出自と貴州の平定
- 魯欽は長清の人。萬厯年間に山西副總兵を歴任した。天啓元年(1621年)神機營左副將に遷り、まもなく署都督僉事に抜擢されて保定總兵官に充てられた。
- 奢崇明と安邦彦がともに反し、貴州總兵の張彦方は包囲の中にあり、總理の杜文煥は病と称した。翌二年(1622年)十月、欽を用いて文煥に代え、四川・貴州・湖廣の漢兵と土兵を統べさせ、期限を切って囲みを解くよう命じた。到着しないうちに囲みはすでに解けていた。欽は貴陽に馳せ向かった。
- 三年(1623年)正月、巡撫の王三善が陸廣で大敗し、群苗の宋萬化・何中尉らが蜂起した。欽は三善を補佐して防戦・掃討にあたり、諸将を率いて中尉・萬化を捕らえ、進んで紅崖に陣した。紅崖は崇明が敗走した所である。
- 三善は大挙して深く入ることを謀り、欽および總兵官の馬烱・張彦方、諸道の監司である尹伸・岳具仰・向日升・楊世賞がそれぞれ兵を率いて従い、五たび戦って一萬八千級を斬り、まっすぐ大方に至った。
- 四年(1624年)正月、三善が内荘で敗れて死んだ。欽らは残兵を率いて還り、罪を戴いたまま賊にあたるよう命ぜられた。
- 都匀の凱里土司は輸送路の咽喉にあたる。邦彦が諸蛮と結んでその城を苦しめ、長官の楊世蔚は守りきれなかった。總督の蔡復一は欽と總兵官の劉超を遣わして救わせ、賊の巖頭寨を抜き、そのまま師を移して平茶を攻め落とした。
- ついで邦彦が玀鬼をことごとく駆り集めて斑鳩灣の後寨に四十の営を結び、二十餘里にわたって連なり、兵を分けて普定を侵した。復一は欽と總兵官の黄越に道を分けて防がせた。欽は部将の張雲鵬・劉志敏・鄧圮らを率いて汪家冲で賊を大敗させ、鉞および參政の陸夢龍、副使の楊世賞も蒋義寨で賊を大敗させた。合わせて追撃して河に至り、一千五百餘級を斬り、山狩りしてさらに六百餘級を斬った。尹伸も普定を守って賊兵を破り、大軍と合流して水外の逆苗をともに掃討した。
- 邦彦は勢い窮して河を渡り西に奔った。欽と鉞は諸将を督して追撃をやめなかった。夢龍らは三岔河の岸に分駐して後詰めとなり、前鋒の雲鵬と玘が織之金に深く入り、前後合わせて千餘級を斬った。
- 復一はその功を上申して言った。欽は清廉で勇敢であり、總理の名はあっても権力は一副将にも及ばない。旧巡撫の三善および諸監軍はそれぞれが大帥であり、内荘での軍律の失敗を欽ひとりが大帥としての罪を負うべきではない。臣が貴州に来てから諸道監軍の兵をすべて欽に属させたが、戦うたびに士卒に先んじた。欽の敗北は酌量すべきであり、勝利は録するに足る。その戴罪を免じ、功をもって論ずべきである、と。この議は容れられた。
- 翌五年(1625年)正月、欽らが河を渡って還るとき伏兵に遭い、敗死する者数千人に及んだ。為事官に落とされ、功を立てて自ら贖うこととなった。
苗の討伐と自刎
- 平越から興隆・清平の二衛に至るまで、苗の二百餘の寨がその間に盤踞し、長田の天保・阿秧を首領としていた。邦彦は反乱の初めにこの二人の酋長に都督を授け、下六衛との連絡役とさせていた。
- この年(1625年)春、石阡・餘慶を侵した。監軍按察使の來斯行が阿秧を誘って天保を討たせようとしたが、阿秧は逆にその話を天保に告げた。斯行はそこで阿秧を誘い出して斬り、天保を討つ議をしたが、病のため職を去った。復一は貴陽同知の周鴻圖を代わりの監軍とした。
- 阿秧の弟の阿買が天保とともに邦彦に兵を請い、兄の仇を復した。復一は軍事を鴻圖と欽に委ね、參將の胡從儀・楊明楷らを補佐に遣わした。欽らは三方から進んで米墩山で大いに戦い、天保と阿買を生け捕り、前後して賊の頭目五十四人を斬り、首功二千三百五十を挙げ、百七十四の寨を破り焼いた。
- 盛夏に兵を起こしたので、将兵は暑さと雨をおかし、悪性の瘴気を衝いた。凶悪な賊はことごとく除かれ、土地の人々は二百年来なかったことだと言った。復一は功を奏したがまだ報が下りぬうちに卒した。監軍御史の傅宗龍が改めてこのことを言上し、欽に總理を元どおり命じ、鴻圖に平越知府を授けた。
- 六年(1626年)三月、邦彦がまた大挙して侵入した。欽は河のほとりでこれを防ぎ、連日戦って殺傷は互角であった。夜半、賊が欽の塁に直接迫り、将兵は逃げ散ったので、欽はついに自刎した。諸営はことごとく潰え、賊の勢いはふたたび盛んになった。
- 欽は勇敢で戦上手であり、西南の大将の筆頭であった。荘烈帝が即位すると、少保・左都督を贈り、指揮僉事を世廕し、祭葬を賜い、祠を建てて旌忠と名づけた。
- 子の宗文は廕を受け、崇禎年間に薊鎮副總兵として總督の吳阿衡の中軍となり、十一年(1638年)冬、牆子嶺が破られた際に阿衡とともに力戦して死んだ。