出自と永明王への献策
- 陳邦彦は字を令斌といい、順德の人。諸生であったが意気は豪邁であった。福王のとき闕に詣でて政務の要点三十二事を上ったが、押しとどめられて用いられなかった。唐王聿鍵はこれを読んで偉としていた。自立するに及んで、その家に監紀推官を授けたが、着任せぬうちに郷試に合格した。蘇觀生の推薦により職方主事に改められ、廣西の狼兵を監して贛州を援けることとなった。
- 嶺に至って汀州の変を聞き、觀生に東に向かって潮州・惠州を保つよう勧めたが聴かれなかった。おりしも丁魁楚らがすでに永明王を肇慶で監国に立てていたので、觀生は邦彦を遣わして賀を述べさせた。
- 王は贛州が破れたので自分に迫ってくることを懼れ、西の梧州に走った。邦彦がちょうど参内したところで、觀生は別に唐王聿□(底本欠字)を廣州で立てた。邦彦はこれを知らなかった。
- 夜の二鼓、王は中使十余人を遣わして舟中に召し入れた。王太后は簾を垂れて坐し、王は西に向いて坐し、魁楚が侍していた。廣州の事を語られると、邦彦は急ぎ肇慶に還って大位を正して人心をつなぎとめるよう請い、南雄の精兵に韶州を取らせ、粤東十郡のうち七を制して三を唐王に委ね、代わりに敵を受けさせてその疲弊に乗ずるよう説いた。王は大いに悦び、ただちに兵科給事中に抜擢し、勅を持たせて還って觀生を諭させた。
- 廣州に至って、使臣の彭燿が殺されたと聞き、そこで従者を遣わして觀生に勅を授け、自分は書をもって利害を説いた。觀生は数日ためらい和議しようとしたが、おりしも永明王の兵が大敗したと聞いて実現しなかった。邦彦はそのまま姓名を変えて髙明の山中に入った。
余龍と結んだ挙兵
- 順治三年(1646年)冬十二月、大兵が廣州を破り、觀生は死に、諸城はことごとく下った。邦彦はそこで挙兵を謀った。
- はじめ贛州の萬元吉が族人の萬年を遣わして廣東で兵を募らせ、余龍ら千余人を得たが、まだ出発せぬうちに贛州が失われた。龍らは帰るところがなく、甘竹灘に集まって盗となり、他の潰れた兵卒も多く加わって二万余人になった。總督の朱治□(底本欠字)がこれを招き降したが、ほどなく騒いで帰った。
- 順治四年(1647年)春、大兵が廣州を定め、肇慶を陥れた。梧州は敗走し、治□(底本欠字)は魁楚を殺した。先鋒が平樂に至り、永明王はちょうど梧州から平樂を通って梧林に走ろうとしており、情勢ははなはだ危うかった。
- そこで邦彦は龍に、隙に乗じて廣州を図るよう説き、自らは髙明の兵を発して海路から珠江に入り龍と会そうとした。あわせて張家玉に書を送り、「桂林は累卵の危うきにある。ただ牽制さえできれば、西の潯州・平樂の間は整えられる。これは我らがここに力を尽くして、あちらで功を収めるということだ」と言った。家玉ももっともだと思った。
- しかし龍の兵卒はもとより規律がなかった。大兵が桂林から還って救援に向かい、甘竹灘を取ると言いふらすと、龍らは自分の家を気にしてすぐ退いた。邦彦もまた退いて帰った。
- のちに門人の馬應芳を遣わして龍の軍と会し順德を取らせたが、ほどなく大兵が至り、龍は戦って敗れ、應芳は捕らえられて水に赴いて死んだ。
- 四月、龍はふたたび黄連江で戦い、また敗れて没した。
妻子への招降と清遠での殉節
- 大兵が新安で家玉を攻めたので、邦彦は髙明を棄て、残った衆を集めて江門に下り、これに拠った。
- はじめ廣州の囲みのとき、大兵は謀が邦彦から出ていることを知り、その家を捜して妾の何氏と二子を捕らえたが、厚く待遇し、書を作って邦彦を招いた。邦彦は書の末尾に「妾は辱めるがよい、子は殺すがよい。身は忠臣である。義として妻子を顧みない」と判じた。
- 七月、陳子壯と密かに約してふたたび廣州を攻めた。子壯が先に至ったが、謀が漏れて退こうとしていたところに邦彦の軍も至った。邦彦は禺珠洲の側に伏兵を置いて、大兵が省城の救援に還るのを伺い、火を放って舟を焼こうと謀った。子壯はその計のとおりにして、果たして舟数十を焼いた。
- 大兵が西に引き上げると、邦彦はその後を追った。おりしも日が暮れ、子壯は旗印を見分けられず、みな大兵だと疑って陣が動揺した。大兵は風に順って追撃し、ついに大潰した。子壯は髙明に奔り、邦彦は三水に奔った。
- 八月、清遠の指揮である白常燦が城を挙げて邦彦を迎えたので、邦彦は清遠に入り、諸生の朱學熙とともに城に拠って固く守った。
- 邦彦は兵を起こした日から一日一食、夜は坐ったままうたた寝し、部下と労苦を共にしたので、その軍は最も強く、しばしば兵を分けて敗れた諸営を救ってきた。しかしこのときには精鋭をことごとく失い、外に援軍もなかった。
- 数日を経て城が破れ、常燦は死んだ。邦彦は数十人を率いて市街戦を行い、肩に三太刀を受けたが死なず、朱氏の園に走った。學熙が縊れているのを見て拝して哭し、まもなく捕らえられた。食を与えられたが食べず、獄につながれて五日で殺された。
- 邦彦が死んで一か月あまりで子壯が捕らえられ、家玉もまた身を沈めた。永明王は邦彦に兵部尚書を贈り、忠愍と諡し、子に錦衣指揮の蔭を与えた。