明史卷二百七十八 列傳第一百六十六 陳子壯

出自と魏忠賢による除籍

  • 陳子壯は字を集生といい、南海の人。萬厯四十七年(1619年)に進士第三人(探花)となり、翰林編修に任じられた。
  • 天啟四年(1624年)、浙江の郷試を主宰し、策問を出して宦官を刺した。魏忠賢は怒り、他の事に託けて子壯およびその父の給事中陳熙昌の籍を削った。

崇禎朝での献言と宗室任用への反対

  • 崇禎初年、子壯はもとの官で起用され、たびたび移って禮部右侍郎となった。
  • 流賊が皇陵を犯したとき、帝は素服して朝臣を召対した。子壯は、今日の急務は人心を収めることにある、罪己の詔を下して忠義を奮い起こすべきだ、と述べた。帝はこれを容れた。そこで諸臣と会議し、租税の免除、獄の整理、過ちを許し罪を宥めることなど十二事を列挙して上申した。
  • 帝は天下に事が多いので広く賢才を集めようと考え、詔を下して祖訓に依り、郡王の子孫で文武の任に堪える者は考査を経て官を授けられることとした。子壯は民の患いになると慮り、ただちに五つの不可を陳べた。ちょうど唐王が上疏し、前代の故事を歴挙して子壯を非難したので、子壯は除名されて獄に下され、贖罪の徒刑に坐して帰った。
  • 久しくして朝臣が相次いで推薦し、もとの官で起用されて詹事府を協理することになったが、着任せぬうちに京師が陥落した。福王が即位すると禮部尚書に起用され、蕪湖まで至ったところで南京もまた守れなくなり、そのまま帰った。唐王が福建で即位して宰相に召したが、子壯は以前の宗室の件で遺恨があったので辞して行かなかった。

九江村の挙兵と殉節

  • 順治三年(1646年)、汀州で変事が起こり、丁魁楚らが桂王の子である永明王由榔を肇慶で擁立した。蘇觀生はまた唐王の弟である聿□(底本欠字)を立てることを議した。子壯は阻もうとしたが果たせず、退いて邑の九江村に居した。永明王は子壯に東閣大學士兼兵部尚書を授け、廣東・福建・江西・湖廣の軍務を督させた。おりしも大兵が廣州に入り、聿□(底本欠字)は捕らえられて死んだので、子壯は行くのをやめた。
  • 翌年春、張家玉・陳邦彦および新會の王興、潮陽の賴其肖が前後して兵を起こした。子壯もまた八月に九江村で兵を起こした。兵の多くは蜑戸や番鬼でよく戦った。そこで陳邦彦と約して共に廣州を攻めることとし、もとの指揮使楊可觀らと結んで内応させようとしたが、事が漏れて可觀らは死んだ。
  • 子壯は五羊驛に駐屯したが、大兵に撃ち破られて九江村に走り還り、長子の上庸は陣没した。
  • おりしも、もとの御史麥而炫が髙明を破って子壯を迎え、もとの主事朱實蓮に県事を摂させた。實蓮は子壯と同じ邑の者である。
  • 九月、大兵が髙明を陥れ、實蓮は戦死し、子壯と而炫はともに捕らえられて廣州に送られ、降らずに殺された。子壯の母は自ら縊れた。永明王は子壯に番禺侯を贈り、文忠と諡し、子の上圗に錦衣衛指揮使の蔭を与えた。
  • 而炫は字を章闇といい、髙明の人。進士から上海・安肅の知縣を歴任し、唐王のとき御史に抜擢された。實蓮は字を子潔といい、舉人から刑部主事を歴任した。

霍子衡(陳子壯の附伝)

  • はじめ聿□(底本欠字)が廣州で自立したとき、南海の霍子衡を召して太僕卿とした。子衡は字を覺商といい、萬厯年間の郷試に合格し、袁州知府を歴任した。太僕に任じたとき、廣州が守れなくなった。
  • 子衡は妾の莫氏および三子の應蘭・應荃・應芷を召して「礼に、難に臨んで苟くも免れるなかれ、とある。そなたたちはこれを知っているか」と言った。三子はみな「ただ大人の命に従います」と答えた。
  • 子衡は筆を執って「忠孝節烈之家」の六字を大書して中堂に懸け、朝服に着替えて北に向かって拝し、さらに緋の袍に着替えて家廟に謁し、先に井に赴いて死んだ。妾がこれに従い、應蘭が妻の梁氏および娘一人とともに続き、應荃・應芷がその妻の徐氏・區氏とともにまた続いた。ただ三人の孫だけが生き残った。小婢が一人これを見てまた井に身を投げて死んだ。