出自と江西での転戦
- 揭重熙は字を祝萬といい、臨川の人。崇禎十年(1637年)に五経で進士に登り、福寧知州に任じられた。福王のとき吏部考功主事に抜擢されたが、父の喪により帰った。
- 撫州が破れると、同郷の曽亨應と前後して兵を挙げた。唐王はもとの官のまま建昌の兵と連絡をとらせたが、戦って敗れ弾劾された。大學士曽櫻の推薦により、考功員外郎兼兵科給事中として、大學士の傅冠に従って湖東の兵事を扱った。瀘溪が急を告げたとき冠は救えなかったので、重熙は弾劾して冠の任を解かせ、兵事はすべて重熙に委ねられた。
- 江西巡撫の劉廣允が戦って敗れ捕らえられると、ふたたび櫻の推薦により右僉都御史に抜擢されて廣允に代わり、撫州を攻めたが克てずに退いた。ほどなく汀州が失われたと聞き、兵を解いて山に入った。
- 永明王は重熙を兵部尚書兼右副都御史に拝し、江西の兵を総督させた。一万余人を召し募って邵武に迫ったが、敗れて還った。
金聲桓の乱と殉節
- 金聲桓は左良玉の将であったが、すでに大清に降っていた。ふたたび隙に乗じて乱を起こし南昌を占拠した。大兵が攻め討って聲桓は死に、諸軍はことごとく散じたが、ただ張自盛だけが数万の衆を率いて閩に走った。
- 重熙はその軍に入り、廣信の曹大鎬と約して並び進もうとした。自盛が邵武を掠めたが戦って敗れ捕らえられた。重熙は走って百丈磜の大鎬を頼ったが、ちょうど大鎬は軍を鉛山に還しており、空の陣営があるだけだった。衆はその営に入って炊いで食べた。
- 大兵はこれを偵知して衆を率いて至り、射て重熙の項に中て、捕らえて建寧に至り獄に下した。重熙は日々高皇帝を呼び、死を祈ったが得られず、冬十一月に至り、首を昂げて刃を受け、顔色を変えなかった。
傅鼎銓(掲重熙の附伝)
- 傅鼎銓は字を維新といい、重熙と同郷。崇禎十三年(1640年)の進士で、翰林檢討に任じられた。李自成が京師を陥れると、鼎銓は出て賊に謁した。賊が敗れて南に帰った。
- 唐王のとき曽櫻が鼎銓を推薦し、知府の銜を与えて贛州の軍に赴かせ自ら功を立てさせるよう命じられ、ほどなくもとの官に復した。
- 贛州が破れると山中に退き隠れた。ほどなく金聲桓が叛いたと聞き、鼎銓は兵を挙げて呼応した。永明王は兵部右侍郎兼翰林院侍讀學士とした。聲桓が滅ぶと、鼎銓は自盛・大鎬の軍を往来した。
- 順治八年(1651年)、廣信の張村に至って守将に捕らえられ、南昌の獄につながれた。降伏を諭されたが従わず、書を作って重熙を招くよう命じられたがこれにも従わず、八月一日、落ち着いて刑に就いた。
- 鼎銓は流賊に降ってから郷里の人に嘲られ、かつて死に場所を求めたいと願っていた。ここに至って死を得たので、郷里の人はいっそう鼎銓を賢しとした。
- 重熙・大鎬が相次いで敗れ、都昌の督師である余應桂もまたこの年に亡くなり、江右の兵はついに尽きた。