登州・萊州の平定
- 祖寛は遼東の人。若くして勇力があり、祖大寿の家に仕えた。従軍して功があり、累進して寧遠参将となった。部下の兵には塞外の降人が多く、向かうところ勝ち続けた。
- 崇禎五年(1632年)七月、叛将の李九成らが萊州を囲むこと急となり、詔で関外の兵を出して討たせた。寛は靳国臣・祖大弼・張韜とともに兵を率いて昌邑に至った。巡撫の朱大典が賊の書を手に入れた。寛らを内応に誘うものだった。これを示すと寛らはみな賊を滅ぼすと誓って身の潔白を明かしたので、寛と国臣を前鋒とした。
- 寛は沙河で賊に遭遇し、衆寡敵せずやや退いたが、国臣が到着して刀を抜き大声を上げてまっすぐ進み、寛・大弼・韜もみな決死の戦いをして賊兵を大敗させ、敗走する敵を追って城下に至り、たちどころに萊州の囲みを解いた。この月の末日、黄県に進軍した。賊は全軍を挙げて出戦したが、寛らはまた大敗させ、劉澤清らとともに長い囲いを築いて登州を苦しめた。翌年二月、賊はようやく平定された。詳しくは大典伝にある。
- 寛は囲みを解いた功で都督僉事に進み、重ねて功を叙して外衛副千戸を世々廕され、副総兵に進んだ。
河南・淮西での連戦
- 八年(1635年)秋、援剿総兵官に命じられ関外の兵三千を督して流賊を討った。十月、河南に至り、巡撫の陳必謙・監紀推官の湯開遠が左良玉とともに霊宝に至らせた。着くと焦村で張献忠を挫いた。ほどなく髙迎祥・李自成が至って献忠と合し閿郷を攻めた。寛が救援に赴くと賊は囲みを解いて霊宝へ向かい、良玉と寛の軍を断って呼応させないようにし、ついに東へ陝州を陥して洛陽を攻めた。良玉と寛が至ると迎祥・自成・献忠はみな走り、良玉は迎祥を追い、寛は分かれて献忠を撃った。
- 夜に副将の祖克勇らを督して葛家荘へ向かい、明け方に賊に遭遇して大破した。賊は嵩県の九臯山へ奔った。寛は二軍を山の谷に伏せて誘い、賊が下ってきたところで伏兵が発し、斬首九百有余を得た。
- まもなく副将の劉肇基・羅岱とともに汝州の圪料鎮で賊に遭遇し、また賊を大敗させ、屍が二十余里に伏し、斬首一千六百有余。
- 献忠は憤って迎祥・自成の兵を合わせ、寛と龍門・白沙で戦って官軍を断ち切って二つにした。寛は自ら殿を務め、士卒は決死の戦いをし、朝から夜半まで戦って、また大勝し、斬首一千有余。
- 迎祥・自成は光州を窺おうとして走り、寛は副将の李輔明を督してその後を追った。賊が確山を攻めに走ると寛らは急ぎ救って大破し、斬首五百八十有余。自成らはついに東へ廬州へ走り、七昼夜攻め囲んだが抜けなかった。
- 翌年(九年、1636年)正月、含山・和州を陥し、ついに滁州を囲んだ。南京太僕卿の李覚斯・知州の劉大鞏が力めて防ぎ、寛らの軍が到着して奮い立って大声を上げ、諸軍は一人で百人に当たらぬ者がなく、朝から夕まで戦って賊は大敗した。城の東五里から関山の朱龍橋まで追い、屍が折り重なって水も流れないほどだった。
- 二月、また総理の盧象昇に従って七頂山で賊を破り、自成の精鋭をほぼ殲滅した。象昇が南陽へ軍を移し、寛に鄧州の守りを命じた。賊が漢江を渡って鄖・襄に入り、残りの三万が内郷・淅川の山中に隠れたので、象昇は寛と祖大楽らに入山して捜索・討伐させた。
- 辺軍は荒々しく気性が他の兵と異なり、法で縛ることができなかった。以前は官軍に関中の人が多く、賊とは同郷なので陣に臨んで互いにねぎらい、捕虜を放し輜重を棄てればそのまま去らせ、これを「打活仗」と呼んだ。辺軍は言葉が通じず賊に出会えばすぐ殺すので勝つことが多かった。しかし通ったところで家屋を焼き婦女を犯し、功を恃んで取り締まらず、また野戦を好んで山狩りを憚り、しかも賊が遠く逃げて短期には片づかないと見て、自分は客将だとして持久の意志がなかった。
- 寛の兵はちょうど河を渡ったところで騒いで逃げ散った。象昇が再三激励してようやく命に従った。党子口に至ってもなお動かず、総兵の李重鎮は平素から臆病で責任を逃れたがり、兵はますます帰りたがった。象昇はそこで入山して討伐することの難しさを力説し、寛と重鎮を関中へ赴かせて賊を討たせることを請うた。総督の洪承疇もこれを請うたので、寛らはついに陝西へ軍を移し承疇の麾下に属した。
- 八月、京師が戒厳となり召されて入衛した。滁州の功を録して右都督に進み、銀と幣を賜わった。事が定まると寧遠へ赴いて協守を命じられた。
- 十一年(1638年)冬、詔で寛に軍を率いて畿輔を援けさせ、山東も急を告げたが、寛は動かず居座った。翌年正月、済南が失陥した。職を剥奪されて逮えられ、藩封を失陥させた罪に問われてついに棄市となった。
- 寛は敢闘して功があり驍将と称されたが、性格が剛直で気を張り、文官に好かれなかった。ついに死刑に至ったが、弁護し救う者はなかった。
史論
- 賛にいう。左良玉は驍勇の才で屢々巨魁を殲滅し、ついに強大な兵を擁して驕り高ぶり我意を通した。手をゆるめては賊を残して後の憂いを遺し、事が急になっては武具を棄てて崩れるに至った。統御が適切でなかったために跋扈が形をなし、後になってその不服従の罪を正そうとしても勢いとしてできず、ついには兵を挙げて宮闕を犯すことすら顧みなくなったのである。髙傑と祖寛はともに剛強で馴らしがたく、功を恃んで身を慎まず、なかでも傑はとりわけ凶暴だった。しかし傑は進取に鋭意していた時に殺され、寛は力戦して援けに赴いた後に誅された。死は罪に相当するものではなく、遺憾がないとはいえない。