明史卷二百七十九 列傳第一百六十七 嚴起恒

出自と入閣

  • 浙江山陰の人。崇禎四年(1631年)進士、廣州知府を歴任し、衡永兵備副使に遷る。十六年(1643年)張獻忠が湖南を蹂躙し、吏民がことごとく逃げ隠れる中、起恒ひとりが永州を堅く守り、賊も至らなかった。
  • 唐王の時に戸部右侍郎に抜擢され、湖南の銭法を総督した。永明王が立って湖南の軍餉の督察も兼ねさせた。
  • 順治四年(1647年)、王が武岡に駐まったとき、起恒を禮部尚書兼東閣大學士に拝し、なお銭法を領させた。王が靖州に走ったとき、起恒は従ったが及ばず、萬村に難を避けた。王が柳州にいると知って間道から往って従い、従って桂林に返り、また従って柳州・南寧に至った。
  • 李成棟が叛いて大清を離れ廣東を挙げて王に附くと、起恒は王に従って肇慶に至り、王化澄・朱天麟とともに入直した。まもなく化澄・天麟が相次いで罷め、黄士俊が何吾騶に継いで首輔となり、起恒がこれに次いだ。

四虎との党争

  • 時に朝政は成棟の子の元允の手で決まり、都御史の袁彭年、少詹事の劉湘客、給事中の丁時魁・䝉正發の四人がこれに附いて権を攬み党を植えた。人はこれを「四虎」と目した。起恒はその間にあって匡正するところがなかった。
  • しかし起恒は潔白廉直で、事に遇えば公平を持し、文安侯の馬吉翔・司禮中官の龎天喜とともに患難を共にして久しく、忤うことが無かった。ところが四虎は起恒を恨み、競って邪党だと詆った。
  • 王が梧州にいたとき、尚書の吴貞毓ら十四人がそれぞれ疏して四虎を攻め、湘客らを獄に下し死に致そうとした。起恒はかえって王の舟の前に跪いて湘客らを救ったので、貞毓らもまた起恒を憎み、そこで化澄を召し還すよう請うて合わせて起恒を攻めた。給事中の雷徳復がその二十余の罪を弾劾して嚴嵩に比した。王は悦ばず徳復の官を奪った。起恒は力めて罷免を求め、王は引き留めたが果たせず、故らに舟がついに去った。
  • ちょうど鄖國公の高必正が王に入覲した。貞毓はその力を借りて起恒を倒そうとし、「朝廷の事は四虎に壊されているが、これを主導しているのは起恒だ。公が入見して君側の奸を除けと請い、数言で決まる」と言い、必正は許諾した。起恒のために弁ずる者があって必正に言った。「四虎が嚴公を攻めたのに、嚴公はかえって力めて四虎を救った。これは長者である。どうして奸とするのか」。必正は王に見えて、起恒は虚心公平で任ずるに足ると力説し、自筆の敕を請うて起恒を迎えともに還った。
  • 文安之が入朝すると、起恒は譲って首輔とした。

秦王の封を拒んで殺される

  • 桂林が破れ、王に従って南寧に奔った。先に孫可望が雲南に拠って使者を遣わし封を乞い、天麟はこれを許すことを議したが、起恒は不可と持した。
  • のちに胡執恭が詔を偽って秦王に封じたが、可望はそれが偽であることを知り、使者を遣わして真の封を求めた。起恒はまた不可と持し、可望は大いに怒った。
  • ここに至り、可望は王が流離しているのを知り、その將の賀九儀・張慎らに精兵五千を率いて王を迎えさせた。南寧に至ると、まっすぐ起恒の舟に上り、目を怒らせ腕まくりして「王の封は秦か秦でないか」と問うた。起恒は「君は遠くから主上を迎えて功はまことに偉大である。朝廷にはおのずと厚い恩がある。もしそれを措いてこの事を問うのなら、それは封を強要するのであって主上を迎えるのではない」と言った。九儀は怒って撲殺し、屍を江に投げた。ついで給事中の劉堯珍・吴零・張載述を殺し、兵部尚書の楊鼎和を崑崙関まで追って殺した。いずれも封の議を阻んだためである。
  • 順治八年(1651年)二月のことであった。起恒が死んで屍は十余里流れ、沙の中洲の間に止まった。虎がこれを負って崖に登り、山麓に葬った。