出自と建昌の守城・殉節
- 王養正は字を聖功といい、泗州の人。崇禎元年(1628年)の進士となり、海鹽知縣に任じられた。父の喪に遭い、服喪を終えて秀水で起用されたが、大計に当たって河南按察司照磨に補せられた。累進して南康知府となり、計略をもって大盗の鄧毛溪・熊髙を殲滅し、一方の地はこれに頼った。
- 福王のとき副使に進み、建昌の分巡となった。南都がすでに覆り、大兵が江西に下ると、巡撫の曠昭は南昌を棄てて瑞州に逃げ、諸城は風に靡くように潰えた。
- 養正はそこで布政の夏萬亨、知府の王域、推官の劉允浩、南昌推官の史夏隆とともに兵を挙げて拒み守った。三日を経て、客兵が内応したため城はたちまち破れ、養正らは捕らえられて械につながれ南昌に送られ、萬亨らとともに死んだ。その妻の張氏はこれを聞き、九日食を絶って死んだ。
夏萬亨・王域・劉允浩・史夏隆(王養正の附伝)
- 萬亨は字を元禮といい、崑山の人。舉人から身を起こした。南昌が守れなくなると建昌に避け、養正とともに死んだ。妻の顧氏、嫁の陸氏および孫一人・孫娘一人が先に井に身を投げて死に、死んだ僕婢もまた十余人であった。
- 域は字を元夀といい、松江華亭の人。郷試に合格して宿州學正に任じられた。流賊が至ると有司を助けて防ぎ功があり、たびたび移って工部主事となり、蕪湖で榷税にあたった。都城が陥落すると、榷税を扱う者の多くはこれを私したが、域は嘆いて「君父が非常の禍に遭ったのに、臣子がかえってこれを利とするのか」と言い、ことごとく南京戸部に返した。ほどなく郎中から建昌知府に移った。城が破れて械につながれ南昌に至り、允浩・夏隆と同じ日に死んだ。
- 允浩は掖縣の人、夏隆は宜興の人。ともに崇禎十六年(1643年)の進士である。
- このとき同時に死んだ者は六人で、そのうち一人は姓名がわからない。建昌の人はその忠を哀れみ、集めて葬り、「六君子の墓」と表した。
鄧思銘(王養正の附伝)
- はじめ建昌南城の諸生に鄧思銘という者がいた。北都陥落を聞いて仲間数十人を集めて庠兵とし、朔望に射を習い撃剣の技を練って国のために仇を報いようとし、有司に願い出た。有司は笑って「学校が兵になれるか」と言ったので、衆の志はそのまま緩んだ。思銘は鬱々として志を得ず、翌年、城が破れて死んだ。
李翔・徐伯昌(王養正の附伝)
- 建昌が破れたのち、新城知縣の譚夢開は迎え降ったが、民がひそかに関を守る兵を導いてこれを殺した。夢開の党与と民が互いに殺し合い、一か月にわたって鎮まらなかった。
- 唐王は邵武の貢生である李翔を新城知縣とした。翔は着任すると残党を捕らえて殺し、衆はそのまま散じた。しかし民は乱に慣れており、小作人が田主の徴租の枡が大きいとして数千人を集め、県庁で騒いだ。翔は□(底本欠字)義兵三百を遣わし、鄭彩の軍と偽って乱民を殺した。翌日さらに百余級を斬り、乱はようやく鎮まった。
- 彩の兵数万は新城に駐屯していたが、大兵を畏れて関内に逃げ込んだ。ただ監軍の張家玉と新城の人である徐伯昌だけが翔とともに守った。大兵が迫ると家玉もまた戦って敗れ関に入った。翔は民兵千余を率いて城を出て拒み撃ったが、大兵が間道から城に入り、民兵はみな散じた。翔と伯昌はともに死んだ。
- 伯昌は字を子期といい、唐王のとき舉人から兵部主事に任じられ、御史に改められた者である。
李時興・髙飛聲(王養正の附伝)
- このとき江西の郡邑の官で城を守った者に、さらに李時興・髙飛聲がいる。
- 時興は福清の人。郷試に合格し、袁州同知を歴任して府事を摂した。省城がすでに降ったのち、時興は力を尽くして城を守ったが、ほどなく守将の蒲纓の兵が潰え、湖廣の援将である黄朝宣の五営もまた騒いで帰った。時興は守りきれぬと見て、萍鄉の官舎で自ら縊れ、僕一人もまたともに死んだ。
- 飛聲は字を克正といい、長樂の人。崇禎年間に郷挙から玉山知縣に任じられ、同知に移ったが、親の養育を願って去った。唐王のとき、黄道周が督師として出るにあたり招いて同行させ、撫州の事を摂させた。大兵が至ると、家人に印を懐にして王のもとへ走らせ、自身は城を守って死んだ。