明史卷二百八十 列傳第一百六十八 瞿式耜

瞿式耜は字を起田、常熟の人。禮部侍郎瞿景淳の孫で、萬厯四十四年の進士。崇禎元年に户科給事中となり、逆党の追論や人事の是正を次々に建言して帝の採用を得たが、周延儒の推挙を阻んだために温體仁の反撃を受けて貶謫され、のち張漢儒の誣告で獄に下って家に廃された。福王のとき廣西巡撫に起用され、靖江王亨嘉の僭号を拒んで幽閉されたのち焦璉らとともにこれを平定した。順治三年に永明王由榔を擁立して東閣大學士となり、翌年みずから桂林の留守を願い出て、妻の邵氏が簪珥を供出して軍餉を助けるなか三月にわたる攻防を守り抜き、臨桂伯に封ぜられた。郝永忠の乱暴や朝政の党争にも諫争を絶やさなかったが、七年に諸将が逃散して桂林は無兵となり、府中に端座して総督張同敞とともに捕らえられ、閏十一月十七日に殉節した。桂林陥落に際しては汪皥・朱旻如・周震も死んでいる。

年表(27件)
  • 萬厯四十四年1616年進士に挙げられ吉安の永豐知縣となり恵政がある
  • 崇禎元年1628年户科給事中に抜擢され人事の適材を上疏して多く採用される
  • 崇禎元年1628年逆党附庸の來宗道・楊景辰を論じ二人は罷免される
  • 十月周延儒を閣臣推挙から外させ温體仁の反撃を受けて貶謫される
  • 十七年八月1644年應天府丞に起用され、ついで廣西巡撫に抜擢される
  • 翌年夏1645年靖江王亨嘉の召に応ぜず梧州で脅されて桂林に幽閉される
  • 翌年夏1645年釈放後、焦璉・陳邦傳とともに亨嘉を捕らえて乱を鎮める
  • 十月十日肇慶で監国とし、みずから吏部右侍郎・東閣大學士に進む
  • 十一月朔蘇觀生が廣州で唐王を立て林佳鼎は敗死し峽口で軍を監督する
  • 十二月望大兵が廣州を破り王は西へ走る
  • 順治三年九月1646年丁魁楚らと永明王由榔の擁立を議し梧州に迎える
  • 四年正月1647年肇慶・梧州が破れ王に従って平樂を経て桂林に至る
  • 二月桂林留守を願い出て文淵閣大學士兼兵部尚書に進み剣を賜わる
  • 三月大兵が桂林に迫り焦璉に防戦させ三月にわたって城を守り抜く
  • 十一月何騰蛟とともに全州で大兵を防いで退ける
  • 十二月王が大臣の力争により桂林へ還る
  • 三月大兵の襲来を騰蛟らの防戦で退け桂林は無事を得る
  • 五年二月1648年郝永忠の水東十八村虐殺に対立し調停して興安へ移らせる
  • 五年二月1648年王の西走を力争して容れられず、永忠の略奪で家も奪われる
  • 閏三月李成棟の専横を恐れて王の廣州行きを力争し肇慶に駐まらせる
  • 十一月永州・寳慶・衡州の回復を機に王へ桂林還幸と出楚を請うが容れられず
  • 六年正月1649年召されて文淵閣の印を渡されるがついに入直しない
  • 七年正月1650年南雄陥落後、獄に下った聞時魁らを七度上疏して救おうとする
  • 九月全州が破れ諸将は恐れて兵を出さない
  • 十月胡一青と王永祚が桂林で軍餉を分け榕江は守備を失う
  • 十一月五日諸将が逃散し無兵となった府中に端座して逃走を拒む
  • 閏十一月十七日大雷電のうちに張同敞とともに刑に就いて死ぬ

出自と崇禎初年の言官

  • 瞿式耜は字を起田といい、常熟の人である。禮部侍郎の景淳の孫、湖廣参議の汝説の子である。萬厯四十四年(1616年)の進士に挙げられ、吉安の永豐知縣を授かって恵政があった。
  • 天啟元年(1621年)に江陵へ転じたが、永豐の民が留任を乞い、再任を命じられた。喪により帰郷した。
  • 崇禎元年(1628年)、户科給事中に抜擢され、上疏して「李□(底本欠字)は内閣に留めるべきだ、王永光は銓を掌るべきだ、曹于汴は憲を秉るべきだ、鄭三俊・畢懋良は版曹を総べるべきだ、李邦華は戎政を主るべきだ」と述べ、帝はその言を多く採用した。
  • まもなく朝政の不公平を陳べ、王之寀のために恤典を請い、孫慎行の冤を訴え、楊鎬・王化貞の誅を早めるよう求め、楊漣・左光斗が毒を結んだという誹謗を晴らし、もとの宰相である魏廣微・顧秉謙・馮銓・黄立極の罪を追論した。あわせて、喪を切り上げて生祠を建てた朱童蒙を寛恕してはならず、罪過を積んで久しく廃されている湯賓尹を用いてはならないと述べ、帝もこれを容れた。
  • また來宗道・楊景辰が逆党に附いた以上、政府に居るべきでないと極論し、二人はまもなく罷免された。
  • 御史の袁𢎞勛が大學士の劉鴻訓を弾劾したのは、実は逆党の徐大化が主導したものであり、川貴總督の張鶴鳴は先に廃されていたのにその再起用が魏忠賢によるものであったので、式耜はこれらをあわせて論じた。
  • ついで楊漣・魏大中・周順昌を「清の中の清、忠の中の忠」と称え、三人はそこで諡を賜わった。
  • まもなく時務七事を陳べた。廃された者の起用は審査しないわけにいかない、昇進は順を追わないわけにいかない、会推は慎重にしないわけにいかない、諡の典は厳格にすべきだ、刑章は引き締めるべきだ、人物の評定は慎重にすべきだ、宦官に附いた者は区分すべきだ、というものである。
  • また館選における猟官の弊を極論し、帝が自ら臨んで試験するよう請うた。末尾に、古くは左右の史官が天子の言動を記録した、今は召対がしばしば行われるのだから史官を侍らせて記録させ、朝野に明示すべきだと述べた。多くは議に付されて実行された。
  • 逆案を定めようとしたときには、紅本をすべて出して情実と罪の軽重を定めるよう請うた。また宣府巡撫の徐良彦は逆奄に附かなかったのに崔呈秀に誣告されて戍に遣られたのだから速やかに登用すべきだと述べ、良彦はそこで起用された。

貶謫と閑居

  • 式耜は毅然として名を立て、建言の多くが帝の意に適ったが、権勢ある者を攻撃したため、大臣の多くはその口を恐れた。
  • 十月、閣臣の会推が詔されたとき、周延儒はちょうど政事を論じて帝の眷顧を得ていた。式耜が当事者に働きかけて延儒を推挙から外させたので、温體仁が難を発し、延儒もこれを助け、式耜は貶謫された。
  • 式耜はかつて貴寧参政の胡平表の殺賊の功を称えて優遇の抜擢を請うたが、その後、平表が貴州布政使となって不謹慎の罪で罷免されると、式耜も再び二秩を貶され、そのまま家に廃された。
  • 久しくして、常熟の奸民である張漢儒が體仁の意を迎えて、式耜が貪欲で法を無視していると訴え出た。體仁がこれを主導して法司に下し逮捕して取り調べさせた。巡撫の張國維、巡按の路振飛が相次いで上章してその冤を訴えたが聞き入れられなかった。獄に就くころには體仁はすでに位を去っており、獄はやや緩んで、式耜は徒刑を贖った。言官が上疏して推薦したが容れられなかった。

広西巡撫と靖江王の乱

  • 十七年(1644年)、福王が南京で立ち、八月に式耜を應天府丞に起用し、ついで右僉都御史に抜擢して方震孺に代えて廣西を巡撫させた。
  • 翌年夏(1645年)、梧州に着いたばかりのところで南京が破れたと聞いた。靖江王亨嘉が僭号を謀って式耜を召したが、拒んで行かず、思恩参將の陳邦傳に檄して防備を助けさせ、狼兵が亨嘉の調発に応じないよう止めた。亨嘉は梧州に至って式耜を脅し、桂林に幽閉して、人を遣わしてその敕印を取り上げた。
  • はじめ式耜は桂端王の子である安仁王を立てるべきだと議しており、唐王が監国したときも、序列からして立つべきでないとして勧進の表を奉じなかった。ここに至って亨嘉に幽閉されると、使者を遣わして王を賀し、あわせて援けを乞い、王は喜んだ。
  • 亨嘉は丁魁楚に攻められて追い詰められ、そこで式耜を釈放した。式耜は中軍官の焦璉とともに邦傳を招いて共に亨嘉を捕らえ、乱はそこで鎮まった。
  • 唐王は式耜を兵部右侍郎に抜擢して戎政を協理させ、晏日曙を後任として寄こした。式耜は入朝せず、廣東に退いて居た。

永明王の擁立と肇慶・梧州

  • 順治三年九月(1646年)、大兵が汀州を破ると、式耜は魁楚らと議して永明王由榔を立てることとし、梧州に王を迎え、十月十日に肇慶で監国とした。式耜は吏部右侍郎・東閣大學士に進み、あわせて吏部の事を掌った。
  • まもなく贛州敗戦の報が至り、司禮の王坤が王に梧州へ赴くよう迫った。式耜は力争したが容れられなかった。
  • 十一月朔、蘇觀生が唐王聿□(底本欠字)を廣州で立てた。式耜は魁楚らと議を定めて王を肇慶に迎え還し、總督の林佳鼎を遣わして觀生を防がせたが、兵は敗れて佳鼎は死んだ。式耜は峽口で軍を監督した。
  • 十二月望、大兵が廣州を破り、王坤は王をせき立てて西へ走らせた。式耜は王のもとへ駆けつけたが、王はすでに梧州を越えて西へ行っていた。
  • 四年正月(1647年)、大兵が肇慶を破って梧州に迫り、巡撫の曹曄は迎え降った。王は湖廣の何騰蛟を頼ろうとした。丁魁楚・呂大器・王化澄はみな王を棄てて去り、式耜および呉炳・呉貞毓らだけが従い、平樂を経て桂林に至った。

桂林の留守と三月の守城

  • 二月、大兵が平樂を襲い、兵を分けて桂林へ向かった。王が全州へ走ろうとしたので、式耜は桂林の地勢を極力述べて留まるよう請うたが許されず、自ら留守を願い出て許された。文淵閣大學士兼兵部尚書に進み、剣を賜わって便宜に事を行うことを認められた。
  • 平樂・潯州が相次いで破れ、桂林は甚だ危うくなった。總督侍郎の朱盛濃は靈州へ走り、巡按御史の辜延泰は融縣へ走り、布政使の朱盛□(底本欠字)、副使の楊垂雲、桂林知府の王恵卿以下はみな逃げ去り、ただ式耜と通判の鄭國藩、縣丞の李世榮、および都司の林應昌・李當瑞・沈煌がいるだけだった。
  • 王は兵部右侍郎の丁元曄に盛濃を代えさせ、御史の魯可藻に延泰を代えさせたが、まだ赴任しないうちに、大兵はすでに三月に桂林へ迫り、騎數十で文昌門へ突入し、城楼に登って式耜の役所を見下ろした。式耜は急いで援将の焦璉に防戦を命じた。
  • はじめ永明王が賊に捕らえられたとき、璉は衆を率いて城をよじ登り、械を破って救い出した。王が病んで歩けなかったので、璉は王を背負って行った。王はこれを徳とし、靖江王を破った功をもって参將に任じていた。この戦いでは三月にわたる攻防のうち璉の功が最も多く、元曄・可藻も力を尽くした。
  • 式耜は身を矢石の中に置いて士卒と甘苦を同じくした。長雨で城が壊れ、吏士は血の気を失ったが、式耜が平常どおり城守を督したので、人々に叛く気持ちは起こらなかった。
  • 援兵が軍餉を求めて騒いだとき、式耜は蔵をさらっても足りず、妻の邵氏が簪や耳飾りを供出して補った。やがて璉の兵の主客が不和になり、騒いで去り、城が破られかけたことは数度に及んだ。
  • おりしも陳邦彦らが廣州を攻めたので、大兵は東へ引き上げ、桂林は無事を得た。璉もまた陽朔および平樂を回復し、陳邦傳も潯州から梧州を回復した。王は勝報を聞いて式耜を臨桂伯、璉を新興伯に封じ、元曄らも差をつけて位階を進めた。
  • 式耜ははじめ王に全州へ返るよう請うたが聞き入れられず、ついで桂林へ還るよう請い、王はすでに許していた。ところが武岡が破れ、王は靖州から桞州へ走った。式耜は重ねて桂林へ還るよう請うた。
  • 十一月、大兵が湖南から全州に迫り、式耜は騰蛟とともに防いで退けた。ついで梧州が再び破れ、王はちょうど象州にあって南寕へ走ろうとしたが、大臣の力争によって十二月に桂林へ還った。

郝永忠の乱暴と桂林の防衛

  • 五年二月(1648年)、南安侯の郝永忠が桂林に駐屯し、城外の団練の兵を憎んで水東十八村をことごとく破り、殺戮は数え切れず、式耜と対立した。式耜が力を尽くして調停し、永忠は興安に駐屯した。
  • 大兵の先鋒が靈川に至り、永忠は戦って敗れ、桂林へ逃げ込んで、王にその夕のうちに西へ走るよう請うた。式耜は力争したが聞き入れられず、側近はみな早く出発するよう請うた。式耜がなおも争うと、王は「卿はただ私に社稷に殉じて死んでほしいだけであろう」と言い、式耜は涙が衣を濡らすほど泣いた。
  • 王が出発するや、永忠はただちに大略奪を行い、太常卿の黄太元を打ち殺した。式耜の家も略奪され、家人が騰蛟の令箭を偽って用い、ようやく城を出た。日中には趙印選の諸営が靈川から至り、これも大いに略奪して城の内外は洗ったようになった。永忠は桞州へ走り、印選らは永寕へ走った。
  • 翌日、式耜は城中の焼け残りを鎮め、遠近を安撫した。焦璉および諸鎮の周金湯・兆佐・胡一青らがそれぞれ部隊を率いて至り、騰蛟の軍も至った。
  • 三月、大兵は桂林に変があると知って襲来し、北門に迫ったが、騰蛟が諸将を督して防戦し、城は無事を得た。
  • そのとき王は南寕に駐まっており、式耜が使者を遣わして三宮の起居を慰問したので、王ははじめて式耜が無事であることを知り、涙を流した。

朝政をめぐる諫争

  • 閏三月、廣東の李成棟、江西の金聲桓がともに叛き、土地を占拠して帰属したので、式耜は王に桂林へ還るよう請うた。王は成棟の請いに従って廣州へ赴こうとしたが、式耜は成棟が王を挟んで劉承允のように専横するのを恐れて力争し、そこで肇慶に駐まった。
  • 十一月、永州・寳慶・衡州がともに回復した。式耜は好機に乗ずべきだとして王に桂林へ還って楚へ出る策を図るよう請うたが、容れられなかった。
  • 慶國公の陳邦傳は潯州を守り、自ら「世々廣西を守る」と称して黔國公の例に倣おうとした。式耜が特に上疏して弾劾し、内外にも争う者が多かったので、邦傳はやめた。
  • 廣西巡撫の魯可藻が自ら「兩廣を巡撫する」と肩書きを名乗ったのも、式耜が上疏して反駁した。
  • 式耜は外にありながら、政に欠けがあれば必ず上疏して諫め、かつて「臣は主上と患難をともにし休戚を共にしており、他の臣とは違います。一切の大政は当然関知するところです」と言い、王はこれを褒めて容れた。
  • そのころ成棟の子の元允が朝政を専らにしていたが、式耜を敬うことを知っていた。袁彭年・聞時魁らはそこで争って式耜に寄り添った。
  • 六年正月(1649年)、時魁らが朱天麟を追い出し、何吾騶を首輔にしたくないので、式耜を召して入直させ、文淵閣の印を渡したが、式耜はついに入らなかった。
  • まもなく騰蛟・聲桓・成棟が相次いで敗れて没し、国勢は大いに危うくなったが、朝士はなお党を立てて角逐しており、式耜も禁じることができなかった。
  • 七年正月(1650年)、南雄が破れ、王は恐れて梧州へ走った。諸大臣が時魁らを訴えて獄に下したので、式耜は七度上疏して救おうとした。胡執恭が勝手に孫可望を封じたときは、上疏してこれを斬るよう請うた。いずれも容れられなかった。

桂林陥落と殉節

  • 九月、全州が破れた。開國公の趙印選は桂林に居り、衛國公の胡一青は榕江を守り、寕遠伯の王永祚とともにみな恐れて兵を出さなかった。
  • 大兵はそのまま嚴關に入った。十月、一青と永祚は桂林に入って軍餉を分け、榕江には守備の兵がなくなった。
  • 大兵が直ちに城に迫った。十一月五日、式耜は印選に檄して出撃させたが行くことを肯んぜず、重ねて促すと一家をあげて逃げた。一青および武陵侯の楊國棟、綏寕伯の蒲纓、寕武伯の馬養麟も逃げ去り、永祚は迎え降って、城中に一兵もなくなった。
  • 式耜は府中に端座し、家人も散った。部将の戚良勛が馬に乗って早く逃げるよう請うたが、式耜は堅く聞き入れず、叱って退けた。
  • まもなく總督の張同敞が至り、ともに死ぬことを誓って、向かい合って酒を飲んだ。老兵が一人侍しているだけであった。中軍の徐高を召して敕印を渡し、馳せて王に送り届けるよう託した。
  • その夕、二人は灯を秉って端座し、夜明けに数騎が至った。式耜は「われら二人は死を待つこと久しい」と言い、そのまま同行した。着くと地に踞坐し、降伏を諭されても聞かず、民家に幽閉された。二人は日々詩を賦して唱和し、百餘首を得た。
  • 閏十一月十七日、刑に就こうとしたとき、大雷電が起こり、空中で三度激しく震動したので、遠近の人は異とした。こうして同敞とともに死んだ。同敞は大學士の張居正の曽孫で、事は居正の伝に見える。

桂林殉難の人々――汪皥・朱旻如・周震

  • そのとき桂林で殉難した者に、光禄少卿の汪皥がおり、水に投じて死んだ。
  • 平樂が破れたときには、守将の鎮西将軍の朱旻如が自刎した。
  • 周震という者は、官は中書舍人で、全州に住んでいた。武岡が失われて全州が危うくなると、震は文武の将吏を招いて神前で盟い、死を誓って拒み守ることとし、城守の事宜を条陳して留守の瞿式耜に上申した。式耜はそこで上奏して御史とし、全州の軍を監させた。
  • まもなく郝永忠・盧鼎が全州から兵を撤して桂林へ還ると、全州を守っていた諸将は城を挙げて降ることを議した。震が力争して認めなかったので、衆は怒って震を殺し、全州はついに失われた。

史論

  • 贊にいう。何騰蛟と瞿式耜は危難のただ中で険しい道を歩みながら、毅然として艱難のうちに貞節を守った。その施策や経営が効果を現すのを見届けられなかったのは、時勢がそうさせたのであって、身をかがめて力を尽くし死ぬまでやめない節操には少しも欠けるところがなく、これをもって非難することはできない。
  • そもそも節義は窮地に至ってはじめて現れるもので、この二人のように力を尽くして死に至り二心を抱かなかったのは、いわゆる百折不回というものである。明代二百七十餘年にわたる士の養成の報いは、まさにここにあるのではないか、ここにあるのではないか。