篇首の立伝者一覧
- 吕大器
- 文安之
- 樊一蘅(范文光・詹天顔)
- 吴炳(侯偉時)
- 王錫衮
- 堵允鍚
- 嚴起恒
- 朱天麟(張孝起)
- 楊畏知
- 吴貞毓(高勣ら)
出自と地方官時代
- 字は儼若、遂寧の人。崇禎元年(1628年)進士、行人に授けられ、吏部稽勲主事に抜擢され、四司を歴任した。
- 暇を乞うて帰郷し、邑の城壁が低く粗末なのを見て修築を倡議した。工事が終わってすぐ賊が至り、有司を助けて拒み守り、城は無事だった。詔して秩を一等増した。
- 関南道參議として出、固原副使に遷る。巡撫の丁啟睿が大器に檄して長武の賊を討たせ、地に穴を穿って火を用いる工法でこれを滅ぼした。
甘肅巡撫
- 崇禎十四年(1641年)右僉都御史に抜擢され甘肅を巡撫した。總兵官の柴時華の不法を弾劾してその職を解き、ただちに副將の王世寵を遣わして代えた。時華が西部および土魯畨に兵を乞うて変を起こしたので、大器は世寵に命じて討たせ、時華および西部を破った。時華は塞外で自ら焼け死んだ。
- 額爾徳尼・黄台吉らが衆を擁して賞を乞い、肅州を犯そうと謀ったが、守臣が拒んで走らせた。大器は賞と犒いの名を借りて飲馬泉に毒を入れ、その衆を数知れず殺した。
- また總兵官の馬爌を遣わして副將の世寵らを督させ、乱をなした諸畨を討たせ、斬首七百余級、三十八族を招撫して還った。またその残党を撃ち破り、西の辺境はおおむね平定した。
兵部侍郎への渋りと畿輔の防戦
- 崇禎十五年(1642年)六月、兵部添駐右侍郎に抜擢された。大器は才を恃み、性は剛□(底本欠字)で事を避けるのが巧みであった。天下に多事なのを見て軍旅の任に当たることを懼れ、力めて辞し、かつ吏科に掲を投じて、自分は酒色財を好むので必ず用いるべきでないと言った。帝が急いで入京させようとしたが、詐って病と称して至らず、厳しい旨で切責されてもなお至らず、所司に調べて奏させた。翌年三月にようやく至った。
- 本官のまま右僉都御史を兼ねさせ、保定・山東・河北の軍務を総督させた。時に畿輔はまだ戒厳が解けておらず、大器と諸將の和應薦・張汝行が馳せて順義の牛欄山を扼した。總督の趙光抃が諸鎮の軍を集めて螺山で大戦し、應薦は陣没し他の将も多く敗れたが、大器の所部には失態が無く、俸を一等増された。
- 五月、保定の警報がやんだので總督の官を罷め、特に江西・湖廣・應天・安應の總督を設けて九江に駐まらせ、大器がこれに任じた。
- 湖北の地はすでに失われ武昌も陥ちていた。左良玉は九江に駐まり、病と称して進まず、侯恂との因縁から大器が自分を図っていると疑った。その事情は良玉の伝に記す。大器が寝台の前まで行って慰労すると、疑いはやや解けた。
- ところが張獻忠が湖南を大いに踏みにじり、兵を分けて袁州・吉安を陥れた。大器は急ぎ部將および良玉の軍を遣わして樟樹鎮・峽江で続けて破り、二郡ともに回復した。まもなく建昌・撫州が陥ち、良玉と大器は不和で、兵が私闘して南昌の関廂を焼いた。廷議はそのため大器を南京兵部右侍郎に改め、袁繼咸を代わりとした。
福王擁立への反対と失脚
- 崇禎十七年(1644年)四月、京師陥落の報が届き、南京の大臣が君を立てることを議した。大器は雷演祚の議を主として潞王を立てよと言った。議が定まらぬうちに馬士英および劉澤清ら諸將が福王を擁して至り、福王が立った。
- 大器を吏部左侍郎に遷したが、大器は異論を唱えたため退けられ、身が危ういと感じ、上疏して士英を弾劾した。「士英は兵を擁して入朝し、恥ずかしげもなく政の地位に留まり、先皇が手ずから定めた逆案を翻して阮大鋮を中枢に上らせようとしている。その子は銭の力で都督となり、妹の夫は戦陣を履んだこともないのに總戎を授けられた。姻戚の越其杰・田仰・楊文驄は先朝の罪人でありながらことごとく高官に登り、名器を乱している。そもそも吴甡・鄭三俊にも一事の失も無いとは臣は言わぬが、端正で信実正直であることは結局のところ海内の正しき人々の帰するところである。士英・大鋮に一技の長も無いとは臣は言わぬが、奸邪よこしまであることは結局のところ宗社の窮まりなき禍である」。疏が入ったが、和衷して国に尽くせと答えるにとどまった。
- まもなく澤清が入朝して、大器と縯祚は異図を懐いていると弾劾し、大器はついに辞職を乞うて去った。監國告廟の文を自筆で内閣に送り、他意の無いことを明らかにした。士英の恨みはやまず、太常少卿の李沾に弾劾させ、ついに大器の籍を削り、さらに法司に逮捕して処罰せよと命じたが、蜀の地がことごとく失われて足跡を追えないので取りやめになった。
- 大器が去ったあと、李沾は左都御史に超擢され、大鋮は禮部尚書となり、ひとり演祚だけが死罪と論じられた。
永明王の下での督師と死
- 翌年、唐王が召して兵部尚書兼東閣大學士としたが、道が塞がって久しく、汀州に至ったときには王はすでに失われていた。
- 廣東に奔り、丁魁楚らとともに永明王を擁して監國させ、原官のまま兵部の事を掌らせた。久しくして少傅に進み、西南の諸軍をすべて督し、王應熊に代わり、剣を賜って便宜行事を許された。
- 涪州に至って將軍の李占春と深く結び、他の将の楊展・于大海・胡雲鳯・袁韜・武大定・譚𢎞・譚詣・譚文以下がみな大器の約束を受けた。
- 宗室の朱容藩が天下兵馬副元帥と自称して䕫州に拠ると、大器は檄して楊展・大海・雲鳳に容藩を討ち殺させた。
- 大器は思南に至って病を得、都匀に宿って卒した。王は諡して文肅とした。