明史卷二百八十一 列傳一百六十九 循吏

篇首の立伝者一覧

  • 陳灌
  • 方克勤
  • 吳履(割注に附伝者として「廖欽ら」)
  • 髙斗南(割注に附伝者として「余彦誠ら」)
  • 史誠祖(割注に附伝者として「吳祥ら」)
  • 謝子襄(割注に附伝者として「黄信中・夏升」)
  • 貝秉彜(割注に附伝者として「劉孟雍ら」)
  • 萬觀
  • 葉宗人
  • 王源
  • 翟溥福
  • 李信圭(割注に附伝者として「孫浩ら」)
  • 張宗璉
  • 李驥(割注に附伝者として「王瑩ら」)
  • 李湘
  • 趙豫(割注に附伝者として「趙登ら」)
  • 曾泉
  • 范𠂻
  • 周濟
  • 范希正(割注に附伝者として「劉綱」)
  • 段堅
  • 陳鋼
  • 丁積
  • 田鐸
  • 唐侃
  • 湯紹恩
  • 徐九思
  • 龎嵩
  • 張淳
  • 陳幼學

循吏傳の序

  • 明の太祖は元末に吏の治めぶりが緩みきって民の暮らしが疲弊したのを懲らしめとし、貪吏を厳しく取り締まって厳典に処した。府・州・縣の吏が来朝して陛辞するとき、こう諭した。「天下は定まったばかりで百姓の財力はいずれも困窮しており、鳥が飛びはじめたばかり、木が植わったばかりのようなものだ。その羽を抜くな、その根を揺るがすな。ただ廉なる者だけが己を律して人を愛せる。貪なる者は必ず人を削って己を肥やす。おまえたちはこれを戒めよ」。
  • 洪武五年(1372年)、有司の考課は学校と農桑という実政を第一とせよと詔した。日照知縣の馬亮は運送の督励は上手だったが農を課し士を興す成果がなかったので、ただちに罷免を命じた。一時、守令は法を畏れて身を清くし民を愛し、上意に適って、吏の治めぶりはあざやかに一変した。
  • 下って仁宗・宣宗の代に至るまで撫循と休息が行われ、民は安楽で、吏の治めぶりが澄み切っていたことは百餘年に及んだ。英宗・武宗のころには内外に事が多かったが、それでも民心が土崩瓦解する憂いがなかったのは、吏に貪残の者が少なく、それゆえ禍乱を鎮めやすかったからである。
  • 嘉靖・隆慶以後は資格が重んじられ、甲科出身の縣令の多くが廉直卓越の名で徴召され、それを踏み台に台省へ上ったが、龔遂・黄霸のような治績は見られなくなった。
  • 神宗の末年には徴発が頻りに行われ、鉱税の徴収が四方に出て海内は騒然とし、費用が煩雑で郡縣はその職務を果たせず、廟堂の考課もすべて虚文で片づけて、循良の人選に意を用いなくなった。吏の治めぶりは日ごとに怠惰になり、民の暮らしもそれによっていよいよ窮した。仁宗・宣宗の盛時ははるかに追いつけなくなり、太祖の法もないに等しくなった。内を重んじ外を軽んじ、実政が修まらなかったのは、上に立つ者が意を用いなかったからだと言わずにいられようか。
  • 漢の史書は丞相の黄霸を、唐の史書は節度使の韋丹を、いずれも循吏伝に入れている。今、守令から抜擢されて公卿に至り勲徳のあった者は、その事績をみな別に載せてあるので、庶僚のままで終わり政績の記すべき者を採って循吏傳を作る。

陳灌

  • 陳灌は字を子將といい、廬陵の人である。元末、世が乱れようとしていたとき、住まいの周りに場を築いて木を植えたが、人には意図が測れなかった。十年の後に盗が蜂起すると、灌は武勇の者を率いて林の中に屯を結び、盗は入って来られず、一郷はこれによって無事だった。
  • 太祖が武昌を平定すると、灌は軍門に出向いて謁見した。太祖は語り合ってこれを奇とし、湖廣行省員外郎に抜擢し、累進して大都督府經歴とした。大將軍の徐逹に従って北征し、まもなく泰州の築城を命じられた。工事が終わると寧國知府に任じられた。
  • 当時は天下が定まったばかりで、民が詩書を捨てて久しかったので、灌は学舎を建て、師を招き、俊秀な子弟を選んで学ばせた。民の苦しみを訪ね問い、豪族の兼併を禁じ、戸帖を創始して民の把握を容易にした。帝はこれを手本として天下に頒布した。
  • 石を切り出して堤を築き、水門を作って蓄放し、江に臨む田を守ったので、百姓はみなこれに頼った。
  • 麦を積んだ舟を盗んだ罪で死刑と判定された者が数十人あった。灌は覆審して「舟が自然に流れ着いたのを愚かな民が騒いで取っただけで、計画的な強奪ではない」と言い、その首謀者一人だけを罪に問い、残りはみな死を減じた。灌は風采も裁断も厳正だったが、政治はこのように寛恕であった。
  • 洪武四年(1371年)、召されて京に入り、病死した。

方克勤

  • 方克勤は字を去矜といい、寧海の人である。元末に台州で盗が起こったとき、吳江同知の金剛努が行省の命を奉じて水兵を募って防いだ。克勤は策を献じたが用いられず、山中へ逃れた。
  • 洪武二年(1369年)に縣の訓導に召されたが、母が年老いていることを理由に辞して帰った。四年(1371年)に召されて京師に至り、吏部の試験で第二となり、特に濟寧知府を授かった。
  • 当時、民に荒地を開墾させ三年たってから課税するとの詔が出たばかりだったが、吏の徴収は期限を待たなかったので、民は詔旨が信用できないとして開墾地を捨て去り、田は再び荒れた。克勤は民と約束して期限どおりに課税し、田を九等に区分して等差をつけて徴発したので、吏は不正を働けなくなり、野は日ごとに開かれた。
  • また社学を数百区設け、孔子の廟堂を修繕し、教化が興った。
  • 盛夏に守将が民夫を督して築城させたとき、克勤は「民は耕耘に暇がないのに、どうして重ねて苦しめるのか」と言い、畚と鍬を持って中書省に願い出て、役を止めさせた。それ以前久しく旱だったが、そこで大雨が降った。濟寧の人はこれを歌って「わが役を罷めさせたのは誰か、使君の力だ。わが黍を活かしたのは誰か、使君の雨だ。使君よ去るな、わが民の父母よ」と言った。
  • 政務にあたって三年、戸口は数倍に増え、一郡は豊かに満ち足りた。政治は徳による教化を根本とし、名声に近づくことを喜ばず、かつて「名声を求めれば必ず威を立てる。威を立てれば必ず民に禍いする。私はそれに忍びない」と言った。
  • 自らの生活は簡素で、一枚の布の袍を十年替えず、日に二度は肉を食べなかった。太祖は法の適用が厳しく、士大夫の多くが謫遷されたが、濟寧を通る者があれば克勤は必ず助けた。
  • 永嘉侯の朱亮祖がかつて舟師を率いて北平へ赴いたとき、水が涸れたので役夫五千人で河を浚った。克勤は止められず、泣いて天に祈ったところ、たちまち大雨で水が数尺の深さになり、舟はそのまま通れた。民は神わざと思った。
  • 八年(1375年)に入朝すると、太祖はその功績を嘉して宴を賜わり、郡へ帰らせた。
  • まもなく属吏の程貢に誣告されて江浦での労役に謫され、さらに空印の事件に連座して逮えられ死んだ。子に孝聞と孝孺がいる。孝聞は十三で母を喪い、精進の食で喪を終えた。孝孺には別に伝がある。

吳履

  • 吳履は字を徳基といい、蘭谿の人である。若くして聞人夢吉に学び、春秋と諸史に通じた。李文忠が浙東を鎮したとき、招かれて郡の學正となった。久しくして朝廷に推挙され、南康丞を授かった。
  • 南康は風俗が荒く、丞は儒者だと言って軽んじたが、数か月のうちに隠れた悪事を老練な獄吏のように摘発したので、みな大いに驚き、そろって行いを慎んだ。履はそこで寛大な方針に改め、民を休息させた。
  • 知縣の周以中が田野を巡視して部民に罵られ、捕らえられなかったので、怒ってその隣人をみな縛った。履は獄を調べて事情を問い、ただちに釈放して以中に報告した。以中はますます怒って「丞は私を侮る」と言った。履は「公を犯したのは一人だけです。その隣人に何の罪がありましょう。今、捕縛された者が多いうえ捕縛はまだ止まず、追い詰めれば変事が起きます。どうなさいますか」と言い、以中はようやく気が解けた。
  • 邑に淫祠があり、祀るたびに蛇が戸口に現れるので民は神だとした。履は巫を縛って責め、神像を江に沈め、淫祠はそこで絶えた。
  • 丞であること六年、百姓に愛された。安化知縣に移った。大姓の易氏が険阻に拠って自守していたので、江陰吳侯良が捕縛しようとして履を呼んで相談した。履は「易氏は死を逃れているだけで、反乱ではありません。招けば来るはずで、来なければ誅しても遅くない」と言い、良はこれに従った。易氏は果たして来た。
  • 良はもと兵であった農民を兵籍に入れようとし、民は大いに恐れた。履は「世は清まりました。民は農に安んじています。兵になることを願う者だけを籍に入れ、願わない者を強いてはなりません」と言った。
  • 濰州知州に移った。山東の兵はいつも牛羊で秋税に代えていたが、履は民と計って「牛羊は死んだり痩せたりする心配がある。粟を納めるほうがよい」と言った。後日、上官が民に牛羊を陜西へ送らせたとき、他縣の民は破産する者が多かったが、濰の民だけは無事だった。
  • おりしも州が縣に改められ、履は召還された。濰の民はみな涙を流して駆け送った。履はそのまま骸骨を乞うて帰郷した。

廖欽とその他の佐貳の官

  • このころ河内丞の廖欽もあわせて廉能で称された。八年在任して吳江に転じ、後に事件に連座して戍に謫された。久しくして老病により放免され、帰る途中で河内を通ったとき、河内の民は争って羊と酒を持って寿を祝い、さらに絹を贈って、たちまち数百疋が集まった。欽は固辞したが受け入れられず、一夜のうちに逃げ去った。
  • そのほか、興化丞の周舟は功績が最上で特に吏部主事に抜擢されたが、民が争って留任を乞うたので、もとの職へ帰された。
  • 歸安丞の髙彬、曹縣主簿の劉郁、衡山主簿の紀維正、霑化典史の杜濩は、みな事件に連座したが部民が宥免を乞うたのでその官に復し、なかでも惟正はただちに陜西參議に抜擢された。
  • その後、州縣の佐貳で名の知られた者としては、仁宗・宣宗の時には易州判官の張有聞、夀州判官の許敏、許州判官の王通、靈璧丞の田誠、安平丞の耿福緣、嘉定丞の戴肅、大名丞の賀禎、昌邑主簿の劉整、襄坦主簿の喬育、貴池典史の黄金蘭、深澤典史の髙聞がいる。
  • 英宗・景帝の時には養利判官の汪浩、泰州判官の王思旻、上海丞の張禎、吳江丞の王懋本、歴城丞の熊觀、黔陽主簿の古初、雲南南安州琅井巡檢の李保がいる。飛び越えて昇進した者も同じ官に留任した者もあり、いずれも部民の願いによるものであったという。

高斗南

  • 高斗南は字を拱極といい、陜西徽州の人である。容貌は魁梧で、声は鐘のようだった。洪武年間に推薦によって四川定逺知縣を授かり、才識が精敏で善政が多かった。
  • 二十九年(1396年)、知府の永州余彦誠、知縣の齊東鄭敏・儀真康彦民・岳池王佐・安肅范志逺・當塗孟廉、および丞の懐寧蘇億・休寧甘鏞・當塗趙森とともに、事件に連座して前後して召喚された。その地の耆民が闕下へ駆けつけ、善政を列挙して奏聞した。太祖はこれを嘉し、襲衣と宝鈔を賜わって帰らせ、あわせて耆民にも道中の費用を賜わった。
  • 諸人は任に還ってから政績がいよいよ顕著になった。まもなく天下の廉吏数人が挙げられたとき、斗南もその一人となり、その名は彰善榜と聖政紀に載せられて勧奨の手本とされた。
  • 九年の勤務で功績が最上となり、雲南新興知州に抜擢された。新興の人が斗南を愛したのは定逺と変わらなかった。数年いて衰老を理由に帰郷を乞い、子で吏科給事中の恂を後任に推薦し、成祖はこれを許した。七十歳で没した。
  • 恂は字を士信といい、博学で詩文を能くした。新興に官し、大軍に従って交阯を征したとき協賛の功があり、軍が凱旋したのち任地で没した。

余彦誠・鄭敏・康彦民ら

  • 余彦誠は徳興の人である。はじめ安陸州を知ったが、徴税が期限に遅れて逮捕されることになった。その父老が闕下に伏して留任を乞い、太祖は宴を賜わって嘉賞し帰らせ、父老もまた宴に列した。久しくして永州府の知府に抜擢され、河東鹽運使を最後の官とした。
  • 鄭敏はかつて事件で逮捕されたが、部民数千人が闕下を守って宥免を求めた。帝は宴を賜わって労い、その官に復し、鈔百錠と衣三襲を賜わった。数年いて考課満期で入朝すると、部民はまた京師へ走って再任を乞い、帝はその願いに従った。今回、再び宥免を得たのである。
  • 康彦民は泰和の人で、洪武二十七年(1394年)の進士である。はじめ青田を知り、儀真に転じ、後に巴陵・天台を歴任していずれも名績を著した。永樂初に罷免されて帰郷した。洪熙元年(1425年)、御史が巡按して天台に至ったとき、縣民二百餘人が「彦民は廉公で為すところがあった」と言い、天台に還して民望を慰めるよう乞うた。御史が奏聞すると、宣宗は嘆じて「彦民が天台を去って二十餘年になるのに民はなお慕っている。善政があったことが分かる」と言い、江寧縣丞に用いた。
  • 億・廉・森の三人は釈されて還ったが、翌年また事件で逮捕されることになり、縣民がまた闕下へ走ってその廉勤を称えたので、帝もこれを釈した。
  • 当時、太祖は重典をもって臣下を縛り、守令は小過でもすぐ逮捕拘禁されたが、その賢を聞けばすぐ帰らせ、さらに賞賜を加え、そのまま抜擢される者もあった。
  • 二十九年(1396年)、知縣の靈璧周榮・宜春沈昌・昌樂于子仁、丞の新化葉宗が、ともに事件で逮捕され訊問されたとき、部民が闕を叩いて訴えた。太祖は喜んで、ただちに四人を知府に抜擢し、榮は河南、昌は南安、子仁は登州、宗は黄州とした。これによって長吏は競って励み、一時、循良の治績が多かった。
  • 周榮は字を國華といい、蓬萊の人である。はじめ靈璧丞であったが、連座して刑部に下された。耆老が群れをなして輦下へ赴いてその賢を称えたので、帝は鈔八十錠と綺羅の衣一襲ずつを賜わり、禮部が榮と耆老に宴を設けて帰らせた。まもなく榮は靈璧知縣に抜擢された。河南を知ってからも声望があり、後に建言が上意に適って河南左布政使に抜擢された。

史誠祖

  • 史誠祖は解州の人である。洪武の末に闕へ出向いて鹽法の利害を陳べ、太祖はこれを容れて汶上知縣を授けた。政治は廉平寛簡であった。
  • 永樂七年(1409年)、成祖が北巡して御史を遣わし郡縣の長吏の賢否を考査させたところ、還って誠祖の治が第一だと報告した。璽書を賜わって労い、その趣旨はこうであった――守令は上の流れを承けて教化を宣べ、それによって民を安んじ利するものである。朕は天下を統御して朝夕に賢を求め、ともに治を図ってきた。しばしば民間に下問すると、みな吏が苛酷で急なのに苦しむと言い、朕の心に適う者は実に少ない。おまえは敦厚老成で職を謹んで務め、身を持し志を励まして一途に廉公であり、賦は平らかで徭は均しく、政は清く訟は簡で、民心は悦び慕い、境内は安らかと称された。古の良吏に比べても何も劣らない。特におまえを濟寧知州に抜擢し、なお汶上縣の事も見させる。いよいよ職を謹み、終わりを慎むこと始めのごとくして、永くよい誉れを保て――というものである。あわせて内醞一尊・織金紗衣一襲・鈔千貫を賜わった。
  • 御史はまた、貪吏が民を虐げることでは易州同知の張騰にまさる者はないと言い、そこで召喚して獄に下した。
  • 誠祖は旌表を得てからいよいよ治に励み、土田は開かれ増え、戸口は繁くなり、さらに十四里を編戸した。成祖が汶上を通ったとき、その民数百家を膠州へ移そうとしたが、誠祖は上奏して免れさせた。
  • たびたび昇進すべき時期になったが、そのつど民が上奏して留任させた。二十九年を経てついに任地で没した。士民は哀号し、城南に葬って、年ごとに祀った。
  • このころ縣令には長く同じ任地にいる者が多かった。
  • 蠡縣の吳祥は永樂の時に嵩縣を知り、宣徳年間まで三十二年を経て任地で没した。
  • 臨汾の李信は永樂の時に國子生から遵化知縣を授かり、宣徳年間まで二十七年を経てはじめて無為知州に抜擢されたが、老齢を理由に赴任を望まず、そのまま帰郷を乞うた。
  • 涓縣の房嵒は宣徳年間に鄒縣知縣となり、正統年間まで二十餘年を経て任地で没し、吏民はみな愛戴した。
  • また吉水知縣の武進錢本忠は廉の名があったが、手違いで罷官となった。父老が駆けまわって号泣して留任を乞い、同郡の胡廣が力を尽くして保証したので、任に還ることができた。民は本忠がまた来ると聞いて、村里を空にして迎え拝んだ。永樂年間に任地で没すると、民は哀慕して吉水に葬り、争って土を背負って墳を営んだ。その民心を得たさまは誠祖のようであったという。

謝子襄

  • 謝子襄は名を衮といい、字で通っている。新淦の人である。建文年間に推薦によって青田知縣を授かった。
  • 永樂七年(1409年)、錢塘知縣の黄信中、開化知縣の夏升とともに、九年の考課が最上で転任すべきところ、その部民がそろって上官に訴えて再任を乞うた。上官が奏聞すると、帝はこれを嘉し、ただちに子襄を處州知府、信中を杭州、升を衢州に抜擢して、それぞれもとの縣を治められるようにした。
  • 子襄は處州を治めて声績がいよいよ顕著になった。郡に虎の害があり、その年は旱と蝗が出たが、神に祈ると大雨が二日降って蝗はみな死に、虎も逃げ去った。
  • 官の鈔を盗んだ者があったとき、子襄が城隍神に檄を送ったところ、盗はちょうど密室で鈔を数えていたが、たちまち疾風がこれを巻き上げて市中に落とし、盗はそのまま罪に服した。
  • 民が牛を市で売って屠ろうとしたとき、牛が逃げて子襄の前に来て頭を垂れ訴えるようであったので、俸給を投じて買い戻し持ち主に還した。
  • 叛卒の吳米が山谷に拠って乱を起こし、朝廷が兵を発して討ったので一郡は騒然となった。子襄は力を尽くして軍を城中に止めて出さず、自ら計略でこれを捕らえ、その首魁を獲て、残りはみな解散させた。
  • 人となりは廉謹で、官歴三十年、家族を任地に連れて行かなかった。二十二年(1424年)に没した。
  • 黄信中は餘干の人である。先に樂清縣を知った。奸人が寡婦をだまして京へ連れて行き、郷人が謀叛したと誣告して自分は逃げ去った。有司はその婦人を拘束して奏聞し、詔によって所司が会同して取り調べたところ、信中は事情を調べ上げ、力を尽くして誣告だと論駁し、救われた者は甚だ多かった。一家三人を殺した盗の獄が長く決しなかったときも、信中が神に祈って真犯人を得たので、遠近が称えた。
  • 夏升は鹽城の人である。

貝秉彛

  • 貝秉彛は名を恒といい、字で通っている。上虞の人である。永樂二年(1404年)の進士で、邵陽知縣を授かった。喪により去り、東阿に補された。
  • 訴訟の裁断が巧みで、礼義によって民を導くことができた。大凶作の年に平糴して荒に備える議を上奏し、帝はこれに従って郡縣に頒布し、東阿のやり方に倣わせた。
  • 邑の西南に大きな水たまりがあり、溜まった雨水が田の害となっていた。秉彞は高低を見定めて渠を鑿ち、大清河へ引き入れて涸らし、肥沃な土地数百頃を得て、民はその利を享けた。
  • とりわけ計画に長け、廃鉄・傷んだ皮・朽ちた縄・古紙をすべて蓄えておき、暇があれば工人に膠を煮させ、杵を鋳させ、紙を搗かせ、縄を綯わせて庫に貯えた。おりしも成祖が北巡し、有司に席殿を建てるよう命じたとき、秉彛は貯えを出して用に充て、工事はそこで速やかに終わった。
  • 帝が召そうとしたが、東阿の耆老百餘人が闕へ出向いて貝令を留めたいと申し出たので、帝はこれを許した。九年の考課満期で都に入ると、詔して一階を進め、なお東阿に還した。
  • かつて連座して京師での労役に処されたとき、民が争ってその役を代わり、三度罰されて三度代わられ、そこで官に復した。
  • 秉彛は吏として明察でありながら仁恕であった。もとは酒を好んだが、仕官してからはやめた。宣徳元年(1426年)に任地で没した。
  • そのころ、龍溪知縣の南昌劉孟雍、鄒縣知縣の龍溪朱珤、建安知縣の崑山張凖、婺源知縣の建安吳春、歙縣知縣の江西樂平石啟宗は、みな恵みがあって民を利し、いずれも民が慕って忘れなかったという。

萬觀

  • 萬觀は字を經訓といい、南昌の人である。弱冠で永樂十九年(1421年)の進士となったが、帝はその若さを見て学業に帰らせた。まもなく召されて御史となり、嚴州知府に改められた。
  • 府の東境の七里瀧に漁舟が数百艇あり、しばしば旅人を襲っていた。觀は十艘を一甲に編成し、地区を定めて巡警させ、一か月たたぬうちに盗は跡を絶った。
  • そこで学校を励まし、農桑を勧め、織造の減額と絹糸に代えて銀で納税することを奏請し、民はみな便とした。
  • 九年目の考績で、治績は海内第一とされた。喪により去り、喪が明けようとするころ、嚴州の民があらかじめ上章して再び觀を守にしてほしいと願い、金華・衢州の民も上章して求めた。朝廷はこれを異とし、平陽府に補し、政績はいよいよ盛んになった。
  • 堯の祠の棟に芝が生えたとき、士民はみな使君の徳化のせいだと言ったが、觀は「大守は職を奉ずることを知るだけだ。芝は私のあずかり知るところではない」と言った。
  • 考課満期で山東布政使に抜擢され、任地で没した。

葉宗人

  • 葉宗人は字を宗行といい、松江華亭の人である。永樂年間、尚書の夏原吉が東南の治水にあたったとき、宗人は諸生の身で上疏して、范家港を浚って浦の水を海に引き入れ、海辺の民が堰を作って流れを塞ぐことを禁じるよう請うた。帝は原吉のもとへ赴いて働くよう命じた。
  • 工事が終わると原吉が推薦し、錢塘知縣を授かった。錢塘縣は浙江の省会で徭役が重く、力のある豪族はしばしば悪辣な吏と結んで金を出し、貧民に役を負わせていた。宗人は民に自ら甲乙の等級を申告させて冊に書かせ、順に役を割り当てたので、役はようやく均しくなった。
  • 執務中に蛇が階を上ってきて訴えるようであったので、宗人は「おまえに冤があるのか。私がおまえのために処理してやろう」と言った。蛇はすぐ出て行き、下役に尾行させると餅屋の炉の下に入った。掘ってみると硬直した死体が出てきた。店の主が殺して埋めていたのである。
  • また江中を行くと、死人が舟の舵に引っかかっていた。取り調べると里の無頼の者が沈めたものであり、そろって罪に服した。邑の民は神わざと思った。
  • 按察使の周新は廉直な吏で、とりわけ宗人を重んじた。ある日、宗人の外出をうかがって密かにその家に入ってみると、厨に銀魚の干物が一包みあるだけだった。新は嘆息して少し持ち帰り、翌日、宗人を招いてともに食べ、酔うまで飲んで、儀仗を用いて送り帰らせた。当時「錢塘一葉清」と呼ばれた。
  • 十五年(1417年)、工匠を督して北京の造営に赴き、途中で没した。新は幾日も泣いた。

王源

  • 王源は字を啟澤といい、龍巖の人である。永樂二年(1404年)に進士に挙げられ、庶吉士を授かり、深澤知縣に改められた。学舎を修め、長い堤を築き、民に時を失わず嫁娶するよう勧めて、財を争う風俗を改めさせた。
  • しばしば上書して事を論じ、詔によって都へ召された。さらに時政の得失を論じて上意に忤い、吏に下されたが、恩赦に会って復官した。
  • 未納の税を免除するよう奏請した。凶作の年にはそのつど粟を出して救い、そのため逮捕されたが、民が争って先に納入して贖わせ、還ることができた。
  • 召されて春坊司直郎となり、諸王の講論に侍した。衛府紀善に移り、松江同知に移って、積年の未納数十萬石の免除を奏請した。母が老いたので帰って養うことを乞い、喪が明けて刑部郎中に任じられた。
  • 英宗が即位すると、廷臣十一人を選んで知府とし、宴と敕を賜わり、駅伝に乗って赴任させた。源は潮州を得た。
  • 府城の東に廣濟橋があり、年久しくして半ば崩れていた。源は民から万金を集めて築き直し、その余りで亭を建て、先聖・四配・十哲の像を設け、藍田の呂氏郷約を刻み、民から約正・約副・約士を選んでそこで講習させ、時おり同僚とともに督励した。
  • 西湖山の上の大石が怪をなしていたので、源は鑿らせたところ、果たして石の髑髏が出て怪はやみ、そこでこれを碑に琢って「潮州知府王源除怪石」と大書した。
  • おりしも一人の民を杖打って死なせ、その子が朝廷に訴え、あわせて築橋と建亭を源の罪とした。京へ逮送され、罪は徒刑を贖うのに当たったが、潮州の人がそろって闕を叩いたので、その官に復した。
  • 久しくして退官を乞い、潮州の人が上奏して留任を求めたが認められず、祠を建てて祀った。

翟溥福

  • 翟溥福は字を本徳といい、東莞の人である。永樂二年(1404年)の進士で、青陽知縣に任じられた。九華山で虎が害をなしたので、溥福が山神に檄を送ると虎はすぐ絶えた。
  • 久しくして新淦に移り、刑部主事に転じ、員外郎に進み、尚書の魏源に器量を認められた。正統元年七月(1436年)、廷臣で郡守に堪える者を挙げよと詔されたとき、源は溥福をもって応じ、南康知府に抜擢された。
  • それ以前、凶作の年に民が勝手に富家の粟を出したり漂流した官の木材を取ったりしたのを、前任の守がみな盗として処断し、死罪に当たる者が百餘人いた。溥福は実情を調べて、杖を加えたうえで放免した。
  • 土地が鄱陽湖に臨み、舟が風波に遭っても泊まる所がなかったので、石堤百餘丈を築き、往来する者は便とした。
  • 廬山の白鹿書院が廃れていたので、溥福は人々に呼びかけて復興させ、師を招いてその子弟を教え、朔望には自ら赴いて講授した。
  • 考績で吏部へ赴いたとき、老齢を理由に帰郷を乞うた。侍郎の趙新はかつて江西を巡撫しており、大声で「翟君はこの地方第一の賢守だ。どうして去らせられようか」と言い、幾日も懇請してからようやく許した。
  • 郡を辞する日、父老が争って金帛を贈ったがすべて受けず、人々は舟を引き留めて涙を流し、湖の堤に祠を建てて祀った。また白鹿書院の三賢祠に配享された。三賢とは唐の李渤、宋の周敦頤、朱子である。

李信圭

  • 李信圭は字を君信といい、泰和の人である。洪熙年間に賢良に挙げられ、清河知縣を授かった。
  • 縣は痩せているうえ交通の要衝で、官の船が日々連なり、役夫は動もすれば千人を数えた。前任の令は沐陽から五百人を助役に得ていたが、家から遠いので衣食に苦しんだ。信圭はその助役を免じ、代わりに清河の浮征の三分の二を沐陽が負担する形にするよう請い、両邑とも便とした。
  • 風俗として墓を暴き火を放つのを好んだので、信圭は教戒十三条を定めて里の民に牌に書かせ、朔望ごとに戒めさせ、さらに民の勤惰善悪を書いて報告させたので、風俗はこれによって改まった。
  • 宣徳三年(1428年)に上疏した。その趣旨はこうである――本邑は土地が広く人が少ないうえ要衝に当たり、使節が絶えず、日々民を発して舟を挽かせるので、壮丁は尽きて役は老幼にまで及び、農桑を妨げ廃れさせている。先年、兵部から、急を要する公事の舟には五人を与え、緩やかな場合は与えないという令が出たのに、今この令が行われず、役夫に限りがなく、一艘に四五十人も付ける場合がある。凶暴な威勢で押しつけられれば誰も問いただせない。順風に遭って歩いて追いつけないと、官船の人夫がその携えた衣糧を没収し、寒さと飢えを受けさせる。前の令を明らかに申し渡し、この疲弊した人々を憐れんでいただきたい――。帝はこれに従った。
  • 八年春(1433年)にまた言った。その趣旨はこうである――江淮から京師まで、沿河の郡縣はみな軍民に舟を挽かせている。衛軍がなければ人夫はすべて有司から出し、州縣は毎年二三千人を発して昼夜待機させ、そのうえ上官は雑多な差役を区別せず一括して割り当てる。そのため土田は荒れ果て、民に蓄えがなく、少し不作に遭えばすぐ老幼が連れ立って道端で物乞いをする有様で、実に憐れむべきである。儀真から通州までの雑徭をことごとく免じ、農田に力を尽くしつつ人夫役に応じられるようにしていただきたい――。帝もこれに従った。これ以後、他郡もその恩沢を蒙った。
  • 正統元年(1436年)、侍郎の章敞の推薦により蘄州知州に抜擢された。清河の民が闕へ出向いて留任を乞うたので、知州のまま縣の事を処理するよう命じられた。
  • 民の湖田数百頃が淮安衛の卒に奪われ、民が代わりに租を納めることが六十年に及んでいた。信圭が上奏し、詔して民に還された。
  • 飢民が人の牛一頭を奪って食べたとき、御史は八人を死罪と論じたが、信圭が上奏して六人を免れさせた。
  • 長雨で淮水が大いに溢れ、家屋と家畜が甚だ多く水没したので、信圭は救済と貸与を奏請し、あわせて年ごとの調達物件および軍匠・厨役・河浚いの人夫の徴発を停止するよう求め、認められた。
  • 南北を往来して道中で死に葬られない者のために、信圭は三つの大きな塚を作って埋めた。
  • 十一年冬(1446年)、尚書の金濂の推薦で處州知府に抜擢された。清河にいることすでに二十二年であった。處州はちょうど旱に苦しんでいたが、信圭が着くとすぐ雨が降った。まもなく任地で没し、清河の民は祠を建てて祀った。

部民の願いによって留任した長吏たち

  • 明が興ってから洪熙・宣徳・正統の間は、民が淳朴で風俗が厚く、吏は治めやすかった。当時の長吏もまた長者の行いに励む者が多く、循良と称された。任期満了に際して上奏して留任させた例は数え切れないが、そのうち数人を挙げて篇に列する。
  • 孫浩は永樂年間に邵陽を知り、喪に遭って官を去った。洪熙元年(1425年)、陜西按察使が浩の前の政績を称え、威寧に補するよう請うた。宣宗は嘆じて嘉し、ただちに起復を命じた。久しくして辰州知府に抜擢された。
  • 薛慎は長清を知ったが親の喪で去った。洪熙元年九月、長清の民は慎の喪が明けたと知ってそろって京師へ出向き再任を乞うた。吏部尚書の蹇義が奏聞し、長清には別に知縣を任じてすでに久しく、民の言うとおりにすればまた交替させることになると言った。帝は「国家が守令を置くのはただ民心を得させたいからだ。もし民心が得られないなら、たびたび交替させて何の害があろう」と言い、そのまま還した。
  • 呉原は呉橋を知り、洪熙年間に九年の考績で吏部へ赴いたところ、縣民が闕へ出向いて留任を乞い、帝はこれに従った。
  • 陳哲は博野を知ったが、旧官が職に還ったため解任された。宣徳元年(1426年)、部民が巡按御史に懇願して哲を還すよう乞い、御史が奏聞して認められた。
  • 暢宣は泰安を知ったが母の喪で去った。民が副使の鄺埜に称えて奏聞され、仁宗は喪明けに任へ還るよう命じた。宣徳と改元し、宣の喪が明けて吏部が奏請すると、帝は「民がそれを望み、監司がそれを言うのだから当然従うべきだ。まして先帝の命があるではないか」と言い、その願いのとおりにした。
  • 劉伯吉は碭山を知ったが親の喪で去った。喪が明けると碭山の民が闕下を守って再任を求めた。吏部は新任の令が碭山に来て二年になると言ったが、帝は「新任が旧任に勝るなら民はもう旧任を思わない。今、久しくてなお思うのだから、新任より賢れていることが分かる」と言い、そのまま交替させた。
  • 孔公朝は永樂年間に寧陽を知ったが、同僚と飲酒して言い争った罪でともに戍に遣られた。部民がたびたび闕を叩いて還すよう乞うたがみな許されなかった。宣徳二年(1427年)、賢を求める詔が出て公朝を推薦する者があり、寧陽の人はこれを聞いてまたそろって闕を叩き公朝を求めた。帝は尚書の蹇義を顧みて「公朝が寧陽を去ってすでに二十餘年になるのに、民が上奏して求めてやまない。これが良吏でなくて何であろう。すぐ与えてよい」と言った。
  • 郭元は㑹寧を知ったが奸人に訴えられて逮捕された。里老が闕に伏して冤を訴え還すよう乞い、帝もこれを許した。
  • 徐士宗は貴溪を知り、宣徳六年(1431年)に三度の考課がいずれも最上であった。民が闕へ出向いて留任を乞い、詔して二秩を増して任に還した。
  • 郭南は常熟を知り、正統十二年(1447年)に老齢で致仕したが、父老が任に還るよう乞い、英宗はこれを許した。
  • 張璟は平山を知り、任期満了のとき士民が留任を乞い、英宗は秩を進めて復任するよう命じた。景泰の初めに母の喪で去ったが、また士民の願いに従って喪を切り上げて執務させた。
  • 徐榮は藁城を知り、親の喪で官を去った。喪が明けると部民が新任の令を罷めて榮を還すよう乞い、英宗はその願いのとおりにした。景泰の初めに任期満了となったが、また民の願いに従って留めた。
  • 何澄は安福を知り、弾劾されたが民が闕へ出向いて留任を乞い、英宗は任に還るよう命じた。そこで寅陂を築き、渠道を浚え、密湖を旧に復して、大いに水利を興した。任期満了で転任すべきとき、侍讀の劉球が民に代わって願い出て、帝はまた留めた。
  • 田玉は桐鄉を知り、喪に遭って去ったが、英宗は部民および巡撫の周忱の願いによってその任に還した。
  • そのほか、内邱の馬旭、桐廬の楊信、北流の李禧、洋縣の王黼、保安の張庸、獲鹿の吳韞、扶風の宋端は、いずれも宣宗の世に九年の考課が最上と奏され、民のために留任を乞われて、そのまま秩を加えて留任した者である。
  • 当時、帝はちょうど循良を重んじ、吏部尚書の蹇義はとりわけ慎重に守令を選び、考察は明察で寛恕であった。英宗の代まで及んで吏の治めぶりは淳厚で、部民が留任を奏請すればおおむね認められた。
  • ただしその中には不正を働く者もあった。永寧税課大使の劉迪は羊を割いて酒を設け、耆老を招いて留任を請わせたので、宣宗は怒って吏に下した。漢中同知の王聚もまた宴を張って属吏に頼み、自分を知府とするよう奏させた。事が聞こえて、宣宗は属吏もあわせて罪した。これ以後、部民の留任奏請はおおむね所司に下して事実を確かめさせたという。

張宗璉

  • 張宗璉は字を重器といい、吉水の人である。永樂二年(1404年)の進士で、庶吉士に改められ、刑部主事を授かり、廣東で囚を録した。
  • 仁宗が即位すると左中允に抜擢された。おりしも朝臣に知る人物を挙げよと詔されたとき、禮部郎中の況鍾が宗璉の名を挙げた。帝が少傳の楊士奇に「みな外の吏を挙げるのに、鍾が京官を挙げたのはなぜか」と問うと、「宗璉は賢臣で、侍讀學士の王直とともに挙げようとしていたのですが、思いがけず鍾に先を越されました」と答えた。帝は喜んで「鍾が宗璉を知っているのなら、鍾もまた賢だ」と言った。これによって鍾を知り、宗璉を南京大理丞に抜擢した。
  • 宣徳元年(1426年)、吏部侍郎の黄宗載ら十五人を遣わして各省の軍籍を整理させる詔が出て、宗璉は福建へ向かった。翌年、上奏が上意に忤って常州同知に謫された。
  • 朝廷が御史の李立を遣わして江南の軍籍を整理させ、宗璉に随行するよう檄した。立は悪辣な軍人の言い分を容れて、多くの平民を逮捕して軍籍に充てた。宗璉はたびたび争い、立が怒ると、宗璉はそのつど地に臥して杖を乞い「どうか百姓の代わりに死なせてください」と言った。連座を免れた者は甚だ多かった。
  • はじめ宗璉が廣東へ使いしたとき廉恕に努めたが、ここに至って立の暴横を見て心に不平が積もり、背に疽が発して没した。常州の民で白衣を着けて葬送した者は千餘人にのぼり、君山に祠を建てた。
  • 宗璉は郡に□(底本欠字)して妻子を連れて行かなかった。病が重くなって医を招いたとき、部屋に灯火がなく、童子が外から油を一盂もらって入って来たが、宗璉はただちに退けた。その清廉峻厳なことはこのようであった。

李驥

  • 李驥は字を尚徳といい、郯城の人である。洪武二十六年(1393年)の郷試に挙げられ、國學に入り、三年いて戸科給事中を授かった。当時、関市で商旅を取り調べて袋や箱まで開けていたので、驥は上奏してやめさせた。まもなく事件に連座して免職となった。
  • 建文の時に推薦されて新鄉知縣に起用され、流亡の民を招いて農具を与え、生業に復した者は数千人に及んだ。母の喪で官を去ったとき、民がそろって留任を奏請すること四度に及んだが許されなかった。
  • 永樂の初めに喪が明け、東安知縣に改められた。民を苦しめる事があればそのつど朝廷に奏して罷めさせた。ある寡婦の子が噛み殺されて驥に訴えたとき、驥は城隍神に祈って深く自らを責めたところ、翌朝、狼がその場所で死んでいた。
  • 侍郎の李昶らがそろって推薦し、刑部郎中に抜擢された。十餘事を奏陳して多くが採納された。連座して保安での労役に謫された。
  • 洪熙の時、賢を求める詔があって御史に推薦され、国を経め民を利する十事を陳べ、仁宗は嘉して容れた。
  • 宣徳五年(1430年)、倉場を巡視したとき、軍の高祥が倉の粟を盗んだので、驥は捕らえて取り調べた。祥の父の妾が「祥は張貴らと共に盗んだ。驥は貴らの賄賂を受けたので祥だけを罪にした」と言い、刑部侍郎の施禮はそこで驥を死罪と論じた。驥が上章して自ら弁明すると、帝は「御史は盗を捕らえたのだ。どうして賄賂を受けようか」と言い、都察院とともに再審させたところ、驥は果たして冤であった。帝は禮を厳しく責め、驥の官を復した。
  • その年十一月、廷臣二十五人を選んで郡守とし、敕を奉じて赴任させた。驥は河南知府を授かり、肇慶には給事中の王瑩、瓊州には戸部郎中の徐鑑、汀州には禮部員外郎の許敬軒、寧波には刑部主事の鄭恪、撫州には大理寺正の王昇が任じられ、後にみな政績を著した。
  • 河南の境内は盗が多かったので、驥は火甲を設け、一戸が盗に遭えば同じ一甲が償うことにし、犯した者にはその門に「盜賊之家」と大書し、また勧教の文を作って木鐸を振って触れ回った。これ以後、人はみな行いを改め、道に落ちているものを拾わなくなった。
  • 郡に伊王府があり、王がたびたび口利きを頼んだが従わず、中官や校卒が民を虐げるのも驥に抑えられたので、深く恨んだ。冬の令に際して驥は四更に陪席して礼を行うことになっていたが、期日どおりに行ったのに、遅参したと誣告されて捕らえられ桎梏をかけられ、翌日ようやく釈された。驥が奏聞すると、帝は怒って書を送って王を責め、府中の承奉・長史・典儀をことごとく逮えて理に下した。
  • 驥は身の持し方が端正謹厳で、私室にいても几や席を必ず正した。郡に臨むこと六年で没し、年七十であった。士民は弔問に赴いてみな声をあげて哭した。
  • 王瑩は鄞の人で、舉人から身を起こした。肇慶に九年いて秩を二等進め、後に西安知府に移った。
  • 徐鑑は宜興の人で、瓊州に四年いて没し、郡の人が九賢祠に祀った。
  • 許敬軒は天台の人で、國子生から身を起こした。汀州を守ったとき參政の陳羽の貪暴を糾弾し、宣宗は羽を逮えて処罰させた。任地で没し、士民は争って香典を出した。
  • 魏恪は閩縣の人で、進士から身を起こした。寧波を守り、喪で去ったが、おりしも海賊が侵入し、民数千人が闕へ出向いて留任を乞い、詔して喪を切り上げて復任させた。かつて中使の呂可烈の不行跡を弾劾し、帝はそのために可烈を許した。久しくして浙江參政に抜擢された。
  • 王昇は龍溪の人で、進士から身を起こした。郡にあること九年、部民が留任を乞うたので秩を増して任に還り、病で帰った。

李湘

  • 李湘は字を永懐といい、泰和の人である。永樂年間に國子生から都察院で刑を扱い、才によって東平知州に抜擢された。定額の俸禄のほかは一切取らず、吏民を訓戒することは家人に対するようであった。
  • 城の東に大村壩があり、水源は岱嶽から出て、雨で水が溜まるとそのつど民の害となったので、上奏して人夫を発し堤を築いた。
  • 州および管轄する五邑は荒れた土地が多かったので、力を尽くして民に開墾させ、公私ともに充実した。
  • おりしも旧任の官が職に還って解任されそうになったとき、民が群がって朝廷に願い出て、帝はその願いに従った。
  • 成祖の晩年、たびたび北征があり、山東の長吏に民を督して兵糧を輸送させたが、道が遠く死亡する者が多かった。ただ東平の人だけは所を失わなかった。
  • 奸人が湘を「民の財を苛斂した」と誣告して布政司に訴えると、縣民千三百人が巡按御史に走り訴え、布政・按察の二司も力を尽くしてその冤を明らかにした。耆老七十人がさらに闕下へ駆けつけ伏して、奸人の誣陥の実状を明らかにした。布政司が湘を拘束して都へ送ると、また耆老九十人が湘に随行して冤を訴えた。通政司が奏聞し、刑曹に下して調べさせ、そこで湘の官を復し、奸人を法に処した。
  • 州に臨むこと十餘年。正統の初めに大臣に郡守を挙げよと詔されたとき、尚書の胡濙が湘をもって応じ、懐慶知府に抜擢された。東平の民は老幼を助け連れて泣きながら数十里も見送った。
  • 懐慶には軍衛があってふだんから権勢を頼んで民を苦しめていたが、湘は時に応じて抑制し、みな犯すことができなくなった。三年いて没した。

趙豫

  • 趙豫は字を素定といい、安肅の人である。燕王が兵を起こして保定を下したとき、豫は諸生の身で賦を督し城を守った。
  • 永樂五年(1407年)に泌陽主簿を授かったが、赴任しないうちに兵部主事に抜擢され、員外郎に進んだ。母の喪に遭い、復職して洪熙の時に郎中に進んだ。
  • 宣徳五年五月(1430年)、廷臣九人を選んで知府としたとき、豫は松江を得て、敕を奉じて赴任した。当時、衛の軍が横暴だったので、豫はとりわけひどい者を捕らえて杖打ち辺境へ配流し、人々はそこで従順になった。ひたすら撫育に努め、民を休息させた。
  • 良家の子で謹厚な者を選んで吏とし、礼法を教え、徭役を均しくし費用を節約して、吏員を五割減らした。巡撫の周忱は何か施策を立てるとき必ず豫と議した。
  • 清軍御史の李立が来ると、もっぱら軍を増やすことに努め、姻戚や同姓にまで及ぼし、少しでも弁明すれば酷刑で打ちのめしたので、人心は大いに乱れ、冤を訴える者は一千一百餘人に達した。鹽司が竈丁を徴発するのも他の戸にまで累が及び、大いに民の害となった。豫はいずれも上章して極論し、みな救われた。
  • 蘇州・松江の官田の重い租を減らす詔が出たとき、豫の管轄する華亭・上海の二縣は二三割減らされた。
  • 正統年間、九年の考績で民五千餘人が状を連ねて留任を乞い、巡按御史が奏聞して、二秩を増して任に還るよう命じられた。
  • 十年春(1445年)に群吏の大計が行われ、はじめて卓異の典が挙げられたとき、豫は寧國知府の袁旭とともにこれに与り、宴と襲衣を賜わって帰された。在職十五年、清静なこと一日のごとくであった。郡を去るとき、老幼が轅にすがったので、履を一つ残して遺愛のしるしとした。後に周忱の祠に配享された。
  • 豫が着任したばかりのころ、民の風俗に訴訟が多いのを患い、訴える者が来るたびに穏やかな言葉で諭して「明日来い」と言った。人々はみなこれを笑い、「松江の大守は明日来いと言う」という歌が流行った。しかし訴える者は一晩越すと怒りが次第に鎮まり、あるいは人に止められて、訴えずに済ませる者が多かった。
  • はじめ豫と同じころ郡を守った者に、蘇州の況鍾、常州の莫愚、吉水の陳本深、温州の何文淵、杭州の馬儀、西安の羅以禮、建昌の陳鼎があり、いずれも際立った名績を著したが、豫はとりわけ愷悌をもって称された。
  • このころ諸郡の長吏で恵政によって聞こえた者は次のとおりである。
  • 湖州知府の祥符趙登は、任期満了で転任すべきとき民が闕へ出向いて留任を乞い、秩を増して再任され、宣徳から正統まで前後して在官十七年に及んだ。登と同郷の岳璿がこれを継ぎ、やはり善政があったので、民は「趙岳」と称した。
  • 淮安知府の南昌彭逺は、誣告されて罷免されそうになったとき、民が中官の舟を取り囲んで奏請してくれるよう乞い、宣宗は復職留任を命じた。正統六年(1441年)、廣東布政司に抜擢された。
  • 荆州知府の大庾劉永は、父の喪に遭ったとき軍民一萬八千餘人が留任を乞い、英宗は喪を切り上げて執務するよう命じた。
  • 鞏昌知府の鄞縣戴浩は、勝手に辺境の備蓄三百七十石を出して飢えを救い、弾劾されて罪を請うたが、景帝はこれを許した。
  • 徽州知府の孫遇は、任期満了で転任すべきとき民が闕へ出向いて留任を乞い、英宗は秩を進めて執務させ、前後して在官十八年、河南布政使にまで昇った。
  • ただ袁旭だけは寧國にあって督學御史の程富に誣告弾劾され、逮えられて獄中で死んだ。寧國の人はこれを惜しみ、祠を建てて祀った。

曽泉

  • 曽泉は泰和の人である。永樂十八年(1420年)の進士で、庶吉士に選ばれ、御史に改められた。宣徳の初め、都御史の邵玘が属僚を選別したとき、泉は汜水典史に謫され、そこで没した。
  • 正統四年(1439年)、河南參政の孫原貞が上言した。その趣旨はこうである――泉は操行が廉潔で、官に服して勤勉敏捷であり、降格されたからといって怠る心を持たなかった。自ら民を督して荒地を開き、穀と麦を収め、材木を伐って営繕に備え、商人の往来を通じ、未納を完済させた。官には蓄えがあり民には煩わしい取り立てがなかった。舟や楫を造り、棺や槨を備え、民の器具を賄い、百姓で婚礼や葬儀の費用が足りない者はみな泉に頼った。死んだ日には老幼が路地で哭した。臣が汜水を巡行したとき、泉が没してすでに三年たっていたが、民はその恵みを慕い、口にすればすぐ涙を流した。古の循吏といえどもこれに何を加えられよう。もし海内に泉のような者を数十人得て郡邑を分けて治めさせれば、朝廷の恩沢は行き渡り、物はみな所を得るであろう。たとい別の時代の人であってもなお詔を下して褒め称えるべきなのに、褒賞も登用も及ばず官階も復されず、泉を貶謫の名のまま終わらせて当世に顕れさせないのは、まことに憐れむべきである。泉の爵を追復し、過去を褒めて後来を励ましていただきたい――。帝はこれに従った。

范𠂻

  • 范𠂻は字を恭肅といい、豐城の人である。永樂十九年(1421年)の進士で、夀昌知縣に任じられた。荒田二千六百畝を開き、水利三百四十六区を興した。
  • 正統五年(1440年)、三度の考課が最上と報じられて転任すべきところ、邑の人が徳を称えて留任を乞い、御史が奏聞して、朝廷はこれを許した。
  • まもなく父の喪で去り、喪が明けて汝州知州に起用された。吏部尚書の王直が天下の廉吏数人を調べ挙げたとき、𠂻が第一であった。
  • 性は至って孝で、父の墓のそばに廬を結んだところ、瓜が連なった枝に生り、白兎三羽が墓の傍らに馴れ親しんだ。郷人でその行いを高しとしない者はなかった。

周濟

  • 周濟は字を大亨といい、洛陽の人である。永樂年間に舉人として太学に入り、都察院で実務に就いた。都御史の劉觀が御史に推薦したが固辞した。宣徳の時に江西都司斷事を授かり、喪で帰り、湖廣に補された。
  • 正統の初めに御史に抜擢された。大同鎮守の中官が驕慢横暴と聞こえたので、敕して濟に調べに行かせた。濟は身なりを変え薪を背負ってその邸に入り、不法の実状をすべて掴んで還り報告し、帝は大いに嘉した。
  • ついで四川を巡按したとき、威州の土官である董敏と王允が互いに仇として殺し合い、詔して濟に官兵を督して討伐させた。濟は「朝廷は遠方の人を安んじるものです。まず撫してから征つべきです」と言い、檄を馳せて諭したので、そのまま解決した。
  • 十一年(1446年)、外に出て安慶知府となった。数年続けて実らず、民間では子女を売って衣食に充て、舟を並べて去る者が続いた。濟は漕糧を借りて救済し、子女を売ることを禁じ、さらに上疏して租の免除を請い、詔して許され、救われた者は甚だ多かった。
  • また婚礼と葬礼の制を定め、贅沢な費用を禁じ、嫁入りや葬りの時期を過ぎた者には罰を設けたので、風俗は一変した。
  • 飢えた民が集まって富家の粟を奪い、富家が強盗として訴えたとき、濟は「民は飢えたからこうしたのだ。ただし穀を得た者は太守に数量を報告せよ。太守がおまえたちに代わって償おう」と令を下し、奪った者はそこで解散した。
  • 濟が任地で没すると、民はみな市を閉じて路地で哭したという。

范希正

  • 范希正は字を以貞といい、吳縣の人である。宣徳三年(1428年)に賢良方正に挙げられ、曹縣知縣を授かった。
  • 奸吏で賄賂を受けた者があり、希正はその罪を調べて械をつけ京師へ送ったが、吏は逆に希正を別件で誣告し、希正は逮捕された。曹の民八百餘人が京へ出向いて通政司に申し立て、希正は廉能なのに奸吏に誣告されて無実の罪を着せられたと述べた。侍郎の許廓が公務で曹を通ったとき、曹の父老二百餘人が道を遮り額を地につけて「朝廷はわれらの賢令を奪った」と泣いて訴えた。事はいずれも奏聞され、帝はそこで希正を釈して縣へ還した。
  • 正統十年(1445年)、山東が飢饉になったが、曹だけは希正が先に粟を蓄えていたので憂いがなかった。大理寺丞の張驥が山東を救済して、これを聞き、曹縣を州に昇格させて希正を知州とするよう請い、認められた。
  • 当時、州民で官の馬を弁償できずに逃亡する者が多かったので、希正は公費を節約して九十餘匹を代わりに償い、逃げた者はみな生業に復した。
  • 吉水の人が曹の富民を「兄を殺した」と誣告して連座する者が甚だ多かったが、希正が密かに吉水へ問い合わせてその人の姓名を調べると、いずれも偽りであり、事は明らかになった。
  • 曹を治めること二十二年、知州として二度の考課を経てから致仕した。
  • このころ、潞州知州の咸寧燕雲、徐州知州の楊祕、全州知州の錢塘周健、霸州知州の張需、定州知州の王約は、みな大いに声績を著した。祕と健は秩を進めて執務し、約は詔を賜わって表彰され、需は太監の王振に忤って辺境に戍られたので、人はとりわけ惜しんだ。
  • そして民心を得た期間が最も長い者は、希正と寧州知州の劉綱に及ぶ者がない。綱は字を之紀といい、禹州の人で、建文二年(1400年)の進士である。府谷知縣からこの職に移り、州に□(底本欠字)すること三十四年に及んだ。仁宗がかつて酒と食事を賜わり、人々はこれを栄誉とした。正統年間に老齢を理由に去るとき、民は涙を流して道いっぱいに見送った。没すると、寧州の民は狄仁傑の祠の中に祀った。その孫が大學士の劉宇である。

段堅

  • 段堅は字を可大といい、蘭州の人である。若いころから書を受けるとすでに聖賢を志した。郷試に挙げられ、國子監に入った。
  • 景泰元年(1450年)、上書して四方の監軍をすべて召還し、天下の仏寺・道観を廃するよう請うたが、上奏は行われなかった。五年(1454年)に進士となり、福山知縣を授かった。
  • 『小学』を刊行して士民に講誦させた。風俗はもとより粗野であったが、これによって一変し、村落にはみな絃歌と誦読の声が起こった。
  • 成化の初め、敕を賜わって表彰され、萊州知府に抜擢され、一年で教化が大いに行われた。喪で去り、喪が明けて南陽知府に改められた。
  • 州縣の學官を召して、古人の学問の趣旨を詳しく告げ、互いに勧め誘わせた。志學書院を創設し、優秀な民を集めて五経の要義および濂洛の諸儒の遺著を講説した。節義祠を建てて古今の烈女を祀った。訴訟も徭賦もひたすら公平を旨とした。
  • 数年いて大いに治まった。病と称して去るとき、士民が号泣して見送り、境を越えても絶えなかった。その死を聞くと祠を建てて春秋に祀った。
  • 堅の学問は河東の薛瑄に私淑し、致知に努めてこれを実践し、へつらいの評判で誉れを取ろうとしなかったので、儒術によって吏治を飾ることができた。
  • 子の炅は進士で翰林檢討となったが、蕉芳と劉瑾にへつらって付き従い、彼らが敗れると職を失い、その家声を落とした。

陳鋼

  • 陳鋼は字を堅逺といい、應天の人である。成化元年(1465年)の郷試に挙げられ、黔陽知縣を授かった。
  • 楚の風俗では喪に居るとき鼓を打ち歌い舞うのを好んだが、鋼が古の哀詞を歌うよう教えると、民の風俗は次第に改まった。
  • 縣城は沅水と湘水の合流点に当たり、たびたび決壊して家屋を壊したので、鋼は人を募って石を採り堤を千餘丈積み、水は害をなさなくなった。
  • 南山の崖の官道は数里にわたって道幅が甚だ狭く、通行者が崖から落ちて死ぬことが多かった。鋼は薪を積んで山を焼き、酢を注いで、道幅を一丈ほど広げ、通行者は便とした。
  • 鋼が病むと、民は争って神に願い、自分の寿命を減らして鋼の寿命に加えてほしいと祈った。
  • 長沙通判に移り、吉王の邸宅の造営を監督した。工事が終わると王は金帛を賜わったが受けず、王の旧殿の材で岳麓書院を修めたいと請い、王はこれを許した。
  • 𢎞治元年(1488年)、母の喪により帰って没した。黔陽・長沙はともに祠を建てて祀った。子の沂は侍讀に官し、文苑傳に見える。

丁積

  • 丁積は字を彦誠といい、寧都の人である。成化十四年(1478年)の進士で、新㑹知縣を授かった。着任するとすぐ同邑の陳獻章を師とした。政治は風化を根本としつつ民を愛することを主とした。
  • 中官の梁芳はこの邑の人で、その弟が郷里で横暴を働き、民の未納分を倍以上に取り立てた。訴えが積のところへ来ると、積は証文を取り上げて焼き、さらに捕らえて獄につないだ。これによって権勢者は跡を潜めた。
  • 洪武の礼制を申し渡し、朱子の家礼を参酌し、耆老を選んで百姓を教え導かせた。良家の子で学業を怠っている者を廡下に集め、『小学』の書を目で読ませ、自ら解説したので、風俗は大いに改まった。
  • 民が銭を出して官に納め役に充てるものを「均平錢」といったが、その後、吏が貪って、さらに甲首に銭を出させて用に充てさせ「當月錢」といった。貧しい者は子女を売るまでになったので、積はこれを一切やめさせた。
  • 風俗として巫や鬼神を信じたので、淫祠を徹底して壊した。
  • やがて大旱になり、圭峯の頂に壇を築いて朝夕壇の下に伏すこと八日、大雨が降り注いだが、積はそのまま病を得て没した。士民は路上に集まって哭した。ある老女が夜に極めて悲しく哭いていたので理由を問うと、「来年は甲首に当たるのに、丁公が死んでしまった。私はもう生きていけない」と言った。

田鐸

  • 田鐸は字を振之といい、陽城の人である。成化十四年(1478年)の進士で、戸部主事を授かり、員外郎・郎中に移った。
  • 𢎞治二年(1489年)、詔を奉じて四川を救済したが、敕中の語を誤って伝えた罪で蓬州知州に謫された。
  • 州の東南に江の中洲八十二頃があり、豪族に占拠されていたが、鐸はすべて民に還した。大小二十四の橋を建て、また三溪山を鑿って通行者の便を図った。
  • 御史が管内巡視で蓬州に至ると、訴訟をする者がまったくないので不審に思ったが、やがて州に冤を抱く民がいないためだと知り、感嘆して去り、朝廷に推薦した。廣東僉事に抜擢され、四川參議に移ったが赴任せず、老いと病を理由に帰郷を告げた。
  • 正徳の時、劉瑾が詔を偽って「鐸が扱った廣東の鹽法の帳簿が不明である」と言い、逮えて廣東へ赴かせようとしたが、まだ出発しないうちに瑾が誅された。鐸に行くなと勧める者もあったが、鐸は聞かず、九江まで来て没した。年は八十二であった。

唐侃

  • 唐侃は字を廷直といい、丹徒の人である。正徳八年(1513年)の郷試に挙げられ、永豐知縣を授かった。赴任に妻子を連れず、ただ一二人の童僕とだけで、粗末な野菜と豆の羹を食べて暮らした。久しくして吏民は信服した。
  • 永豐の風俗は訴訟好きで、鬼神を尊び、とりわけ俳優を好んだので、侃はこれを禁じた。
  • 武定知州に進んだ。おりしも軍籍の整理が行われ、徴発すべき者が一萬二千人に達した。侃は「武定の戸口は三萬だ。これでは州の半分を空にすることになる」と言って力争した。また州境の徒駭河へ移すことを議する者があったので、侃は民の財を削って溝壑を埋めるべきではないと述べ、いずれの件も沙汰やみとなった。
  • 章聖皇太后が承天に葬られたとき、宦官たちが通過する州縣の吏を脅して金銭を要求し、接待の用意ができない者は死罪だと言いふらしたので、州縣の吏は逃げる者が多かった。侃は空の棺を脇の建物に置き、宦官の要求が激しくなると、うまく言って棺のところへ連れて行き、指さして「私は死を覚悟している。金銭は出せない」と告げた。宦官たちはみな唖然として去った。
  • ほどなく刑部主事に移り、没した。
  • はじめ侃が若かったころ、丁璣に学んだ。隣家の娘が夜に言い寄ってきたが拒んで受け入れなかった。その父が拘禁されると、侃は身代わりを願い出たが認められず、草を敷いて地に寝、一年余りして父が宥免されてようやくやめた。その操行の貞潔は生まれつきのものであった。

湯紹恩

  • 湯紹恩は安岳の人である。父の佐は𢎞治初の進士で、參政にまで至った。紹恩は嘉靖五年(1526年)に及第し、十四年(1535年)に戸部郎中から徳安知府に移り、まもなく紹興に移った。
  • 人となりは寛厚な長者で、性は倹素、内には粗い布を着け、外には父の遺した古い袍を重ねた。
  • 着任するとすぐ学宮を新しくし、社学を広く設けた。大旱の年に徒歩で炎天下に祈ると、すぐ雨が降った。刑罰を緩やかにし、貧弱を憐れみ、節婦孝子を表彰したので、民情は大いに和らいだ。
  • 山隂・㑹稽・蕭山の三邑の水は三江口に集まって海に入るが、潮の満ち引きが日々至って砂を押し寄せ丘陵のように積もり、長雨に遭うと水が阻まれ砂は急には流れず、良田はことごとく大きな水たまりになった。当事者はやむを得ず堤を切って流したが、堤を切れば旱を心配することになり、毎年その修築に苦しんでいた。
  • 紹恩は水路をくまなく歩いて三江口に至り、雨山が向かい合っているのを見て喜び、「この下には必ず岩盤があるはずだ。私はここに水門を築こうか」と言った。潜水の巧みな者を募って探らせると、果たして石脈が両山の間に横たわっていたので、そこで工事を起こした。
  • まず鉄と石を投じ、続いて籠に瓦礫を入れて沈めた。工事が半ばに至らぬうちに潮に衝かれて成らず、恨み言が盛んに起こったが、紹恩は動じず、海神に祈ったところ、幾日も潮が来なかったので、工事はそこで完成した。
  • 五十餘尋を築き、水門は二十八として星宿の数に応じさせた。その内側に備えの水門を三つ設け、經漊・撞塘・平水と名づけて、大水門の決壊を防いだ。水門の外には石堤四百餘丈を築いて潮を防ぎ、はじめて潮が水門の害とならなくなった。石の間に水位の目盛りを刻んで、後の人が水勢を見て時に応じて開閉できるようにした。これ以後、三邑の数百里四方には水害がなくなった。
  • 士民はその徳を慕い、水門の左に廟を建て、年ごとの祀りが絶えなかった。
  • たびたび移って山東右布政使となり、致仕して帰り、九十七歳で没した。
  • はじめ紹恩が生まれたとき、峨嵋の僧がその門前を通って「後日、地に紹と称する所があり、この子の恩を承けることになろう」と言ったので、紹恩と名づけ、字を汝承とした。その後、果たして言のとおりになった。

徐九思

  • 徐九思は貴溪の人である。嘉靖年間に句容知縣を授かった。執務しはじめのころは慎ましくて務まらないかのようであった。
  • まもなく袖に白紙の文書を入れて印を盗み押そうとした吏があり、九思はその不正を摘発して法どおりに処断した。郡の吏が叩頭して助命を請うたが許さず、そこで誰もが恐れ慎むようになった。
  • 政治は孤独で貧しい者には恩を加えるよう努め、豪猾を制するにはとりわけ厳しかった。訴訟の当事者に加える笞は十を超えなかった。徴税はあらかじめ期限を定め、期限を過ぎれば里の年長者に督促させるだけで、下役が村里に立ち入ることはなかった。
  • 縣の東西の大通り七十里は塵土が三尺も積もり、雨や雪では泥が股まで没した。九思は公費を節約して石を敷き詰め、旅人は便とした。
  • 朝廷がたびたび中官を遣わして三茅山で神を祀らせ、縣民はその供応に苦しんだ。九思は古い文書を探し、府に長く貯えられていた鹽引の金があったので、それを賞与に充てるよう請い、民は煩わされずに済んだ。
  • 凶作で穀物が高騰したとき、巡撫が倉の穀数百石を出し、平価で売って代金を官に納めさせようとした。九思は「あれを買うのはみな豪族です。貧民は平価でも買えません」と言い、時価で半分を売って代金を官に返し、残りの穀で粥を煮て飢えた者に食べさせた。穀が多ければ力に応じて分けて背負って帰らせ、山谷の遠い者には近くの富人の穀を融通させて官が償った。救われた者は甚だ多かった。
  • かつて「たとい天子が大きな恵みを施しても、どうして人ごとに租を免じ賦役を免除できよう。ただわれわれが緩急を斟酌するかどうかにかかっているだけだ」と言った。
  • 久しくして應天府尹と合わず、巡撫に弾劾されたが、吏部尚書の熊浹はその賢を知って特に留めた。九年を積んで工部主事に移り、郎中を歴任して張秋の河道を治めた。
  • 漕河と鹽河は近いのに接しておらず、漕河の水が溢れると氾濫して田の害となった。九思は沙灣に減水橋を築いて二つの水を通じさせ、漕河の水が溢れれば流れて海に入り田を侵さず、少なければ限られて涸れないようにする案を立てた。工事が成り、永く利益となった。
  • 当時、工部尚書の趙文華が東南で軍を視察し、河のほとりを通ったが、九思は出迎えず、吏一人に文書を持たせて挨拶に行かせた。文華は罵り散らして去った。おりしも高州知府に移ったところ、文華は帰って旧怨を晴らそうとし、吏部尚書の吳鵬と謀り合わせて陥れ、九思は老齢を理由に致仕させられた。
  • 句容の民は茅山に祠を建てた。九思は家に居ること二十二年、八十五歳のとき病を抱えて手を挙げ「茅山が私を迎えに来た」と言い、そのまま没した。子の貞明には別に伝がある。

龎嵩

  • 龎嵩は字を振卿といい、南海の人である。嘉靖十三年(1534年)の郷試に挙げられ、羅浮山で学業を講じ、従学する者が雲のように集まった。
  • 二十三年(1544年)に應天通判を授かり、治中に進み、前後して八年、府に尹が欠けたときはたびたびその事を代行した。
  • 着任したときちょうど飢饉で、上官が救済を督するよう命じたが官の粟は尽きていたので、大家や富家から借りて、救われた者は六萬七千餘人に及んだ。そこで積年の未納を免じ、徴税と徭役を緩めて勤め労わったので、生業に復した者はさらに十萬餘人に及んだ。
  • 留都の民は役の重さに苦しんでいたので、力を尽くして調整し、優免戸および寄居の客戸で官戸・寄莊戸・女戸・神帛堂匠戸と偽って称している者をすべて出して役に応じさせ、民の困窮は大いに和らいだ。
  • 江寧縣の葛仙・永豐の二郷はしばしば水害に遭い、住民は七戸しか残っていなかった。嵩は堤を治め防を築いて田三千六百畝を得、惠民莊を四つ立てて貧民を呼んで小作させ、流亡した者はことごとく復した。
  • たびたび冤獄を裁き、外戚の王湧と舉人の趙君寵が良家の妻を奪って人を殺した事件では、嵩はこれを法に処した。
  • 早くに王守仁の門に遊び、五経に広く通じ、諸生を新泉書院に集めて互いに講習した。年ごとに単騎で縣を巡り、水筒を自ら携えた。
  • 京府の佐貳でその職務を果たす者はまれであったが、嵩に至ってその善政が特に聞こえた。
  • 府の官は六年ごとの京察の例に入るのに、さらに外察にも与っていた。嵩はこれを筋が通らないとして上疏して止めるよう請い、そのまま永く制度となった。
  • 南京刑部員外郎に移り、郎中に進み、「原刑」「司刑」「祥刑」「明刑」の四篇を撰して『刑曹志』と題し、当時の議論に称えられた。
  • 雲南曲靖知府に移り、やはり政声があった。人事考課に当たって老齢を理由に罷められたが、年はわずか五十であった。さらに湛若水に従って学び、久しくして没した。應天・曲靖はいずれも名宦として祀り、葛仙郷では専祠を建てて祀った。

張淳

  • 張淳は字を希古といい、桐城の人である。隆慶二年(1568年)の進士で、永康知縣を授かった。
  • 吏民はもとより奸猾な者が多く、続けて七人の令を訴えて罷めさせていた。淳は着任すると日夜案牘を調べ、訴える者数千人を流れるように裁いたので、吏民は大いに驚いて服し、訴訟は次第に減った。
  • 訴え出る者にはすぐ審理の期日を示し、原告被告が期日どおりに来ると、わずかの間に分析して滞らせなかった。郷民は弁当を一包み持って行けば訴訟を終えられたので、「張一包」と呼ばれた。その敏速な裁断が包拯のようだという意味である。
  • 大盗の盧十八が庫の金を奪って十餘年捕まらず、御史がこれを淳に任せた。淳は三月の期限を切って必ず盗を捕らえると言い、御史に月ごとに数十通の檄を下すよう請うた。檄がしきりに下ると、淳は表向き笑って「盗が逃げて久しい。どこから捕らえられよう」と言い、放置して動かなかった。
  • ある吏の妻が十八と通じており、その吏はかなり十八の耳目となっていた。淳の言を聞いて十八に告げ、十八は安心した。淳はそこで別の役人に、その吏が金を借りて返さないと偽って訴えさせ、吏を獄につないだ。密かに吏を呼んで、盗と通じた死罪であると威し、さらに妻を身代わりにつなぎ自分は出て金策して償いたいと願い出るよう教えた。十八はこれを聞いて急いで妻を見に行き、酔ったところを捕らえられた。御史に報告するまでわずか二月であった。
  • 民はわずかの怨みでもすぐ人命がらみの訴えにしたが、淳は調べて事実がなければすぐその者を罰したので、これ以後、誣告の訴えはなくなった。
  • 永康の人は貧しく、女子が生まれても育てないことが多かった。淳は懇切に勧め戒め、貧しくて力のない者には俸給を投じて量って給付し、救われた命は数え切れなかった。
  • 凶作の年、略奪が公然と行われたので、奪った者は死罪とする令を下した。五斗の米を奪った者があったとき、淳はいつわって死刑囚を引き出して杖殺し、その罪を掲げて「これは米を奪った者だ」と示したので、人々はみな恐れ服した。
  • 久しくして治績第一で召され、去ることになった。永康を出て車に乗るとすぐ、部下を顧みて「あの盗はもう来ている。ここから数里だ。私のために縛って来い」と言った。言われたとおり跡をたどると、盗はちょうど河で足を洗っており、縛って来ると罪に服した。永康の人はこれに驚き、神の告げがあったのだと言った。淳は「この盗は急いで捕らえようとすれば逃げる。今、私が去ると聞いて帰って来ただけだ。理で推しはかったのだ。何の神わざがあろう」と言った。
  • 禮部主事に抜擢され、郎中を歴任し、病を理由に去った。建寧知府に起用され、浙江副使に進んだ。
  • 当時、浙江に召募の兵があり、撫按が解散を議したので、兵はみな騒然となった。淳は「これは驕り猛る者たちだ。留めれば役に立つが、汰すれば何が起こるか分からない。老弱を汰して壮勇を留めるにこしたことはない。そうすれば留まる者は乱を思わず、汰される者は乱を起こせない」と言い、これに従って事は収まった。
  • 官は陜西布政を最後とした。

陳㓜學

  • 陳㓜學は字を志行といい、無錫の人である。萬厯十七年(1589年)の進士で、確山知縣を授かった。
  • 政務は民に恵むことに努めた。粟一萬二千石を蓄えて荒に備え、荒れ田八百餘頃を開墾し、貧民に牛五百餘頭を給し、黄河が退いた土地百三十餘頃を調べて民に賦し、里の婦人で紡げない者に紡車八百餘輌を与え、家屋一千二百餘間を建てて貧民を分けて住まわせ、公廨八十間を建てて六曹の吏を居らせそこで寝食させ、公費六百餘兩を節約して正税の徴収できない分に充て、桑・楡などの木を三萬八千餘株植え、河渠百九十八道を開いた。
  • 布政使の劉渾成の弟の燦成が妾に手を貸して妻を殺したとき、法どおりに処断した。行太僕卿の陳耀文の家人が法を犯したときも、ただちに捕らえて処断した。
  • 汝寧知府の邱度は㓜學が禍に遭うことを心配し、撫按に言って中牟へ転じさせた。
  • 秋の収穫時に飛蝗が天を蔽ったが、㓜學が蝗を捕らえること一千三百餘石に及び、そこで害とならなかった。
  • 縣はもと土の城で低いうえ崩れていたので、飢民に粟を給して修築させ、工事が成っても民は役だと感じなかった。
  • 縣の南の荒地は茂った草が多く根が深くて開墾しにくかったので、民で訴状を出す者には必ず草十斤を納めさせたところ、まもなく草は尽き、肥沃な田数百頃を得て、すべて民に与えた。
  • 大きな沢に水が溜まって肥えた土地二十餘里を占めていたので、幼學は河とするもの五十七、渠とするもの百三十九を通し、いずれも小清河へ引き入れたので、民は大いに利を得た。
  • 大莊などの里は水が多かったので、堤十三道を築いて防いだ。貧民に牛と種、貧しい婦人に紡ぎ道具を給したのは確山のときの倍であった。
  • 五年を越えて政績が盛んに現れたが、権貴に通じなかったため、考察の拾遺に当たり、掌道御史が排斥しようとした。その子が「私は中州から来ましたが、みな中牟の治績は並ぶ者がないと言っています。今、なぜ最下位を与えるのですか」と言い争ったので、やめた。
  • ほどなく刑部主事に移った。御園の果物を採りに来た中官が怒って園丁の母を殺し、その屍を河に棄てたので、幼學は詳しく上奏して逮えて法に処した。
  • 嘉興の人である袁黄が『四書』『書經集註』をみだりに批削して『刪正』と名づけて当時刊行していたので、幼學はその書を論駁して正し、上疏して論列した。上疏は宮中に留め置かれたが、版木はすべて焼かれた。
  • 員外郎として畿輔の恤刑にあたり、疑わしい者三百餘人を憐れんで出した。郎中に進み、湖州知府に移った。
  • 着任するとすぐ豪悪な家僕を捕らえて殺した。施敏という士族の子と楊陞という人の奴が郡中で横暴を働いていた。幼學は敏を捕らえて獄につないだが、敏が貴人に賄賂を贈って巡撫に頼み、檄で身柄を取って自ら審理させようとした。幼學は固く渡さず、ただちに杖殺した。敏の供述はもと尚書の潘季馴の子の廷圭に及んだので、幼學がこれを御史に告げ、御史が上疏して弾劾し獄に下した。
  • 他の奸悪な豪族も数十人を論じて殺した。ただ楊陞だけは禍を恐れて行いを慎んだので放置していたが、やがて自分が去れば陞は必ずまた思い上がると考え、そこで捕らえて死に処し、一郡は大いに治まった。
  • 長雨が幾月も続いて禾がことごとく枯れたとき、幼學は大々的に荒政を行い、飢民三十四萬あまりを活かした。
  • 御史が推薦しようとしてその治績を問うたところ、推官の閻世科が三十六事を列挙して上申し、御史が奏聞して、詔して按察副使を加え、なお郡の事を見させた。
  • 久しくして副使として九江の兵備を督した。幼學は年すでに七十で、その母がまだ存命だったので、そのまま終身の養いを理由に帰郷した。母が没しても再び出仕しなかった。
  • 天啟三年(1623年)、南京光祿少卿に起用され、太常少卿に改められたが、いずれも赴任しなかった。翌年に没し、年は八十四であった。中牟・湖州はともに祠を建てて祀った。