明史卷二百七十 列傳第一百五十八 秦良玉
秦良玉。忠州の人で、石砫宣撫使の馬千乗に嫁ぎ、夫の死後その職を領した。胆力と知恵に富み騎射と詩文に通じ、部下を厳しく御して、その「白桿兵」は遠近に恐れられた。播州の役で戦功第一とされ、遼を援けて兄の邦屏を渾河に失い、奢崇明の乱では重慶・成都を回復して都督僉事・總兵官に至った。崇禎三年には家財を投じて勤王し、平臺で召見されて詩四首を賜った。晩年は蜀の防衛にあたり、邵捷春の配置の誤りを見抜いて諫めたが容れられず、竹箘坪の敗戦で部隊三萬を失った。張獻忠に蜀全土を奪われてもなお石砫を守り、賊に仕えず天寿を全うした。明代でただ一人、女性で正史の将帥伝に立てられた人物である。
年表(14件)
- 萬厯二十七年1599年夫の馬千乗の播州征伐に精兵五百を率いて従い、鄧坎で賊を防ぐ
- 萬厯二十八年正月二日1600年賊の夜襲を撃ち破り、金筑など七寨を連破して南川方面の戦功第一とされる
- 泰昌の時1620年兄の邦屏・弟の民屏を先発させて遼を援け、三品の服を賜る
- 天啓元年1621年邦屏が渾河で戦死し、自ら精兵三千を率いて赴いて二品の服を加えられる
- 天啓三年六月1623年諸将の怯懦を上言し、帝は文武の大官に礼をもって遇せよと命じる
- 天啓四年正月1624年弟の民屏が大方からの退却の際に賊に襲われて戦死する
- 崇禎三年1630年永平四城の失陥に際して勤王し、平臺に召見されて綵幣と詩四首を賜る
- 崇禎四年1631年甥の馬翼明が一萬人で大凌河城の築城を護る
- 崇禎七年1634年馬翼明が總兵官を加えられ、河南の流賊討伐に赴く
- 崇禎七年二月1634年賊が夔州を陥れて太平を囲むが、良玉が至ると逃げ去る
- 崇禎十三年1640年羅汝才を巫山・馬家寨などで連破し、その大纛を奪って賊の勢いを衰えさせる
- 崇禎十三年十月1640年張獻忠を竹箘坪に防ぐが張令が討たれ、部隊三萬がほぼ全滅する
- 崇禎十六年冬1643年馬翼明が四川總兵官に起用されるが、道が塞がって命令が届かない
- 崇禎十七年春1644年張獻忠が夔州を侵し、寡兵で敵し得ず潰えて蜀全土が陥ちる
出自と播州の役
- 秦良玉は忠州の人。石砫宣撫使の馬千乗に嫁いだ。
- 萬厯二十七年(1599年)、千乗が三千人を率いて播州の征伐に従い、良玉は別に精兵五百を統べ、糧を携えて自ら随い、副將の周國柱とともに鄧坎で賊を防いだ。翌二十八年(1600年)正月二日、賊が官軍の宴に乗じて夜襲したが、良玉夫婦が真っ先にこれを撃ち破り、追って賊の地に入り、金筑など七つの寨を連続して破った。ついで酉陽の諸軍とともに桑木闗を一挙に取って賊衆を大敗させ、南川方面の戦功第一とされた。賊が平らいでも良玉は功を口にしなかった。
- その後、千乗は配下の民に訴えられ、雲陽の獄で病死し、良玉が代わってその職を領した。
- 良玉は人となり胆力と知恵に富み、騎射に巧みで詩文にも通じ、立ち居振る舞いは優雅であったが、部下を御するには厳しかった。行軍して令を発するたびに軍列は粛然とした。その部隊は白桿兵と号し、遠近に恐れられた。
遼への援軍と兄弟の死
- 泰昌の時(1620年)、その兵を徴して遼を援けさせた。良玉は兄の邦屏と弟の民屏を先に数千人で行かせた。朝命で良玉に三品の服を賜い、邦屏に都司僉書、民屏に守備を授けた。
- 天啓元年(1621年)、邦屏が渾河を渡って戦死し、民屏は囲みを突破して脱出した。良玉は自ら精兵三千を率いて赴き、通過する所で少しも民に害を及ぼさなかった。詔して二品の服を加え、あわせて封誥を与え、子の祥麟に指揮使を授けた。
- 良玉は邦屏の戦死の状況を陳べて手厚い恤典を請い、あわせて「臣は播州征伐以来、立てた功は満たされず、讒言と嫉妬の言葉ばかりが盛んで、忠誠を誰が表してくれましょう」と言った。帝は優詔をもって答えた。
- 兵部尚書の張鶴鳴が言った。渾河の血戦の首功数千は、実は石柱・酉陽の二土司の功である。邦屏が没するや良玉はただちに使者を都に送り、冬衣一千五百を作らせて生き残った兵に分け与え、自身は精兵三千を督して榆闗に至った。上は公家の難に馳せ、下は私門の仇を復し、その気概はきわめて壮である。邦屏の子を録用し、民屏の官を進めるべきである、と。そこで邦屏に都督僉事を贈り、世廕を賜い、陳策らとともに祠に合祀し、民屏を都司僉事に進めた。部議でさらに兵二千を徴することとなった。
奢崇明の乱と重慶・成都の回復
- 良玉と民屏が馳せ還って家に着いてわずか一日、奢崇明の一味の樊龍が重慶で反し、金帛を贈って良玉と結ぼうとした。良玉はその使者を斬り、ただちに兵を発し、民屏および邦屏の子の翼明・拱明を率いて流れを溯って西に上り、渝城を過ぎて重慶の南坪闗に急襲し、賊の帰路を扼した。伏兵で両河を襲ってその舟を焼き、兵を分けて忠州を守り、夔州に檄を飛ばして急ぎ瞿塘の上下を防がせた。賊は出て戦えばそのたびに敗れて帰った。良玉がその状を上申し、民屏を參將に、翼明・拱明を守備に抜擢した。
- ついで奢崇明が成都を囲んで危急となり、巡撫の朱燮元が良玉に討伐を檄した。当時、諸土司はみな賊の賄賂を貪ってぐずぐずと進まなかったが、良玉ひとりが鼓を打って西に進み、新都を収め、長駆して成都に至り、賊はついに囲みを解いて去った。良玉は軍を還して二郎闗を攻め、民屏が真っ先に城に登った。ついで佛圖闗を落とし、重慶を回復した。
- 良玉は挙兵の初めに上疏して報告していたので、夫人に封ぜられ誥命を賜わっていたが、ここに至って改めて都督僉事を授けられて總兵官に充てられ、祥麟は宣慰使に、民屏は副總兵に、翼明・拱明は參將に進んだ。
- 良玉はいよいよ感激奮起し、前後して紅崖墩・觀音寺・青山墩の諸大拠点を攻め落とし、蜀の賊は平定された。さらに貴州を援けた功でたびたび金や幣を賜わった。
- 三年(1623年)六月、良玉が上言した。臣は翼明・拱明を率い、兵を提げ糧を携えて、重ねて紅崖墩などの捷を奏した。ところが陣中の諸将は賊の顔も見ないのに腕まくりして誇り、いざ対陣となると風の便りを聞いただけで先に逃げる。賊に敗れる者は他人が勝つことばかりを恐れ、賊を恐れる者は他人が強いことばかりを恐れる。總兵の李維新のごときは、渡河の一戦に敗れて営に帰るや、かえって門を閉ざして臣を拒み、一度も会おうとしない。六尺の体、鬚髯ある男子が、一人の女を忌むとは、静かな夜に思えば恥じて死ぬべきである、と。帝は優詔をもって答え、文武の大官はみな礼をもって遇し、疑ったり忌んだりしてはならぬと命じた。
- この年、民屏は巡撫の王三善に従って陸廣に至り、兵が敗れて先に逃げた。その冬、大方の戦に従ってたびたび勝った。翌四年(1624年)正月、退却するときに賊が襲って来て戦死した。二人の子の佐明・祚明は脱出できたが、いずれも重傷であった。良玉が恤典を請い、都督同知を贈り、祠を立てて祭を賜い、二子を官に任じた。このとき翼明・拱明はいずれも官を進めて副總兵に至った。
勤王と馬翼明の転戦
- 崇禎三年(1630年)、永平の四城が失われ、良玉は翼明とともに詔を奉じて勤王し、家財を出して兵糧を助けた。荘烈帝は優詔をもって褒め称え、平臺に召見して良玉に綵幣・羊・酒を賜い、四首の詩を賦してその功を旌した。四城が回復すると良玉を帰らせ、翼明は近畿に駐屯させた。
- 翌四年(1631年)、大凌河城を築くにあたり、翼明が一萬人で築城を護り、完成すると兵を撤して鎮に還るよう命ぜられた。
- 七年(1634年)、流賊が河南を陥れ、翼明に總兵官を加えて軍を督して討伐に赴かせた。翌八年(1635年)、鄧玘が死に、その配下がみな蜀の人であったので翼明にこれを率いさせた。青崖河・吳家堰・袁家坪で賊を連続して破り、賊が鄖西の道に走るのを防いだ。
- 翼明は気が弱く、部将が続けて敗れても実情を報告しなかったので、都督の官銜を剥がれ、二階級を落とされて賊にあたることとなった。ついで盧象昇に従って賊を穀城に追い、賊が均州に走ると青石鋪でこれを破った。賊が山に入って自ら守るとこれを攻め破り、界山・三道河・花園溝で連続して破り、黑煞神・飛山虎を捕らえた。
- 賊が鄖・襄の間に出没し、撫治鄖陽の苗胙土が使者を送って招降を図り、翼明もその事を助けたが、賊に欺かれて結局降らなかった。翼明・胙土はともに弾劾された。ついで賊が襄陽を侵し、翼明は連戦して有利であり、廟灘に屯して漢江の浅瀬を扼したが、羅汝才・劉國能が深い所から渡り、ついに蘄・黄の間を大いに荒らした。帝は鄖・襄の属邑がことごとく荒廃したことから胙土を罷免して翼明を厳しく責め、まもなく翼明もまた弾劾されて解任された。
蜀の防衛と邵捷春への諫言
- 良玉は京師から還ってのちは他方面の援軍・討伐には出ず、もっぱら蜀の賊にあたった。七年(1634年)二月、賊が夔州を陥れて太平を囲んだが、良玉が至ると逃げ去った。
- 十三年(1640年)、羅汝才を巫山で防いだ。汝才が夔州を侵したが良玉の軍が至ると去った。ついで馬家寨で迎え撃って六百級を斬り、留馬埡まで追って破り、その首領の東山虎を斬り、さらに他の将と合して譚家坪の北で大敗させ、また仙寺嶺で破った。良玉は汝才の大纛を奪い、その副将格の塌天を捕らえ、賊の勢いは次第に衰えた。
- 当時、督師の楊嗣昌は賊をことごとく四川に追い込み、四川巡撫の邵捷春は弱兵二萬を率いて重慶を守り、頼みとするのは良玉と張令の二軍だけであった。綿州知州の陸遜之が罷免されて帰る途中、捷春が営塁を巡察させたところ、良玉の軍の整っているのを見て内心非凡と思った。良玉は酒を用意して遜之に語った。「邵公は兵を知らない。わたしは一介の女ではあるが国恩を受けており、道義として死ぬべきである。ただ邵公と同じく死ぬのが残念なだけだ」。
- 遜之がその理由を問うと、良玉は言った。「邵公はわたしを自分の近くに移し、駐屯地は重慶からわずか三、四十里であり、しかも張令を遣わして黄泥窪を守らせているのは、地の利をひどく失している。賊が歸・巫の万山の頂に拠ってわが営を見下ろし、鉄騎が瓶の水を屋根から注ぐ勢いで下って来れば、張令は必ず破られる。令が破られればわたしに及ぶ。わたしが敗れて、なお重慶の急を救えようか。しかも督師が蜀を捨て場としていることは、愚者も賢者も知っている。邵公が今のうちに山を争い険を奪って賊がこちらに近づけぬようにせず、坐したまま防備を設けているのは、敗北の道である」。遜之は深くこれをもっともだと思った。
- ついで捷春が営を大昌に移し、監軍の萬元吉も巫山に進んで屯し、互いに援けあうこととなった。その年十月、張獻中(張獻忠の誤りか)が官軍を觀音巖・三黄嶺で連続して破り、上馬渡から軍を渡した。良玉は張令とともに急ぎ竹箘坪でこれを防いでその鋒先を挫いた。折しも令が賊に討たれ、良玉は駆けつけて救おうとしたが果たせず、転戦してまた敗れ、その部隊三萬人はほぼ全滅した。
- そこで単騎で捷春に会って請うた。「事態は急である。わが渓峒の兵をことごとく発すれば二萬を得られる。わたしが自らその半分の糧を出し、半分を官が支給すれば、なお賊にあたるに足りる」。捷春は嗣昌と自分が対立しており、しかも倉に現に糧がなかったので、その計を謝して用いなかった。良玉は嘆息して帰った。
- 当時、揺黄十三家の賊が蜀中で横行していた。秦纘勲という者は良玉の一族で賊の耳目となり、捕らえられたが獄卒を殺して逃げた。良玉が捕らえて引き渡し、逃れる者は一人もなかった。
全蜀の陥落と晩年
- 張獻忠が楚の地をことごとく陥れ、ふたたび蜀に入ろうとした。良玉は全蜀の形勢を図にして巡撫の陳士竒に上り、兵を増して十三の隘を守るよう請うたが、士竒は用いることができなかった。さらに巡按の劉之勃に上り、之勃は許したが発すべき兵がなかった。
- 十七年(1644年)春、獻忠はついに長駆して夔州を侵し、良玉が馳せ援けたが寡兵で敵し得ず潰えた。蜀全土が陥ちると、良玉は昂然としてその衆に語った。「わが兄弟二人はいずれも王事に死んだ。わたしは一人の弱い女の身で国恩を蒙ること二十年、いま不幸にしてここに至ったが、どうして残る年月をもって逆賊に仕えられようか」。そして配下をことごとく召して、賊に従う者があれば一族を誅して赦さぬと約させ、兵を分けて四方の境を守った。賊は土司を広く招いたが、ひとり石砫に来る者はなかった。
- のちに獻忠が死に、良玉はついに天寿を全うした。
- 翼明は罷免されたのち、崇禎十六年(1643年)冬に四川總兵官に起用されたが、道が塞がって命令が届かなかった。拱明は普名聲の乱に遭い、賊と闘って死に、恤典は制のとおり贈られた。