明史卷二百七十八 列傳第一百六十六 蘇觀生

蘇觀生は字を宇霖といい、東莞の人。三十歳ではじめて諸生となり、保挙で無極知縣となって永平同知・戸部員外郎を歴任した。京師陥落後は南京から杭州に逃れ、そこで唐王聿鍵に会って鄭芝龍らとともに擁立し、旧知の恩顧により東閣大學士として機務に参与した。贛州に赴いたが兵糧が続かず出師できず、萬元吉の求めにも十分に応じられぬまま廣州に退いた。永明王擁立の議から排されると唐王の弟聿□(底本欠字)を立て、永明王方と兵を交えて林佳鼎を斬ったが、粉飾の政治に努めて關捷先・梁朝鍾・楊明競・梁鍙らに任せ、方略に乏しいまま昏迷した。大兵の廣州侵入を報せる者を三度まで斬り、事態を悟ったときには手遅れで、梁鍙の偽りの死に欺かれて自ら縊れた。

年表(16件)

出自と唐王の擁立

  • 蘇觀生は字を宇霖といい、東莞の人。三十歳ではじめて諸生となった。崇禎年間に保挙によって無極知縣に任じられた。總督の范志完がその才を推薦し、永平同知に進んで軍事を監紀した。ほどなく戸部員外郎に移った。
  • 崇禎十七年(1644年)、京師が陥落すると脱して南京に還り、郎中に進んで蘇州で餉を催促した。翌年五月、南京が破れて杭州に走った。
  • おりしも唐王聿鍵が至り、觀生が謁すると、王は語り合って大いに悦び、舟を連ねて福建に入った。鄭芝龍・鴻逵兄弟とともに王を擁立し、翰林學士に抜擢され、ほどなく禮部右侍郎兼學士に進んだ。儲賢館を設けて十二科に分け四方の士を招くこととなり、觀生にこれを領させた。
  • 觀生は清廉を旨とし、いくらかの文学の素養もあったが、時の名望は集まらなかった。王は旧知の恩顧により朝臣の上に置き、東閣大學士に拝して機務に参与させた。

贛州の援けと廣州への退却

  • 觀生はしばしば王に出師を勧めたが、鄭氏がなすに足らず、事の権をすべて握っているのを見て、王に贛州へ赴き江西・湖廣を経略するよう請うた。王はそこで觀生に先に行かせることを議した。
  • 翌年、觀生は贛州に赴き、大いに甲兵を徴発したが、兵糧が続かず、ついに出師できなかった。
  • 順治三年(1646年)三月、大兵が吉安を破り、總督の萬元吉が援けを乞うたので、觀生は二百人を遣わした。元吉が綿津灘を協同して守らせたが、大兵に遭って潰走したので、元吉は退いて贛州に還った。大兵はそのまま城を囲んだ。
  • 觀生は南康に走り、贛州の人がしばしば急を告げてもあえて援けなかった。六月、大兵が退いて水西に屯すると、觀生は三千人を発して贛州の守りを助けた。久しくして他の将が戦って敗れ、九月に大兵がふたたび贛州を攻めると、三千人はみな引き上げた。
  • このとき觀生は南安に移駐していた。閩中が急となったが救えず、聿鍵は汀州で死に、贛州もまた破れたので、觀生は退いて廣州に入った。
  • 監紀主事の陳邦彦は觀生に、急ぎ惠州・潮州に赴いて漳州・泉州を扼せば両粤は自ら保てる、と勧めたが、觀生は従わなかった。

聿□(底本欠字)の擁立

  • おりしも丁魁楚らが永明王を立てることを議した。觀生は共に事を行おうとしたが、魁楚はもとより觀生を軽んじて拒み、議に加えなかった。吕大器もまた叱って辱めた。
  • ちょうど唐王の弟の聿□(底本欠字)が大學士の何吾騶とともに閩から至り、南海の關捷先と番禺の梁朝鍾がまず「兄が終われば弟が継ぐ」の議を唱えた。觀生はそこで吾騶および布政使の顧元鏡、侍郎の王應華・曽道唯らとともに、十一月二日に王を擁立し、都司の役所を行宮とした。
  • その日のうちに觀生を建明伯に封じて兵部の事を掌らせ、吾騶らの位階を進め、捷先を吏部尚書に抜擢し、ほどなく元鏡・應華・道唯とともに東閣大學士に拝して諸部を分掌させた。
  • このとき慌ただしく事を挙げたので、宮室・服御・鹵簿を整えるのに国中が奔走し、夜中も昼のようであった。十日たたぬうちに数千の官を任じ、冠服はみな役者から借りたという。

永明王方との抗争

  • 永明王が肇慶で監国したとき、給事中の彭燿と主事の陳嘉謨を遣わし、勅を持たせて諭させた。燿は順德の人で、家を通るとき先祖の廟に拝し、子を友人に託した。廣州に至って諸王の礼で会い、皇統の順序および監国の先後を詳しく陳べ、言葉ははなはだ切実で、あわせて觀生ら諸人を歴挙して非難した。觀生は怒って捕らえて殺した。嘉謨もまた屈せずに死んだ。
  • そこで兵を整えて日々攻め合った。番禺の人である陳際泰を督師とし、永明王の總督である林佳鼎と三水で戦って敗れた。さらに海賊数万人を招き、大将の林察に率いさせ、十二月二日に海口で戦い、佳鼎を斬った。

粉飾の政治と側近

  • 觀生は得意になり、粉飾して太平の事をなすことに努め、捷先および朝鍾に任せた。捷先は進士から監司を歴任し、いささかの才があり文書に長けていた。朝鍾は郷試に合格し議論が巧みで、十日のうちに三度昇進して祭酒に至った。
  • 楊明競という者は潮州の人で、大言を吐くのを好み、惠州・潮州の間には精兵が満ちており十万にもなると偽って称した。そこで惠潮巡撫に特別に任じられた。朝鍾は人に「内には捷先があり、外には明競がある。強敵も平らげるに足りない」と語った。觀生もまたこの三人を重んじ、事は必ず彼らに諮った。
  • また梁鍙という者は妄人であったが、觀生はこれを才ありとして吏科都給事中に用いた。明競とともに大いに賄賂を受け、日ごとに数十人を推薦して用いた。
  • 觀生はもともと方略に乏しく、内外を兼ね総べてますます昏迷した。海賊を招いて防禦の資としたが、その衆は白昼に人を殺し、肺腸を貴官の門に懸けて威を示したので、城の内外は大いに騒いだ。

廣州陥落と自尽

  • このとき大兵はすでに惠州・潮州を下しており、長吏はみな降って付いていた。そのままその印を用いて牒を廣州に送り、警報なしと報じたので、觀生はこれを信じた。
  • その月の十五日、聿□(底本欠字)が視学し、百官がみな集まった。ある者が大兵がすでに迫っていると報じたが、觀生は叱って「潮州から昨日も報告があったばかりだ。どうして急にここまで来られよう。妄言して衆を惑わすものだ」と言って斬った。このようなことが三度あった。
  • 大兵はすでに東門から入っていた。觀生はようやく兵を召して戦わせようとしたが、精兵はみな西に出ており、急のことで集められなかった。
  • 觀生は鍙のところへ走って計を問うた。鍙は「死ぬだけです。何を言うことがありましょう」と言った。觀生は東の部屋に入り、鍙は西の部屋に入り、それぞれ戸を閉ざして自ら縊れた。觀生は鍙が偽るのではないかと慮り、しばらく留まって聞いていた。鍙はわざと自分の喉を締めて息を湧かせて音を立て、さらに机を押して地に倒れさせ、久しくして静まり返った。觀生は死んだものと信じ、そのまま自ら縊れた。翌日、鍙はその屍を献じて出て降った。
  • 朝鍾は変を聞いて池に赴いたが隣人に救い出され、自ら縊れて死んだ。
  • 聿□(底本欠字)はちょうど射を閲していたが、急ぎ服を着替えて垣を越え、王應華の家に隠れた。ほどなく城壁から吊り降りて逃げたが、追撃の騎兵に捕らえられた。食を与えられたが受けず、「私がもしそなたたちの一勺の水でも飲んだら、何の顔があって先人に地下で会えようか」と言い、輪に身を投げて息絶えた。吾騶・應華らはことごとく降った。

史論

  • 贊に曰く。南都が守れなくなってからは、諸郡は風になびくように降ったのに、贛州だけは弾丸ほどの小地でありながら孤城に拠り、死を誓って命に従うことを拒んだ。その兵力が本当に頼むに足りたわけではない。義に激されて衆の心が固まっていたからである。汀州・贛州が相次いで失われ、危機が目睫に迫っているというのに、肇慶と廣州は日々兵を整えて互いに攻め合い、自ら両者ともに敗れる道を取った。思うに天がその禍を早めたのであって、覆いを取り枯れ枝を振るうように、追い払う手間さえ要らなかったのである。