明史卷二百七十七 列傳第一百六十五 陳潛夫

出自と開封推官への赴任

  • 陳潛夫は字を元倩といい、錢塘の人。家は貧しく落魄していたが、大言を吐いて俗人を驚かすのを好んだ。崇禎九年(1636年)に郷試に合格すると、いよいよ広く交遊して豪奢に振舞い、人物の批評を好んだので、里中の人に憎まれた。友人の陸培兄弟が文を作って潛夫を追い出したので、潛夫は華亭に避けて住んだ。
  • 崇禎十六年(1643年)冬、開封推官に任じられた。大河南の五郡はすべて賊に占拠され、開封は河の水を城に注がれて空になり人がおらず、長吏はみな封邱に寄寓していた。潛夫に行くなと勧める者もいたが聴かず、封邱に馳せた。
  • おりしも叛将の陳永福が賊兵を率いて山西から出た。その子の陳徳は巡撫秦所式の部将であったが、巡按御史の蘇京を縛って連れ去った。潛夫は民兵千人を募り、所式および總兵の卜從善・許定國に共に討伐するよう請うたが、みな行こうとしなかった。

杞縣での抗戦と柳園の勝利

  • そこで潛夫は崇禎十七年(1644年)正月、周王を奉じて河を渡り把縣に居り、近隣の長吏に檄を発して召集し、高皇帝の位牌を設けて血を啜って固く守ることを誓った。賊が置いた偽の巡撫梁啟隆が開封に居り、他の偽官も郡邑の間にはなはだ多く散布していた。また開封の東西の諸土寨は公然と掠奪を行い、互いに攻め殺し合って止まなかった。潛夫は把縣と陳留の間を転々とし、朝夕もわが身を保てぬありさまであった。
  • 西平寨の副将劉洪起が勇にして義を好み、たびたび賊を殺して功があると聞き、自ら赴いて説いた。五月五日、まさに誓師しようとしたところに都城陥落の報が至った。そこで慟哭してその部下に白い喪服を着けさせた。洪起の兵は一万数千で五万と号し、潛夫の兵は三千であった。把縣の偽官を捕らえ、啟隆は風を聞いて逃げ去った。
  • そのまま河を渡って北へ進み、賊将の陳徳を栁園で大いに破った。このとき李自成はすでに敗れて山西に走っており、南陽の賊が隙に乗じて西平を犯したので、洪起は引き返した。潛夫もこれに従って南へ帰った。

南京朝廷での上奏

  • 福王が南京で即位すると、潛夫は露布を伝えて至り、朝廷は大いに喜んで、ただちに監軍御史に抜擢して河南を巡按させた。
  • 潛夫は入朝して次のように述べた。中興は進取にあり、王業は偏安ではない。山東・河南の地は尺寸たりとも棄ててはならない。豪傑で寨を結んで自ら固めている者は首を伸ばして官軍を待っている。まことに藩鎮に分けて命じ、一軍を潁・夀に出し、一軍を淮・徐に出せば、衆心は競い奮って争ってわが用に立とうとする。さらに爵賞を頒ってこれを鼓舞し、遠近を測って城堡を区画し自ら守らせ、わが督撫・将帥は精鋭を要害に屯して呼応させ、余裕があれば耕して屯田で食い、急があれば甲を着て城壁に登る。一方に警報があれば前後から救援する。長い黄河は守るに足りない。汴梁一路は臣が平素から連絡を定めており、十日で十余万人を集められる。まことに少しく糧食を給し、臣が自ら将いることを許されるなら、臣は戈を担いで先駆けとなり、諸藩鎮を後詰めとして、河南五郡はすべて回復できる。五郡が回復すれば河を境として固め、南は荊楚に連なり、西は秦闗を制し、北は趙・衛に臨む。うまくいけば恢復が望め、そうでなくとも江淮は永く安泰である。これが今日の最上の計である。両淮の上流にどうして多くの兵が要ろうか。督撫が入り乱れていてもみな虚設である。もし外を拒むことを思わず退守にばかり努め、土地と甲兵の衆を挙げて他人に致すなら、臣は江淮もまた保てぬのではないかと恐れる。

越其杰との対立と罷免

  • このとき開封・汝寧の間には百数の寨が並び、洪起が最も大きく、南陽には数十の寨が並び、蕭應訓が最も大きく、洛陽にも数十の寨が並び、李際遇が最も大きかった。諸帥の中で洪起だけが忠を尽くそうとしていたので、潛夫は将軍の印を挂けさせるよう請うたが、馬士英は聴かず、その姻戚の越其杰を用いて河南を巡撫させた。
  • 潛夫は九月に参内してから、ついでに親を訪ねて五日で河上に馳せ赴いたが、建言はすべて用いられず、諸鎮の兵も来る者がなかった。其杰は老いて疲れ兵を知らず、兵部尚書の張縉彦は河南・山東の軍務を総督したが空名を提げるだけで諸将を御せなかった。
  • その冬、應訓が南陽および泌陽・舞陽・桐柏を回復し、子の三傑を遣わして戦勝を報告させた。潛夫は告身(辞令)を授け、酒を飲ませ、鼓吹と旌旗を前に立てて送り出した。三傑は望外の喜びで其杰に謁したが、其杰はことさら尊大に構え、厳しい言葉で詰責し、賊呼ばわりした。三傑は泣いて退出し、異心を萌した。
  • 潛夫が諸寨を通ると、みな鐃吹をもって送り迎えしたが、其杰がときおり通ると、諸寨はみな門を閉じて出なかった。其杰は怒って潛夫を士英に讒言した。士英は怒り、冬の終わりに潛夫を召し還して淩駉を後任とした。潛夫もまた父の喪に遭って帰った。

童氏事件と殉節

  • 翌年三月、給事中の林有本が疏を上げて御史の彭遇颽を弾劾し、あわせて潛夫にも及んだ。士英は遇颽が自分の私人であるため不問に付し、ただ潛夫の罪だけを議させた。
  • これより先、童氏という者が自ら福王の継妃だと言い、廣昌伯の劉良佐が礼をととのえて送り届けた。潛夫は夀州に至ってその車馬と供回りを見、「皇后が来られる」と呼ばわるのを聞き、自分も臣と称して朝謁した。童氏が都に入ると、王は偽物だとして獄に下した。そこで潛夫が私に妖婦に謁したことを責め、逮捕して獄に下し裁いた。
  • ほどなく南都が守れなくなり、潛夫は脱して帰ることができた。魯王が紹興で監國すると聞き、江を渡って謁し、もとの官に復して太僕少卿を加え監軍とするよう命じられた。そこで自ら三百人を募って江上に陣営を布いた。ほどなく大理寺少卿に進み、御史はもとのまま兼ねた。
  • 順治三年(1646年)五月晦日、江上の軍がことごとく潰えた。潛夫は山隂の化龍橋まで走り、妻妾の二人の孟氏とともに水に赴いて死んだ。享年三十七。

陸培(陳潛夫の附伝)

  • はじめ文を作って潛夫を追い出した者が陸培である。字は鯤庭。進士となり行人となった。使命を果たして帰り親を訪ねていたが、南京がすでに覆り、潞王もまた降ったと聞き、縄を二人の僕に渡し、落ち着いて縊れて死んだ。享年二十九。
  • 培は若くして俊才の名高く、文名があり、行いは慎み深かった。華亭に客居したとき、部屋に押しかけてきた女を退けたという。