出自と張懋爵との争い
- 曽亨應は字を子嘉といい、臨川の人。父の曽棟は廣東布政使である。亨應は崇禎七年(1634年)の進士となり、吏部文選主事を歴任した。
- 崇禎十五年(1642年)秋、罷免された者を起用せよとの詔があった。亨應は毛士龍・李右讜・喬可聘ら十人を挙げたが、御史の張懋爵が賄賂を受けて私を行ったと弾劾した。亨應が疏で弁明すると、懋爵は三度疏を上げて力を尽くして攻めたので、亨應はついに謫せられて去った。
撫州での挙兵と殉節
- 福王即位の翌年、江西の諸城はみな守れなくなった。亨應は弟の和應に父を奉じて閩に入らせ、自らは艾南英・掲重熙と城を守ることを謀った。
- おりしも永寧王慈炎が連子峒の土兵数万を招いて建昌を回復し撫州に入り、亨應に書を寄せた。亨應は兵数百を募って掎角の勢をなした。
- ある日、ちょうど酒を置いて客を宴していたところに大兵が至った。亨應は石室に避けたが、その従弟が居場所を教えたので捕らえられ、あわせて長子の筠も捕らえられた。亨應は筠を顧みて「励めよ。一日は千秋にも値する。自らを裏切るな」と言った。筠は「はい」と答え、先に刑を受けて死んだ。亨應の縄を解いて降伏を諭したが答えず、殺された。
- 和應は兄の死を聞き、「壮烈である。兄は忠臣となり、兄の子は孝子となった。何の心残りがあろう」と言った。父を奉じて閩に入ったのち、さらに肇慶に避け、そこで父に拝辞して井に身を投げて死んだ。
- これより先、棟の弟の栻は蒲圻知縣であり、栻の兄の益は貴州僉事であって、ともに難に殉じた。人は曽氏の五節と称した。
- はじめ亨應が懋爵に告発されたとき、朝士はかなり疑ったが、のちに亨應は節に殉じ、懋爵はついに李自成に降って直指使となった。