明史卷二百七十七 列傳第一百六十五 邱祖徳
邱祖徳は字を念修、成都の人。崇禎十年の進士で寧國推官から濟南・東昌へ進み、山東の土匪に対して李恪とともに招撫を専任し、賊の多くを離散させた。保定巡撫を経て山東を撫していたが、京師陥落の際に賊の勧降使を斬って抗戦を図ったところ、中軍梅應元の叛乱で印を奪われ南へ走った。福王朝で沈宸荃に封疆を軽々しく棄てたと弾劾されて削籍・下獄し、釈放されたが成都も陥ちて帰る家を失い、寧國に寄寓した。金聲が績溪で挙兵すると錢文龍・麻三衡・沈夀蕘らと呼応して華陽に駐屯したが郡城を抜けず、山中に退いたところを大清の兵に攻められ、捕らえられて磔にされ、その子も死んだ。附伝には妻子を手にかけて自刎した温璜、「留都防亂公揭」を作って阮大鋮を討ち捕らえられて死んだ呉應箕、涇縣に拠って戦った尹民興ら、諸生の身で節に殉じた者が多く連なる。
年表(10件)
- 崇禎十年1637年進士となり寧國推官に任じられのち僉事として東昌を分巡する
- 崇禎十五年1642年沂州に転じ冬に右僉都御史へ抜擢され保定の巡撫となる
- 崇禎十六年1643年考課にかかり解職されるが疑い晴れ王永吉に代わって山東を撫する
- 翌年南京が覆り温璜が知府らの逃げた印を預かり士民を召して慰め諭す
- 崇禎十六年秋1643年温璜が進士となり徽州推官に任じられ着任早々に民兵を訓練する
- 崇禎初年尹民興が進士となり寧國・涇の二県の知県を歴任する
- 崇禎十五年春1642年尹民興が時務十四事を陳べ職方主事から本司郎中に抜擢される
- 翌年正月呉漢超が寧國を襲って敗れ自ら首謀者と名乗り出て腹を割かれる
- 崇禎十年1637年龎昌允が進士となり青陽知縣に任じられる
- 崇禎十七年1644年呉漢超が都城の変を聞き兵を募って難に赴こうと謀る
出自と山東での官歴
- 邱祖徳は字を念修といい、成都の人。崇禎十年(1637年)の進士となり、寧國推官に任じられた。才によって濟南に転じ、推薦により僉事に特進して東昌の分巡となった。
- 山東の土匪が猖獗をきわめたため、帝は給事中の張元始の言により、祖徳と東兖道の李恪に招撫を専任させ、賊の多くは離散した。
- 崇禎十五年(1642年)、沂州に転じた。その冬、兵部尚書の張國維の推薦により右僉都御史に抜擢され、保定の巡撫となった。
- 崇禎十六年(1643年)、人事考課にかかって職を解かれ取調べを待ったが、事は明らかとなり、もとの官のまま王永吉に代わって山東を撫した。
京師陥落後の経緯
- 京師が覆り、賊が使者を遣わして降伏を勧めると、祖徳はこれを斬り、兵を発して拒み守ろうと謀った。ところが中軍の梅應元が叛き、部下の兵を率いて印を要求したため、祖徳は南に走った。
- 福王のとき、御史の沈宸荃が祖徳および河南總督の黄希憲を、軽々しく封疆を棄てたと弾劾し、詔によって籍を削られ取調べに付されたが、久しくして釈放された。成都もまた陥落し、帰るべき家もなく、寧國に寄寓した。
華陽の挙兵と殉節
- 金聲が績溪で兵を起こすと、祖徳は寧國の舉人錢文龍、諸生の麻三衡・沈夀蕘らとそれぞれ兵を挙げて応じた。このとき郡城はすでに失われていた。祖徳は華陽に駐屯し、三衡は稽亭に駐屯した。ほかに蜂起した者が十余部あり、ともに郡城を攻める約束をしたが、抜けなかった。夀蕘は陣没し、祖徳は山中に退いた。
- 大清の兵がその塞を攻め抜き、祖徳は捕らえられて磔にされて死に、その子もまた死んだ。四日後、三衡の軍も敗れて三衡も死んだ。
- 夀蕘は都督沈有容の子、三衡は布政使麻溶の孫である。三衡が兵を起こすと、その近隣の呉太平・阮恒・阮善長・劉鼎甲・胡天球・馮百家がともに起ち、七家軍と号した。みな諸生である。三衡が敗れると太平らも死んだ。
温璜(邱祖徳の附伝)
- 温璜は初めの名を以介、字を于石といい、烏程の人。大學士温體仁の再従弟である。母の陸氏は節を守って旌表された。
- 璜は長く諸生であり学行があった。崇禎十六年(1643年)秋に進士となり、徽州推官に任じられた。着任したばかりで京師の陥落を聞き、急ぎ民兵を訓練して防衛の計を立てた。
- 翌年、南京もまた覆り、知府の秦祖襄および諸僚属はみな逃げた。璜はそこでその印をすべて預かり、士民を召して慰め諭した。
- 金聲が績溪で兵を挙げると、璜は掎角の勢をなし、かつ兵糧を転送してその軍に給し、家族を村民の家に移した。ほどなく聲が敗れると、璜は兵を厳しくして自ら守った。郡中のもと御史黄澍が城を献じたので、璜は村舎に走り帰り、妻の茅氏と長女を刃にかけ、そのまま自ら首を刎ねて死んだ。
呉應箕(邱祖徳の附伝)
- 呉應箕は字を次尾といい、貴池の人。今文にも古文にも巧みで、意気は一世に横溢していた。
- 阮大鋮は宦官に付いたことで籍を削られ、南京に仮寓して南北の宦官に付いて職を失った者たちと連絡をとり、当路者を脅かしていた。應箕は無錫の顧杲、桐城の左國材、蕪湖の沈士柱、餘姚の黄宗羲、長洲の楊廷樞らとともに「留都防亂公揭」を作ってこれを討った。名を連ねた者は百四十余人、みな復社の諸生であった。
- のちに大鋮が志を得て周鑣を殺そうと謀ったとき、應箕は一人獄に入って世話をした。大鋮は聞いて急ぎ騎兵を遣わして捕らえようとしたが、應箕は夜のうちに逃れ去った。
- 南都が守れなくなると、兵を起こして金聲に応じた。敗れて山中に走ったが捕らえられ、いさぎよく死に就いた。
尹民興(邱祖徳の附伝)
- 同じころ兵を挙げた者に、尹民興・呉漢超・龎昌允・謝球・司石磐・王湛・魯之璵がいる。
- 民興は字を宣子といい、崇禎初年に進士となり、寧國・涇の二県の知県を歴任した。奸を除き弊を正し、神明のようだと称された。都に召し出されたところで陳啟新に告発され、福建按察司檢校に落とされた。
- 崇禎十五年(1642年)春、時務十四事を疏で陳べた。帝は喜んで職方主事に召し、たびたびの召対で言うことが多く帝意に適ったので、本司の郎中に抜擢した。周延儒が督師として出るとき従軍して参謀することを命じられたが、延儒が譴責を受けたため民興も吏部に下されて除名された。久しくして釈放された。
- 福王が即位するともとの官で起用されたが、ほどなく病を理由に辞して帰り、涇縣に寄寓した。南京が失われると、諸生の趙初浣らとともに城に拠って守った。大清の兵が城を攻め破り、初浣は死に、民興は走って免れた。唐王は御史としたが、事が敗れて帰り、家で没した。
呉漢超・龎昌允・謝球・司石磐・王湛・魯之璵(邱祖徳の附伝)
- 漢超は宣城の諸生。崇禎十七年(1644年)に都城の変を聞き、兵を募って難に赴こうと謀ったが、福王が即位したのでやめた。翌年南都が覆ると家を棄てて涇縣に走り、尹民興に従って兵を起こした。兵が敗れて華陽の山中に隠れた。
- これより先、邱祖徳・麻三衡の諸軍は潰えて華陽を保っていたが、徐淮という者がこれを部署していた。漢超はこれと合流し、句容・漂水・髙淳・漂陽・涇・太平の諸県を続けて取った。翌年正月、寧國を襲い、夜に南城をよじ登ったが、兵は潰えた。城中で首謀者を詮索したとき、漢超はすでに城を出ていたが、母がいることを思い、また一族に累が及ぶのを恐れ、入って「首謀者は私だ」と言った。その腹を割いたところ、胆の長さは三寸あった。妻の戚氏は楼上から身を投げて死んだ。
- 昌允は西充の人。崇禎十年(1637年)の進士で、青陽知縣に任じられた。南京が覆ると九華山に走り隠れ、兵を挙げようと謀ったが露見して捕らえられ、夜に旅店の中で死んだ。
- 球は溧陽の諸生で、僉事謝鼎新の子である。家財を投じて兵を募ったが、兵が散じて捕らえられ死んだ。
- 石磐は鹽城の諸生で、都司の酆某とともに兵を挙げた。兵が敗れて捕らえられたとき、酆は「これは儒生だ、私が脅して書記にしただけだ」と言った。石磐は「私が首謀者だ、どうしてそれを隠すのか」と言った。獄に六十余日つながれ、酆とともに死んだ。
- 湛は太倉の諸生。城がすでに下ったのち、兄の淳とともに再び里の人数百を集めて城を囲んだ。城中の兵が出て撃ち、淳は水に赴いて死に、湛は斬られて死んだ。
- 之璵は副總兵まで歴任し、福山に駐屯していた。蘇州がすでに降ったのち、諸生の陸世鑰が衆を集めて城楼を焼いた。之璵は千人を率いて入城し、大清の兵と戦って潰え、走った世鑰のあとを追って戦死した。
馬純仁・王台輔(邱祖徳の附伝)
- そのころ諸生の身で死んだ者に、六合の馬純仁、邳州の王台輔がいる。
- 南京がすでに下ると六合はただちに帰服した。純仁は題銘橋の柱に銘を題し、石を抱いて水に身を投げて死んだ。
- 台輔は崇禎末に宦官がふたたび出て鎮将となると聞き、疏を草して極諌しようとしたが、都に入ったばかりで都城が陥ちたので帰った。福王のとき、東平伯の劉澤清、御史の王爕・張樂が睢寧で大宴会を開いた。台輔は喪服のまま押し入って責め、「国は破れ君は亡んだ。今こそ公らが臥薪嘗胆し、食も喉を通らぬときであるはずなのに、酒を置いて大会を催すのか」と言った。左右が鞭打とうとしたが、爕は「狂生だ」と言って引き立てさせた。南京が覆ると、台輔は自分の米倉を見て「これは私が育てたものだ。これが尽きたら死ぬ」と言い、翌年、粟が尽きると北に向かって再拝し、自ら縊れて死んだ。