明史卷二百七十九 列傳第一百六十七 樊一蘅

字は君帶、宜賔の人。萬厯四十七年の進士で、崇禎年間は榆林兵備參議・監軍副使・寧夏巡撫として陝西で流賊討伐にあたった。崇禎十六年に兵部右侍郎として川陜の軍務を総督する命を受けたが道が塞がり、福王の立った順治元年にあらためて命を申されて遵義から起ち、諸郡の旧將を糾合して四川回復戦を進め、叙州・重慶などを回復した。張獻忠が大清の兵に射殺されたのち永明王から戸・兵二部尚書・太子太傅を加えられたが、朱容藩・李乾徳ら総制の乱立と諸鎮の割拠で令は行われず、叙州一郡を保つのみとなった。楊展が乾徳に謀殺されて諸鎮が離反し、孫可望・劉文秀の軍が王祥・武大定を破って四川を席巻すると一蘅はいよいよ孤立した。すでに職を辞して山中に避けていたが、大清の兵の南征の年の九月に病を得て死に、文武の将吏はことごとく亡んだ。附伝の范文光は嘉定陥落のとき詩を賦して毒を仰いで死に、詹天顔も兵が敗れて捕らえられ死んだ。

年表(10件)
  • 萬厯四十七年1619年進士に挙げられ安義・襄陽の知縣を経て吏部郎中に累進
  • 崇禎三年1630年榆林兵備參議に遷り申在庭・馬丙貴を斬り不沾泥を平定
  • 崇禎十二年1639年右僉都御史に抜擢され寧夏を巡撫するが弾劾されて罷め帰る
  • 崇禎十六年1643年兵部右侍郎に起き川陜の軍務を総督するも道塞がり命令届かず
  • 順治元年1644年福王が南京で立ち前命を申され諸郡の旧將に檄して師を会す
  • 順治五年1648年朱容藩が楚の世子と自称し䕫州に行臺を建てて称制する
  • 六年1649年朱容藩が李占春に敗れ雲陽に走って死ぬ
  • 六年1649年孫可望が白文選を遣わし王祥を攻め殺し遵義・重慶を得る
  • 七年1650年劉文秀が武大定を破り嘉定に至り李乾徳は水に投じて死ぬ
  • 崇禎十七年1644年范文光が劉道貞らと義兵を挙げ朱平檙を蜀王に奉じ監軍となる

出自と陝西での経歴

  • 字は君帶、宜賔の人。父の垣は常徳知府。一蘅は萬厯四十七年(1619年)進士に挙げられ、安義・襄陽の知縣となり、累進して吏部郎中。暇を請うて帰郷した。
  • 崇禎三年(1630年)秋、榆林兵備參議に遷る。流賊には榆林の人が多く、また長らく飢饉で民はますます互いに引き合って盗となった。一蘅は傷ついた者を撫し、軍備を修め、申在庭・馬丙貴を討ち斬り、不沾泥を平らげた。たびたび薦められて監軍副使に遷り、さらに右參政に遷って関南を分巡した。
  • 總兵の曹文詔が敗れて死に、賊の群れが西安に迫ると、總督の洪承疇は一藍に左光先・張應昌の軍を監させ、続けて賊を破り混天星を撃ち走らせた。賊が漢中に迫り瑞王が急を告げると、一蘅は副將の羅尚文とともに救援に行き、ちょうど承疇の大軍が至って賊は走った。
  • 按察使に進み、副將の馬科・賀人龍とともに漢中でたびたび祁總管を挫き、降伏させた。
  • 崇禎十二年(1639年)右僉都御史に抜擢され、鄭崇儉に代わって寧夏を巡撫したが、弾劾されて罷め帰った。
  • 崇禎十六年(1643年)冬、薦挙により兵部右侍郎に起き、川陜の軍務を総督することになったが、道が塞がって命令が届かなかった。

川陜總督としての四川回復戦

  • 順治元年(1644年)福王が南京で立ち、あらためて前の命を申した。時に張獻忠はすでに全蜀を占め、ただ遵義だけが陥ちておらず、一蘅は王應熊とともにその地に避けていた。命を受けると諸郡の旧將に檄して師を会し大挙した。
  • ちょうど巡撫の馬乾が重慶を回復し、松潘副將の朱化龍・同知の詹天顔が賊將の王運行を撃ち斬って龍安・荗州を回復した。
  • 一蘅は旧將の甘良臣を總統とし、侯天鍚・屠龍を副とし、參將の楊展、遊擊の馬應試・余朝宗が引き連れてきた潰兵を合わせ、三万人を得た。
  • 翌年三月、叙州を攻め、應試・朝宗が先登し、展らが続いて至り、斬首数千級。偽都督の張化龍は走り、ついにその城を回復した。一蘅は江上で軍を犒った。
  • 初め重慶が回復されたのを見て、賊將の劉廷舉が走って獻忠に救いを求め、獻忠は養子の劉文秀に重慶を攻めさせ、水陸ともに進んだ。副將の曹英が參政の劉麟長とともに遵義から至り、部將の于天海・李占春・張天相らと挟み撃ちにして賊兵数万を破った。英の威名は大いに振るい、諸別將はみな兵を属して二十余万となり、一蘅の節制を奉じた。
  • 楊展が叙州を回復すると、賊將の馮雙禮が来寇したが、戦うたびに敗れた。孫可望が大軍を率いて援けに来、江を隔てて対峙すること一月、兵糧が尽き、一蘅は古藺州に退屯し、展は江津に退屯した。賊は退きながら朱化龍および僉事の蔡肱明を羊子嶺で遮った。化龍が畨の騎兵数百を率いて賊兵に突き入り、賊は驚いて潰え、死者は山谷を埋めた。化龍は軍が孤立していたので還って旧地を守った。
  • 他の将もまた摩泥・滴水で続けて賊を破った。一蘅はそこで展と應試に嘉定・卭・眉を取らせ、元總兵官の賈連登とその中軍の楊維棟に資・簡を取らせ、天錫と高明佐に瀘州を取らせ、占春と大海に忠・涪を守らせた。そのほか城邑に拠って徴調に応じた者は、洪雅では曹勛および將軍副使の范文光、松荗では監軍僉事の詹天顔、䕫・萬では譚𢎞・譚詣であった。
  • 一蘅は納溪に移駐して中央にあって調度し、督師の應熊と瀘州で会し、諸路に檄して期日を刻んでともに進ませた。獻忠はかなり懼れ、境内の民をことごとく屠り、金銀を江中に沈め、宮室を大いに焼いた。火は月を連ねて消えず、成都を棄てて川北に走ろうとした。
  • 翌年春、展は上川南の地をすべて取り、嘉定に屯して勛らと声援し合った。應熊および王祥は遵義に、乾と英は重慶におり、いずれも重兵を宿していたので、賊の勢いが日に盛んでも、ただ保寧・順慶だけは賊將の劉進忠が守っていた。進忠がまたたびたび敗れたので獻忠は怒り、孫可望・劉文秀・王尚禮・狄三品・王復臣らを遣わして川南の郡縣を攻めさせた。應熊と一衡は急ぎ展・天錫・龍・應試および顧存志・莫宗文・張登貴に命じて犍為・叙州に営を連ねて防がせ、賊は続けて戦って利あらず。英と祥が隙に乗じて成都に趨ると、獻忠はただちに可望らを召し還した。

張獻忠の死と諸鎮の割拠

  • 獻忠はまた大清の兵が蜀の境に入り劉進忠が降ったと聞いて大いに懼れ、七月に成都を棄てて順慶に走り、まもなく西充の鳳凰山に入った。十二月に至り、大清の兵が突然至って獻忠を射殺し、賊で降った者と敗死した者は二三十万にのぼった。
  • 可望らは残兵を率いて南に奔り、にわかに重慶に至った。英は不意を突かれて戦い敗れ江で死に、賊はそのまま綦江を陥れた。應熊は畢節衛に避けた。月を越えて賊は遵義を陥れ貴州に入った。大清の兵が追って重慶に至り、巡撫の乾は敗れて死に、そのまま遵義に入ったが、兵糧が乏しいので軍を還した。王祥らが保寧の二郡を取り戻した。
  • 一蘅は舟を江上に駐めて全蜀回復の計を立て、そこで回復のための事宜と諸將の功状を列挙して永明王に上った。一蘅は戸・兵二部尚書に拝せられ太子太傅を加えられ、祥・展・天錫らも爵を進めることに差があった。
  • 時に應熊はすでに卒し、宗室の朱容藩と元偏沅巡撫の李乾徳がともに總制として至り、楊喬然・江爾文が巡撫として至り、それぞれ勝手に官を置き、民より官の方が多かった。
  • 諸將は、袁韜が重慶に、于大海が雲陽に、李占春が涪州に、譚詣が巫山に、譚文が萬縣に、譚𢎞が天字城に、侯天錫が永寧に、馬應試が蘆衛に、王祥が遵義に、楊展が嘉定に拠り、朱化龍・曹勛はなお旧地に拠った。揺黄の諸家は䕫州の夾江両岸に拠り、李自成の残党の李赤心ら十三家もまた建始縣にいた。一蘅の令は行われず、叙州一郡を保つだけであった。

孫可望軍の進出と死

  • 順治五年(1648年)、容藩が楚の世子と自称し、䕫州に行臺を建てて称制し封拝を行った。時に喬然はすでに總督に進み、范文光・詹天顔が川南・川北を巡撫し、吕大器が大學士として督師に来ていたが、みな容藩を憎んで誅殺を謀った。六年(1649年)春、容藩はついに占春に敗れ、雲陽に走って死んだ。
  • 初め展は祥と隙があり、子の璟新を遣わして攻めさせた。璟新はまず應試を襲って殺し、祥と戦って敗れて帰った。乾徳は展の富を利として韜・大定を説いて展を殺させ、その資財を分けた。一蘅が乾徳を責め、諸鎮もみな憤って離反の心を抱いた。
  • 秋九月、孫可望が白文選を遣わして祥を攻め殺し、その衆二十余万を降し、遵義・重慶をすべて得た。一蘅はますます孤立した。
  • 七年(1650年)秋、可望はまた劉文秀に武大定の兵を大敗させ、長駆して嘉定に至った。大定と韜はみな降り、乾徳は水に投じて死んだ。文秀の兵はさらに東へ向かい、譚𢎞・譚詣・譚文はことごとく降り、占春と大海は大清に降った。
  • 翌年正月、文秀は雲南に還り、文選を残して嘉定を守らせ、劉鎮國に雅州を守らせた。三月、大清の兵が南征し、文選・鎮國は曹勛を挟んで走り、文光・天顔・化龍が相次いで死んだ。一蘅は時にすでに職を辞して山中に避けていたが、九月に至って病を得て死に、文武の将吏はことごとく亡んだ。

范文光(附伝)

  • 内江の人。天啟の初めに郷試に挙げられ、崇禎中に工部主事・南京戸部員外郎を歴任し、告げて帰った。
  • 崇禎十七年(1644年)張獻忠が蜀を乱すと、文光は卭州の挙人の劉道貞、蘆山の挙人の程翔鳳、雅州の諸生の傅元修・洪其仁らとともに義兵を挙げ、鎮國將軍の朱平檙を蜀王に奉じ、黎州參將の曹勛を副總兵に推して諸將を統べさせ、文光は副使として監軍となり、道貞らも差をつけて官を授けられた。
  • 勛は雅州の龍鸛山で賊を破り、城下まで追ったが、逆に敗れて小関山に退いて守った。十一月、文光は參將の黎神武を督して雅州を攻めたが克てず。翌年九月、神武が雅州の土兵・漢兵を合わせて再び賊將の艾能竒を雅州で撃ったが敗績した。
  • 偽監司の郝孟旋が綿州を守っていたが、文光と翔鳳が間者を遣わして招くと、孟旋は雅州を守る賊を襲って殺し、城を挙げて帰順し、文光らが入って居た。
  • 獻忠が死んでからも文光はもとどおり境を保った。永明王が右僉都御史・川南巡撫に命じ、安綿道の詹天顔を川北巡撫とした。總督の李乾徳が楊展を殺すと、文光はこれを憎んで山に入り職務を執らなくなった。
  • 大清の兵が嘉定を克つと、文光は詩一章を賦して毒を仰いで死んだ。

詹天顔(附伝)

  • 龍巖の人。選貢生から身を起こした。兵が敗れて捕らえられ、これもまた死んだ。