海運の議
- 沈廷揚は字を季明といい、崇明の人。経世済民を談ずるのを好んだ。崇禎年間に國子生から内閣中書舍人となった。
- 崇禎十二年(1639年)冬、帝は山東に警報が多く漕運の道がしばしば塞がるので、海運の復活を議した。廷揚は海辺に生まれ水路に習熟していたので、上疏してその便を極言し、あわせて『海運書』五巻を編んで献じた。帝は喜び、ただちに海船を造って試させた。廷揚は二艘に乗って淮安から海に出て、わずか半月で天津に着いた。帝は大いに喜び、戸部郎中を加えて登州に赴かせ、巡撫の徐人龍と海運のことを計画させた。
- はじめ寧遠の軍餉はおおむね天津の船を用い、登州で東風を待って粟を天津に運び、また西南の風を待って寧遠まで運んでいた。廷揚は登州から直接寧遠に達することを請い、帝はその議を用いて費用を大いに省いた。
- 崇禎十五年(1642年)、あらためて淮安に赴いて海運を督するよう命じられ、事が終わると光祿少卿を加えられ、引き続きその任にあたった。
殉節
- 京師が陥落すると、福王は廷揚に海船で長江を防がせ、ほどなく餉務の兼理を命じて江北の諸軍に給させた。
- 南京が守れなくなると郷里に走り帰り、のち海路で舟山に至り黄斌卿を頼った。唐王は福建にあって兵部右侍郎・總督水師を授け、魯王も同じ官を授けた。
- 魯王が海に出た翌年、廷揚は舟師を督して北上し、福山に至り鹿苑に宿営した。夜半に颶風が大いに起こり、舟が砂州に乗り上げて大清の兵に捕らえられた。降伏を諭されたが従わず、そこで殺された。