明史卷二百七十三 列傳第一百六十一 左良玉
左良玉(字は崑山、?–1645年)。臨清の人。遼東の都司から身を起こし、侯恂に引き立てられて松山・杏山の功第一に録された。崇禎年間は中原で流賊の討伐にあたって斬獲が多く、瑪瑙山で張献忠を大破して太子少保を加えられたが、平賊将軍の印を得てからは驕慢となり、督師楊嗣昌の統制を受けず、献忠の誘いに乗じて追撃を緩め、黄陵城の敗戦を招いて襄陽陥落と嗣昌の死につながった。朱仙鎮で李自成に大敗してからは精鋭を失い、武昌に拠って八十万を号したが軍規は緩んだ。福王のもとで寧南伯・侯となり南都の屏蔽と頼まれたが、馬士英・阮大鋮との対立から「君側を清める」と称して挙兵し、九江で袁継咸に背いたことを悔い、血を吐いて死んだ。子の夢庚は部衆を率いて九江で降った。
年表(18件)
- 崇禎元年1628年寧遠の兵変に連座して職を削られ、衛に帰される
- 崇禎六年正月1633年渉県の西陂で賊を破り、以後河南を担当して転戦する
- 崇禎六年1633年都督僉事を署理し、援剿総兵官として倪寵・王樸と対等の格とされる
- 崇禎八年十一月1635年祖寛とともに陝州を守れず、洛陽を救って迎祥・自成を追う
- 崇禎九年二月1636年湯九州との挟撃を約しながら逃げ帰り、九州を敗死させて勝報を上げる
- 崇禎十年1637年六安で賊を破るが、掠奪と不服従を咎められて落職・戴罪とされる
- 崇禎十一年正月1638年南陽で張献忠を撃ち、二矢を中て刀を揮って重傷を負わせる
- 崇禎十一年十二月1638年許州の兵変で、その地にいた家族がみな殺される
- 崇禎十二年七月1639年羅猴山で献忠に大敗し、軍符・印信を失って三秩を貶される
- 崇禎十二年十一月1639年督師楊嗣昌の推薦で平賊将軍を拝命する
- 崇禎十三年1640年瑪瑙山で献忠を大破して渠魁十六人を斬り、功第一として太子少保を加えられる
- 崇禎十四年正月1641年黄陵城で兵が先に崩れ、献忠を逸して襄陽陥落と嗣昌の死を招く
- 崇禎十四年二月1641年削職・戴罪とされ、賊を平らげて自ら償うよう命じられる
- 崇禎十五年三月1642年朱仙鎮で李自成に大敗し、馬騾一万を棄てて襄陽へ走る
- 崇禎十五年十二月二十四日1642年武昌に至り、兵を放って大掠して宗室・士民を逃散させる
- 崇禎十七年正月1644年寧南伯に封じられ、子の夢庚に平賊将軍の印を与えられる
- 崇禎十七年1644年福王が立つと侯に進み、上流の事を専ら委ねられ太子太傅を加えられる
- 順治二年四月1645年馬士英を討つと称して東下し、九江で袁継咸に背いたことを悔いて死ぬ
篇首の立伝者一覧
- 左良玉(附伝: 鄧玘・賀人龍)
- 髙傑(附伝: 劉澤清)
- 祖寛
出自と初期の経歴
- 左良玉は字を崑山といい、臨清の人。遼東車右営の都司を務めた。崇禎元年(1628年)、寧遠に兵変が起こり巡撫の畢自肅が自ら縊れて死んだため、良玉も連座して職を削られ衛に帰された。のち復官する。
- 総理の馬世龍が良玉に遊撃曹文詔へ従わせ、玉田・豊潤を援けさせた。洪橋・大塹山に連戦して遵化まで進み、四城恢復の功を論じて文詔らとともに秩を進められた。昌平に隷属し、督治侍郎侯恂の麾下に入る。
- 大凌河の囲みが急となり、詔で昌平の軍を援けに赴かせたが、総兵の尤世威は陵を守る任があって行けず、良玉なら代われると薦めたので、良玉が兵を率いて赴いた。のち侯恂が副将に薦め、松山・杏山に戦って功の第一に録された。
- 良玉は幼くして父を失い叔父に育てられ、貴顕となっても母の姓を知らなかった。長身で顔は赤く、驍勇で左右いずれの手からも射ることができた。学問はなかったが智謀に富み、士卒をいたわって歓心を得たので、戦えばつねに功があった。
河南・山西での討賊(崇禎六年)
- 陝西の賊が河南に入って懐慶を狙ったため、廷議は良玉に昌平の兵を率いて討たせることとし、主として河南を担当させた。賊が修武・清化を寇して平陽へ逃げ込むと、檄して山西に入り防がせ、斬獲が多かった。
- 河南巡撫の樊尚璟が、良玉を沢州に駐めれば豫・晋の咽喉を扼して四面へ援けられると請い、詔で許された。曹文詔が陝西兵を率いていたので、帝は良玉に尚璟の節制を受けさせ文詔と同心に討賊させ、急があれば秦兵は東、豫兵は西、良玉の兵は中央から横撃するという配置とした。
- 六年(1633年)正月、賊が隰州を犯し陽城を陥したが、良玉は渉県の西陂でこれを破った。
- 二月、良玉の兵は武安で賊と戦って大敗した。尚璟は罷免され、太常少卿の元黙が代わった。
- 三月、賊が再び河内に入り、良玉は輝県から追った。賊は修武へ奔って遊撃の越效忠を殺し、参将の陶希謙を追った。希謙は馬から落ちて死んだ。良玉は万善駅から柳樹口まで撃って大敗させ、賊首数人を生け捕りにした。
- 賊は西へ河南に奔った。河南の定額の兵はわずか七千で、賊に折られてほぼ尽きていた。良玉は昌平の兵二千余を率いて数度戦い、功はあったが孤立が甚だしかった。総兵の鄧玘がちょうど萊州で功を立てていたので、川兵を率い石砫土司の馬鳳儀の兵を加えて馳せ赴かせ、良玉とともに賊と競わせた。まもなく鳳儀は孤軍のまま侯家荘で戦没した。
- このころ賊勢はすでに大いに熾んで、三晋・畿輔・河北の間を縦横した。諸将の曹文詔・李卑・艾万年・湯九州・鄧玘・良玉らが前後して賊と戦い、勝敗はほぼ相半ばした。良玉と玘は河南を担当し、官村・沁河・清化・万善で屢々賊を破り、良玉はさらに武安・八徳で賊を扼して斬獲がとりわけ多かった。
- 帝が倪寵・王樸を総兵として京営の兵六千を河南へ赴かせ、中官の楊応朝・盧九徳にその軍を監させ、別に中官を遣って良玉らの軍を監させた。職方郎中の李継貞が、良玉と李卑は百戦を経ているのに位が寵・樸の下では、それを聞いて士気が解けると述べたので、良玉と卑に都督僉事を署理させ援剿総兵官として、寵・樸と対等の格とした。京営の兵が到着して共に賊を撃ち、たびたび功があった。良玉は済源・河内で賊を破り、また永寧の青山嶺・銀洞溝で破り、さらに葉県から小武当山まで追って賊魁を斬ることきわめて多かった。しかし諸将は中官の監軍を快く思わなかった。
- その冬、西へ奔った賊が引き返して東へ向かった。良玉と九州がその前を扼し、京営の兵が後ろを追ったので、賊は大いに困り、官軍は柳泉・猛虎村で連破した。賊の張妙手・賀双全ら三十六家が偽って分巡布政司の常道立に招撫を乞い、監軍の応朝を通じて願い出た。諸将は朝命を待って出戦せず、その間に寒気で河が凍りついたので、賊は澠池からまっすぐ河を渡った。巡撫の黙が良玉・九州・卑・玘の兵を率いて境上で待ち構えたが、賊は盧氏の山中へ逃げ込んだ。これ以降、賊は鄖・襄から川中へ入り、折れて秦・隴を掠め、また川中・湖北に出没して河南を犯し、中原はますます残破した。三晋・畿輔だけが十年にわたって賊禍を受けずに済んだ。
崇禎七年から八年の中原
- 賊が河を渡って去った後、良玉は諸将と地を分けて守った。陳竒瑜・盧象昇が秦・楚で賊と競っていたため、七年(1634年)の春夏の間、中州は幸いに無事だった。
- やがて竒瑜が車箱で李自成を取り逃がしたので、廷議は晋・豫・楚・蜀の兵を合わせて四面から討たせることとした。賊は軍を三つに分け、一は慶陽へ、一は鄖陽へ、一は関を出て河南へ向かい、河南へ向かった一隊はさらに三つに分かれたので、郡邑は至るところ告急した。良玉は新安・澠池を扼し、他将の陳治邦は汝州に駐まり、陳永福は南陽を扼したが、いずれも甲を着けて自らを守るだけで、賊に大打撃を与えることはできなかった。
- 賊は一営ごとに数万で、兵を交代で進ませ、みな現地の糧に頼って腹を満たした。官軍は兵が少ないのに守るべき所は多く、兵糧の輸送も続かなかった。賊は馬に鎧をつけて一昼夜に数百里を馳せるが、官軍は歩兵が多く騎兵が少なく、数十里で疲れてしまう。そのため多くが賊を畏れた。
- 良玉は懐慶にいたころ督撫と議論が合わず、これがもとで心を生じ、追撃をゆるめて賊を残し、降者を多く収めて自らの重みとした。督撫の檄による調発にも応じないことがあり、しだいに跋扈の兆しを見せはじめた。
- 十二月、磁山で賊に遇い、数十度大いに戦って百余里追撃した。
- 八年(1635年)正月、河南の賊が潁州を破り鳳陽の皇陵を毀った。鹿邑・柘城・寧陵・通許が陥ちたとき、良玉は許州にいて救えなかった。
- 四月、督師の洪承疇が汝州にあって諸将に地を分けて賊を遮らせた。尤世威は雒南を守り、陳永福は盧氏・永寧を控え、鄧玘・尤翟文・張応昌・許成名は湖広を遏め、呉村・瓦屋は内郷・淅川の要地なので良玉と湯九州に五千人で扼させた。
- まもなく鄧玘が兵の騒擾で死に、曹文詔は陝西の賊を討って真寧に敗死した。賊はいよいよ勢いを張り、盧氏を越えて永寧に奔った。巡撫の黙は逮捕されたがまだ任地を去らず、檄して良玉を内郷から陳治邦・馬良文らとともに盧氏の救援に向かわせた。
- 八月、鄢陵で賊を破った。九月、郟の神垕山で賊を追ったが、賊は営を連ねること数十里、交代で休み交代で戦って官軍を疲れさせたので、良玉は軍を収めて止めた。賊が再び密を攻めると良玉は郟から救援に向かい、賊は去った。
- 十月、良玉は霊宝に至り、遼東総兵の祖寛の兵と合して澗口・焦村で賊を掃討した。焦村は朱陽関の地である。
- 十一月、李自成が朱陽関を出、張献忠は久しく霊宝に拠り、闖王の髙迎祥もこれに合流した。良玉と寛は防いだが霊宝は支えきれず陝州が陥ちた。賊は東下して洛陽を攻めたので、良玉と寛は巡撫の陳必謙に従って洛陽を救い、賊は去った。迎祥と自成は偃師・鞏へ、献忠は嵩・汝へ走った。良玉は雒を出て迎祥・自成を追い、寛は分かれて献忠を撃って汝を救った。総理の盧象昇が湖広から到着し、寛とともに汝の西で賊を大敗させ、裨将に宜陽の黄澗口で賊を破らせた。
崇禎九年・十年の転戦と跋扈
- 九年(1636年)二月、賊が登封の郜城鎮で敗れて石陽関へ走り、伊・嵩の賊と合した。もと総兵の湯九州が嵩県から深く入って良玉と挟み撃ちにする手はずだったが、良玉は途中で逃げ帰り、九州は勝ちに乗じて四十里追撃したものの、援軍がなく敗死した。良玉はかえって勝報を上げた。
- 五月、象昇が祖寛・李重鎮を遣って陝西総督の洪承疇に随って西へ行かせた。良玉の軍は最も強く、また中州の人を率いていたので独り長く留められたが、その驕り高ぶりゆえに用いにくく、孔道興を用いてその偏将の趙柱と代え霊宝に駐めて雒西を防がせ、良玉と羅岱は宜陽・永寧に駐めて雒東を防がせた。
- 八月、良玉の兵は開封に至り、登封の唐荘から深く入って賊を撃った。辰の刻から申の刻まで激戦し、賊は支えきれず西へ走った。
- 九月、永福が唐河で賊を破り、賊が田家営に至ったので、良玉は河を渡って撃ち、斬獲がかなり多かった。巡撫の楊縄武が良玉は賊を避けたと弾劾し、罪を負ったまま自ら償うよう責め命じられた。
- 十年(1637年)正月、賊の老□□(底本欠字)が曹操・闖塌天の諸部と合し、流れに沿って東下したので安慶が警を告げ、詔で良玉に中州から救わせた。良玉は道すがら南陽の土寇である楊四侯・馭民・郭三海を討ち殺し、急ぎ六安に至って賊と遇った。部将の羅岱・孔道興が勝ちに乗じて連戦し賊を大破し、賊は霍山・潜山へ走った。馬瀇・劉良佐もまた桐城・廬州・六安で賊を屢々破り、滁・和にいた賊も西へ逃げたので、江北の警はやや静まった。
- 応天巡撫の張国維が三度も檄して良玉に入山掃討を命じたが応じず、兵を放って婦女を掠め、舒城に一か月余り屯した。河南の監軍太監が強く促してようやく北へ去ったが、賊はすでに掠奪を終えて山に入っていた。ついで淅川が陥ちても良玉は兵を擁して救わなかった。六安で賊を破った功があったので、詔で落職・戴罪とされたがまもなく復した。
- 賊が東下して六合を襲い天長を攻め、瓜洲・儀真を分かれて掠め盱眙を破ったが、良玉は頑として救おうとせず、中州の士大夫に連名の上疏をさせて自分をその地に留めさせた。帝は良玉の意から出たことを知ったが、覆すことはできなかった。
- 十月、総理の熊文燦が安慶に至り、部の檄で良玉の軍をその指揮下に入れたが、良玉は文燦を軽んじて用に応じなかった。
- 十一年(1638年)正月、良玉は総兵の陳洪範とともに鄖西で賊を大破した。張献忠が官軍の旗号を偽って南陽を襲い南関に屯したが、良玉がたまたま到着して疑い急いで召したので、献忠は逃げ去った。良玉は追いついて二矢を放ってその肩に中て、さらに刀を揮って顔を撃ち血を流させたが、その部下が救ったので免れ、榖城へ逃げた。まもなく降を請うたので、良玉はそれが偽りだと知って強く討つよう請うたが、文燦は許さなかった。
- 九月、文燦が鄖・襄の諸賊を討ち、良玉は洪範および副将の龍在田とともに双溝営でこれを破り、斬首二千余級を挙げた。
- 十二月、河南巡撫の常道立が良玉を陝州へ移したので、賊は盧氏が手薄になったのに乗じて内郷・淅川へ逃げ込んだ。この月、許州で兵変があり、良玉の家族は許州にあってみな殺された。
- 十二年(1639年)二月、良玉は降将の劉国能を率いて京師に入って援けた。詔で還って河南の賊を討つよう命じられたが、兵が灞頭・呉橋を通る際に大掠したので、太監の盧九徳が上奏し、詔で戴罪とされた。のち鎮平関で賊の馬進忠を破ると進忠は降り、また国能とともに張家林・七里河で賊の李万慶を破ると万慶も降った。
- 七月、献忠が叛いて去った。良玉は羅岱とともに追い、岱を前鋒として自らはその後に続いた。房県を越えて八十里、羅猴山に至ったところで軍の食が尽き、伏兵が起こった。岱は馬が藤に掛かったので刀を抜いて断ち、つまずいてもなお進み、馬を棄てて山に登ったが、賊の囲みが急で矢が尽き捕らえられた。良玉は大敗して逃げ帰り、軍符・印信をことごとく失い、軍需物資千万余を棄て、士卒の死者は一万人にのぼった。事が聞こえ、軽率に進んだ罪で三秩を貶された。
平賊将軍と瑪瑙山の大捷
- 十一月、督師の楊嗣昌が、良玉は敗れたとはいえ大将の才があり兵も用いられると薦めたので、平賊将軍を拝命した。
- このころ賊は三つに分かれていた。西は張献忠が楚・蜀の郊外に拠り、東は革裏眼・左金王ら四営が随・応・麻・黄を荒らし、南は曹操・過天星ら十営が漳・房・興遠の間に潜んでいた。
- 翌十三年(1640年)閏正月、良玉は諸軍を合わせて枸坪関で賊を撃ち、献忠は敗走した。良玉は漢陽・西郷から蜀に入って追うことを請うたが、嗣昌は陝西総督の鄭崇儉に賀人龍・李国安を率いさせて西郷から蜀に入らせ、良玉には興平に駐兵させて別に偏将を遣って追討させようと図った。良玉は従わなかった。
- 嗣昌が良玉に送った檄の趣旨は次のとおり。賊の勢いでは入川できそうにない、なお秦の境で走り死ぬだろう。将軍が漢陽・西郷から入川して、万一賊が旧路から平利へ急行し竹山・房県へ入ったら何で防ぐのか。さもなくば寧昌・帰州・巫山へ走って曹操と合流する。大将が尾行して賊を楚へ引き返させるのは得策ではない。
- 良玉の返答の趣旨は次のとおり。蜀の地は肥沃で、賊に険を渡らせて自在に走らせれば後から制しがたい。しかも賊は川に入れば頼るべき糧があり、鄖に戻れば掠めるべき地がないから、再び楚境へ逃げ込まないのは明らかだ。兵は合わせれば強く分ければ弱い。すでに劉国能・李万慶を留めて鄖を守らせており、さらに三千人を割いて入川させれば、興平に駐まっても兵力が薄く賊が来ても防げない。今は不意を突いて急襲し、一度大打撃を与えれば自然に瓦解する。たとえ房・竹の間へ引き返しても人跡が絶えており、どこで食を得られようか。まして鄖の兵が前を扼し、秦の巡撫が紫陽・興安にあって右を扼せば、思うようにはさせない。寧昌・帰・巫は険しくかつ遠く、曹操と献忠は互いに下らないから、窮して曹操に帰すれば必ず内輪で食い合い、その滅亡はたちどころに見えよう。
- 良玉はすでに二月一日に蜀の境の漁溪渡を渡っていた。嗣昌は力で制しきれぬと見、その策も理にかなっていたので従った。
- 献忠は太平県の大竹河に営し、良玉は漁溪渡に駐まった。まもなく総督の崇儉が兵を率いて合流した。賊は九滚坪へ軍を移し、瑪瑙山が峻険なのを見てそこに拠ろうとした。良玉が山下に着いたときには賊はすでに山頂を占めて高みから鬨の声を上げていた。良玉は馬を下りて久しく地形を見回し、「賊を破る手だてが分かった」と言い、登る道を三つに分けて自ら二つを担い秦兵に一つを担わせ、鼓の音を聞いたら登れと令した。両軍が挟み撃ちにしたが、賊陣は堅くて動かせない。長く激戦した末に賊は大崩れし、崖や谷へ墜ちた者は数知れず、四十里追撃した。良玉の兵は掃地王・曹威・白馬・鄧天王ら渠魁十六人を斬り、献忠の妻妾も捕らえた。献忠は興山・帰州の山中へ逃げ込み、まもなく塩井から興山・帰州の境へ逃れた。この戦役では良玉の功が第一で、事が聞こえて太子少保を加えられた。
- 四月、良玉は興安・平利の諸山に進み屯し、営を連ねること百里に及んだが、諸軍は山の険しさを憚って囲むだけで攻めなかった。久しくして献忠は興山・房県から白羊山へ走り、西へ向かって羅汝才と合流した。
- 七月、良玉は勝ちに乗じて過天星を撃って降した。過天星は名を惠登相といい、降ってからは終始良玉の部将となった。
嗣昌との不和と献忠の逸脱
- はじめ良玉は平賊将軍の印を受けてからしだいに驕り、督師の統制を受けようとしなかった。一方で賀人龍は屢々賊を破って功があったので、嗣昌はひそかに人龍に良玉の地位を代わらせると約束していた。ところが良玉が瑪瑙山の勝報を上げると、嗣昌は人龍に後の沙汰を待てと告げた。人龍は大いに恨み、先の約束をつぶさに良玉に告げたので、良玉も内心恨んだ。
- 献忠が敗走したとき、追いつかれそうになると、その一党の馬元利を遣り重宝を用いて良玉を誘って言わせた。献忠がいるからこそ公は重んじられている、公の部下は殺掠が多く、閣部は猜疑深くかつ専断だ、献忠がいなくなれば公の滅びも遠くない、と。良玉は心が動いて献忠を逃がした。
- 監軍の万元吉は良玉が跋扈して使えないと見て、嗣昌に前軍で賊を追わせ後軍を続かせ、自身は間道から梓潼へ出て帰州を扼して後続の軍を待つよう勧めたが、嗣昌は用いなかった。
- 賊が蜀の巴州に入ると、人龍の兵は騒いで西へ帰ってしまった。良玉の兵を召して合撃しようとしたが、九度檄を飛ばしても来なかった。
- 十四年(1641年)正月、諸軍が開県の黄陵城で賊を追った。参将の劉士杰が深く入って向かうところ敵なしだったが、献忠が高みに登って眺め、秦の兵の旗印がなく良玉の兵の前部にも闘志がなく、ただ士杰の孤軍だけだと見て取り、ひそかに壮士を選んで竹藪の谷を潜行させ、高みから大声を上げて駆け下らせた。良玉の兵が先に崩れ、総兵の猛如虎が囲みを破って出た。嗣昌は元吉の言を用いなかったことを悔いたが、献忠はすでに川を席巻して出、西は新開駅を断って楚と蜀の連絡を絶ち、ついに計略で襄陽城に入り込み、襄王が捕らえられた。嗣昌は食を断って死んだ。賊が瀕死のところを再び放たれ、ついに亡国に至ったのは、良玉が平素から驕り高ぶって命に従わなかったためである。
- 二月、詔で良玉は削職・戴罪とされ、賊を平らげて自ら償うよう命じられた。
- 五月、献忠が南陽を陥し、そのまま泌陽を攻めて破った。良玉が南陽に至ると賊は逃げ去った。良玉が士卒を取り締まらなかったので、泌陽の人で賊から逃れた者も官軍に遇えば生き残る者がなかった。
- のち献忠は鄖西を陥し、地を掠めて信陽に至り、勝ち続けて驕った。良玉は南陽から進軍して再び大破し、その部衆数万を降した。献忠は股に中って重傷を負い、夜に逃げた。
- このとき李自成はちょうど襄城を荒らし、偃城で良玉を囲んで危うく陥落させるところだった。陝西総督の汪喬年が関を出たので、自成は囲みを解いて喬年と襄陽城外で戦い、喬年の軍はことごとく覆されたが、良玉は救えなかった。
- 帝は賀人龍を斬って軍政を粛正した後、専ら良玉に頼って賊を処理させた。
朱仙鎮の大敗と武昌への転落
- 十五年(1642年)三月、自成が再び開封を囲んだ。そこでかつて良玉を薦めた元尚書の侯恂を獄から出して督師に起用し、帑金十五万を出して良玉の営の将士を犒って激励させた。良玉と虎大威・楊徳政が朱仙鎮に会した。賊の営は西、官軍の営は北にあった。良玉は賊勢の盛んなのを見て一夜のうちに営を抜いて逃げ、諸軍もそれを見てみな崩れた。自成は士卒に、良玉の兵が通り過ぎるのを待って後ろから撃てと命じていた。官軍は幸い追う者が緩やかだったので八十里疾駆したが、賊はすでにその前方に深さも幅も二尋の塹壕を穿って百里にわたり取り巻いていた。自成は自ら部衆を率いて後ろを遮った。良玉の兵は大混乱して馬を下りて溝を渡り、谷底に倒れ伏した者の上を踏んで越えた。賊がそれに乗じて蹂躙し、軍は大敗して馬・騾一万匹と数知れぬ武器を棄てた。良玉は襄陽へ走った。
- 帝は良玉の敗報を聞いて、恂に河を拒んで賊を図らせ、良玉には兵を率いて合流させようとしたが、良玉は自成を畏れて引き延ばして来なかった。
- 九月、開封は河の決壊によって滅んだ。帝は怒って恂を罷免したが、良玉を罪することはできなかった。
- 開封が失われて自成は得るものがなく、急ぎ兵を西へ引いて襄陽を抜き根拠地にしようと図った。当時良玉は樊城に塁を築いて戦艦を大量に造り、襄陽一郡の人を駆り出して軍を満たし、多くの降った賊が付き従って部衆は二十万に達した。しかし親軍・愛将は大半が死に、降人は統制に従わなかった。良玉自身もしだいに衰えて病がちとなり、もはや自成と競うことができなかった。
- 自成が勝ちに乗じて良玉を攻めた。良玉は南岸へ退いて水寨を結んで対峙し、一万人で浅瀬の中洲を扼したが、賊兵十万が争って渡るのを止められなかった。良玉は夜陰に紛れて逃げ、舟師を率い左に歩兵、右に騎兵を配して下り、武昌に至った。楚王に二十万人分の兵糧を乞い、自分は王のために領境を保つのだと言ったが、王は応じなかった。良玉は兵を放って大掠し、火の光が江を照らし、宗室・士民は山谷へ逃げ散って多くが土賊の害に遭った。駅伝道の王揚基は門を破って逃れたが、良玉の兵はその財貨と子女まで掠めた。十二月二十四日に武昌に至ってから十六年(1643年)正月半ばまで、兵はようやく去った。住民は蛇山に登って眺め、「左の兵が過ぎ去った」と生き返ったように叫び呼んだ。
- 良玉が東へ移った後、自成は承天を陥し傍らの諸州県を掠めた。当時、降兵や叛いた卒はみな左軍の号を騙って好き放題に掠奪した。蘄州の守将王允成が乱の首魁となり、建徳を破り池陽を劫し、蕪湖から四十里の三山・荻港に舟を泊め、漕船・塩船をことごとく奪って兵を載せ、諸将が南京に軍資を預けていると称して、腹心三千人を伴って行くことを請うた。南京の諸文武官と操江都御史が江上に軍を陳ねて防ぎ、士民は一夜に何度も移り、商旅は往来を絶った。
- 都御史の李邦華が召されて湖口を通る際、檄を草して良玉に危機を説いて動かし、安慶巡撫に九江の庫銀十五万両を出させて六月分の糧に補わせたので、軍心はようやく定まった。邦華は入見して良玉の潰兵の罪を論じ、罪を王允成に帰することを請うた。帝は良玉に允成を誅させ、変を鎮めた働きを奨めたが、良玉は結局允成を軍中に留めて誅さなかった。
- 良玉は長く安慶に留まり、ゆるゆると九江へ遡った。献忠が湖広を破って楚王を江に沈めたと聞いても座視して救わなかった。八月になってようやく武昌に入って軍府を立て、下流の勢力を招き寄せておおよそ安定させた。副将の呉学礼に袁州の救援を分命したが、江西巡撫の郭都賢はその淫掠を憎んで檄して帰らせ、自ら土地の者を募って守備させた。
- 賊が長沙・吉州・岳州を陥すと、良玉は馬進忠を遣って袁州を、馬士秀を遣って岳州を救わせた。士秀は水師を率いて岳州で賊を破り、二城ともに回復した。
- 帝が兵部侍郎の呂大器を侯恂に代えて総督とした。恂は解任され途中で逮えられて下獄した。良玉は自分のせいだと知って不満を抱き、大器と衝突した。賊が建昌の諸府を次々陥したが、大器は兵がなく救えず、良玉も援けなかった。進忠は嘉魚で賊と戦って重ねて敗れ、良玉の軍はついに振るわなくなった。
- 献忠が荊河から蜀に入ると、良玉は兵を遣って追わせ、荊州から七十里の地まで進んだ。荊・襄の諸賊は自成の入関でみな緩んでおり、良玉はそれを察知して副将の盧光祖を随州・棗陽・承徳へ上らせ、惠登相は均州・房県から、劉洪起は南陽から賊の背後を衝き、その空いた地を収めて自らの功とした。
寧南伯となり南都の屏蔽となる
- 十七年(1644年)正月、詔で良玉を寧南伯に封じ、その子の夢庚に平賊将軍の印を与え、功が成れば代々武昌を守らせることとし、給事中の左懋第に近道で赴いて督戦させた。良玉は日を追った進兵の状況を条陳して上奏したが、疏が届いて裁可を得ないうちに京師陥落を聞いた。
- 諸将は騒然として、江南で君を自ら立てようと兵を東下させることを請うたが、良玉は慟哭して誓って許さなかった。副将の士秀が奮い立って、公の命に従わず東下を言う者があれば自分が撃つと言い、巨艦に礮を据えて江を断ったので、衆はようやく落ち着いた。
- 福王が立つと良玉を侯に進め、一子に錦衣衛正千戸を廕せ、あわせて黄得功・髙傑・劉澤清・劉良佐を諸鎮に封じ、みな子に廕して世襲させ、上流の事は専ら良玉に委ねた。まもなく太子太傅を加えた。
- 李自成が関門で敗れると、良玉はその隙に楚の西境の荊州・徳安・承天をやや回復した。湖広巡撫の何騰蛟と総督の袁継咸が江西にいてともに良玉と親しく、南都は良玉を屏蔽として頼った。
- 良玉の兵は八十万、百万と号した。前の五営を親軍、後の五営を降軍とした。春秋ごとに武昌の諸山で調練し、一山ごとに一色の幟を立て、山谷を満たして軍とした。その法では二人で馬を挟んで馳せるのを「過対」といい、馬蹄が地を動かして雷のごとく数里に響いた。諸鎮の兵では髙傑が最も強かったが、良玉には遠く及ばなかった。しかし良玉は朱仙鎮の敗以来精鋭がほぼ尽き、その後帰属した者は多くが烏合の衆で、軍容は壮んでも法令はもはや威を及ぼさなかった。
- 良玉の家族は許州で皆殺しにされていた。武昌の諸営では遊女の歌舞が明け方まで続いたが、良玉はただ独り座して侍女も置かなかった。かつて夜に幕僚を宴し、営妓十余人を召して酒を行らせ、履が入り乱れたことがあったが、しばらくして左を顧みて咳払いすると順に引き出させ、賓客は粛然として左右も敢えて仰ぎ見なかった。統率に体があって部下に服されたのは、こうした類が多かったからである。しかしこのころ良玉はすでに老いて病み、中原を回復する気持ちはなかった。
挙兵と死
- 良玉の起用は侯恂によるもので、恂はもと東林の人であった。馬士英・阮大鋮が政権を握ると、東林が良玉を頼みにして事を起こすことを憂え、うわべは和を修めながら内心これを忌み、板磯城を築いて西方の防備とした。良玉は嘆じて、今西に何を防ぐのか、おそらく自分を防ぐのだろうと言った。
- 朝廷の事が日に日に悪くなり、監軍御史の黄澍が良玉の勢を頼んで面と向かって馬・阮を非難した。帰った後、緹騎を遣って澍を逮えさせたが、良玉は澍を留めて渡さなかった。澍と諸将は日々「君側を清める」ことを請うたが、良玉は躊躇して応じなかった。まもなく北から来た太子をめぐる事件が起こり、澍はこれを口実に衆を煽って自分の怨みを晴らそうとし、三十六営の大将を召して盟わせたので、良玉の叛意はついに定まった。
- 檄を伝えて馬士英を討つとし、漢口から蘄州まで舟を二百余里にわたって連ねた。良玉の病はすでに重かった。九江に至って総督の袁継咸を舟中に迎え、袖から密諭を出して皇太子から出たものだと言い、諸将を脅して盟わせた。継咸は正論で拒んだ。部将の郝効忠がひそかに城に入って火を放ち、城を荒らして去った。良玉は城中の火の光を望んで、自分は袁公に背いたと言い、血を数升吐いて、その夜に死んだ。順治二年(1645年)四月のことである。
- 諸将は秘して喪を発せず、共にその子の夢庚を推して留後とし、七日にして軍は東下した。朝命で黄得功に江を渡って防ぎ討たせた。はじめ夢庚は自ら立ちながら、偽って継咸に池州に至って裁可を待つと告げた。池州に着くと継咸はひそかに上奏しようとしたが、道が塞がって届かなかった。
- 惠登相はもと賊で、降って良玉の副将となっていた。諸軍が彭沢から下って建徳・東流を次々陥し安慶城を荒らしたが、池州だけは破らず、書を登相に贈って、ここは後続の軍のために残しておけと言った。登相は大いに罵り、それでは自分は以前流賊であった時にも及ばないではないか、亡き主帥の遺命をどうするのかと言い、檄してその軍を引き返させた。夢庚は黒旗の船が西へ上るのを見て、小舟を求めて追いついた。登相は会って大いに慟き、夢庚は仕えるに足りないとして兵を率い江を越えて去った。諸将はそこで軍を返すことを議した。
- 大清の兵はすでに泗州を下し儀真に迫っていた。夢庚はついに黄澍とともに部衆を率いて九江で降った。
鄧玘(附伝)――貴州・畿輔での戦功
- 鄧玘は四川の人。天啓初め(1621年ごろ)に従軍し、功を積んで守備を得た。安邦彦が反すると、玘は賊を織金に追い、勇は諸将に冠たるものだった。のち河のほとりで敗績し、魯欽が敗死した。賊が威清を犯すと、玘は夜に営を襲って賊を走らせ、都司僉書に進んだ。討って苗の酋長の李阿二を破った。貴州の用兵では裨将の楊明楷・劉志敏・張雲鵬がみな驍勇だったが大将にはなれず、ただ玘だけが功名で聞こえた。
- 崇禎の初め、屢々遷って四川副総兵となり、侯良柱とともに安邦彦を斬った。京師に警があると六千人を率いて勤王し、共に遵化・永平など四城を回復し、署都督僉事を加えられ千戸を世々廕された。まもなく総兵官に抜擢され遵化を鎮守し、喜峰口および洪山に戦っていずれも功があり、進秩して実授となった。
- 五年(1632年)春、叛将が登州・萊州を乱した。王洪らが功を挙げられず、玘が自ら出征を請うたので援剿総督官に命じられ、洪および劉国柱とともに沙河で賊を防いだ。戦は互角だったが、のち味方が逃げ出し賊がそれに乗じて大敗した。まもなく諸将の金国奇らとともに登州・萊州の二城を回復し、功を録して署都督同知に進んだ。
- 玘は遵化に長く駐屯して帰郷を思い、登・萊の事が終わってまた願い出た。折しも賊が河北に入り、言者が玘に討たせるよう請うたので、玘は不満のまま出征した。給事中の范淑泰が玘の民を虐げる行いを弾劾したが帝は問わず、まもなく近侍を遣ってその軍を監させた。
- 玘は済源に至り、善陽で王自用を射殺した。賊のいわゆる紫金梁である。ほどなく逃げる賊が礘川に迫るのを彭城鎮で防ぎ、左良玉とともに清池・柳荘で賊を撃った。賊は林県へ走った。玘の部将の楊遇春が賊を迎え撃って伏兵に遭って死に、賊はその旗を用いて他の将も誘い殺した。これ以降、賊は玘を軽んじた。
- ほどなく良玉とともに沙河で賊を追った。賊が湯陰を囲み、玘は土樵窩で囲まれたが良玉が救って免れた。のち共に官村・沁河・清池・万善で賊を破り、軍を畿南に移して白草関で賊を破った。賊が平山を犯すと紅子店・馬種川で破り、賊が青石嶺へ逃げると紅澗村・酔漢口で破り、賊が臨城を犯すと魚桂嶺で破った。
- 当時、賊は河朔から畿南に蔓延し、天子は特に倪寵・王樸を遣って京軍を率いさせ、保定の梁甫、河南の左良玉・湯九州が玘の軍と合わされば賊の群れを殲滅するに足りた。しかし帥どうしが勢力を張り合って互いに様子を窺い、山が深く道が分かれていることを口実にして自ら逃れ、先に突入するのを利とする者がなかったので、賊はついに澠池から南へ渡った。また諸帥にはそれぞれ近侍が中軍にいて事を取り繕いやすく、報じた功の多くは事実に基づかなかった。
- 十一月、賊が南へ逃げると、玘は追って澠池・扣子山で破り、宜陽・盧氏まで至って還った。この月、玘を保定総兵官として梁甫に代えた。
- 七年(1634年)正月、賊がことごとく鄖・襄に入ったので玘に援剿を命じ、南漳の囲みを解かせた。まもなく胡地沖で賊を破り、闖天王・九条龍・草上飛・抓山虎・双翼虎を斬った。房県・竹山・南漳の賊を討ち、獅子崖・石漳山に戦って一隻虎・満天飛を斬った。のち洵陽の乜家溝で賊を撃ち、連戦してみな勝ち、首功一千有余を挙げた。八月、五峰山で賊を破った功を叙して右都督に進んだ。
- 玘は軍を統御するのが下手で軍心も懐かず、鄖西で騒擾が起こった。玘は河を渡って避け、総督の陳竒瑜が犒って慰めてようやく収まった。竒瑜が諸将を集めて竹山・竹溪の諸賊を討つと、玘はしきりに功を立てた。
- 十一月、賊が大挙して河南に入ったので玘に援剿を命じた。八年(1635年)春、賊が新蔡を陥し、知県の王信が賊を罵って死んだ。玘は羅山で賊を追って破った。このとき賊が鳳陽を陥したので、玘に黄州から速やかに安慶を救うよう命じたが、桐城が囲まれても玘はついに来なかった。御史の銭守廉が、玘は羅山の討賊で良民を殺して功を偽ったと弾劾し、総督の洪承疇に調べさせた。
- 四月、承疇が汝州に至り、玘に樊城を守って漢江を防がせた。この月、部将の王允成が兵糧の中抜きを理由に騒ぎ立て、玘の僕二人を殺した。玘は懼れて楼に登り牆を越えて地に墜ちて死んだ。
- 玘は小校から身を起こして大小数百戦、向かうところ勝ち続けたが、長く守備に就いて不満を抱き、部下の淫掠を放任した。大学士の王応熊が同郷のよしみで庇ったので、玘はますます憚るところがなかった。その死は罰を免れたものだと人は言った。
賀人龍(附伝)――陝西・山西での討賊
- 賀人龍は米脂の人。はじめ守備として延綏巡撫の洪承疇の麾下に属した。崇禎四年(1631年)、承疇が賊の降を受け入れたとき、人龍に酒でねぎらわせて伏兵で撃たせ、三百二十人を斬った。その冬、張福臻が承疇に代わり、人龍を遣って賊の党雄を討たせ、斬獲二百有余。
- 翌年(五年、1632年)夏、福臻に従って賊の孫守法を捕らえた。その秋、部下を率いて山西を援け討った。
- 六年(1633年)春、総兵の尤世禄とともに遼州を回復した。のち垣曲・絳県で賊を破り、都司僉書に進んだ。また水頭鎮・花池塞・湯湖村で賊を連破した。山西の賊がほぼ尽きたので陝西に還り、巡撫の陳竒瑜に従って延川の賊を討ち平らげ、捕虜と斬首は一千有余。竒瑜が総督に抜擢されると人龍を自らの手元に随わせた。
- 七年(1634年)四月、隰州で賊を撃って剋天虎を捕らえ、参将に進んだ。竒瑜が鄖・襄・興安・漢中に賊を追った際も人龍はともに功があった。賊が車箱峡を抜け出して隴州を陥し西へ去ると、竒瑜は人龍を遣って救わせたが、隴州に入ったばかりのところへ李自成がまた至って取り囲んだ。人龍と同郷であるため、自成はその将の髙傑を遣って書を送り叛かせようとしたが、人龍は返事もせず二か月固守し、左光先の救援が至ってようやく囲みが解けた。
- 十二月、中荘で賊を破った。翌年(八年、1635年)正月、鳳陽が陥ちたので総督の洪承疇が人龍を遣って急ぎ救援させ、雎州で賊を破って副総兵に進んだ。承疇は陝西が急だったので人龍を率いて関に入った。商洛の賊の馬光玉らが西安に迫り大軍まで五十里に至った。承疇は人龍に子午谷へ入って賊の南を迎え撃たせ、別将の劉成功・王永祥に賊の北を迎え撃たせ、張全昌に咸陽から興平の東へ回らせた。賊はそのため南へ逃げられず、ことごとく武功・扶風へ走り、さらに渭を渡って郿県へ走った。承疇が王渠鎮まで追い、賊がちょうど南山を掠めていたところを人龍・成功らが戦って三十里追撃し、大泥峪に至ると賊は馬を棄てて山に登って逃げた。
- 七月、髙迎祥・張献忠が秦安・清水を掠めたので、人龍は全昌とともに張家川で破った。のち失利し、都司の田応龍らが死んだ。
- 八月、髙傑が降ったので、承疇は人龍と遊撃の孫守法にこれを伴わせて富平へ向かわせ、夜に乗じて賊を撃ち破った。人龍はまもなく延綏の守りに移った。
- 九年(1636年)七月、巡撫の孫伝庭に従って盩厔で賊を大破し、迎祥を捕らえた。九月、惠登相らが宝鶏に屯し、承疇が人龍らを遣って撃たせ、賈家村で戦って追撃したが賊に断ち切られ、四川の将の曽栄耀らが救援に来たものの敗れて去った。人龍は連座して官を剥奪され、功を立てて償うこととされた。
- 十年(1637年)、小紅狼が漢中を囲んで瑞王が急を告げた。承疇が人龍の兵を率いて両当から救援に向かうと、賊は囲みを解いて去った。詔で人龍の官が復された。徽州・秦州から逃れた賊が東へ平涼・鳳翔に向かい、人龍が追って栁林に至ったが不利だった。賊が西安を窺うと人龍が防いで斬獲が多かった。
- その冬、自成・登相が四川に入ったので、承疇が人龍らを率いて救援に向かい、年の暮れに広元に至ったが賊はすでに成都に迫っていた。自成は別に松潘から陝西西部へ還った。
- 十一年(1638年)、承疇が人龍らを督して階州・文県から追い詰めた。自成は西羌の境へ走り込み、人龍は曹変蛟らと二十七日にわたって大戦した。自成は残った兵を率いて塞に入り山中へ逃げ、四川へ入ろうと図ったが人龍と馬科に追われ、漢中へ突入したものの左光先に扼された。その一党の祁総管が降り、自成はほとんど滅ぶところだった。詳しくは変蛟伝にある。
- その冬、京師が戒厳となり、人龍を総兵官に抜擢して軍を率いて入衛させた。人龍の部下は降った賊が多く、山西に至って騒いだが、まもなく鎮撫した。京に至って変蛟らとともに太平で勝報を上げた。翌年、事が定まって陝西に還った。
- その秋、張献忠・羅汝才が叛いて陝西に入ろうと図った。人龍と副将の李国竒らが興安で扼したので、賊は川東に入った。楊嗣昌が陝西総督の鄭崇儉に檄して人龍・国竒の軍を率いて会同して討たせた。十二月、人龍が賊を撃って大敗させた。
- 十三年(1640年)二月、左良玉とともに瑪瑙山で賊を大破した。人龍は一千三百余級を得、賊将二十五人を降した。
- 六月、汝才・登相が開県を犯した。総兵の鄭嘉棟が仙寺嶺で撃ち、人龍が馬弱溪で撃って、合わせて斬首一千二百。汝才・登相は東西に走り、追ったが及ばなかった。
- このとき賊がことごとく四川に集まり、監軍の万元吉が四川の将に巴州・巫山の諸隘を守らせ、人龍・国竒および楚の将の張応元・汪雲龍・張奏凱が専ら追撃を担った。応元の軍が夔州に入って土地嶺に営したとき、人龍が居座って来なかったので、諸軍はついに大敗し、人龍はそのまま陝西に還った。
- のち献忠・汝才が剣州を陥して広元へ向かい、間道から漢中に入ろうとしたので、人龍が陽平・百丈の二関で防ぎ、賊は退いた。
- 十二月、嗣昌が重慶に至り三度も人龍に会師を檄したが来なかった。はじめ嗣昌は左良玉を憎んで人龍に平賊将軍を代わることを許したが、瑪瑙山の戦いで良玉の功が第一となり、嗣昌は人龍にしばらく待てと言った。人龍は大いに失望し、良玉のやり方に倣って統制に従わず、嗣昌も制することができなかった。賊が瀘州を陥して北上したとき、人龍は小市廂に屯し、一筋の水を隔てたまま撃たなかったので、賊はついに成都を越えて漢川・徳陽へ走り、人龍の軍は大いに騒いで帰った。
- 十四年(1641年)三月、嗣昌が卒して丁啓睿が代わり、人龍・国奇に当陽へ出させ霊宝山中で自成を撃ち破らせた。人龍の子の大明が戦死した。
- 九月、総督の傅宗龍が人龍・国竒の軍を統べて関を出、新蔡に宿営して孟家荘で賊に遇った。戦おうとすると人龍が先に逃げ、国竒も戦って勝てずやはり逃げ、宗龍はついに戦死した。
- 十五年(1642年)正月、総督の汪喬年が関を出て賊を撃った。人龍および鄭嘉棟・牛成虎が従って襄城に至り賊に遇ったが、また戦わずに逃げ、喬年も戦死した。帝は大いに怒って誅そうとしたが、変を起こすことを恐れ、ひとまず職を奪って戴罪のまま職務に当たらせた。
- 孫伝庭が陝西を督師するに及んで、帝はその意を授けた。人龍は咸陽に駐まって禍を恐れ、日夜備えていた。伝庭は、人龍の家が米脂にあってその一族の多くが賊の中にいるので軽々に事を起こすべきでないと考え、道中で偽って上疏し、人龍は臣の旧将であるからその罪を赦して臣に従って働かせたいと言い、帝も偽って許した。人龍はやや安心した。伝庭は陝西に至るとひそかに巡撫の張爾忠と謀り、五月一日に人龍を召して軍議と称し、その罪を数え上げて斬った。
- その部将の周国卿が精兵二百人を率い、同志の魏大亨・賀国賢・髙進庫らとともに涇陽へ逃げ帰って妻子を取り、賊とともに乱を起こそうとした。爾忠は参将の孫守法を遣って先に涇陽に入らせその妻子を人質にとった。国卿は窮して大亨らを斬って降ろうと図ったが、爾忠がひそかにそれを漏らしたので、大亨がかえって国卿を斬ってその首を箱に納めて送った。他の部将の髙傑・髙汝利・賀勇・董学礼ら十四人はみな元の官のままとされ、一軍はようやく落ち着いた。