明史卷二百七十 列傳第一百五十八 沈有容

出自と北辺での武功

  • 沈有容は字を士𢎞といい、宣城の人。僉事であった沈寵の孫である。幼くして馬を走らせ剣を撃つのを好み、兵略を好んだ。萬厯七年(1579年)武郷試に合格した。薊遼總督の梁夢龍が見て非凡と認め、昌平千總に用いた。さらに總督の張佳允に知られ、薊鎮東路に転じて南兵後營を管轄した。
  • 十二年(1584年)秋、朶顔の長安が三千騎で劉家口を侵した。有容は夜半に精兵二十九人を率いて迎え撃ち、身に二本の矢を受けながら六級を斬った。寇が退いてから還り、これによって名を知られた。遼東巡撫の顧養謙が召して麾下に隷し、火器の訓練にあたらせた。
  • 十四年(1586年)、李成梁に従って塞を出て庫克穆稜に至り、多くの首級を挙げた。翌年また出撃して功があった。成梁が北闗を攻めたとき、有容は陣に突入して馬を二度乗り換え二度斃し、ついにその城を抜いた。功を録して千戸を世襲され、都司僉書に遷って浮屠谷を守った。宋應昌に従って朝鮮を援け、そののち帰郷を願い出た。

東南の海防と東番の倭

  • 日本との封貢の交渉が破綻すると、福建巡撫の金學曽は奇策でその根拠を衝こうとし、有容を起用して浯嶼・銅山を守らせた。
  • 二十九年(1601年)、倭が諸砦を掠めたので有容がこれを撃ち破った。ひと月あまり後、銅山把總の張萬紀とともに彭山洋で倭を破った。倭が東番に拠ったので、有容は石湖を守りつつこれを殲滅しようと謀り、二十一艘で出海したが、風に遭って十四艘が残った。彭湖を過ぎて倭に遭遇し、数人を斬り殺し、火を放ってその六艘を沈め、十五級を斬り、捕らわれていた男女三百七十餘人を奪い返した。倭は東番を去り、海上は十年のあいだ安らいだ。捷報が届き、文武の将吏はみな功を叙されたが、有容は白銀を賜わっただけであった。
  • 三十二年(1604年)七月、西洋の紅毛番の長である韋麻郎が大船三艘で彭湖に至り、互市を求めた。税使の高寀が招いたのである。有容は担当の当局に申し出て自ら赴いて諭すことを願い、麻郎に会って利害を示した。麻郎は悟り、寀の使者を呼んで賄賂として渡した寀の金を取り返し、帆を揚げて去った。
  • 浙江都司僉書に改まり、浙江遊擊から天津に転じ、温處參將に遷って罷免され帰郷した。
  • 四十四年(1616年)、倭が福建を侵したので、巡撫の黄承元がとくに水師を設けることを請い、有容を起用して統率させた。東沙で倭を捕らえ、まもなく大盗の袁進・李忠を招いて降らせ、その衆を散らして帰らせた。

登萊總兵と遼民の救出

  • 泰昌元年(1620年)、遼の事態が厳しくなり、はじめて山東副總兵を設けて登州に駐屯させることとし、有容がこれに命ぜられた。
  • 天啓と改元した年(1621年)、遼陽・瀋陽が相次いで陥落し、熊廷弼が三方から布置する議を建て、陶朗先を登萊巡撫とし、有容を都督僉事に抜擢して總兵官に充てた。登萊はこうして重鎮となった。
  • 八月、毛文龍が鎮江で勝利を収めると、有容に水師一萬を統べて天津の水師とともに鎮江に直行して呼応するよう詔が下った。有容は嘆じて、「わずか一旅の兵で勢いの盛んな敵に当たっては、成し遂げられまい」と言った。まもなく鎮江は果たして失われ、水師は進まなかった。
  • 翌年(1622年)、廣寧が陥ちて遼の民が諸島に逃れ、日々登州の軍の救援を待った。朗先は一人でも渡す者は斬ると令したが、有容はこれと争い、ただちに数十艘を出して数萬人を救った。
  • 当時、金州・復州・盖州の三衛はいずれも無人であった。金州に拠って守ろうという者があったが、有容は、金州は海外に孤立し、登州も皮島も大洋を隔てて遠く、声援が届かないから守れない、と言った。のち文龍が金州を取ったが、まもなくまた失った。
  • 四年(1624年)、有容は老齢を理由に辞職を願って帰り、卒した。都督同知を贈られ、祭葬を賜わった。