浦城知縣から仙霞闗の守備へ
- 鄭為虹は字を天玉といい、江都の人。崇禎十六年(1643年)の進士となり、浦城知縣に任じられた。
- 唐王が浦城を通ったときその人となりを知り、自立するに及んで御史に召した。部内の民が相次いで留任を乞い、去るべきでない十の理由を挙げた疏を出したので、御史のまま仙霞闗を巡視させ浦城に駐屯させた。ほどなく上遊四府を巡撫し、あわせて関の事務を領させた。
- 鄭芝龍の歩兵の将が民の舟を奪ったので、為虹は叱責した。芝龍は王に訴え、王はなだめて解決したが、このとき芝龍にはすでに異心があり、関を守る将をすべて撤収させたため、仙霞嶺の二百里の間には一人もいなくなった。
殉節
- 順治三年(1646年)八月、大清の兵が一気に攻め入った。為虹は急ぎ浦城に帰り、士民を逃がして自らは空城を守った。ほどなく捕らえられ、給事中の黄大鵬とともに死んだ。享年二十五。
黄大鵬(鄭為虹の附伝)
- 大鵬は字を文若といい、建陽の人。崇禎十三年(1640年)の進士で、義烏知縣となり有能の評判があった。唐王が兵科給事中に召し、従って建寧に至り、為虹とともに仙霞嶺を守るよう命じられ、結局ともに死んだ。
- そのとき王は延平にあり、仙霞闗が失われたと聞いてあわてて汀州に走った。延平を守ったのが王士和であり、汀州まで従ったのが胡上琛と熊瑋である。いずれも死節で知られた。
王士和(鄭為虹の附伝)
- 士和は字を萬璟といい、金谿の人。崇禎年間に郷試に合格した。南京がすでに覆り、江西もまた兵禍を被ったので、士和は閩に避けて入り、吏部司務を授かった。時政の欠失を数千言にわたって疏で陳べたので、唐王は刊行して文武の諸臣に賜わり、あわせて士和を召して対問し、たいそう嘉奨し、兵部主事に抜擢した。一月たたぬうちに延平知府に抜擢された。
- 八月、王が汀州に走ると、兵部侍郎の曹履泰と士和を留めて守らせた。ほどなく警報が重なって至り、士和は父老を召して「私は一月の郡守にすぎぬが、城と存亡を共にすべきである。そなたたちは速やかに逃れ、数万の生霊を斧鑕の膏にさせるな」と言った。衆は泣き、士和もまた泣いた。
- 退いて内署に入り、友人に「私は一介の書生でありながら、数か月ながら二千石の位を汚した。どうして生き延びられよう」と言った。友人が止めようとすると、顔色を正して「君子は人を愛するのに徳をもってする。姑息な情けが何になろう」と言い、落ち着いて衣冠を正し、戸を閉ざして縊れて死んだ。
胡上琛(鄭為虹の附伝)
- 上琛は字を席公といい、代々福州右衛指揮使を襲った。読書を好み詩をよくした。職を襲いだのちさらに武の郷試に合格した。
- 唐王のとき錦衣衛指揮となり、都督僉事の署に移り、御營總兵官を兼ねた。従って汀州に至り、王が捕らえられると、上琛は福州に走り帰り、家人に「私は代々の臣である。かりそめに生き永らえるわけにはいかぬ。私のために毒草を採ってきてくれ」と言った。妾の劉氏は二十歳であったが、ともに死にたいと願った。上琛は喜んで「そなたは若い女なのに、死ぬことができるのか」と言い、そのまま冠帯を整え、妾とともに毒酒を飲んで死んだ。
熊緯(鄭為虹の附伝)
- 緯は字を文江といい、南昌の人。崇禎十六年(1643年)の進士で、行人に任じられた。両京がともに覆ってのち、酒を飲むたびに涙を流した。友人が「昔、狼瞫は『私はまだ死ぬべき場所を得ていない』と言った。そなたに志があるなら、どうしてその場所を求めないのか」と言った。
- そこで延平に赴いて唐王に謁し、給事中に抜擢された。ほどなく行幸に従って汀州に至り、変事に遭って従官はみな散ったが、緯はなお馳せ参じ、大清の兵に遭って死んだ。
史論
- 贊に曰く。国家の興廃には天道の働きがあるのではないか。金聲らは烏合の兵をもって声を張り上げ気勢を挙げ、すでに廃れたのちの明の命脈を引き戻そうとしたが、心は離れ勢いは散り、敗北はたちまち訪れた。わずかたりとも補うことができたわけではない。しかし最後には命を捧げて志を遂げ、死を見ること帰するがごとくであった。事は成らなかったが、その志だけは残ったのである。