明史卷二百七十七 列傳第一百六十五 金聲

出自と申甫の推挙

  • 金聲は字を正希といい、休寧の人。学問を好み科挙の文章に巧みで、名声は一時を傾けた。崇禎元年(1628年)に進士となり、庶吉士に任じられた。
  • 翌年(崇禎二年、1629年)十一月、大清の兵が都城に迫った。聲は感慨をこめて急務を面と向かって陳べたいと願い出た。帝はただちに平臺で召見した。退出後、疏を具えて次のように述べた。臣は書生でありながら平素忠義を志し、聖明の世に遭遇して日夜陛下のために天下の事を憂えている。今、兵が京畿に迫っており、急ぎ君父のために用いられぬわけにはいかない。通州・昌平は都城の左右の翼であるから重兵を置いて守らせるべきであり、天津は漕運の船が集まるところであるからとくに急いで備えるべきである。今、天下の草莽の豪傑で国家に用いられたいと願う者は少なくない。要は破格の用い方をするかどうかである。臣の知る申甫には将才がある。臣は聖天子の威霊を頼み、敢死の戦士を訓練して国家のために強敵を防ぎたい。陛下におかれてはただちに裁可を賜りたい。
  • 申甫というのは僧である。兵事を談ずるのを好み、私に戦車と火器を製作していた。帝は聲の言を容れてその車を取り寄せて閲覧し、都司僉事を授け、その日のうちに召見した。奏対が旨に適ったので、副總兵に特進させ、勅して新軍を募らせ便宜に処置させることとし、聲を御史に改めてその軍に参与させた。
  • 甫は急のことで数千人を募ったが、みな市井の遊び人であった。必要な軍装や武器も時期を得て支給されなかった。

申甫の敗死と諸上奏

  • そのとき大清の兵が郊外に長く在り、情勢は速戦を求めた。急ぎ出て栁林に陣を営んだ。總理の滿桂が諸軍を統制していたが、甫はその下に立つことを承知しなかった。桂の兵卒が民間を掠奪したので甫の軍が捕らえたが、桂はそのつど引き取っていった。聲は両軍の不和を上聞し、帝はただちに聲に調停させた。ほどなく桂が戦死し、甫は栁林・大井で続けて敗れ、そこで盧溝橋に車営を結んだ。
  • 大清の兵がその後ろに回り込むと、車を御する者は恐れ惑って向きを変えることができず、ほとんど皆殺しにされた。甫もまた陣没した。聲はこれを痛み傷んで、甫は職を受けてから日が浅いのにまっすぐ前へ出て敵に突き当たり、遺骸は矢と刃の傷が全身に及んでいる、血みどろの力戦でなければここまでにはならない、と述べた。帝もまた傷んで、恤典を与えるよう命じた。
  • 聲は功なきを恥じ、參將の董大勝の兵七百人、甫の遺した将の古壁の兵百人、および豪傑・義勇数百人を率い、これを訓練して一隊とし、劉之綸の奇兵となって桑楡の功を収めたいと請うたが、許されなかった。ほどなく軍需の精算が終わったと報告して関防(印章)を返上し、律に照らして罪を定めてほしいと請い、さらに疏を上げて罷免を請うたが、いずれも許されなかった。
  • 東江は毛文龍が殺されてから兵力が弱く孤立していた。聲は東宮冊立にかこつけて、朝鮮に詔を頒つよう自ら請い、東江と連絡して海外の形勢を張ろうとした。帝はその意を嘉したものの、結局用いなかった。

召対と諮詢を求める上疏

  • ほどなく上疏して述べた。陛下は夜を日に継いで心を焦がし、日々天下の事に親しく当たっておられるが、実のところ日々天下の人に習熟しておられるわけではない。天下の才ある者と才なき者、才の長短を一つ一つ量って過たぬようにしてはじめて、按配して人を配置できる。以前、陛下がしばしば群臣を召して問われても得るところがなく、聖心に適う者が少なかったため、召対を厭われるようになった。臣の愚見では、陛下の交わりはまだ厚くなく、諮詢もまだ数が足りない。召対が無益だとは言えない。今後は一日おきに文華殿に出御し、京卿・翰林・台諌および中書・行人・評事・博士などの官を輪番で入直させ、広く諮り問い、内外の職務を持つ者にも随時進見させ、政事の得失、軍民の利害、廟堂の措置、辺塞の情勢を、みな臣下と静かなときに考究されたい。年月がたてば人物の品定めはおのずと現れ、諸臣の才の有無や長短は聖鑒を逃れられなくなる。
  • 帝が返答する前に、聲は重ねて疏を上げて懇切に述べたが、ついに用いられなかった。そこでたびたび疏を上げて帰郷を願い出た。
  • のち大學士の徐光啟が聲を推薦して暦書の修撰に加わらせようとしたが、辞して就かなかった。御史として召されたときも赴かなかった。
  • 崇禎八年(1635年)春、山東僉事として起用されたが、重ねて二度疏を上げて力辞した。郷里の郡に盗賊が多かったので、聲は義勇を団練して防禦にあたった。

李章玉の誣告

  • 崇禎十六年(1643年)、鳳陽總督の馬士英が使者の李章玉を遣わして貴州の兵を徴発し賊を討たせたが、章玉は道を迂回して江西を掠め、樂平の吏民に拒まれ撃たれた。徽州の境に至ると、吏民は賊だと思って衆を率いて撃ち破り走らせた。章玉は変を激成させた責めを隠そうとして、聲および徽州推官の呉翔鳳が主導したのだと言い、士英がこれを上聞した。聲は二度疏を上げて弁明し、帝はその無罪を察して問わなかった。
  • その年の冬、朝廷の臣が相次いで推薦し、召して用いよとの命が下り、都に入って謁見するよう促されたが、赴かぬうちに京師が陥落した。福王が南京で即位すると、聲を左僉都御史に特進させたが、聲は固く応じなかった。

績溪の挙兵と殉節

  • 大清の兵が南京を破ると、諸郡は風に靡くように降った。聲は士民を糾合して績溪の黄山を保ち、兵を分けて六嶺を扼した。寧國の邱祖徳、徽州の温璜、貴池の呉應箕らが多くこれに応じた。そこで使者を遣わして唐王に上表し、聲に右都御史兼兵部右侍郎を授け、諸道の軍を総督させた。旌徳・寧國の諸県を抜いた。
  • 九月下旬、徽州のもと御史黄澍が大清に降り、王師が間道から襲って聲を破った。聲は捕らえられて江寧に至り、門人の江天一に「そなたには老母がいる、死んではならぬ」と言った。天一は「私は公とともに兵を起こしました。公とともに義に殉ぜぬわけにまいりましょうか」と答え、ともに死んだ。
  • 唐王は聲に禮部尚書を贈り、文毅と諡した。天一は歙の諸生である。