明史卷二百七十 列傳第一百五十八 張可大

出自と地方官としての治績

  • 張可大は字を觀甫といい、應天の人。代々南京羽林左衛の千戸を襲った。萬厯二十九年(1601年)武会試に及第し、建昌守備を授かった。浙江都司僉書に遷り、瓜洲・儀真を分担して守ると、江洋の大盗は影をひそめた。
  • 税監の魯保が死に、淮撫の李三才が可大にその資財を記録させたが、保の家が重い賄賂を贈っても受け取らなかった。葉向高が召に応じて赴く途中、真州でこれを見て非凡と認め、「この人はただ良将であるだけでなく、良吏でもある」と言った。
  • 劉河遊擊に遷り、廣東の高肇參將に改まり、浙江の舟山に転じた。命を受けて黎を征し、總兵の王鳴鶴とともに黒番を道案内としてその巣を衝き、黎は滅んだ。
  • 舟山は宋の昌國城であり、海中にあって七十二の墺を擁し、浙東の要害である。可大は八か条の議を上申し、いずれも大きな計であった。倭が五罩湖・白沙港・茶山・潭頭を侵したのを連続して破り、副總兵を加えられた。城が久しく崩れていたので、副使の蔡獻臣とともに築き、二か月で工事を終えた。城の内外の田数千畝は海の潮で作物が損なわれていたが、可大が堰を築いて淡水を蓄えたので肥沃の地となり、民はこれを「張公碶」と呼んだ。
  • 天啓元年(1621年)、都指揮使として南京錦衣衞を掌った。六年(1626年)、都督僉事に抜擢され、南京右府に僉書した。

登萊總兵と孔有徳の乱

  • 崇禎元年(1628年)、出て登萊總兵官となった。折しも登萊の巡撫・鎮将を裁減する議があり、總兵官のまま登州副總兵の職務を見るよう命ぜられ、巡撫はついに廃されて置かれなかった。
  • 可大は海防に心を尽くし、自ら巡視して回り、沿海の地形と兵力の強弱を図に描いて『海防圖説』を作り、これを上った。
  • 二年(1629年)冬、白蓮賊の残党が萊陽を囲んだ。可大が撃ち破ってその六つの砦を焼き、僭称の國公二人を斬り、囲みは解けた。京師が兵難に遭うと、可大は入衛して西直門・廣寧門などの諸門を守った。翌年(1630年)、勤王の功で都督同知に昇った。劉興治が東江で反したので、詔を奉じて鎮に還った。
  • やがて四城がともに回復すると、朝議で登萊巡撫を再び設けることになり、孫元化がこれに任じた。元化は関外の八千人を率いて到着したが、その大半は遼の人であった。可大は変事があることを心配して何度も元化に言ったが、聴かれなかった。
  • 四年(1631年)七月、さきの守城の功を録して右都督に進んだ。十月、南京左府に僉書し、あわせて池河・浦口の二軍を督することとなった。登の人々は泣いて留めた。まだ発たぬうちに孔有徳が呉橋で反し、東のかた六城を陥れた。可大は急ぎ討伐に赴こうとし、元化が檄して止めたが聴かず、萊州に至って元化に会い、また止められてやむなく鎮に還った。
  • ついに有德が夕方に城に迫った。可大は撃つことを請うたが、元化は招撫の議を持して許さなかった。可大が利害を極めて切実に述べたので、元化は翌年の元日に兵を発して挟撃することを約した。その日になっても元化の兵は出なかった。その翌日、兵を合わせて城の東で戦い、可大の兵は何度も勝ったが、元化の配下はみな遼の人で賊に親族・同郷が多く闘志がなく、その将の張燾が真っ先に逃げたので可大の兵も敗れた。中軍の管維城、遊擊の陳良謨、守備の盛洛・姚士良はみな戦死した。
  • 燾の兵の半ばは有德に降ったが、有德はこれを内応させるために帰らせ、元化は門を開いて受け入れた。可大が諫めたが聴かれず、夜半に賊が至って城はついに陥ちた。
  • 可大はそのとき水城を守っており、胸を打って大いに慟哭し、佩びていた印を解いて旗鼓の官に託し、間道から済南に走らせて上らせた。家に還って母に別れを告げ、弟の可度と子の鹿徵に母を奉じて海路天津に赴かせ、佩剣を部将に渡して婢妾をことごとく斬らせ、みずから首を吊って死んだ。
  • 事が聞こえ、特進榮祿大夫・太子少傅を贈り、諡を荘節とし、祭葬を賜い、世廕を与え、祠を建てて旌忠と名づけた。
  • 可大は学を好み詩を能くし、節操が篤く、儒将の風があった。南京錦衣衞にあったとき、歐陽暉が刑部主事から本衞の知事に貶されて来て、かつて詩を賦して「陰霾もて國事非なり」の句があった。揚州知府の劉鐸がこれを扇に書いて一人の僧に贈った。鐸を憎む者が魏忠賢に讒言し、暉と鐸はともに逮捕された。可大は旗尉たちを取り締まって手荒に扱わせず、俸給を投じて助け、家を用意してその妻子を住まわせた。義を尊ぶことはこの類であった。
  • 弟の可仕は字を文峙といい、字を通称とした。隠棲して博学であり、『明布衣詩』一百巻を編んだ。