中原の賊討伐
- 劉肇基は字を鼎維といい、遼東の人。世職の指揮僉事を継ぎ、都司僉書に遷って山海總兵官尤世威の麾下に属した。
- 崇禎七年、世威に従って宣府を援け、また中原の賊討伐に従い、遊擊に進んで雒南・蘭草川を守った。翌年、賊に遭って戦い敗れ、臂を傷つけた。
- まもなく世威が罷免され、肇基は遊擊羅岱とともにその兵を分け将い、祖寛とともに賊を汝州で大破し、首級一千六百餘級を斬った。
- のち寛に従ってしばしば功があったが、その部下はみな辺軍で長く戍って帰郷を思っており、寛の軍とともに騒いで逃げ去った。總理盧象昇はこれを秦に入らせた。その秋、畿輔に警報があってようやく山海に帰ったが、結局さきの罪で職を解かれ、従征して自ら償うよう命じられた。
- ほどなく永平を固守した功で復職し、たびたび遷って遼東副總兵となった。
松山・杏山の戦い
- 十二年冬、薊遼總督洪承疇が署總兵官に用いて寧逺の諸営の兵を分けて練らせるよう請うたが、兵部尚書傅宗龍がやや異を唱えた。帝は怒って宗龍を獄に下し、肇基を都督僉事に抜擢してその任に就けた。
- 翌年三月、錦州に警報があり、承疇は呉三桂に肇基を伴って松山へ赴き声援させた。三桂が松山・杏山の間で苦境に陥ると、肇基が救い出したが、士卒千人を失った。
- 七月、曹變蛟らとともに黄土臺および松山・杏山に戦った。九月、ふたたび杏山に戦ったが肇基の軍はやや退いた。承疇は諸將を選別して肇基の職を解き、王廷臣に代えた。
揚州の死
- 十七年(1644年)春、都督同知を加えられ南京大教場を提督した。福王が立ち、史可法が淮揚に督師すると、肇基は従征して自ら償うことを請い、たびたび左都督・太子太保を加えられた。
- 可法が諸將の分布を議し、李成棟・賀大成・王之綱・李本身・胡茂楨を總兵官に薦めた。成棟は徐州に、大成は揚州に、之綱は開封に鎮し、本身と茂楨は高傑の麾下に属して前鋒となった。肇基は高家集に駐屯させ、李棲鳯は雎寧に駐屯して河を防がせた。棲鳯はもと甘肅總兵で、その地が失われたため淮揚の間に留まっていたのである。閣標の前鋒には張天禄を用いて瓜洲に駐屯させた。
- 十一月、肇基と棲鳯は可法の命で宿遷を取ることを謀り、八日に渡河してその城を回復した。数日後、大清兵が邳州を囲み、城の北に軍し、肇基は城の南に軍して半月相持したが、大清兵は引き揚げた。
- 順治二年(1645年)三月、大清兵が揚州に至った。可法は諸將に救援に赴くよう招いたが、ひとり肇基だけが白洋河から駆けつけ、高郵を通っても妻子に会わなかった。城に入ると、大清兵がまだ集結しないうちに城を背にして一戦することを請うたが、可法は慎重を保った。肇基は北門を分け守り、砲を放って囲む者を傷つけた。
- やがて城が破れると、部下四百人を率いて市街戦を行い、数百人を斬り殺した。後続の騎兵がいよいよ多くなって支えきれず、一軍はことごとく戦死した。副將乙邦才・馬應魁・荘子固らもみなともに死んだ。
乙邦才
- 乙邦才は青州の人。崇禎年間、隊長として河南・江北の間で賊を撃った。大將黄得功が賊と霍山で戦い、単騎で賊を追って泥沼に陥り、賊は囲んで射て馬を斃した。得功は徒歩で戦い、日が暮れようとするころには矢はわずか二本しか残っていなかった。邦才は大声で叫んで賊に突っ込み、得功のもとへ走って自分の馬を与え、矢を分け与え、走りながら射て追撃の騎兵十餘人を斃し、ようやくその軍に達することができた。得功はこれ以来邦才を知った。
- 当時、張衡という者もまた驍勇果敢で名があった。賊が六安を囲んで急となり、總督馬士英が救いに向かった。着くとすぐにその左右の副將を斥け、軍中に号して「誰が乙邦才と張衡か」と問うた。二人が入って謁すると、ただちに牒を出して副將に補し、その兵を授けて「私のために六安に入り、知州の証状を取って報せよ」と言った。
- 二人は出ると精騎二百を選び、夜に賊の陣に突入して城を巡り、大声で「大軍が到着した。固く守って怠るな」と叫んだ。城中の者は喜んで守りを堅くした。二人は知州を促して証状に署させ、ふたたび囲みを破って出て、一騎も損じなかった。
- 当時、潁・夀・六安・霍山の諸州縣はしばしば寇に遭ったが、邦才は大小十餘度の戦いでみな功があった。可法が揚州に鎮すると連れて行き、このとき戦い敗れて自刎して死んだ。
馬應魁
- 馬應魁は字を守卿といい、貴池の人。はじめ小將として家丁五十人を率いて村落の間を巡っていたとき、突然賊の大軍に遭い、みな懼れて逃げようとした。應魁は大声で「恐れるな。死ぬのは天命だ」と言い、続けて二矢を放って賊二人を斃すと、賊はすぐに退いた。
- 可法はこれによって副總兵に抜擢し、旗鼓を領させた。戦うたびに白い甲をまとい、背に「盡忠報國」の四字を大書した。このとき市街戦に死んだ。
荘子固と揚州殉難の諸将
- 荘子固は字を憲伯といい、遼東の人。十三歳で人を殺して亡命し、のち従軍して功があり、官を積んで參將に至った。
- かつて山西總兵許定國に従って開封を救ったとき、軍が途中で騒いで帰り、定國は罪を得た。子固は残った衆をまとめて処罰の議を免れた。のち可法が出鎮すると副總兵に用い、徐州・歸徳の間で屯田を興させた。子固は壮士七百人を募り、「赤心報國」を合言葉とした。
- 揚州が包囲されたと聞いて衆を率いて救援に馳せ、三日で到着した。城が破れようとしたとき可法を擁して城を出ようとし、大清兵に遭って格闘して死んだ。
- そのほか、副將樓挺・江雲龍・李豫、參將陶國祚・許謹・馮國用・陳光玉・李隆・徐純仁、遊擊李大忠・孫開忠、都司姚懐龍・解學曽ら十餘人が、みな市街戦で死んだ。
史論
- 贊に曰く。金國鳯の守りの巧みさ、曹變蛟の戦いの力強さは、いずれも良將の器に恥じない。しかし肇基が辺境の一隅で命を捧げ、孤忠をいよいよ励ましても、時運が移り事勢が変わっていて、功を立てるのは難しく敗れるのは易く、ついには謀も勇もともに尽きて身を殉じた。思うに天命に帰するところがあり、誰かがそうさせたのではなく、おのずとそうなったのである。