明史卷二百七十九 列傳第一百六十七 文安之

出自と歴仕

  • 夷陵の人。天啟二年(1622年)進士、庶吉士に改まり、檢討に授けられ、南京師業に除せられた。崇禎中に祭酒に遷ったが、薛國觀に陥れられて籍を削られ帰郷した。
  • 久しくして言官が交々薦めたが、召されぬうちに京師が陥ちた。福王の時に詹事に起こされ、唐王もまた召して禮部尚書に拝したが、安之はちょうど兵戈の間を転々としており、いずれも赴かなかった。永明王が瞿式耜の薦めによって王錫衮とともに東閣大學士に拝したが、これもまた赴かなかった。
  • 順治七年(1650年)六月、安之は梧州で王に謁した。安之は敦厚高雅で□素、宦官の情が淡く、国変に遭ってからは世に用いられる意を絶っていたが、ここに至って国勢がいよいよ危ういのを見て、慨然として起って支えようと思い、そこで職に就いた。
  • 時に嚴起恒が首輔で、王化澄・朱天麟がこれに次いだ。起恒は安之に譲って自らはその下に位置した。孫可望がふたたび使者を遣わして秦王への封を乞うたが、安之は与えるべきでないと持した。

川湖總督としての督師

  • その後、桂林が破れ、王は南寧に奔った。大兵が日々迫り、雲南はまた可望に拠られていて行けなかった。安之は川中の諸鎮の兵がなお強いことを念い、これと結んでともに王室を助けようと考え、自ら督師を請い、諸鎮に封爵を加えることを求めた。王はこれに従い、安之に太子太保兼吏・兵二部尚書を加え、川・湖諸処の軍務を総督させ、剣を賜って便宜行事を許した。
  • 諸將の王光興・郝永忠・劉體仁・袁宗第・李來亨・王友進・塔天寳・馬雲翔・郝珍・李復榮・譚𢎞・譚詣・譚文・党守素らを公侯の爵に進め、安之に敕と印を持たせて行かせた。
  • 可望はこれを聞いて憎み、また平素から先の封爵阻止の議を恨んでいたので、兵を遣わして都匀で待ち伏せ、安之を遮り止め、光興らの敕と印を追奪し、数月留めたうえで湖廣に入らせた。安之は遠く他郷に客となって帰る所が無く、ふたたび貴州に赴き安龍で王に謁しようとしたが、可望は罪に問うて畢節衛に流した。

孫可望の僭越と最期

  • 先に可望は六部・翰林などの官を設けようとしたが、人が僭越と議するのを慮り、范爌・馬兆議・任僎・萬年䇿を吏・戸・禮・兵の尚書とし、あわせて行営の号を加えた。のちにまた程源を年策に代えた。僎が最も寵を得、方于宣とともにしばしば即位を勧めた。可望は王が黔に入ってから議せよと言った。
  • 王が久しく安龍に駐まったので、可望はついに自ら内閣・六部などの官を設け、安之を東閣大學士としたが、安之は用いられなかった。久しくして川東に走り、劉體仁に依って居た。
  • 李赤心・高必正らは長く廣西の賔州・横州・南寧の間に流れ、赤心が死ぬと養子の來亨が代わってその衆を領し、必正を主に推した。必正もまた死に、その衆は食が尽き、かつ大兵の逼るのを畏れて、衆を率いて川東に走り、川と湖の間を分け拠って田を耕して自給した。川中の旧將の王光興・譚𢎞らがこれに附き、衆はなお数十万であった。
  • 順治十六年(1659年)正月、王が永昌に奔ると、安之は體仁・宗第・來亨ら十六営を率いて水路から重慶を襲った。ちょうど譚𢎞・譚詣が譚文を殺し、諸將が服さなかった。安之が𢎞・詣を討とうとしたので、𢎞・詣は懼れて所部を率いて大兵に降り、諸鎮はついに散った。時に王はすでに緬甸に入り、地はことごとく失われていた。安之はほどなく鬱々として卒した。