明史卷二百七十九 列傳第一百六十七 堵允鍚

出自と長沙知府

  • 字は仲緘、無錫の人。崇禎十年(1637年)進士、長沙知府を歴任した。山賊が安化・寧郷を掠め、官軍がたびたび敗れたが、允錫が郷兵を督して破り滅ぼし、また醴陵の賊魁を殺したので、兵を知るという名を得た。
  • 十六年(1643年)八月、賊が長沙を陥れたが、允錫は朝覲から還ってみると賊はすでに退いていた。
  • 翌年六月、福王が湖廣參政に命じ、武昌・黄州・漢陽を分守させた。左良玉が兵を挙げると、總督の何騰蛟が長沙に奔り、湖北巡撫の事を代行させ常徳に駐まらせた。唐王が立って右副都御史に拝し、正式に巡撫に任じた。

忠貞営の招撫

  • 李自成が死に、その衆が兄の子の錦を主に擁し、自成の妻の高氏およびその弟の一功を奉じてにわかに澧州に至り、衆三十万を擁して降を乞うと言った。遠近が大いに震えた。允錫はこれを招撫することを議し、騰蛟もまたにわかに檄を送ってきた。そこで自ら営に入って誠を開いて慰め諭し、詔と称して高氏に命服を、錦と一功に蟒玉と金銀の器を賜り、その軍を犒った。みな踊り上がって拝謝した。そこで軍中で宴を張り、忠孝の大義を数千言にわたって説いた。
  • 翌日、高氏が出て拝し、錦に「堵公は天人だ。お前は背いてはならぬ」と言った。別部の田見秀・劉汝魁らもまた帰順した。
  • 唐王は大いに喜び、允錫に兵部右侍郎兼右僉都御史を加えてその軍を総制させ、自筆の書で奨め労った。錦に御営前部左軍、一功に右軍を授け、ともに龍虎將軍の印を掛けさせ、列侯に封じ、錦に赤心、一功に必正の名を賜った。他の部にも賞賜に差をつけた。その営を「忠貞」と号し、高氏を貞義夫人に封じ、珠の冠と綵幣を賜り、有司に坊を建てさせ「淑贊中興」と題した。
  • 允錫はそこで赤心らと深く結び、これに倚って自らを強くした。ただし赤心の書疏はなお自成を先帝と称し、高氏を太后と称していた。
  • まもなく袁宗第・劉體仁の諸営で先に騰蛟に帰していた者もまた引いて赤心と合わせ、衆はますます盛んになった。允錫は秣と糧が続き難いので、江北に散らして食を得させた。
  • 翌年正月、騰蛟が大挙して諸軍を岳州に会するよう期したが、ひとり赤心だけが先に至り、残りは逗留してついに進まなかった。永明王が立って允錫を兵部尚書に進め、総制はもとのままとした。

湖南の敗退と朱容藩の討伐

  • 順治四年(1647年)、永明王が赤心らに荊州を攻めさせ、一月余りで大清の兵が荊州を援けたので、赤心らは大敗し徒歩で蜀に入り、数日食を得られず、そこで散って施州衛に入り、湖南で食を得ると声言した。
  • 時に王は武岡におり、劉承允は赤心に併呑されるのを懼れ、允錫でなければ防げないと考え、允錫に東閣大學士を加え光化伯に封じ、剣を賜って便宜行事を許した。允錫は疏して、白紙の敕を給されて印を捺して秦中で挙兵した者に頒賜できるようにと請い、時にその専断ぶりがかなり議された。承允が騰蛟を殺そうとしたので、允錫はその罪を弾劾した。
  • 八月、大兵が武岡および寳慶・常徳・辰・沅を破り、允錫は永順の土司に走り、まもなく貴陽に赴き遵義に至って皮熊・王祥に兵を乞い、また施州に入って忠貞営の軍を請うた。
  • ちょうど楚の宗人の朱容藩が偽って監國・天下兵馬副元帥と称して勝手に䕫州に居り、御史の錢邦芑が檄を伝えてこれを討った。五年(1648年)正月、允錫は容藩に会って大義をもって責め、利害を諭し、その党を散らせた。

湖南の再失陥と党争

  • まもなく金聲桓・李成棟が我が大清に叛き、江西・廣東を挙げて永明王に附いた。そこで馬進忠・王進才・曹志逮・李赤心・高必正らが隙に乗じて常徳・桃源・澧州・臨武・藍山・道州・靖州・荊門・宜城の諸州縣を取り、進忠・赤心・必正はみな公に封ぜられた。
  • 允錫は進忠と隙があり、赤心・必正に進忠が取った常徳を争わせた。進忠は廬舎をことごとく焼いて去り、赤心らは空城を棄てて東へ引いた。行く先々で守將はみな営を焼いて城を棄てて走り、湖南のすでに回復された州縣は一切空になった。
  • 允錫はそこで赤心らを率いて湘潭に入り騰蛟と会した。騰蛟は允錫を江西に向かわせ、自らは進忠らを率いて長沙に向かった。六年(1649年)正月、兵がまさに長沙に迫ったとき、騰蛟が湘潭で捕らえられ、諸軍はついに散った。赤心らは廣西に走り、道筋の衡・永・郴・桂を掠めた。允錫は胡一青とともに衡州を守ったが、戦い敗れて桂陽に走った。

曹志建との衝突と最期

  • 初め赤心らが廣西に入ったとき、龍虎関の守將の曺志建がその淫掠を憎み、あわせて允錫をも憎んだ。允錫はこれを知らなかった。ある者が志建に、允錫が忠貞営を召して志建を図ろうとしていると説いた。志建は夜に兵を発して允錫を囲み、従卒千余を殺した。允錫と子は逃れて富川の猺洞に入った。志建が急に索めたので、猺人はひそかに允錫を監軍僉事の何圖復に送り、艱難を経て梧州に達した。
  • ちょうど王が大臣の嚴起恒・劉湘客を遣わして忠貞営を安撫させ梧州に至ったが、赤心らはすでに賔・横の二州に走っていた。そこで允錫を載せて肇慶で王に謁した。志建は怒りを圖復に転じ、誘い出して殺し、一門ことごとく尽きた。
  • 允錫が肇慶で王に見えた時、馬吉祥および李元允・袁彭年らがみな権を専らにし、それぞれ党を樹てていた。允錫は吉祥と親しみを結び、赤心らを東に来させて元允と事を構えさせ、瞿式耜に書を送って元允を離間しようとし、王に密敕があって自分と式耜に元允を図らせるのだと偽って言った。王ははなはだ悦ばなかった。元允の党の丁時魁・金堡がまた允錫が軍を喪い地を失ったと論じたので、兵馬を総統して梧州に移駐せよと命ぜられた。
  • 允錫は赤心らを恃むに足りぬと考え、遥かに孫可望と結んで強い援けにしようとし、王命を偽って平遼王に封じた。允錫はまもなく潯州に至り、自ら悔いて病を発し、十一月に卒した。王は允錫に潯國公を贈り、文忠と諡した。