
儲巏――劉瑾の下でも節を守る
- 太僕少卿に擢せられ、古の左右史のように史官に言動を記注させるよう請うたが、当時は用いられなかった。本寺の卿に進んだ。
- 武宗が立ち、塞上に警があったとき、辺を禦ぐ五事を条陳し、また馬政で民を病ませている四事を陳べ、多くは議して行われた。正徳二年(1507年)左僉都御史に改まり南京の糧儲を総督し、召されて戸部右侍郎となり、ほどなく左に転じて倉場を督した。至る所で積年の弊をことごとく釐めた。
- 劉瑾が事を用い、しばしば大臣を陵侮したが、ひとり巏だけは敬って「先生」と称した。巏はその所為を憤り、五年(1510年)春、病と称して去るのを求めた。詔して伝を乗ることを許し、様子を伺わせて病が癒えたら報告させることにした。その秋に瑾が敗れ、故官を以て召されたが辞して赴かなかった。のち南京戸部左侍郎に起こされ、そのまま吏部に改まり、官に卒した。
- 巏は体貌が清羸で衣にも堪えぬようであったが、行いは淳く身は清く、介然として自ら守った。詩文に巧みで、知名の士を推し引くのを好み、非類は遠く避け、悪みはしないが厳であった。
- 進士の顧璘がかつて尚書の邵宝に謁したとき、宝は「君は身を立てるのに柴墟を法とすべきだ」と言った。柴墟とは巏の別号である。嘉靖初、諡を文懿と賜った。
李夢陽――寿寧侯を弾劾する
- 字は献吉、慶陽の人。父の正は周王府教授に官し、開封に移り住んだ。母が日輪の懐に墜ちる夢を見て生んだので夢陽と名づけた。
- 𢎞治六年(1493年)陝西郷試第一、翌年(1494年)進士。戸部主事を授かり郎中に遷った。関の榷税で権勢家を阻んだため罪に構えられ下獄したが釈された。
- 十八年(1505年)詔に応じて上書し、二病・三害・六漸を陳べ、あわせて五千余言、極めて得失を論じた。末に「寿寧侯の張鶴齢は無頼を招き入れ、利を罔りて民を賊し、勢いは翼ある虎のようだ」と言った。鶴齢は奏して弁じ、疏中の「陛下は張氏を厚くする」の語を摘んで、夢陽が母后を誹謗して張氏のためにしたと誣告し、罪は斬に当たるとした。
- 時に皇后は寵があり、后の母の金夫人が泣いて帝に訴えたので、帝はやむを得ず夢陽を錦衣獄に繋いだ。ほどなく宥して出し、俸を奪った。金夫人が訴えて已まなかったが、帝は聴かず、鶴齢を間処に召して切責した。鶴齢が冠を免いで叩頭してようやく已んだ。左右は帝が夢陽を護っていると知り、重罪にせず杖を加えて金夫人の憤りを洩らすよう請うたが、帝はまた許さず、尚書の劉大夏に「あの者どもは杖で夢陽を斃したいだけだ。私が直臣を殺して左右の心を快くしてやることがあろうか」と言った。
- 後日、夢陽は途中で寿寧侯に遇うと罵り、馬箠で打って歯二本を落とした。寿寧侯は敢えて争わなかった。
李夢陽――劉瑾との対決
- 孝宗が崩じ武宗が立ち、劉瑾ら「八虎」が事を用いた。尚書の韓文がその僚と語り及んで泣いた。夢陽が進んで「公は大臣です、なぜ泣くのですか」と言った。文が「どうしたらよいか」と言うと、「近ごろ言官が群奄を弾劾したが、閣臣がその章を握って離さない。公がまことに諸大臣を率いて闕に伏して争えば、閣臣は必ず応じ、あの者どもを去らせるのは易しい」と言った。文は「善し」と言い、夢陽に草を属した。
- ところが語が洩れ、文らはみな逐い去られた。瑾は深く恨み、旨を矯めて山西布政司経歴に謫し、致仕を勒した。やがて瑾はまた他事を摭って夢陽を獄に下し殺そうとしたが、康海が説いたので免れた。
- 瑾が誅されると故官に起こされ、江西提学副使に遷った。
李夢陽――江西での紛争と失脚
- 令甲では副使は総督に属していたが、夢陽はこれと抗した。総督の陳金は憎んだ。監司は五日ごとに会揖するが、巡按御史のもとへ夢陽はまた揖しに行かず、しかも諸生に上官に謁するなと勅し、謁するとしても長揖して跪くなと命じた。御史の江万実もまた夢陽を憎んだ。
- 淮王府の校が諸生と争ったとき、夢陽は校を笞った。王は怒って奏し、御史に下して按治させた。夢陽は万実が王に味方するのを恐れ、万実を訐した。詔して総督の金に下して勘問させ、金は布政司の鄭岳に檄してこれを勘べさせた。夢陽は万実が金を弾劾する疏を偽作して金を激怒させ、あわせて岳の子の沄が賄を通じた事を構えた。
- 寧王の宸濠は夢陽を浮薄に慕い、かつて「陽春書院記」を撰するよう請うたことがあり、また岳を憎んでいたので、夢陽を助けて岳を弾劾した。万実はまた夢陽の短所と奏章を偽作した事を奏した。参政の呉廷挙も夢陽と隙があり、その官を侵したことを上疏して論じ、命を俟たずに直ちに去った。
- 詔して大理卿の燕忠を遣わして鞫問させ、夢陽を広信の獄に繋ぐよう詔した。諸生一万余人が冤を訴えたが聴かれなかった。夢陽は同列を陵轢し上官を挟制したとして弾劾され、そのまま冠帯閒住として去った。岳もまた職を褫われ、沄は謫戍され、廷挙は俸を奪われた。
- 夢陽は家居してからますます□(底本欠字)弛となり、気を負い、園池を治め賓客を招き、日ごとに俠少を縦にして繁台・晋邱の間で射猟し、自ら空同子と号し、名は海内を震わせた。
- 宸濠が反いて誅されると、御史の周宣が夢陽を逆党として弾劾し逮えられたが、大学士の楊廷和・尚書の林俊が力めて救った。以前に書院記を作ったことに坐して籍を削られ、ほどなく卒した。子の枝は進士。
李夢陽――復古の唱道と評価
- 夢陽の才思は雄鷙で、卓然として復古を以て自ら任じた。𢎞治の時、宰相の李東陽が文柄を主り、天下は翕然としてこれを宗としたが、夢陽ひとりその萎弱を譏り、「文は必ず秦漢、詩は必ず盛唐、これに非ざるものは道わず」と唱えた。
- 何景明・徐禎卿・邊貢・朱応登・顧璘・陳沂・鄭善夫・康海・王九思らとともに「十才子」と号し、また景明・禎卿・貢・海・九思・王廷相とともに「七才子」と号した。みな一世を卑視したが、夢陽がとりわけ甚だしかった。呉の人の黄省㑹、越の人の周祚は千里を隔てて書を致し弟子となることを願った。
- 嘉靖朝に至って李攀龍・王世貞が出、あらためて宗と奉じたので、天下は李(夢陽)・何(景明)・王(世貞)・李(攀龍)を四大家と推し、争ってその体に倣わぬ者はなかった。華州の王惟禎は「七言律は杜甫以後、頓挫・倒插の法をよく用いたのは夢陽ひとりだけだ」とした。
- のちに夢陽の詩文を譏る者は、「模擬剽窃であって、司馬遷・杜少陵の似を得て真を失った」と言うという。
康海・王九思(附)
- 康海は字を徳涵、武功の人。𢎞治十五年(1502年)殿試第一、修撰を授かった。孟陽らと相唱和し、諸先達を訾議したので、忌む者がかなり多かった。
- 正徳初、劉瑾が政を乱し、海が同郷であるうえその才を慕って招致しようとしたが、海は行こうとしなかった。折しも夢陽が下獄し、片紙を書いて海を招き「対山、我を救え」と言った。対山とは海の別号である。海はそこで瑾に謁した。瑾は大いに喜び、履を倒して迎えた。海は詭辞を設けて説いたので瑾の意は解け、翌日夢陽は釈された。一年余りして瑾が敗れると、海は党に坐して落職した。
- 王九思は字を敬夫、鄠の人。𢎞治九年(1496年)進士。庶吉士から検討を授かり、ほどなく吏部に調せられ郎中に至ったが、これも瑾の党として寿州同知に謫せられ、さらに論ぜられて致仕を勒せられた。
- 海と九思は同郷・同官で、同じく瑾の党として廃された。常に沜東・鄠杜の間に相集まり、声伎を挟んで酣飲し、楽を製し歌曲を造り、自ら俳優になぞらえてその怫鬱を寄せた。九思はかつて重い費用を出して楽工を購い琵琶を学び、海は搊弾がとくに善かった。後人はこれを伝えて倣い合い、大雅の道は衰えた。
王維禎(附)
- 王維禎は字を允寧。嘉靖十四年(1535年)進士、庶吉士に擢せられ、累官して南京国子祭酒。家に居ったとき大地震で圧死した。
- 維禎は長身で色白、経世の才を自負したが、文墨の職にあって世に少しも効すことができず、酒に任せて漫罵したので、人の多くは畏れて遠ざかった。
- 文では司馬遷を好み、詩では杜甫を好んだが、その意では夢陽がこの二人を兼ねるとして、終身服膺して法とした者は夢陽であった。
何景明――劉瑾との対立
- 字は仲黙、信陽の人。八歳で詩・古文をよくした。𢎞治十一年(1498年)郷に挙がったとき、年はまだ十五。宗藩の貴人が争って人を遣わし背負って見物させ、至る所に垣を成すほど人が集まった。
- 十五年(1502年)進士に及第、中書舎人を授かった。李夢陽らとともに詩・古文を唱えた。夢陽が最も雄駿で、景明はやや後れて出、相い頡頏した。
- 正徳と改元し劉瑾が権柄を窃むと、吏部尚書の許進に上書して政を秉って撓むなと勧め、語ははなはだ激烈であった。やがて病と称して帰った。一年余りして瑾は在告の者の官をことごとく免じ、景明も坐して罷められた。
- 瑾が誅されると、李東陽の薦めにより故秩に起こされ内閣の制勅房に直した。李夢陽が下獄したとき、衆人は敢えて弁ずる者がなかったが、景明は吏部尚書の楊一清に上書して救った。
何景明――諫言と陝西提学
- 九年(1514年)乾清宮が焼けたとき、義子を畜うべきでない、辺軍を留めるべきでない、番僧を寵すべきでない、宦官を任ずべきでないと疏言した。留中されたが、久しくして吏部員外郎に進み、制勅に直することは元のとおりであった。
- 銭寧が交歓しようとして古画に題を求めたとき、景明は「これは名筆だ、人の手を汚すな」と言って一年余り留め置き、ついに投げ返した。
- ほどなく陝西の題学副使に擢せられた。廖鵬の弟の太監の廖鑾が関中を鎮して横暴がはなはだしく、諸々の参随は三司に遇っても下馬しなかった。景明はこれを捕らえて撻った。
- 諸生を教えるには専ら経術と世務を以てし、秀でた者を正学書院に選び、親ら経を説き、諸家の訓詁を用いなかった。士ははじめて経学のあることを知った。
- 嘉靖初、病と称して帰り、ほどなく卒した。年三十九。
何景明――夢陽との論争
- 景明は志操が耿介で節義を尚び栄利を鄙み、夢陽とならんで国士の風があった。二人は詩文を作るのに、はじめは相得て甚だ歓んだが、名が成ったのちは互いに詆り合った。夢陽は摹倣を主とし、景明は剏造を主とし、それぞれ堅い塁を樹てて譲らず、二人の交游もそこで左袒・右袒に分かれた。
- 説く者は「景明の才はもとより夢陽に遜るが、その詩の秀逸穏称なことは夢陽に比べてかえって過ぎている」と言う。しかし天下が詩文を語れば必ず「何・李」と並称し、また邊貢・徐禎卿とあわせて「四傑」と並称した。
- その持論は「詩は陶淵明・謝霊運に溺れ、力めてこれを振るったのが謝であって、古詩の法は謝で亡んだ。文は隋に靡れ、力めてこれを振るったのが韓愈であって、古文の法は韓で亡んだ」というものであった。その意は夢陽を詆るところにあり、篤論ではない。
徐禎卿
- 字は昌穀、呉県の人。資質は穎特で、家に一書も蓄えなかったが通じないものがなかった。諸生であったころすでに詩歌に巧みで、里人の唐寅と親しく、寅が沈周・楊循吉に言ったので、これによって知名となった。
- 𢎞治十八年(1505年)進士に挙がる。孝宗が中使を遣わして禎卿と華亭の陸深の名を問うた。深はそれで館選に入ったが、禎卿は容貌が醜いとして与らず、大理左寺副を授かった。囚を失ったことに坐して国子博士に貶せられた。
- 禎卿は若いころ貺允明・唐寅・文徴明と名を斉しくし「呉中四才子」と号された。その詩は白居易・劉禹錫を喜んだが、及第して李夢陽・何景明と交わってからは若いころの作を悔い、改めて漢魏・盛唐に趨いた。しかし旧習がなお残り、夢陽はその「守って化せず」を譏った。
- 卒した年は二十三。禎卿は体は癯せて神は清く、詩は鎔錬されて精警、呉中の詩人の冠であった。年は長くなかったが名は士林に満ちた。子の伯虬は挙人で、これも詩をよくした。
楊循吉(附)
- 字は君謙、呉県の人。成化二十年(1484年)進士、礼部主事を授かった。病がちで読書を好み、意を得るたびに手足が踔り掉れて自ら禁じられなかった。これで「顛主事」の名を得た。一年のうちに何度も病を移して出仕せず、𢎞治初、教職に改めるよう奏請したが許されず、そこで致仕を請うて帰った。年はわずか三十一であった。
- 支硎山の下に廬を結び、経史を課読し、あわせて内典・稗官にも通じた。父母が歿すると資財を傾けて葬を営み、墓のかたわらで苫に寝た。性は狷隘で人の短長を持するのを好み、また学問で人を窮めるのを好み、相手が頬を赤くしても顧みなかった。
- 清寧宮が焼けて直言を求める詔があったとき、疏を馳せて建文帝の尊号を復するよう請うたが、格められて行われなかった。
- 武宗が南都に駐驆したとき、召されて「打虎曲」を賦し旨に称った。武人の装に改めさせられ、日々御前に侍して楽府の小令を作った。帝は優人・俳優のように畜って官を授けなかった。循吉は恥として、九か月を経て辞して帰った。のちまた召されて京に至ったが、帝の崩御に会って還った。
- 嘉靖中、「九廟頌」および「華陽求嗣斎議」を献じたが、報聞されただけであった。晩年は落寞となり、ますます堅く癖を守って自ら好しとした。尚書の顧璘が呉を通ったとき、幣を贄として膝を突き合わせて文を論じ、たいそう歓んだ。ところが郡守が璘を招き、璘が赴こうとすると、循吉は突然顔色を変えて追い出し、その幣を投げ返した。翌日、璘が謝りに行くと門を閉じて入れなかった。
- 卒した年は八十九。その詩文は自ら定めて「松籌堂集」とし、他の著作もまた十余種、ほぼ千巻に及ぶ。
祝允明(附)
- 字は希哲、長洲の人。祖の顕は正統四年(1439年)進士。内侍が旨を伝えて文を能くする者四人を試みたとき、顕もこれに与った。掖門に入って、小内竪を教えさせるつもりだと知り、試みを受けずに出た。給事中から山西参政を歴し、ともに声誉があった。
- 允明は𢎞治五年(1492年)郷に挙がったが、久しく及第せず、広東興寧知県を授かった。盗の首魁三十余人を捕らえ戮し、邑は警がなくなった。やや遷って応天通判となり、病と称して帰った。嘉靖五年(1526年)卒。
- 允明は生まれつき枝指であったので自ら枝山と号し、また枝指生とも号した。五歳で径尺の字を作り、九歳で詩をよくした。やや長じて群集を博覧し、文章に奇気があり、筵に当たって疾く書し、思いは湧く泉のようであった。とくに書法に巧みで名は海内を動かした。
- 酒色と六博を好み、新声を善くした。文および書を求める者が踵を接し、多くは妓に賄って掩い取った。礼法の士を悪み、また生産を問わず、収入があると客を招いて豪飲し、費い尽くしてやめ、あるいは分け与えて持ち去らせ、一銭も残さなかった。晩年はますます困窮し、外出のたびに借金取りが後を追った。允明はますます自ら喜んだ。
- 著すところに詩文集六十巻、他の雑著百余巻がある。子の続は正徳中の進士、官は広西左布政司に至った。
唐寅(附)
- 字は伯虎、また字は子畏。□(底本欠字)穎利であった。里の狂生の張霊と酒を縦にして諸生の業を事とせず、祝允明が規したので門を閉じて一年、𢎞治十一年(1498年)郷試第一に挙がった。
- 座主の梁儲はその文を奇とし、朝に還って学士の程敏政に示し、敏政もまたこれを奇とした。ほどなく敏政が会試を総裁したとき、江陰の富人の徐経がその家僮に賄って試題を得、事が露見して、言う者が敏政を弾劾し、語は寅にまで連なり、詔獄に下されて吏に謫せられた。寅は恥じて就かず、家に帰ってますます放浪した。
- 寧王の宸濠が厚い幣で聘したが、寅はその異志を察し、狂を装い酒に任せてその醜穢をあらわにした。宸濠は堪えられず放ち還した。桃花塢に室を築き、客と日々そのなかで飲み合った。年五十四で卒した。
- 寅の詩文ははじめ才情を尚んだが、晩年は頽然として自ら放ち、「後人が我を知るのはここにはない」と言った。論ずる者はこれを傷んだ。
- 呉中では枝山らの放誕不羈が世に指弾されつつ、その文才の軽艶さは同輩を傾動させたので、伝え説く者が増益し附会し、しばしば名教の外に出た。
桑悦(附)
- 当時、常熟に桑悦、字は民懌なる者がいた。とくに怪妄であったが、これも才で呉中に名があった。書は目を通すとすぐ焼き棄てて「もう我が腹中にある」と言った。敢えて大言し、孟子を以て自ら況えた。ある者が翰林の文章を問うと、「虚しくて人がない。天下を挙げてただ悦が第一、その次が祝允明、また次が羅玘だ」と言った。
- 諸生であったとき監司に謁して「江南の才子」と名のった。監司は大いに駭き、招いて書を校させ、あらかじめ字句を落として試みたところ、悦は文義の通らないところに筆を求めて補った。
- 年十九で成化元年(1465年)の郷試に挙がった。会試では春官に対する答策の語が雅馴でないとして斥けられ、三たび試みて副榜を得た。年は二十余りであったが、年籍が「二」を「六」に誤ったため、そのまま泰和訓導に除せられた。
- 学士の邱濬はその文を重んじ、学使者に善く遇するよう属した。使者が至ったとき、悦が迎えないので「病でもあるのか」と問うた。長吏はみな悦を恨んでいたので「病ではありません。才名を自負して謁しようとしないのです」と言った。使者が吏を遣わして召んだが来ず、さらに二度促した。悦は怒って「はじめ私は天下に耳のない者はいないと思っていたが、いまいた。三日後に来ると約束する。しつこくすれば来ない」と言った。使者は恚って悦を収めようとしたが、濬のゆえに果たさなかった。
- 三日して来て見え、使者に長揖した。使者が怒ると、悦は帽を脱いでそのまま去った。使者が階を下りて謝ってようやく已んだ。
- 長沙通判に遷り、桞州に調せられたが、外艱に会って帰り、そのまま出なかった。家に居ってますます狂誕となり、郷人はその文を重んじつつその行いに駭かぬ者はなかった。
- はじめ悦は京師にいたとき、高麗の使者が市中で本朝の「両都賦」を求めたが無かったのを見て恥とし、そこでこれを賦した。長沙にいたときは「庸言」を著し、自ら天人の際を窮究したとした。その著書はかなり世に行われている。
邊貢
- 字は廷実、厯城の人。祖の寧は応天治中、父の節は代州知州。
- 貢は年二十で郷に挙がり、𢎞治九年(1496年)進士に及第。太常博士に除せられ、兵科給事中に擢せられた。
- 孝宗が崩じたとき、中官の張瑜、太医の劉文泰・高廷和の用薬の誤りを疏で弾劾し、また中官の苗逵、保国公の朱暉、都御史の史琳の用兵の失を弾劾した。
- 太常丞に改まり、衛輝知府に遷り、荊州に改まり、いずれもその官をよくした。陝西・河南の提学副使を歴し、母の憂で家に居った。
- 嘉靖と改元して薦めにより南京太常少卿に起こされ、三たび遷って太常卿となり四夷館を督し、刑部右侍郎に擢せられ、戸部尚書を拝した。いずれも南京においてである。
- 貢は早くから才名を負い、風姿が美しく、交わる者はみな海内の名士であった。久しく留都に官し、優閒で事がなく、江山を遊覧し、筆を揮い白(大杯)を浮かべ、夜を日に継いだ。都御史がその「酒を縦にして職を疾る」ことを弾劾し、そのまま罷めて帰った。
顧璘――官歴
- 字は華玉、上元の人。𢎞治九年(1496年)進士、広平知県を授かり、南京吏部主事に擢せられ、郎中に晋んだ。
- 正徳四年(1509年)出て開封の知県となり、しばしば鎮守太監の廖堂・王宏と忤い、逮えられて錦衣獄に下され、全州知州に謫せられた。任期が満ちて台州知府に遷り、浙江布政使・山西を歴し、湖広巡撫右副都御史となり、至る所に声誉があった。
- 吏部右侍郎に遷り、工部に改まって顕陵の工を董し、工が畢わって南京刑部尚書に遷り、罷めて帰り、七十余りで卒した。
顧璘――士を好む
- 璘は若くして才名を負い、何(景明)・李(夢陽)と相上下した。己を虚しくして士を好むこと、及ばぬのを恐れるかのようであった。
- 浙にいたとき孫太初(孫一元)を慕ったが会えなかった。道衣・幅巾で舟を湖上に放ったところ、月下に小舟が断橋に泊まり、僧一人・鶴一羽・童子一人が茗を煮ているのを見て、笑って「これは必ず太初だ」と言い、舟を移して近づき、以後は往還して隔てがなかった。
- 湖広を撫したときは王廷陳の才を愛して会いたがったが、廷陳は応じなかった。廷陳が狎れて遊ぶのを偵らせ、すばやく不意を襲ったので、廷陳は避けられず、そのまま交わりを結んだ。
- 帰ってからは息園を構え、大いに幸舍を治めて客を住まわせ、客は常に満ちていた。従弟の瑮、字は英玉は河南副使から帰り、園のかたわらの一小楼に居り、教授して自給した。璘はしばしば客と豪飲し伎楽を雑え奏させて瑮を呼んだが、瑮はついに赴かなかった。その孤介はこのようであった。
金陵三俊・四大家(附)
- はじめ麟は同里の陳沂・王韋とともに「金陵三俊」と号された。のち実応の朱応登が継いで起こり「四大家」と称された。
- 璘の詩は唐人を矩矱とし風調で勝れ、韋は婉麗で趣が多いがかなり繊弱に失し、沂は韋と同調、応登は才思が泉のように湧き、筆を落とせば千言であった。しかし璘と応登は李夢陽の羽翼であり、韋と沂はかなり異論を持した。三人はいずれも仕官では璘に及ばなかった。
- 陳沂は字を魯南。正徳中の進士。庶吉士から編修・侍講を歴し、出て江西参議となり、量って山東参政に移り、張孚敬・桂蕚に附かなかったため行太僕卿に改まり致仕した。
- 王韋は字を欽佩。父の徽は成化時の給事中で直諫の声があった。韋は𢎞治中の進士に挙がり、庶吉士から官は太僕少卿を歴した。子の逢元もまた詩をよくした。
- 朱応登は字を升之。𢎞治中の進士。雲南提学副使を歴し参政に遷ったが、飛語に中たって罷めて帰った。子の日藩は嘉靖間の進士、九江知府で終わり、文章をよくして家を継いだ。
南都の詞壇(附)
- 南都は洪武・永楽のはじめ以来、風雅がまだ暢びなかった。徐霖・陳鐸・金琮・謝璿らが芸を談じ、正徳の時にようやく振るい起こった。
- 璘が詞壇を主宰してからは、士大夫が風を希い塵に附き、その道は大いに彰れた。許榖・陳鳳、璿の子の少南、金大車・金大輿、金鑾・盛時泰・陳芹の属がみなこれに従って遊んだ。榖らはみな里の人、鑾は喬居の客である。
- 儀真の蔣山卿、江都の趙鶴もまた璘と遥かに相応和した。末造に至るまで風流は歇まなかったという。
鄭善夫
- 字は継之、閩県の人。𢎞治十八年(1505年)進士。続けて内艱・外艱に遭い、正徳六年(1511年)はじめて戸部主事となった。許墅で税を榷り清操で聞こえた。
- 時に劉瑾は誅されたものの嬖倖が事を用いていたので、善夫は憤って告げて帰り、金鼇峰の下に草堂を築き、「遅清亭」を作ってそのなかで読書し、「天下の清むのを俟つ」と言った。交游は寡なく、日が晏くなっても炊がないことがあったが、欣然として自得していた。
- 礼部主事に起こされ員外郎に進んだ。武宗が南巡しようとしたとき、同列とともに切諫し、廷で杖たれ、五日跪くよう罰せられた。善夫はさらに疏の草を作って懐中に置き、その僕に「死んだらこれを上げよ。幸いに死なずにすんだら」と属した。嘆じて「時事がこうであるのに、なお顔を厚くして列に就いていられようか」と言った。帰るのを乞うたが得られず、翌年、力めて請うてようやく帰ることができた。
- 嘉靖と改元して薦めにより南京刑部郎中に起こされたが、着任せず吏部に改まった。行って建寧に至り、ついでに武夷九曲に遊んだところ、風雪で糧が絶え、病を得て卒した。年三十九。
- 善夫は行誼に篤く、七人の弟妹の婚嫁の資はことごとく譲り与え、母方の一族二十二人を葬った。交わる者はみな名士で、孫一元・殷雲霄・方豪ととくに親しかった。詩を作るのに力めて杜少陵を摹した。
殷雲霄・方豪(附)
- 雲霄は字を近夫、寿張の人。善夫と同年の進士。「蓄艾堂」を作って書数千巻を集め、作者を以て自ら任じた。正徳中、南京給事中に官した。武宗が身ごもった女子の馬姫を宮中に納れたとき、雲霄は同官とともに疏して李園・呂不韋の事を引いて諷したが、報ぜられなかった。官に卒す、年三十七。郷人の穆孔暉は雲霄の峭直を畏れ、「殷子が不善を恥じるさまは、穢れを負うどころではない」と言った。
- 方豪は字を思道、䦕化の人。正徳三年(1508年)進士。崑山知県に除せられ、刑部主事に遷った。武宗の南巡を諫めて闕下に五日跪き、あらためて杖を受けた。官は湖広副使を歴し、罷めて帰った。
- 一元は隠逸伝に見える。
閩中の詩文の後継(附)――曹學佺・徐□・謝肇淛・鄧原岳
- 閩中の詩文は林鴻・高棅の後、百余年を閲して善夫がこれを継いだ。万厯の中ごろに至って曹学佺・徐□(底本欠字)らが継いで起こり、謝肇淛・鄧原岳がこれに和し、風雅がふたたび振るった。
- 学佺は後の伝に詳しい。
- □(底本欠字)は字を興公、閩県の人。兄の熥は万厯間の挙人。□(底本欠字)は布衣で終わった。博聞多識、草書・隷書を善くし、鼇峰の書舎に書を積むこと数万巻に至った。
- 謝肇淛は字を在杭。万厯三十年(1602年)進士。工部郎中に官し、張秋で河を視た。「北河紀略」を作り、河流の原委および歴代の治河の利病を具さに載せた。広西右布政司で終わった。
- 鄧原岳は字を汝高、これも閩県の人。肇淛と同年の進士。湖広副使で終わった。
陸深
- 字は子淵、上海の人。𢎞治十八年(1505年)進士。庶吉士に選ばれ編修を授かった。
- 正徳四年(1509年)劉瑾が己に亢する翰林官を嫉んでことごとく外に改めたとき、深は南京主事を得た。瑾が誅されて復職した。
- 国子司業・祭酒を歴し、経筵講官を充てた。講官の撰進した講章を閣臣が改竄すべきでないと奏して輔臣に忤い、延平同知に謫せられた。山西提学副使に晋み、浙江に改まり、累官して四川左布政使。松茂の諸番が乱れたとき、深は兵食の調達を主って功があり、金幣を賜った。
- 嘉靖十六年(1537年)召されて太常卿兼侍読学士。世宗が南巡したとき、深は行在の翰林院印を掌り、御筆で「侍読」の二字を削られた。詹事府詹事に進んで致仕し、卒して文裕と諡された。
- 深は若いころ徐禎卿と切磋し、文章を作って名があった。書に巧みで李邕・趙孟頫に倣い、鑑賞は博雅で詞臣の冠であった。しかしかなり倨傲であったので、人はこれを以て貶した。
王圻(附)
- 同邑に王圻という者があり、字は光翰。嘉靖四十四年(1565年)進士。清江知県に除せられ、万安に調せられ、御史に擢せられたが、時の宰相に忤って出て福建按察僉事となり、卭州判官に謫せられた。二たび進賢・曹県を知り、開州知州に遷り、官は陝西布政参議を歴し、養を乞うて帰った。
- 淞江のほとりに室を築き、梅万樹を植えて「梅花源」と名づけ、著書を事とした。年は耄耋を踰えてもなお篝灯を帳中にして、丙夜まで輟めなかった。撰した「続文献通考」など諸書が世に行われている。
- はじめ圻は奏議によって趙貞吉に推された。張居正が貞吉と交悪し、圻に諷して攻めさせようとしたが応じなかった。高拱は圻の座主であったが、時あたかも隙を修めていた。徐階もまた圻がその郷人を私して己を助けないとして恚らずにはいられず、そこで摭拾された。
王廷陳――放恣な才
- 字は稚欽、黄岡の人。父の済は吏部郎中。廷陳は慧穎が人に絶し、幼くして遊びを好んだ。父が打つとすぐ大声で「大人はなぜ天下の名士を虐げるのか」と叫んだ。
- 正徳十二年(1517年)進士に及第し庶吉士に選ばれたが、ますます才を恃んで放恣であった。旧例では両学士が館師となり体は厳重であったが、廷陳はその退食を伺ってひとり樹の梢に上り大声で叫び、両学士はどうしようもなく、聞こえぬふりをした。
- 武宗が南巡の詔を下したとき、同館の舒芬ら七人とともに疏して諫めようとしたが、館師の石瑶が力めて止めた。廷陳は「烏母謡」を賦して壁に大書し、珤および執政を刺したので、みな悦ばなかった。やがて疏が上がると帝は怒り、五日跪くよう罰し、廷で杖った。時にすでに吏科給事中に改まっていたので、出て裕州知州となった。
王廷陳――裕州での失職
- 廷陳は吏の務めに習わず、また失職を怨望し、簿牒は案に堆く積もっても漫然として省みなかった。夏の日には裸で跣で堂皇に坐し、飛鳥が庭樹に集まるのを見ると訴訟を止めて弾を取って射た。上官が部を巡っても出迎えなかった。
- やがて布政使の陳鳳梧と巡按御史の喻茂堅が前後して至った。廷陳は鳳梧が座主であったのでとくに出迎えた。鳳梧は好んで「君が私を迎えたのは結構だ。御史がすぐ来る。迎えるのは倍して謹むべきだ」と言い、廷陳は承諾した。
- 茂堅が至ると、その平素の驕蹇を銜んでいたので、故意に裁抑しようとして小過を口実に州の吏を搒った。廷陳が跪いて請うと、茂堅はことさらにいっそう激しくした。廷陳は大罵して「陳公が私を誤らせた」と言い、直ちに堂に上って茂堅を搏ち、吏卒をことごとく呼び出してその門を鎖し、供給を絶ち、しかもその奏を出させようとした。茂堅は大いに窘し、鳳梧が解いてようやく夜に馳せ去った。
- ほどなく上疏して弾劾した。折しも裕の人で案件に掛かった者が逃げ出て廷臣の不法の事を奏し、廷陳は収捕されて獄に繋がれ、籍を削られて帰った。
王廷陳――屏居の二十余年
- 世宗が践祚し、以前に直諫して謫せられた者はことごとく復官したが、ひとり廷陳だけは吏議に罣かったため与らなかった。
- 屏居すること二十余年。酒を嗜み倡楽を縦にし、ますます自ら放ち廃れた。士大夫が訪ねて来ても、多くは蓬髪・赤足で賓主の礼を具えなかった。時に紅紫の窄袖の衫を着、牛に騎り馬に跨がり、田野の間で嘯歌した。
- 嘉靖十八年(1539年)「承天大志」を修めるよう詔されたとき、巡撫の顧璘が廷陳および顔木・王格を薦めたが、書が成って旨に称わず、銀幣を賜っただけであった。
- 廷陳は才が高く、詩文は当世に重んじられ、一時の才士でこれに過ぎる者は稀であった。木は応山の人、官は亳州知州。格は京山の人、官は河南僉事。
李濓
- 字は川父、祥符の人。正徳八年(1513年)郷試第一に挙がり、翌年(1514年)進士に及第。沔陽知州を授かり、やや遷って寧波同知、山西僉事に擢せられた。嘉靖五年(1526年)大計により免ぜられて帰った。年はわずか三十八であった。
- 濓は若くして俊才を負い、当時は俠少年と連れ立って騎を並べ城を出て獣を搏ち雉を射た。酒がたけなわになると悲歌し、慨然として信陵君や侯生の人となりを慕った。
- ある日「理情賦」を作り、友人の左国記がこれを持って李夢陽に示した。夢陽は大いに嗟賞し、吹台に訪ねた。濓はこれより声が河洛の間に馳せた。
- 罷めて帰ってからはますます学に力を尽くし、ついに古文で当時に名があった。はじめ夢陽に知られたが、のちには附和することを潔しとしなかった。郷里に居ること四十余年、著述ははなはだ富んだ。