出自と宦官への杖刑
- 林汝翥は字を大葳といい、福清の人。郷試に合格して沛縣知縣に任じられた。天啟二年(1622年)、戦って徐鴻儒の兵を退け、妖人の王普光の一党を捕らえた功により、御史に抜擢された。
- 天啟四年(1624年)六月、京城を巡視していたとき、民の曹大の妻が人の下僕と口論して毒を仰いで死んだ。宦官の曹進・傳國興が衆を率いて大いに掠奪し、下僕の主家を大きな錐で刺した。刑官は問いただすことができなかったが、汝翥は進を捕らえた。進は懼れて、弾劾されるより杖刑を受けたいと願ったので、五十打った。國興は道で待ち受けて罵り止まなかったので、汝翥はこれも捕らえてつなぎ、國興もまた杖刑を願ったので、また杖で打った。
- 魏忠賢は大いに怒り、ただちに旨を伝えて汝翥を廷杖に処すこととした。数日前に宦官たちが寄ってたかって周之璟を殴り殺していたので、汝翥は大いに懼れて遵化まで逃げた。巡撫の鄧渼が代わって上申し、都御史の孫瑋、御史の潘雲翼らが章を連ねて救おうとしたが聴かれず、結局杖に処され、籍を削られて帰郷した。
福寧の戦いと殉節
- 崇禎初年、もとの右參議として起用され温處道の分守となったが赴かなかった。久しくして瓊州で起用されたが、奸民が乱を煽ったことに坐して位階を下げられ帰った。
- 福王のとき雲南僉事として起用されたが、まもなく職を解かれた。魯王が長垣に宿営すると、召されて兵部右侍郎となり、員外郎の林垐とともに福寧を攻めたが、戦って敗れ捕らえられた。降伏を諭されたが従わず、つながれたまま金の粉を呑んで死んだ。
林垐(林汝翥の附伝)
- 垐は字を子野といい、汝翥と同郷。崇禎十六年(1643年)の進士で、海寧知縣に任じられた。邑に剣術で衆を惑わし千人を集めた妖人がおり、垐は捕らえて殺した。
- 南都が覆り、杭州も守れなくなると、兵卒が機に乗じて餉を要求し役所を取り囲んで大騒ぎした。垐は首謀者を罰したうえでその要求に応じたが、城が孤立して保てないので去った。
- 唐王は御史とし、文選員外郎に改めて福寧で兵を募らせた。王が殺されたと聞いて大いに慟き、走って山中に隠れた。魯王が海路で長垣に至ると、福清の郷兵が垐を主将に請い、汝翥とともに城を攻めて陣没した。