明史卷二百七十二 列傳第一百六十 曹變蛟

曹變蛟(?–1642年)。曹文詔の甥で、幼くして叔父に従い軍功を積んだ。驍勇は諸軍に冠たるもので、賊のあいだでは「大小の曹将軍」と恐れられた。文詔の戦死後は敗残兵を収めて一軍を成し、洪承疇の麾下で高迎祥・李自成らを陝西各地に追い、潼關の南原では伏兵をもって自成を大敗させて妻子を失わせ、左都督に進んだ。のち東協總兵官として遼東に転じ、松山の戦いで諸鎮の総兵が相次いで遁走するなか承疇とともに城に拠って半年守り抜いたが、副將夏成徳の内応で城が陥ち、捕えられて殺された。榮禄大夫・太子少保を贈られた。

年表(19件)
  • 崇禎五年紅軍友らを張麻村・隴安・水落城・唐毛山で連破し、御史呉甡の推薦で參將に進む
  • 崇禎七年七月廣武で大清兵に遭って戦功をあげ、その冬に病で帰る
  • 崇禎四年1631年叔父の曹文詔に従って河曲の回復に加わる
  • 崇禎八年再起した文詔に従い金嶺川・湫頭鎮に戦い、文詔の戦死後に副總兵となる
  • 崇禎八年高迎祥を鳳翔の官亭で破って七百餘級を斬り、乾州でも敗走させる
  • 崇禎九年闖將を澄城で破り、秋には混天星らを蒲城・平涼で撃破する
  • 崇禎十年正月叛いた許忠と混十萬の西安襲撃を、西から急ぎ戻って退ける
  • 崇禎十年四月十五日郭家壩で賊に遭い、大雨のなか力戦するが糧が尽きて引き揚げる
  • 崇禎十年都督僉事に抜擢されて臨洮總兵官となる
  • 崇禎十年十月蜀に侵入した賊を追って廣元に至り、返して五百餘級を斬る
  • 崇禎十一年四月三か月の平賊期限を過ぎたとして五官を削られ、罪を戴いて賊を討つ
  • 崇禎十一年潼關南原の三重の伏で李自成を大敗させ、關中平賊の功で左都督に進む
  • 崇禎十一年十一月京師戒厳により洪承疇に従って入衛する
  • 崇禎十二年二月近畿に至り、渾河・太平砦に戦ったのち遵化に留屯する
  • 崇禎十四年三月八人の大將・兵十三萬・馬四萬が寧逺に集結し、錦州救援に向かう
  • 崇禎十四年八月王樸ら諸鎮が相次いで遁走し、王廷臣とともに松山へ馳せて固守する
  • 崇禎十三年五月1640年錦州の急を受け、承疇に従って関を出て寧逺に駐屯する
  • 崇禎十四年九月城中の馬歩兵を出して囲みを突こうとするが敗れ、以後半年守り続ける
  • 崇禎十五年二月副將夏成徳の内応で松山が破れ、捕えられて殺される

曹文詔に従っての戦功

  • 曹變蛟は曹文詔の甥である。幼くして文詔に従い、軍功を積んで遊擊に至った。
  • 崇禎四年(1631年)、河曲の回復に従った。翌年、賊の紅軍友らを張麻村・隴安・水落城・唐毛山で連破し、また劉道江らを銅川橋で破って、勇は諸軍に冠たるものであった。御史呉甡の推薦で參將に進んだ。
  • 文詔が山西に移ると變蛟は従って戦い、そのつど勝った。文詔が大同に鎮を改めると、山西巡撫許鼎臣は「晋の賊は紫金梁が死んだとはいえ、老回回・過天星・大天王・蝎子塊・闖塌天の諸魁がまだ滅びていない。變蛟は驍勇が人に絶し、麾下の健児は千百人、才は文詔に次ぐ」と言い、山西に留めるよう乞い、聴き入れられた。
  • 七年、群賊が湖廣に入ると變蛟に南征を命じたが、文詔が大同で窮した(底本は「团」に作る。「困」の誤りか)ので、また北へ援けるよう命じた。七月、廣武で大清兵に遭って戦功があった。その冬、文詔が失態を犯して戍罪を論じられ、變蛟も病で帰った。

陝西での賊討伐

  • 翌年、文詔がふたたび起用されて陝西の賊を討つと、變蛟はもとの官のまま従い、金嶺川で大捷し、真寧の湫頭鎮で激戦し、いずれも軍の先鋒となった。文詔が戦死すると、變蛟は敗残兵を収めてふたたび一軍を成した。
  • 總督洪承疇が薦めて副總兵とし麾下に置いた。高傑とともに賊を關山鎮で破り、三十餘里も追撃した。また副將尤翟文・遊擊孫守法とともに闖王高迎祥を追い、鳳翔の官亭で戦って首級七百餘級を斬った。また總兵左光先とともに迎祥を乾州で敗り、迎祥は矢に当たって逃げ、首級三百五十餘級を斬った。
  • やがて寧祥(迎祥の誤りか)が華隂の南原から大嶺を越え、夜に朱陽關を出た。光先は戦って利あらず、變蛟が陣に突入したおかげで無事を得た。
  • 九年、闖將を澄城で破り、光先らとともに靖虜衛まで追い、安定・會寧に転戦し、静寧・固寧に至って賊はしばしば挫かれた。その秋、混天星らを追って蒲城で破り、賊が西の平涼・鞏昌へ走ると、またこれを撃破した。
  • 十年正月、巡撫孫傳庭の部下の兵である許忠が叛き、賊の混十萬と結んで西安を犯そうと謀った。變蛟はちょうど西で過天星を追っていたが、乱を聞いて急ぎ戻り、賊は逃げ去った。
  • 傳庭がすでに迎祥を誅していたので、その一党の闖將・混天星・過天星は洮・岷・階・文の深谷の間に拠った。承疇は變蛟・光先および祖大弼・孫顯祖を遣わして合撃させた。四月十五日に山に入り、郭家壩で賊に遭遇し、大雨の中で諸將が力戦し、賊の死傷は数知れなかったが、食糧が尽きて引き揚げた。九月、階州が陥ちて、光先とともに俸を停められた。まもなく都督僉事に抜擢されて臨洮總兵官となった。

四川侵入と期限内平定の失敗

  • 当時、承疇と傳庭はともに賊を滅ぼすと誓い、傳庭は東で、承疇は西で戦った。東の賊はほぼ尽きたが、西にいた賊はまた階州・成県から西和・禮縣に出た。光先も顯祖も功がなく、ひとり變蛟だけが小紅狼を降し、残る賊は徽州・兩當・成鳯の間に逃げ込んで大きく暴れることができなかった。
  • 十月、賊は蜀中が手薄なのを窺って寧羌州を陥れ、三道に分かれて三十餘州縣を次々に陥れた。承疇は變蛟らを率いて沔縣から寧羌を経て七盤・朝天の二関を過ぎたが、山は高く道は狭く、士も馬も飢え疲れ、年の暮れに廣元に至ったときには賊はすでに秦へ戻っていた。變蛟らは軍を返して迎え撃ち、首級五百餘級を斬った。
  • 当時、兵部尚書楊嗣昌が四正六隅の説を創始し、三か月を限って賊を平らげるとしていた。十一年四月、賊を滅ぼす期限を過ぎたとして一律に降罰が議され、變蛟と光先はともに五官を削られ、罪を戴いて賊を討つこととされた。

潼関南原の勝利

  • 賊がふたたび秦に入ったとき、その首魁で六隊と号する者が、大天王・混天王・爭管王の三部とともに営を連ねて東を犯した。混天星・過天星の二部はなお階・文に潜み、ひとり闖將李自成だけが三月に洮州から番地へ出た。承疇は變蛟に賀人龍とともに追わせ、連戦して首級六千七百餘級を斬った。番地には食糧が乏しく賊は多く死亡した。變蛟は千里を転戦し、二十七昼夜も甲を解かなかった。残る賊は潰えて塞内に入った。祖大弼は洮州に駐屯していたが力を入れて防がなかったので、賊は岷州および西和・禮縣の山中へ逃げ込んだ。變蛟が引き返して討つと、賊は伏し隠れて出られなくなり、ただ六隊だけが勢いを張っていた。
  • 六月、光先が固原から進兵したときには賊はすでに隴州・清水へ奔っていた。光先が秦州まで追うと、六隊および爭管王はまた成縣・階州へ走ったが、變蛟に扼された。その別部で三隊と号する者および仁義王・混天王は光先に降った。
  • 自成の六隊とその党の祁總管は秦兵を避けてふたたび蜀を犯そうと謀ったが、副將馬科・賀人龍に拒まれ、階・文および西鄉へ戻ろうとしたが變蛟を憚って漢中へ走り、また光先に扼された。六隊も祁總管もみな降り、ただ自成だけが東へ遁れた。
  • 承疇は變蛟に追撃を尽くさせ、潼關の南原に三重の伏を設けた。變蛟が追いつき、大声で叫んで賊を斬ると伏兵がいっせいに起こり、賊の屍は折り重なり、村民は大棒で逃げる者を打った。自成は妻子を失い、七騎を従えて遁れ去り、残りはみな降った。
  • このころ曹の兵は最も強く、各鎮はこれを頼みとした。關中の平賊の功を録して、變蛟は左都督に進んだ。

京師入衛と東協総兵

  • 十一月、京師が戒厳となり、承疇が入衛に召され、變蛟と光先が従った。翌年二月に近畿に至り、帝は使者を遣わして迎え労い、將士にそれぞれ賜与があった。
  • まもなく渾河に戦って功なく、再び太平砦の北に戦って小さな捕獲があった。戒厳が解けると遵化に留屯した。麾下はみな秦の兵で帰郷を思って逃亡する者が多かったので、追って斬り、ようやく収まった。
  • 当時、張獻忠・羅汝才は降ってからまた叛き、陝西でふたたび兵を用いることとなった。總督鄭崇儉は變蛟の兵を西へ帰すよう乞うたが、帝は許さず、まもなく東協總兵官に用いた。

松山の戦い

  • 十三年(1640年)五月、錦州が急を告げ、總督承疇に従って関を出て寧逺に駐屯した。七月、援𠞰總兵左光先・山海總兵馬科・寧逺總兵呉三桂・遼東總兵劉肇基とともに、黄土臺および松山・杏山で大清兵に遭い、互いに殺傷があった。
  • 大清兵が退いて義州に屯すると、承疇は變蛟・光先・馬科の兵を関内に入れて鋭気を養わせ、三桂と肇基を松山・杏山の間に留めて進兵の様子を装わせることを議し、また肇基の任を解いて王廷臣に代えること、光先を西へ帰して白廣恩に代えることを請うた。部議はいずれもこれに従い、あわせて近傍の辺軍を調え、関の内外の在兵と合わせて十五萬人で戦守に備えることを請うた。
  • 承疇の言により、軍が動けば糧もそれに従うべきで、必ず秣と糧が一年を支えるだけあってはじめて増兵を議せるとされ、帝はこれを是として、担当官に速やかに手配するよう敕した。宣府總兵楊國柱・大同總兵王樸・宻雲總兵唐通にそれぞれ精兵を選んで救援に赴かせた。
  • 十四年三月、變蛟・馬科・廣恩が前後して関を出、三桂・廷臣と合わせて計八人の大將、兵十三萬、馬四萬がそろって寧逺に駐した。承疇は慎重を主としたが、朝議は兵が多く餉が乏しいとして、職方郎張若麒が戦いを促した。承疇は祖大夀が長く包囲されているのを思い、急ぎ錦州を救うことを議した。
  • 七月二十八日、諸軍は松山の営の西北の岡に宿営し、数度戦ったが包囲は解けなかった。八月、國柱が戦死し、山西總兵李輔明が代わった。承疇は變蛟に松山の北、乳峰山の西の両山の間に営させ、七つの営を並べて長い塹壕をめぐらせた。
  • ほどなく我が太宗文皇帝が親臨して陣を督されると聞き、諸將は大いに懼れた。出戦して連敗し、餉道もまた絶たれた。王樸がまず夜に遁れ、唐通・馬科・三桂・廣恩・輔明が相次いで走った。杏山から南へ、海沿いに東の塔山まで、大清兵に迎え撃たれて海に溺れ死んだ者は数知れなかった。
  • 變蛟と廷臣は敗報を聞いて松山に馳せ至り、承疇とともに固守した。三桂と樸は杏山に奔って拠ったが、数日後に寧逺へ帰ろうとして高橋で伏兵に遭って大敗し、かろうじて身一つで免れた。前後に失った士卒は五萬三千七百餘人であった。これより錦州の包囲はいよいよ急となり、松山も包囲を受け、応援はともに絶えた。

松山陥落と死

  • 九月、承疇・變蛟らは城中の馬歩兵をことごとく出して囲みを突いて出ようとしたが、敗れて戻り、半年守り続けた。
  • 翌年二月、副將夏成徳が内応し、松山はついに破れた。承疇・變蛟・廷臣および巡撫邱民仰・故總兵祖大樂・兵備道張斗・姚恭・王之楨・副將江翥・饒勲・朱文徳・參將以下百餘人がみな捕らえられて殺され、ただ承疇と大樂だけが免れた。
  • 朱文徳は義州衛の人で、のちに錦州に家した。崇禎のとき功を積んで松山副將に至ったが、監視中官高起潜に逆らって陥れられ罷免された。十一年にもとの官で起用され、城が包囲されると前鋒を率いて力を尽くして守り、城が破れてついに死んだ。
  • 三月、大夀はついに錦州をもって降り、杏山・塔山が続けて失われ、京師は大いに震えた。詔により諸臣に祭塟を賜り、有司が祠を建てた。變蛟の妻の高氏が贈廕を請い、そこで榮禄大夫・太子少保を贈り、錦衣指揮僉事を世廕した。

王樸ら諸将の処断

  • 法司が王樸の罪を会同で鞫問した。御史郝晉は「六鎮の罪は同じでみな死に当たる。三桂は実に遼左の主將でありながら戦わずに逃げた。なぜかえって提督を加えるのか」と言った。
  • 兵部尚書陳新甲は覆議して、ひとり樸のみを斬り、馬科には軍令状を出させて再び機を失えば即座に斬決とし、三桂は失地により斬に当たるが寧逺を守った功を思い、輔明・廣恩・唐通とともにみな官秩を貶して為事官に充てるよう請うた。
  • 輔明は遼東の人。累進して副總兵となった。崇禎八年、祖寛に従って賊を撃ち、嵩縣・汝州・確山で連続して追い詰めた。翌年、賊を滁州で追い破り、功を叙して都督僉事を加えられた。十二年、山西總兵官に抜擢されたが弾劾されて罷免された。翌年、承疇に従って関を出、國柱に代えられたがついに敗れた。十六年に援𠞰總兵となった。
  • その冬、大清兵が寧逺に迫ると輔明は馳せ援け、軍は敗れたがなお力戦して陣没した。事が奏聞され、特進榮禄大夫(底本は「大犬」に作る)・左都督を贈り、錦衣副千戸を世廕し、祭塟を賜り、前屯に壇を列ねて祀った。
  • 樸は榆林衛の人。父の威は左都督に官し、九たび將印を佩び、提督・鎮守となること五十年であった。兄の世欽は郷里にあって難に殉じ、尤世威の傳の中に見える。樸は父の廕により累遷して京營副將となった。崇禎六年、賊が畿南を蹂躙すると、樸と倪寵を總兵官として京軍六千を率いさせ、中官楊應朝・盧九徳に監させた。しばしば斬獲の功があり、右都督に進んだ。翌年、曹文詔に代わって大同に鎮し、左都督に進んだ。九年秋、都城が戒厳となり、詔で樸を入衛させ、蟒衣と彩幣を賜ったが、ついに功はなかった。十一年、太子太保を加えられた。その冬、總督盧象昇に従って入衛し、欒城と束鹿の間で戦おうとしたとき、大同に警報があると言って兵を引いて帰った。そしてこのたび錦州を救うにあたって真っ先に逃げたので詔獄に下され、十五年五月に誅に伏した。
  • 馬科は偏裨から起こって大帥に至り、戦功は變蛟に次いだ。三桂とともに寧逺を守って功があった。十六年春、兵を督して入衛し、武英殿で宴を賜り、大學士呉甡に従って南征するよう命じられたが実行されなかった。翌年三月、李建㤗に従って西征したが、李自成の兵が至ると降り、懐仁伯に封じられた。

白廣恩・唐通・左光先・陳永福

  • 白廣恩ははじめ混天猴に従って盗賊であったが、降ってからしばしば戦功を立てた。松山の敗戦から帰り、馬科に代わって山海關に鎮した。
  • その年十一月、京師が戒厳となり、廣恩は入衛して銀幣・羊酒を賜った。ほどなく龍王口に戦ってやや捕獲があり、捷を報じた。帝ははじめ廣恩が日和見して降ったことを憎んでいたが、旨を下して譴責しつつも後の働きを期待し、特に功を叙するよう命じた。
  • 翌年四月、八鎮の兵を合わせて螺山に戦い、ことごとく潰敗した。總督趙光抃は帝に廣恩を召して武經畧に用いるよう請うた。廣恩は帝がしばしば大將を戮しており、自分にも過ちが多いのを懼れて、あえて赴かず、餉を求めるという名目で真定に留まった。
  • 大學士呉甡が南征しようとしたとき、ひそかに帝に厳旨で逮捕処罰するよう請いながら、自分は力を尽くして救い、率いて寇を討たせると言ったので、廣恩は大いに感じ入った。ほどなく帝が中官を遣わして二萬金でその軍を犒い、温かい旨を諭したので、廣恩はついに驕って甡に用いられようとせず、臨洺關を大いに掠めて陝西へ直行して帰った。帝はやむなく督師孫傳庭に隷属させて賊に当たらせた。
  • 十月、郟縣で軍が壊滅すると、廣恩に盪寇將軍を加え、道々で敗残兵を収めて潼關を保たせた。まもなく潼關も破れ、廣恩は西の固原へ奔ったが、賊將が追いつくと、ただちに門を開いて降った。自成は大いに喜び、手を握ってともに飲み、桃源伯に封じた。
  • 唐通は弁が立つが勇も謀略もなかった。敗れて帰るとなお宻雲に鎮した。その年の冬、詔を奉じて入衛し、三河・平谷の防衛を命じられた。
  • 大清兵が山東へ下ると、通は尾いて南へ行き青州に至ったが、ついに一度も戦おうとしなかった。翌年またも尾いて北へ行き、螺山に戦って敗績した。のち呉甡に従って南征するよう命じられたが、甡が出発しないうちに斥けられたので、通に薊鎮西協を轄させた。五月、宻雲總兵官を廃し、中協四路を兼轄するよう命じた。まもなく孔希貴を西協に用い、通には専ら中協を轄させた。
  • 十月、関外に警報があり、師を率いて救援に赴くよう命じ、銀牌二百を功に賞するために与えた。事が定まるとまた西協に移鎮させた。帝は通を手厚く遇し、蟒衣と玉帯の賜があり、召見しては「卿」と呼んで名を呼ばず、宴を賜って奨励と慰労を尽くした。
  • 翌年、賊が宣府に迫ると居庸の守りに移るよう命じ、定西伯に封じた。ほどなく賊が関を犯すと、中官杜之秩とともに迎え降り、京師はついに陥落した。
  • 左光先は猛將で、陝西で賊と角逐して功が最も多かったが、遼左から送り返されてからは廃されて用いられなかった。のち廣恩が賊に従ったと聞いて、やはり賊のもとへ行って降った。
  • また陳永福という者があり、開封を守って李自成を射て目に当てた。自成が山西を陥れると、廣恩に降伏を諭させた。永福は誅を懼れて躊躇したが、自成が矢を折って信を示したので降り、文水伯に封じられた。のち自成が敗れて山西に帰ると、永福は太原を守り、晉府の宗室をほとんど殺し尽くした。