明史卷二百七十三 列傳第一百六十一 髙傑
髙傑(?–1645年)。米脂の人で、李自成と同郷、ともに起って盗となった。自成の妻の邢氏と通じ、これを連れて官軍に帰順してからは賀人龍の麾下で賊を討ち、自成に深く憎まれた者として重用された。孫伝庭の先鋒となったが、郟県の敗戦でも潼関の戦いでも味方を救わず退いたため、総督伝庭の死と関中の喪失を招いた。京師陥落後は南へ走って福王に帰し、興平伯として四鎮に列した。淫暴で揚州の民に入城を拒まれ、黄得功を土橋に襲って仇怨を残したが、のち史可法の忠に感じて中原恢復を志し、その途上、雎州で許定国の酒宴に招かれ伏兵に殺された。太子太保を贈られた。
年表(15件)
- 崇禎七年閏八月1634年隴州で賀人龍を囲むが、内通を疑われて自成に営へ帰される
- 崇禎八年八月1635年自成の妻の邢氏を連れて官軍に帰順し、賀人龍に付けられる
- 崇禎十三年1640年人龍・李国竒に従い、塩井で張献忠を大敗させる
- 崇禎十五年1642年人龍が誅されたのち実授の遊撃となり、十月に塚頭で自成を破る
- 崇禎十六年1643年副総兵に進み、白広恩とともに孫伝庭の軍の先鋒となる
- 崇禎十六年九月1643年宝豊・郟県を克つが伏兵に陥ると衆を率いて退き、軍を総崩れさせる
- 崇禎十六年十一月1643年潼関で白広恩を救わず、関が破れて伝庭が殺され、自成が西安に拠る
- 崇禎十七年1644年総兵に進むが山西を救えず、京師陥落後に南へ走って福王に帰す
- 崇禎十七年1644年興平伯に封ぜられ四鎮に列し、揚州に入城を拒まれて城を攻める
- 崇禎十七年九月1644年徐州へ移駐を命じられ、衛允文がその軍を監する
- 崇禎十七年十二月1644年徐州の土賊程継孔を捕えて斬り、太子少傅を加えられる
- 順治二年正月十一日1645年雎州で許定国の酒宴に招かれ、伏兵に囲まれて殺される
- 崇禎三年1630年劉澤清が鉄厰の救援に力戦し、功を叙されて副総兵に至る
- 崇禎十六年二月1643年劉澤清が朱家寨から開封を救おうとするが、営を抜いて逃げ散る
- 順治二年四月1645年劉澤清が揚州の救援に向かわず降を通じ、大清に磔にされる
自成の下から官軍へ
- 髙傑は米脂の人。李自成と同じ邑の出で、ともに起って盗となった。
- 崇禎七年(1634年)閏八月、総督の陳竒瑜が参将の賀人龍を遣って隴州を救わせたが、囲まれて大いに困った。自成は傑に書を送らせて人龍に叛くよう約させたが、返事はなかった。使者は帰るとき先に傑に会い後で自成に会った。城を囲むこと二か月抜けず、自成は疑いを抱いて傑を別部の将のもとへ遣って交代させ、傑は帰って営を守った。
- 自成の妻の邢氏は身軽で武に長け智恵も多く、軍資を掌り、日々の糧の支給は割符によっていた。傑は氏の営を通って割符を合わせて検分した。氏は傑の容貌を立派だとして通じ、自成に気づかれることを恐れて帰順を謀り、翌年(八年、1635年)八月、ついに邢氏を盗んで帰順した。洪承疇は傑を人龍に付け、その遊撃の孫守法に伴わせて賊を破らせ功を立てさせてその誠を証させた。これ以来、傑はつねに人龍の麾下に属した。
- 十三年(1640年)、張献忠が瑪瑙山で敗れて興山・帰州の境に逃げ込むと、傑は人龍および副将の李国竒に従って塩井で大敗させた。
- 十五年(1642年)、人龍が罪により誅され、傑を実授の遊撃に命じた。十月、陝西総督の孫伝庭が南陽に至った。自成と羅汝才が西へ進んでこれを迎えた。伝庭は傑と魯某を先鋒とし、塚頭で遭遇して大戦して賊を破り、六十里追撃した。汝才が自成の敗北を見て救援に来て官軍の背後へ回り込んだ。後軍の左勷が賊を望み見て怖れて先に逃げ、諸軍もみな逃げてついに大崩れした。傑の損失だけは少なかった。
- 十六年(1643年)、副総兵に進み、総兵の白広恩とともに軍の先鋒となった。二人とも降将である。広恩は荒々しく平素から統制に従わず、傑はとりわけ凶暴だった。朝廷は傑が自成に深く憎まれている者だとして伝庭に属させ賊に当たらせた。
- 九月、伝庭に従って宝豊を克ち郟県を回復した。官軍は勝ちに乗じて深く入って食に乏しく、降将の李際遇が賊に通じ、自成が精騎を率いて大挙して至った。伝庭が諸将に策を問うと、傑は戦うことを請い、広恩は不可とした。伝庭が広恩を臆病だとしたので、広恩は不快に思って部下を率いて逃げ去った。官軍は交戦して伏兵の中に陥り、傑は嶺の上に登って眺め、支えきれぬと言ってやはり衆を率いて退いたので、軍はついに総崩れとなり死者は数万に及んだ。広恩は汝州へ走って救わなかった。傑は伝庭に従って河北へ走り、のち山西から河を渡って潼関に転じ入った。広恩はすでに先に着いていた。
- 十一月、自成が関を攻め、広恩は力戦したが、傑は広恩が宝豊の敗戦で自分を救わなかったことを怨み、やはり衆を擁して救おうとしなかった。広恩は戦い敗れて関はついに破られ、伝庭は殺された。自成は西安を破って拠った。傑は北へ延安へ走り、賊将の李過が傑を追った。傑は東へ宜川へ走ると河の氷がちょうど張っていたので渡って蒲津に入って守った。賊が至ったときには氷が解けて渡れず、そのため免れた。広恩は敗れて固原へ走ったが賊将に追いつかれ、城ごと降った。
- 十七年(1644年)、傑を総兵に進め、帝は総督の李化熙に傑の兵を率いて山西を急ぎ救わせたが、蒲州・平陽はすでに久しく陥ちていた。傑は澤州へ退き沿道で大掠した。賊はついに太原に迫り、京師が陥ちた。傑は南へ走って福王に帰した。
興平伯となり雎州に殺される
- 福王は傑を興平伯に封じて四鎮に列し、揚州を領させて城外に駐めた。傑は強いて入城しようとしたが、揚州の民は傑を畏れて入れなかった。傑が急に城を攻め、日々近隣の村の婦女を掠めたので、民はますます憎んだ。知府の馬鳴騄・推官の湯来賀が一か月余り堅く守り、傑は攻め落とせないと知って気勢がやや衰え、閣部の史可法が瓜洲を傑に与えることを議してようやく止んだ。
- 九月、傑に徐州へ移駐するよう命じ、左中允の衛允文に兵科給事中を兼ねさせてその軍を監させ西へ討たせた。徐州の土賊の程継孔は捕らえられて京師に送られていたが、李自成の乱に乗じて逃げ帰っていた。十二月、傑はこれを捕らえて斬った。太子少傅を加えられ、一子に錦衣僉事の世襲を廕された。
- はじめ傑は兵を伏せて土橋で黄得功を待ち伏せして撃ち、得功は危うく免れなかった。両鎮はそれ以来互いに仇怨を抱いた。事は得功伝に見える。傑が揚州を争ったとき可法はかなり困らされたが、ここに至って傑は可法の忠に感じ、ともに恢復を謀った。得功と劉澤清の二鎮を邳州・宿州に赴かせて河を防ぎ、傑自らは兵を率いてまっすぐ帰徳・開封へ向かい、宛・洛・荊襄を望んで根拠地とすることを議し、疏を具えて上った。言葉は激しく、得功と自分はなお過去の事にわだかまりがあるが、自分は君に報い恥を雪ぐことを知るだけで、どうして同列と優劣を比べようか、と述べた。しかし得功はついに傑の後詰めとなることを望まず、澤清はとりわけ狡猾で横暴で任せがたく、可法はやむを得ず劉良佐を徐州へ赴かせて傑の後援とした。
- 順治二年(1645年)正月、傑は帰徳に至った。総兵の許定国はちょうど雎州に駐まっており、その子を河を渡らせて人質に送ったと言う者があった。傑は定国を招いて会おうとしたが応じないので、さらに巡撫の越其杰・巡按の陳潜夫を伴って雎州へ向かった。定国が郊外まで出迎えると、其杰は傑に入城しないよう遠回しに勧めたが、傑は心中定国を軽んじて聴かず入城した。
- 十一日、定国が酒宴を設けて傑をもてなした。傑は酔いが回って定国のために出発の期日を定め、かつ子を送った事にもそれとなく触れた。定国はいよいよ疑い、雎州を離れる気はないと言った。傑が強く出発を促すと定国は怒り、夜に兵を伏せて礮を合図に大声を上げさせた。其杰らは急ぎ逃れたが、傑は酔って帳中に臥してまだ起きず、衆に取り囲まれて定国のもとに引き立てられ殺された。
- これより先、傑は定国が雎州を去るというので兵をことごとく出して開封を守らせ、留めた腹心の兵は数十人だけだった。定国は偽って恭順を装い、多くの妓女を選んで傑に侍らせ、二人の妓女を一人の兵に添わせて寝させた。兵はみな酔い、礮の音を聞いて起きようとしたが二人の妓女に引き止められて逃れられず、みな死んだ。翌日、傑の部下が至って城を攻め、老人子供に至るまで生き残る者がなかった。定国は逃げて大清軍に降った。
- 傑の人となりは淫らで残忍だったので、揚州の民はその死を聞いてみな喜び合った。しかしこの行軍は進取の志がきわめて鋭かったので、当時これを惜しむ者もあった。
- はじめ朝廷は諸鎮にも国政に与らせることを許したので、傑は屢々条陳して賊に降った者を救うことを奏し、武愫を獄から釈すことを請うたが許されず、また上疏して呉甡・鄭三俊・金光辰・姜埰・熊開元・金声・沈正宗らを薦めた。おおよそ当時の武臣の風潮はこの類が多かった。
- 傑は死んで太子太保を贈られ、その子の元爵が興平伯を襲った。
劉澤清(附伝)――山東の鎮将から東平伯へ
- 劉澤清は曹県の人。将としての才により遼東寧前衛の守備を授けられ、山東都司僉書に遷り参将を加えられた。
- 崇禎三年(1630年)、大清の兵が鉄厰を攻め、これを拠点として豊潤の糧道を絶とうとした。三屯を援け守る総兵の楊肇基が澤清を遣って救援させ、鉄厰まで十五里のところで大兵に遭遇し、辰の刻から午の刻まで力戦して決せず、増援を得て転戦して遵化に至り、挟み撃ちにしてようやく入城できた。功を叙して二級を加えられ副総兵に至った。
- 五年(1632年)、軍糧を横領したことで弾劾され、詔で要衝の地で功を立てて償うよう命じられた。
- 六年(1633年)、総兵に遷り、その冬、登州回復の功で左都督を加えられた。
- 八年(1635年)、詔で山東の兵を統べて漕運を防衛させた。
- 九年(1636年)、京師が戒厳となり、兵を統べて入衛した。新城に駐まって南北の要を扼するよう命じられ、さらに通州の留守を命じられ、左都督・太子太師を加えられた。
- 十三年(1640年)五月、山東が大飢饉となり民が集まって賊となり、曹州・濮州がとりわけひどかった。帝は澤清に総兵の楊御蕃の兵と会同して討伐させた。八月、右都督に降されて山東を鎮守し海防に当たった。澤清は山東の生まれなので長く東省を鎮めるのは適当でないとして辞任を請うた。帝は軍を整えて河を渡り諸鎮と合流して急ぎ援け討つよう命じた。
- 十六年(1643年)二月、賊が開封を長く囲んだので澤清が救援に赴いた。朱家寨は汴から八里、五千人を率いて南へ渡り、河に倚って寨を築き、水を引いて周囲を巡らせ、順次八つの寨を結んで大堤に達し甬道を築いて城中へ兵糧を送ろうとした。塁壁がまだ成らないうちに賊が来て争い、三日相持して互いに死傷を出した。澤清はすぐに営を抜いて去るよう命じ、狼狽して逃げ散り、兵は舟を争って溺死する者が多かった。
- 澤清の人となりは臆病で私心を抱いて日和見をし、かつて偽って大勝を報じて恩賞を求めたことがある。また馬から落ちて負傷したと偽って称し、詔で薬代四十両を賜わった。保定に赴いて賊を討つよう命じられたが従わず、日々臨清を大掠して兵を率いて南下し、至るところ焼き討ち略奪して空にした。
- 賊の勢いが日々急となり、給事中の韓如愈・馬嘉植がともに使命を奉じて南へ帰ろうとした。如愈はかつて澤清を弾劾したことがあり、東昌を通ったとき澤清は人を遣って道中で殺したが、敢えて上聞する者はなかった。
- 三月、東平伯に封じられた。京師が陥ちると南都へ走り、福王は四鎮の一として淮北に駐めた。
- 当時、武臣はそれぞれ分地を占め、賦税収入を上納せず恣に用い、辺境や兵事は一切問わず、廷臣と互いに党派を分けて朝政に干渉し、異論の者を排斥した。上奏文は紛々として綱紀はことごとく裂けた。なかでも澤清の言はとりわけ狂悖で、福王が立ったばかりのときに靖康の故事を引いてその年の五月に改元することを請い、また元輔の周延儒の助餉の贓銀を赦すことを請うた。都御史の劉宗周が諸将の跋扈の状を弾劾すると、澤清は二度上疏して宗周を弾劾し、かつ、主上がもし宗周を誅さないなら臣はすぐ職を辞すと言った。朝廷はやむを得ず温かな詔で取りなした。また巡按が捜索や贓物の追徴をできないようにすることを請い、法司に元総督の侯恂とその子の方域を厳しく捕らえることを請うたが、朝廷はみな意を曲げて従った。
- 順治二年(1645年)四月、揚州が急を告げ、澤清らに救援に向かわせたが、澤清はすでにひそかに降を通じていた。大清はその反覆を憎んで磔にして誅した。
- 澤清はかなり文芸に通じ吟詠を好み、かつて客を招いて酒を飲み唱和した。幕中に二匹の猿を飼い、名を呼べばすぐ来た。ある日、旧友の子を宴に招き、金の甌に酒を注いだ。甌は三升ほど入る。猿を呼んで酒を捧げ跪いて客に差し出させたが、猿の形相がひどく獰猛で、客は震えてためらい敢えて受け取らなかった。澤清は笑って、君は怖いのかと言い、囚人を引き出して階下で撲り殺させ、その脳と心肝を抉り出して甌の中に入れ、酒に和えて猿に持たせて捧げさせ、目の前で飲み干したが顔色は平然としていた。その凶暴さはこの類が多かった。