出自と京口の守備
- 楊文驄は字を龍友といい、貴陽の人。浙江參政の楊師孔の子である。萬厯末に郷試に合格し、崇禎年間に江寧知縣となったが、御史の詹兆恒に貪汚を弾劾されて官を奪われ、取調べを待った。事が決着せぬうちに福王が南京で即位した。
- 文驄の姻戚である馬士英が国政を執ったので、兵部主事として起用され、員外郎・郎中を歴任し、いずれも京口の監軍にあたった。金山が大江の中に踞して南北を制するので、城を築いて守備の資とすることを請い、容れられた。
- 文驄は書に巧みで文藻があり、交遊を好んだ。士英に取り入る者の多くはこれを伝手にして進んだ。その人となりは豪俠で自ら恃むところがあり、名士をかなり推奨したので、士もまたこれによって彼に付いた。
長江の敗と処州への転戦
- 翌年(1645年)、兵備副使に移り常州・鎮江二府の分巡となり、大将の鄭鴻逵・鄭彩の軍を監した。
- 大清の兵が長江に臨むと、文驄は金山に駐屯して大江を扼して守った。五月一日、右僉都御史に抜擢されてその地を巡撫し、沿海の諸軍の督務を兼ねた。文驄はそこで京口に戻って駐屯し、鴻逵らの兵と南岸で合し、大清の兵と江を隔てて対峙した。
- 大清の兵は大きな筏を編み灯火を置いて夜に流れの中へ放った。南岸の軍は砲石を放ち、敵に克ったと思って日ごとに勝報を奉った。
- 九日、大清の兵が霧に乗じてひそかに渡り岸に迫った。諸軍は初めて気づき、あわてて甘露寺に陣を布いたが、鉄騎に衝かれてことごとく潰えた。文驄は蘇州に走った。
- 十三日、大清の兵が南京を破り、百官はみな降った。鴻臚丞の黄家鼒に蘇州へ赴いて安撫するよう命じたが、文驄はこれを襲って殺し、処州に走った。
唐王朝への仕官と殉節
- そのころ唐王はすでに福州で自立していた。はじめ唐王が鎮江にいたとき文驄と親しかったので、ここに至って文驄は使者を遣わして表を奉り賀を述べた。鴻逵もまたたびたび推薦したので、兵部右侍郎兼右僉都御史・提督軍務を拝し、南京を図るよう命じられ、その子の鼎卿に左都督・太子太保を加えた。
- 鼎卿は士英の甥である。士英が福王を迎えに遣わしたとき、淮安で王に出会った。王ははなはだ貧しく、鼎卿が援助した。王は鼎卿と布衣の交わりを結び、そのため鼎卿をたいそう寵愛した。鼎卿が謁見すると、王は旧知の子として遇し、その父子を奨めて漢朝の大耿・小耿になぞらえた。しかしその父子は士英との縁故のために、多くの人から誹られた。
- 翌年、衢州が危急を告げた。誠意伯の劉孔昭もまた処州に駐屯していたので、王は文驄と共に衢州を援けるよう命じた。七月、大清の兵が至り、文驄は防ぎきれずに浦城まで退いたが、追撃の騎兵に捕らえられ、監紀の孫臨とともに降伏せず殺された。
- 臨は字を武公といい、桐城の人。兵部侍郎孫晉の弟である。文驄が幕に招き入れ、職方主事に奏請していたが、結局ともに死んだ。
呉易(楊文驄の附伝)
- そのころ兵を起こして郡県を略した者に呉易がいる。字は日生、呉江の人。生まれつき腕力があり、行いは奔放で拘束を受けなかった。崇禎末に進士となり、福王のとき揚州で史可法に謁した。可法はその才を非凡と認め、上奏して職方主事を授け、自分の監軍とした。
- 翌年、檄を奉じて江南で餉を徴発し、まだ帰らぬうちに揚州が失われ、ほどなく呉江も失われた。易は太湖に走り、同郡の舉人孫兆奎、諸生の沈自駧・沈自炳、武進の呉福之らと兵を挙げることを謀り、十日で千余人を得て長白蕩に屯した。近隣の諸県に出没し、道路は塞がった。唐王はこれを聞いて兵部右侍郎兼右僉都御史を授け、江南の諸軍を総督させた。文驄が易の斬獲の多いことを奏したので、兵部尚書に進んだ。魯王もまた易に兵部侍郎を授け、長興伯に封じた。
- 八月、大清の兵が至り、易はついに敗れて走った。父の承緒、妻の沈氏および娘はみな水に身を投げて死に、自駉・自炳・福之もまた死んだ。兆奎は捕らえられ、一軍はことごとく殲滅された。
- 翌年、易の同郷の周瑞がふたたび長白蕩に衆を集め、易を迎えてその陣営に入れたが、八月に事が漏れて捕らえられ死んだ。
- 福之は呉鍾巒の子である。兆奎は兵が敗れたとき、易の妻子が辱められることを慮り、その死を見届けてから行ったので捕らえられ、械につながれて江寧に至り死んだ。