禮部での議論
- 禄豐の人。天啟二年(1622年)進士、庶吉士に改まり檢討に授けられ、崇禎中に累進して少詹事。十三年(1640年)禮部右侍郎に抜擢された。
- 翌年秋、尚書の林欲楫が孝陵の視察に出たので、錫衮が左侍郎として部の事を掌った。帝が内臣の外政干与を禁じ、禮官に先朝の典制を調べて報告せよと勅した。錫衮らは諸監局の職掌を列挙したが東廠には及ばなかった。提督内臣の王徳化が「東廠の設置は永樂十八年に始まり、国朝典彚に拠るところがある。禮官の覆議がそれに及ばぬのなら、臣の職を解き廠を停めて設けないでいただきたい」と言った。錫衮らは「典彚にこの条は載っているが、下文の箋註にあたる。臣らは正史に文が無いので妄りに引かなかったのだ」と言った。帝は聴かなかった。錫衮はまた抗疏して廠を罷めるよう請うたが、これも許されなかった。
- 二月、帝がふたたび耤田を耕したとき、錫衮は、近年は旱と蝗が続き三餉が重ねて課されていると言い、加徴を量って除き、餉を蝕む者を厳しく調べて農夫に生を楽しませるよう請うた。
- また時が人材を急いでいるとして、元侍郎の陳子壯・顧錫疇、元祭酒の倪元璐・文安之を召し還すよう請い、あわせて黄道周の永久の流刑を免ずるよう乞うた。
- 給事中の沈允培が天下の解額を増すよう請うと、錫衮は南畿と浙江は人文がさらに盛んなので倍増すべきだと言った。また、挙人には三十年も選に謁しない者があるので、数科落第すれば官に服させるという制を定めるべきだと言い、これに従われた。
吏部尚書と沙定洲の乱での死
- 欲楫が還朝すると錫衮は吏部に転じ、尚書の李日宣が下獄したので部の事を掌った。
- 帝は性が純孝で、かつて秋の夜に聖母の孝純太后を感じ念って、終身蔬食しようとした。錫衮が疏して諌めると、帝は愛情を諫めに寓したことを嘉して秋の秩を一等進めた。まもなく部務を解いて講筵に侍した。
- 十六年(1643年)憂に遭って帰郷した。唐王が立って禮部尚書兼東閣大學士に拝し、永明王が立って前の命をあらためて申したが、いずれも至らなかった。
- 土酋の沙定洲が乱をなし、錫衮を捕らえて会城に至らせ、偽って錫衮の疏を起草して永明王に上り、定洲は忠勇であるから黔國公に代えて雲南に鎮せしめよと言った。疏がすでに出てから草稿を錫衮に見せた。錫衮は大いに恨み、天に訴えて死を祈り、数日いてついに卒した。